2017年7月26日水曜日

Killen 2017


Killenはリヴァプール大学で博士号を2012年に取得しました。
意外なことに、タイトルには「家具 Furniture」が含まれず、もっと広い用語の「木工 Woodworking」が使われています。
博士号もエジプト学ではなく、歴史学の分野で博士号を取得したようです。
謝辞の最初には、イアン・ショーの名が掲げられています。

Geoffrey Patrick Killen
Ramesside Woodworking, 2 vols.
Liverpool University, Dissertation, 2012

検索するならば、博士論文の2巻本は入手が可能です。
この博士論文を踏まえた刊行物が、今回紹介する以下の本です。


Geoffrey Killen
Ancient Egyptian Furniture, Vol. III. Ramesside Furniture
Oxford, Oxbow, 2017
xvi, 158 p.

Contents
List of Figures vii
List of Plates ix
Acknowledgements xiii
Abbreviations and Sigla xv

Chapter 1. Deir el-Medhina: A Community of Entrepreneurs? p.1
Chapter 2. An Analysis of Ramesside Furniture Used in Gurob and Memphis p.31
Chapter 3. Remesside Furniture Forms p.43
Chapter 4. Royal and Temple Furniture p.87

Notes p. 99
Appendix A: Remesisde Furniture Types p.103
Appendix B: Furniture Types Illustrated in Ramesside Theba Tombs p.115
Appendix C: Furniture Types Illustrated in Ramesside Memphite Tombs p.137
Appendix D: Distribution of Stool Types by Gender as Illustrated in Private Ramesside Theban Tombs p.141
Appendix E: Distribution List of Replica Wooden Products Manufactured by the Author and Preserved in Museums and Private Collections p.143

Catalogue of Museum Collections p.143
Bibliography p.155


"Abbreviations and Sigla" という章立ては珍しいのですが ,これは♂や♀の記号が文中で用いられているからでしょう。

の方は、古代エジプトの家具に関しては今の時代、第一人者です。
すでにÉgypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996); Killen 1980; Killen 2003などで紹介をしてきました。
この本は、2012年の博士論文の2冊の内容をかなり圧縮して出版されたらしく思われます。

うーん、博士論文と見比べると、もう少し何とかならなかったのかという思いが去来します。
H. G. Fischerの論考に関しては、文献リストの中でLexikon der ÄgyptologyStuhlの項目しか挙げていません。果たしてこれで良いのか? なお、Eaton-Kraussの論考については、3つだけ掲げています。
Killenの博士論文のテーマが「ラメセス期の木工」ですから、仕方がないところもあります。FischerEaton-Krauss両名とも、もっぱら第18王朝の家具に言及していますので。
でも時代が違うからと言って、これまで貴重な意見を述べてきた2人の研究者を蔑ろにして良いのか、という感想が残るわけです。

Killenは古代エジプトの家具に関してたくさん本を出しているのですが、特に中王国時代の椅子の解釈や文献引用の方法に関する大きな誤謬が言語学者のFischerなどによって指摘され、エジプト学の中では何となく信用されなくなっている雰囲気です。だからそれを勘案して修正を施した、これから皆が使える家具に関する本の出版を期待していたのですが、残念です。

世界の美術館・博物館に収蔵されているリストは、既刊のリストで漏れていたものだけを掲載しています。巻末で、8ページにわたってカラー写真を掲載。
何はともあれ、古代エジプト家具を知りたい人にとっては必読書となります。
既刊の第1巻・第2巻とは異なり、ハードカバーの装丁です。

2017年1月5日木曜日

Imhausen 2016


この人の著作については、前にもImhausen 2003などでいくつか言及しました。古代の数学史を専門とする女性の方です。ヒエログリフも楔形文字も、両方読める人。たくさん執筆しています。

Annette Imhausen
Mathematics in Ancient Egypt: A Contextual History.
Princeton and Oxford, Princeton University Press, 2016.
xi, 233p.

廉価版の電子体も広く出回っているようですが、本当に読もうと思っておられる方には、是非とも冊子体の御購入をお勧め致します。この分野の全般を客観的に見渡している最良の書です。アマゾンの「なか見!検索」で、目次の他、内容の概要を見ることが可能です。
表紙が中王国時代の穀物倉庫の模型、というのも示唆的です。穀物を家屋内に持ち込んでいる労働者の他に、座って数量を書き込んでいる書記たちの姿が見られます。ちゃんと膝の上に筆箱(パレット)を置いているのが面白い。
この家屋の模型における戸口の両脇と上框が赤く塗られている表現は貴重。家の戸口は木で作られていたことを伝えています。社会的身分の高い者の家の戸口では石材も用いられましたが、多くは石灰岩や砂岩です。戸口の下は白く塗られており、敷石があったことを示しています。壁体はもちろん、泥煉瓦造であったはずです。四隅の上部が三角形に尖っている点も注目されます。
こういうことを詳しく書いている論考は、あまり見当たりません。この種の分野の主著であるH. E. Winlock, Models of Daily Life in Ancient Egypt: From the tomb of Mekhet-Re' at Thebes. NY, MMA, 1955は今、幸いにもPDFがダウンロードできるようになりました。


さて、中王国時代の模型の家屋の内部には独立柱が一本もありません。注意されるべき点です。専門家はこのように、本を見る時には「何が書かれているか」を読むのではなく、逆に「何が書かれていないか」を集中して見ます。これは恩師・渡辺保忠の教えでした。
古代エジプトの柱については、

Yoshifumi Yasuoka
Untersuchungen zu den Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter.
Quellen und Interpretationen- AltÄgypten (QUIA), Band 2.
Hützel, Backe-Verlag, 2016
が出版され、これまでの事情が一変しました。彼はBiOr (Bibliotheca Orientalis)という専門誌において、建築に関連する書物の目覚ましい書評を次々に書いていたため、良く知られていた人です。この本の内容の充実さに匹敵する類書としては唯一、L. Borchardt, Die aegyptische Pflanzensäule, Berlin 1897だけが挙げられるかと思われます。古代ギリシャの柱との関連、すなわち「オーダー」の初源の姿も示唆しており、素晴らしい。古代ギリシャ建築の碩学であるJ. J. クールトンも扱うことができなかったトピックです。
古代エジプトの柱については、素人が柱の写真集を出したりもしていますが、史料的な価値に乏しく、領野内での評価は思わしくありません。

数学と建築学との間には、接点がないこともありません。古代における大きな造形物がテーマとなった場合、これをどのように設計したかが絶えず問題となります。計画の過程を示すようなものが文章として残される場合があって、特にこれが算術の問題として記されると、数学史の分野では大きく注目されるわけです。書記の養成を目的として、こうした問題は史料としていくらか残されており、リンド数学パピルス、モスクワ数学パピルス、また中王国時代のパピルスなどが知られています。今後、末期王朝以降のパピルスも問題となってくるでしょう。

逆に、建築史の世界で注目されるような単なる寸法指定のテキストは、その記録がいくら古くても数学史の世界ではほとんど取り扱われません。また数学史の領野で古代エジプトの分数の表記の特殊性が強調されても、建築史の専門家たちは関心を寄せないであろうと感じられます。何故なら建築の世界では、当時のキュービット尺のものさしをどのように自在に扱ったかが、より重要であるからです。
他方で、近年では3Dスキャナによる測量を含めた最新の科学方法を競う世界が飛躍的に展開されています。
たぶん、この3つの学的領域で各々、重ならないようで重なっている項目を具体的に挙げていくと、相互の関心の度合いが見えてきて、面白い成果があらわれるのではないかと思います。
お互いの盲点が明瞭となるはずです。

Michel 2014との比較も、たいへん興味深いところです。
不満があるとするならば、大きな枠組の外へ踏み出そうとしていない点でしょうか。
でも、平易な書き方で全体を網羅しており、きわめて重要です。Architectural Calculationという項目がp.112以降に書かれており、またp.170以降にはMathematics in Architecture and Artという項目が見られます。
古代エジプト建築に携わる人間であれば、目を通しておくべき必読書となっています。

2016年12月28日水曜日

Budka, Kammerzell, and Rzepka (eds.) 2015


数日前にデパートへ行ったら、かつてと比べて人が本当にいないことにびっくりです。西洋建築史の授業では19世紀におけるデパートという施設の登場についてけっこう喋ったりしてきましたから、社会の状況を常に見ていないと本当にいけないのだなと改めて思いました。
故・清岡卓行の詩には、「デパートの中の散歩」というものもありましたっけ。僕は昔読んだこの人の書いたものに、今でも非常な愛着があります。

久しぶりにデパートの上階にある天ぷら屋さんに入ったら、品書きのリストの中に「丸十」と書かれているものがあることに気づき、個人的に興味が惹かれました。食べ物の表記で「丸十」というのは良く分からず、まるで判じものです。

「判じもの」という言い方自体が、もう簡単には伝わらなくなっている時代かもしれませんけれども。

日本のお城の石垣に刻線として残されている記号の中には、丸(円)の中に十字を記したものがあって、これは江戸時代の薩摩藩(さつまはん)の島津家における家紋と同じです。従って、石垣を構成している石に「丸十」の印があるものは、薩摩藩が担当して切り出しと運搬をおこなったものとみなされます。

時代や地域を問わず、建物を作る際にはたくさんの人手が必要で、その中には混乱を避けるために情報を直接、建材に担当者の名や日付、大きさ、使用箇所や使用部位などを簡単に書きつける場合が広範に見られます。
すでにお分かりの通り、薩摩藩主の島津家の家紋であった「丸十」は、転じて「さつまいも」という野菜を意味する場合にも用いられるようです。「さつまいも」は、もちろん「薩摩藩(さつまはん)」の名産品。「丸十」は、薩摩芋(さつまいも)の天ぷらをここでは意味します。
言葉の元の意味が拡張される一方、また情報が時代とともに廃れ、二重三重に分かりにくくなっています。このような仕組みを基本的に考えようとするのが言語学で、伝達という点を徹底的に考えようと工夫し、記号学というものも考え出されました。

この小欄にてすでに扱った2冊(Haring and Kaper eds. 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell eds. 2009の続編が出版されました。思わず薩摩藩の「丸十」を思い出した理由は、この本が古代エジプトにおける同様の記号表現をしつこく特集しているからです。
いくらか遅れて購入しましたが、古代エジプトにおける記号の研究がこんなに熱心に続いているのが、とても意外に思われました。

Julia Budka, Frank Kammersell, and Slawomir Rzepka (eds.), 
Non-Textual Marking Systems in Ancient Egypt (and Elsewhere).
Lingua Aegyptia, Studia Monographica 16
(Hamburg: Widmaier Verlag, 2015).
x, 322 p.

Contents:

鮮やかな黄色の布張りのハードカバーが印象的なモノグラフのうちの一冊です。
NTMSなんていう、まったく聞きなれない略称が度々出てきますけれども、古代エジプトで出てくる記号の解読をちょっと大げさに考えたいという姿勢が出てしまっているだけで、少々分かりにくいのですが熱意を汲み、勘弁してあげてください。
全体は4つに分かれており、

Methods & Semiotic
Architecture & Builders' Marks
Deir el-Medina
Pot Marks

という構成です。特に2番目については、こちらの興味に関わります。
末尾に執筆者たちの連絡先が併記されているのが便利です。

記号学(記号論)にまで問題を拡げており、面白くなっています。
今は完全に下火となっていますけれど、記号学についてはかつて日本の思想界にて良く読まれました。建築の世界では、P. アイゼンマンと絡んでチョムスキーの理論を筆頭に、さまざまな著作が参照されたりもしました。丸山圭三郎、前田愛といった方々の名が私的には思い起こされます。

ただ古代エジプトにおいてこの問題がどのように収斂するのかという問いになると、心もとない気もします。泥煉瓦につけられるマークや石切り場でうかがわれる記号などは当方にとっても興味が惹かれますが、それらの解釈に関して、あれ?と思う記述にぶつかる場合があって、些細な点ではあるものの、例えば石切り場の天井に引かれた線が、切り出したい石の大きさをあらわしているというような見方は改められるべきかと思われます。

建材に記された記号に関する基本的な問題はかなり前に指摘されていますけれど、建築を専門とする者以外の人には充分に理解されていないようで、例えばClarke & Engelbach 1930の記述を簡単に否定するのはどうかなと、同じ建築学の側に立つ者としては思うところでした。

西欧中世の教会堂の石材にもマークはうかがわれ、複数の研究書が出版されています。
でもエジプト学におけるこうした記号への注目というのはちょっと他の分野には見られない熱心さがあって、異常とも思われる箇所です。謎解きという面もありますので、そこで注目する人が多いのかも知れません。
記号の表現における表意文字と表音文字との混交という性格にもおそらく起因し、欧米の研究者たちを引きつけているのかなと憶測します。
要するに、難解な暗号の解読が成功した時の魅力に引き寄せられる特異な分野です。

カンボジアのクメール石造建築の石材においても短い書きつけがしばしば刻線で記されていますが、これに興味を示す者は未だいないようです。
そろそろ集成が作られるべきかとも思ったりしています。

2015年3月30日月曜日

Michel 2014


古代エジプトの数学についての厚い本がまた出版されました。
全部で600ページを超えます。
ざっと目を通しただけですけれども、いろいろと示唆を受けました。購入しても損はないのでは。
約55ユーロという値段のようですから、入手しやすい価格です。
最新情報が全部詰め込まれた体裁で、その良い面と悪い面とがあらわれ出ている、そういう印象となります。古代エジプトの数学について、最新の情報が必要な場合には良いかもしれません。

Marianne Michel
Les mathématiques de l'Égypte ancienne: 
Numération, métrologie, arithmétique, géométrie et autres problèmes.
Connaissance de l'Égypte Ancienne 12
(Bruxelles, Éditions Safran, 2014), 
603 p.

目次に関しては以下のURLが、ページ数が明記されていないものの、小項目も含めて全部公表されていますから、参考になるのではないでしょうか。


細かいことは、ここで記しません。
こちらが取り敢えず気になるのは、建築に関わる記述だけとなります。
古代エジプトの数学に関わる著作として、小欄ではこれまでRobson and Stedall (eds.) 2009Imhausen 2007Rossi 2004Imhausen 2003、またClagett 1989-1999などに触れてきました。これらの刊行物の総まとめを狙った意図が見られ、非常に意欲的です。
この点は何よりも評価すべきかと思われます。

ピラミッドに関する記述は、p. 393から始まります。そこにはリンド数学パピルスなどの解説に続いて例の有名な、というか、建築に興味を持っている者なら必ず興味を抱いているに違いない第一アナスタシ・パピルスに出てくる斜路やオベリスクの難問が同時に扱われており、これはすなわち、「建物の勾配の決定方法が古代エジプトの長い時代を超えて検討されている」、ということとなります。
こういう見かたは、これまでなかったように感じられます。
因みに、第一アナスタシ・パピルスは新王国時代後期(ラメセス朝)のもの。リンド数学パピルスは第二中間期、またモスクワ数学パピルスについてはさらに若干古く、第11王朝に遡ります。

だいたいエジプト学における設計方法の研究と言うものは、20世紀の初期までは建築を専門とする人たちによって重要な情報が部分的にもたらされていたのですが、それ以降は考古学者による勝手な解釈が入り混じり、加えて建築学者の中の一部分の方が間違ったことを唱えたりして、状況は悲惨なこととなりました。
今、古代エジプトの遺跡の調査に関わる人の大多数は、建物の規模を測って1キュービット=約52.5cmでちょうど割り切れるかどうかを調べ、それがうまくいかない場合には、すぐに判断を中止すると思います。遺構の測量を専門としている方々も同様です。

基本となるキュービット尺に関する説明を、権威と認められた文献学者が事典等で書き続けた結果、これを真に受ける考古学者が続出し、困ったかたちとなっています。日本での古代エジプトのキュービット尺の紹介は、そうした情報を単に翻訳しているだけですから、読むに値しません。
繰り返しますが、碩学のバリー・ケンプが何故、唐突にアマルナ型住居の平面計画方法の分析において小キュービットを持ち出したのか、その意味を深く考える必要があります(Kemp (ed.) 1995)。古代エジプトの尺度について、もう一回根本的に考えたらどうかという異議がそこでは真剣に出されているとみなすべきです。
なおアマルナ型独立住居の平面寸法分析については、キュービット尺を前提とした短い考察があります(Tietze (Hrsg.) 2008)。

M. Michelの本のp. 437には古代エジプトにおける勾配の一覧表と呼ぶべきものが初めて掲載されており(Fig. 145)、とても注目されます。これまでこうしたものは提示されることがありませんでした。ここではImhausen 2003Rossi 2004の著作が大きな役割を果たしていると見受けられます。ピラミッドもマスタバも塔門の壁体も墓のスロープもオベリスクも、みんな入っています。

この表には第一アナスタシ・パピルスにおける、いわゆる「オベリスクの問題」の勾配も扱われていますが、ただ「1キュービット、1ディジット」と言う解釈は従来通りです。第一アナスタシ・パピルスにせっかく触れたのに、惜しまれます。

「1キュービットに対し、1ディジット(指尺)単位の指定による勾配の規定も存在した」とセケドの概念を拡げたらこの本も革新的になったでしょうが、エジプト学の枠内に論理が収斂したせいで、最も肝要な域を超えることはありませんでした。Miatelloによる近年のセケドの論などにも触れていますが、当方には論外だと感じられます。
個人的に秘かに考えているセケドの概念の枠の解体方法としては、

1、基準となる1キュービットの水平と垂直を入れ替えてもセケドである
2、1キュービットに対してディジット(指尺)単位で指定される勾配もセケドである
3、勾配規定の基準となる1キュービットの長さが6パームでもセケドである

この3つが重要だと思います。
何故、これまで唱えられてきたセケドの概念を解体しなければならないのか。
理由は明瞭です。今のままの硬直した考えでは、ピラミッド研究など、古代エジプト建築の研究がまったく進まないからです。当時の設計方法の推察を重ねていかないと、埒が明きません。

すでにお分かりの通り、「小キュービット」の存在は疑われています。
ただこの考え方で問題となるのは、すべてを古代エジプト人のものさしの多様な扱いの中に解消させようとしている点です。それを他の学者たちが認めてくれるのかどうかは分かりません。
特に日本建築の場合、大尺・小尺という規定がかつてありましたから、その類推で日本人研究者が古代エジプトにおける小キュービットに対して早合点をする場合があって、 問題だと思われます。

19世紀に、古代エジプトのものさしが実際に出土したことも、近代の研究者の考えを束縛しました。

1、ものさしに示された単位長だけを基準として建物を造ったであろうと狭く考えた。
2、ものさしに刻まれた目盛り以外の寸法は用いられなかったであろうと狭く考えた。
3、「セケド」がリンド数学パピルスにピラミッドの設計方法として記されたため、それ以外の斜めに造られている構築物部分へのセケドの適用に対しては慎重になった。

古代エジプトにおける勾配を定める方法である「セケド」はエジプト学者たちによって、これまで概念が極めて限定して考えられてきました。限られた文字史料でしか扱われてこなかったので、その解釈を厳密に考えようとした経緯は当然です。また第二中間期の記述を新王国時代の遺構に当て嵌めていいのかという逡巡もあったことでしょう。
しかし逆に言えば、柔軟に作業を進めた古代エジプト人の設計方法や建造方法をほとんど配慮しない考え方でキュービット尺やセケドの解釈を進めてきたとも言えます。

古代エジプト研究の世界は現在、細分化されています。考古学、文献学、数学など、細分化した分野で解釈の矛盾があるわけですけれど、それらを建築学の中で再びひとつに包括し、問題を解消できるのではないかという、その可能性が指摘できるように思われます。

2014年7月1日火曜日

Kemp and Garfi 1993


古代エジプトで一時期栄えた首都アマルナに関し、卒業論文のテーマとして考えたいと願う大学4年生は多いのですが、読むべきものがたくさんあって、テーマを絞ることがまず重要だと思われます。

はじめはこんなに既往研究が多くありませんでした。ピートリーが19世紀末にアマルナの王都跡を発掘し、また20世紀の初期にツタンカーメンの王墓が発見されてから、研究はアクエンアテンに関する論考とともに急激に増えています。当初は「若死にした王」しか分からなくて、シュルレアリスムの説明で出てくる「マルドロールの歌」の作者、ロートレアモンと同じぐらいツタンカーメン王には不明な点があったのですが、研究者たちによってだんだんとアケナテン、もしくはアクエンアテンについても、詳細が分かってきました。

アマルナの現場はB. J. Kempが長く発掘に携わっており、立派な報告書が何冊も出されています。この本は地図集ですけれども、それだけに終わらず、図中の建物に関連する文献の索引を作成している点がきわめて重要です。
地図とともに、そこに載っている各々の建物について詳しい文献リストが付されているという本は、聞いたことがありません。ある地域に集まっている遺跡を説明した本の巻末に、全体地図を折込でつけた逆のものはたくさんありますが。
だからここでは、それまでの本の形式にない、また情報豊かなものを出版しようとした意図があったと見るべきだと思います。

Barry J. Kemp and Salvatore Garfi,
A Survey of the Ancient City of El-'Amarna.
Occasional Publications 9
(EES, London, 1993)
112 p., 9 maps.

CoAを述べた時に、この本については記しました。この題名は、J. H. BreastedThe Survey of the Ancient World (Boston, 1919)を思い起こさせます。ブレステッドが1916年に書いた、900ページ近くもある分厚いAncient Times: A History of the Early World (Boston and New York, 1916)の、言わば縮刷版。ブレステッドについては、BAR 1906-1907を参照。40歳でシカゴ大学の教授に就任し、翌年にBARを出版。54歳の時にシカゴ東洋研究所(OIC)の初代所長となっています。The Survey of the Ancient Worldが出版されたのは、この年です。

A Survey of the Ancient City of El-'AmarnaCiNii Booksで検索すると、何も出てきません。では日本国内にはないのかという話になりますが、そんなことはなく、サイバー大学付属図書室には入っています。個人で持っている研究者もたくさんいることでしょう。
このようにCiNiiには情報漏れがどうしてもあって、見たい本がウェブ検索で出てこなかったとしてもうろたえず、研究者に尋ねるのが一番だと思います。

アマルナの住居地域は大きくふたつに分かれており、違いについてはJ. J. Janssenが考えを巡らせたこともありました。ケンプはアマルナの発掘を手掛けた最初の頃、内容が似たような論文をふたつ執筆していますけれども、アマルナ型住居を本格的に分析した2本の論文がTietzeによってZÄSに発表され、今ではこちらの方が重視される傾向にあります。
けれどもアマルナの都市軸の変更があったことなど、ケンプによって新しく重要な問題が詳らかにされた今日、住居部分の成長過程については再び考え直す必要があると思われます。

イギリス隊とドイツ隊が別々におこなった測量にも基準座標についての若干の違いが認められたため、ケンプは補正を加えて統一した図を出版しました。これがこの本の2番めの重要な点です。
区分図の全部を継ぎ合せると、かなりの長さとなります。カラー版としたのはKempの見識で、またマトリックスを組んで縦横に切り分ける図画とはせず、図を斜めに重ねあわせながら細長く伸びる遺構群を覆っていく方式を採っています。
アマルナの南方に建つコム・エル=ナーナの姿が新たに明らかとなりましたから、改訂版を出したいという気持ちがあるかもしれません。

Amarna Projecthttp://www.amarnaproject.com)のページが用意されており、ここでも文献リストが充実しています。さらには模型が作成されていますが、この模型は秀逸で、古代エジプト人たちの生活を彷彿とさせるような工夫があちこちに凝らされています。
長い説明文の中には、「建物の高さがどのくらいであったかを判断するのが難しかった」なんていう記述も見られます。建築の復元をおこなう際には、この問題は必ずと言っていいほど大きな難点となりますけれど、その詳細については後継者のK. Spenceの考察に譲る、といった配慮もうかがわれます。

柱が無数に並び立つ痕跡を残していたSmenkhkare スメンクカーラーによる大きな列柱広間が、実はブドウ畑だったのではというTietzeの論が近年発表されて皆があっと驚きました。しかしこの施設はスメンクカーラーによる施設、すなわち後の増築ということなので、この模型の作成時には復元されませんでした。立体的な復原がかなり難しいという課題もあったように推測されます。
たった数年しか治世がないスメンクカーラーは謎に満ちた王です。アマルナに関して良く御存知の方々にとっては周知の事実。これは一体、誰なのか。いろいろな解釈がこれまで繰り返されてきました。

「スメンクカーラーのホール」があった場所を、ではKempはどのように復元しているかという点も、この模型の見どころのひとつだと感じます。「おお、そう来たか」と納得する人が多いのではないでしょうか。

こういう場合の的確な判断がなされている点についても、改めて監修者の力量が伝わってきます。
37枚の模型写真を、本と一緒に丁寧に眺めると大いに楽しめると思います。

2014年5月23日金曜日

Senigalliesi 1961


トリノ・エジプト博物館に収蔵されている古代エジプトのものさしを、厳密に測って報告している論文。古代エジプトのものさしを、たとえば"Egyptian cubit"といったキーワードを使ってインターネットで検索すると時々、参考文献リストの中で出会う論考です。

この論文の執筆者であるSenigalliesiはしかしエジプト学者ではなく、トリノの会社RIVに属する技術者で、要職を務めていたようです。この文章が掲載されている雑誌(rivista)もエジプト学の専門誌ではありません。
トリノで工業製品を生産する製造会社が出していた広報誌であるため、探して実見しようとすると、エジプト学に関連する書籍をたくさん集めているはずの図書館が収蔵していない場合が多く、大変な思いをします。

Dino Senigalliesi,
"Metrological Examination of Some Cubits Preserved in the Egyptian Museum of Turin,"
La Rivista RIV (1961),
pp. 23-54.

雑誌名に見られるRIVという会社名は、創業者の名のRoberto Incertiと、地名のVillar Perosaの略称に由来し、この会社はボールベアリングを製造していました。
RIVの設立にはイタリアの大企業である有名なフィアット(FIAT)を創り上げたジョヴァンニ・アニェッリ(もしくはジョバンニ・アニエッリ、Giovannni Agnelli)が大きく関わっています。Villar Perosaはアニェッリ(アニエッリ)が生まれた地でもあり、アニェッリ一族が本拠としていた重要な場所でした。トリノから南西方向に、35キロほど離れた山あいにある街。
会社の設立の経緯について短い説明をしているベアリングメーカーのSKFのイタリア語サイトでは、RIVアニェッリFIATとの関わりがうまく説明されています。

http://www.skf.com/it/our-company/skf-italia/cenni-storici-sulla-skf-in-italia/index.html

"FIAT"という会社名はFabblica Italiana di Automobili Torino、つまり「イタリア・トリノの自動車工場」といったほどの意味の略になりますが、同時にラテン語の"fiat"との連関が考えられており、機知に富んだ命名法をそこにうかがうことができます。
聖書を読んだことのある人ならば、旧約聖書の最初の「創世記」、そのまた冒頭の天地創造のくだりで

光あれ

という語が出てくることを御存知のはず。ラテン語では、これが"Fiat lux"(フィアット・ルクス)となります。光がラテン語では「ルクス」で、これは照度の単位になっているから建築業界の人にとっては非常に覚えやすい。

しかしこのラテン語は奇妙で、明らかに命令法なのですけれども、本来、命令文というのは一人称から二人称に向かって放たれる言葉です。
人間が二人いた時に、話し手が一人称で、聞き手が二人称。三人称は、このふたりの間で交わされる会話の中で取り上げられる者の謂であり、この三人称に対する命令法というのは基本的に存在しません。

自分に向かっての命令文(一人称に対する命令法)もあるように思えますが、これは例えば、だらしなく感じる自分に向かって「もっとしっかりしろ!」と激励する場合、架空の自分を自分自身とは別に仕立てて、その二人称に向かって呼びかけているわけで、基本的な構図の中に収まる用法です。

でも「光あれ」という言葉は、未だ存在していない光というものに対して「存在せよ」と三人称で表現しています。話者、と言うか、この場合は神なのですが、その目の前に無いというだけでなく、これまでこの世になかった非存在に対して命令する矛盾があってこうした表現になるのでしょうけれど、世界を歪ませる呪文と似ていなくもありません。
こういう不思議なニュアンスを含んだ言葉を社名として選ぶところに、アニェッリの才覚が感じられます。

自動車メーカーが自社名をラテン語と絡ませる傾向についてはどこかで読んだ記憶があるのですが、思い出すことができません。ドイツの自動車メーカーAudi「アウディ」は、創業者の名のHorchの意味をドイツ語からラテン語に直した結果であり、意味は「聞け」となります。「オーディオ」、「オーディション」、また「オーディトリアム」といった言葉と語源が同じ。「オーディトリアム」auditoriumの複数形ではauditoriumsの他に、格式ある綴り方としてauditoriaが存在するのも、このラテン語名詞が-umで終わる中性名詞であり、その場合には複数形が-aとなるためです。
スウェーデンのVolvo「ボルボ」もやはりボールベアリングとの強い関わりがあって、社名の意味はラテン語で「私は回る」。VolvoRIVとは、前述のベアリングメーカーのSKFを介し、少なからぬ関係が実際にあった点も面白いところです。

屋上に試験走行のためのコースを備えたFIATのトリノ・リンゴット工場の外観の写真はル・コルビュジェの「建築をめざして」の終わり近くに、あからさまな修正の痕を残したまま掲載されており、これも建築業界では良く知られた話。コルビュジェによる写真の修正の例は、挙げていったらきりがないと思います。
今、取り上げられることの多いSTAP細胞に関する論文での写真の扱いと比べるならば、建築における写真の扱いの特色がはっきりするかもしれません。
建築評論家のフランプトンは、コルビュジェが提示する写真で見受けられるシュルレアリスム的要素について、確か論文を書いていました。もう一度、読み直すと得るところがあるかとも思います。

古代エジプトのものさしについては、大キュービット(=52.5cm)と小キュービット(=45cm)の2種類があると語られることが多いようですが、これをそのまま信じると、長さが異なるふたつのものさしがエジプトの遺跡からたくさん出土しているのだろうという話になりがちです。
けれども小キュービットのものさしというのは基本的に発見されていないわけで、差し当たり幻想なのではないかと疑いの目を向けた方が良いかと思われます。
Dieter Arnoldは古代エジプトの建築に関する権威者ですが、彼はおそらくどの著作においても小キュービットについてまったく発言していません。だいたい古代エジプト建築に関わる者は、小キュービットについて何も語らないことが多いわけです。

だからBarry Kempがアマルナ型住居に関して小キュービットによる計画方法の分析を試みた(Amarna Reports VI, London, EES, 1995, p. 22)のは、「キュービットについてはもう一度考えた方が良くないかい?」という問いかけを暗に意味しており、この意見には賛成です。
Greaves 1646, Newton 1737, Jomard 1809, Lepsius 1865といった一連の論考を辿るならば、明瞭な小キュービットのものさしの例が出土していないにも関わらず、「小キュービットというものを考えざるを得ない」という幻想をエジプト学が紡ぎ出していく過程が見えてくるかと思われます。

Senigalliesiの論文は、第18王朝末期の建築家カーKha)の墓TT8から見つかった折り畳み式ものさしを何枚もの写真で紹介しており、貴重です。論文の中には数式が記されており、どれだけ誤差があるのかを調べています。
ただ各目盛りの実測値が報告されていないので、その点が批判を浴びることになります。

今で言う「折尺」が今から3400年ほど前に存在していたという点が驚きで、しかもこの折尺を収納するための細長い革袋も一緒に発見されました。携帯用だったのでしょう。
実寸大のレプリカが限定番号付きでトリノ・エジプト博物館のミュージアム・ショップから販売されています。もちろん本革の袋付きとなっており、古代エジプトのキュービット研究者は必携。

"MuseumShop", Museo Egizio di Torino:
http://www.museoegizio.it/pages/shop.jsp

2014年5月22日木曜日

Caramello 2013


古代エジプトの第18王朝末、複数の王に仕えた建築家カー(Kha)とその妻メリト(MeritもしくはMeryt)の墓TT8は、20世紀初頭にE. スキアパレッリにより未盗掘の状態で発見されました(cf. Schiaparelli 1927; Moiso (ed.) 2008; Vassilika 2010)。
現在、トリノのエジプト博物館で専用の部屋が用意されており、そこでカーとメリトの墓に収蔵されていた品々を見ることができます。

トリノのエジプト博物館は、収蔵点数で言えばカイロ・考古学博物館に次いで世界第二位と言われますが、現在は増床の工事が行われているため、収蔵品を丁寧に見たい方は、完成予定の2015年を迎えてから訪れるのが良いかもしれません。
カーとメリトの遺物はおびただしく(Russo 2012)、注目すべき家具類が多数含まれていますが、ここでは衣装箱などに記された文字のみに注目しています。
カーとメリトに的を絞った考察としては、おそらく最新の考察です。

Sara Caramello,
"Funny Inscriptions on Some Coffers of the Tomb of Kha,"
in Alessandro Mengozzi and Mauro Tosco (eds.),
Sounds and Words through the Ages: Afroasiatic Studies from Turin.
StudiUm DOST (Studi Umanistici, Department of Oriental Studies of the University of Turin) Critical Studies 14,
Alessandria, Edizioni dell'Orso, 2013,
pp. 283-292, including 4 photos.

出版社のあるアレッサンドリアという町は、トリノから30キロぐらい離れたところに位置します。
昔はイタリアで出版された專門書籍を入手するのが実に困難で、日本ではイタリア書房文流など、限られた店を通じておこなうしかありませんでした。近年、イタリアのアマゾンができたことでずいぶん変わりましたが、今、この本を Amazon.it で検索しても出てこないようです。

編著者のひとりがacademia.eduを用いて表紙と目次、及び前書きを公開していますので、目次をここでタイピングする代わりに、そのURLを提示することにします。

https://www.academia.edu/3608599/Sounds_and_Words_through_the_Ages_Afroasiatic_Studies_from_Turin

今、卒業論文の執筆において海外文献を扱うことを強いられている学生さんの中で、最先端の情報が欲しい場合は、とりあえずこのacademia.eduに登録することによってダウンロードできる論文があるかもしれません。
academia.eduというのは、学者たちが参加している内輪のSNSです。ここでは研究者たちが自分の書いた論文をPDFファイルにしてアップロードしている場合があり、読みたいものが見つかることもあります。

カーとメリトの墓からは大小を取り混ぜると数十の箱が見つかっていて、多くが衣装箱なのですが、奥さんのメリトが使っていた大型の化粧箱や、1メートル以上の高さを持つ稀有の鬘(かつら)箱といったものも混ざっています。

最大の木製の箱は、神殿のかたちをした棺です。身分が上の人になると、棺が入れ子状になっていて数がひとつではないんですが、小さな方は人型棺と呼ばれるかたちとなっており、箱とはちょっとみなし難い。
さて棺の場合、生きている時に使うことはあり得ません。だから墓から見つかった棺で良く問われるのは、「それが本当にその人のために用意されたのか、それとも最初は他人のために用意されたものを流用したのか」、ということです。ツタンカーメン王の遺品の中で、この点がしばしば討議されているのは有名。
最初はそういうことを疑うことをしなかったんですが、ひとのものを流用する例が知られてからというもの、エジプト学ではこういうことに対して敏感になりました。
棺というのは、墓への副葬品として新たに作られるものの部類に入ります。その他方で、棺以外に、亡くなった者を悼むために新しく作られる副葬品もありました。

カーとメリトの箱では、棺の場合とは異なり、もうひとつ質問が増えることとなっていて、「これらの箱のうち、実際に生活で使っていた箱はどれなのか、また副葬品として墓に納める際に、どのような装飾の変更をおこなったのか」ということが問われています。これを真正面から考えようとしたのはE. Vassilikaで、生活で使っていた衣装箱だと考える時、切妻型の蓋がある箱は積み重ねることができない欠点がある、などと面白い発想が書かれていますが、この「生者の箱」と「死者の箱」との見きわめがけっこう難しい。
その場合には、「開け閉めする部分がすり減っている」といったところに注目して考察を進めたりします。Égypte, Afrique & Orient 3 (1996)においてLoebenがそうした観察をしています。「眼力」、という言葉が改めて思い浮かぶ、熟練が必要とされる世界です。
下書き線や塗り直しの跡、もとは描かれていた画像を抹消した証拠などをエジプト学者たちはくまなく探すわけで、箱を見る面白さは、こういうところにも存在します。

もうひとつ手がかりがあるとするならば、箱が開かないようにする工夫で、紐で縛ったところに封泥を施すという方法もありましたが、もっと手の込んだ方法があって、閉めたら二度と開かないというカギを箱に仕込んでいる場合がうかがわれます。

「二度と開かない」というのは言い過ぎかもしれません。と言うのは、上下を逆さまにして強く揺り動かすことによって、箱を再び開けることができるからです。
けれども日常にあって、蓋を開ける際に毎回、そんな面倒なことが強いられるとは思えませんから、やはりこのカギは、墓へ副葬品として収められる際に付加されたものと考えるのが自然です。
ところがこのカギの形式がさまざまにあるわけで、副葬品を揃える段には、たぶん複数の木工職人に依頼されたのではないでしょうか。

Caramelloは新王国時代のヒエラティックを專門とする読み手というわけではなく、だから時として彼女の論考には引っかかる点もあるのですが、整理が初期の段階にあるということは本人も結論において述べています。
どうして副葬品に新しく加えられる文が統一されていないのか、ということが、近代人にとっては疑問となるかもしれません。けれどもここには遺品ごとに知恵を絞らなければならなかった事情があり、文字を記すべきそれぞれの箱では、空白の長さや幅も考慮しなければなりませんでした。それらの工夫の痕跡を細かく追うことが求められています。

テーベのデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)や王家の谷から出土した、石灰石片(オストラカ)にヒエラティックで記された文字史料は、新王国時代の経済活動や労働者組織の研究に大きな恩恵をもたらしていますが、これらの多くはラメセス時代と言われる第19〜20王朝に属しており、このうちでも最も統治が長かったはずのラメセス2世時代のオストラカが意外に少ないこと、また第18王朝末期の史料が未だ詳しく明らかにされていないことが指摘されています。
第18王朝末期時代と第19王朝時代以降とを分けて考えなければなりません。

テーベの労働者組織についてある程度解明されているとしても、同時代の上エジプトで同じ労働者組織があったかどうかも、ほとんど論議されていません。
古代エジプトにおける3000年間で詳しく分かっているのが下エジプトのテーベの例だけしかないので、これを参考としてピラミッド時代にまで労働者組織の話を援用するという方法も採られています。
この時に重視されているのは、「時代を問わずに共通する建造の手順」、ということになります。でもこの点は、建築の専門家によってまだ充分に吟味されていません。

文字史料でのこの断絶を架橋しようとしてTosi 1999Menu (ed.)  2010などで見られる論考がなされていると捉えることもできます。
第18王朝末期のカーとメリトの豊富な遺品に関する諸史料の記録に関し、さらなる充実が願われる所以です。

2014年5月18日日曜日

富永 1893


小さな冊子「紀伊和歌浦図」(cf. 塩崎 1893)を前に取り上げましたが、この題にただひとつの文字が加わっただけの「紀伊和歌浦図」という一枚刷りの刊行物もあります。和歌の浦に関してこれから調べようと志している初心者にとっては非常に紛らわしく、最初の関門となる瞬間です。
びっくりしますが、出版年も同じ明治26(1893)年です。

「紀伊和歌浦図」には、全体を筒状に包んだ紙がもともと備えられていました。
ところが、その表書きには一字だけ「」という字が付けられ、「紀伊和歌浦図」となっていて、こういう時には扱いをどうするのか、大いに迷う事態となります。包み紙と、その中身として収められた本体の冊子の表紙において、ちょっとだけとは言え、刊行物の題名そのものが異なるわけですから。
さらに、収蔵品の登録方法というのは各研究機関の方式によって微妙に異っています。これが情報収集の作業を阻んでいます。

OPACというものがありますが、図書館主体のこのシステムには、博物館に収蔵されている書籍は含まれていないようです。OPACは非常に便利な反面、欠点もあるわけで、詳しいところが具体的に明らかとなっていない気がします。Webcatの後継も、またCiNiiについても、これらのサイトで日本中、また世界中の文献を横断して検索できると思い違いしている人がいるのでは。
情報網が劇的に進展したにも関わらず、世界中の文献を横断して検索できるシステムが構築されていないということを、理由を挙げて説明してくれる公的なサイトがあるといいんですけれども。

岡田 1909のところで扱ったのは「紀伊和歌浦明細新地図」で、ここでも題名は似ています。重要な基本文献として挙げた和歌山市立博物館編「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年を見るならば、他にも似た名前の史料が、もうたくさんあることを知ることができます。
さらに各資料において初版と改訂版などによる細かな異同が見られ、新しく研究を始めようとする者にとっては非常に厄介です。

さてここで新しく取り上げたいのは、和歌山県立博物館が収蔵している「紀伊和歌浦之図」という先述した史料です。

富永正太郎「紀伊和歌浦之図」、
富永正太郎、
明治26(1893)年、多色一枚刷り。

墨版の単色だけが刷られたものが2014年にネットオークションで出回っていましたので、博捜するならば他にも見つかるかもしれないと推測しています。画面の上方には十数行の文が記され、そこには「割烹店には芦辺やあり」と書かれているとともに、もうひとつの老舗旅館であった「米栄(こめえい)」の店名もうかがわれます。

全体の描法は塩崎毛兵衛による「紀伊和歌浦図」と似ているようにも見受けられます。もしかしたら、この一枚刷りの発行に「あしべ屋」の当時の店主、薮清一郎が関わっていたのかもしれません。
明治時代において発展し、また技術の急転も重ねたメディアの利用方法について、彼は天才的な才能を発揮したと推察されますので。

しかしこの図で「あしべ屋」本館は木造3階建ての姿であらわされており、これは「紀伊和歌浦図」と同じなのですけれども、玄関と思しき上に高く掲げられた切妻は描かれず、また二階から直接地上階へと降りることのできる正面中央の特徴的な階段も見られません。
「あしべ屋」には正面中央に幅の広い階段が備えられていた時期と、それが撤去されて切妻屋根が中央に高く設けられた時期があったことが知られています。でもそれがいつ改変されたのかを正確に示す史料がなく、「紀伊和歌浦之図」は今後も検討すべき事項を含む、見逃せない画像資料となっています。
似た建物が実際にあれば参考になるのですけれども。

明治期に属する木造3階建て、あるいは4階建ての旅館は、決して珍しくありませんでした。当時、大流行となった絵葉書ではその建物の姿が活写されています。ですが、時代を経てあっけなく取り壊されることが重なり、日本全国で夥しい数の建物が失われました。
現存する和歌山県内の例としては、高野口町の葛城館がまず挙げられるのではないでしょうか。伝統的な木造建築に基づきながら、なおかつガラスのファサードを高く立ち上げているさまに感動します。

さらに条件を絞り、二階から地上に降りることができる階段を備えている明治時代の木造の旅館で、現存している3階建て以上のものを探すとなると、どうしても対象は限られ、和歌山県外にも目を向けるしかありません。

稀有な類例として、地域としてはいささか離れてしまいますが、群馬県四万温泉の旅館である積善館ということになるでしょうか。ここは宮﨑駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」の舞台設定の際に参考にされたとも言われる人気の高い宿です。
本館は江戸時代の木造2階建ての上に、さらに明治時代、3階部分の建て増しがなされた例としても専門家の間では知られています。
積善館の本館は現在、湯治客のために使用されているようです。多少の不便が強いられる代わりに宿泊料も格安ですから、近世の木造高層建築や明治時代の増改築に関する技法に興味のある建築史関係者にとって必見の宿。

本館の建立は元禄4年と伝わっているようですので、学生さんたちとともに本館に宿泊し、建築のどこをどう見るか、長期逗留ゼミをおこなうのも楽しみでしょう。元禄の江戸時代前期から始まって明治・大正・昭和までの増改築の正しい見定めとなると、教員の眼識も逆に厳しく問われます。
ここには「資料室」も備えられていますので、当時の史料に記された、くずし字の読解をおこなう現場としても有用かと思われます。

明治村にも、もともと2階建てだったところに3階部分を建て増しした明治期の木造建築があります。建物の最上階にある部屋も見ることができ、しかもガイドさんによる丁寧な解説付きで、木造高層建築の構造に興味を持つ一般の方々がこれからも増えることを願っています。

「あしべ屋」に似た比較的大きな木造3階建てで、しかも2階から地上階へ降りることができた建物を探すということになると、つい先日に文化審議会から重要文化財指定の答申がなされたことでニュースとなった、同じ和歌山県内の広川町の東濱口家邸宅、特に「御風楼」と呼ばれた東濱口家住宅の迎賓施設(明治42 [1909] 年)が挙げられます。
この建物では木製の直通階段を構えず、石積みの塊をこしらえ、階段として昇り降りできるものを廊下の傍らに構築することで2階と地上階との連絡を実現しており、庭園全体の見栄えを配慮した意匠が見せ場となっています。

この貴重な建物では、3階の雨戸を収めた戸袋全体が、驚くべきことにエレベーターとして下階へ降ろすことができるという工夫が最も興味深い点です。こうしたとんでもない仕組みを考えていたということが、もっとさまざまなかたちのニュースで触れられ、世界共通の建築の面白さが喧伝されると良いのですが。
眺望に恵まれた「御風楼」の3階部分は、座敷の三方を巡る柱間装置、つまり障子や雨戸を開け放すことができるように設計されていましたけれども、雨戸を収納するための、木の板材でできた戸袋だけはどうしても残されてしまい、この部分が視界の広がりを遮ることとなります。
その欠点をなくすため、何枚もの雨戸を戸袋に収めた後に、戸袋そのものを下階へ降ろすという大胆な創案です。

近代建築の巨匠のひとりとして崇められ、また今日の超高層ビルの先駆けをいくつも建てたミース・ファン・デル・ローエMies van der Rohe:要するに「ミース村出身のローエ」という名前)は、チューゲンハット(トゥーゲントハット)邸を1930年に完成させました。
斜面を見下ろす眺めの良い居間の大きなガラス面に対し、電動による窓の自動開閉を考え、しかも通常の横方向にではなくて、ガラス窓を垂直に、床面下へ引き落とすという装置を家に組み込み、世界中の建築関係者をあっと言わせた男です。
チューゲンハット邸は今日、世界遺産に指定されています。

鉄とガラスでできたチューゲンハット邸と同様の工夫が、東濱口家の「御風楼」ではチューゲンハット邸よりも20年も前に、3階建ての木造建築で試みられています。ただし、電動ではなくて手動なのですが。手段は異なりますけれども、目的が同一という点が注目されます。
建物において眺望が優先された時に、どのような驚くべき設計上の方策を探ることができるのか。近代における最先端の建築表現の試みを、ここに見ることができます。

「紀伊和歌浦之図」では、妹背山の小さな入母屋造りの平屋にはっきりと「塩湯」と記されており、この点も銘記されるべきです。
明治時代、海水浴は娯楽ではなく、療養の一環として日本に導入されました。東京の都市計画家として知られている後藤新平が、まだ一介の医者として活動していた頃に発表した「海水功用論」(明治15年)が先駆けかと思われます。詳しい経緯に関しては小口千明の論文、「日本における海水浴の受容と明治期の海水浴」人文地理37:3(1985年)、pp. 215-229が有用です。
この動向を受け、和歌浦でも海水浴を広告に全面に掲げ、また海水を沸かした「塩湯(汐湯もしくは潮湯)」を宣伝したと考えられます。

同志社大学の創設者である新島襄が療養のために和歌浦を訪れたのはしかし、後藤新平の著作が出るよりも少し前の明治10年であって、この頃は和歌山、まして和歌浦へ行くには鉄道もまだ敷設されておらず、大変であったはずです。小口千明の論文でも和歌浦は触れられていないわけで、とても辺鄙な場所であったはずなのですが。
療養の場として、どうしてこの地が選ばれたのか、興味が惹かれます。新島襄とその妻の八重は、和歌浦の漁師の家を借りたらしい。英文の手紙が残っています。

なお、「紀伊和歌浦之図」では妹背山に見られる木造平屋の建物の入側面の様子が「紀伊和歌浦図」とは異なるようです。妹背別荘の往時の姿を探る際、さらなる検討が求められるわけで、「紀伊和歌浦之図」は改めて見直す必要のある史料となっています。

2014年5月17日土曜日

近代築城遺跡研究会(編) 2012


近代築城遺跡研究会の角田誠さんから貴重な論文集をお送りいただきました。
ありがとうございました。

土木請負業を営む西本組を率いた初代の西本健次郎は、国内外の鉄道敷設関連工事に携わったことが知られています。「三井建設社史」(1993年)や「日本鉄道請負業史 明治編 中」(1944年)の南海鉄道を述べた部分などに彼の名が繰り返し出てきますが、後年に貴族院議員も務めた時期があり、国立国会図書館の「帝国議会会議録検索システム」で名前を検索すると、29件を確認することができます。

他方、西本組は軍事建築の造営にも関わりました。由良要塞友ヶ島砲台群のうち、「第一砲台」の建築工事を西本組が手掛けた記録が残っています(pp. 131-132)。ただ情報が機密事項を含んでいたためか、西本組には図面類が一切残っていない点が残念です。

さて、和歌浦で老舗の会席旅館であった「あしべ屋」は、移ろい行く観光業界の趨勢に逆らうことができず、大正時代の末期には廃業を余儀なくされましたが、その際に妹背山の「あしべ屋妹背別荘」が西本健次郎に売却され、彼はそれをしばらく別荘として用いました。折々には貸し出しもおこなっていたようです。
あしべ屋の関連施設はたくさんありましたけれど、今なお残存しているのは妹背別荘とその脇に建てられたビリヤード場だけです。このビリヤード場は妹背山から近くの場所へと移築され、本館や玉津島別荘(北の別荘)などはすべて取り壊されました。

こうして和歌山市に点在しながら残る3つの建物、つまりレンガ造の堅固な「由良要塞 友ヶ島第一砲台」(明治23年)と木造平屋建の「あしべ屋妹背別荘」(明治時代中期~大正初期)、そして初期コンクリート造の登録有形文化財「旧西本組本社ビル」(大正14年)とが関連性をもって結びつくことになります。第二次世界大戦の終わりを迎えて友ヶ島第一砲台は放棄されたものの、第二砲台のように爆破破壊されることは免れたようです
西本組本社ビルは1945年の和歌山大空襲によって甚大な被害を受けましたが、2階の空中廊下で繋がっていた隣接の木造住居部分のように焼失や倒壊することはなかったので改修が施され、その後も使われ続けました。妹背別荘は幸いにも戦火を受けなかったため、西本家の疎開先として用いられました。
それぞれ固有の歴史を辿りながら、偶然残ることになった3つの例と言っていいのかもしれません。

定本義広編「由良要塞 III:京阪神地区防衛の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2012年、
(v)、187 p.

目次
角田誠「明治初年における大阪湾の防備状況」(p. 1)
原田修一「生石山弾薬本庫跡発掘調査報告書」(p. 21)
原田修一「コラム:由良要塞砲兵連隊及び由良要塞司令部の写真について」(p. 25)
原田修一「コラム:門崎砲台の写真について」(p. 28)
原田修一「コラム:斯加式九糎速射砲薬莢箱について」(p. 30)
臼井敦「東京湾要塞 伊勢山崎水雷砲台(2):男良谷水雷砲台を考えるうえで」(p. 31)
森崎順臣「御坊市野口地区の砲台について」(p. 58)
久保晋作「本土決戦における旧式砲の使用についての考察」(p. 71)
久保晋作「淡路島における砲台遺構の破壊についての考察」(p. 87)
豊島邦彦「赤松山堡塁遭難記」(p. 106)
溝端佳則「絵葉書写真に見る重砲兵第三連隊〜野戦重砲兵第三連隊」(p. 111)
宮田逸民「三木飛行場ノート」(p. 123)
中川章寛「姫路海軍航空基地の防空施設について」(p. 153)
定本義広「○○(マルマル)、陸軍由良飛行場について」(p. 176)
編集後記(p. 185)

友ヶ島は近年、映画「天空の城ラピュタ」の中で展開する光景に酷似しているということで訪れる若者たちが増え、賑わっているようです。ですが、本当は地味な記録作業がもっと重要であろうと感じます。
今年、久しぶりに訪れましたけれども、虎島の岸壁までは回ることはできませんでした。観光地だと侮っていると思わぬ怪我をする可能性があり、この島では天候と潮位を常に注意して行動することが望まれると思います。

既刊としては、次の3冊がすでに刊行されています。

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 I:大阪湾防御の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2009年、
175 p.

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 II:紀淡海峡の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2010年、
160 p.

近代築城遺跡研究会編「舞鶴要塞 I:舞鶴港湾と山陰の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2011年、
190 p.

2014年5月16日金曜日

Ordo et Mensura IV/V 1998


古代エジプトで用いられていた尺度については、一般向けにきわめていい加減な説明がなされている場合が大変多く、この点はいずれ正される必要があろうと案じています。
先日、「計量学-早わかり(第3版)」というページを見つけたのですが、冒頭に書かれていた古代エジプトの尺度についての記述を読んで驚きました。

ものさしという存在から、まずは語る必要があるのかもしれません。ものさしが見つかっているかどうかや、そこに刻まれた目盛りというものによって人の考え方はかなり束縛されるようで、この点で研究者の考えとの大きな乖離が生じることとなります。

ものさしが実際に見つかっていないからといって、もちろんその時代にものさしが存在しなかったと考えるべきではありません。金属でできているニップールのものさし(Nippur cubit)は最古のものさしとしてしばしば取り上げられており、ウィキペディアにも書かれていますが、だからと言ってこれよりも前の時代の世界にはものさしがなかったことにはなりませんし、だいたいニップールのものさしが「本当にものさしなのかどうか」を疑う必要があります。

世界には昔の計量学に焦点を合わせた専門の雑誌が幾冊もあります。以前に触れたNexus誌(cf. Morrison 2008)もそのひとつで、建築と数学を扱っている雑誌でした。ニップールのものさしについてはしかし、例えば以下に示す別の刊行物に所収されている論文で検討がおこなわれています。

Dieter Ahrens und Rolf C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura IV / Ordo et Mensura V,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 25.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1998,
vi, 434 p.

2回開催された会議の記録を収めているため、言わば合併号という体裁をとっています。この中で最も注目がなされるのは、

Marvin A. Powell,
"Gudea's Rule and the So-called Nippur Cubit: The Problem of Historical Evidence,"
D. Arrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.), Ordo et Mensura V,
pp. 93-102.

の論考でしょう。
パウエルという人が編集したPowell (ed.) 1987に関してはこの欄で前に挙げたことがあり、それは古代中近東における労働者組織の話の時であったわけですけれども、この方がミネソタ大学に提出した博士論文のタイトルはSumerian Numeration and Metrology (1971)で、もともとシュメールの計量学が専門の学者です。サッソンやベインズたちによる、

Jack J. Sasson et al. eds., Civilizations of the Ancient Near East, 4 vols.
(New York, Charles Scribner's Sons, 1995) .
Editor in Chief: Jack J. Sasson, Associate Editors: John Baines, Gary Beckman, and Karen S. Rubinson.

Vol. I: xxxii, 648 p.
Vol. II: x, 651-1369 p.
Vol. III: x, 1373-2094 p.
Vol. IV: x, 2097-2966 p.

の4巻本は、E. M. Meyers et al. eds., The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East, 5 vols. (Oxford, Oxford University Press, 1997)とともにこの分野において良く知られた事典ですが、そこでは「メソポタミアの計量学と数学」の項目(Vol. III, pp. 1941-1957)に関して執筆もしており、この領域の権威として認められている人間。その彼が、ニップールのものさしについてどのような見解を抱いているかというと、

"an enigmatic piece of evidence like the so-called Nippur cubit"

と表現した後に、

"It has a curious form, sometimes said - but without supporting evidence - to be shaped like a stylus, with six indentations, dividing it into seven unequal parts. The deepest of these indentations mark off a space of about 518 millimeters, and it is this that has been referred to as the "Nippur Cubit" (Nippur-Elle). (...) In short, it is not usable at present as evidence for historical metrology."
(pp. 100-101)

と記しています。かたちが変で、目盛りの間隔が一定でなく、正確な出土場所が記録されていないために年代が実のところ不明で、学問的な資料としては扱えないという点がはっきりと述べられており、Ordo et Mensura誌のめざしているであろう方針とは真っ向から対立する立場。Powellの論文のあとには、この会議録Ordo et Mensuraの共同編集者のひとり、Rottländer

"Die Standardfehler der Methoden der überkommenen Historischen Meteorologie"
(pp. 103-114)

と題する論文を書いており、ここにもニップールのものさしが分析図付きで出てきますが、相反する意見を並べて掲載しているところが重要です。読者に判断を任せるという姿勢。

ものさしには等間隔の目盛りがあるはずだろうという見方はしかし、ともすると考え方を逆に狭める恐れもあり、ものさしに刻まれていない目盛りで建物を設計することはないだろうという勝手な推測に結びついたりします。古代の尺度を考える際には、ものさしから話を始めなければならないのでは、と思うのはそういう時です。

なお同じ刊行物では、

Florian Huber,
"Das attisch-olympische bzw. geodätische Fußmaß von 30,9 cm.
Seine Herkunft und die Verwendung in der justinianischen Baukunst,"
D. Ahrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura III,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 15.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1995,
pp. 180-192.

のうち、pp. 186-189などでも"Die Nippurelle"を扱っています。

2014年5月15日木曜日

El Gabry 2014


早稲田大学の河合望さんから教えていただいた本。
ジョンズ・ホプキンズ大学に提出された博士論文をもとにして出版された書です。著者は現在、ヘルワン大学の准教授。
BARのシリーズについては以前、Lander 1984や、BAR (Breasted, Ancient Records) 1906-1907などで触れました。今年、BARは40周年記念とのことです。膨大な数の本が出版されています。

Dina El Gabry,
Chairs, Stools, and Footstools in the New Kingdom: Production, typology, and social analysis.
BAR (British Archaeological Reports) International Series 2593,
Oxford, Archaeopress, 2014.
xix, 243 p., including 247 figs.


Table of Contents:
List of Figures (iv)
Foreword (xix)
Introduction (p. 1)

Chapter I  Woodworking Process and Techniques in Manufacturing Chairs and Stools (p. 3)
I Tools (p. 4)
II Materials (p. 13)
III Woodworking Process (p. 21)

Chapter II  Description of the Chairs, Stools, and Other Related Pieces and Fragments Preserved in the Cairo Museum (p. 31)
I Collection Excavated by Bruyère at Deir el Medina (p. 31)
II Collection from the Tomb of Amenhotep II (p. 32)
III Pedestals from the Tomb of Thutmose IV (p. 34)
IV Collection from the Tomb of Yuya and Tuya (p. 34)
V Collection from Tell El-Amarna (p. 36)
VI Collection from the Tomb of Horemheb (p. 37)
VII Collection from the Tomb of Sennedjem (p. 37)
VIII Inscribed Collection (p. 41)
IX Collection with Known Provenance (p. 45)
X Collection with Unknown Provenance (p. 52)
XI Elbow Braces (p. 60)
XII Legs (p. 61)

Chapter III  Two-dimensional Scenes: Symbolism, Usage, and Comparison with Sculpture (p. 69)
I Elongated Chair and Symbolism (p. 69)
II Circumstances and Social Context of Using Chairs and Stools (p. 74)

Chapter IV  Lexicography and Typology (p. 80)
I A Lexicographical Discussion of Chairs, Stools and Footstools in the New Kingdom (p. 80)
II Typology of Chairs and Stools in the New Kingdom (p. 87)

Conclusions (p. 92)
List of Abbreviations (p. 94)
Bibliography (p. 96)
Figures (p. 117)

カイロのエジプト博物館にどのような家具が所蔵されているのかが初めて明らかとなっており、非常に興味深い内容となっています。

"Of the chairs and stools he (=Geoffrey Killen) discusses, those preserved in the Cairo Museum belong to the royal sphere, mainly Hetepheres (Dynasty 4) and Tutankhamun (Dynasty 18), and are not included in this book."
(p. 1)

と序章で述べている通り、ツタンカーメン(Tutankhamun)の家具については何も述べていません。
でもどのような家具の断片を有しているのかが分かり、また冒頭の謝辞でM. Eaton-Kraussの名が挙げられていることから、家具研究の最先端の状況がこの論考にはかなりの程度反映されていると考えられるわけです。
巻末には参考文献が400タイトル以上、挙げられています。

カイロ・エジプト博物館の各々の家具の図面がまったく掲載されていない点は惜しまれるところ。けれども家具が登場する壁画を集成している章は有用です。

家具に関する専門用語を述べた章では、情報が錯綜していた語、isbtisbwt)がやはり大きく取り上げられています。この語に関しては以前、Janssen 2009で触れました。Eaton-Kraussが議論に関わっていますから当然、話が詳しくなっています。もともと高貴な者だけが使うことが許された折り畳み椅子についてはWanscher 1980が基本文献となりますけれど、El Gabryの本でも「男が座るものなのだ」と明言されている(p. 82)のが面白い。

結論で言われている

"I hope that my study of the collections in the Cairo Museum will encourage other scholars to publish all the objects, and especially the fragments preserved in other museums. Our picture is still incomplete and we only know about the famous chairs and stools that are usually discussed in entries about furniture in general. (...) Complete pieces are useful in iconography and symbolism, in the case of royal specimens, but for technical information, we need the fragments."
(p. 93)

という部分は、家具研究家が共通して抱えている問題認識だと言えそうです。

2014年5月11日日曜日

Le Roux, Sellato et Ivanoff (éds.) 2004-2008


EFEO(École française d'Extrême-Orient)から出版された、東南アジア諸国の度量衡に関する研究書。
第2巻目の巻末には両巻に収められた論文の詳細な目次が掲載されていますが、これをタイピングするのは一苦労ですので、時間のある時に再度、試みることにします。
タイ、ベトナム(ヴェトナム)、ラオス、フィリピン、その他の諸国における度量衡を扱っています。

Pierre Le Roux, Bernard Sellato et Jacques Ivanoff éds.,
Poids et mesures en Asie du Sud-Est: Systèmes métrologiques et sociétés, 2 vols.
Études thématiques 13-1/2.
Paris et Marseille, École française d'Extrême-Orient, Institut de Recherche sur le Sud-Est Asiatique, 2004-2008.

Volume I: L'Asie du Sud-Est austronésienne et ses marches, 
Études thématiques 13-1,
423 p.

Volume II: L'Asie du Sud-Est continentale et ses marches, 
Études thématiques 13-2,
pp. 425-826 (404 p.)

この2巻本で見たかったのは、ただひとつの論文で、カンボジアを扱ったものです。

Marie Alexandrine Martin
"Dâmloeung et niel: Évaluer l'or et le riz dans le Cambodge traditionnel,"
 in P. Le Roux, B. Sellato et J. Ivanoff éds.,
Poids et mesures en Asie du Sud-Est: Systèmes métrologiques et sociétés, vol. 2, 
Études thématiques 13-2, pp. 503-514.

P. 508からは"Les mesures de longueur et de surface"と題した章の論述が始まり、p. 509には、"probablement les 41 cm notés par certains auteurs," といった記述が見られるのですけれど、これが果たして知りたかった長さの数値なのかどうかは、また別の問題となります。
人体尺の話はこの本のあちこちに出ていて、図示がなされ、興味深い。
本の背表紙には書物のモティーフが述べられていますので、ちょっと長くなりますが、これを引き写しておきます。

Poids et mesures en Asie du Sud-Est
Plus que jamais présents dans les sociétés, les systèmes de poids et de mesures intéressent aussi le politique; la n'a-t-elle pas présidé à l'établissement et au développement des États ? Des nombreux travaux existants de métrologie historique, bien peu concernent l'Asie du Sud-Est. Cet ouvrage, né d'un ambitieux projet d'envisager les systèmes métrologiques du point de vue englobant de l'anthropologie sociale tout en tirant profit d'une approche interdisciplinaire, regroupe quarante contributions de spécialistes internationaux:  ethnologues, historiens, archéologues, sociologues, linguistes. Voici donc écrit un vaste chapitre de l'histoire économique et sociale de l'Asie du Sud-Est, entendue au sens large - ce qui constitue l'autre originalité du projet -, puisqu'il englobe ses marches culturelles: la région himalayenne, la Nouvelle-Guinée et Madagascar.

建築に関する度量衡としては、一番重要なものとして「長さ」があるんですけれども、これをどう捉えるかで一冊の本が書けるように思います。古代の「ものさし」の話は複雑で、実際に「ものさし」が出土し、尺度が分かっているように思われる古代エジプトにあっても、尺度を巡る論議が未だ続いています。面白いところです。

2014年5月10日土曜日

De Bruyne 1982


オランダの美術館が企画した展覧会「古代エジプト家具芸術のかたちと幾何学」のカタログ。
M. Eaton-Kraussは古代エジプト家具の専門家でもあり、彼女の執筆によるJEAに掲載された家具に関する論文の註によってこの本の存在を知りましたが、ようやく入手することができました。ツタンカーメン研究でも広く知られているEaton-Kraussの家具に関する論考については、Eaton-Krauss and Graefe 1985や、Eaton-Krauss 2008を参照。

De Bruyneによるこのカタログは、ほぼ真四角の本で、図版はすべてモノクロです。
地方の美術館・博物館で企画された展覧会のカタログは、日本で入手しようと思うと困難が待ち受けています。Vogelsang-EastwoodによるTutankhamun's Wardrobeなども、日本に何冊入っているのか、良く分かりません。
エジプト学に関する海外書籍の入手方法を、かつては偉そうにサイトを作って書いたこともありましたけれども、インターネットの急速な発展に伴い、すぐに古びてしまいました。

オランダの展覧会は、非常に意欲的なものであったことが以下の目次の構成からも了解されます。

Pieter De Bruyne
Vorm en Geometrie in de Oud-Egyptische meubelkunst
Gent, Gent-Museum, 1982.
108 p., 26 plates, 60 figures.

Woord vooraf: 
De Egyptische "Canon" (p. 4)
Erkentelijkheid (p. 5)

0  Inleiding (p. 6)
1  De ontledingen (p. 8)
2  Konstruktieprincipes (p. 10)
3  Vorm en symbool (p. 13)
4  Vorm en ethiek (p. 13)
5  Middelen (p. 14)
6  De analysen (p. 15)
7  KIST. esdoorn, wit geschilderd met opschriften (p. 15)
8  Laag krukje, geschilderd hout (p. 20)
9  Zitting van laag krukje, geschilderd hout (p. 26)
10  Tafel hout (p. 29)
11  Kistje, geschilderd hout (p. 36)
12  STOEL, palmhout en Acacia (p. 40)
13  STOEL, Hout met inlegwerk in ivoor (p. 44)
14  PIEDESTAL, hout, geschilderd (p. 50)
15  Vergelijking met aanpalende kulturen (p. 60)
16  Het meubel en de canon (p. 66)
17  Voorlopige besluiten (p. 70)
18  TOILETKISTJE van KEMEN, cederhout, ebbenhout en ivoor en zilver beslag (p. 70)
19  De diagonalen en de maatvoering (p. 75)
20  Het meetkundig schema en de praktijk (p. 75)
21  Het egyptische meubel, situering en betekenis (p. 79)
22  Nawoord (p. 82)

Voetnota's (p. 83)

English summary (p. 85)

内容はきわめて刺激的です。分析図は多く掲載されており、また幾何学形態の模型を同時に提示しているのも面白い。家具で見られる各種の勾配がどのように定められたのかを追究している図に、もっとも惹かれます。
巻末に英文の要約が掲載されており、オランダ語で書かれている内容の概要を把握することが可能。ただ部分的に意味が不明な記述もうかがわれ、

"Illustration 3 shows, in comparison with the aforementioned royal cubit, the six-part cubit, in which 1 palm=0.0875 m; this revised unit measure was introduced at the beginning of the 16th century."
(p. 92)

と明らかにおかしい時代となっているので原文を確かめると、"begin van de XXVIo dynasty" (p. 14) と書かれており、この記述であるならば納得するわけです。

現代においては良く知られている幾何学的な分割方法が、どこまで古代エジプト人に知られていたのか、これがカギとなるわけですが、個人的には後半の論理の展開には無理があるように感じています。しかし、冒頭において"Grenzen van het onderzoek (Limits of the study)" (p. 7) の項目を設けている点は注目されるべきで、この慎重な態度にまずは注目したいと思います。参考文献のページは、さほど充実していません。プラトンの「対話篇」が引用されているのが興味深く思えます。
古代エジプト家具の設計過程を考える上で、重要な書となります。著者は1931年生まれ。


Garlake 1966


タンザニアに残るイスラーム時代の建築遺構に関しては、まず第一に挙げられて然るべき重要な書です。キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群はユネスコの世界遺産に指定されていますけれども、水道も電気もないところの遺跡ですので、滞在してゆっくり見ようと試みる方は苦労するのでは。

当地を長く研究されてきた人類学者の中村亮先生に先導していただきながらソンゴ・ムナラを訪れた際には、モーターボートをチャーターし、また島の砂浜に着いてからは長く続くマングローブの密林を縫う道を歩いて通ったのですが、夕方には潮が満ちて来てこの道は水没し、同行者の中には腰までびしょ濡れになる人もいました。
Moonによるキルワ・キシワニ遺跡の便利なガイドブックが出ています。

Peter S. Garlake,
The Early Islamic Architecture of the East African Coast.
Memoir Number 1 of the British Institute of History and Archaeology in East Africa.
Nairobi and London, Oxford University Press, 1966.
x, 207 p.


Contents:

Foreword (v)
Preface (vii)
List of Plates (viii)
List of Figures (ix)

I  Introduction (p. 1)
II  Materials and Techniques of Construction (p. 15)
III  Vaulted Structures (p. 30)
IV  Applied Decoration (p. 42)
V  Archaeological Evidence (p. 53)
VI  Mihrab Design (p. 59)
VII  Mosque Planning (p. 76)
VIII  Domestic Buildings (p. 87)
IX  Origins of the Coastal Architecture (p. 113)

Appendix I: Detailed Study of Songo Mnara (p. 118)

Selected Bibliography (p. 120)

Figures (p. 123)
Index (p. 203)

キルワについては考古学者Chittickによる2巻本が出版されており、基本文献となります。

H. Neville Chittick,
Kilwa: an Islamic Trading City on the East African Coast, 2 vols.,
Nairobi, British Institute in Eastern Africa, 1974.

Chittickは1984年に亡くなりましたから、今年は彼の死後30周年に当たります。GarlakeChittickの下で建築遺構の調査を続け、先にその成果を単名で出版したことになります。Garlakeが32歳の時の著作。
この本でまず注目されるのは巻末に収められた80枚以上の建築図面で、このうちのいくつかは大判の折込図面ですから、図書館にコピーを依頼しても受け付けてくれるかどうか、難しいところ。図面の発表だけで済ます手もあったと思いますけれども、まだ誰も詳しく述べていなかった建築の記述に、彼は情熱を注いでいます。

"The author is not in any way a specialist in the history of the East African coast, the dating of Islamic and Far Eastern ceramics or in the architecture of Islam and was, indeed, a complete novice in these fields before starting this research work."
(Preface, vii)

と前書きでまず述べられており、作業は大変であったでしょう。サンゴ造建築という、あまり知られていない建物のどこを見てどう報告するか、分からないことばかりで迷った部分があったかと思います。Greenlawによるサワーキンのサンゴ造建築の報告は、遅れて10年後の1976年に刊行されました。
たぶん、彼はLugli 1957などの、古代ローマ建築の構法を記した書に目を通していたと思われ、建材の積み方によって年代が判別できる可能性などを知っていたに違いありません。
その一方で、

"It is basic to the understanding of the coastal architecture to see the difference between the architecture of an "architect" and that of a "master builder" or competent artisan. To over-simplify cruelly, it is the difference between "art" and "folk art" or "peasant art". If architecture is "firmness, commodity and delight", the first two qualities are those provided by a master builder, and are outstanding attributes of the coast, but the latter---delight---is only truly possible by creative design and is missing in all the coastal architecture."
(p. 12)

といった難題が取り上げられており、これは建築に携わっている人間だけが考える問題で、建築の報告書にこういう文を記載しているのが若いGarlakeによる本の見どころともなっています。考古学者たちの間で建築報告書を書いた建築畑の人の著作は何冊もあるのですが、でも初心者の悩みとともに、自分が報告書を刊行する以上、やりたい建築学的なことを全部出す、という姿勢がとても鮮明で、僕にとっては忘れ難い報告書です。

なお奥さんも考古学者で、遺跡の大型模型を一生懸命作ったり手助けしたことが知られ、微笑ましい(pls. XIV and XV, "Palace of Husuni Kubwa")。


2014年5月8日木曜日

Silva 2004


スリランカの建築史を語る上で重要な本。著者のローランド・シルヴァ(ローランド・シルバ)氏は高名な方で、世界的な要職を務めた人です。ICOMOSの委員長にアジア人として初めて就きました。遺跡保存のために尽力されています。

Roland Silva,
Thūpa, Thūpaghara and Thūpa-Pāsāda.
Architecture and Town Planning in Sri Lanka during the Early and Medieval Periods.
Memoires of the Archaeological Survey of Ceylon, Volume X, Part II.
Colombo, The Department of Archaeology, 2004.
x, 225 p.


Contents:
Preface (v)
Acknowledgement (vii)
Contents (ix)

Chapter I: Introduction (p. 1)
Chapter II: Thūpa or Stūpa (p. 5)
Chapter III: Thūpaghara or Vaṭadāge (p. 69)
Chapter IV: Thūpaghara or Kuḷudāge (p. 97)
Chapter V: Thūpaghara or Cetiya Leṇa (p. 103)
Chapter VI: Thūpa-pāsāda or Pyramidal Stūpa (p. 107)
Chapter VII: Conclusion (p. 115)

Appendix I: A Chronological List of Sri Lankan Kings (p. 119)
Appendix II: Dimensions of Dāgābas (p. 123)

List of Figures (p. 125)
Figures (p. 137)
List of Plates (p. 163)
Plates (p. 169)

Glossary of Architectural Terms (p. 201)
Bibliography and Abbreviations (p. 207)
Index (p. 219)

目次では若干の乱れが見受けられます。念校の段階で生じた変更が、うまく反映されなかったんでしょう。
出版はスリランカの考古学局で、つまり建築史の専門家はここでも少なく、考古学者が主導しているありさまが了解されます。イギリスに統治されていた時代があって、このためにこの国の考古学はどちらかと言えば英国寄りと判断されます。アヌラーダプラの発掘報告書がBARのシリーズ(British Archaeological Reportsで出ていたりします。
大国である隣のインドとの違いをどのように打ち出すかに関しては、スリランカの考古学者たちはとても良く考えている様子で感心します。古代からヨーロッパとの交易が試みられていた地域でした。

さて、153ページにはポロンナルワのワタターゲーの復元図が掲載されています。154ページには詳細図も載っています。実は10年以上も前に、

中川武監修、
「スリランカの古代建築:アヌラーダプラ後期〜ポロンナルワ期(7世紀〜13世紀)の寺院建築遺構の設計方法と復元に関する考察、および修復方法への提言」
早稲田大学アジア建築研究会、1990年、
(x), 294 p.

が先に出版されました。調査に当たってはシルヴァ氏にさまざまな便宜を図っていただきました。
実質的には黒河内宏昌氏がほとんど全章を執筆したこの報告書のpp. 169-180にはダラダーマルワ寺院のワタターゲーの復元が記載されているので、見比べるとどのような違いがあるのかが分かり、有益です。主要部の屋根勾配や入口部の屋根の形式が細かく変更されており、復元図の作成の際には、こうした細かい点こそが要。
1990年に日本で出版された「スリランカの古代建築」についての引用がない点は残念ですが、どこの世界でもあることですし、今後、事情が変わることを期待しています。「スリランカの古代建築」の巻末には英語のサマリーが付されており、また各図版のキャプションには英文も併記しているのですけれども、他の手立てが必要であったとも思われます。同じことは、当方が担当した「マルカタ王宮」の報告書でも当てはまるわけです。

ワタターゲーの素晴らしい模型は、成田剛氏の手による労作でした。記しておきます。

2014年3月26日水曜日

Narita 1990-1992 (Articles in Shihyo) / 成田 1990-1992(「史標」掲載論文)


日本工業大学の成田剛氏が授業中に倒れ、そのまま亡くなったという知らせが伝えられた後、ひと月があっという間に経ちました。
未だに信じられない思いが続いています。

カンボジア遺跡の修復事業を手がけたJSA日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地所長として彼がシェムリアプに長く赴任していた時期は、当方が同じくJSAの団員としてカンボジアに通った頃と重なっており、その際には細やかな便宜をたくさん図っていただきました。当節の感謝の言葉を伝える機会を永遠に失った意味を、改めて考えています。

成田剛氏とともに初めて海外の建築調査に出かけたのは、1984年の年末になされたインド・スリランカ建築調査で、黒河内宏昌氏が調査隊長を務めたこの時の建築調査がとても面白かったので、翌年にエジプト建築調査に誘われた時も参加することを決め、以後もエジプト建築調査を続行したという個人的な経緯があります。成田剛氏は、当方が建築調査を初めて体験した時の数少ない仲間のひとりでした。

史標 (Shihyo)」という小さな刊行誌の編集に僕は関わっていましたが、ここに成田剛氏がいくつかの論考を寄せています。

史標("Shihyo": ISSN 1345-0522)
http://www.linkclub.or.jp/~nishimot/Shihyo-J.html

当冊子に投稿された成田剛氏の論文をリストアップし、英語による書誌の案をここでは併記しました。
成田剛氏の業績を海外へ知らせることを念頭に置いていますけれども、ここに掲げた題名の英訳については当方が勝手に試訳したものですから、今後訂正すべき点が多々出てくるかと思います。あくまでも試案として提示しておきます。
Bruguier 1998-1999の著作に関しては以前、触れたことがありました。Bruguierにこのような情報をメールで知らせるべきかどうか。知らせた方が良いとは思いますが、添付すべきレジュメなど、手続きを考えると迷うところです。

成田氏が「史標」に投稿した論考のうち、カオ・プラ・ヴィハン(プレア・ヴィヘア / プレア・ヴィヒア [Preah Vihear])に触れたものは特に印象に残り、「その2」において何が書かれるはずであったのか、個人的には興味が惹かれます。
最後に投稿された論考のタイトルは「最近したこと考えたことから」でした。「史標」の創刊以降の連続投稿の努力と、その後に問題意識を拡げようとした格闘の様子が推察されます。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand: Rules for Asymmetry" (in Japanese),
Shihyo 1 (September 1, 1990), pp. 21-24.
成田 剛
「タイのクメール建築:アシンメトリーの法則」、
「史標」第1号(1990年9月9日)、pp. 21-24。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Laos: Reconnaissance Records for Three Days to Wat Phu" (in Japanese),
Shihyo 2 (December 12, 1990), pp. 23-28.
成田 剛
「ラオスのクメール建築:ワット・プーを訪ねた3泊2日の調査旅行記」、
「史標」第2号(1990年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 2: Prasat Mueang Sing, The Westernmost Khmer Monument" (in Japanese),
Shihyo 3 (March 3, 1991), pp. 27-30.
成田 剛
「タイのクメール建築 2:プラサート・ムアン・シン、最西端のクメール建築」、
「史標」第3号(1991年3月3日)、pp. 27-30。

NARITA, Tsuyoshi
"Temples and Shrines in Laos: Vientiane and Luang Phabang" (in Japanese),
Shihyo 4 (June 6, 1991), pp. 1-8.
成田 剛
「ラオスの社寺建築:ヴィエンチャンとルアン・パバーン」、
「史標」第4号(1991年6月6日)、pp. 1-8。

NARITA, Tsuyoshi
"The Pentagonal Monuments of Pagan" (in Japanese),
Shihyo 5 (September 9, 1991), pp. 19-26.
成田 剛
「The Pentagonal Monuments of Pagan」、
「史標」第5号(1991年9月9日)、pp. 19-26。

NARITA, Tsuyoshi
"Residential Architecture in Malaysia: Folk House Park, Mini Malaysia" (in Japanese),
Shihyo 6 (December 12, 1991), pp. 23-28.
成田 剛
「マレーシアの住宅建築:マレーシアの民家園、ミニ・マレーシア」、
「史標」第6号(1991年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 3: Khao Phra Viharn, Part 1" (in Japanese),
Shihyo 8 (June 6, 1992), pp. 23-26.
成田 剛
「タイのクメール建築 3:カオ・プラ・ヴィハン(その1)」、
「史標」第8号(1992年6月6日)、pp. 23-26。

NARITA, Tsuyoshi
"From the Recent Activity and thought" (in Japanese),
Shihyo 10 (December 12, 1992), pp. 5-8.
成田 剛
「最近したこと考えたことから」、
「史標」第10号(1992年12月12日)、pp. 5-8。

成田剛氏の命日となった2014年2月8日の土曜日、東京は記録的な大雪でした。その一週間前にはカンボジアのバプーオン遺跡の保存修復に力を尽くしていたPascal Royèreが病死したというメールの通知がフランス極東学院(EFEO)から届いたばかりでした。
以前、パスカル氏の現場に「一緒に行きましょう」と成田氏の御厚意により連れて行ってもらい、視察したこともあったのですけれども、その2人とも亡くなってしまいました。
クメール建築に関わった日本の専門家と言えば、長年にわたり研究を進められてきた片桐正夫先生が2012年に亡くなられ、またバンテアイ・クデイの建築に関し調査を続けられてフランス語で博士論文を執筆した荒樋久雄氏も2004年に命を落とされています。
JSAの現地所長を務めた桜田滋氏も2009年に急逝しました。JSA団員の小榑哲央氏が2002年、交通事故によって亡くなったことも記憶に強く残っています。
いつも元気であった成田剛氏が亡くなるとは、まったく思っていませんでした。

CiNii成田剛氏が執筆した学術論文はネットで検索できますが、実は他にも2000年以降に書かれた、公にされていないレポート類がたくさん存在するように思われます。それらにも陽の光が当たる機会があったらと願っています。これまで撮り貯めて来た遺跡の写真類をすべてデジタル化した、とも言っていました。
昔、「ガーリック・チップス」の2階で共に良く飲みました。当時は溌剌としたサッカー青年でもありましたっけ。
去年の7月26日の夜、成田氏と黒河内氏、当方の3人で飲みました。それが彼と会った最後の機会となりました。残念です。

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2015年2月8日、追悼文集が御両親の編集によって上梓されました。

成田十次郎・瑳智子
「東南アジア仏教遺跡の保存修復にかける ―追憶 成田剛―」
文教社、2015年、177 p. + XXVII

2013年5月4日土曜日

岡田 1909


「紀伊和歌浦明細新地図」も、経緯がよく分からない出版物です。多色刷(墨色、山吹色、淡藍色)の地図で、和歌山県立図書館の他、和歌山市立博物館などが初版を収蔵。

岡田久楠
「紀伊和歌浦明細新地図」
岡田久楠
明治42(1909)年11月
54×39 cm

和歌山市立博物館「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年、96 p. は額田雅裕・太田宏一・寺西貞弘各氏による労作で、貴重な図版が多数収められており、研究者必携の書。この本の52ページに図51として「紀伊和歌浦明細新地図」はカラーで掲載されています(解説文は90ページ)。「あしべ屋本店」の他に、「あしべ屋別荘」が2箇所に記されている点が重要(cf. 塩崎 1893濱口 1919)。
この地図は何としても個人的に入手したいと思い、願いは叶ったのですが、ただ「和歌浦、その景とうつりかわり」に載っているものとはいくらか違いが認められ、若干手直しがなされたものも初版として頒布されていたようです。

島津俊之
「経験とファンタジーのなかの和歌の浦:田山花袋『月夜の和歌の浦』を読む」
空間・社会・地理思想14(2011年)
pp. 41-67
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space14/14_41shimadu.pdf

の論文の最後にも、「紀伊和歌浦明細新地図」の部分拡大図は掲載されています。この「紀伊和歌浦明細新地図」は和歌山市立博物館に所蔵されているもの。和歌山市立博物館蔵の裏面には、「遊覧記念 和歌浦 明光台」という丸いスタンプが押印されているのが面白い。このエレベーターに乗り込んだ時の記念として地図は用いられたんでしょう。しかしこの初版には、明光台が描かれていないわけです。

明治43(1910)年7月には再版が出ているらしく、香川県立ミュージアムが鎌田家資料の中のひとつとして収蔵しています。その紹介写真を見ると、望海楼が立てた東洋一のエレベーター「明光台」が描き込まれているようです。このエレベーターの築造は明治43(1910)年ですから、ただちに地図の修正が施されたと推定されます。

香川県立ミュージアム所蔵「和歌浦明細新地図」、再版
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kanzouhinkensaku/index.php/rekishi/detail/500415

さて、岡田久楠はこの地図とは別の、変更を加えて題名を変えたものも後に刊行しました。これが

岡田久楠
「名所旅館案内和歌浦地図」
岡田久楠
明治45(1912)年6月

で、高低差はケバによってより細かく表現され、海深も等高線で示されるなど、「和歌浦明細新地図」の再版と全体の構成は酷似しているんですけれども、改変が施されています。多色刷ではなく、墨刷の版に旅館(赤色)や名所(青色)を手塗りによって簡単に彩色したもの。つまり、香川県立ミュージアムが持っている「紀伊和歌浦明細新地図」の再版ととても良く似ているのが特徴です。香川県立ミュージアム収蔵のものは、同様に墨版の単色刷りに赤色で手彩色が施されていると思われ、青色の手塗りはうかがわれない様子。
なお、

田中修司
「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」
日本建築学会計画系論文集第74巻第635号(2009年)
pp.291-97

の294ページと297ページで「紀伊和歌浦明細新地図」と「名所旅館案内和歌浦地図」が言及され、すでに両者の関連は簡単に指摘されています。なお、後者については日本古地図学会「古地図研究ニュース」第54号(2007年4月)の巻末に2枚に分けて掲載されており、p. 6には芳賀啓氏による解説も記されています。

この岡田久楠という人物はいったい何者かという話ですが、

金子郡平・高野隆之
「北海道人名辞書」第2版
北海道人名辞書編纂事務所
大正12(1923)年
660 p.+9 p.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734

の「札幌市を之部」、38-9ページに「旧姓は貴志。明治17年3月28日、和歌山県和歌山市小松通六丁目生まれ」の岡田久楠が掲載されています。明治42年は彼が20歳半ばの頃に相当しますけれど、北海道勤務ですから、普通なら和歌浦の詳しい地図を作ることはできなかったはず。しかし一方で、優秀な土木技師であったらしい彼の手にかかれば、こうした地図を短期間でこさえることは可能であったようにも思われます。

纏めますと、「紀伊和歌浦明細新地図」の初版には少なくとも2種類あること、「再版」と称する1年後の改訂版があり、そこには良くも悪くも評判となった「明光台」エレベーターの存在が反映されていること、さらには似た構成の「名所旅館案内和歌浦地図」が出されており、これが「紀伊和歌浦明細新地図」の第3版に相当するらしいこと、さらには著者の岡田久楠と同じ名を持つ和歌山市生まれの土木技師が北海道で同時代、活躍した記録が残っているが、関連性は今ひとつ確認できないこと、となります。
100年ほど前のことが、もう詳しく分からなくなっています。

2013年5月3日金曜日

濱口 1919


この本も近代の和歌浦を見る上で面白い冊子。やはり国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができます。
巻頭には折込で地図が挿入されており、表面も裏面も藍色と赤色の2色刷です。地図はこの頃すでに開通していた路面電車の路線図を兼ねており、路線と停留所、及び名所の地点が赤色で示されています。
目次を以下に書き写しましたが、旧字は改めました。ノンブルは38まで認められますけれど、実際はノンブルのない10ページ以上の広告がさらに追加されています。

濱口彌浜口弥 はまぐちわたる
「名所案内 新和歌浦と和歌浦(和歌浦と新和歌浦)」
枇榔助彌生堂、大正8(1919)年

参照:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961926

目次:
折込地図 表 和歌浦新和歌浦略図
同 裏 和歌山市街略図

和歌山城(写真) 2
和歌山より和歌浦口 3
高松根上り松(写真) 4
愛宕権現及貌口石 5
弥勒寺及亀遊石 5
新和歌浦全景(写真) 6
秋葉山と鶴立島 7
和歌浦口より新和歌浦 7
和歌浦汽船乗場(写真) 8
鷹の巣(写真) 10
新和歌浦の景趣 11
天神磯(写真) 12
望海楼 13
新和歌浦の怒涛(写真) 14
米栄別荘、支店 15
大島中の島双子島(写真) 16
仙集館 17
新和歌浦の勝地 17
東照権現(写真) 18
鷹之巣 19
玉津島神社(写真) 20
新和歌浦より和歌浦 21
東照権現 21
下り松(写真)
和歌浦口より和歌浦へ 23
あしべや及妹背別荘 23
不老橋と塩釜神社 24
不老橋より三断橋、妹背、旭橋を望む(写真) 26
望海楼址碑 27
観海閣と多宝塔(写真) 28
妹背山、題目石、観海閣 29
紀三井寺全景 30
多宝塔と鶴駕飛降碑 31
和歌浦より紀三井寺へ 32
紀三井寺 32
附近の名所古蹟 33
和水電車線路 34
城東館 35
著名なる物産土産物 36

和歌山城からまずは新和歌浦へと進んで行き、そこから和歌浦に戻り、さらに紀三井寺へ至るという旅程を念頭に記されています。新和歌浦が先に触れられますが、しかし本当に書きたかったのはむしろ和歌浦であったらしく思われる内容。
塩崎 1893のところで述べた論考でもこの本については引用しており、それは国会図書館の近代デジタルライブラリーを通じて読んだのですけれども、その後に比較的安価で入手することができたので、薮清一郎による広告の部分と妹背別荘の写真を実見しようと思い、届いた本を開いてみたら、該当部分にその広告がありませんでした(!)。
ショック。

もともと薮清一郎による「あしべ屋」の広告、特に妹背別荘の存在を強調したページにはノンブルがなく、24〜25ページの間に差し挟まれた格好です。しかしこの欠損がただの落丁ではないことは、巻頭の地図に加工がなされている痕跡より推察することができ、近代デジタルライブラリーで見られる地図に記載のある「あしべ屋」、「望海楼」、「仙集館」といった旅館の名称が、当方の入手した版ではことごとく削除されています。代わりに「米栄(こめえい)」の支店と別荘の名はひと回り大きい赤い文字で印刷されていました。14〜15ページの間の、ノンブルのない広告も大幅に入れ替わっており、「望海楼」と「仙集館」に関する案内が削除されています。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、表紙で「名所案内 和歌浦と新和歌浦」と印刷されているにも関わらず、一頁において「新和歌浦と和歌浦」という題で始められているせいか、「名所案内 新和歌浦と和歌浦」として公開されているという不思議なところがあります。そのため、近代デジタルライブラリーで「和歌浦」と「新和歌浦」の順番を入れ替えた「和歌浦と新和歌浦」を検索しても、該当するものが出てきません。
当方が所持するものの表紙の題名は「名所案内 新和歌浦と和歌浦」で、奥付は近代デジタルライブラリーにてうかがわれるものとまったく一緒です。また後表紙には「米栄別荘 米栄支店」の文字が。

従ってこの本については、「あしべ屋ヴァージョン」と「米栄ヴァージョン」とがあるということになるでしょう。でも、他にもヴァージョンがあるのではないか。その疑念は全部を見ないと拭えません。少なくとも国会図書館関西館と和歌山県立図書館が所蔵している模様。
しかし「あしべ屋」と「米栄」とが組んで2種類の本を作ったのであって、他の版はないのではと考えることもできそうです。というのは、「和歌の浦名勝拾貳景」という同じ題名を有する一枚ものの刷り物で、「あしべ屋」と「米栄」は内容の異なる写真を並べたものを別々に出したりしているからです。このふたつの老舗の旅館は、共同して和歌浦の繁栄を模索したのではないでしょうか。

教訓としては、和歌浦に関する明治・大正時代の出版物にヴァリアントがあって、うかつに引用はできないということでしょうか。少なくとも、どこが所蔵している本なのかを明記する必要が出てくると思います。
こういう経験は初めてで、ナポレオンの「エジプト誌」、Description 1809-1818にいくつかのヴァリアントがあるとは聞いていましたけれど、明治時代の刊行物に見られるとは思い至りませんでした。この場合は「エジプト誌」のような彩色の有無ではなく、内容の変更も伴っているわけですから、慎重な検討が望まれます。文献の探索が一層面倒なことになるわけで、どこから手をつけたらいいのか、呆然としています。「紀伊和歌浦明細新地図」岡田 1909)も同様。

160ページ以上にわたって記述された2010年の和歌山県教育委員会和歌の浦学術調査報告書は重要。PDFを無償でダウンロードすることができます。示されている和歌の浦に関する詳しい年表は、特に参考になります。「和歌山市史」の改訂簡略版に相当。

3ページでは執筆の担当を明記しており、「第2章第1節地質を吉松敏隆、第2節植生を高須英樹、第3節生物を古賀庸憲、第4節地理的環境と考古資料を和歌山市教育委員会前田敬彦、第4章第3節(2)を菅原正明、第4章第3節 4. 第4節近現代を米田頼司、その他は県教育委員会が作成した案の監修を、古代を村瀬憲夫、中世を柏原卓、近世を藤本清二郎、米田頼司、庭園に関しては高瀬要一が行い、総括を水田義一会長が行うこととした」とあって、錚々たる執筆陣です。

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2013年12月6日追記:
その後、「あしべ屋ヴァージョン」や「米栄ヴァージョン」の他に、「望海楼ヴァージョン」も存在することを知りました。和歌浦の旅館の歴史を調べるに当たっては、こうした異本が数種類ある点を前提に研究を進めることが今後、求められるかと思われます。