2009年8月28日金曜日

Crema 1959


古代ローマ建築を包括的に扱った書で、きわめて充実した内容を示しています。G. ルッリの有名な本、Lugli 1957に2年遅れて出版されていますが、建造技法に関して良く纏められています。

Luigi Crema,
L'architettura romana.
Enciclopedia Classica, Sezione III:
Archeologia e storia dell'arte classica, volume XII.
Archeologia (Arte romana)
(Società Editrice Internazionale, Torino, 1959)
xxiii, 688 p.

古代ローマ建築の研究書は充実しているという点を、こういう本を見るたびに改めて感じ入ります。
ローマ建築全般をできるだけ広く扱おうとしている本で、この傾向もまた非常に珍しい。たいていの本はローマ帝国の本拠があった中心都市ローマの建築を扱うことにとどめられるのですが、ここでは北アフリカやレヴァント、小アジアなど、諸地域の遺構にもきめ細かく目が配られています。こういうところは、Lugliの本には見られません。
しかしこのような広域を網羅しようとするには膨大な作業が強いられ、今日ではもう、この改訂版を望むことは無理かもしれません。

図版は小さいながらも、驚くべきことに844点も収められています。
絶版を迎えて久しく、入手はほとんど困難な本ですが、再版の刊行が強く望まれます。
エジプト学で言うと、Vandierのマニュアルと同じような位置を占めている本。
ひとりでこういう内容のものをどうやって書くことができるのか、いつも不思議に思い、胸を打たれます。

Lugli 1957


古代ローマ建築の技法を述べた書として重宝な本。分厚い2冊から構成されています。ローマ建築の建造技術についてはJ.-P. アダムが近年、仏語版と英語版で良い本を出していますが、この伊語版も重要。
考古学者はこの伊語の本を引用することが少なくありません。

Giuseppe Lugli,
La technica edilizia romana, con particolare riguardo a Roma e Lazio, 2 vols.
(Presso Giovanni Bardi Editore, Roma, 1957)
Vol. I: Testo, 743 p.
Vol. II: Tavole, 210 tavole + 19 p.

再版も出ています。
文章編で700ページを超え、これに写真図版編がつきます。
古代ローマ建築がどのように計画され、建造されたかについては、すでに紀元前1世紀の建築家ウィトルウィウスがラテン語で「建築書」を書き残しており、これが世界最古の建築書となります。ウィトルウィウスの本は日本語訳も出ているほど、見逃せない基本史料。

こうした歴史もあって、古代ローマ建築についてはかなり古くから、技法の研究がおこなわれてきました。エジプトなど他の地域における石造建築の技法を考える場合でも、必ずといって良いほど古代ローマ建築が参照されるのはこのためです。古代ローマ建築の技法に関しては、一番研究が進んでいます。

しかし出版後、50年以上が経っており、改訂すべき点が出てきているのは事実です。建材の積み方でおおよその時代が判別できるという見方には異議も唱えられ始めています。
けれども文章編の中の図版も充実しており、今なおその生命を終えていません。
同じく伊語で書かれたCrema 1959とともに、研究者必携の書に挙げられます。

2009年8月27日木曜日

Gourlay 1981


トリノ・エジプト博物館展で、手箒を見て思い出した本。植物繊維を用いて造った箒やサンダル、籠、ロープ、マット、網などの類が研究されています。出土はディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)で、ここは新王国時代の「王家の谷」の墓を造営した職人たち(画工・彫工・石工など)が居住していた村。
ディール・アル=マディーナはフランス隊が長く調査研究を続けてきていますが、もともとはイタリア隊が調査をおこなった場所で、センネジェムの墓(TT 1)や、建築家カーとその妻のメリトの墓(TT 8)などの遺物が多量にトリノ・エジプト博物館でうかがわれるのは、イタリア人考古学者のスキアパレッリたちの活躍に負うところが大きい。

Yvon J.-L. Gourlay,
Les sparteries de Deir el-Médineh:
XVIIIe-XXe Dynasties
, 2 vols.
Documents de Fouilles de l'Institut Français d'Archéologie Orientale (DFIFAO), tome XVII/1 et 2.
IF 567A et B
(Publications de l'Institut Français d'årchéologie Orientale, Le Caire, 1981)

Vol. I: Catalogue des techniques de sparterie.
viii, 94 p., XII planches.

Vol. II: Catalogue des objets de sparterie.
v, p. 170, XXII planches.

Table des matières:
Préface, v
Introduction, vii
I. Balais de ménage, p. 1
II. Brosses et Pinceaux, p. 7
III. Garnissage ou revêtement de meuble, p. 13
IV. Cordes et noeuds, p. 21
V. Postiches, p. 27
VI. Nattes, p. 33
VII. Sacs et résilles, p. 37
VIII. Sandales de cordes, p. 55
IX. Anneaux, p. 65
X. Vannerie, p. 69
Indices, p. 157

多種多様の品々が登場し、第1巻では特に技術を扱っているために、例えば上野のトリノ博物館展で展示されているような手箒の作り方が2〜4ページで紹介されています。漁網や、椅子の座に張られるマットも含まれ、豊富な図版によってそれらの作り方が紹介されている他、壁画で見られる籠類も図版に収められています。
W. Wendrichによる研究書のさきがけ。大英博物館が収蔵する縄や籠の類の報告は、また別に出版されています。

IFAOからたくさん出ているディール・アル=マディーナの報告書を全部揃えることは難しく、1930年代中葉までのものが特に品薄です。日本で一番多く持っているのはたぶん東海大学湘南キャンパスの図書館で、次に早稲田大学の本部図書館でしょうか。
B. Bruyèreが執筆した村に関する厚い報告書は、建築学的には非常に重要。時代が降るとともに村が拡張されていく過程が図示されています。

López 1978-1984 (O. Turin)


トリノ・エジプト博物館に収蔵されている遺物をすべて掲載している書物はまだ存在していません。歴史ある博物館では悩ましい共通した問題。図版を交えてそれらの抜粋が本でまとめて紹介されたのは1963年で、その英訳が2年後にニューヨークから出ています。

Ernesto Scamuzzi,
Museo Egizio di Torino
(Edizioni d'Arte Fratelli Pozzo, Torino, 1963)
CXIV tavole.

Ernesto Scamuzzi,
translated by Barbara Arnett Melchiori,
Egyptian Art: In the Egyptian Museum of Turin
(Harry N. Abrams, New York, 1965)

パピルスに描かれた王家の谷の墓の平面図がカラーで紹介されたりしており、建築学的には貴重な図集。ただ、これらはページが打たれていない本で、いささか使いづらい書です。
それでも、比較的詳しい記述がうかがわれ、きわめて有用。

Leospo 2001のところで述べた通り、Donadoni Roveri (ed.) 1988-1989の3巻本がその後に出ていますが、これはトリノ・エジプト博物館にある遺物を使ってエジプト文明をさらに詳しく系統的に解説しようとしたもので、遺物そのもののカタログではありません。博物館収蔵の遺物のカタログの刊行は別に、それと並行して当時、すでに始められています。
このカタログは、

Il Catalogo, Serie I - Monumenti e Testi
Il Catalogo, Serie II - Collezioni

のように、大きくふたつのシリーズに分かれています。
後者に属する代表的な例が、以下に示すオストラカ(石灰岩片や陶片に文字や絵を書いたもの)のカタログ。ヒエラティックの文字列が記されたものを扱い、4巻本です。

Jesús López,
Ostraca ieratici, 4 fascicoli.
Catalogo Generale del Museo Egizio di Torino (CGT):
Serie II (seconda) - Collezioni, Volume III, Fasc. 1-4.
(Istituto Editoriale Cisalpino, Milano, 1978-1984)

Fascicolo 1: Ostraca ieratici, n. 57001-57092 (1978)
54 p., tavole 1-50.

Fascicolo 2: Ostraca ieratici, n. 57093-57319 (1980)
82 p., tavole 51-100.

Fascicolo 3: Ostraca ieratici, n. 57320-57449 (1982)
54 p., tavole 101-150.

Fascicolo 4: Ostraca ieratici, n. 57450-57568 / Tabelle lignee, n. 58001-58007 (1984)
57 p., tavole 151-210.

2年おきに1冊ずつ刊行。図版を50葉ずつ出したことが良く分かります。黒と赤との2色刷を用い、実際のもので見られるインクの色の違いの様子を忠実に表現しようとしています。
ディール・アル=マディーナから出土してフランス隊が報告しているもの(O. DeM)、カイロ博物館にあるもの(O. Cairo)、大英博物館に収められているもの(O. BM)と並んで、重要な史料集。新王国時代の石灰岩のオストラカというのは主にテーベからしか出土しておらず、これらは基本的にディール・アル=マディーナ学ともいうべき特殊な領域の史料を構成しています。
オストラカの見つかり方には斑があって、例えばとても長生きしたラメセス2世時代に属するとはっきり判別されるものというのは、不思議なことに相対的には数がそれほど多くありません。J. Janssenの指摘。"Funerary cone"というのも、テーベからしか見つかっていませんでした。思えば不思議な地域です。

著者はカルナック神殿から見つかったタラタートの書きつけについても報告しており、10個にひとつの割合でチェックのために記されているのではないかという指摘が面白い。

Jesús López,
"Inscriptions hiératiques sur les talâtât provenant des temples d'Akhénaton à Karnak",
Cahiers de Karnak VIII (IFAO, Le Caire, 1978), pp. 245-270.
(Cf. Kramer 2009, col. 18)

この報告では、アマルナで見つかりながらも、読解が進められていなかったヒエラティックについても訳を提示しており、City of Akhenatenのシリーズ、つまり CoA I-III, 4 Vols. (1923-1951) の記述内容を一部補完しています。

追記
トリノ博物館の収蔵品をカラーで紹介しているハンディ・サイズのガイドブックとしては、Vassilika 2009が新しく出ています。(2009.10.18)

Leospo 2001


古代エジプトにおける木製の遺物のすべてを扱っているかのようなタイトルですが、家具がかなり含まれています。仕口と継手の図示が注目されるところ。
カラーページが豊富に掲載されており、大変見やすい構成。トリノ・エジプト博物館に収蔵されているものが紹介されている冊子です。
イタリアには保存状態の良い古代エジプトの家具が収蔵されていて、これは主として19世紀頃にエジプトへ行ったイタリア人たちの功績です。しかしその詳細が世界にあまり知られていません。もはや出土場所も分からないものが少なくないとは言え、ボローニャやフィレンツェなどの博物館はとても良い家具を持っています。
特にトリノには、建築家カーの墓に収められていた家具が一式揃っていて、見応えがあります。E. スキアパレッリによるディール・アル=マディーナ調査の成果。墓の木製戸口まで取り出し、イタリアに持ち帰っており、驚かされます。
この博物館には巨大な遺物はあんまりないのですが、王名パピルスや、王家の谷の墓の平面図が描かれたパピルスなどが展示されており、これらは非常に貴重。

Enrichetta Leospo,
The Art of Woodworking.
Quaderni del Museo Egizio
(Electa, Milano, 2001)
54 p.

しかしこの本は、別に出されている3巻本の"Daily Life"の巻の中でうかがわれる内容とそっくりで、下記の3冊を御存知であるならば見る必要はありません。トリノが収蔵している名品をカラーで紹介しながら信仰や日常生活、記念建造物などを述べたシリーズで、良くできています。

Anna Maria Donadoni Roveri ed.,
Egyptian Museum of Turin: Egyptian Civilization, 3 vols.
(1988-1989).

Religious Beliefs
(Electa, Milano, 1988)
261 p.

Daily Life
(Electa, Milano, 1988)
262 p.

Monumental Art
(Electa, Milano, 1989)
261 p.

トリノ博物館は現在、大規模な展示の模様替えを模索しているところ。館長が替わり、出版にも今後、力を入れたい様子です。
トリノ博物館から出ているカタログは刊行中。

Catalogo generale del Museo Egizio di Torino (CGT)

と呼ばれ、これも日本ではなかなか全部が揃えられていない出版物であるように思われます。

http://www.archaeogate.org/egittologia/article/187/1/il-catalogo-generale-del-museo-egizio-di-torino-a-cura.html

では、CGTの経緯や既刊分のリストを4ページにわたってイタリアのエジプト学者A. Roccatiが説明。Moiso (ed.) 2008のところでも、この既刊分のリストについては触れました。

2009年8月26日水曜日

Bellinger 2008


古代エジプトの庭園に関する本が久しぶりにまた出たかと思ったら、思わぬ展開。
庭園史において古代エジプトや西アジアの庭園は最初に記述され、専門書も出ています。この本はしかし、別の趣向を求めている模様。

John Bellinger,
Ancient Egyptian Gardens
(Amarna Publishing, Sheffield, 2008)
(vii), 195 p.

Contents:
Acknowledgements, p. 1
Foreword (by Kay Bellinger), p. 3
1. An Introduction to Egypt, p. 5
2. The Beginnings of the Formal Garden, p. 13
Egyptian Gardens, p. 13
Assirian Gardens, p. 31
Babylonian Gardens, p. 33
Persian Gardens, p. 35
Greek Gardens, p. 40
Roman Gardens, p. 42
Indian Mughal Gardens, p. 49
Islamic Gardens in Spain, p. 52
Medieval Gardens, p. 56
3. Plants and Flowers Portrayed in Art, p. 61
4. Gardeners in Pharaonic Times, p. 69
5. Plants for All Purposes, p. 73
6. Your Own Egyptian Garden, p. 169
Bibliography, p. 189
List of Illustrations, p. 193

エジプトの庭園が大急ぎで論述されています。
各時代の壁画、あるいは中王国時代のメケトラーの木製模型などが文中で扱われますけれども、図版が紹介される例は少数。テル・エル=ダバアにおける発掘調査の成果は無視。アマルナにもおざなりに言及しますけれども、アマルナ型住居における庭園については語りません。
エジプト以降の古代・中世の庭園を扱っていることが分かりますが、中途半端で、例えばミノアの庭園などには触れられていません。クノッソス宮殿における庭園についてはShaw夫妻のどちらかが論考を発表していたはず。
最後の第6章の題を見て、ようやく目的が分かります。

"In order to produce an ancient Egyptian garden in the UK it is important to consider the possible problems that are to be overcome in order for it to succeed. The climate of the British Isles is temperate and fairly cool compared with the sub-tropical conditions experienced in Egypt."
(p. 169)

つまり、イギリスでエジプト風庭園を造りたい人に向けての簡単な手引き書で、気候を無視したやり方を教える本。
謝辞にはRosalie Davidの名が最初に挙げられています。

古代エジプトの庭園に関しては以下の2冊が基本で、良く引用されます。

Jean-Claude Hugonot,
Le jardin dans l'Égypte ancienne.
Publications Universitaires Européennes, Série XXXVIII, Archéologie, Vol. 27
(Verlag Peter Lang GmbH, Frankfurt am Main, 1989)
viii, 321 p.

Alix Wilkinson,
The Garden in Ancient Egypt
(The Rubicon Press, 1998)
xvii, 206 p.

前者は入手が今ではけっこう難しい。
ボストン博物館が出した展覧会のカタログ、

Edward Brovarski, Susan K. Doll, and Rita E. Freed eds.,
Egypt's Golden Age:
The Art of Living in the New Kingdom 1558-1085 B.C.

(The Museum of Fine Arts, Boston, Boston, 1982)
336 p.

にも「庭園」の項目があって、見逃せません。

2009年8月24日月曜日

Assaad and Kolos 1979


ツタンカーメン王の墓で発見された遺物にうかがわれるヒエログリフの文字列を、分かりやすく読んでいくという薄い冊子。初めてエジプトへ行った時にはこの本がルクソール東岸のガッディス書店に並んでおり、ヒエログリフを自習する上で当時はたいへん役に立ちました。

Hany Assaad and Daniel Kolos,
The Name of the Dead:
Hieroglyphic Inscriptions of the Treasure of Tutankhamun Translated

(Benben Publications, Ontario, 1979)
129 p.

最初に、ヒエログリフが横書きでも縦書きでも、また右から左にも、その反対に左から右にも書けるさまが示され、24からなるアルファベット表がこれに続きます。
巻末には、用いられている象形文字の説明を所収。ガーディナーによるサイン・リストの簡略版です。

本文では20ほどのさまざまな遺物が選択されて、それらに記された文字を次々と示していきます。第1行目にはヒエログリフが、第2行目には文字の音価を示すトランスリテレーションが、第3行目には発音が、第4行目には文字通りの意味が、そして第5行目にはこなれた訳が並びます。
ここまで丁寧に説明してくれる本というものは、いろいろと入門書が著されている今日でも少ないかもしれません。
文字の抜けや、本来の文字の順番とは逆になっている部分については註で触れています。王のための副葬品であるにも関わらず、けっこう間違いがあると言う意外な事実もこれで分かります。

専門家向けにはその後、ツタンカーメンの墓から出た遺物に記されたヒエログリフによる文字資料のすべてが一冊に纏められ、出版されています。グリフィス研究所から出されている、ツタンカーメン・シリーズの中の一冊。

Horst Beinlich und Mohamed Saleh,
Corpus der hieroglyphischen Inschriften aus Grab des Tutanchamun
(Griffith Institute, Oxford, 1989)
xvi, 282 p.

この墓からは少数のヒエラティックによる文字資料も見つかっていますが、それらはまた別にチェルニーが報告しており、グリフィス研究所から刊行されています。主として土器の肩に記された文字列。

ベンベン出版社は、カナダにおけるエジプト学関連の書籍を扱うところとして有名。
8ページには近刊書として、

Ancient Egyptian Plans, 2 vols.

という広告が掲載されており、第1巻では都市、城塞、神殿の図面が、また第2巻では主要な墓とピラミッドの図面が集められて出版される予定であったらしいのですけれども、惜しいことにまだ刊行されていない模様です。

2009年8月22日土曜日

KRI (Kitchen, Ramesside Inscriptions) 1969-1990


古代エジプトの第19王朝と第20王朝とをあわせて「ラメセス時代」と言われますが、この間の歴史的な文字資料を集成した膨大な量の文献。8巻で総計が3000ページを超えています。8巻目は索引ですが、それ以外は全部、ヒエログリフを手書きで筆写しています。

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions (KRI): Historical and Biographical, 8 vols.
(B. H. Blackwell, Oxford, 1969-1990)

Vol. I: xxxii, 416 p.
Vol. II: xxxii, 928 p.
Vol. III: xxxii, 848 p.
Vol. IV: xxxii, 448 p.
Vol. V: xxxii, 672 p.
Vol. VI: xxxii, 880 p.
Vol. VII: xxxii, 464 p.
Vol. VIII: viii, 264 p.

この時期の文字資料はあまりにも数が多すぎて、纏める人が出てこなかったのですが、長い年月をかけて出版が実現されました。現在においてもラメセス時代に属する文字史料は、発掘調査の進展に伴い、増え続けているわけで、終わりのない仕事。

当初は1960年代の末から各巻はいくつもの分冊にて刊行。それ故、初版の刊行年次は複雑です。
さらにこのKRI(7巻+索引)には、題名が似ている続編があって、英語への翻訳を扱うRITAと、注釈を記載したRITANCの2つのシリーズがそれぞれ対応して7巻ずつ、刊行の予定。早稲田隊によるアブシール調査で発見されたカエムワセトの石造建造物に関しても、ある程度、成果を反映させています。
書店のサイトで検索すると、あまり正確ではない近刊の予告も含まれる場合があります。ものすごく情報が錯綜していて、もう何が何だか分からなくなっているのはこうした以上の理由のため。

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions: Translated and Annotated.
Translations
(RITA)
(Blackwell, Oxford, 1993-)

現在、第5巻(2008)までが刊行。この最新刊の目次と書評については

http://www.bmcreview.org/2009/07/20090762.html

などを参照。一方、

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions: Translated and Annotated.
Notes and Comments
(RITANC)
(Blackwell, Oxford, 1993-)

のシリーズは、第2巻(1998)までが既刊。
KRIの最初の巻が出てから40年が経ちますが、今なお、独力で進められています。信じ難い仕事です。

最初はRITARITANCが交互に出されていたのですが、最も重要であるとみなされるラメセス2世時代を記したRITANCの巻が刊行された後、近年では英訳を扱うRITAのみが先行して出版されるようになりました。時間がより必要とされる注釈を後回しとし、仕事のやり方を変えたのだと思われます。
Kitchenはもうすぐ80歳。

Málek 1986


古代エジプトの彫像(人間の姿の彫刻像)は、死んでミイラにされた時の状態をあらわすのであれば両足が揃っていますけれども、それ以外の場合は何故、右足ではなく左足を前に出していることが多いのか。良い質問を数日前に学生のKimieさんから書き込んでいただいて、これが日本語であまり詳細に説明されていないことに気づきました。
古代エジプトに詳しい方ならば、エジプトでは「左」よりも「右」が重視されたという点は御存知のはず。「王の右側の羽扇持ち」、という重要な役職名もありました。ならば、右足を前方に出すはずではないのか、という疑問が当然出てくるわけです。
今、イタリアのトリノ・エジプト博物館展が上野で開催されていますから、改めて注意して見ると良いかもしれません。

この問いに関しては、博覧強記で有名なエジプト学者J. マレクが見解を書いています。エジプトのあらゆる遺跡の情報を集めようとしている、通称「ポーター&モス」(Porter and Moss, 8 Vols.)と呼ばれる基礎台帳のシリーズの編集者として広く知られている人。面白い説明の仕方なので、ちょっと長くなりますが書き写しておきます。

Jaromír Málek,
photographs by Werner Forman,
In the Shadow of the Pyramids:
Egypt during the Old Kingdom

(Orbis Book Publishing Corporation, London, 1986;
The American University in Cairo Press, Cairo, 1986;
reprint, University of Oklahoma Press, Norman, 1992)
128 p.

"Already the earliest male standing statues invariably show the left foot advanced in the typically Egyptian 'flat-footed' posture. There are two reasons for this: the favourite 'main' direction in Egyptian two-dimensional art, as well as writing, was for figures and hieroglyphs to face right, while one of the basic representational rules was that none of the important elements should be obscured. For the Egyptians the ideas of completeness and perfection were almost identical. If we imagine two people of the same height, both facing right, represented side by side on the same base-line, it has to be the person farther away from us whose face is projected slightly forward of the face of the nearer person. If represented differently, the man's face, his most characteristic feature, would be obscured. In the case of the feet of a man standing facing right it is the left foot which is shown slightly advanced, even if the person is just standing, not striding. A sculptor started to make a statue by sketching its profile on a stone block from which he was going to carve, and thus introduced this element into three-dimensional sculpture."
(p. 54)

これが碑文も読めて美術史にも詳しいエジプト学者の解釈。彼が著したエジプト美術に関する本は、和訳も出ています。
ヒエログリフは右から左にも、また左から右にも書くことができましたが、正式には右から左に記す書式が尊ばれました。この時、文字自体は右向きとなります。レリーフなどを含む絵画表現においても、この決まりが適用されたらしく思われます。右向きに重きが置かれると言うことです。

一方、絵画などにおいて、古代エジプト人はもののかたちを、見える通りではなく、知っている通りにあらわそうとしました。記憶に残る、重要で特徴的なことを全部描こうとしたわけです。人体の場合には、腕や足が2本ずつあることの明示が大切であったようです。このために、右向きの立った人物像が描かれた場合、顔は右向きながら、胴体は正面を向いて2本の腕が伸びる様子がはっきりとあらわされ、また歩くポーズではなくて、ただ立っている時でさえも、奥にある左足が少し前に出されて、手前に描かれた右足とともに両足が描写されます。

右向きの立像の図ですから、右足が観察者の手前に描かれます。奥にある左足を、右足の左に描写する、つまり左足の「かかと」を右足のかかとの左に描くのではなく、左足の、「かかと」よりも普段見慣れた特徴的なかたちである「つま先」を右足のつま先の右に描くという点に注意。この時、足の親指の爪まで描かれることが多い。
マレクは人の顔で説明していますが、事情は同じです。

つまり3次元の立体表現である彫刻の像の場合でも、「古代エジプトでは右が優先されているのだから右足の方が前に出て然るべきではないか」ということではなく、たとえ正面から眺めるべきものであっても、像の全体には「右向きの格好で見られることへの尊重」が勘案されており、この際には左足が前に、右足が後ろになる姿勢が取られます。ここにはエジプト人が大切なことを最大限に表現しようと注意を払った痕跡がうかがわれ、とても興味深い。
寝そべった姿をしたスフィンクスの彫刻で、尻尾の見える側面の方が重要なのだと見学会で以前、説明したこともありましたが、この話題と重なります。

Gay Robinsによるエジプト美術の本を紹介したことがありましたけれど、そこでも

"The primary orientation in two-dimensional art for hieroglyphs and figures was facing to the viewer's right. However, both could be reversed to face left as the occasion demanded."
(Robins 1997, p. 24)

と書かれており、ここでまたもや引用されているのが、Henry George Fischerによる1977年の本。「方向の逆転」という題を持つ、大変楽しい本ですが、残念なことに第1冊目が出ただけで終わってしまいました。
古代エジプトのさまざまな場面において「右」が優先されるということは良く知られていますから、立像などの三次元の立体的な表現においても、右足を前に出すのではという発想を誰もが抱きがちです。しかし実際の彫刻作品では逆であるわけで、そのためにいろいろな説がまことしやかに語られて流布している、そういうことだと思われます。
左右の逆転という話題は、本当に面白い。対象物(ここでは立像)を中心に考えるか、それともそれを見る人の視点を中心に考えるかによって、左右が入れ替わります。

エジプト美術については下記の古い本が今なお、基本文献と思われます。大美術史家ゴンブリッチの序文付きで、ベインズが適宜情報を補って英訳。

Heinrich Schäfer,
edited by Emma Brunner-Traut, translated and edited by John Baines,
foreword by E. H. Gombrich,
Principles of Egyptian Art
(Griffith Institute, Oxford, 1986, reprint, with revisions of first English edition.
First published in 1919, "Von ägyptischer Kunst", Leipzig.
Fourth edition, Otto Harrassowitz, Wiesbaden, 1963.
First English edition, Oxford, 1974)
xxviii, 470 p., 109 plates.

500ページ近くもある大著。中が4つに仕切られている器を、古代エジプト人はどう絵に描いたかなど、興味ある指摘がたくさん書かれています。サイバー大学福岡キャンパス附属図書館にも収蔵されています。図版多数。

さて、現在ではGoogle booksという、書籍の全ページではないけれども、厖大な数の本をスキャンしたものが公開されていますから、時折、知りたい内容がヒットすることもあります。

グーグル・ブックス
http://books.google.com/

のページで検索用の小窓に、

egyptian statue & left foot & reason

と入力して検索してみると、マレクの本を含む記述が多く出てきます。上記の引用文も、これを参照しました。
キーワードの選択がここでは重要。最適の言葉を複数、選ばなければなりません。でないと文献の山に溺れてしまいます。
あとはその中から、名の知れた学者が書いたものを参照すればいいかと思います。
こういうのは、根気よく、いろいろと試してみるのが一番。

グーグル・スカラー
http://scholar.google.co.jp/

もありますが、こちらは論文の題名や最初のページしか出てこないことが多く、自宅のコンピュータでキーボードを叩いて使いこなすのは難しい。アクセスに制限があるからです。もちろん電子化された多数の学術雑誌へのアクセスが可能となっている研究機関の図書館では有用。書評なども含まれています。

2009年8月20日木曜日

Rousseau 2001


エジプトのピラミッドがどう計画されたかを問う書。著者は教職につきながら、技術者・建築家として活躍した人です。

Jean Rousseau,
Construire la Grande Pyramide
(L'Harmattan, Paris, 2001)
222 p.

Sommaire:
Introduction, p. 7

Premiere partie: Les tombes egyptiennes de la prehistoire a Cheops, p. 17
Chapitre 1, Les tombes prehistoriques et thinites, p. 19
Chapitre 2, Les pyramides a degres, p. 29
Chapitre 3, Les pyramides de Snefrou, premieres pyramides veritables, p. 41

Deuxieme partie: La Grande Pyramide, p. 51
Chapitre 4, Presentation du complexe de Cheops, p. 53
Chapitre 5, La structure de la Grande Pyramide, p. 69
Chapitre 6, Le projet. Le choix du site, p. 77
Chapitre 7, L'implantation de la pyramide, p. 89

Troisieme partie: La production et le transport des materiaux, p. 97
Chapitre 8, L'extraction des materiaux de construction, p. 99
Chapitre 9, Le transport des dalles et des moellons, p. 107

Quatrieme partie: La construction de la Grande Pyramide, p. 115
Chapitre 10, La taille et la pose du parement. p. 117
Chapitre 11, Les procedes de construction, p. 135
Chapitre 12, Le demarrage du chantier, p. 165

Cinquieme partie: La conception "coudique" de la Grande Pyramide, p. 183
Chapitre 13, Les "regles" de l'architecture egyptienne, p. 175
Chapitre 14, Les plans "coudiques" de la Grande Pyramide, p. 183

Conclusion, p. 205
Annexes, p. 209
Bibliographie, p. 217
Index, p. 221
Sources des illustrations, p. 223

ピラミッドの寸法をもとにして、細かい数字が出てくる本です。またこの数字に対して「聖数(聖なる数)」を考えており、独特。

-les uns, le couple 17 et 19, le premier nombre etant plutot connote aux tenebres, a la mort, a Osiris (?); le second, a la lumiere, a la vie, a Re. Ces nombres, souvent associes, on les retrouve avec une frequence tres anormale dans les expressions les plus diverses de la culture egyptienne tout au long de ses trois ou quatre millenaires.

-les autres, d'origine calendaires, correspondent a la duree en jours des cycles annuals, a savoir:
348 = 29×12 jours (annee lunaire coutre), 354 = 59×6 jours (annee lunaire longue) et 384 jours, annee lunaire extra-longue a 13 mois, toujours en usage dans le Proche Orient et, en particulier, en Israel.
365 jours (73×5), 366 jours (61×6), annee bissextile deja connue du roi Djoser (cf. p. 31).
29, 59, 73 et 61 sont les nombres premiers caracteristiques de ces cycles. (p. 14)

などという記述が最初の関門。
「聖数」の整数倍がピラミッドの計画では採用されたであろうと考えられていて、完数(半端な値を持たない数。基本的に10、20、30といったようなまとまりを持つ数だが、3や5の倍数なども含まれる)で設計されたというモティーフそれ自体は了解されますが、暦や天文学、あるいは神学と結びつけられて思考が巡らされており、独自の解釈がおこなわれています。
天体の動きと記念建造物とを結びつける考え方は根強く、確かにそうした遺構もあると思われるのですが、果たしてピラミッドでどの程度まで天体の運行との関連が意識され、象徴的な意味が込められたのか、未だ統一した見解が出ていません。
ピラミッドの向きが正確に東西南北を向いていることが、天体の動きとの関わりがあった根拠のひとつとされていますけれども、365日という数との関連など、ここは充分な吟味が必要だと思われます。
当時、用いられた古代の尺度の数値と、暦の日数とを関連させる論法は他にもいろいろとありますけれども、建築を専門とする学徒の間では、あまり信用されていない考え方。

2009年8月14日金曜日

Ziegler (ed.) 2002


イタリア・ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシにて2002年の9月から12月にかけて開催された「ファラオ」という名の展覧会のカタログ。275点にのぼる遺物によって構成された展覧会です。カラー図版多数。内容もぜいたくな造りの分厚い本。

Christiane Ziegler (ed.),
The Pharaohs
(Rizzoli International Publications, New York, 2002)
512 p.

豪華な執筆陣が特色で、イタリア・フランス・ドイツ・アメリカ・スイスなどの有名な研究者たちが各節を分担しています。それらを纏めているジーグラーは、ルーヴル美術館古代エジプト部門長。最初の100ページで王朝の歴史が記されています。

The Pharaohs and History:
"The Predynastic Period", by Günter Dreyer, Christiane Ziegler
"The Old Kingdom", by Alessandro Roccati
"The Middle Kingdom", by Sydney H. Aufrere
"The New Kingdom", by David P. Silverman
"The Third Intermediate Kingdom", by Mamduh el-Damaty, Isabelle Franco
"The Late Period", by Edda Bresciani

錚々たる権威者たちによる通史で、展覧会のカタログとしては稀有な例。
この他、征服者としての王についてはNicolas Grimalが、宗教に関してはClaude Trauneckerが、建設者としての王についてはRainer Stadelmannが、王墓に関してはErik Hornungが執筆しています。いずれも第一級の専門家ばかりです。
164ページにはカルナック神殿の平面図が、建造時期別に、つまり王別に色分けされて提示されています。いざ探そうと思うと、こういう図はなかなか見つかりません。

メトロポリタン美術館のDorothea Arnoldが王宮建築に関して執筆しており、マルカタ王宮とネチェリケト王の階段ピラミッド複合体におけるセド祭のための広庭とを比較しています。内容は画期的で、residential palaceではないことが強調されています。
第3王朝と第18王朝の建物を、しかも機能がまったく異なるもの同士を比べるのは本当は無茶というものですが、セド祭関連の建物については類例がきわめて限られているために、こうした方法がおこなわれるわけです。しかしこの指摘はとても重要。

カタログの説明文のうち、388-389ページの部分だけが異様に長く、変わっています。"introduction"まで用意されており、ここだけがエジプト学者による執筆ではなく、古代遺物を出品したコレクター自身が書いた文章。本の編集者と、一悶着がどうやらあったことらしいことがうかがわれる箇所です。

年表がpp. 496-497に掲載されていますが、前半はJ. BainesとJ. MalekによるCultural Atlas of Ancient Egypt、また後半はJ. von BeckerathのHandbuch der ägyptischen Koenigsnamenを使っていることを小さく注記として印字しています。
こういうのも珍しい。古代エジプトでは絶対年代が用いられますが、いくつかの説があり、一致していません。異なるものをつなぎ合わせて使う例は、あんまりないかと思われます。

2009年8月13日木曜日

Hodges 1989


テレビ番組にもなったピラミッドの建造方法に関する新説。著者は1980年に亡くなっており、別の人によって草稿が出版され、この本となったのは9年後。
斜路がここでも検討されています。建築の仕事に携わった人ですから、技術的な話が多いのが特徴。

Perter Hodges,
edited by Julian Keable,
How the Pyramids were Built
(Aris and Phillips, Warminster, 1989)
xiii, 154 p.

Contents:
Foreword (editor), ix

1. A new look at the pyramids, p. 1
2. Previous building theories, p. 10
3. Raising the stones at Giza, p. 19
4. The craftsmen and their skills, p. 33
5. Setting out a pyramid, p. 39
6. The anatomy of the pyramids, p. 53
7. Building stepped pyramids, p. 65
8. Building the Great Pyramid, p. 73
9. Casing the pyramids, p. 85
10. Further aspects, p. 100
Appendix, p. 107

Editor's additional material
Ramps, p. 119
Levers, p. 133

References, p. 145
Index, p. 151

斜路が問題になるのは、その長大となる規模と、必要になる土砂の量、またその構築によってピラミッド建造そのものが妨げられる可能性があるからです。
しかし見落としてならないのは、現実に斜路がいくつかのピラミッド調査地において見つかっていることで、またマスタバに取り付いた煉瓦造の斜路の図も、絵画資料として残されています。
従って、最大の規模を誇るクフ王のピラミッドでも、やはり同様の斜路が設けられたのか、また設けられたとしたらどのような形式だったのかを問題視する人がいる、ということであって、ピラミッドの建造用斜路の存在を完全に否定することはできません。

著者はてこを多用したのであろうという説を挙げ、実際に自分たちで試しています。
Hodgesは先の曲がったてこを用いていますが、この本の編集者のKeableは先細りのてこでもうまく使えると、付章で報告しています。
編集者のKeableはHodgesの遺稿を良く纏めていて、適宜、註を入れたりしています。自分の調べた知識を披瀝しようと思えば、もっと註を増やせたはず。そうした過剰な記述をやっていません。遺された原稿の出版に、最小限の最新の情報を組み入れようとした跡が良く了解され、好感を覚えます。

Keableの息子のローランドが、熟練の家具職人だそうです。ここでも親戚類縁の使い回し。ま、エジプト学では良くあることなんですが。
オーク材を用い、4本のてこを手作りして、

「1986年のクリスマスの日に、2トン半の石が調達できなかったので、私たちは1.7トンしかないSAAB(の車体)を持ち上げた。いくつかの点が了解された。[中略]
エジプトだったら、もっと楽しめただろうに - この日の朝は雨が降っていた。」(p. 134)

と、この人たちはどこまで真面目なのか、良く分からない。

2009年8月12日水曜日

Killen 1980


古代エジプトの家具研究を専門とするキレンの第1冊目の本。家具を網羅しようとする姿勢が目次からも容易に推察することができます。箱などを扱う続巻はすでに1994年に出版されました。
古代エジプト家具の基本文献。この時代における仕口について言及されています。
2002年に再版が出ています。

Geoffrey P. Killen,
Ancient Egyptian Furniture, Vol. I:
4000-1300 BC
(Aris & Phillips, Warminster, 1980)
ix, 99 p., 118 plates.

Contents:
Abbreviations, vi
Acknowledgements, viii
Chapter One: Furniture Materials, p. 1
Chapter Two: Tools, p. 12
Chapter Three: Beds, p. 23
Chapter Four: Stools, p. 37
Chapter Five: Chairs, p. 51
Chapter Six: Tables, p. 64
Chapter Seven: Vase Stands, p. 69
Catalogue of Museum Collections, p. 73
Plates

巻末の、各国の博物館に収蔵されている家具のリストは重宝です。ただし完全なリストではありません。アルファベット順の国別に掲載されていますが、イタリアではトリノ・エジプト博物館収蔵のものの抜粋しか挙げられず、またフィレンツェ考古学博物館やボローニャの博物館なども載っていません。
リストに家具の所有者、新王国時代第18王朝の建築家カーの名前が書き込まれなかったのは残念です。参考文献にはE. Schiaparelliによる報告書が見られるのですけれども。エジプト学で通常要請される、こうした配慮があまりなされていないために、この書籍の価値は相対的に低くなりがちです。

微妙な言い回しがなされている部分があって、家具がどのように発展していったかについて記されている箇所では、慎重な検討が必要です。H. G. Fischerが言っていることと矛盾する記述もうかがわれ、今後の研究の進展が待たれます。

M. Eaton-Kraussがトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の椅子に関する本を2008年に出版しているので、ほぼ30年ほど経って、どのくらい研究が進んでいるかを見ることができるのも興味深い点です。家具研究は、少人数の研究者によって進められている分野。
もっとも、立場が異なるわけで、キレンは家具職人としての視点から調査を持続しています。実在する椅子と、当時の家具の名称との関連の研究はJac. J. Janssenなどが調べており、値段もまた、彼によって言及されています。こうした成果も踏まえ、多様な姿で存在していた家具がどのように使い分けられたかが問われるところ。

彼はサイトも開設しているということを前にも書きました。ここで彼の著作のリストを見ることができます。

http://www.geocities.com/gpkillen/

Bibliographyの欄には、かつてはエジプト家具に関する文献を掲載していましたが、現在ではすべて削除されて、自分の著作のみを代わりに掲載。Shaw and Nicholson (eds.) 2000の家具に関連する項目でキレンが書いている参考文献リストの改訂版を、そろそろ見ることができたら良いのですけれども。

2009年8月11日火曜日

BAR (Breasted, Ancient Records) 1906-1907


エジプト学では"BAR"は飲みに行く店ではなく、Breasted, Ancient Recordsの略。
ただし、British Archaeological Reportsを略したBARというシリーズもあって、紛らわしい。
J. H. ブレステッド(1865-1935)はアメリカにおいてエジプト学を最初に手がけた偉大な人。エジプト語辞典であるA. Erman und H. Grapow (Hrsg.), Wörterbuch der ägyptischen Sprache (Akademie-Verlag, Berlin, 1926-1961), 12 Vols.の編纂に関わったり、エジプト語の文法書を出したりしたドイツのA. エルマンのもとで、初めて博士論文を執筆した米国人。
ブレステッドはシカゴ大学オリエント研究所(OIC)の創立当初、所長としてこの名高い組織を率いた人物でもありました。

James Henry Breasted,
Ancient Records of Egypt:
Historical Documents from the Earliest Times to the Persian Conquest
, 5 Vols.
(University of Chicago Press, Chicago, 1906-1907)

Volume I: The First to the Seventeenth Dynasties (1906)
Volume II: The Eighteenth Dynasty (1906)
Volume III: The Nineteenth Dynasty (1906)
Volume IV: The Twentieth to the Twenty-sixth Dynasties (1906)
Volume V: Indices (1907)

エジプトの第1王朝から26王朝までの長い期間にわたる主な歴史資料を、注釈付きで英語に訳しています。1〜4巻を1906年に出し、最後の5巻目になる索引だけを翌年に刊行。
この本はシカゴ大学出版局で1923年、1927年と版を重ねた後、さらにロンドンの出版社、Histories & Mysteries of Man Ltd.から1988年に、またシカゴのUniversity of Illinois Pressから2001年にリプリントが出されています。100年近く読み継がれている、驚くべき本。ブレステッドが亡くなる前の1927年出版のものが決定版とされ、2001年に出たものにはP. A. Piccioneによって新たに紹介文や文献などが書き足されました。

1906年は、これもまた恐るべき刊行物、Kurt Sethe, Urkunden der 18. Dynastie(Urk. IV)がベルリンから出た年でもあります。
手分けをしているかのような出版。一方は全般の網羅を、他方では花の第18王朝に関する全部の歴史資料の集成を試みています。
ただUrkundenのシリーズもまた、全部を包括することをめざしており、一足早く開始して出版。
Urkundenのシリーズの一覧は、Michael Tilgnerが纏めています。

http://www.geocities.com/TimesSquare/Alley/4482/EEFUrk.html

ほとんどの巻のダウンロードが可能。

同じ時期、エジプト学に愛想を尽かしたイギリスのピートリは、この年に

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by C. T. Currelly,
Researches in Sinai
(E. P. Dutton and Company, New York, 1906)
xxiii, 280 p.

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by J. Garrow Duncan,
Hyksos and Israelite Cities.
Egyptian Research Account, Twelfth Year (ERA XII)
(Egypt Exploration Fund, London, 1906)
viii, 76 p., LI plates.

を刊行し、イスラエルへと調査の足場を移そうとした傾向が濃厚。
それぞれの学者が当時の最先端で見ている仕事の内容の違いが分かって面白い。

2009年8月10日月曜日

Ashabranner 2002


巨大なオベリスクのかたちをしたワシントンの記念塔を紹介する一般向けの薄い本ですが、面白い指摘があって、見逃せません。発端はマーシュという外交官。

Brent Ashabranner,
photographs by Jennifer Ashabranner and historical photographs,
The Washington Monument:
A Beacon for America.

Great American Memorials
(Twenty-First Century Books, Connecticut, 2002)
64 p.

オベリスクを調べているうちに、アメリカのワシントン記念塔のかたちが気になって、その正確なかたちが知りたいと思っていたら、George Perkins Marsh(1801-1882)という人物に突き当たりました。この人、イタリアに滞在したアメリカ大使です。
彼は当時の首都であるトリノに住み、ローマにも行った人物で、本もたくさん書いています。ローマに立つオベリスクに興味を持って、いろいろ調べていたらしいのですが、この人はエジプト学ではまったく知られていないはず。

"Marsh's studies had shown that the height of an Egyptian obelisk was ten times the width of its base. Marsh's calculations also told him that the dimensions of the shaft should be reduces as it rose, the top of the obelisk varying from two thirds to three fourths of the length of the base." (p. 47)

"The shaft would taper 1/4 inch to the foot (.64 centimeters to the meter [sic !]) as it rose. The walls would attenuate (become thinner) from 15 feet (4.6 meters) at the base to 18 inches (45.7 centimeters) at the top of the shaft. The width at the base of the shaft was 55.5 feet (16.8 meters). The width at the top of the shaft would be 34.5 feet (10.5 meters)." (p. 50)

"At a height of 555 feet 5 1/8 inches (169.4 meters), the Washington Monument is the tallest freestanding all-masonry structure in the world." (p. 60)

石造建築としては確かに世界一高いものなのでしょうけれども、個人的にはシャフトの勾配の値の方に興味があり、1フィート当たり、1/4インチの勾配と書いてありますが、両側の傾きを併せると1フィート=12インチ当たり1/2インチ、すなわち24:1の傾きとなります。1キュービットに対する1ディジットは28:1。小キュービット、あるいはreformed cubitと呼ばれる末期王朝以降の尺度では24:1。
19世紀にこれだけのことが分かっていたという点は驚きで、特筆に値します。
たぶんこれからは、このマーシュという人が、オベリスク研究を切り開いた者として語られるようになるのでは。

この記念碑についてはしかし、

Thomas B. Allen,
foreword by Stephen E. Ambrose,
The Washington Monument:
It Stands for All

(Discovery Books, New York, 2000)
172 p.

の方が解説は丁寧です。

2009年8月8日土曜日

Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009


オベリスクが西欧の世界においてどのように受容されたかを述べたもの。社会学的な意味を持つ研究。ウィーンに留学中の安岡義文さんからの御教示。いろいろと本や論文を教えてくれる方々が周りにいて、当方としては非常に有難い。

Brian A. Curran, Anthony Grafton, Pamela O. Long, and Benjamin Weiss,
Obelisk: A History
(Burndy Library, Cambridge, Massachusetts, 2009)
383 p.

Contents:
Introduction, p. 7

1. The Sacred Obelisks of Ancient Egypt, p. 13
2. The Obelisks of Rome, p. 35
3. Survival, Revival, Transformations: Middle Ages to Renaissance, p. 61
4. The High Renaissance: Ancient Wisdom and Imperium, p. 85
5. Moving the Vatican Obelisk, p. 103
6. Changing the Stone: Egyptology, Antiquarianism, and Magic, p. 141
7. Baroque Readings: Athanasius Kircher and Obelisks, p. 161
8. Grandeur: Real and Delusional, p. 179
9. The Eighteenth Century: New Perspectives, p. 205
10. Napoleon, Champollion, and Egypt, p. 229
11. Cleopatra's Needles: London and New York, p. 257
12. The Twentieth Century and Beyond, p. 283

Acknowledgements, p. 297
Notes, p. 301
Bibliography, p. 339
Illustrations, p. 365
The Wandering Obelisks: A Check Sheet, p. 371
Index, p. 375

イヴァーセンは2冊のオベリスクの本を書いており(Iversen 1968-1972)、この2巻本(続巻も予定されていたんでしたが)についてはカバーの後ろ見返し部分に印刷されている書評でも"unrivalled work"と記されていますが、他にエジプトが西欧世界でどのように見られてきたかを書いた

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs:
In European Tradition

(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1961)
178 p.

も出していて、考え方は良く似ています。

Labib Habachi,
edited by Charles C. Van Siclen III,
The Obelisks of Egypt:
Skyscrapers of the Past

(Charles Scribner's Sons, New York, 1977)
xvi, 203 p.

邦訳:
ラビブ・ハバシュ著、吉村作治訳、
「エジプトのオベリスク」
(六興出版、1985年)
230 p.

が、エジプト学の視点から初めて本格的に記されたオベリスクの本だとするならば、4人による合作のこの本は、西洋史の中で扱われるオベリスクに焦点を当てた本。ヒエログリフを読もうとしたキルヒャーについては章を独立させて綴っています。
なお、参考文献には掲げられていませんが、オベリスクに関する怪しげな解釈もあって、厚い本である、

Peter Tompkins,
The Magic of Obelisks
(Harper & Row, New York, 1981)
viii, 470 p.

はその典型。これも別な意味で少しばかり興味深い。

2009年8月7日金曜日

Vanhove 1996


エーゲ海に浮かぶギリシアのエウボエア島を舞台とする調査で、複数の石切場と、それらを結ぶ運搬路が対象。Bessacによるフランスの石切場の報告書と同じ1996年に出されています(Bessac 1996)。比較して見ると面白い。

Doris Vanhove,
with contributions by A. De Wulf, P. De Paepe and L. Moens,
Roman Marble Quarries in Southern Euboea and the Associated Road Systems.
Monumenta Graeca et Romana (MGR), VIII
(E. J. Brill, Leiden, 1996)
x, 53 p., 128 illustrations, 2 maps.

Contents:
Foreword, vii
Introduction, ix
1. Topographical Survey (A. De Wulf), p. 1
2. Archaeological Description (Doris Vanhove), p. 16
A. Styra: Haghios Nikolaos and Krio Nero, p. 16
B. Pyrgari, p. 22
C. Styra and Pyrgari: General Conclusions, p. 33
3. Oxygen and Carbon Isotopic Data and Petrology of Cipolino from Styra and Karystos (Euboea, Greece) and their Archaeological Significance (L. Moens, P. De Paepe & K. Vandeputte), p. 45
List of Figures, p. 51

Korresによるペンテリコンの石切場に関する報告書が参考文献に挙げられており(Korres 1995)、この本が石切場を報告する者たちに大きな影響を与えていることが分かります。図版が多めに収められているのも、Korresの本(画集)をお手本にしているから。

全体の分量は、さほど多くはありません。
第1章は島の山中で地形測量をしなければならなかったあらましと、測量方法、精度などを報告しています。巻末に折り込みとして挿入されている2枚の図面が測量作業の成果。テクニカルな測量作業の話を長く書くのは異例だと思われます。
第2章が考古学的記述の部分で、各々の石切場と運搬路を詳述。
第3章は科学分析の報告に充てられており、主に産出される大理石の分析。同じ島内であるにも関わらず、場所によって性質が異なることが指摘されています。

モノクロの写真は不鮮明なものが含まれ、惜しまれるところ。
主執筆者の手による図もたどたどしい部分があって、もう少し詳しい平面図を見たかった。未完成の円柱など、技法の説明は主として写真に頼っています。
チポリーノ大理石の主たる産出場所であった島の調査報告で、運搬路も重要視されている点が見どころ。

2009年8月6日木曜日

Bessac 1996


古代の建造物を造るに際し、石材を調達するための石切場が重要となりますが、その研究については未だ、あまり進んでいないと考えていいと思います。現場に行っても、文字が残っていない場合がきわめて多いですし、石を切り出した痕跡が拡がるだけの場所を、どのように記録したらいいのかの目安もつきにくい。
古代ローマに関してはしかし、ワード・パーキンズが大理石の加工方法や運搬や交易など、話題を拡張して手本を見せ、以後は何人かが集中して研究をおこなっています。

Bessacのこの本は、古代から中世に渡って使われ続けたフランスの石切場の調査報告で、これだけ詳しいものも珍しい。
Korresによる古代ギリシアの石切場ペンテリコンの重要な報告書については、すでに触れました(Korres 1995)。それと並ぶ基本文献。

Jean-Claude Bessac,
avec la collaboration de M.-R. Aucher, A. Blanc, P. Blanc, J. Chevalier, R. Bonnaud, J. Desse, J.-L. Fiches, P. Rocheteau, L. Schneider et F. Souq,
La pierre en gaule narbonnaise et les carrieres du bois des Lens (Nimes):
histoire, archeologie, ethnographie et techniques
.
JRA Supplementary Series 16
(Journal of Roman Archaeology (JRA), Ann Arbor, 1996)
334 p.

200枚近くに及ぶ図版によって、丁寧に石材の加工方法、切り出し順序、運搬、単位寸法などの考察が説明されています。フランスでは良質の石材が産出し、その利点は、この国のあちこちに建立された大聖堂で見ることができます。イギリスでは、こうはいきません。
普通なら見落としがちな、石を切り離すための楔の方向などから、石を採取した順番を想定するなど、参考となる考え方が示されており、貴重。

図版はすべてモノクロです。スケッチと呼ぶべき、比較的簡単な図が並んでいますが、石に残っている加工の痕跡を観察し、道具の刃先を復原しているところなどはさすがです。発掘調査によって得られた出土遺物の報告は、飛ばして読んで構わないかと思います。自分の知識で及ばないところは専門家を呼んで書かせ、補っており、無理をしていません。石材の加工風景が豊富に掲載されていますけれども、多くは著者が別の人に描かせたもの。それでいいと思います。
Bessac編と紹介されている場合もあるようですが、これは間違いなく、Bessacの本です。考え方が統一しています。

石切場という、良くわからない場所を見て何を明らかにすべきか。どういう情報がそこから引き出せるのか。そうした点が明示されている本で、これからの石切場調査における指針が示されている報告書。
文字資料が見つかる石切場では、文字の読解に引きずられる場合が多々あって、気持ちは分かりますけれども、本来の仕事、すなわち、不定形のかたちが散らばるだけの場所で、何をどう見るかが一番、重要となります。そこが面白いところ。
巻末の参考文献も充実しています。

2009年8月5日水曜日

Korres 1995


パルテノン神殿の石切場、有名なペンテリコンを舞台とした絵本。61枚に及ぶ詳細な図が何といっても素晴らしい。著者は建築家・修復家で、絵は全部、著者による手書きです。
最初はミュンヘンでの展覧会で図が発表され、そのカタログが

Manolis Korres,
Vom Penteli zum Parthenon
(München, 1992)

として出版された模様。
この図の部分を第1部とし、図の説明を第2部としています。

Manolis Korres,
From Pentelicon to the Parthenon:
The ancient quarries and the story of a half-worked column capital of the first marble Parthenon

(Publishing House "Melissa", Athens, 1995)
128 p., 61 drawings, 3 photographs.

Contents:
Prologue, p. 7
Part I
Narrative and Pictorial Reconstruction, p. 9
Part II
Explanation of the Plates, p. 61

Appendix 1
Testimonies, p. 116
Appendix 2
The Quarry of the Nymphs on Paros, p. 120

Contents of Parts I and II and their Correlation, p. 122
List of Figures, p. 123
Select Bibliography, p. 124
Indexes, Glossary, Greek pronunciation, etc., p. 127

ペンテリコンの石切場がどういう順番で開拓されていったか、どのような方法で石がひとつひとつ切り出されていったのか、使われた工具の話、ペンテリコンからアクロポリスの丘までの石の運搬経路、巻き上げ機の使用、アクロポリスの丘の上でのクレーンを用いた組積方法、仕上げの方法など、丁寧に解説されています。
こうした建造作業全体の把握は、たぶん古代ギリシア人たちにもできていなかったかも。そう思わせるほどうまく纏められており、特に第2部は秀逸。

石造建築のうちで、石がどこから切り出されたかが分かっている有名な建物はいくつかありますけれども、これほど詳しく説明がなされている例は稀。石切場そのものの調査が、どこの国でもあまり進んでいないという問題点もあります。
著者のさまざまな力量が結晶した傑作で、以降の石切り場の報告書にも大きな影響を与えています。

2009年8月4日火曜日

Vartavan and Amorós 1997


古代エジプトで用いられた樹木に関する研究書。
古代の木に関しては、「すべての時代の木」という題を持つ、以下の6巻本(1949-1955)のうちの第1巻と第2巻が古典として知られていて、そのうちエジプトを扱った部分の

W. Boerhave Beekman,
"Hoofstuk 7: bossen, bomen en toegepast hout bij de Egyptenaren",
Ditto,
Hout in alle tijden, Deel I
(A. E. Kluwer, Deventer, 1949)
pp. 399-578

が引用されたりしますが、これはオランダ語で書かれたもの。
もう少し新しくて他に良く引用されるものとしては、

Russell Meiggs,
Trees and Timber in the Ancient Mediterranean World
(Oxford University Press at the Clarendon Press, Oxford, 1982)
xviii, 553 p., map, 16 plates.

が有名です。けれども世界を地中海近辺に絞っている点に注意。科学技術の進展で、情報が過多となり、すべてを網羅することがもう諦められています。
さて、

Christian de Vartavan and Victoria Asensi Amorós,
Codex of Ancient Egyptian Plant Remains.
Triade Exploration's Opus Magnum Series in the field of Egyptology (TOMS.E): 1
(Triade Exploration, London, 1997)
(v), 401 p.

は膨大な情報量のデータベースをそのまま打ち出したような書籍で、古代エジプトの草や木の用例が一冊に纏められたもの。読みにくいというか、調べにくい本なのですが、ツタンカーメンに話題を限った続巻とも言うべきものがあって、

Christian de Vartavan,
Hidden Fields of Tutankhamun:
From Identification to Interpretation of Newly Discovered Plant Material from the Pharaoh’s Grave
.
Triade Exploration's Opus Magnum Series. Egyptology (TOMS.E): 2
(Triade Exploration, London, 1999)
xi, 220 p., x plates, 57 plates.

ではイギリスの王立キュー・ガーデンが所蔵していたツタンカーメンの墓出土の木片サンプルなどを報告。

一方、キューガーデンからは一般向けに、

F. Nigel Hepper,
Pharaoh's Flowers:
The Botanical Treasures of Tutankhamun
.
Royal Botanic Gardens, Kew
(Her Majesty's Stationery Office (HMSO), London, 1990)
xii, 80 p.

が出ています。
キュー・ガーデンに勤めていたHepperの名は

Rowena Gale, Peter Gasson, Nigel Hepper,
"Wood (Botanical section)",
in Nicholson and Shaw (eds.) 2000,
pp. 334-352.

でも共同執筆のひとりとして見られますが、この"Wood"の項目のリファレンスのページ、pp. 385-389にはVartavanの本が出てこないし、逆にVartavanの本にもHepperの本が触れられていません。
双方とも古代エジプトの植物を専門とし、これもまた狭い世界であるはずなのですけれども、研究者間であまり交流がないなと感じさせる一例。
ツタンカーメンの墓から出土した木材については、

Renate Germer,
Die Pflanzenmaterialien aus dem Grab des Tutanchamun.
Hildesheimer ägyptologische Beiträge (HÄB) 28
(Garstenberg, Hildesheim, 1989)

でも記述があります。この人は

Renate Germer,
Flora des pharaonischen Ägypten.
Deutsches Archäologisches Institut Abteilung Kairo (DAIK), Sonderschrift, Band 14
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1985)

Sylvia Shoske, Barbara Kreißl, und Renate Germer,
"Anch" Blumen für das Leben:
Pflanzen im alten Ägypten.

Schriften aus der ägyptischen Sammlung (SÄS), Heft 6
(Staatliche Sammlung Ägyptischer Kunst, München, 1992)

も出しています。

2009年8月3日月曜日

Bülow-Jacobsen 2009


古代ギリシア・ローマ時代に属する石切場のひとつから見つかった石片には文字を記したものがあり、9000ほどのその中から石切り活動に関わる文字だけを選んで報告した書。
エジプトの石切場調査は最近、増えてきていますが、建築学的な知見がどれだけ増えているかというと、そうでもありません。建築技法についてはもちろん、いろいろ新しく見つかっても当然のことです。けれどもそれらは些末的な問題。ここを間違えている人が多くいます。
建築に関わって、なおかつ他の分野に繋げられるトピックが探し出されることこそ本当は重要なのですが、それがあまりおこなわれていない現状です。

Adam Bülow-Jacobsen,
Mons Claudianus:
Ostraca graeca et latina
IV.
The Quarry-Texts O. Claud. 632-896.
IF 995.
Documents de Fouilles (DFIFAO) 47
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2009)
xiii, 367 p.

Table of Contents:
http://www.ifao.egnet.net/uploads/publications/sommaires/IF995.pdf

O. Claud.というような省略した書き方が専門書ではなされており、要するにオストラカ Ostraca、という言葉が端折って記されるわけです。これはパピルスも同じ。

O. BM (あるいはoBM)=大英博物館(British Museum)収蔵のオストラカ
O. Cairo (あるいはoCairo)=カイロ博物館収蔵のオストラカ
O. Turin (あるいはoTurin)=トリノ・エジプト博物館収蔵のオストラカ
P. Anastasi I (あるいはpAnastasi I)=第1アナスタシ・パピルス

といった感じです。
そう言えばトリノ博物館の展覧会が始まりましたが、トリノ博物館はラメセス時代に属する多くのオストラカを収蔵しており、貴重。報告はJesus Lopezが4巻本でおこなっています。

ギリシアでは、アルファベットが数字としても代用されました。すなわち、

α(アルファ)=1
β(ベータ)=2
γ(ガンマ)=3
δ(デルタ)=4

などとなります。
従って、O. Claud. 841の35行目に出てくる簡単なアルファベットの3つの羅列、

ε δ α

は「5 × 4 × 1」と訳され(p. 170)、これは石材の長さと幅と高さの寸法。
ここにはふたつ重ねられた飛躍があります。3つ並ぶアルファベットが数字をあらわし、しかもそれがひとつの石材の大きさであるという認識が必要。何しろ石切り現場での書き付けですから、省略がいろいろあり、これを勘案しながら石切り作業の全体像を追っていくことが望まれます。
石切場を巡る研究というのは、こういうところが面白い。

石材の大きさがこのように文字資料として小さな石片に記録されることは、王朝時代にはしかしあまり例がなく、ラメセウムのオストラカとして知られているものぐらいしかありません。岩窟墓における掘削量を記録しているものなら、いくらかあるのですけれども。
石に直接、その大きさを記した王朝時代の例も極端に少なく、クフ王の船坑の蓋石に書かれたものがほとんど唯一の例と思われます。クフの第2の船の調査研究を担当されているサイバー大学の山下弘訓先生にこの6月、初めて蓋石の書き付けを見せていただきましたけれども、きわめて貴重。
王朝時代からグレコ・ローマ時代にかけての長い期間における石切りの様相を概括することは、建築に関わる人間の仕事だと思います。

この巻では3つの付章が重要です。
Appendix 1では石切り作業に関連する専門用語を所収しており、他の辞書ではほとんど見られない語ばかりが並びます。
Appendix 2は、「この石切場に何人いたか?」という章で、人名リストを挙げています。労働組織の規模に関わる論考。
Appendix 3は、巨大な石の運搬に関する論議がなされています。
とても大きな建材の運搬について考えるはずのところなのに、規模がえらく異なった実験を、住宅内の床の上にて自分で進めていることがすごくおかしい。コロの上に載せた、小型の段ボール箱の側面にデジタルキッチンスケール(台所用の計り)をテープで固定し、その計量皿の部分の中央を右のひとさし指で押しています。わざわざこれを写真で紹介しており(p. 271, App. 3, Figs. 2-3)、靴下を履いた足が背景に写っているのも御愛嬌。
註もつけてあって、

"I am grateful to my brother, Jan Bülow-Jacobsen, who provided the necessary floor-space and most of the materials for this experiment." (p. 271)

と、読者に向かってウインクしてみせる様子がうかがわれ、かなりユーモアに富んだ著者であることがこれで分かる。
本文におけるきわめて専門的な書き方との、大きな落差が笑えます。

2009年8月2日日曜日

Endruweit 1994


エジプトの「アマルナ型住居」と呼ばれるものは、住居の歴史で最初の方に出てくる有名なものになっていますが、それだけを取り上げて論じている専門書ということになると、世界でたった数冊しかありません。その中では、もっとも新しい本です。

Albrecht Endruweit,
Staedtischer Wohnbau im Aegypten:
Klimagerechte Lehmarchitektur in Amarna

(Gebr. Mann, Berlin, 1994)
220 p., 11 Tafeln

Inhaltsverzeichnis:
1. Die Aussenhuelle
2. Die Mittelhalle
3. Zur Schaffung eines behaglichen Innenklimas
4. Das Schlafzimmer
5. Der Garten
6. Zusammenfassung
7. Klimatische Faktoren und Wohnkultur

アマルナ型住居の研究と言えば、H. リッケによるモノグラフが基本となります。その後にボルヒャルトとリッケによる図面集が出版されたのは20世紀末で、これをもとにして詳しい分析がようやく始められるようになりました。

この本は、中部エジプトの砂漠に建てられたアマルナ型住居が、その土地の風土と気候にどのように適合しているかを詳述したものです。
エジプトは乾燥地帯で、砂混じりの北風が年間を通じて吹きつける場所ですから、住居の形態もこれに合うように工夫されていました。北風を受けるための北向きの高窓が造られたのはそのひとつです。寝室が必ず北向きに造られたのもこの理由によります。日乾煉瓦造による住居はこの地方にとって、過ごしやすい住環境を提供する重要な役割を演じていました。

砂漠の家の周囲に木を植えたり、人工的に池を造ったりすることは大変な苦労を必要としたはずなのですが、古代エジプト人たちは好んで庭園を造営しました。水面や緑を見て楽しむということもあったでしょうが、並んだ樹木は砂を含んだ風から泥造りの家が損傷を受けることを防ぐ防風林や防砂林の役目を果たし、水を湛えた人工湖もまた、気化熱によって気温を下げることに幾分は貢献したのではないかと言われています。
壁画には、家の中に水を撒いている光景を描写したものもあり、打ち水がおこなわれたと考えられています。

寝室の奥の天井の形式で、ヴォールト天井が架けられていたという復原は、おそらくは否定されるべきものです。根拠は、ここだけ両側の壁体が厚くなっているという点と、ピートリの報告による家型模型ですけれども、あまり説得力を感じません。ここには早稲田隊のマルカタ王宮の「王の寝室」も引用されていますが、曖昧な報告をしたことは反省すべき点。もしヴォールトが架かっていたとしたら、アマルナ型住居の通風窓が絵画史料で三角形に描かれることはなかったと思われます。

この本の書評を、アマルナ調査にも携わったK. SpenceがJESHO 39:1 (1996), pp. 50-52で書いており、そこで展開されている知恵比べも面白い。古い科学情報をもとにしているのではないかという疑義が出されたりしますけれども、最後の方では自分がエジプトの日乾煉瓦造の建物で日々を過ごした結果の快適さを個人的経験として述べていて、結局は泥で造られた建物の魅力を双方の研究者が伝える結果となっています。

2009年8月1日土曜日

Willems 2007


中部エジプトに位置するベルシャ(バルシャ)の発掘調査報告書の第1巻目。ディール(デル)はDeirではなくDayrなのかと訝る向きもあると思いますが、

"Arabic geographical names in this volume are abbreviated according to the system of the ’International Journal of Middle East Studies.’" (p. 1, note 1)

とあり、ケンブリッジから出ている雑誌のやり方に倣っていることが分かります。
観光旅行ではなかなか行く機会がない中部エジプトですが、ミニヤを拠点とするならばアマルナを初めとしてベニ・ハッサン(バニー・ハサン)、カウなど、見どころの多い場所。スペオス・アルテミドスもこの地域にあります。

Harco Willems,
with the collaboration of Lies op de Beeck, Troy Leiland Sagrillo, Stefanie Vereecken, and René van Walsem,
Dayr al-Barsha, Vol. I:
The Rock Tombs of Djehutinakht (No. 17K74/1), Khnumnakht (No. 17K74/2), and Iha (No. 17K74/3).
With an Essay on the History and Nature of Nomarchal Rule in the Early Middle Kingdom.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 155
(Peeters and Departement Oosterse Studies, Leuven/Leuvain, 2007)
xxiv, 126 p., LXI pls.

Contents:
Preface, v
Bibliography and Abbreviations, xi

Chapter 1: Introduction, p. 1
Chapter 2: The Spatial Context of the Tombs, p. 11
Chapter 3: Previous Research, p. 19
Chapter 4: The Tomb of Djehutinakht (17K74/1), p. 23
Chapter 5: The Tomb of Khnumnakht (17K74/2), p. 59
Chapter 6: The Tomb of Iha (17K74/3), p. 61
Chapter 7: An Essay on the History and Nature of Nomarchal Rule in the Early Middle Kingdom, p. 83

Indices, p. 115

焦点はこの地域における中王国時代の様相。
参考文献は非常に多く挙げられており、この中にはつくば大学の川西隊によるアコリス報告書も含まれていますが、近年刊行されている年次報告に関しては取り上げられていません。
ここでは3つの岩窟墓を報告し、7章で比較的長く、ジェフティナクトの墓で見られる自叙伝の重要性が述べられるとともに、派生する問題を検討しています。

石切場の調査も同時に着手しており、こちらとしてはその成果に注目したいところ。ですがこの巻では単に、多数残存するデモティックのインスクリプションの存在を伝えるだけ(p. 5)で、詳しくは踏み込んでおらず、むしろドイツの専門雑誌、MDAIKで発表している調査報告の方が役立ちます。建築学的観点からは、天井に多く残る赤い線などを、どのように理解するのかの記述が待たれます。

非常に広い敷地の範囲を研究対象としており、かなりの年数にわたる調査を予定しているらしく思われますけれども、最初に敷地を訪れて興味を抱いたのが1984年と序文にありますから、すでに20年以上が経過。第2巻目以降は厚くなりそうです。
ここからは未盗掘の墓が見つかり、世界的なニュースとなりました。中王国時代の直前となる第一中間期末期に属するヘヌゥ(Henu)の墓(紀元前約2050年)。サイトが用意されています。

http://www.arts.kuleuven.be/bersha/

しかしこのサイトを通じての調査自体の報告は滞っており、2002~2004年の分しか掲載されていません。
本はカラー図版を多用した立派な造りで、今後の調査の進展が楽しみです。周到な準備を重ねて編まれたことが良く分かる報告書の一例。
OLAのシリーズは良く知られており、例えば最近の、ウィーンで活躍するマンフレッド・ビータックへの献呈論文集(OLA 149、全3巻、2006年)や、第9回国際エジプト学者会議録(OLA 150、全2巻、2007年)もここから出版されています。