2010年6月27日日曜日

Bleiberg and Freed (eds.) 1991


ラメセス2世に関する国際シンポジウムの記録。本の題名は、イギリスの代表的な詩人シェリーの、非常に有名な詩の一節から採られています。

Edward Bleiberg and Rita Freed eds.,
Fragments of a Shattered Visage:
The Proceedings of the International Symposium of Ramesses the Great
.
Monographs of the Institute of Egyptian Art and Archaeology, 1.
Series editor: William J. Murnane
(Memphis State University, Memphis, 1991).
v, 269 p.

さてこの薄ピンク色のペーパーバック、錚々たる顔ぶれが論考を寄せているため、新王国時代後期に興味を持っている人なら必ず見たいと思わせる書籍。
外見は安っぽいんですけれども、中身はきわめて重要です。16編の論考が掲載されていますが、建築関連ならばケラー、キッチン、オコーナー、そしてシュタデルマンの4本の論文は必読。

一番長い分量を書いているのはフランスの大御所ノーブルクールですが、2番目に長い文を寄稿しているケラーの内容は、壁画を専門とする人間にとって欠くことができない内容を伝えています。

C. A. Keller,
"Royal Painters: Deir el-Medina in Dynasty XIX"
pp. 50-86.

NARCE 115 (1981)に書かれたモティーフが、10年を経てこういうかたちに展開されるのかという思い。何しろ3200年前の画工の個人を特定しようという恐るべき試みであるわけで、絵画に対する情熱を持っていないと論旨についていけません。
この論文が何故、建築に関わりがあるかと言うならば、それは岩窟墓の造営作業に関わった労働者集団組織の編成をどう考えるかという問題と繋がるからです。王家の谷の岩窟墓は「右班」と「左班」とによって掘削され、仕上げが施されました。この時の「右班」と「左班」は、実際に墓の右と左をそれぞれ担当したのであろうとチェルニーが書いています。ただしガーディナーは右と左について、墓の奥から見た場合の右と左であることを言及していますので、留意されるべき。墓の入口から見た左右ではありません。
このチェルニーの見方への反論であるわけですが、建造作業の場合は、また別の見方が必要であろうと思われます。

Kenneth A. Kitchen,
"Towards a Reconstruction of Ramesside Memphis",
pp. 87-104.

キッチンは汚い絵を数枚掲載していますが、その殴り書きに近いメンフィスの全体見取り図が、少なくともこれから長く引用され続けるであろうということをはっきりと意識しています。意図的に乱暴な描き方をすることで、考え方の骨格だけを正確に伝えるという見事な表現。図面は綺麗に描くほど価値があると考えている凡庸な研究者たちに、根本的な批判を与える図と言っていい。単に多忙だから汚い絵を出していると思っていると大きく間違えます。

David O'Connor,
"Mirror of the Cosmos: The Palace of Merenptah",
pp. 167-198.

オコーナーに対しては、ちょっと厳しい見方をすべきだと僕は考えています。メルエンプタハの宮殿を発掘したのはペンシルヴェニア大学の博物館で、壮大なことを書く前に、後継者はもう少し細かい情報を出して欲しかった。
エジプトの王宮について調べようと思ったら、しかし彼のこの論考は疑いもなく、最重要の部類に入ります。事実、多く引用されている論文。

Rainer Stadelmann,
"The Mortuary Temple of Seti I at Gurna: Excavation and Restoration",
pp. 251-269.

MDAIKで発掘調査の経過を追っている人は、読む必要がないかもしれない。
シュタデルマンによるセティ1世葬祭殿の建築報告書は、たぶんもう出版されないのではないかと個人的に思っていますが。彼による論考もまた、王宮建築の研究者にとっては重要。

活躍していたWilliam J. Murnaneが亡くなってしまいました。これが非常に残念です。ここではシリーズ・エディターとして登場。

2010年6月26日土曜日

Hinz 1955


イスラームでも時代や地域によって度量衡が変わり、特に長さについて調べることは建築の世界では重要な作業となります。しかし、これが案外と見つけ出しにくくて大変。
それらの情報をひとつにまとめた薄い冊子です。

Walther Hinz,
Islamische Masse und Gewichte umgerechnet ins metrische System.
Handbuch der Orientalistik:
Ergänzungsband 1, Heft 1
(Brill, Leiden, 1955)
(viii), 66 p.

長さについては54ページから記述が始まります。長さにも何種類もあって複雑ですが、たとえばカイロにおける1ディラー=58センチメートル、なんていうことが書いてあり、その後にダマスカス、アレッポ、トリポリ、エルサレム、イラク、イラン、インドの場合、というように説明が続きます。

イスラームのことを調べるのであったら、専門の研究者は自分のコンピュータにインストールしている「エンサイクロペディア」で索引をかけるのかもしれません。これはライデンのブリルから出ている権威ある事典。
CD-ROMも販売されるようになりました。

P. J. Bearman, Th. Bianquis, C. E. Bosworth, E. van Donzel and W. P. Heinrichs eds.,
The Encyclopaedia of Islam
CD-ROM
(Brill, Leiden, 2005)

15000項目以上もあり、冊子体では12巻で供給されます。第3版の刊行が始まっていて、これの完結にはまだまだ時間を要するはずですから、第2版を用いるのが現実的。
CD-ROMとは言え、10万円以上もします。ブリルの会員になると最新情報も含め、オンラインで見ることもできますけれども、こちらも高額で、個人では手が出にくいというのが現状。
簡略版もあって、

H. A. R. Gibb and J. H. Kramers eds.,
Shorter Encyclopaedia of Islam
(Brill, Leiden, 1997)
viii, 671 p., 2 plans, 7 plates

これだったら1万円ほどで購入ができるはず。古本では5000円以下で入手が可能です。イスラームに興味を抱く大学院生であったら、たいてい持っているのではと思われる本。これに匹敵する書籍が少ないものですから、人気の高い出版物。

ビザンティンからイスラームに変えられた遺構というものもあり、このためにビザンティンにおける長さの情報も見ることを強いられます。
ビザンティンの度量衡の決定版は、

Erich Schilbach,
Byzantinische Metrologie.
Handbuch der Altertumswissenschaft, XII, Teil 4
(Verlag C. H. Beck, Munchen, 1970)
xxix, 291 p.

で、pp. 13-55において長さに関する記述が見られます。
前時代における古代ローマの尺度ではなく、古代ギリシアの尺度に基づいて長さが決定されたのではないかという考察が重要。

2010年6月25日金曜日

Jomard 1809


「エジプト誌」の全巻が、今ではネットで見られることについて、すでにDescription 1809-1818にて述べました。ナポレオンによる「エジプト誌」にはテキスト編も含まれており、ジョマールはここに論考を複数、載せています。
欧州に留学中の安岡義文氏による情報。彼にはこれまでも、いろいろ貴重な最新の文献案内を送ってもらっており、多謝。BiOrの書評などを執筆していますから、興味ある方は御覧ください。

「エジプト誌」が誰にでも公開されているということは、すごいこと。逆に言うと、ここで触れられている内容を知らなければ「素人」とほとんど変わりないと判断されるわけで、辛い立場ともなります。

ここで取り上げる文章は全8章から構成され、古代エジプトの尺度に関して述べたもので、ニュートンによる52センチメートルという説を冒頭で一蹴し、これに代わる46センチメートルという値を主張して論理を展開している大論文。300ページ以上を費やしています。
ナポレオンの調査隊によってもたらされた数々の実測値をもとにした換算のリストだけでなく、古代ギリシア・ローマ、そしてアラブ世界の著述家たちによる「ジラー」を主とする長さの記述もくまなく参照しており、膨大な資料を駆使したその論述内容は、19世紀の博物学的方法の最後を飾るにふさわしい。オベリスクの寸法についても分析をおこなっています。

しかしこの頃に始まるさまざまな盗掘によって、長さ52センチメートルのものさしが実際に次々と発見されるようになります。この成果を受けてレプシウスが登場し、尺度の問題にはある程度のけりをつけました。Lepsius 1865 (English ed. 2000)を参照。
「ある程度の」というのは、実はレプシウスはジョマールの考え方を「小キュービット」として一部、残したからで、ここに混乱のもとがあると言えないこともない。レプシウスによるこのジョマール説の「救済」の方法に関しては、もっと議論があって然るべきだと思われます。G. ロビンスも、そこまで踏み込んではいません。

Edme Francois Jomard,
"Memoire sur le systeme metrique des anciens egyptiens, contenant des recherches sur leurs connoissances geometriques et sur les mesures des autres peuples de l'antiquite",
Description de l'Egypte, ou recueil des observations et des recherches qui ont ete faites en Egypte pendant l'expedition de l'armee francaise, publie par les ordres de Sa Majeste l'Empereur Napoleon le Grand.
Antiquites, Memoires, tome I
(Paris, 1809)
pp. 495-797.

すでに忘れ去られようとされているジョマールですが、ニュートンが前提とした「古代人は基準尺の倍数を構築物の主要寸法に充てた」という考えにおかしいところがあると指摘しており、これについては当たっている部分がなくもない。ニュートンはクフ王のピラミッドの計測値のうち、完数による値のみを偶然、目にしたという幸運に恵まれたと個人的には思います。澁澤龍彦(渋沢龍彦)の言い方を借りるならば、ここには建築の「死体解剖」があっても、「生体解剖」がありませんでした。
アイザック・ニュートンの論考についてはNewton 1737で紹介済み。これはまた、Greaves 1646の論考に刺激を受けての考察でもあります。
実際に古代エジプトの遺構では、いくつかの寸法でジョマールが分析したように、46センチメートル内外の長さで割り切れる場合があるわけで、この矛盾を斟酌し、できるだけ多くの報告を拾い上げようとしたレプシウスの功績は称えられるべきでしょう。
しかし結果として、キュービットは52.5cmであったというのが現段階における結論です。ニュートンの勝利でした。

まず大キュービットと小キュービットには、7:6という関係があるわけだから、大キュービットにおける6の長さは小キュービットの7の長さと一致します。この時、双方とも42パーム。この場合を除き、小キュービットで割り切れる長さがどれくらい遺構で見られるのかが問題を解く鍵となります。
ですが、こうした研究はほとんど進んでいません。小キュービットに関する建築遺構への適用は、近年ケンプがアマルナの独立住居における平面図で少し試してみている程度。
ジョマールまで再び戻って考え直さなければならない理由がここにあり、古代エジプトの基準尺に関しては、大きな陥穽があると言わざるを得ません。

古代エジプト建築の権威であるアーノルドの本には、小キュービットについての記述は一切ありません。建築の世界では、それでこと足りるからです。でもそれは美術史学の世界で論議されている尺度の問題とずいぶん、隔たりがあります。「おかしいのでは」という疑念があって然るべき。
こういう点が、今のエジプト学では論議されていません。

シャンポリオンがヒエログリフを読解する前に、ジョマールは数字だけは正確に読めたようです。中国語との類推から、「エジプト誌」のテキスト編には「百」とか「千」という漢字が載っています。ジョマールによる別の論文を参照のこと。
こういう事実はあまり知られていません。シャンポリオンもヒエログリフを読み解くために、中国語を勉強していました。新しい語学を学ぶことは、単に自分の道具を増やすことと同じだという割り切り方がここにはあって、これが日本人にとって難しい点となります。
絶望的であれ、泥縄式にでもいいから、とにかく数多く読み進めていくこと、その作業にどれだけ長年耐えられるかの競争であること、それが我々にとって唯一の早道だという指標がここでも示されています。

2010年6月16日水曜日

Wright 1962


「訳者あとがき」に記されているように、ベッドはもともと日本にはなかった代物ですので、"lit clos"(造り付けの箱型ベッド)だと言われても、すぐに具体的なかたちを思い起こせる人は少ないかと思われます。例えばディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の集合住居の報告書ではこのような説明が出てくるわけですが、良く分からないので西洋のベッドの歴史を調べることが必要となります。
ベッドは、機能としては人が横になって寝ることができる家具ですが、さまざまな形式があり、これらを広く紹介しているのがライトの本。

Lawrence Wright,
Warm and Snug, the History of the Bed
(Routledge & Kegan Paul, London, 1962)

邦訳:
ローレンス・ライト著、
別宮貞徳三宅真砂子片柳佐智子八坂ありさ庵地紀子訳、
ベッドの文化史:
寝室・寝具の歴史から眠れぬ夜の過ごしかたまで

(八坂書房、2002年)
527 p., xiv.

一番最初に「クレオパトラのベッド」と題した章が書かれており、古代エジプトの家具についての簡潔な紹介がなされています。一般読者を引き込む書き方は非常に巧く、ベス神にディズニーのキャラクターであるグーフィーを並置してみせたりしていて、全体が読みやすい。
スーダンのベッド('angarib、あるいはangareeb)との類似にも言及しているところはさすがです。この点はエジプト学者のJ. E. Quibellがとても古い報告書の中で指摘をおこなっており、現在ではあまり語られないところ。ベッドを通じて文化史を語っている書で、広範な内容が展開され、魅力的。
この英国人は「風呂トイレ賛歌」(晶文社、1989年)や「暖炉の文化史:火を手なずける知恵と工夫」(八坂書房、2003年)も書いています。建築にまつわる文化史を書くことに能力を発揮した著述家でした。
1983年に亡くなっていますので、近年、「倒壊する巨塔:アルカイダと『9/11』への道」(上下巻、白水社、2009年)がピュリツアー賞と「ニューヨーク・タイムズ」年間最優秀図書を受賞して注目を浴びているローレンス・ライトとは全くの別人。
ベッドを扱う本は多数あって、

Hubert Juin,
Le lit
(Hachette, Paris, 1980)
123 p.

は、古今東西のベッドが出てくる名画や図版を集めている本。244点の図版を掲載。「ハムレット」などの典籍からの引用もあり、楽しめますが、見ようによっては高尚なエロ本だとみなした方が分かりやすい。もちろん、そこが狙われているわけです。
世界的に高名な家具デザイナー・他が出版した「ベッド」という本もあり、

Ole Wanscher, Hans Bendix, Egill Snorrason, Jørgen Kaysøe, Knud Poulsen, Albert Meritz, Grete Jalk,
Sengen / The Bed / Das Bett / Le lit
(Mobilia, Snekkersten, 1969)
(89 p.)

出版社は知られた家具メーカー。デンマーク語・英語・ドイツ語・フランス語の4ヶ国語を併記しています。ページ番号を振っていない本なので、引用が難しいのが困る点です。
エジプト学者の中で、最も初期に古代の家具を体系的に研究しようとしたひとりはおそらく、Caroline Louise Ransom Williams(1872-1952)で、

Caroline Louise Ransom,
Studies in Ancient Furniture:
Couches and Beds of the Greeks, Etruscans and Romans

(University of Chicago Press, Chicago, 1905)
128 p., 29 plates.

がツタンカーメン王の墓が発見される前に出されています。この本は著者の博士論文で、指導教授はブレステッドでした。彼女についてはアメリカにおける最初の本格的な女性エジプト学者として、バーバラ・S. レスコが紹介文を書いており、"Caroline Louise Ransom Williams"で検索すればすぐに出てくるはず。
これまで出版された本のなかで、墓の壁画を詳細に報告している最良の例としては、

Caroline Ransom Williams,
The Decoration of the Tomb of Per-neb:
The Technique and the Color Conventions.

The Metropolitan Museum of Art, Department of Egyptian Art Publications, III
(MMA, New York, 1932)
ix, 99 p., 20 plates.

を屋形禎亮先生が挙げておられましたけれども、今日でも事情は変わらないようです。結婚して姓が変わっていますが、同一人物による著作です。これほど細かく報告している例は稀。
今では無償でダウンロードすることができます。

ペルネブの本は日本のどこの研究機関が所蔵しているのか、今、Webcat Plusで検索すると、東京国立博物館しか出てきません。でも昔、当方が最初にこの本に触れたのは国会図書館で、事実、まだ所蔵されている様子。
また現在では早稲田大学に入っていることも、早大図書館のデータベースを検索すれば了解されます。

Webcatは完全ではないし、情報が最新ではありません。あまり信用せずに、地道に探すことが大切かもしれません。検索では出てこないけど実際には国内に所蔵されていた、なあんていう例はけっこうあります。

2010年6月15日火曜日

Sorek 2010


古代エジプトのオベリスクに関してはすでに、たくさんの本が出版されています。この欄で触れたものだけでも9冊。
しかしこの他にも多くの論考があって、ピラミッドについての書籍と比べれば数は少ないものの、特に20世紀の後半からは良書が増えています。
「エジプト誌」にもオベリスクの設計基準寸法を探る試みが記されていたりしますから、探せばかなりの量となるはず。
これまでに紹介したものは、以下の通り。

Gorringe 1882
Engelbach 1922
Engelbach 1923
Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)
Iversen 1968-1972
Habachi 1977
Tompkins 1981
Barns 2004
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009

こうした中にあって、新たに出版されたオベリスクの本。
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009は本格的な論考で、ヨーロッパへ与えたオベリスクの影響を考察しており、これとどうしても比較せざるを得ません。Sorekの本は一般書と専門書との間に位置する内容となります。

Susan Sorek,
The Emperors' Needles:
Egyptian Obelisks and Rome
(Bristol Phoenix Press, Exeter, 2010)
xxiv, 168 p.

Contents:
List of Illustrations (vii)
Preface (ix)
Standing Obelisks and their Present Locations (xiii)
Chronologies (xvii)

Introduction: The History of Pharaonic Egypt (p. 1)
1. The Cult of the Sun Stone: The Origins of the Obelisk (p. 9)
2. Created from Stone: How Egyptian Obelisks were Made (p. 17)
3. Contact with the West: Greece and Rome (p. 29)
4. Roman Annexation of Egypt (p. 33)
5. Egyptian Influences in Rome (p. 37)
6. Augustus and the First Egyptian Obelisks to Reach Rome (p. 45)
7. Other Augustan Obelisks (p. 53)
8. Augustus' Successors: Tiberius and Caligula (p. 59)
9. Claudius and Nero: The Last of Augustus' Dynasty (p. 71)
10. The Flavian Emperors and the Obelisks of Domitian (p. 75)
11. The Emperor Hadrian: A Memorial to Grief (p. 89)
12. Constantine and the New Rome (p. 101)
13. From Rome to Constantinople (p. 107)
14. An Obelisk in France (p. 115)
15. Obelisks in Britain (p. 123)
16. From the Old World to the New: An Obelisk in New York (p. 131)
17. The Obelisk Builders and the Standing Obelisks of Egypt (p. 147)

Appendix: Translations of Two Obelisk Inscriptions (p. 151)
Bibliography (p. 159)
Index (p. 161)

xiii-xxivで掲げられているリストや編年表には工夫が凝らされており、知られているものに番号が振られて、各々のオベリスクがいつ、どこへ運搬されたかを示した一覧表が作成されています。有用です。でも番号の表示なので、分かりづらい。「パリ」とか「ニューヨーク」といった略称の付記を考えても良かったかも。

一方、「立っているオベリスク」に限定していますから、「寝ているオベリスク」の代表格であるタニスのオベリスク群には言及されていません。他にもアレクサンドリアの海から引き揚げられたオベリスクの断片などもあって、本当は新しいオベリスクの一覧が望まれるところです。

KMTの最新号にはセティ1世のアスワーンに残るオベリスクの断片が紹介されていましたので、ついでに付記。

Michael R. Jenkins,
"The 'Other' Unfinished Obelisk",
in KMT 21:2 (Summer 2010),
pp. 54-61.

ローマのオベリスクを述べるのであれば、Ashabranner 2002で触れたように、19世紀の人物、George Perkins Marshについては扱って欲しかったと思います。
注目すべき古代ローマの建築の建立に関わったカリグラ(カリギュラ)やネロにも言及しており、図版を多く付加したら、オベリスクを中心とした古代建築の入門書ができるのかもしれない、そうした思いも抱かせる本です。

2010年6月14日月曜日

Barnes 2004


イギリスにあるオベリスクを集めた本。オベリスクがローマに立っていることに影響を受け、イギリスでは16世紀からエジプトのオベリスクを模して立てるようになります。エドウィン・ラッチェンスやジョン・ソーンなど、有名な建築家たちの名も挙げられており、彼らが建築や庭園へオベリスクを積極的に用いる様子が綴られています。

Richard Barnes,
The Obelisk:
A Monumental Feature in Britain

(Frontier Publishing, Kirstead, 2004)
192 p.

巻末に収められたオベリスクの数はおよそ1300で、これでも一部だけが集められた結果の数。その多くは20世紀の戦没者記念のために立てられたものです。他に2000ほど、墓地に立つものが存在する模様。

Contents:
I The Sixteenth & Seventeenth Centuries
II The Eighteenth Century
III Nineteenth Century
IV John Bell's Lecture: The Definite Proportions of the Obelisk and Entasis, or the Compensatory Curve
V Obelisks in Cemeteries and the Rise of Polished Granite
VI The Twentieth Century
VII The Purpose of Obelisks: Theories

第4章で紹介がなされている、19世紀を生きた彫刻家のJ. ベルによるオベリスクの分析が見どころとなります。特に94ページ以降の記述は重要で、検討の余地がある。オベリスクの各部と全体との関連を構造的に探っているからで、これがどこまで合っており、どこが間違っているかが突き止められれば、オベリスクの計画方法は解けることになります。

「第一にピラミディオン底面の対角線、第二にオベリスクの底辺、そして第三にはピラミディオンの高さはすべて同一の長さである」(p. 94)

「オベリスクの底面の対角線の7倍が、正確にオベリスクの全高となる」(p. 95)

ピラミディオンの底面の対角線、あるいはオベリスクの底面の対角線が基準になったとはとうてい思われないのですが、計算をしてみると、例えば「底辺の10倍がオベリスクの全高に相当する」という言い方とほとんど矛盾がないことに気づきます。

1.414×7=9.898

であるからです。
この点は重要で、見逃せません。課題は、彫刻家と建築家のものの見方の違いがどこにあるかということになるかと思われます。

2010年6月12日土曜日

Haring and Kaper (eds.) 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell (eds.) 2009


記号によって情報を交換する古代からのシステムを考えようという本が二冊、続けて出されました。双方とも国際会議の記録。ふたつには関連があって、同じ人たちが双方に関わっていたりします。
二冊目の序文には、

"The congress was connected both conceptually and in terms of its central topics to a preceding conference, ..."
(p. vii)

と書かれていますから、この二冊を別々に考えるのではなく、むしろセットとして考えた方が良いのでは。
先に開催されたレイデンの会議のまとめが

B. J. J. Haring and O. E. Kaper (eds.),
with the assistance of C. H. van Zoest,
Pictograms or Pseudo Script?
Non-textual Identity Marks in Practical Use in Ancient Egypt and Elsewhere
.
Proceedings of a Conference in Leiden, 19-20 December 2006.
Egyptologische Uitgaven 25
(Peeters, Leuven, 2009)
vii, 236 p.

で、この一年後にゲッティンゲンにて開かれた会議の記録が

Petra Andrássy, Julia Budka and Frank Kammerzell (eds.),
Non-Textual Marking Systems, Writing and Pseudo Script from Prehistory to Modern Times.
Lingua Aegyptia, Studia monographica 8
(Seminar für Ägyptologie und Koptologie, Göttingen, 2009)
viii, 308 p.

となります。

記号による情報伝達が注目されているのは、文字による伝達を過信することへの戒めに他なりません。文字史料が残ってさえいれば、これを信じて尊重したくなりますし、事実、エジプト学の進展には、碑文学による成果が大きな影響を与えてきました。
しかし文字は、果たして本当のことを伝えているのかどうか。書くことによって「捏造」がおこなわれているのではないのか。そもそも、人が「記す」という行為自体が「捏造」に加担するのではないのか。当時に文字が書ける人間がどれほどいたのか。
こうした点は、イギリスのJohn Bainesなどが特に強調してきた問題意識。

この覚醒が指摘されるようになって、これまではあまり注意が向けられてこなかった単なる記号や簡単な書きつけなども、考察の対象に含めようという動向が出てきました。
つまり今までは、文字だったら解読してその情報を疑いもなく受け入れてきた傾向が見られましたが、そこでもたらされる意味は歪んでいて、真実のごく一部分しか伝えていない可能性があるように思われるため、今度は情報の伝達を目的としてなされた古代における人間の行為全体をすくい取るにはどうすればいいか、という求めが問われているわけです。
すでに紹介しているPeden 2001や、Bülow-Jacobsen 2009の意図とも繋がってきます。

従って対象は多岐にわたり、記号論が参照されたりもします。背景のシステムを探るという作業ですから、暗号解読、あるいはパズルを解くことにほとんど近い仕事ともなります。
建築の世界では、建造者たちが書きつけた記号の分析によって、労働者組織や建築生産体系がどこまで明らかになるのか、という話題と結びつけられることが少なくありません。

日本近世の城郭の石垣にも似たような記号が石ごとに刻まれていたりしますが、やることは地域や時代を問わず、一緒です。エジプトの他に、ミノア期におけるクノッソスなどの宮殿でうかがわれますし、西欧中世の石造によるカテドラルでもおこなわれていたことは良く知られている事実。
二冊の本は両方とも寄稿者は多いのですが、ただ、想定される情報伝達システムの立ち起こしを目指している割には、どれもこれも前途は多難だという印象を抱かせます。

まずは、両方の本に論考を執筆している者たちの文章を読み比べると面白いかもしれません。書き分けがうまくなされているか、という点です。
それはこのパズルを、生活の営為の中で古代の人間がどのように工夫したかという原点に、誰がより深く引き寄せることができているかを探ることと繋がってくるように思われます。

2010年6月10日木曜日

Ikram and Dodson (eds.) 2009 (Fs. Barry J. Kemp)


バリー・ケンプへ捧げられた献呈論文集。40人以上の研究者たちが論考を寄せています。
「地平線の彼方」というタイトルは、ノーベル文学賞を受賞した米国の劇作家ユージン・オニールの名作で知られていますが、ホメロスの「オデュッセイア」でも、冥界のある場所は「地平線(水平線)の彼方」と表現されていたはず。
しっかりとした造本ですが、第2巻の目次においてページ番号が途中から全部、誤って記されているのは惜しまれます。

Salima Ikram and Aidan Dodson eds.,
foreword by Zahi Hawass,
Beyond the Horizon:
Studies in Egyptian Art, Archaeology and History in Honour of Barry J. Kemp
, 2 vols.
(Publications of the Supreme Council of Antiquities, Cairo, 2009)
xviii, 1-323 p. + vi, 325-613 p.

話題を建築に限って眺めるならば、まずはザヒ・ハワースの

Zahi Hawass,
"The Unfinished Obelisk Quarry at Aswan",
Vol. I, pp. 143-164.

が目を惹きます。
アスワーンの再発掘調査で、何本ものオベリスクの痕跡が発見されました。今、アスワーンに行くとそれらが見られ、削られた岩盤の面にはたくさんのヒエラティック・インスクリプションも確認することができます。多くは単なる季節と日付の羅列で、掘削作業の進捗状況を書きつけたもの。しかしこの本の論考では、それらをほとんど報告していません。これからの発表が期待されます。
掘りかけの新王国時代の巨像も見つかったと記されていて、その大きさに興味を覚えましたが、図28にうかがわれる平面図のスケールは明らかに間違いで、たぶん、この立像の高さは20メートルほど。古代エジプトで最大の巨像はザーウィヤト・スルターンとアコリスに未完成のまま残るプトレマイオス朝のもので、その調査は現在、筑波大学の発掘調査隊が手がけています。これと匹敵する大きさである点が注目されます。

Corinna Rossi and Annette Imhausen,
"Architecture and Mathematics in the Time of Senusret I:
Section G, H and Papyrus Reisner I",
Vol. II, pp. 440-455.

は、難解であった中王国時代のpReisnerの読解を試みています。このパピルスについては、Simpson 1963-1986で前に触れました。
詳細を省いて略記された建築の積算に関する記録方法と、神殿の建造の手順を踏まえながら、文字史料との整合性を考えている論考で、とても重要。
ここでもセケドが紹介されています。ここで書かれているセケドの概念は、しかしもっと拡張されるべきで、高さ方向に1キュービットを取り、水平方向にパームやディジットの長さを測るやり方だけでなく、すでにロッシがJEAの論文などでほのめかしているように、水平方向に1キュービットを取る勾配の規定方法も含めて考えると、もっとエジプト建築研究は進むのでは。極端な話、水平方向に1キュービットを取り、垂直方向に1ディジットを測るやり方も、セケドの範疇であると思われます。

Kate Spence,
"The 'Hall of Foreign Tribute' (S39.2) at el-Amarna",
Vol. II, pp. 498-505.

悩ましい"lustration slab"の解釈を挟みながら、アマルナのアテン大神殿に付設されている何だか良くわけが分からなかった謎の建物を考察。
建築の復原で何を根拠とすべきかが示されており、面白い論考です。
でも、ちょっと短いのが残念に思われるところ。

2010年6月9日水曜日

Tietze (Hrsg.) 2008


題名はずばり、「アマルナ」という本。アクエンアテンとアマルナに関する展覧会がケルンで開催され、そのカタログが出ています。
300点以上の図版を収め、そのほとんどがカラー図版で分かりやすい。

Christian Tietze (Herausgegeben von),
mit Beiträgen von Erik Hornung, Hermann A. Schlögl, Barry J. Kemp, Wafaa el-Saddik, Bernd U. Schipper, Christian E. Loeben, Martin Fitzenreiter, Angelika Lohwasser, Ptera Vomberg, Anne Koch, Christine Kral, Manuela Gander, Marc Loth.
Amarna:
Lebensräume - Lebensbilder - Weltbilder

(Arcus-Verlag, Potsdam, 2008)
290 p.

すごい人たちが執筆者に入っており、驚きます。この企画者であり、またカタログの編者の熱意が伝わってくるところ。ポツダム大学で教えている編者Tietzeは、アマルナ型住居の研究で良く引用される研究者。ZÄSにおける2本の連続論文で一躍、知られるようになりました。

ドイツ隊による20世紀初頭のアマルナ発掘調査では、多数のアマルナ型住居が掘り出されましたが、それらの成果は雑誌Mitteilungen der Deutschen Orient-Gesellschaft zu BerlinMDOG)の他に、まずリッケの論文によってまとまって発表されました。リッケの学位論文。

Herbert Ricke,
Der Grundriss des Amarna-Wohnhauses.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 56.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna, 4
(Leipzig, 1932)
viii, 75 p., 26 Tafeln.

リッケという人は、古代エジプト建築研究できわめて重要な役割を果たした人。
それから50年ほど経った20世紀の終わり近くには、厚い図面集として最終報告書が出版され、これが後の人々にとって第一級の資料となります。すでにボルヒャルトもリッケも死んでいた時期だったので、この立派な図面集が出た時には大変な驚きがありました。
ボルヒャルトが亡くなったのは1938年で、リッケの没年は1976年。ボルヒャルトやリッケの名が冠された著作物のうち、たぶんもっとも新しく、また最後となる本です。
また、"Mitarbeit"に挙げられている人々の表記方法も、とても特異。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Unter Mitarbeit von Abel, Breith, Dubois, Hollander,
W. Honroth, Kirmse, Marcks, Mark, Rösch, einem Anhang von Stephan Seidlmayer.
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, VII site plans, 112 plans.

さて、Tietzeはこの本の図面に収録されている平面図に片っ端から当たり、数百の住居を全部で8つのカテゴリーに分けました。
アマルナ型住居に関する本格的な論考で、これに比肩できる20世紀における著作は、Endruweit 1994ぐらいしかありません。その知見がここでも披瀝されています。

アマルナ型住居の上層がどうなっていたかについては、Spenceが論文を近年書いています。

Kate Spence,
"The Three Dimensional Form of the Amarna House",
in Journal of Egyptian Archaeology 90 (2004),
pp. 123-152.

彼女は長年アマルナの発掘に携わったバリー・ケンプの愛弟子。
この論考によってTietzeによる見解が異なることになるのか、それが興味深い点です。

Ian Shaw,
"Ideal Homes in Ancient Egypt:
the Archaeology of Social Aspiration",
in Cambridge Archaeological Journal 2:2 (1992),
pp. 147-166.

も目を通しておくべき論文。

2010年6月8日火曜日

Wilkinson 1835


エジプト学でウィルキンソンと言えば、19世紀の大旅行家であったと同時に記録魔でもあったこのウィルキンソン卿がまず挙げられるべきですが、もうほとんど引用されなくなってきたおかげで、日本では忘れ去られているようにも見受けられます。
しかしイギリスではエジプト学のパイオニアに該当し、19世紀におけるテーベの姿を知ろうと思った際には、必ず言及される巨人。日本で言うと、建築史学と考古学の双方のパイオニアであった伊東忠太に匹敵します。
初めの代表作は、"Topography of Thebes, and General View of Egypt"ですけれども、本当はこの本に、とてつもなく長い副題がつけられており、

John Gardner Wilkinson,
Topography of Thebes, and General View of Egypt.
Being a Short Account of the Principal Objects Worthy of Notice in the Valley of the Nile, to the Second Cataract and Wadee Samneh, with the Fyoom, Oases, and Eastern Desert, from Sooez to Berenice;
with Remarks on the Manners and Customs of the Ancient Egyptians and the Productions of the Country, &c. &c.
(John Murray, London, 1835)
xxxvi, 595 p.

と、もう際限がありません。「グーグル・スカラー」によってある程度、1835年の初版を見ることができるのが便利です。
上記では直してありますが、原書では著者名が、"I. G. Wilkinson"と印刷されている点に注意。ピラミドグラフィアの、"John Greaves"の場合もそうでした。
また、副題に"Manners and Customs of the Ancient Egyptians"という記述がすでに見えることも面白い。
というのは、この人は数年後に内容を書き改めて、もっと記録を充実させた

John Gardner Wilkinson,
The Manner and Customs of the Ancient Egyptians, Including their Private Life, Government, Laws, Arts, Manufactures, Religion, Agriculture, and Early History, Derived from a Comparison of the Paintings, Sculptures, and monuments still Existing, with the Accounts of Ancient Authors, 6 vols.
(1837-1841)

を執筆しているからで、これが名高い"The Manner and Customs of the Ancient Egyptians"の初版です。
6巻もあり、驚異の書。しかしウィルキンソンの死後、数年経ってからサミュエル・バーチが3巻からなる改訂版を編纂しました。

John Gardner Wilkinson and Samuel Birch,
The Manner and Customs of the Ancient Egyptians, 3 vols.
(new edition, revised and corrected by Samuel Birch. S. E. Cassino, Boston, 1883)
xxx, 510 p. + xii, plan, 515 p. + xi, 528 p.

この3巻本が非常に普及したために、こちらの方がウィルキンソンの著作の中ではおそらく最も有名。
他にも、

John Gardner Wilkinson,
A Popular Account of the Ancient Egyptians

などがあり、近年のリプリントも盛んで、専門家もわけが分からなくなっている状態。
古代エジプト人の生活を広く紹介した本としては、A. エルマンの著作とともに、重要な書籍です。
引用する際には、書誌を注意深く確認することが必要。