2014年5月17日土曜日

近代築城遺跡研究会(編) 2012


近代築城遺跡研究会の角田誠さんから貴重な論文集をお送りいただきました。
ありがとうございました。

土木請負業を営む西本組を率いた初代の西本健次郎は、国内外の鉄道敷設関連工事に携わったことが知られています。「三井建設社史」(1993年)や「日本鉄道請負業史 明治編 中」(1944年)の南海鉄道を述べた部分などに彼の名が繰り返し出てきますが、後年に貴族院議員も務めた時期があり、国立国会図書館の「帝国議会会議録検索システム」で名前を検索すると、29件を確認することができます。

他方、西本組は軍事建築の造営にも関わりました。由良要塞友ヶ島砲台群のうち、「第一砲台」の建築工事を西本組が手掛けた記録が残っています(pp. 131-132)。ただ情報が機密事項を含んでいたためか、西本組には図面類が一切残っていない点が残念です。

さて、和歌浦で老舗の会席旅館であった「あしべ屋」は、移ろい行く観光業界の趨勢に逆らうことができず、大正時代の末期には廃業を余儀なくされましたが、その際に妹背山の「あしべ屋妹背別荘」が西本健次郎に売却され、彼はそれをしばらく別荘として用いました。折々には貸し出しもおこなっていたようです。
あしべ屋の関連施設はたくさんありましたけれど、今なお残存しているのは妹背別荘とその脇に建てられたビリヤード場だけです。このビリヤード場は妹背山から近くの場所へと移築され、本館や玉津島別荘(北の別荘)などはすべて取り壊されました。

こうして和歌山市に点在しながら残る3つの建物、つまりレンガ造の堅固な「由良要塞 友ヶ島第一砲台」(明治23年)と木造平屋建の「あしべ屋妹背別荘」(明治時代中期~大正初期)、そして初期コンクリート造の登録有形文化財「旧西本組本社ビル」(大正14年)とが関連性をもって結びつくことになります。第二次世界大戦の終わりを迎えて友ヶ島第一砲台は放棄されたものの、第二砲台のように爆破破壊されることは免れたようです
西本組本社ビルは1945年の和歌山大空襲によって甚大な被害を受けましたが、2階の空中廊下で繋がっていた隣接の木造住居部分のように焼失や倒壊することはなかったので改修が施され、その後も使われ続けました。妹背別荘は幸いにも戦火を受けなかったため、西本家の疎開先として用いられました。
それぞれ固有の歴史を辿りながら、偶然残ることになった3つの例と言っていいのかもしれません。

定本義広編「由良要塞 III:京阪神地区防衛の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2012年、
(v)、187 p.

目次
角田誠「明治初年における大阪湾の防備状況」(p. 1)
原田修一「生石山弾薬本庫跡発掘調査報告書」(p. 21)
原田修一「コラム:由良要塞砲兵連隊及び由良要塞司令部の写真について」(p. 25)
原田修一「コラム:門崎砲台の写真について」(p. 28)
原田修一「コラム:斯加式九糎速射砲薬莢箱について」(p. 30)
臼井敦「東京湾要塞 伊勢山崎水雷砲台(2):男良谷水雷砲台を考えるうえで」(p. 31)
森崎順臣「御坊市野口地区の砲台について」(p. 58)
久保晋作「本土決戦における旧式砲の使用についての考察」(p. 71)
久保晋作「淡路島における砲台遺構の破壊についての考察」(p. 87)
豊島邦彦「赤松山堡塁遭難記」(p. 106)
溝端佳則「絵葉書写真に見る重砲兵第三連隊〜野戦重砲兵第三連隊」(p. 111)
宮田逸民「三木飛行場ノート」(p. 123)
中川章寛「姫路海軍航空基地の防空施設について」(p. 153)
定本義広「○○(マルマル)、陸軍由良飛行場について」(p. 176)
編集後記(p. 185)

友ヶ島は近年、映画「天空の城ラピュタ」の中で展開する光景に酷似しているということで訪れる若者たちが増え、賑わっているようです。ですが、本当は地味な記録作業がもっと重要であろうと感じます。
今年、久しぶりに訪れましたけれども、虎島の岸壁までは回ることはできませんでした。観光地だと侮っていると思わぬ怪我をする可能性があり、この島では天候と潮位を常に注意して行動することが望まれると思います。

既刊としては、次の3冊がすでに刊行されています。

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 I:大阪湾防御の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2009年、
175 p.

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 II:紀淡海峡の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2010年、
160 p.

近代築城遺跡研究会編「舞鶴要塞 I:舞鶴港湾と山陰の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2011年、
190 p.

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