2015年3月30日月曜日

Michel 2014


古代エジプトの数学についての厚い本がまた出版されました。
全部で600ページを超えます。
ざっと目を通しただけですけれども、いろいろと示唆を受けました。購入しても損はないのでは。
約55ユーロという値段のようですから、入手しやすい価格です。
最新情報が全部詰め込まれた体裁で、その良い面と悪い面とがあらわれ出ている、そういう印象となります。古代エジプトの数学について、最新の情報が必要な場合には良いかもしれません。

Marianne Michel
Les mathématiques de l'Égypte ancienne: 
Numération, métrologie, arithmétique, géométrie et autres problèmes.
Connaissance de l'Égypte Ancienne 12
(Bruxelles, Éditions Safran, 2014), 
603 p.

目次に関しては以下のURLが、ページ数が明記されていないものの、小項目も含めて全部公表されていますから、参考になるのではないでしょうか。


細かいことは、ここで記しません。
こちらが取り敢えず気になるのは、建築に関わる記述だけとなります。
古代エジプトの数学に関わる著作として、小欄ではこれまでRobson and Stedall (eds.) 2009Imhausen 2007Rossi 2004Imhausen 2003、またClagett 1989-1999などに触れてきました。これらの刊行物の総まとめを狙った意図が見られ、非常に意欲的です。
この点は何よりも評価すべきかと思われます。

ピラミッドに関する記述は、p. 393から始まります。そこにはリンド数学パピルスなどの解説に続いて例の有名な、というか、建築に興味を持っている者なら必ず興味を抱いているに違いない第一アナスタシ・パピルスに出てくる斜路やオベリスクの難問が同時に扱われており、これはすなわち、「建物の勾配の決定方法が古代エジプトの長い時代を超えて検討されている」、ということとなります。
こういう見かたは、これまでなかったように感じられます。
因みに、第一アナスタシ・パピルスは新王国時代後期(ラメセス朝)のもの。リンド数学パピルスは第二中間期、またモスクワ数学パピルスについてはさらに若干古く、第11王朝に遡ります。

だいたいエジプト学における設計方法の研究と言うものは、20世紀の初期までは建築を専門とする人たちによって重要な情報が部分的にもたらされていたのですが、それ以降は考古学者による勝手な解釈が入り混じり、加えて建築学者の中の一部分の方が間違ったことを唱えたりして、状況は悲惨なこととなりました。
今、古代エジプトの遺跡の調査に関わる人の大多数は、建物の規模を測って1キュービット=約52.5cmでちょうど割り切れるかどうかを調べ、それがうまくいかない場合には、すぐに判断を中止すると思います。遺構の測量を専門としている方々も同様です。

基本となるキュービット尺に関する説明を、権威と認められた文献学者が事典等で書き続けた結果、これを真に受ける考古学者が続出し、困ったかたちとなっています。日本での古代エジプトのキュービット尺の紹介は、そうした情報を単に翻訳しているだけですから、読むに値しません。
繰り返しますが、碩学のバリー・ケンプが何故、唐突にアマルナ型住居の平面計画方法の分析において小キュービットを持ち出したのか、その意味を深く考える必要があります(Kemp (ed.) 1995)。古代エジプトの尺度について、もう一回根本的に考えたらどうかという異議がそこでは真剣に出されているとみなすべきです。
なおアマルナ型独立住居の平面寸法分析については、キュービット尺を前提とした短い考察があります(Tietze (Hrsg.) 2008)。

M. Michelの本のp. 437には古代エジプトにおける勾配の一覧表と呼ぶべきものが初めて掲載されており(Fig. 145)、とても注目されます。これまでこうしたものは提示されることがありませんでした。ここではImhausen 2003Rossi 2004の著作が大きな役割を果たしていると見受けられます。ピラミッドもマスタバも塔門の壁体も墓のスロープもオベリスクも、みんな入っています。

この表には第一アナスタシ・パピルスにおける、いわゆる「オベリスクの問題」の勾配も扱われていますが、ただ「1キュービット、1ディジット」と言う解釈は従来通りです。第一アナスタシ・パピルスにせっかく触れたのに、惜しまれます。

「1キュービットに対し、1ディジット(指尺)単位の指定による勾配の規定も存在した」とセケドの概念を拡げたらこの本も革新的になったでしょうが、エジプト学の枠内に論理が収斂したせいで、最も肝要な域を超えることはありませんでした。Miatelloによる近年のセケドの論などにも触れていますが、当方には論外だと感じられます。
個人的に秘かに考えているセケドの概念の枠の解体方法としては、

1、基準となる1キュービットの水平と垂直を入れ替えてもセケドである
2、1キュービットに対してディジット(指尺)単位で指定される勾配もセケドである
3、勾配規定の基準となる1キュービットの長さが6パームでもセケドである

この3つが重要だと思います。
何故、これまで唱えられてきたセケドの概念を解体しなければならないのか。
理由は明瞭です。今のままの硬直した考えでは、ピラミッド研究など、古代エジプト建築の研究がまったく進まないからです。当時の設計方法の推察を重ねていかないと、埒が明きません。

すでにお分かりの通り、「小キュービット」の存在は疑われています。
ただこの考え方で問題となるのは、すべてを古代エジプト人のものさしの多様な扱いの中に解消させようとしている点です。それを他の学者たちが認めてくれるのかどうかは分かりません。
特に日本建築の場合、大尺・小尺という規定がかつてありましたから、その類推で日本人研究者が古代エジプトにおける小キュービットに対して早合点をする場合があって、 問題だと思われます。

19世紀に、古代エジプトのものさしが実際に出土したことも、近代の研究者の考えを束縛しました。

1、ものさしに示された単位長だけを基準として建物を造ったであろうと狭く考えた。
2、ものさしに刻まれた目盛り以外の寸法は用いられなかったであろうと狭く考えた。
3、「セケド」がリンド数学パピルスにピラミッドの設計方法として記されたため、それ以外の斜めに造られている構築物部分へのセケドの適用に対しては慎重になった。

古代エジプトにおける勾配を定める方法である「セケド」はエジプト学者たちによって、これまで概念が極めて限定して考えられてきました。限られた文字史料でしか扱われてこなかったので、その解釈を厳密に考えようとした経緯は当然です。また第二中間期の記述を新王国時代の遺構に当て嵌めていいのかという逡巡もあったことでしょう。
しかし逆に言えば、柔軟に作業を進めた古代エジプト人の設計方法や建造方法をほとんど配慮しない考え方でキュービット尺やセケドの解釈を進めてきたとも言えます。

古代エジプト研究の世界は現在、細分化されています。考古学、文献学、数学など、細分化した分野で解釈の矛盾があるわけですけれど、それらを建築学の中で再びひとつに包括し、問題を解消できるのではないかという、その可能性が指摘できるように思われます。