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2017年7月26日水曜日

Killen 2017


Killenはリヴァプール大学で博士号を2012年に取得しました。
意外なことに、タイトルには「家具 Furniture」が含まれず、もっと広い用語の「木工 Woodworking」が使われています。
博士号もエジプト学ではなく、歴史学の分野で博士号を取得したようです。
謝辞の最初には、イアン・ショーの名が掲げられています。

Geoffrey Patrick Killen
Ramesside Woodworking, 2 vols.
Liverpool University, Dissertation, 2012

検索するならば、博士論文の2巻本は入手が可能です。
この博士論文を踏まえた刊行物が、今回紹介する以下の本です。


Geoffrey Killen
Ancient Egyptian Furniture, Vol. III. Ramesside Furniture
Oxford, Oxbow, 2017
xvi, 158 p.

Contents
List of Figures vii
List of Plates ix
Acknowledgements xiii
Abbreviations and Sigla xv

Chapter 1. Deir el-Medhina: A Community of Entrepreneurs? p.1
Chapter 2. An Analysis of Ramesside Furniture Used in Gurob and Memphis p.31
Chapter 3. Remesside Furniture Forms p.43
Chapter 4. Royal and Temple Furniture p.87

Notes p. 99
Appendix A: Remesisde Furniture Types p.103
Appendix B: Furniture Types Illustrated in Ramesside Theba Tombs p.115
Appendix C: Furniture Types Illustrated in Ramesside Memphite Tombs p.137
Appendix D: Distribution of Stool Types by Gender as Illustrated in Private Ramesside Theban Tombs p.141
Appendix E: Distribution List of Replica Wooden Products Manufactured by the Author and Preserved in Museums and Private Collections p.143

Catalogue of Museum Collections p.143
Bibliography p.155


"Abbreviations and Sigla" という章立ては珍しいのですが ,これは♂や♀の記号が文中で用いられているからでしょう。

の方は、古代エジプトの家具に関しては今の時代、第一人者です。
すでにÉgypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996); Killen 1980; Killen 2003などで紹介をしてきました。
この本は、2012年の博士論文の2冊の内容をかなり圧縮して出版されたらしく思われます。

うーん、博士論文と見比べると、もう少し何とかならなかったのかという思いが去来します。
H. G. Fischerの論考に関しては、文献リストの中でLexikon der ÄgyptologyStuhlの項目しか挙げていません。果たしてこれで良いのか? なお、Eaton-Kraussの論考については、3つだけ掲げています。
Killenの博士論文のテーマが「ラメセス期の木工」ですから、仕方がないところもあります。FischerEaton-Krauss両名とも、もっぱら第18王朝の家具に言及していますので。
でも時代が違うからと言って、これまで貴重な意見を述べてきた2人の研究者を蔑ろにして良いのか、という感想が残るわけです。

Killenは古代エジプトの家具に関してたくさん本を出しているのですが、特に中王国時代の椅子の解釈や文献引用の方法に関する大きな誤謬が言語学者のFischerなどによって指摘され、エジプト学の中では何となく信用されなくなっている雰囲気です。だからそれを勘案して修正を施した、これから皆が使える家具に関する本の出版を期待していたのですが、残念です。

世界の美術館・博物館に収蔵されているリストは、既刊のリストで漏れていたものだけを掲載しています。巻末で、8ページにわたってカラー写真を掲載。
何はともあれ、古代エジプト家具を知りたい人にとっては必読書となります。
既刊の第1巻・第2巻とは異なり、ハードカバーの装丁です。

2017年1月5日木曜日

Imhausen 2016


この人の著作については、前にもImhausen 2003などでいくつか言及しました。古代の数学史を専門とする女性の方です。ヒエログリフも楔形文字も、両方読める人。たくさん執筆しています。

Annette Imhausen
Mathematics in Ancient Egypt: A Contextual History.
Princeton and Oxford, Princeton University Press, 2016.
xi, 233p.

廉価版の電子体も広く出回っているようですが、本当に読もうと思っておられる方には、是非とも冊子体の御購入をお勧め致します。この分野の全般を客観的に見渡している最良の書です。アマゾンの「なか見!検索」で、目次の他、内容の概要を見ることが可能です。
表紙が中王国時代の穀物倉庫の模型、というのも示唆的です。穀物を家屋内に持ち込んでいる労働者の他に、座って数量を書き込んでいる書記たちの姿が見られます。ちゃんと膝の上に筆箱(パレット)を置いているのが面白い。
この家屋の模型における戸口の両脇と上框が赤く塗られている表現は貴重。家の戸口は木で作られていたことを伝えています。社会的身分の高い者の家の戸口では石材も用いられましたが、多くは石灰岩や砂岩です。戸口の下は白く塗られており、敷石があったことを示しています。壁体はもちろん、泥煉瓦造であったはずです。四隅の上部が三角形に尖っている点も注目されます。
こういうことを詳しく書いている論考は、あまり見当たりません。この種の分野の主著であるH. E. Winlock, Models of Daily Life in Ancient Egypt: From the tomb of Mekhet-Re' at Thebes. NY, MMA, 1955は今、幸いにもPDFがダウンロードできるようになりました。


さて、中王国時代の模型の家屋の内部には独立柱が一本もありません。注意されるべき点です。専門家はこのように、本を見る時には「何が書かれているか」を読むのではなく、逆に「何が書かれていないか」を集中して見ます。これは恩師・渡辺保忠の教えでした。
古代エジプトの柱については、

Yoshifumi Yasuoka
Untersuchungen zu den Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter.
Quellen und Interpretationen- AltÄgypten (QUIA), Band 2.
Hützel, Backe-Verlag, 2016
が出版され、これまでの事情が一変しました。彼はBiOr (Bibliotheca Orientalis)という専門誌において、建築に関連する書物の目覚ましい書評を次々に書いていたため、良く知られていた人です。この本の内容の充実さに匹敵する類書としては唯一、L. Borchardt, Die aegyptische Pflanzensäule, Berlin 1897だけが挙げられるかと思われます。古代ギリシャの柱との関連、すなわち「オーダー」の初源の姿も示唆しており、素晴らしい。古代ギリシャ建築の碩学であるJ. J. クールトンも扱うことができなかったトピックです。
古代エジプトの柱については、素人が柱の写真集を出したりもしていますが、史料的な価値に乏しく、領野内での評価は思わしくありません。

数学と建築学との間には、接点がないこともありません。古代における大きな造形物がテーマとなった場合、これをどのように設計したかが絶えず問題となります。計画の過程を示すようなものが文章として残される場合があって、特にこれが算術の問題として記されると、数学史の分野では大きく注目されるわけです。書記の養成を目的として、こうした問題は史料としていくらか残されており、リンド数学パピルス、モスクワ数学パピルス、また中王国時代のパピルスなどが知られています。今後、末期王朝以降のパピルスも問題となってくるでしょう。

逆に、建築史の世界で注目されるような単なる寸法指定のテキストは、その記録がいくら古くても数学史の世界ではほとんど取り扱われません。また数学史の領野で古代エジプトの分数の表記の特殊性が強調されても、建築史の専門家たちは関心を寄せないであろうと感じられます。何故なら建築の世界では、当時のキュービット尺のものさしをどのように自在に扱ったかが、より重要であるからです。
他方で、近年では3Dスキャナによる測量を含めた最新の科学方法を競う世界が飛躍的に展開されています。
たぶん、この3つの学的領域で各々、重ならないようで重なっている項目を具体的に挙げていくと、相互の関心の度合いが見えてきて、面白い成果があらわれるのではないかと思います。
お互いの盲点が明瞭となるはずです。

Michel 2014との比較も、たいへん興味深いところです。
不満があるとするならば、大きな枠組の外へ踏み出そうとしていない点でしょうか。
でも、平易な書き方で全体を網羅しており、きわめて重要です。Architectural Calculationという項目がp.112以降に書かれており、またp.170以降にはMathematics in Architecture and Artという項目が見られます。
古代エジプト建築に携わる人間であれば、目を通しておくべき必読書となっています。

2016年12月28日水曜日

Budka, Kammerzell, and Rzepka (eds.) 2015


数日前にデパートへ行ったら、かつてと比べて人が本当にいないことにびっくりです。西洋建築史の授業では19世紀におけるデパートという施設の登場についてけっこう喋ったりしてきましたから、社会の状況を常に見ていないと本当にいけないのだなと改めて思いました。
故・清岡卓行の詩には、「デパートの中の散歩」というものもありましたっけ。僕は昔読んだこの人の書いたものに、今でも非常な愛着があります。

久しぶりにデパートの上階にある天ぷら屋さんに入ったら、品書きのリストの中に「丸十」と書かれているものがあることに気づき、個人的に興味が惹かれました。食べ物の表記で「丸十」というのは良く分からず、まるで判じものです。

「判じもの」という言い方自体が、もう簡単には伝わらなくなっている時代かもしれませんけれども。

日本のお城の石垣に刻線として残されている記号の中には、丸(円)の中に十字を記したものがあって、これは江戸時代の薩摩藩(さつまはん)の島津家における家紋と同じです。従って、石垣を構成している石に「丸十」の印があるものは、薩摩藩が担当して切り出しと運搬をおこなったものとみなされます。

時代や地域を問わず、建物を作る際にはたくさんの人手が必要で、その中には混乱を避けるために情報を直接、建材に担当者の名や日付、大きさ、使用箇所や使用部位などを簡単に書きつける場合が広範に見られます。
すでにお分かりの通り、薩摩藩主の島津家の家紋であった「丸十」は、転じて「さつまいも」という野菜を意味する場合にも用いられるようです。「さつまいも」は、もちろん「薩摩藩(さつまはん)」の名産品。「丸十」は、薩摩芋(さつまいも)の天ぷらをここでは意味します。
言葉の元の意味が拡張される一方、また情報が時代とともに廃れ、二重三重に分かりにくくなっています。このような仕組みを基本的に考えようとするのが言語学で、伝達という点を徹底的に考えようと工夫し、記号学というものも考え出されました。

この小欄にてすでに扱った2冊(Haring and Kaper eds. 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell eds. 2009の続編が出版されました。思わず薩摩藩の「丸十」を思い出した理由は、この本が古代エジプトにおける同様の記号表現をしつこく特集しているからです。
いくらか遅れて購入しましたが、古代エジプトにおける記号の研究がこんなに熱心に続いているのが、とても意外に思われました。

Julia Budka, Frank Kammersell, and Slawomir Rzepka (eds.), 
Non-Textual Marking Systems in Ancient Egypt (and Elsewhere).
Lingua Aegyptia, Studia Monographica 16
(Hamburg: Widmaier Verlag, 2015).
x, 322 p.

Contents:

鮮やかな黄色の布張りのハードカバーが印象的なモノグラフのうちの一冊です。
NTMSなんていう、まったく聞きなれない略称が度々出てきますけれども、古代エジプトで出てくる記号の解読をちょっと大げさに考えたいという姿勢が出てしまっているだけで、少々分かりにくいのですが熱意を汲み、勘弁してあげてください。
全体は4つに分かれており、

Methods & Semiotic
Architecture & Builders' Marks
Deir el-Medina
Pot Marks

という構成です。特に2番目については、こちらの興味に関わります。
末尾に執筆者たちの連絡先が併記されているのが便利です。

記号学(記号論)にまで問題を拡げており、面白くなっています。
今は完全に下火となっていますけれど、記号学についてはかつて日本の思想界にて良く読まれました。建築の世界では、P. アイゼンマンと絡んでチョムスキーの理論を筆頭に、さまざまな著作が参照されたりもしました。丸山圭三郎、前田愛といった方々の名が私的には思い起こされます。

ただ古代エジプトにおいてこの問題がどのように収斂するのかという問いになると、心もとない気もします。泥煉瓦につけられるマークや石切り場でうかがわれる記号などは当方にとっても興味が惹かれますが、それらの解釈に関して、あれ?と思う記述にぶつかる場合があって、些細な点ではあるものの、例えば石切り場の天井に引かれた線が、切り出したい石の大きさをあらわしているというような見方は改められるべきかと思われます。

建材に記された記号に関する基本的な問題はかなり前に指摘されていますけれど、建築を専門とする者以外の人には充分に理解されていないようで、例えばClarke & Engelbach 1930の記述を簡単に否定するのはどうかなと、同じ建築学の側に立つ者としては思うところでした。

西欧中世の教会堂の石材にもマークはうかがわれ、複数の研究書が出版されています。
でもエジプト学におけるこうした記号への注目というのはちょっと他の分野には見られない熱心さがあって、異常とも思われる箇所です。謎解きという面もありますので、そこで注目する人が多いのかも知れません。
記号の表現における表意文字と表音文字との混交という性格にもおそらく起因し、欧米の研究者たちを引きつけているのかなと憶測します。
要するに、難解な暗号の解読が成功した時の魅力に引き寄せられる特異な分野です。

カンボジアのクメール石造建築の石材においても短い書きつけがしばしば刻線で記されていますが、これに興味を示す者は未だいないようです。
そろそろ集成が作られるべきかとも思ったりしています。

2015年3月30日月曜日

Michel 2014


古代エジプトの数学についての厚い本がまた出版されました。
全部で600ページを超えます。
ざっと目を通しただけですけれども、いろいろと示唆を受けました。購入しても損はないのでは。
約55ユーロという値段のようですから、入手しやすい価格です。
最新情報が全部詰め込まれた体裁で、その良い面と悪い面とがあらわれ出ている、そういう印象となります。古代エジプトの数学について、最新の情報が必要な場合には良いかもしれません。

Marianne Michel
Les mathématiques de l'Égypte ancienne: 
Numération, métrologie, arithmétique, géométrie et autres problèmes.
Connaissance de l'Égypte Ancienne 12
(Bruxelles, Éditions Safran, 2014), 
603 p.

目次に関しては以下のURLが、ページ数が明記されていないものの、小項目も含めて全部公表されていますから、参考になるのではないでしょうか。


細かいことは、ここで記しません。
こちらが取り敢えず気になるのは、建築に関わる記述だけとなります。
古代エジプトの数学に関わる著作として、小欄ではこれまでRobson and Stedall (eds.) 2009Imhausen 2007Rossi 2004Imhausen 2003、またClagett 1989-1999などに触れてきました。これらの刊行物の総まとめを狙った意図が見られ、非常に意欲的です。
この点は何よりも評価すべきかと思われます。

ピラミッドに関する記述は、p. 393から始まります。そこにはリンド数学パピルスなどの解説に続いて例の有名な、というか、建築に興味を持っている者なら必ず興味を抱いているに違いない第一アナスタシ・パピルスに出てくる斜路やオベリスクの難問が同時に扱われており、これはすなわち、「建物の勾配の決定方法が古代エジプトの長い時代を超えて検討されている」、ということとなります。
こういう見かたは、これまでなかったように感じられます。
因みに、第一アナスタシ・パピルスは新王国時代後期(ラメセス朝)のもの。リンド数学パピルスは第二中間期、またモスクワ数学パピルスについてはさらに若干古く、第11王朝に遡ります。

だいたいエジプト学における設計方法の研究と言うものは、20世紀の初期までは建築を専門とする人たちによって重要な情報が部分的にもたらされていたのですが、それ以降は考古学者による勝手な解釈が入り混じり、加えて建築学者の中の一部分の方が間違ったことを唱えたりして、状況は悲惨なこととなりました。
今、古代エジプトの遺跡の調査に関わる人の大多数は、建物の規模を測って1キュービット=約52.5cmでちょうど割り切れるかどうかを調べ、それがうまくいかない場合には、すぐに判断を中止すると思います。遺構の測量を専門としている方々も同様です。

基本となるキュービット尺に関する説明を、権威と認められた文献学者が事典等で書き続けた結果、これを真に受ける考古学者が続出し、困ったかたちとなっています。日本での古代エジプトのキュービット尺の紹介は、そうした情報を単に翻訳しているだけですから、読むに値しません。
繰り返しますが、碩学のバリー・ケンプが何故、唐突にアマルナ型住居の平面計画方法の分析において小キュービットを持ち出したのか、その意味を深く考える必要があります(Kemp (ed.) 1995)。古代エジプトの尺度について、もう一回根本的に考えたらどうかという異議がそこでは真剣に出されているとみなすべきです。
なおアマルナ型独立住居の平面寸法分析については、キュービット尺を前提とした短い考察があります(Tietze (Hrsg.) 2008)。

M. Michelの本のp. 437には古代エジプトにおける勾配の一覧表と呼ぶべきものが初めて掲載されており(Fig. 145)、とても注目されます。これまでこうしたものは提示されることがありませんでした。ここではImhausen 2003Rossi 2004の著作が大きな役割を果たしていると見受けられます。ピラミッドもマスタバも塔門の壁体も墓のスロープもオベリスクも、みんな入っています。

この表には第一アナスタシ・パピルスにおける、いわゆる「オベリスクの問題」の勾配も扱われていますが、ただ「1キュービット、1ディジット」と言う解釈は従来通りです。第一アナスタシ・パピルスにせっかく触れたのに、惜しまれます。

「1キュービットに対し、1ディジット(指尺)単位の指定による勾配の規定も存在した」とセケドの概念を拡げたらこの本も革新的になったでしょうが、エジプト学の枠内に論理が収斂したせいで、最も肝要な域を超えることはありませんでした。Miatelloによる近年のセケドの論などにも触れていますが、当方には論外だと感じられます。
個人的に秘かに考えているセケドの概念の枠の解体方法としては、

1、基準となる1キュービットの水平と垂直を入れ替えてもセケドである
2、1キュービットに対してディジット(指尺)単位で指定される勾配もセケドである
3、勾配規定の基準となる1キュービットの長さが6パームでもセケドである

この3つが重要だと思います。
何故、これまで唱えられてきたセケドの概念を解体しなければならないのか。
理由は明瞭です。今のままの硬直した考えでは、ピラミッド研究など、古代エジプト建築の研究がまったく進まないからです。当時の設計方法の推察を重ねていかないと、埒が明きません。

すでにお分かりの通り、「小キュービット」の存在は疑われています。
ただこの考え方で問題となるのは、すべてを古代エジプト人のものさしの多様な扱いの中に解消させようとしている点です。それを他の学者たちが認めてくれるのかどうかは分かりません。
特に日本建築の場合、大尺・小尺という規定がかつてありましたから、その類推で日本人研究者が古代エジプトにおける小キュービットに対して早合点をする場合があって、 問題だと思われます。

19世紀に、古代エジプトのものさしが実際に出土したことも、近代の研究者の考えを束縛しました。

1、ものさしに示された単位長だけを基準として建物を造ったであろうと狭く考えた。
2、ものさしに刻まれた目盛り以外の寸法は用いられなかったであろうと狭く考えた。
3、「セケド」がリンド数学パピルスにピラミッドの設計方法として記されたため、それ以外の斜めに造られている構築物部分へのセケドの適用に対しては慎重になった。

古代エジプトにおける勾配を定める方法である「セケド」はエジプト学者たちによって、これまで概念が極めて限定して考えられてきました。限られた文字史料でしか扱われてこなかったので、その解釈を厳密に考えようとした経緯は当然です。また第二中間期の記述を新王国時代の遺構に当て嵌めていいのかという逡巡もあったことでしょう。
しかし逆に言えば、柔軟に作業を進めた古代エジプト人の設計方法や建造方法をほとんど配慮しない考え方でキュービット尺やセケドの解釈を進めてきたとも言えます。

古代エジプト研究の世界は現在、細分化されています。考古学、文献学、数学など、細分化した分野で解釈の矛盾があるわけですけれど、それらを建築学の中で再びひとつに包括し、問題を解消できるのではないかという、その可能性が指摘できるように思われます。

2012年9月23日日曜日

Égypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996)


Égypte, Afrique & Orienthttp://www.revue-egypte.net/)はフランスのアヴィニョンから年に4回刊行されている雑誌。毎号のテーマを決めて少数の書き手により紙面を埋める構成を取ることが多く、最近の特集の中では第64号(2011-2012年)の「古代エジプトの船と航海 Les bâteaux et la navigation en Égypte ancienne [I]」などが目を惹きます。海洋を通じた交易とこれに伴う船舶に関してはJournal of Ancient Egyptian Interconnections (JAEI) 2:3 (August 2010)において、"Special Maritime Interconnections Issue"と題した特集が組まれました。またBritish Museum Studies in Ancient Egypt and Sudan (BMSAES) 18 (August 2012)でも、"Mariners and Traders"、"Egypt's Trade with Punt"と題された特集号を刊行。古代エジプトの船については近年、新たな情報が増えつつあり、第1王朝のデン王時代の木造船の出土は2012年7月のニュースでも報じられたところ。
船に関しては、これまでの成果を簡便にまとめ、特に中王国時代の資料を充実させた最新刊である

Michael Allen Stephens,
A Categorisation and Examination of Egyptian Ships and Boats from the Rise of the Old to the End of the Middle Kingdoms.
BAR International Series 2358
(Archaeopress: Oxford, 2012)
vi, 220 p.

も出ている模様です。

Égypte, Afrique & Orientは一般向けとは言え、カラー写真も組み込まれ、また世に知られている学者たちが執筆しているので資料的な価値が高く、それ故にオクスフォードのグリフィス研究所ではポーター&モス(cf. Porter and Moss, 8 vols.)を編纂するための予備作業として、この雑誌に掲載されている遺物の総リストを作成したりしているのでしょう(cf. http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/3Egypte_Afrique_&_Orient.pdf)。
ここではÉgypte, Afrique & Orientの、古代エジプト家具の特集号を掲げます。

Égypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996)
Les meubles des Anciens égyptiens

Sommaire

Geoffrey Killen: "Le travail du bois et ses techniques dans l'Égypte ancienne",
traduit de l'anglais par Anne Berthoin-Mathieu (pp. 2-7).

Jean-Luc Bovot: "Les meubles égyptiens du musée du Louvre" (pp. 8-13).

Enrichetta Leospo: "Les meubles égyptiens. Les styles de l'Ancien au Nouvel Empire. Tendances et innovations",
traduit de l'italien par Jean Bruguier (pp. 14-19).

Christian E. Loeben: "La fonction funéraire des meubles égyptiens",
traduit de l'allemand par Nathalie Baum (pp. 20-27).

4人の執筆者のうち、フランス語で書いているのはたったひとりだけで、あとは英語、イタリア語、ドイツ語で書いてもらった原稿を仏訳して載せています。どの人もかなり有名。Loebenの原稿をフランス語に訳したBaumは、

Nathalie Baum,
Arbres et arbustes de l'Égypte ancienne:
La liste de la tombe thébaine d'Ineni (No 81).
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 31
(Leuven, 1988)
xx, 381 p.

を出しています。
最初の書き手については前にも何回か触れました(Killen 1980; Killen 2003; Herrmann ed. 1996)。現在はラメセス期の家具に関してまとめをおこなっているようです。木工技術についての紹介。
2番目の人は古代エジプト美術の解説書を執筆している他、ルーヴル美術館のサイトでは作品の解説文も手がけている研究者。ルーヴル美術館に収蔵されている良質の家具を、たくさん取り上げている点が注目されます。
3番目のレオスポについては、Leospo 2001などを参照。トリノ・エジプト博物館の遺物を交え、新王国時代の家具の様式を概観しています。家具の様式についてはH.G. Fischer(cf. Fischer 1996)が著した「4つの講義録」、L'écriture et l'art de l'Égypte ancienne: Quatre leçons sur la paléographie et l'épigraphie pharaoniques (Paris, 1986)の中で重要なことが述べられており(Leçon IV: Les meubles égyptiens, pp. 169-240)、その線に沿って語られている論考。
レーベンはテーベ西岸の「王妃の谷」の研究等で知られていますが、この知見を生かし、「死者の書」でうかがわれる記述と副葬品としての家具との関連を最初に述べ、墓の中に副葬品として納められる家具の役割を語っています。ツタンカーメンの家具も取り上げられていて、面白い見方が展開されています。開け閉めで用いる部分のすり減っている度合いから、王宮内で使われていた家具であろうと判断するなど、観察が詳細で非常に鋭い。

この雑誌は古い号の入手が難しく、エジプト学の書だけを専門とする特異なフランスの古書店Librairie Cybeleを通じても品切の状態がずっと続いています。

2012年9月4日火曜日

Russo 2012


古代エジプトの第18王朝に活躍した建築家カーは、いったい何者であったのかを詳細に調べ上げた論考です。
職長であり、建築家であったカー(Kha)は、アメンヘテプ2世からアメンヘテプ3世の時代を生きたディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の住人で、イタリアの偉大な考古学者エルネスト・スキアパレッリ(Ernesto Schiaparelli)によってカーとその妻メリトの未盗掘の墓が20世紀の初頭に発見されました。多数の副葬品はトリノ・エジプト博物館に収蔵されています。この博物館における主要展示品のひとつ。
ディール・アル=マディーナは第18王朝から第20王朝にかけて栄えた職人たちの集合住居で、彼らの仕事は王家の谷や女王の谷に岩窟墓を造営することでした。
オランダ・レイデン(ライデン)にある学術機関が非常に緻密な研究を進めていますが、第18王朝における公開資料は少なく、今後の進展が望まれるところ(cf. Tosi 1999)。

Barbara Russo,
Kha (TT8) and his Colleagues:
The Gifts in his Funerary Equipment and related Artefacts from Western Thebes.
GHP Egyptology 18
(Golden House Publications (GHP): London, 2012)
v, 98 p., 8 color pls.

Table of contents:

Introduction (p.1)

Chapter 1. The discovery (p.3)

Chapter 2: Analysis of the artefact (p.9)
  The "gifts": nature and documentation
  The gift cubit rod of Amenhotep II
  The senet-board and a walking stick of Neferhebef et Banermer(u)t
  The walking stick of Neferhebef
  The statue group A 57, Musée du Louvre, Paris
  The funerary scene of TT 8
  The "gold of favour"
  The scribal pallete of Amonmes
  Excursus: the title imy-r k3(w)t nbt nt nswt
  The bronze cup with cartouche of Amenhotep III
  The vase of Userhat
  The walking staff of Khaemuaset

Chapter 3: The artefacts found outside the tomb (p.49)
  Ostracon 5598, Hermitage Museum, St. Petersburg
  Ostracon SR 12204, Egyptian Museum, Cairo
  Graffiti nos. 1670 and 1850 from the Theban mountains
  Stela BM EA 1515, British Museum, London
  Jar-labels from Malqata

Chapter 4: Suppositions concerning the Great Place (p.64)
  The identity of Kha: datable elements
  Kha's family
  Kha's career
  Titles composed with st '3t
  ḥry (n) st-'3t
  imy-r k3(w)t n st-'3t
  sdm-'š n st-'3t
  sš nsw n st-'3t and sš n st-'3t

Conclusions (p.77)

Abbreviations (p.79)
Bibliography (p. 79)
Index (p.95)

目次の第2章のところでは僅かな編集上の誤記があるようで、上記の目次は本文に見られる項目名を尊重するように努め、転記をおこないました。
キュービット・ロッドに記されたヒエログリフを紹介している10ページでは、訂正の紙片が貼り付けてあって、これも校正が行き届かなかったことを示しています。でも、大した問題ではありません。

序文には「2006年に開催された会議 "Ernesto Schiaparelli e la tomba di Kha" で発表した内容をもとに展開した」と書かれており、以降も継続して入念な研究が進められた様子。巻末の参考文献では400タイトル近くの充実した文献がリストアップされており、その粘り強い努力のあとが示唆されます。
カーの墓から見つかった品々のうち、情報量が多くうかがわれるもの、特に王名が記された副葬物を中心に分析を始めており、次いで海外の博物館に収蔵されているカーに関連した遺物を検討。さらにはオストラカや、テーベの谷で見つかっているグラフィティ(Graffiti de la montagne thébaine 1969-1983)といった文字史料の中からカーに関する記述を探し出して考察を加えています。アメンヘテプ3世のマルカタ王宮から出土したジャー・ラベルにも言及しているのが注目されるところ。

最後近くでは、

"Judging by the value of some of Kha's objects it can be argued that he was of middle-high rank status."
(p.69)

と論じており、カーの社会的な地位が諸資料の吟味をもとに推測されています。
エジプト学のオーソドックスな方法を踏襲しながら、カーの肩書き(タイトル)の検討などを経て追究の成果が披瀝されており、好著となっています。

関連文献としては、Schiaparelli 1927Moiso 2008などでしょうか。
比較的最近に刊行が始まったGHPから出版されているエジプト学のモノグラフのシリーズをさらに面白くしている最新刊で、この領域に興味を持たれている方にはお薦めの本です。

2012年7月21日土曜日

Lee 1992


ツタンカーメンの王墓の発掘の際にハワード・カーターを助け、出土遺物の保存修復に力を注いだ人物の伝記。アーサー・メイスは「ツタンカーメン発掘記」全3巻本の発刊当時、カーターとの共著者でした(cf. Carter [and Mace] 1923-1933、またMace and Winlock 1916)。
メイスはエジプト学の創始者であるフリンダース・ピートリPetrie 1892Petrie 1894Petrie 1897)と遠縁の従兄弟という関係があって、それ故に1897年、ピートリの助手としてエジプトへ初めて出かけます。この頃はピートリがデンデラやアマルナで調査をする時期に相当しますから、大きな現場を次々にこなしていくことを強いられたと思われます。
最初は何も分からず、おたおたしていたらしいのですが、次第に実地でピートリ流の発掘方法を覚え、その後にG. A. ライスナーの手助けやメトロポリタン美術館のスタッフに加わるなどの活躍を見せ、ピートリのやり方がアメリカに伝わっていくわけです。
それにしても、ピートリの現場はかなり過酷であったらしい。調査中の粗食と空腹感に耐えることができなかったエピソードが伝えられています。

Christopher C. Lee,
...the grand piano came by camel:
Arthur C. Mace, the neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing: Edinburgh and London, 1992)
160 p.

Contents:

Preface (p. 11)

Foreword by Marsha Hill (p. 13)

Chapter One: A Country Childhood (p. 15)
Chapter Two: With 'the great man' (p. 31)
Chapter Three: 'The ideal excavator' (p. 57)
Chapter Four: 'It takes one's breath away' (p. 81)
Chapter Five: 'A beautiful wonderful party...' (p. 113)
Chapter Six: After Tutankhamun (p. 137)

References (p. 151)
Bibliography and Sources (p. 157)
Index (p. 159)

メトロポリタン美術館(MMA)のマーシャ・ヒルが前書きを書いており、メイスがMMAにていかに重要な存在であったかを簡潔に記しています。「メイスの仕事はさまざまな人に今、受け継がれています」と書いていて、

"Only today can we foresee that Mace's archaeological work will be completed - the Lisht North cemetery by Janine Bourriau, the pyramid itself by Dieter Arnold, and the village by Felix Arnold."
(p. 13)

と分担者の実名が出ている箇所があります。フェリックス・アーノルドの名をこの本の中で見るとは思いませんでした。彼は1990年にControl Notes and Team Marksを出版しており、この時20歳ぐらいであったように覚えています。

ピリオドの連続で始まる本のタイトルは稀有であり、また全部が小文字という記法も珍しい。こういうものを引用する際は、書誌の表現に迷います。アカデミックな本の題とは異なり、小さい私的な呟き(この場合にはメイスの長女による呟き)をそのまま題にしたかった、という意図なのでしょう。

「...グランドピアノを駱駝が運んできた」という変わった本の題は、一枚の写真から着想されており、それは本のカバーの裏表紙の他、62ページにも印刷されています。メイスの奥さんの持ち物であったベヒシュタインのグランドピアノを、1900年台の初頭にリシュトの調査宿舎まで駱駝で運んだという逸話があり、それを写した昔の写真を見てメイスの娘が懐かしく語り始める、という本の構成。
メイスはリシュトの発掘に長く携わった人間でした。厳しい環境下にある発掘現場に奥さんを同行し、また彼女の大きな所有物も構わず持ち込むという、今では考えられない調査方法を知ることができます。
この本はだから、メイスの長女がどう生きたのかを示すものでもあります。最後に彼女の写真が大きく掲載されているのはその証拠。

イギリスの片田舎で見つかったメイスの手紙と日記、また草稿などをもとにして展覧会が開かれ、その直後にまとめられた本。ほとんど同じ題でもっとページ数が少ない刊行物が1992年よりも前に出されていますが、この本は決定版という位置づけです。
アーサー・メイスの長女による父親像が多分に反映されていて、伝記といってもこの近親者からの聞き取りに負う部分が大きく、歪みが見られます。本の題名の"neglected"「無視された」というのは非常に強い言い方ですが、メイスの肉親にとってはそう思えるのでしょう。ハワード・カーターのみが注目されている、というように。それは世の中の人間のほとんどが抱くであろう、「無視されたまま」人生を終わるのではという不満を間接的に指し示しているのかもしれません。
本当はエジプト学をやりたかったんだけれども、F. Ll. グリフィスと会った際の試問で、メイスの長女はこの夢を断念したようです。「拒まれる」ことに遭遇したたくさんの人々が、失望にどのように対処するのか、それがこの本に通底する隠れた広いモティーフと言えないこともない。

そうした視点から見れば深く示唆されるところが多く、ツタンカーメン関連の撮影で高名な写真家ハリー・バートンの奥さんがいかにひどくて悪評ばかりであったことや、メイスがカーターに対して「こいつ、何も分かっていないのに人々の前で講演なんてできるのか」と思ったことを手紙に残している下り、またテーベの大規模な発掘だけを進めたがるメトロポリタン美術館の同僚のH. E. ウィンロックとの立場の違いなどがあられもなく記されていますけれども、そうした誰の間にでも生じる些細なすれ違いは時代を経て洗い流され、エジプト学にどのような貢献があったかという公平な評価だけが今は残されていることを改めて感じます。
エジプト学の大御所や有名人が次々に出てくるので、事情を知っている人には面白いはず。

メイスが結婚前に「エジプト学者などと一緒になるのか?」と相手側の両親から疑問が向けられていたこと、メイスの奥さんが完全主義で、どうやら連れて行った発掘現場でもいろいろな揉め事があったらしいこと、生まれた次女がダウン症であったこと、メイス自身が頑強な身体ではなかったこと。
これらに追い打ちをかけて「自分は使われる一方ではないのか」という疑念。これからの生活は一体どうなるのかという健康上あるいは経済上の不安を抱えながら仕事に赴くメイスの姿が活写されており、別の普遍的な問題が浮彫にされているようにも思えます。

メイスに関する最近の紹介は、以下を参照。続編を読むのが楽しみです。

http://www.egyptological.com/2012/05/arthur-cruttenden-mace-taking-his-rightful-place-8940

ハワード・カーターの醜聞については、邦訳されているトマス・ホーヴィング著、屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」がすでに知られています。版を重ねている著作。

リーの本が出た同じ1992年にはハワード・カーターの伝記が発表されており、今ではこちらも改訂版も出ています。亡くなってしまった大英博物館の重鎮、T. G. H. ジェームズの主著書のひとつ。彼はA. H. ガーディナーの伝記を晩年に執筆中であったと伝えられていますが、出版されないのは残念。

Thomas Garnet Henry James,
Howard Carter: The Path to Tutankhamun
(Kegan Paul International: London and New York, 1992)
xv, 443 p.

大学者ピートリの伝記は1985年に刊行されています。

Margaret S. Drower,
Flinders Petrie: A Life in Archaeology
(Victor Gollancz: London, 1985)
xxii, 500 p.

上記の2冊については、専門誌に書評が寄せられているはずです。
さてピートリとともに歩み、「魔女の研究」で注目を浴びたマーガレット・マレーの自伝も、度肝を抜く面白い題名を持ち、良く知られています。

Margaret Murray,
My First Hundred Years
(William Kimber: London, 1963. 2nd ed.)
208 p.

自伝につけられた「私の最初の百年」という題は、長生きしたこの研究者の業績にふさわしい。彼女は次の百年以降も、変わりなく生き続けるつもりだったんでしょう。恐るべき存在。マレーこそ正真正銘の「魔女」であったことが分かります。

2012年7月17日火曜日

Iversen 1993 (First Published in 1961)


30年以上経ってから再版されたイヴァーセンの著作。イヴァーセンについてはIversen 1968-1972や、あるいはヨーロッパにおけるオベリスクの受容史を述べた分厚いCurran, Grafton, Long, and Weiss 2009、あるいはRobins 1994を参照のこと。

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs in European Tradition
(Princeton University Press: Princeton, 1993. First published in 1961, Gec Gad Publishers, Copenhagen)
178 p.

Contents:

Preface (1993) (p. 7)
Preface to the First Edition (p. 9)
I The System of Hieroglyphic Writing (p. 11)
II The Classical Tradition (p. 38)
III The Middle Ages and the Renaissance (p. 57)
IV The Seventeenth and Eighteenth Centuries (p. 88)
V The Decipherment (p. 124)

Notes (p. 147)
List of Illustrations (p. 169)
Index (p. 173)

本の裏には紹介文が面白く書かれており、

"This is the story of a creative misunderstanding: an erroneous interpretation of the traditions of ancient Egypt became a rich source of inspiration for Europeans from ancient times through the medieval and Renaissance periods to the Baroque era. The misguided notion that hieroglyphs were allegorical, and that they constituted a sacred writing of ideas, exerted a dynamic influence in almost all fields of intellectual and artistic endeavor, as did conceptions of Egypt as the venerable home of true wisdom and of occult and mystic knowledge."

と記してあって、"misunderstanding", "erroneous interpretation", "misguided notion"と続けざまにネガティブな言葉が並べられ、それらの試行錯誤がついにはヒエログリフの解読に繋がったという粗筋が明らかにされています。
自分の知っている見方を、異なった文化の人間に押し付けて解釈するのは良くあること。その過程が歴史の中で淘汰され、次第に両極端の見解が近づき、共通の理解へと収斂していくさまがテーマとなっています。エジプト学の歴史はナポレオンの「エジプト誌」によって始まるとは良く言われますが、それより以前の思考過程については、これから詳細が明らかにされていくのでは。

再版のための序文の中で、フランシス・イエイツ Frances Yates の著作に触れられている点は注目されます。
彼女の本は日本語訳もけっこう出ているから、ここでは述べません。しかしエジプト学者にとって重要なのは、文字の解読に関しては片づいたものの、ヘルメス学(主義)の源流を古代エジプト文明に遡らせるかどうかの判断であって、多くの者は慎重な態度を取っています。
「化学 chemistry」や、錬金術の「アルケミー alchemy」などの語については古代エジプト語の「ケメト "kmt"; kemet」に由来するということは率先して語りながら、直接的な関連についての論理的な防御がきわめて堅いのが特徴。Trigger 1993でも、「エジプト学者は古代エジプト文明を独自なものと思い込んでいる」という批判が見られました。

建築でいうと、ルービッツ R. A. Schwaller de Lubicz のような考え方に対し、どのような反駁が具体的にできるかということになります。黄金比(1:1.618...)や円周率(1:3.14...)が古代エジプト建築の計画方法において考慮されたという諸論は今日でも語られており、Kemp and Rose 1991のような回りくどい説明が必要になっている原因。論の差異と言うものが、明快に指摘されていません。Rossi 2004の欠点があるとするならば、そこにあるかとも思われます。
いくらかの年月が、まだかかるのかもしれません。

2012年7月8日日曜日

Uphill 1972


エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。

Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf

死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。

ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。

以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。

アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。

古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。

Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.

Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.

なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。

Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.

2012年6月2日土曜日

Lavin 1992


カトルメール・ド・カンシーに関する博士論文を刊行した書。カトルメール・ド・カンシー Quatremère de Quincy はエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts 国立高等美術学校)において有力者であった人ですが、古代エジプト建築に関し、早い時代に評論を書いたことでも名を残しています。ナポレオンの「エジプト誌」が刊行される前の18世紀末の話。

Lavinの博士論文の主査を務めたのはコロンビア大学のロビン・ミドルトン Robin Middleton で、高名な建築史の研究者。謝辞の中には建築評論家ケネス・フランプトン Kenneth Frampton の名もうかがわれます。Lavinの面白そうな近著も出ていますが、いずれまたの機会に。

Sylvia Lavin,
Quatremère de Quincy and the Invention of a Modern Language of Architecture
(MIT Press, Cambridge, Massachusetts and London 1992)
xvi, 334 p.

Contents:

Acknowledgments (viii)
Preface (x)

Introduction: Quatremère de Quincy and the Genesis of the Prix Caylus (p. 2)

I. Origins (p. 18)
II. Architectural Etymology (p. 62)
III. The Language of Imitation (p. 102)
IV. The Republic of the Arts (p. 148)

Conclusion: The Sociality of Modern Language of Architecture (p. 176)

Appendixes A-E (p. 186)
Notes (p. 200)
Bibliography (p. 292)
Index (p. 328)

古代エジプトの神殿の空間構成について、「奥へ行くに従って部屋が小さくなる。床面も徐々に上げられ、天井は少しずつ下げられる。同時に室内へ導かれる光も限定されていく」と説明するやり方は今でも良く見られ、もう通俗化していると言ってもいいと思われますが、これは19世紀末期にショワジーがすでに述べていること(Choisy 1899)。ここ100年以上、言い方が変わっていないわけです。

"Dans la plupart des temples, à mesure qu'on approche du sanctuaire, le sol s'élève et les plafonds s'abaissent, l'obscurité croît et le symbole sacré n'apparaît qu'environné d'une lueur crépusculaire."
(Choisy 1899: I, 60)

でも最初の頃は、かなり違った捉え方がなされていたらしく思われます。
カトルメール・ド・カンシーは1785年、古代エジプト建築に関する論文の公募に応じましたが、後にこの論文の改訂と増補をおこない、ページ数を倍増させて1803年に出版。両者の間ではかなりの内容の変更がうかがわれ、Lavinのこの本は彼の思想の劇的な変転とその後の展開に焦点を当てています。当初書かれたカトルメールの論文を読み解いて、古代エジプトの神殿に関し、Lavin

"Egyptian temples, according to Quatremère, were an assemblage of porticoes, courts, vestibules, galleries, and rooms, one linked to the next and the whole enclosed by a wall. This multiplicity of parts, while apparently an exception to the rule of uniformity, was in fact its product. He contends that this internal subdivision was created intentionally to counterbalance the lack of variety offered by the model of the original cave dwelling but that its effect was reduced by the absolute and repetitive regularity with which the separate units were distributed."
(Lavin 1992: 25-6)

と記しており、興味が惹かれます。ショワジーによる論述との差異は明らか。カトルメールの論文は、フリーメーソンに大きな影響を与えたことが建築史家カールによって指摘されています(Curl 1991)。
建築装置として、さまざまに異なったものが長軸上に並べられていたとするカトルメールの見方を、たとえば

A - B - C - D - ...

と表記することができるとするならば、ショワジーの観点は

A - A' - A'' - A''' - ...

とあらわすことができ、この違いがきわめて面白い。
出版されたカトルメールの論考は、ダウンロードして読むことが可能。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
De l'architecture égyptienne: considérée dans son origine, ses principes et son gôut, et comparée sous les mêmes rapports à l'architecture grecque.
Dissertation qui a rempotré, en 1785, le prix proposé par l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres
(Paris, 1803)
xii, 268 p., 18 planches.
http://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/quatremeredequincy1803

初稿に関しては、LavinがAppendix Bの中で言及。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
manuscript (Archives de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, Prix Caylus, 1785, MS D74)

なおLavinの本が出版された同じ年に、下記の論考が日本で刊行されています。

白井秀和
「カトルメール・ド・カンシーの建築論:小屋・自然・美をめぐって」
(ナカニシヤ出版、1992年)
171 p.

2012年3月30日金曜日

VA (Varia Aegyptiaca) 1985-


Varia Aegyptiaca (VA)は高さ20cmほどの、灰色の表紙を装丁とした魅力的な小冊子。基本的に年3回発行。たぶんエジプト学に関わる専門の定期刊行物の中で、もっとも書誌が良く分からなくなっているもののうちのひとつかと感じられます。
かなり昔のこととなりますけれども、Porter and Moss (PM)の編集をしているJ. Malekがエジプト学者たちのメーリングリストEEFEgyptologists' Electronic Forum)にて、「VAの最新号が何号まで出ているか知りませんか」といった内容を尋ねているのを見て、ああ最も知悉しているはずのこの人でも、やっぱり分からないんだと改めて思ったことがありました。

追跡がさらに難しかった、少数の内輪向けに回覧されたNew Kingdom Memphis Newsletter (1988-1995)などの冊子もありましたが、これらの号は今ではもう、Jacobus van DijkによってPDFで広く配信されています(http://www.jacobusvandijk.nl/NKMN.html)。
この種のものとはわけが違って、VAはれっきとした年3回の定期刊行物。にも関わらず、創刊の時から第1号と第2号との合併号ということになっているのが、どうにも不思議。
編集者はエジプト学者のCharles Cornell Van Siclen IIIで、Van Siclen Booksという出版局をSan Antonioに構え、そこから刊行されています。

Varia Aegyptiaca (ISSN 0887-9026):

Vol. 1, Nos. 1-2 (August 1985)
Vol. 1, No. 3 (December 1985)
Vol. 2, No. 1 (April 1986)
Vol. 2, No. 2 (August 1986)
Vol. 2, No. 3 (December 1986)
Vol. 3, No. 1 (April 1987)
Vol. 3, No. 2 (August 1987)
Vol. 3, No. 3 (December 1987)
Vol. 4, No. 1 (April 1988)
Vol. 4, No. 2 (August 1988)
Vol. 4, No. 3 (December 1988)
Vol. 5, No. 1 (March 1989)
Vol. 5, Nos. 2-3 (June-September 1989)
Vol. 5, No. 4 (December 1989)
Vol. 6, Nos. 1-2 (April-August 1990)
Vol. 6, No. 3 (December 1990)
Vol. 7, No. 1 (April 1991)
Vol. 7, Nos. 2-3 (August-December 1991)
Vol. 8, No. 1 (April 1992)
Vol. 8, No. 2 (August 1992)
Vol. 8, No. 3 [not yet published?]
Vol. 9, Nos. 1-2 (1993)
Vol. 9, No. 3 [not yet published?]
Vol. 10, No. 1 [not yet published?]
Vol. 10, Nos. 2-3 (August-December 1995 [1997])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part I
Vol. 11, No. 1 (April 1996 [1998])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part II

第5巻では第4号が出ています。え、年3回発行のはずなのに。
エジプト学に関するすべての文献の収集をめざしているはずのOnline Egyptological Bibliography (OEB)を検索しても、果たして第8巻第3号や第9巻第3号などが出ているのかどうか、今なお不明なままです。しかしこういう点こそが面白いわけで、ヴァン・シクレンが既成の由緒ある諸雑誌とは別に、もう少し小回りの利いた定期刊行物を独自に出そうとした大きな志が重要。それとともに、編集作業の先を見て号数を飛ばしたものの、結局は出版が遅れている号があるという変則的な雑誌刊行の捻れが興味深い。
個人的には、エジプト学の興隆を強く願っているところをまず見るべきだと思います。

本来は1995年に出されるべきものが1997年に刊行された、第10巻第2-3合併号所収のPeter Der Manuelianの論文などについてはPDFが出回っていますが、そこではこの時点で"8/3 and 9/3 are not yet available"と印刷された出版社による巻末の告知のページまでもが含まれていて、当該雑誌の書誌に関する貴重な情報が得られます。
VAに関する分かりやすい一覧はネットでうかがわれないようでしたので、急遽作成してみました。ここで欠号として挙げているものについて、海外の研究機関にて実見された方より、訂正事項を詳しく御教示いただけましたら有り難い。

Z. Hawassによるギザのピラミディオンの報告を調べていく過程で偶然、VAの欠号に気づいたのですけれども、こうした空隙が何を意味するのか、改めて考えたくなります。
学者によってすでに言及されている点を追うことはこの時代、ネットが急速に展開して以来は容易くなっているのですが、「彼らによって書かれていないこと」は、ではいったいどう見つけ出すのか。古くて新しい問題。もちろん研究というのは「誰もやってないことを見つけること」なのでしょうけれども、思わぬ陥穽があるようで。

VAは10年以上にわたって続けられた雑誌で、できれば十全な刊行を応援したいところ。
なお、別巻も刊行されています。

Supplement 1
Thierry Zimmer, Les grottes des crocodiles de Maabdah (Samoun): Un cas extrême d'analyse archéologique
(San Antonio, Van Siclen Books, 1987).

Supplement 2
Hans Goedicke, Studies in "The Instructions of King Amenemhet I for his Son", text and plates, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1988).

Supplement 3
Sheldon Lee Gosline, Bahariya Oasis Expedition, Season Report for 1988, Part I. Survey of Qarat Hilwah.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1990).

Supplement 4
Adel Farid, Die demotischen Inschriften der Strategen, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1993).

Supplement 5
Hans Goedicke, Comments on the "Famine Stela".
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

Supplement 6
Anthony J. Spalinger, Revolutions in time: Studies in Ancient Egyptian Calendrics.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

2012年1月31日火曜日

BACE 22 (2011)


The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology
(BACE), Vol. 22 (2011)が送られてきました。 背表紙に紙が貼ってあり、誤って2008年と印刷された発行年が2011年に訂正されています。珍しいミス。
なお、ACEのHPを見たら、1〜21号までの全目次が掲載されており、とても有用。

この雑誌、早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されていますが、webcatには反映されていないように思われます。
目次を記しておきます。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology, Vol. 22 (2011)
158 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian Bowen,
"The 2011 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

John Burn,
"The Pyramid Texts and Tomb Decoration in Dynasty Six:
The Tomb of Mehu at Saqqara" (p. 17)

Vivienne G. Callender,
"Notes on the Statuary from the Galarza Tomb in Giza" (p. 35)

Julien Cooper,
"The Geographic and Cosmographic Expression t3-nTr" (p. 47)

Jennifer Cromwell,
"A Case of Sibling Scribes in Coptic Thebes" (p. 67)

Arlette David,
"Devouring the Enemy:
Ancient Egyptian Metaphors of Domination" (p. 83)

Miral Lashien,
"Narrative in Old Kingdom Wall Scenes:
The Progress through Time and Space" (p. 101)

Silvia Lupo and Maria Beatriz Cremonte,
"Upper Egyptian Vessels at Tell el-Ghaba, North Sinai:
Local Elite Sumptuary Objects" (p. 115)

Samah Mahmood,
"Dating an Oil Lamp of Multicultural Design" (p. 129)

Anna-Latifa Mourad,
"Siege Scenes of the Old Kingdom" (p. 135)

最後の論文が面白かった。註が130以上も付されています。砦を包囲して攻略するため、はしごを高い城壁の外側からかけたりするのですが、このはしごの下には車輪がついており、移動が可能なように造られているのは明らか。「車」というものはこの時代、確かに知られていたわけです。
しかし古代エジプトにおいて、石材の運搬は車輪のついた台車に載せておこなわれたとは考えられていません。Arnold 1991の中で指摘されている通り。古代ギリシアの場合とは大きく違います。

車輪の有用性は知られていたのに、運搬用の台車や、重いものを引き上げるための滑車がなぜ活用されなかったのか。ここには堅い鉄という金属が、人間の歴史にとっていかに画期的であったかが関わってくると考えられています。古代エジプトでは銅や青銅をもっぱら用いる時代が長く続き、溶解させるに当たって非常な高温を必要とした鉄を扱うことが困難でした。
車軸や滑車の軸に青銅を用いても、荷重で簡単に曲ってしまい、役に立たなかったであろうという見方が支配的です。
しかし、古代エジプトだけは鉄の導入が遅れたとする解釈に対し、金属史の専門家からは「痕跡が見つかっていないだけではないのか」という反問が寄せられることもしばしば。

ただツタンカーメン王墓内の遺物やGuidotti (ed.) 2002でも見られるように、馬に引かせる戦車は新王国時代には類例がいくつか知られており、精緻な組み立てによる木製の車輪を見ることができるというのは興味深いところです。

2011年12月31日土曜日

Hartmann 1989


古都エルカブとネクベト女神に関する博士論文。
ドイツに留学中の安岡君が手配してくれ、マイクロフィッシュの形態にて頒布されていたこの論考にようやくアクセスすることができました。
註は1150を超え、初期王朝から神殿が造営されたエルカブの長い歴史を論述しています。 エルカブ(Elkab)、もしくはエル・カブ(El Kab)の表記も、さまざまなかたちがあって難しい。ここでも「ネケブ」は"Nekheb"ではなくてドイツ語表現の"Necheb"となり、ネクベトも"Nekhbet"ではなく、"Nechbet"と綴っています。ネットでの検索に時間がかかる原因。

Hartwig Hartmann,
Necheb und Nechbet: Untersuchungen zur Geschichte des Kultortes Elkab.
Deutsche Hochschulschrifften (DHS) 822
(Dissertation. Mainz 1993)
xx, 404 p., 38 Tafeln.

Inhalt

Abbildungsverzeichnis (vii)
Abkürzungsverzeichnis (ix)
Einleitung (xiii)

1. Das Delta des Wadi Hellal (1)
2. Die ältesten Quellen zur Geschichte Elkabs (14)
3. Der archäologische Befund im Fruchtland bis zum Ende des AR (39)
4. Die Tempelanlage im Fruchtland seit der 1. Zwischenzeit (78)
5. Die Tempelanlagen in der Wüste des AR und NR (129)
6. Die Götter in den Beamtengräbern von Elkab (220)
7. Beiträge zur Verwaltung und Prosopographie von Elkab (267)
8. Resümee und Ausblick (345)

Literaturverzeichnis (349)
Sachindex (377)

Abbildungen

手堅くまとめられたこの考察からはしかし、ネクベトにまつわる研究の広大な領域を改めて思い知らされます。
徹頭徹尾、ネクベト女神に関する図像学との関連を断ち切ることで成立しており、ベルギー隊によって長く調査が続けられているこの都市の歴史については、近年、大英博物館が発行している電子ジャーナルのBMSAESに掲載された論考(Limme 2008)などによっても知られますが、新王国時代以降に造営された多数の石造神殿や王墓といったモニュメントの天井に、両翼を広げたハゲワシの姿で描かれたネクベト画像がいかなる経緯によってあらわされるようになったのかについては不明。

アマルナの労働者集合住居の近くで発見された祠堂では、両翼を広げたネクベト画像が戸口のリンテル側面に描写されていました。その画像の復原がKempWeatherheadによっておこなわれています(Weatherhead and Kemp 2007)けれども、出土した画片が小さいために、全体像として参考にされているのはラメセス時代のものです。
彼らの意識の中では、描かれたネクベト像に格別、時代による様式の変化があったとは考えられていない点が明らか。どれも同じように見えるから当然です。しかし仔細に眺めると、時代が判別できるような相違が認められるように思われ、盲点があると感じられます。

天井画として同じように描写されるネクベトの様式に、実は差異があり、また向きにも法則性があるのではという点は、まだ誰も指摘していないはず。些細に思われることかもしれませんが、こういうところから世界をひっくり返す作業が始められるとも思われます。

2011年12月29日木曜日

Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]


クフ王のピラミッドに関する測量は、かなり古くからおこなわれていたようです。
でも外形ではなく、ピラミッド内部の計測となると、まったく別の話。

実測の結果に基づいて、オクスフォード大学の天文学者ジョン・グリーヴス(John Greaves: 1602-1652)は17世紀に「ピラミドグラフィア(Pyramidographia)」を著し、世界で初めて大ピラミッド(ギザ台地に立つクフ王のピラミッド)の断面図を公表しました(Greaves 1646)。この人は若い頃に接した計量学の先生の影響を受け、古代建築の基準長の分析に深い興味を抱いていた学徒でもあります。古代ローマの尺度を考えたりもしました。
またアラビア語文献にも通じており、中東への旅行中に、関連書籍の渉猟と収集に努めていたことが知られています。異文化に触れることに楽しみを覚える人だったのではないでしょうか。
こうした少数の者の努力によって、エジプト学の基本的な問題点が切り開かれていきます。

グリーヴスの研究業績をまとめた2巻本は彼の死後、およそ80年経ってからトーマス・バーチの編集によって出版されており、この書が今では無料でダウンロードできます。
編者であったバーチの偉いところは、本をまとめるに当たって関連文献も含めている点です。後世の読者への案内を充分に考えており、このことは貴重でした。グリーヴスの論考が後の人間たちに与えた影響をも具体的に示した結果、最終的にはフリンダース・ピートリというエジプト学の創設者を生み出す契機を促すこととなりました。

グリーヴスの考察に触発されたアイザック・ニュートンによって古代エジプトのキュービット尺の実長が突きとめられ(cf. Newton 1737)、もともとラテン語で書かれていたニュートンの手稿の英訳が、バーチによって本書の中に一緒に収められました。ニュートンはバビロニアの煉瓦を扱っているものの、古代建築の煉瓦の大きさが建物の設計寸法や、全体の煉瓦使用量の積算と関わりがあるのではと問いかけていて、建築学の見地からは重要です。
しかしニュートンのこの手稿は、生前には発表されなかった論文で、書誌はあまり明確ではありません。20世紀になってマイケル・セント・ジョン(Michael St. John)が編集したレプシウスの訳書であるLepsius 1865(English ed. 2000)の中で、ニュートンによるキュービットの論文を1737年としているのは、バーチ編集のこの本に基づいているらしく思われます。
この後、ピアッツィ・スミスによる本(1867)の中にも、ニュートンの論文の英訳は再録されました。

Thomas Birch (ed.),
Miscellaneous Works of Mr. John Greaves, Professor of Astronomy in the University of Oxford
(J. Hughs, London, 1737)

Vol. I:
http://books.google.co.jp/books/?id=Puk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

Vol. II:
http://books.google.co.jp/books?id=0uk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

ここでは目次を割愛します。
バーチというと、古代エジプトではまずサミュエル・バーチが思い起こされますが、直接の関連はない模様。

第1巻の最初でグリーヴスの生涯が語られており、50歳で惜しくも亡くなった波乱の人生が披瀝されていて、これが面白い。
主著「ピラミドグラフィア」の記述にはいくつか誤りがあって、その指摘が読者からすぐになされており、それに対するグリーヴスの応答や訂正の計算などが収録されているというのも興味深い点です。誤りも遺漏もある報告書であったということです。しかし、多大な影響を及ぼした本であったという点に疑いはありません。
誤りがいくらか存在する本であっても、学問として大きく進展させる書物というのはあり得ます。大きな指標が示されるのであるならば、このようなことが可能であるわけです。

グリーヴスによるクフ王のピラミッドの大回廊の断面図に関する報告にも欠陥があり、この書の成果を前提として考察がなされたニュートンの論文では「1キュービットは6パームから構成されるであろう」という誤謬も記されています。
Maragioglio e Rinaldi 1963-1975での図面と比べるならば、この間違いは一目瞭然。でもそれを今、指摘することに対して大きな意味があるとは思えません。大事なことは、正確な情報に基づく考察とは一体何なのかを考えることです。

オクスフォード大学はニュートンが書いたラテン語の手稿を公開し始めており、原典のテクストに基づく比較検討も可能なようになってきました。新たな時代の到来ということを改めて感じます。
ピラミッドの計画寸法を考える上で見逃せない書。同時に、古代エジプトにおけるキュービット尺の実長を探る過程を改めて追う上でも欠かせない本になっていると思います。

2011年10月12日水曜日

Lepsius 1849-1913


Description 1809-1818のところで述べたように、C. R. レプシウス(1810-1884)による通称「デンクメーラー」はナポレオンの「エジプト誌」と並び、エジプト学の中では今でも重用される書で、大判の図版を用いた記念碑的な著作。ヒエログリフの記録なども見逃せません。でも改めて書誌を調べようとすると、けっこう事情が分からなくなります。
試しにPorter and Moss (PM), 8 vols.のうち、まず第1巻第1分冊(第2版)に掲載されている文献リストを見ると、

L. D. = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols., 1849-59.
L. D. Text = As above, Text. 5 vols., 1897-1913.

と示されており、図版編12巻+テキスト編5巻からなる点が知られ、全部で17巻であるように了解されます。 しかしその一方で、このPMの第3巻第2分冊(第2版)を引くと、

L. D. and Text = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols. Berlin, 1849-59. Text, 5 vols. Leipzig, 1897-1913.
L. D. Ergänz. = LEPSIUS (R.), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. Ergänzungsband. Leipzig, 1913.

と書かれていて、どうしたわけか、一冊増える計算に(!)。
確認のため、LÄ (Lexikon der Ägyptologie) 1975-1992を調べるならば、

LD = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, 12 Bde u. Erg.bd, Berlin 1849-58, Leipzig 1913.
LD Text = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, Text. Hg. von Eduard Naville, 5 Bde, Leipzig 1897-1913.

と記されており、"u. Erg.bd"などという省略された記述を見落としがちになるのですが、図版編は結局、あわせて13巻になる様子。
実は一冊増えることになるこの図版編の本は、レプシウスの死後、彼の遺したノートをもとにまとめられたテキスト編(全5冊)の刊行とともに出版された大判の図版に起因しており、これを含めるか含めないかで全体の冊数が変わってきます。

「デンクメーラー」については、図版編とテキスト編との書誌を分けた方が良いかと思われます。
まずは図版編の、初版の書誌です。図版編は大きく6つに分割されました。
原書の表紙における主タイトルではドイツ語のウムラウト記号が用いられていないので、ここではこれを尊重して倣います。レプシウスの姓名の最初も"Karl"と表記される例がありますけれども、このページでは原書の表紙に従って"Carl"とします。"Architectur"という表記もそのまま。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien (Tafelbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
6 Abteilungen in 12 Bände.
(Nicolaische Buchhandlung, Berlin, 1849-1859)

Band I: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt I-LXVI.
Band II: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt LXVII-CXLV.
Band III: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt I-LXXXI.
Band IV: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt LXXII-CLIII.
Band V: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt I-XC.
Band VI: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt XCI-CLXXII.
Band VII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CLXXIII-CCXLII.
Band VIII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CCXLIII-CCCIV.
Band IX: Abtheilung IV. Denkmaeler aus der Zeit der griechischen und roemischen Herrschaft. Blatt I-XC.
Band X: Abtheilung V, Aethiopische Denkmaeler. Blatt I-LXXV.
Band XI: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt I-LXIX.
Band XII: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt LXX-CXXVII.

この12冊の各巻が、何年に刊行されたのかが明瞭ではありません。
さて、レプシウスが亡くなった後、レプシウスの遺したフィールド・ノートに基づいてE. ナヴィーユが編集をおこない、テキスト編の5巻とともに図版編の1冊が刊行されました。
出版社はベルリンからライプチヒへと移ります。ナヴィーユを中心とし、L. ボルヒャルト、K. ゼーテたちが関わりましたが、巻によって変更が見られます。
これら5巻のテキスト編に関しては、発行年が明瞭。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien, Text (Textbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
5 Bände.
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1897-1913)

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band I: Unteraegypten und Memphis
(1897)
238 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band II: Mittelaegypten mit dem Faijum
(1904)
261 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band III: Theben
(1900)
310 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band IV: Oberaegypten
(1901)
176 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Walter Wreszinski, mit einer konkordanz für alle Tafel und Textbände von Hermann Grapow.
Band V: Nubien, Hammamat, Sinai, Syrien und europäische Museen
(1913)
406 p.

この出版に関わった人物たちは錚々たる顔ぶれで、いずれもエジプト学では良く知られている学者ばかり。出版された順番も興味深く、古代エジプトの遺構のうちで、中エジプトを扱った第2巻の刊行は遅れています。
テキスト編の第5巻が刊行された時、一緒に出された大判の新たな図版編が以下の書。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Ergänzungsband
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1913)
(iv), 63 Tafeln.

時代が経って1970年代に至ると、これらのリプリントがようやく出回るようになります。
まずはテキスト編の再版とともに、大きな図版編を原版のサイズでリプリントしたものが出版されました。カラー図版もそのまま再現していますので、利用価値は大です。参考までに本の高さも下記の書誌には記しました。
出版地は、さらに転じてオスナブリュック。13巻の図版編は合冊して7巻に仕立てており、ここには1913年に刊行されたErgänzungsbandも含まれています。7冊全部をあわせ、厚さは20センチ弱程度であったかと記憶します。 テキスト編は3巻に合本。
ですがこの版は、もう入手が困難かもしれません。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
(Neudruck der Ausgabe 1849-1858. Biblio-Verlag, Osnabrück, 1970-1972)
Tafelband: 64 cm. Textband: 30 cm.

Tafelband I-II (1972)
Tafelband III-IV (1972)
Tafelband V-VI (1970)
Tafelband VII-VIII (1970)
Tafelband IX-X (1970)
Tafelband XI-XII (1970-72)
Ergänzungsband (1972)

Textband I-II (1970)
Textband III-IV (1970)
Textband V (1970)

この直後に、ジュネーヴからはモノクロの縮刷版が出版されました。
エジプト学の研究者の間では、オスナブリュックから再版されたものよりも、こちらの版の方が広く知られているかと思われます。まずは図版編の縮刷版が出版され、次いでテキスト編が上梓されました。図はすべてA4版に縮小されている版。
テキスト編は原本通りに全5巻で出版されましたが、図版編はオスナブリュックの版と同様、やはり合本されて7冊にまとめられています。
この版も入手は今、難しくなっているようです。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.

Collection publiée sous l'égide du Centre de Documentation du Monde Oriental
[Réduction photographique de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1972-73)
30 cm.

Abtheilung I. Vol. I et II (Pl. I-CXLV) (1972?)
Abtheilung II. Vol. III et IV (Pl. I-CLIII) (1972)
Abtheilung III. Vol. V et VI (Pl. I-CLXXII) (1972)
Abtheilung III. Vol. VII et VIII (Pl. CLXXIII-CCCIV) (1972)
Abtheilung IV. Vol. IX (Pl. I-XC) (1973)
Abtheilung V. Vol. X (Pl. I-LXXV) (1973)
Abtheilung VI. Vol. XI et XII (Pl. I-CXXVII) (1973)

Collection des Classique Égyptologiques
[Reprographie A4 de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1975)
30 cm.

Text, vol. I. x, 238 p.
Text, vol. II. (v), 261 p.
Text, vol. III. (iii), 310 p.
Text, vol. IV. (v), 176 p.
Text, vol. V. viii, 406 p.

インターネットにて「デンクメーラー」を見ることができると以前、書きましたけれど、そこでは解像度が落とされており、また表紙などもスキャンされていません。制限がやはりあるわけです。

C. R. Lepsius: Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien:
http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/start.html

こうした情報をどのように使うかが問われる点。
インターネット上ではごく最近、「デンクメーラー」のリプリントをまた見かけるようになりましたが、この偉大な書は古代エジプトにおける遺跡を十数巻にわたって紹介しているモニュメンタルな本ですので、図版編なのかテキスト編なのか、あるいはそのうちの何巻目を出版しているのか、ページ数や図版の枚数などがちゃんと揃っているのかなどを確認することが必要となってきます。
残念なことに、ネット上に公開されている文献資料をそのまま印刷に回して販売するという悪質な書籍の売り方をする者も出てきました。充分な注意が求められます。

2011年9月18日日曜日

Kircher 1650


17世紀の傑人アタナシウス・キルヒャーについては日本でも荒俣宏が紹介をしており、良く知られた研究者ですが、エジプト学の中ではもはや振り返って詳しく読み直そうとする学徒はほとんどいないのでは。
キルヒャーは古代ローマ時代以降、エジプト研究に関していち早く本を刊行している人ですけれども、ヒエログリフの解読について、今から考えるならばデタラメとしか言いようがない考察を残したせいで評価が貶められています。当時、最高の知識人と考えられていたキルヒャーによる誤った解釈のために、古代エジプト研究の進展が大幅に遅れたと非難している者もいるほど。

キルヒャーがラテン語で記した著作は他言語にあまり翻訳されておらず、彼による思考過程全体の理解が阻まれているのは残念。
ここで取り上げる本の中でもギリシア語、コプト語、ヘブライ語やアラビア語などの引用が混じっていますから、全部を読もうと思ったら相当の覚悟が必要です。

キルヒャーはしかし、たぶんオベリスクがどのように設計されたかという問題に真向から挑んだ最初の人で、建築学の領域からは重要な足跡を記していると判断されます。
ピラミッドに関する設計方法については何冊も本が出ているのに、オベリスクの寸法計画に関しては本格的な論考が何ひとつ出版されていないのは不思議だと思われるかもしれません。
けれどもここには理由があり、研究の前提となるオベリスクの正確な実測値がまず分からないという点がまずひとつ。さらに、実測値が知られていると言われているものもよく調べてみるならば、もともと正方形が意図されたと思われるオベリスクのシャフトの底面やピラミディオンの底辺がけっこう歪んでいる場合が多く、誤差が大きいということが分かったため、詳細な研究が控えられているといった事情が挙げられます。
いったん立てられたオベリスクを実測するのは大変です。アレキサンドリアに立つ「ポンペイの柱」も、実測に際してはアルピニストに頼る他ありませんでした。
今では3Dスキャナを用いた最新の計測方法があるという人がいるかもしれない。しかし、実測値をどう解釈するのかという基本的な問題は、依然として残されると思います。

ひとつの石から削り出されることが尊重されたオベリスクの切り出しの工程では、多大な困難に直面することが度々でした。岩盤は決して均質でないため、大きな塊を切り出そうとした場合、岩盤に観察される層の良し悪しを見極めたり、割れ目などを勘案しながら計画を進めざるを得ず、時には初期に決定された長さを縮めるといったような大きな計画変更をおこないながら掘り出されたとみなされています(Engelbach 1922; Engelbach 1923)。
オベリスクの計画寸法についての研究はそれ故、切り出しの工程を十分考慮しつつ、なおかつ実測値の誤差をどう考えるのかを範疇に含めなければなりません。立体物としてのオベリスクの形状の把握、また完数による設計計画を望んだらしい古代エジプト人たちの方法をどのように勘案すべきなのか、こうした諸点が突破口となるでしょう。
ピラミッドの計画寸法を探ることよりも、古代エジプトにおける設計方法がオベリスクに関する研究を通じて明らかになるのではという予測が指摘されます。

書籍のデジタル化によってインターネットで原書が見られることは非常に有難い。ここ数年の劇的な変化だと思います。かつては海外の図書館へ見に行く他、方法がありませんでしたから。
こうした古書の公開によって、たぶん古代エジプト建築研究はこれから少しずつ進むのでは。

Athanasius Kircher,
Obeliscus Phamphilius,
hoc est, interpretatio noua & hucusque intentata obelisci hieroglyphici quem non ita pridem ex Veteri Hippodromo Antonini Caracallae Caesaris, in Agonale Forum transtulit, integritati restituit, & in Urbis Aeternae ornamentum erexit Innocentius X, Pont. Max. in quo post varia Aegypticae, Chaldaicae, Hebraicae, Graecanicae antiquitatis, doctorinaeque quà Sacrae, quà Profanae monumenta, Veterum tandem Theologia, hieroglyphicis inuoluta symbolis, detecta e tenebris in lucem asseritur
(Roma 1650)

参考:Werke von Athanasius Kircher im Internet - Unversität Luzern
http://www.unilu.ch/deu/werke-von-athanasius-kircher-im-internet_269856.html

キルヒャーはオベリスクの碑文について1666年にも本を出しているから紛らわしい。
キルヒャーによる原文をラテン語で読もうと志す方のために、上記のサイトを挙げておきます。ネットからダウンロードできるキルヒャーの本のリストが示されていて便利。
1650年代には、エジプトに関する重要な著作を他にも刊行しており、また当時の知識を集大成することができる立場にあったため、中国についての最先端の研究も試みています。どこまでも多才の人ということになります。

1650年に出されたこの著作では、第1巻第6章の第2節(pp. 52-3)にうかがわれる"De proportione Obeliscorum"(「オベリスクのプロポーションについて」)が肝要。オベリスクのシャフトと、その上に乗るピラミディオンとの設計方法が別々に考えられている点が注目され、シャフト底辺の10倍がシャフトの高さとみなされているのが特徴です。同時に、シャフトの底辺がピラミディオンの断面における斜辺に当てられているのでは、という指摘も見逃せません。
でも、ここには主要寸法に当時の尺度における完数が用いられたのではという考えが完全に欠落しています。当時の尺度に基づいた完数による計画が指摘され始めたのは、18世紀なのではないでしょうか。

大科学者であったアイザック・ニュートンが、ここでも大事な役割を演じています(cf. Newton 1737)。おそらくニュートンはエジプトのギザに立つピラミッドを初めて詳細に実測した報告書、Greaves 1646を読んで大きな示唆を受けており、Greavesが引用したアラビア語文献での記述、「クフ王のピラミッドの一辺の長さは、古代のキュービットで100王尺」という文面を見てヒントを得たらしく思われます。
Greavesは古典語が読めた他、アラビア語も理解した天文学者。政変によってオクスフォード大学から追放されるなど、ひどい目に会っていますが、古代尺の追究に全力を注いだ人でもありました。その情熱の結果は、もはや学問の領域を超えています。

キルヒャーの本では、次の節に記されている4つの「オベリスクの問題」も検討されるべき(pp. 53-7)。
底辺の10倍がオベリスクの高さに近似するという指摘は19世紀以降、何人もの研究者が指摘しています。でも基準となるはずのシャフトの底辺にかなりの誤差があるということなので、この10倍の値が果たしてシャフトの高さなのか、あるいはピラミディオンを含めた全高となるのかが正確に決定できません。それで「底辺の9~11倍」という曖昧な表現がしばしば取られるわけです。

ですが、この時に課題となるのは頂上のピラミディオンの形状で、ピラミディオンの底辺と高さとが同じであったり、または高さの方が大きかったり、底辺の方が大きかったりとバラバラであることは気になるところ。このかたちの違いは大いに注目すべきで、設計意図を解きほぐす糸口になるかもしれません。
設計はおそらくシャフトの底辺を基準としておこなわれたはず。ですが、もしそうであるならば頂上のピラミディオンの形状を統御することは、微妙な傾斜がシャフトに与えられたりするので、大変難しかったのではないでしょうか。
キルヒャーによるオベリスクの論考は、結局は西洋古典建築のオーダーの基本的な問題に結びつくように考えられ、そこがきわめて面白い点です。

2011年9月8日木曜日

Pliny the Elder (Gaius Plinius Secundus), Naturalis Historia, Liber XXXVI


プリニウスの「博物誌」は当時の百科事典という位置づけで、全部で37巻からなる記述のうち、第36巻では多様な石に関する知見が述べられ、古代エジプトのオベリスクについても具体的な寸法を交えながら触れられています。
ただし、古代ローマにおける尺度で書かれているために換算が必要。またこの採寸の値がどこまで正確なのか、分かりません。しかしエジプトから何本も運ばれてきた奇妙な一本石のモニュメントに、相当の興味が持たれていたことは確かなようです。
ここで挙げるのはLoebシリーズによる英訳。10冊の訳本にまとめられています。内容が多岐にわたるため、訳者も大変だったでしょう。苦労が忍ばれます。

Gaius Plinius Secundus (Pliny the Elder),
Naturalis Historia.
Translated by D. E. Eichholz,
Pliny, Natural History, Vol. X: Libri XXXVI-XXXVII.
Loeb Classical Library 419
(Harvard University Press, Massachusetts, 1962)
xviii, 344 p.

邦訳:
中野定雄・中野里美・中野美代
「プリニウスの博物誌」全3巻
(雄山閣、1986年)、
第3巻、pp. 1451-1495.

大プリニウス(Pliny the Elder)と小プリニウス(Pliny the Younger: Gaius Plinius Caecillius Secundus)の2人がいるのは、大プリニウスの甥に当たる人が、非常に貴重なラテン語の手紙類を残しているため。

この本が日本語で読めるというのは嬉しい限りです。この訳書が出版された時には評判になりました。ただ原典のラテン語からではなく、Loebのシリーズによる英訳本文をさらに日本語訳したもので、Loebのシリーズに見られる注釈は省略されていますから注意。
Loebのシリーズによるプリニウスの「博物誌」全10巻の書誌を挙げておきますと、

Pliny the Elder,
Natural History, 10 vols.
(1938-1962)

Vol. I: Books 1-2.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 330
(1938)

Vol. II: Books 3-8.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 352
(1942)

Vol. III: Books 8-11.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 353
(1940)

Vol. IV: Books 12-16.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 370
(1945)

Vol. V: Books 17-19.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 371
(1950)

Vol. VI: Books 20-23.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 392
(1951)

Vol. VII: Books 24-27.
Translated by W. H. S. Jones and A. C. Andrews.
Loeb Classical Library 393
(1956)

Vol. VIII: Books 28-32.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 418
(1963)

Vol. IX: Books 33-35.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 394
(1952)

Vol. X: Books 36-37.
Translated by D. E. Eichholz.
Loeb Classical Library 419
(1962)

最初の5巻と第9巻を訳した1868年生まれのHarris Rackhamは、Loebのシリーズにおいてキケロの訳の他、アリストテレスの著作の訳なども手がけており、こっちの方が本業。古代ギリシア語とラテン語を自在に使いこなすことができた学者であったことが良く分かります。
おそらく全10巻の訳をひとりで完遂したかったと思われますが、1944年に亡くなり、それ故にさまざまに訳者が入れ替わっています。

オベリスクの形状を考える上で「博物誌」の36巻に出てくる記述、

idem digressis inde ubi fuit Mnevidis regia posuit alium, longitudine quidem CXX cubitorum, sed prodigiosa crassitudine, undenis per latera cubitis.

"Ramses also erected another at the exit from the precinct where the palace of Mnevis once stood, and this is 120 cubits high, but abnormally thick, each side measuring 11 cubits."
(XXXVI, XIV: Eichholz, ibid., pp. 50-51)

「ラムセスはまた、かつてムネウィスの宮殿があった構内の出口のところにいま一本立てたが、これは120キュービットの高さがあった。しかし異常に太いもので、各面とも11キュービットもあった。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1466)

は重要。
なぜ「異常に太い」という言及がなされたのかが気になります。この時代、オベリスクの普通のかたちが認識されていたのかもしれません。この巻の訳者はわざわざこの部分に註を設け、

"The proportions are not abnormal. In general, the height of about ten times the maximum breadth, which is at the base."
(Eichholz, p. 50)

と述べています。「ちっとも異常ではないように思われるが」という対応。オベリスクの底辺の10倍が全高になるという見方がいつ生まれたのか、興味深いところです。

プリニウスはこのあとにピラミッドについても書いており、以下の文面はギリシアのヘロドトス、シケリアのディオドロス、ストラボンたちによるクフ王のピラミッドの寸法に関する最古の記述に次ぐもののひとつでしょうか。
すなわち、

amplissima septem iugera optinet soli. quattuor angulorum paribus intervallis DCCLXXXIII pedes singulorum laterum, altitudo a cacumine ad solum pedes DCCXXV colligit, ambitus cacuminis pedes XVIS.

"The largest pyramid covers an area of nearly 5 acres. Each of the four sides has an equal measurement from corner to corner of 783 feet; the height from ground-level to the pinnacle amounts to 725 feet, while the circumference of the pinnacle is 16 1/2 feet."
(XXXVI, XVII: Eichholz, pp. 62-63)

「最大のピラミッドは、7ユゲラの面積を塞いでいる。その四面の各々の隅から隅までの寸法は、等しく783フィート、地面から尖頂までの高さは725フィート、一方尖頂の周りは16フィート半である。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1469)

と言っているのですが、ここで言う「フィート」は古代ローマの尺度であり、ピラミッドの一辺が"DCCLXXXIII pedes"と書いていますけれども、ローマ尺の1フィート(ペデス)を29.5センチメートル(0.295メートル)と考えるならば、換算値で231メートル弱となり、これはかなり良い数値であるように思われます。
紀元後1世紀の記述で、今から2000年ほど前の文。何を汲み取ることができるのか、それが試されています。

2011年5月26日木曜日

BACE 20 (2009)


今までBACEの18号、19号を紹介しながら、20号は無視していたことに遅ればせながら気づいたので、この号の目次のみ転載。
Mahranの論文は、目次では109ページから始まっていることになっていますが、実際には107ページからです。


Bulletin of the Australian Centre in Egyptology (BACE), vol. 20 (2009)
142 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian E. Bowen,
"The Church of Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis: A Report on the 2009 Excavation" (p. 7)

Donald Chiou and Karin Sowada,
"A Coffin of Imported Conifer Wood from Saite Period Saqqara" (p. 27)

Christopher J. Davey,
"A Metalworking Servant Statue from the Oriental Institute, University of Chicago" (p. 37)

Colin A. Hope, Gillian E. Bowen, Jessica Cox, Wendy Dolling, James Milner and Amy Pettman,
"Report on the 2009 Season of Excavations at Mut el-Kharab, Dakhleh Oasis" (p. 47)

Miral Lashien,
"The so-called Pilgrimage in the Old Kingdom: Its Destination and Significance" (p. 87)

Heba Mahran,
"A Talatat Block in the Mallawi Museum" (p. 107)

Marcus Müller,
"Facing up to Cruelty" (p. 115)

Mahranによるタラタートの論文は石材を加工している風景を報告していますので、短いけれども建築学関係者にとっては価値があります。石に鑿をあてて木槌を振り下ろそうとしている場面を紹介(Fig. 1)。
タラタートに描かれている情景ですから、おそらくはタラタートを加工している様子かと思われるんですが、石の大きさは人物像の高さから判断して長さが1メートルほどはありそう。
他方でタラタートを労働者が肩に載せて運搬している別のレリーフがすでに知られており、そこでは正しく50センチほどの長さで石が描写されていますから、このちぐはぐな表現が面白いところです。

アマルナ時代のタラタート(タラッタート)については、Kramer 2009Vergnieux 1999Vergnieux and Gondran 1997López 1978-1984 (O. Turin)などを参照。

BACE 21 (2010)


オーストラリアのエジプト学研究所(Australian Centre in Egyptology: ACE)から刊行されている紀要の最新号。確か、2011年の初頭に送られて来たもの。目次は未だACEの方で公開していないようなので、長くなりますが記します。
BACEという略称で呼ばれますが、この言い方はあんまり専門家の間でも一般的ではないかもしれません。
A5版という判型はエジプト学に関連する雑誌の中では小さい部類に属し、

Discussions in Egyptology (DE)
Göttinger Miszellen (GM): Beiträge zur ägyptologischen Diskussion

や、あるいは初期の

Journal of Mediterranean Archaeology (JMA)

がこの大きさでした。灰色の表紙のペーパーバックです。


Bulletin of the Australian Centre in Egyptology (BACE), vol. 21 (2010)
166 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

G. E. Bowen, L. Falvey, C. A. Hope, D. Jones, J. Petkov, L. Woodfield,
"The 2010 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

C. A. Hope, D. Jones, L. Falvey, J. Petkov, H. Whitehouse, K. Worp,
"Report on the 2010 Season of Excavations at Ismant el-Kharab, Dakhleh Oasis" (p. 21)

Caroline Hubschmann,
"Beer Jars of Mut el Kharab, Dakhleh Oasis: Evidence of Votive Activity in the Third Intermediate Period" (p. 55)

Beverley Miles,
"Enigmatic Scenes of Intimate Contact with Dogs in the Old Kingdom" (p. 71)

Boyo Ockinga,
"A Late Period Tomb Structure in the Teti Cemetery North?" (p. 89)

Ali Radwan,
"The Louvre Stela C 211" (p. 99)

K. N. Sowada, G. Jacobsen, F. Bertuch, A. Jenkinson,
"The Date of a Mummified Head in the Nicholson Museum, Sydney" (p. 115)

Elizabeth Thompson,
"The Engaged Statues of the Old Kingdom Tombs at Tehna in Middle Egypt" (p. 123)

Lubica Zelenková,
"The Royal Kilt in Non-Royal Iconography?: The Tomb Owner Fowling and Spear-Fishing in the Old and Middle Kingdom" (p. 141)

日本の筑波大学隊が調査を進めているテヘナ(アコリス)の墓内の彫像に関する報告がありますけれども、これらはG. W. フレーザーが19世紀の終わりに調べた遺構で、それ故に「フレーザーの墓」と呼ばれています。マスタバ墓ですが、なんと懸崖からマスタバのかたちを掘り抜いて造られており、古代エジプト史上、稀な例となっています。斜面に造られた岩窟のマスタバとして知られている少ない古王国時代の墓。
サッカーラやギザの集合墓地などを中心に考えていると、マスタバというものは必ず平地に建っており、煉瓦や石材の組積によって建造されるものだという先入観が生じますが、これをまったく裏切っている遺跡で、上の部分、すなわち屋根から掘り出したはずですから、床の平面計画から考える普通の場合と異なって、全体の設計計画寸法の決定がどのように進められていったのかといった素朴な疑問がわきます。

古代エジプトの墳墓を簡略にまとめたものとしては、Dodson and Ikram 2008を参照。

2010年12月5日日曜日

Hawass, Manuelian, and Hussein (eds.) 2010 [Fs. Edward Brovarski]


E. Brovarskiへの献呈論文集です。アメリカのボストン美術館から出された展覧会のカタログ、

Edward Brovarski, Susan K. Doll, and Rita E. Freed (eds.),
Egypt's Golden Age:
The Art of Living in the New Kingdom 1558-1085 B.C.

Catalogue of the Exhibition
(Museum of Fine Arts, Boston. Boston, 1982)
336 p.

についてはちょっと触れたことがありますけれど、巻末には目配りの利いた多数の参考文献が列記されるなど、きわめて充実した内容を示す本で、新王国時代の研究者にとっては必携の書です。
この本の編者の一人がBrovarskiで、下記のように、ASAEのCahierシリーズ(CASAE)から出版されました。

Zahi Hawass, Peter Der Manuelian, and Ramadan B. Hussein (eds.),
Perspectives on Ancient Egypt: Studies in Honor of Edward Brovarski.
Supplément aux Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Cahier (CASAE) 40
(Publications du Counseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2010)
474 p.

Contents:

Zahi Hawass,
PREFACE (p. 9)
ACKNOWLEDGEMENTS (p. 11)

Del Nord,
EDWARD BROVARSKI: AN EGYPTOLOGICAL BIOGRAPHY (p. 13)
BIBLIOGRAPHY OF EDWARD BROVARSKI (p. 23)

Schafik Allam,
NOTES ON THE DESIGNATION 'ELDEST SON/DAUGHTER'
(z3/z3.t smsw: Sri '3/Sri.t '3.t) (p. 29)

Hartwig Altenmüller,
SESCHAT, 'DIE DEN LEICHNAM VERSORGT', ALS HERREN ÜBER VERGANGENHEIT UND GESCHICHTE (p. 35)

Mariam F. Ayad,
RE-FIGURING THE PAST: THE ARCHITECTURE OF THE FUNERARY CHAPEL OF AMENIRDIS I AT MEDINET HABU, A RE-ASSESSEMENT (p. 53)

Manfred Bietak,
THE EARLY BRONZE AGE III TEMPLE AT TELL IBRAHIM AWAD AND ITS RELEVANCE FOR THE EGYPTIAN OLD KINGDOM (p. 65)

Tarek el Awady,
MODIFIED SCENES AND ERASED FIGURES FROM SAHURE'S CAUSEWAY RELIEFS (p. 79)

Marjorie Fisher,
A NEW KINGDOM OSTRACON FOUND IN THE KING'S VALLEY (p. 93)

Laurel Flentye,
THE MASTABAS OF DUAENRA (G 5110) AND KHEMETNU (G 5210) IN THE WESTERN CEMETERY AT GIZA: FAMILY RELATIONSHIPS AND TOMB DECORATION IN THE LATE FOURTH DYNASTY (p. 101)

Fayza Haikal,
OF CATS AND TWINS IN EGYPTIAN FOLKLORE (p. 131)

Tohfa Handoussa,
THE FALSE DOOR OF HETEPU FROM GIZA (p. 137)

Zahi Hawass,
THE EXCAVATION OF THE HEADLESS PYRAMID, LEPSIUS XXIX (p. 153)

Jennifer Houser Wegner,
A LATE PERIOD WOODEN STELA OF NEHEMSUMUT IN THE UNIVERSITY OF PENNSYLVANIA MUSEUM OF ARCHAEOLOGY AND ANTHROPOLOGY (p. 171)

Angela Murock Hussein,
BEWARE OF THE RED-EYED HORUS: THE SIGNIFICANCE OF CARNELIAN IN EGYPTIAN ROYAL JEWELRY (p. 185)

Ramadan B. Hussein,
'SO SAID NU': AN EARLY bwt SPELL FROM NAGA ED-DÊR (p. 191)

Naguib Kanawati,
CHRONOLOGY OF THE OLD KINGDOM NOBLES OF EL-QUSIYA REVISITED (p. 207)

Barbara S. Lesko,
THE WOMEN OF KARNAK (p. 221)

Leonard H. Lesko,
ANOTHER WAY TO PUBLISH BOOK OF THE DEAD MANUSCRIPTS (p. 229)

Peter Der Manuelian,
A DIG DIVIDED: THE GIZA MASTABA OF THE HETI, G 5480 (GIZA ARCHIVES GLEANINGS IV) (p. 235)

Dimitri Meeks,
DE QUELQUES 'INSECTES' ÉGYPTIENS: ENTRE LEXIQUE ET PALÉOGRAPHIE (p. 273)

Karol Mysliwiec,
FATHER'S AND ELDEST SON'S OVERLAPPING FEET: AN ICONOGRAPHIC MESSAGE (p. 305)

Del Nord,
THE EARLY HISTORY OF THE ÌPT SIGN (GARDINER SIGN LIST O45/046) (p. 337)

Laure Pantalacci,
LE BOVIN ENTRAVÉ: AVATARS D'UNE FIGURE DE L'ART ET L'ÉCRITURE DE L'ÉGYPTE ANCIENNE (p. 349)

M. Carmen Pérez Die,
THE FALSE DOOR AT HERAKLEOPOLIS MAGNA (I) TYPOLOGY AND ICONOGRAPHY (p. 357)

Ali Radwan,
'nx-m-m3't (BRITISH MUSEUM STATUE EA 480 - BANKES STELA 15) (p. 395)

Cynthia May Sheikholeslami,
PALAEOGRAPHIC NOTES FROM TWENTY-FIFTH DYNASTY THEBES (p. 405)

David P. Silverman,
A FRAGMENT OF RELIEF BELONGING TO AN OLD KINGDOM TOMB (p. 423)

Josef Wegner,
EXTERNAL CONNECTIONS OF THE COMMUNITY OF WAHSUT DURING THE LATE MIDDLE KINGDOM (p. 437)

Christiane Ziegler,
NOUVEAUX TÉMOIGNAGES DU 'SECOND STYLE' DE L'ANCIEN EMPIRE (p. 459)

入れ子状の建物を扱ったAyadの論考は、さまざまなことを想起させます。あんまり整理されていない文で、繰り返しが多々見られる不備が残念ですが、言いたいことは良く伝わってきます。
B. J. ケンプが指摘した入れ子状の建物の重要性に関する再確認をおこなっており、D. アーノルドもTemples of the Last Pharaohs (New York and Oxford, 1999)において、後にこの話題に触れました。

これが建築学的にどういう意味なのかは、しかし述べられていません。四角い一室しか持たない簡単な建物の中に、同じような建物が収まっている表現はどのように解釈すべきものなのか? 
当方の知る限り、このような建築表現について明確な意見を書いているのは、もう亡くなってしまった建築家の毛綱モン太(毛綱毅曠)で、ある建物から同じ建物が見えるというのは面白いことなんだ、とどこかで述べていたはずです。
彼の考えを借りると、入れ子状の建築の表現とは、ある建物の中に入ると同一の建物がそこにある、そういう解釈になります。そうであるならば、ひとは建物の中に入ったことになるのか。それとも建物の外に立っていることになるのか。その両方を宙吊りにした状態になるのか。
空間に関する近代の感覚を破壊する思考で、とても面白い。Fischerによる扉の考察と併せて考えるべき問題かと思われます(cf. Fischer 1996)。

レスコ夫妻のうち、旦那の方はコンピュータ時代の悩ましい問題を語っていて、これも興味を惹きます。史料を次代へと引き継ぐ問題で、技術を駆使すれば精緻なデータなどはもちろんこれから先もたくさん得られるんですけれども、いったいこの先、錯綜する厖大な史料データを誰が纏めて面倒を見るのかという問いかけ。
情報の共有というありふれた話題のように思われながら、A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols. (Berkeley, 1982-1990)が彼によって編纂されたことは知られていますので、この発言には重みがあります。
彼が問題にしているのは取りあえず「死者の書」に関連する資料ですが、いっこうに埒があかない状況への苛立ちが感じられ、課題の大きさを伝えています。史料の「読み手」の問題がここには隠されていて、解像度を高めたデジタル情報の提供量の増大はこれから見込まれるものの、その解釈の側はどうなっているのかという反問。
問題の本質を掴まえないで、いたずらに情報量だけを増やしている連中への、悪意の表明とみなせなくもない。