ラベル オベリスク の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル オベリスク の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年1月5日木曜日

Imhausen 2016


この人の著作については、前にもImhausen 2003などでいくつか言及しました。古代の数学史を専門とする女性の方です。ヒエログリフも楔形文字も、両方読める人。たくさん執筆しています。

Annette Imhausen
Mathematics in Ancient Egypt: A Contextual History.
Princeton and Oxford, Princeton University Press, 2016.
xi, 233p.

廉価版の電子体も広く出回っているようですが、本当に読もうと思っておられる方には、是非とも冊子体の御購入をお勧め致します。この分野の全般を客観的に見渡している最良の書です。アマゾンの「なか見!検索」で、目次の他、内容の概要を見ることが可能です。
表紙が中王国時代の穀物倉庫の模型、というのも示唆的です。穀物を家屋内に持ち込んでいる労働者の他に、座って数量を書き込んでいる書記たちの姿が見られます。ちゃんと膝の上に筆箱(パレット)を置いているのが面白い。
この家屋の模型における戸口の両脇と上框が赤く塗られている表現は貴重。家の戸口は木で作られていたことを伝えています。社会的身分の高い者の家の戸口では石材も用いられましたが、多くは石灰岩や砂岩です。戸口の下は白く塗られており、敷石があったことを示しています。壁体はもちろん、泥煉瓦造であったはずです。四隅の上部が三角形に尖っている点も注目されます。
こういうことを詳しく書いている論考は、あまり見当たりません。この種の分野の主著であるH. E. Winlock, Models of Daily Life in Ancient Egypt: From the tomb of Mekhet-Re' at Thebes. NY, MMA, 1955は今、幸いにもPDFがダウンロードできるようになりました。


さて、中王国時代の模型の家屋の内部には独立柱が一本もありません。注意されるべき点です。専門家はこのように、本を見る時には「何が書かれているか」を読むのではなく、逆に「何が書かれていないか」を集中して見ます。これは恩師・渡辺保忠の教えでした。
古代エジプトの柱については、

Yoshifumi Yasuoka
Untersuchungen zu den Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter.
Quellen und Interpretationen- AltÄgypten (QUIA), Band 2.
Hützel, Backe-Verlag, 2016
が出版され、これまでの事情が一変しました。彼はBiOr (Bibliotheca Orientalis)という専門誌において、建築に関連する書物の目覚ましい書評を次々に書いていたため、良く知られていた人です。この本の内容の充実さに匹敵する類書としては唯一、L. Borchardt, Die aegyptische Pflanzensäule, Berlin 1897だけが挙げられるかと思われます。古代ギリシャの柱との関連、すなわち「オーダー」の初源の姿も示唆しており、素晴らしい。古代ギリシャ建築の碩学であるJ. J. クールトンも扱うことができなかったトピックです。
古代エジプトの柱については、素人が柱の写真集を出したりもしていますが、史料的な価値に乏しく、領野内での評価は思わしくありません。

数学と建築学との間には、接点がないこともありません。古代における大きな造形物がテーマとなった場合、これをどのように設計したかが絶えず問題となります。計画の過程を示すようなものが文章として残される場合があって、特にこれが算術の問題として記されると、数学史の分野では大きく注目されるわけです。書記の養成を目的として、こうした問題は史料としていくらか残されており、リンド数学パピルス、モスクワ数学パピルス、また中王国時代のパピルスなどが知られています。今後、末期王朝以降のパピルスも問題となってくるでしょう。

逆に、建築史の世界で注目されるような単なる寸法指定のテキストは、その記録がいくら古くても数学史の世界ではほとんど取り扱われません。また数学史の領野で古代エジプトの分数の表記の特殊性が強調されても、建築史の専門家たちは関心を寄せないであろうと感じられます。何故なら建築の世界では、当時のキュービット尺のものさしをどのように自在に扱ったかが、より重要であるからです。
他方で、近年では3Dスキャナによる測量を含めた最新の科学方法を競う世界が飛躍的に展開されています。
たぶん、この3つの学的領域で各々、重ならないようで重なっている項目を具体的に挙げていくと、相互の関心の度合いが見えてきて、面白い成果があらわれるのではないかと思います。
お互いの盲点が明瞭となるはずです。

Michel 2014との比較も、たいへん興味深いところです。
不満があるとするならば、大きな枠組の外へ踏み出そうとしていない点でしょうか。
でも、平易な書き方で全体を網羅しており、きわめて重要です。Architectural Calculationという項目がp.112以降に書かれており、またp.170以降にはMathematics in Architecture and Artという項目が見られます。
古代エジプト建築に携わる人間であれば、目を通しておくべき必読書となっています。

2015年3月30日月曜日

Michel 2014


古代エジプトの数学についての厚い本がまた出版されました。
全部で600ページを超えます。
ざっと目を通しただけですけれども、いろいろと示唆を受けました。購入しても損はないのでは。
約55ユーロという値段のようですから、入手しやすい価格です。
最新情報が全部詰め込まれた体裁で、その良い面と悪い面とがあらわれ出ている、そういう印象となります。古代エジプトの数学について、最新の情報が必要な場合には良いかもしれません。

Marianne Michel
Les mathématiques de l'Égypte ancienne: 
Numération, métrologie, arithmétique, géométrie et autres problèmes.
Connaissance de l'Égypte Ancienne 12
(Bruxelles, Éditions Safran, 2014), 
603 p.

目次に関しては以下のURLが、ページ数が明記されていないものの、小項目も含めて全部公表されていますから、参考になるのではないでしょうか。


細かいことは、ここで記しません。
こちらが取り敢えず気になるのは、建築に関わる記述だけとなります。
古代エジプトの数学に関わる著作として、小欄ではこれまでRobson and Stedall (eds.) 2009Imhausen 2007Rossi 2004Imhausen 2003、またClagett 1989-1999などに触れてきました。これらの刊行物の総まとめを狙った意図が見られ、非常に意欲的です。
この点は何よりも評価すべきかと思われます。

ピラミッドに関する記述は、p. 393から始まります。そこにはリンド数学パピルスなどの解説に続いて例の有名な、というか、建築に興味を持っている者なら必ず興味を抱いているに違いない第一アナスタシ・パピルスに出てくる斜路やオベリスクの難問が同時に扱われており、これはすなわち、「建物の勾配の決定方法が古代エジプトの長い時代を超えて検討されている」、ということとなります。
こういう見かたは、これまでなかったように感じられます。
因みに、第一アナスタシ・パピルスは新王国時代後期(ラメセス朝)のもの。リンド数学パピルスは第二中間期、またモスクワ数学パピルスについてはさらに若干古く、第11王朝に遡ります。

だいたいエジプト学における設計方法の研究と言うものは、20世紀の初期までは建築を専門とする人たちによって重要な情報が部分的にもたらされていたのですが、それ以降は考古学者による勝手な解釈が入り混じり、加えて建築学者の中の一部分の方が間違ったことを唱えたりして、状況は悲惨なこととなりました。
今、古代エジプトの遺跡の調査に関わる人の大多数は、建物の規模を測って1キュービット=約52.5cmでちょうど割り切れるかどうかを調べ、それがうまくいかない場合には、すぐに判断を中止すると思います。遺構の測量を専門としている方々も同様です。

基本となるキュービット尺に関する説明を、権威と認められた文献学者が事典等で書き続けた結果、これを真に受ける考古学者が続出し、困ったかたちとなっています。日本での古代エジプトのキュービット尺の紹介は、そうした情報を単に翻訳しているだけですから、読むに値しません。
繰り返しますが、碩学のバリー・ケンプが何故、唐突にアマルナ型住居の平面計画方法の分析において小キュービットを持ち出したのか、その意味を深く考える必要があります(Kemp (ed.) 1995)。古代エジプトの尺度について、もう一回根本的に考えたらどうかという異議がそこでは真剣に出されているとみなすべきです。
なおアマルナ型独立住居の平面寸法分析については、キュービット尺を前提とした短い考察があります(Tietze (Hrsg.) 2008)。

M. Michelの本のp. 437には古代エジプトにおける勾配の一覧表と呼ぶべきものが初めて掲載されており(Fig. 145)、とても注目されます。これまでこうしたものは提示されることがありませんでした。ここではImhausen 2003Rossi 2004の著作が大きな役割を果たしていると見受けられます。ピラミッドもマスタバも塔門の壁体も墓のスロープもオベリスクも、みんな入っています。

この表には第一アナスタシ・パピルスにおける、いわゆる「オベリスクの問題」の勾配も扱われていますが、ただ「1キュービット、1ディジット」と言う解釈は従来通りです。第一アナスタシ・パピルスにせっかく触れたのに、惜しまれます。

「1キュービットに対し、1ディジット(指尺)単位の指定による勾配の規定も存在した」とセケドの概念を拡げたらこの本も革新的になったでしょうが、エジプト学の枠内に論理が収斂したせいで、最も肝要な域を超えることはありませんでした。Miatelloによる近年のセケドの論などにも触れていますが、当方には論外だと感じられます。
個人的に秘かに考えているセケドの概念の枠の解体方法としては、

1、基準となる1キュービットの水平と垂直を入れ替えてもセケドである
2、1キュービットに対してディジット(指尺)単位で指定される勾配もセケドである
3、勾配規定の基準となる1キュービットの長さが6パームでもセケドである

この3つが重要だと思います。
何故、これまで唱えられてきたセケドの概念を解体しなければならないのか。
理由は明瞭です。今のままの硬直した考えでは、ピラミッド研究など、古代エジプト建築の研究がまったく進まないからです。当時の設計方法の推察を重ねていかないと、埒が明きません。

すでにお分かりの通り、「小キュービット」の存在は疑われています。
ただこの考え方で問題となるのは、すべてを古代エジプト人のものさしの多様な扱いの中に解消させようとしている点です。それを他の学者たちが認めてくれるのかどうかは分かりません。
特に日本建築の場合、大尺・小尺という規定がかつてありましたから、その類推で日本人研究者が古代エジプトにおける小キュービットに対して早合点をする場合があって、 問題だと思われます。

19世紀に、古代エジプトのものさしが実際に出土したことも、近代の研究者の考えを束縛しました。

1、ものさしに示された単位長だけを基準として建物を造ったであろうと狭く考えた。
2、ものさしに刻まれた目盛り以外の寸法は用いられなかったであろうと狭く考えた。
3、「セケド」がリンド数学パピルスにピラミッドの設計方法として記されたため、それ以外の斜めに造られている構築物部分へのセケドの適用に対しては慎重になった。

古代エジプトにおける勾配を定める方法である「セケド」はエジプト学者たちによって、これまで概念が極めて限定して考えられてきました。限られた文字史料でしか扱われてこなかったので、その解釈を厳密に考えようとした経緯は当然です。また第二中間期の記述を新王国時代の遺構に当て嵌めていいのかという逡巡もあったことでしょう。
しかし逆に言えば、柔軟に作業を進めた古代エジプト人の設計方法や建造方法をほとんど配慮しない考え方でキュービット尺やセケドの解釈を進めてきたとも言えます。

古代エジプト研究の世界は現在、細分化されています。考古学、文献学、数学など、細分化した分野で解釈の矛盾があるわけですけれど、それらを建築学の中で再びひとつに包括し、問題を解消できるのではないかという、その可能性が指摘できるように思われます。

2012年7月9日月曜日

Caminos 1954 (Caminos LEM)


リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。

カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。

ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、

Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.

を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。

このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに

"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)

とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。

Gardiner LEMCaminos LEMは、たとえば

Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)

などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。

Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.

Contents:

Preface (vii)

I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)

Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)

Additions and Corrections (p. 512)

Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)

屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、

「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」

が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。

「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)

という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。

しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、

Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.

に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。

あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。

別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。

2011年9月27日火曜日

Zoëga (Zoega) 1797


高さが45cmのフォリオ(大判の本)で、全部をあわせると700ページ近くもある大著です。
オベリスクを考える上で大切なこの18世紀の本が、$3,800にて購入できるというページを先ほど見つけました。今は円高ですから30万円ほど。
素直に考えると、安いと思います。・・・買いませんけれども。

イタリアに立つオベリスク、特にローマに残るオベリスクに関する徹底的な分析研究に際しては必携の書であることに間違いはありません。同時に、18世紀末のヨーロッパにおけるオベリスクの状況が良く知られる資料。オベリスクに関連した第一級の参考図書、貴重文献となっています。
古代世界で強大なローマ帝国を打ち立てた現在のイタリアには、エジプトから何本ものオベリスクが苦労して運び込まれました。その中でも、中枢の都ローマはオベリスクがもっとも集中して搬入された場所。この狭い都市内だけで今日、10本以上のオベリスクが聳えており、この本数は本国のエジプト全土に立ち残っている本数を凌ぎます。
ただその中には古代ローマ時代に、エジプトのオベリスクを真似て造られたらしいものも混じっており、その見きわめが必要です。

キルヒャーがラテン語で書いた本(Kircher 1650)の後に出版された、オベリスクに詳しく言及する貴重な著作のひとつ。ヘロドトスやプリニウスなどをはじめとして、古代ギリシアや古代ローマの著作家たちがオベリスクについて触れた記述の部分を逐一、引き写すことをおこなっていて、冒頭の章ではこれに数十ページを費やしています。

xlページの参考文献リストを見ると、ギザのピラミッドの実測値を報告したGreaves 1646の論文も、フランス語の訳を通してちゃんと読んでいる様子。一方、古代エジプトの尺度を正しく推測した偉大な科学者のアイザック・ニュートンによる論考(Newton 1737)は掲げられていません。大旅行家であったRichard Pocockeの著作はしかし、リストアップされていて、この頃のヨーロッパにおける情報の行き来がどのような状態にあったのかが逆に憶測されます。

近年に出された本、例えばローマのオベリスクについて概説を述べているSorek 2010や、Iversen 1968-1972のうちの第1巻を入門書として見ると理解が早いのでは。Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009も重要。
現在、ローマに立っているオベリスクを紹介しているインターネットのサイトは国内外に複数、存在しています。立っている位置も詳しい地図で明示されており、たぶん1週間もあれば、全部を見て回ることができるでしょう。他の者よりもオベリスクを詳しく専門的に知りたい人にとって、この本は必読の書。
このように意義のある本が、何故エジプト学者にもさほど知られていないのかと言えば、オベリスクに関する形状の研究が全体的になおざりにされているからです。エジプト学において、遺構の平面分析はしますが、立体的な、あるいは構造的な数値の把握がなされることは稀です。
ですが、ピラミッドの分析よりも、オベリスクの分析にこそ古代エジプト建築の計画方法を解くための大事な鍵が隠されているように思われます。

大英博物館からかつて刊行された以下の著作(2巻本)の第1巻における「オベリスク」の章、また「ローマのオベリスク」の章では、著者であるZoëgaの略歴や、この本の内容がある程度、英語で説明されており、とても有用でお勧めです。情報は古いのですが、Zoëgaの論考を受け、後の19世紀においてオベリスクがどのように考えられていたのかが良く理解できます。
Google Booksでアップされており、厚い2冊が無料でダウンロードできます。

George Long (ed.),
The British Museum, Egyptian Antiquities, 2 vols.
(London 1832-1836)

Vol. I (1832):
http://books.google.com/books?id=KNg-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=The+British+Museum+Egyptian+antiquities+1832&hl=ja&ei=7Dp2TvGDCaSbmQXF4eTVDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false

Vol. II (1836):
http://books.google.com/books?id=CGkoAAAAYAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

さて、Zoëgaのこの著作は、やはりGoogle Booksにてダウンロードが可能となっています。
ドイツに留学中の安岡さんから御教示いただきました。いつもありがとうございます!

Jørgen Zoëga [Georgio Zoega],
De origine et usu obeliscorum, ad Pium Sextum Pontificem Maximum
(Roma 1797)
xl, 655 p., plates.
http://books.google.com/books?id=xoxCAAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=de&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

Praefatio (v)
Testimonium (viii)
Index (xxix)
Series peregrinatorum in Aegypto et Abessinia, quorum libri passim adducuntur (xl)

Sectio I. Veterum de obeliscis et de stelis Aegyptiis testimonia (p. 1)
Caput I. De obeliscis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 2)
Caput II. De stelis Aegyptiis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 32)
Caput III. Vetera obeliscorum epigrammata (p. 51)
Caput IV. Monumenta in quibus expressi cernuntur obelisci (p. 56)

Sectio II. Enarratio obeliscorum Aegyptiorum, qui hodie vel integri, vel aliqua sui parte superstites offenduntur (p. 65)
Caput I. Obelisci veteres Romae exsistentes (p. 66)
Caput II. Obelisci in Europae provinciis extra Urbem superstites (p. 83)
Caput III. Obelisci hodie exstantes in Aegypto et in Aethiopia (p. 92)

Sectio III. De usu obeliscorum in Aegypto (p. 127)
Caput I. De nomine obeliski (p. 127)
Caput II. De figura obeliscorum (p. 132)
Caput III. De materie e qua facti obelisci (p. 140)
Caput IV. De magnitudine obeliscorum (p. 144)
Caput V. De situ obeliscorum (p. 151)
Caput VI. Quo fine erecti fuerint obelisci (p. 156)
Caput VII. De argumento scalpturarum in obeliscis (p. 175)
Caput VIII. De mechanica obeliscorum (p. 184)

Sectio IV. De origine obeliscorum (p. 193)
Caput I. De monumentorum instituto (p. 193)
Caput II. Litterarum apud Aegyptios usus et origo (p. 423)
Caput III. De stelis Aegyptiis atque de obeliscis originem trahentibus a stelis (p. 571)

Sectio V. De historia obeliscorum (p. 596)
Caput I. Prima obeliscorum epocha (p. 596)
Caput II. Secunda epocha obeliscorum (p. 606)
Caput III. Tertia obeliscorum epocha (p. 609)
Caput IV. Quarta obeliscorum epocha (p. 623)
Caput V. Synopsis chronologica obeliscorum (p. 639)

Corrigenda et addenda (p. 645)

デンマークの学者による、オベリスクに関する初めての包括的、かつ冷静で客観的な考察、ということができます。「オベリスクの起源と用途」といった意味の原題がつけられました。
ローマに立っているオベリスクを中心に、その寸法などの報告も含めて記しつつ、本格的な論考が進められています。Kircher 1650の中で書かれている"De proportione Obeliscorum"「オベリスクのプロポーションについて」はここでも取り上げられていて、第3編第2章の"De figura obeliscorum"「オベリスクの形状について」はそれ故、建築学的にはたいへん重要な、注目される部分となります。ただし、ウィトルウィウス Vitruviusの「建築書」の影響を被っているかも、という点を勘案しなければなりません。

これまでKircherZoëgaがオベリスクの形状について述べている内容が、専門家によって詳細に論じられたことはないのでは。アメリカのワシントンに立っているオベリスクのモニュメントの基本設計に関わった外交官、ジョージ・パーキンズ・マーシュ George Perkins Marshがどこまで文献を読んでいたのか、この点も興味深く思われます(cf. Ashabranner 2002)。

本文はラテン語で、ここに古代ギリシア語、コプト語、ヘブライ語などがしばしば入り混じるのが日本人にとって辛いところ。

*  *  *  *  *

2019年9月に早稲田大学高等研究所講師の安岡義文さんから、何とこの本をプレゼントされました。彼は日本建築学会奨励賞を2019年に受賞。

https://www.aij.or.jp/images/prize/2019/pdf/6_award_015.pdf

ありがとう。さらに勉強を重ねます。
なお、今では以下の書も刊行されており、第17章でオベリスクの書について語られています(Emanuele M. Ciampini)。

Karen Ascani, Paola Buzi, and Daniela Picchi (eds.),
The Forgotten Scholar: Georg Zoëga 1755-1809: 
At the Dawn of Egyptology and Coptic Studies.
Culture and History of the Ancient Near East, Volume 74
(Leiden: Brill, 2015), xii, 267 p.

2011年9月18日日曜日

Kircher 1650


17世紀の傑人アタナシウス・キルヒャーについては日本でも荒俣宏が紹介をしており、良く知られた研究者ですが、エジプト学の中ではもはや振り返って詳しく読み直そうとする学徒はほとんどいないのでは。
キルヒャーは古代ローマ時代以降、エジプト研究に関していち早く本を刊行している人ですけれども、ヒエログリフの解読について、今から考えるならばデタラメとしか言いようがない考察を残したせいで評価が貶められています。当時、最高の知識人と考えられていたキルヒャーによる誤った解釈のために、古代エジプト研究の進展が大幅に遅れたと非難している者もいるほど。

キルヒャーがラテン語で記した著作は他言語にあまり翻訳されておらず、彼による思考過程全体の理解が阻まれているのは残念。
ここで取り上げる本の中でもギリシア語、コプト語、ヘブライ語やアラビア語などの引用が混じっていますから、全部を読もうと思ったら相当の覚悟が必要です。

キルヒャーはしかし、たぶんオベリスクがどのように設計されたかという問題に真向から挑んだ最初の人で、建築学の領域からは重要な足跡を記していると判断されます。
ピラミッドに関する設計方法については何冊も本が出ているのに、オベリスクの寸法計画に関しては本格的な論考が何ひとつ出版されていないのは不思議だと思われるかもしれません。
けれどもここには理由があり、研究の前提となるオベリスクの正確な実測値がまず分からないという点がまずひとつ。さらに、実測値が知られていると言われているものもよく調べてみるならば、もともと正方形が意図されたと思われるオベリスクのシャフトの底面やピラミディオンの底辺がけっこう歪んでいる場合が多く、誤差が大きいということが分かったため、詳細な研究が控えられているといった事情が挙げられます。
いったん立てられたオベリスクを実測するのは大変です。アレキサンドリアに立つ「ポンペイの柱」も、実測に際してはアルピニストに頼る他ありませんでした。
今では3Dスキャナを用いた最新の計測方法があるという人がいるかもしれない。しかし、実測値をどう解釈するのかという基本的な問題は、依然として残されると思います。

ひとつの石から削り出されることが尊重されたオベリスクの切り出しの工程では、多大な困難に直面することが度々でした。岩盤は決して均質でないため、大きな塊を切り出そうとした場合、岩盤に観察される層の良し悪しを見極めたり、割れ目などを勘案しながら計画を進めざるを得ず、時には初期に決定された長さを縮めるといったような大きな計画変更をおこないながら掘り出されたとみなされています(Engelbach 1922; Engelbach 1923)。
オベリスクの計画寸法についての研究はそれ故、切り出しの工程を十分考慮しつつ、なおかつ実測値の誤差をどう考えるのかを範疇に含めなければなりません。立体物としてのオベリスクの形状の把握、また完数による設計計画を望んだらしい古代エジプト人たちの方法をどのように勘案すべきなのか、こうした諸点が突破口となるでしょう。
ピラミッドの計画寸法を探ることよりも、古代エジプトにおける設計方法がオベリスクに関する研究を通じて明らかになるのではという予測が指摘されます。

書籍のデジタル化によってインターネットで原書が見られることは非常に有難い。ここ数年の劇的な変化だと思います。かつては海外の図書館へ見に行く他、方法がありませんでしたから。
こうした古書の公開によって、たぶん古代エジプト建築研究はこれから少しずつ進むのでは。

Athanasius Kircher,
Obeliscus Phamphilius,
hoc est, interpretatio noua & hucusque intentata obelisci hieroglyphici quem non ita pridem ex Veteri Hippodromo Antonini Caracallae Caesaris, in Agonale Forum transtulit, integritati restituit, & in Urbis Aeternae ornamentum erexit Innocentius X, Pont. Max. in quo post varia Aegypticae, Chaldaicae, Hebraicae, Graecanicae antiquitatis, doctorinaeque quà Sacrae, quà Profanae monumenta, Veterum tandem Theologia, hieroglyphicis inuoluta symbolis, detecta e tenebris in lucem asseritur
(Roma 1650)

参考:Werke von Athanasius Kircher im Internet - Unversität Luzern
http://www.unilu.ch/deu/werke-von-athanasius-kircher-im-internet_269856.html

キルヒャーはオベリスクの碑文について1666年にも本を出しているから紛らわしい。
キルヒャーによる原文をラテン語で読もうと志す方のために、上記のサイトを挙げておきます。ネットからダウンロードできるキルヒャーの本のリストが示されていて便利。
1650年代には、エジプトに関する重要な著作を他にも刊行しており、また当時の知識を集大成することができる立場にあったため、中国についての最先端の研究も試みています。どこまでも多才の人ということになります。

1650年に出されたこの著作では、第1巻第6章の第2節(pp. 52-3)にうかがわれる"De proportione Obeliscorum"(「オベリスクのプロポーションについて」)が肝要。オベリスクのシャフトと、その上に乗るピラミディオンとの設計方法が別々に考えられている点が注目され、シャフト底辺の10倍がシャフトの高さとみなされているのが特徴です。同時に、シャフトの底辺がピラミディオンの断面における斜辺に当てられているのでは、という指摘も見逃せません。
でも、ここには主要寸法に当時の尺度における完数が用いられたのではという考えが完全に欠落しています。当時の尺度に基づいた完数による計画が指摘され始めたのは、18世紀なのではないでしょうか。

大科学者であったアイザック・ニュートンが、ここでも大事な役割を演じています(cf. Newton 1737)。おそらくニュートンはエジプトのギザに立つピラミッドを初めて詳細に実測した報告書、Greaves 1646を読んで大きな示唆を受けており、Greavesが引用したアラビア語文献での記述、「クフ王のピラミッドの一辺の長さは、古代のキュービットで100王尺」という文面を見てヒントを得たらしく思われます。
Greavesは古典語が読めた他、アラビア語も理解した天文学者。政変によってオクスフォード大学から追放されるなど、ひどい目に会っていますが、古代尺の追究に全力を注いだ人でもありました。その情熱の結果は、もはや学問の領域を超えています。

キルヒャーの本では、次の節に記されている4つの「オベリスクの問題」も検討されるべき(pp. 53-7)。
底辺の10倍がオベリスクの高さに近似するという指摘は19世紀以降、何人もの研究者が指摘しています。でも基準となるはずのシャフトの底辺にかなりの誤差があるということなので、この10倍の値が果たしてシャフトの高さなのか、あるいはピラミディオンを含めた全高となるのかが正確に決定できません。それで「底辺の9~11倍」という曖昧な表現がしばしば取られるわけです。

ですが、この時に課題となるのは頂上のピラミディオンの形状で、ピラミディオンの底辺と高さとが同じであったり、または高さの方が大きかったり、底辺の方が大きかったりとバラバラであることは気になるところ。このかたちの違いは大いに注目すべきで、設計意図を解きほぐす糸口になるかもしれません。
設計はおそらくシャフトの底辺を基準としておこなわれたはず。ですが、もしそうであるならば頂上のピラミディオンの形状を統御することは、微妙な傾斜がシャフトに与えられたりするので、大変難しかったのではないでしょうか。
キルヒャーによるオベリスクの論考は、結局は西洋古典建築のオーダーの基本的な問題に結びつくように考えられ、そこがきわめて面白い点です。

2011年9月8日木曜日

Pliny the Elder (Gaius Plinius Secundus), Naturalis Historia, Liber XXXVI


プリニウスの「博物誌」は当時の百科事典という位置づけで、全部で37巻からなる記述のうち、第36巻では多様な石に関する知見が述べられ、古代エジプトのオベリスクについても具体的な寸法を交えながら触れられています。
ただし、古代ローマにおける尺度で書かれているために換算が必要。またこの採寸の値がどこまで正確なのか、分かりません。しかしエジプトから何本も運ばれてきた奇妙な一本石のモニュメントに、相当の興味が持たれていたことは確かなようです。
ここで挙げるのはLoebシリーズによる英訳。10冊の訳本にまとめられています。内容が多岐にわたるため、訳者も大変だったでしょう。苦労が忍ばれます。

Gaius Plinius Secundus (Pliny the Elder),
Naturalis Historia.
Translated by D. E. Eichholz,
Pliny, Natural History, Vol. X: Libri XXXVI-XXXVII.
Loeb Classical Library 419
(Harvard University Press, Massachusetts, 1962)
xviii, 344 p.

邦訳:
中野定雄・中野里美・中野美代
「プリニウスの博物誌」全3巻
(雄山閣、1986年)、
第3巻、pp. 1451-1495.

大プリニウス(Pliny the Elder)と小プリニウス(Pliny the Younger: Gaius Plinius Caecillius Secundus)の2人がいるのは、大プリニウスの甥に当たる人が、非常に貴重なラテン語の手紙類を残しているため。

この本が日本語で読めるというのは嬉しい限りです。この訳書が出版された時には評判になりました。ただ原典のラテン語からではなく、Loebのシリーズによる英訳本文をさらに日本語訳したもので、Loebのシリーズに見られる注釈は省略されていますから注意。
Loebのシリーズによるプリニウスの「博物誌」全10巻の書誌を挙げておきますと、

Pliny the Elder,
Natural History, 10 vols.
(1938-1962)

Vol. I: Books 1-2.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 330
(1938)

Vol. II: Books 3-8.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 352
(1942)

Vol. III: Books 8-11.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 353
(1940)

Vol. IV: Books 12-16.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 370
(1945)

Vol. V: Books 17-19.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 371
(1950)

Vol. VI: Books 20-23.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 392
(1951)

Vol. VII: Books 24-27.
Translated by W. H. S. Jones and A. C. Andrews.
Loeb Classical Library 393
(1956)

Vol. VIII: Books 28-32.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 418
(1963)

Vol. IX: Books 33-35.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 394
(1952)

Vol. X: Books 36-37.
Translated by D. E. Eichholz.
Loeb Classical Library 419
(1962)

最初の5巻と第9巻を訳した1868年生まれのHarris Rackhamは、Loebのシリーズにおいてキケロの訳の他、アリストテレスの著作の訳なども手がけており、こっちの方が本業。古代ギリシア語とラテン語を自在に使いこなすことができた学者であったことが良く分かります。
おそらく全10巻の訳をひとりで完遂したかったと思われますが、1944年に亡くなり、それ故にさまざまに訳者が入れ替わっています。

オベリスクの形状を考える上で「博物誌」の36巻に出てくる記述、

idem digressis inde ubi fuit Mnevidis regia posuit alium, longitudine quidem CXX cubitorum, sed prodigiosa crassitudine, undenis per latera cubitis.

"Ramses also erected another at the exit from the precinct where the palace of Mnevis once stood, and this is 120 cubits high, but abnormally thick, each side measuring 11 cubits."
(XXXVI, XIV: Eichholz, ibid., pp. 50-51)

「ラムセスはまた、かつてムネウィスの宮殿があった構内の出口のところにいま一本立てたが、これは120キュービットの高さがあった。しかし異常に太いもので、各面とも11キュービットもあった。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1466)

は重要。
なぜ「異常に太い」という言及がなされたのかが気になります。この時代、オベリスクの普通のかたちが認識されていたのかもしれません。この巻の訳者はわざわざこの部分に註を設け、

"The proportions are not abnormal. In general, the height of about ten times the maximum breadth, which is at the base."
(Eichholz, p. 50)

と述べています。「ちっとも異常ではないように思われるが」という対応。オベリスクの底辺の10倍が全高になるという見方がいつ生まれたのか、興味深いところです。

プリニウスはこのあとにピラミッドについても書いており、以下の文面はギリシアのヘロドトス、シケリアのディオドロス、ストラボンたちによるクフ王のピラミッドの寸法に関する最古の記述に次ぐもののひとつでしょうか。
すなわち、

amplissima septem iugera optinet soli. quattuor angulorum paribus intervallis DCCLXXXIII pedes singulorum laterum, altitudo a cacumine ad solum pedes DCCXXV colligit, ambitus cacuminis pedes XVIS.

"The largest pyramid covers an area of nearly 5 acres. Each of the four sides has an equal measurement from corner to corner of 783 feet; the height from ground-level to the pinnacle amounts to 725 feet, while the circumference of the pinnacle is 16 1/2 feet."
(XXXVI, XVII: Eichholz, pp. 62-63)

「最大のピラミッドは、7ユゲラの面積を塞いでいる。その四面の各々の隅から隅までの寸法は、等しく783フィート、地面から尖頂までの高さは725フィート、一方尖頂の周りは16フィート半である。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1469)

と言っているのですが、ここで言う「フィート」は古代ローマの尺度であり、ピラミッドの一辺が"DCCLXXXIII pedes"と書いていますけれども、ローマ尺の1フィート(ペデス)を29.5センチメートル(0.295メートル)と考えるならば、換算値で231メートル弱となり、これはかなり良い数値であるように思われます。
紀元後1世紀の記述で、今から2000年ほど前の文。何を汲み取ることができるのか、それが試されています。

2010年6月25日金曜日

Jomard 1809


「エジプト誌」の全巻が、今ではネットで見られることについて、すでにDescription 1809-1818にて述べました。ナポレオンによる「エジプト誌」にはテキスト編も含まれており、ジョマールはここに論考を複数、載せています。
欧州に留学中の安岡義文氏による情報。彼にはこれまでも、いろいろ貴重な最新の文献案内を送ってもらっており、多謝。BiOrの書評などを執筆していますから、興味ある方は御覧ください。

「エジプト誌」が誰にでも公開されているということは、すごいこと。逆に言うと、ここで触れられている内容を知らなければ「素人」とほとんど変わりないと判断されるわけで、辛い立場ともなります。

ここで取り上げる文章は全8章から構成され、古代エジプトの尺度に関して述べたもので、ニュートンによる52センチメートルという説を冒頭で一蹴し、これに代わる46センチメートルという値を主張して論理を展開している大論文。300ページ以上を費やしています。
ナポレオンの調査隊によってもたらされた数々の実測値をもとにした換算のリストだけでなく、古代ギリシア・ローマ、そしてアラブ世界の著述家たちによる「ジラー」を主とする長さの記述もくまなく参照しており、膨大な資料を駆使したその論述内容は、19世紀の博物学的方法の最後を飾るにふさわしい。オベリスクの寸法についても分析をおこなっています。

しかしこの頃に始まるさまざまな盗掘によって、長さ52センチメートルのものさしが実際に次々と発見されるようになります。この成果を受けてレプシウスが登場し、尺度の問題にはある程度のけりをつけました。Lepsius 1865 (English ed. 2000)を参照。
「ある程度の」というのは、実はレプシウスはジョマールの考え方を「小キュービット」として一部、残したからで、ここに混乱のもとがあると言えないこともない。レプシウスによるこのジョマール説の「救済」の方法に関しては、もっと議論があって然るべきだと思われます。G. ロビンスも、そこまで踏み込んではいません。

Edme Francois Jomard,
"Memoire sur le systeme metrique des anciens egyptiens, contenant des recherches sur leurs connoissances geometriques et sur les mesures des autres peuples de l'antiquite",
Description de l'Egypte, ou recueil des observations et des recherches qui ont ete faites en Egypte pendant l'expedition de l'armee francaise, publie par les ordres de Sa Majeste l'Empereur Napoleon le Grand.
Antiquites, Memoires, tome I
(Paris, 1809)
pp. 495-797.

すでに忘れ去られようとされているジョマールですが、ニュートンが前提とした「古代人は基準尺の倍数を構築物の主要寸法に充てた」という考えにおかしいところがあると指摘しており、これについては当たっている部分がなくもない。ニュートンはクフ王のピラミッドの計測値のうち、完数による値のみを偶然、目にしたという幸運に恵まれたと個人的には思います。澁澤龍彦(渋沢龍彦)の言い方を借りるならば、ここには建築の「死体解剖」があっても、「生体解剖」がありませんでした。
アイザック・ニュートンの論考についてはNewton 1737で紹介済み。これはまた、Greaves 1646の論考に刺激を受けての考察でもあります。
実際に古代エジプトの遺構では、いくつかの寸法でジョマールが分析したように、46センチメートル内外の長さで割り切れる場合があるわけで、この矛盾を斟酌し、できるだけ多くの報告を拾い上げようとしたレプシウスの功績は称えられるべきでしょう。
しかし結果として、キュービットは52.5cmであったというのが現段階における結論です。ニュートンの勝利でした。

まず大キュービットと小キュービットには、7:6という関係があるわけだから、大キュービットにおける6の長さは小キュービットの7の長さと一致します。この時、双方とも42パーム。この場合を除き、小キュービットで割り切れる長さがどれくらい遺構で見られるのかが問題を解く鍵となります。
ですが、こうした研究はほとんど進んでいません。小キュービットに関する建築遺構への適用は、近年ケンプがアマルナの独立住居における平面図で少し試してみている程度。
ジョマールまで再び戻って考え直さなければならない理由がここにあり、古代エジプトの基準尺に関しては、大きな陥穽があると言わざるを得ません。

古代エジプト建築の権威であるアーノルドの本には、小キュービットについての記述は一切ありません。建築の世界では、それでこと足りるからです。でもそれは美術史学の世界で論議されている尺度の問題とずいぶん、隔たりがあります。「おかしいのでは」という疑念があって然るべき。
こういう点が、今のエジプト学では論議されていません。

シャンポリオンがヒエログリフを読解する前に、ジョマールは数字だけは正確に読めたようです。中国語との類推から、「エジプト誌」のテキスト編には「百」とか「千」という漢字が載っています。ジョマールによる別の論文を参照のこと。
こういう事実はあまり知られていません。シャンポリオンもヒエログリフを読み解くために、中国語を勉強していました。新しい語学を学ぶことは、単に自分の道具を増やすことと同じだという割り切り方がここにはあって、これが日本人にとって難しい点となります。
絶望的であれ、泥縄式にでもいいから、とにかく数多く読み進めていくこと、その作業にどれだけ長年耐えられるかの競争であること、それが我々にとって唯一の早道だという指標がここでも示されています。

2010年6月15日火曜日

Sorek 2010


古代エジプトのオベリスクに関してはすでに、たくさんの本が出版されています。この欄で触れたものだけでも9冊。
しかしこの他にも多くの論考があって、ピラミッドについての書籍と比べれば数は少ないものの、特に20世紀の後半からは良書が増えています。
「エジプト誌」にもオベリスクの設計基準寸法を探る試みが記されていたりしますから、探せばかなりの量となるはず。
これまでに紹介したものは、以下の通り。

Gorringe 1882
Engelbach 1922
Engelbach 1923
Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)
Iversen 1968-1972
Habachi 1977
Tompkins 1981
Barns 2004
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009

こうした中にあって、新たに出版されたオベリスクの本。
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009は本格的な論考で、ヨーロッパへ与えたオベリスクの影響を考察しており、これとどうしても比較せざるを得ません。Sorekの本は一般書と専門書との間に位置する内容となります。

Susan Sorek,
The Emperors' Needles:
Egyptian Obelisks and Rome
(Bristol Phoenix Press, Exeter, 2010)
xxiv, 168 p.

Contents:
List of Illustrations (vii)
Preface (ix)
Standing Obelisks and their Present Locations (xiii)
Chronologies (xvii)

Introduction: The History of Pharaonic Egypt (p. 1)
1. The Cult of the Sun Stone: The Origins of the Obelisk (p. 9)
2. Created from Stone: How Egyptian Obelisks were Made (p. 17)
3. Contact with the West: Greece and Rome (p. 29)
4. Roman Annexation of Egypt (p. 33)
5. Egyptian Influences in Rome (p. 37)
6. Augustus and the First Egyptian Obelisks to Reach Rome (p. 45)
7. Other Augustan Obelisks (p. 53)
8. Augustus' Successors: Tiberius and Caligula (p. 59)
9. Claudius and Nero: The Last of Augustus' Dynasty (p. 71)
10. The Flavian Emperors and the Obelisks of Domitian (p. 75)
11. The Emperor Hadrian: A Memorial to Grief (p. 89)
12. Constantine and the New Rome (p. 101)
13. From Rome to Constantinople (p. 107)
14. An Obelisk in France (p. 115)
15. Obelisks in Britain (p. 123)
16. From the Old World to the New: An Obelisk in New York (p. 131)
17. The Obelisk Builders and the Standing Obelisks of Egypt (p. 147)

Appendix: Translations of Two Obelisk Inscriptions (p. 151)
Bibliography (p. 159)
Index (p. 161)

xiii-xxivで掲げられているリストや編年表には工夫が凝らされており、知られているものに番号が振られて、各々のオベリスクがいつ、どこへ運搬されたかを示した一覧表が作成されています。有用です。でも番号の表示なので、分かりづらい。「パリ」とか「ニューヨーク」といった略称の付記を考えても良かったかも。

一方、「立っているオベリスク」に限定していますから、「寝ているオベリスク」の代表格であるタニスのオベリスク群には言及されていません。他にもアレクサンドリアの海から引き揚げられたオベリスクの断片などもあって、本当は新しいオベリスクの一覧が望まれるところです。

KMTの最新号にはセティ1世のアスワーンに残るオベリスクの断片が紹介されていましたので、ついでに付記。

Michael R. Jenkins,
"The 'Other' Unfinished Obelisk",
in KMT 21:2 (Summer 2010),
pp. 54-61.

ローマのオベリスクを述べるのであれば、Ashabranner 2002で触れたように、19世紀の人物、George Perkins Marshについては扱って欲しかったと思います。
注目すべき古代ローマの建築の建立に関わったカリグラ(カリギュラ)やネロにも言及しており、図版を多く付加したら、オベリスクを中心とした古代建築の入門書ができるのかもしれない、そうした思いも抱かせる本です。

2010年6月14日月曜日

Barnes 2004


イギリスにあるオベリスクを集めた本。オベリスクがローマに立っていることに影響を受け、イギリスでは16世紀からエジプトのオベリスクを模して立てるようになります。エドウィン・ラッチェンスやジョン・ソーンなど、有名な建築家たちの名も挙げられており、彼らが建築や庭園へオベリスクを積極的に用いる様子が綴られています。

Richard Barnes,
The Obelisk:
A Monumental Feature in Britain

(Frontier Publishing, Kirstead, 2004)
192 p.

巻末に収められたオベリスクの数はおよそ1300で、これでも一部だけが集められた結果の数。その多くは20世紀の戦没者記念のために立てられたものです。他に2000ほど、墓地に立つものが存在する模様。

Contents:
I The Sixteenth & Seventeenth Centuries
II The Eighteenth Century
III Nineteenth Century
IV John Bell's Lecture: The Definite Proportions of the Obelisk and Entasis, or the Compensatory Curve
V Obelisks in Cemeteries and the Rise of Polished Granite
VI The Twentieth Century
VII The Purpose of Obelisks: Theories

第4章で紹介がなされている、19世紀を生きた彫刻家のJ. ベルによるオベリスクの分析が見どころとなります。特に94ページ以降の記述は重要で、検討の余地がある。オベリスクの各部と全体との関連を構造的に探っているからで、これがどこまで合っており、どこが間違っているかが突き止められれば、オベリスクの計画方法は解けることになります。

「第一にピラミディオン底面の対角線、第二にオベリスクの底辺、そして第三にはピラミディオンの高さはすべて同一の長さである」(p. 94)

「オベリスクの底面の対角線の7倍が、正確にオベリスクの全高となる」(p. 95)

ピラミディオンの底面の対角線、あるいはオベリスクの底面の対角線が基準になったとはとうてい思われないのですが、計算をしてみると、例えば「底辺の10倍がオベリスクの全高に相当する」という言い方とほとんど矛盾がないことに気づきます。

1.414×7=9.898

であるからです。
この点は重要で、見逃せません。課題は、彫刻家と建築家のものの見方の違いがどこにあるかということになるかと思われます。

2010年6月10日木曜日

Ikram and Dodson (eds.) 2009 (Fs. Barry J. Kemp)


バリー・ケンプへ捧げられた献呈論文集。40人以上の研究者たちが論考を寄せています。
「地平線の彼方」というタイトルは、ノーベル文学賞を受賞した米国の劇作家ユージン・オニールの名作で知られていますが、ホメロスの「オデュッセイア」でも、冥界のある場所は「地平線(水平線)の彼方」と表現されていたはず。
しっかりとした造本ですが、第2巻の目次においてページ番号が途中から全部、誤って記されているのは惜しまれます。

Salima Ikram and Aidan Dodson eds.,
foreword by Zahi Hawass,
Beyond the Horizon:
Studies in Egyptian Art, Archaeology and History in Honour of Barry J. Kemp
, 2 vols.
(Publications of the Supreme Council of Antiquities, Cairo, 2009)
xviii, 1-323 p. + vi, 325-613 p.

話題を建築に限って眺めるならば、まずはザヒ・ハワースの

Zahi Hawass,
"The Unfinished Obelisk Quarry at Aswan",
Vol. I, pp. 143-164.

が目を惹きます。
アスワーンの再発掘調査で、何本ものオベリスクの痕跡が発見されました。今、アスワーンに行くとそれらが見られ、削られた岩盤の面にはたくさんのヒエラティック・インスクリプションも確認することができます。多くは単なる季節と日付の羅列で、掘削作業の進捗状況を書きつけたもの。しかしこの本の論考では、それらをほとんど報告していません。これからの発表が期待されます。
掘りかけの新王国時代の巨像も見つかったと記されていて、その大きさに興味を覚えましたが、図28にうかがわれる平面図のスケールは明らかに間違いで、たぶん、この立像の高さは20メートルほど。古代エジプトで最大の巨像はザーウィヤト・スルターンとアコリスに未完成のまま残るプトレマイオス朝のもので、その調査は現在、筑波大学の発掘調査隊が手がけています。これと匹敵する大きさである点が注目されます。

Corinna Rossi and Annette Imhausen,
"Architecture and Mathematics in the Time of Senusret I:
Section G, H and Papyrus Reisner I",
Vol. II, pp. 440-455.

は、難解であった中王国時代のpReisnerの読解を試みています。このパピルスについては、Simpson 1963-1986で前に触れました。
詳細を省いて略記された建築の積算に関する記録方法と、神殿の建造の手順を踏まえながら、文字史料との整合性を考えている論考で、とても重要。
ここでもセケドが紹介されています。ここで書かれているセケドの概念は、しかしもっと拡張されるべきで、高さ方向に1キュービットを取り、水平方向にパームやディジットの長さを測るやり方だけでなく、すでにロッシがJEAの論文などでほのめかしているように、水平方向に1キュービットを取る勾配の規定方法も含めて考えると、もっとエジプト建築研究は進むのでは。極端な話、水平方向に1キュービットを取り、垂直方向に1ディジットを測るやり方も、セケドの範疇であると思われます。

Kate Spence,
"The 'Hall of Foreign Tribute' (S39.2) at el-Amarna",
Vol. II, pp. 498-505.

悩ましい"lustration slab"の解釈を挟みながら、アマルナのアテン大神殿に付設されている何だか良くわけが分からなかった謎の建物を考察。
建築の復原で何を根拠とすべきかが示されており、面白い論考です。
でも、ちょっと短いのが残念に思われるところ。

2009年12月21日月曜日

Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)


"CG"は一般にコンピュータ・グラフィックスを指しますが、Catalogue Generalの略称、つまり博物館に収蔵されている遺物の目録を意味する場合が時としてあります。特にエジプト学において、"CGC"とはカイロ・エジプト博物館から出ている収蔵遺物カタログを指し、これは100年以上も前からすでに数十冊出ていますけれども、今もなお刊行が継続している膨大なシリーズ。しかし既刊分をすべて揃えている研究機関というのは、日本では皆無かもしれない。
そのうちの、オベリスクを扱ったもの。

Charles Kuentz,
Obélisques.
Catalogue Général des antiquités égyptiennes du musée du Caire (CGC), nos. 1308-1315 et 17001-17036
(Institut Francais d'Archéologie Orientale, Le Caire, 1932)
viii, 81 p., 16 planches.

博物館に収めることのできる程度のものの報告ですから、あんまり大きいオベリスクは扱われていません。報告は丁寧で、本来は各辺が等しくなるように造られるべきだったんでしょうが、実際はかなりの誤差があり、ここでは各辺の実測値が挙げられています。勾配も記されていますけれども、片側だけを測った値で、エンゲルバッハの考え方はまったく反映されていない点が興味を惹かれるところです。

CGCのうち、古いもののいくつかは今日、ウェブで見ることができます。もう入手することが困難なものも多く、古本屋ではかなりの高額で扱われていますので、こういう基本的な図書が簡単に見られるというのは非常にありがたい。下記のCGCリストはEEFの有志によって纏められているもの。

http://www.egyptologyforum.org/EEFCG.html

このCGCとは別に、20世紀の半ばに、"CAA"という出版企画も立てられました。このシリーズも、すでに数十冊の刊行がなされています。

Corpus Antiquitatum Aegyptiacarum (CAA)

というのは、世界の博物館が収蔵しているエジプトの遺物を、一定の記述項目の定めに従って順次出版しようという壮大な試みで、考えは素晴らしい。特色は各ページを綴じず、ばらばらにして読むことができることで、ルーズリーフ形式を採用しています。各遺物を見比べられるという大きな利点がここにはあります。
ただ、出版の進捗状況は思わしくなく、多くの人が見たいと考えているはずの新王国時代のレリーフや壁画片などはなかなか刊行されず、後回しにされている状況です。

もっと問題なのは、このシリーズを図書館が購入した場合、ページがなくなることを恐れて製本してしまう場合が多いことで、こうなるとルーズリーフで出版される意味がありません。不特定多数の人に公開する際に生じる盗難や攪乱などの問題の回避のため、不便な方法が選択されるという点が、ここでもうかがわれます。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月9日金曜日

Iversen 1968-1972


オベリスクがヨーロッパに多数渡った顛末を述べた2巻本。
縦長の変型版が採用されており、強い印象を与える刊行物です。1巻目と2巻目との間に4年間の開きがありますが、どうやらイスタンブールのオベリスクを調べていくうちに記述が増えて、当初の出版予定に大きな変更が強いられたらしい。第2巻目の序文には、「第3巻目でフランス、ドイツ、イタリア、アメリカのオベリスクを扱いたい」と記していますけれども、もはや続巻を望むのは無理なようです。

建築関連で、このように中途で刊行が挫折しているシリーズがいくつもあって、バダウィによる「古代エジプト建築史」の4冊目が結局は出なかったのを初めとして、ペンシルヴェニア大学隊によるマルカタ王宮の報告書シリーズ(2冊のみが既刊)、イタリア隊による全ピラミッド調査報告書のシリーズ(2〜8巻だけが既刊)など、基本的な部分で問題が多いこと、この上ありません。

Erik Iversen,
Obelisks in Exile, 2 vols.
(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1968-1972)

Vol. I: The Obelisks of Rome (1968)
206 p.

Vol. II: The Obelisks of Istanbul and England (1972)
168 p.

イヴァーセンという研究者はとても面白い人で、壁画にうかがわれる下書きの格子線とキュービット尺との関連を述べた研究が一番知られているかと思います。 この考察に対しては数学者を夫に持っていたアメリカの学者ロビンスが反論を発表し、今ではこちらの方が支持されている傾向にありますが、反対意見も見られることは記憶にとどめておいていい。Robins 1994を参照。在野の研究者レゴンの意見も、読むべき価値があると思います。

イヴァーセンのやってきたことはバラバラではないかとも一見、感じられます。よく知られた"Canon and Proportions in Egyptian Art"の初版が発表されたのと同じ年の1955年に、赤や青、緑や黄色といった顔料がどのような名前を有し、記されているのかを考察しており、数例だけ残っている「色(顔料)のリスト」を調べ上げました。
古代エジプトにおいて、色というものがどのように考えられたのかを知りたい人にとっては、基本の文献。

Erik Iversen,
Some Ancient Egyptian Paints and Pigments:
A Lexicographical Study.

Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab;
Historisk-filologisske Meddelelser, bind 34, nr. 4
(Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab, Kobenhavn, 1955)
42 p.

エジプト学で見つかるさまざまな穴を、上手に探ることのできる人と言っていい。
1992年には献呈論文集も出されました。

Jürgen Osing and Erland Kolding Nielsen (eds.),
The Heritage of Ancient Egypt:
Studies in Honour of Erik Iversen.

CNI Publications 13
(The Carsten Niebuhr Institute (CNI) of Ancient Near Eastern Studies, University of Copenhagen / Museum Tusculanum Press, Copenhagen, 1992)
123 p.

編者はオージング・他で、他にアスマン、エデル、エドワーズ、ヘルク、ルクランといった大御所たちが目次に名を連ねています。

北欧の代表的な研究者のひとりとして数え上げることができ、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアなどと比べれば傍流に属する環境の内にあって、エジプト学に対し、何ができるのかを絶えず考え続けた人だということが伝わってきます。
日本も何となくやって行けるのではないかと、勇気を与えてくれる学者。

2009年8月10日月曜日

Ashabranner 2002


巨大なオベリスクのかたちをしたワシントンの記念塔を紹介する一般向けの薄い本ですが、面白い指摘があって、見逃せません。発端はマーシュという外交官。

Brent Ashabranner,
photographs by Jennifer Ashabranner and historical photographs,
The Washington Monument:
A Beacon for America.

Great American Memorials
(Twenty-First Century Books, Connecticut, 2002)
64 p.

オベリスクを調べているうちに、アメリカのワシントン記念塔のかたちが気になって、その正確なかたちが知りたいと思っていたら、George Perkins Marsh(1801-1882)という人物に突き当たりました。この人、イタリアに滞在したアメリカ大使です。
彼は当時の首都であるトリノに住み、ローマにも行った人物で、本もたくさん書いています。ローマに立つオベリスクに興味を持って、いろいろ調べていたらしいのですが、この人はエジプト学ではまったく知られていないはず。

"Marsh's studies had shown that the height of an Egyptian obelisk was ten times the width of its base. Marsh's calculations also told him that the dimensions of the shaft should be reduces as it rose, the top of the obelisk varying from two thirds to three fourths of the length of the base." (p. 47)

"The shaft would taper 1/4 inch to the foot (.64 centimeters to the meter [sic !]) as it rose. The walls would attenuate (become thinner) from 15 feet (4.6 meters) at the base to 18 inches (45.7 centimeters) at the top of the shaft. The width at the base of the shaft was 55.5 feet (16.8 meters). The width at the top of the shaft would be 34.5 feet (10.5 meters)." (p. 50)

"At a height of 555 feet 5 1/8 inches (169.4 meters), the Washington Monument is the tallest freestanding all-masonry structure in the world." (p. 60)

石造建築としては確かに世界一高いものなのでしょうけれども、個人的にはシャフトの勾配の値の方に興味があり、1フィート当たり、1/4インチの勾配と書いてありますが、両側の傾きを併せると1フィート=12インチ当たり1/2インチ、すなわち24:1の傾きとなります。1キュービットに対する1ディジットは28:1。小キュービット、あるいはreformed cubitと呼ばれる末期王朝以降の尺度では24:1。
19世紀にこれだけのことが分かっていたという点は驚きで、特筆に値します。
たぶんこれからは、このマーシュという人が、オベリスク研究を切り開いた者として語られるようになるのでは。

この記念碑についてはしかし、

Thomas B. Allen,
foreword by Stephen E. Ambrose,
The Washington Monument:
It Stands for All

(Discovery Books, New York, 2000)
172 p.

の方が解説は丁寧です。

2009年8月8日土曜日

Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009


オベリスクが西欧の世界においてどのように受容されたかを述べたもの。社会学的な意味を持つ研究。ウィーンに留学中の安岡義文さんからの御教示。いろいろと本や論文を教えてくれる方々が周りにいて、当方としては非常に有難い。

Brian A. Curran, Anthony Grafton, Pamela O. Long, and Benjamin Weiss,
Obelisk: A History
(Burndy Library, Cambridge, Massachusetts, 2009)
383 p.

Contents:
Introduction, p. 7

1. The Sacred Obelisks of Ancient Egypt, p. 13
2. The Obelisks of Rome, p. 35
3. Survival, Revival, Transformations: Middle Ages to Renaissance, p. 61
4. The High Renaissance: Ancient Wisdom and Imperium, p. 85
5. Moving the Vatican Obelisk, p. 103
6. Changing the Stone: Egyptology, Antiquarianism, and Magic, p. 141
7. Baroque Readings: Athanasius Kircher and Obelisks, p. 161
8. Grandeur: Real and Delusional, p. 179
9. The Eighteenth Century: New Perspectives, p. 205
10. Napoleon, Champollion, and Egypt, p. 229
11. Cleopatra's Needles: London and New York, p. 257
12. The Twentieth Century and Beyond, p. 283

Acknowledgements, p. 297
Notes, p. 301
Bibliography, p. 339
Illustrations, p. 365
The Wandering Obelisks: A Check Sheet, p. 371
Index, p. 375

イヴァーセンは2冊のオベリスクの本を書いており(Iversen 1968-1972)、この2巻本(続巻も予定されていたんでしたが)についてはカバーの後ろ見返し部分に印刷されている書評でも"unrivalled work"と記されていますが、他にエジプトが西欧世界でどのように見られてきたかを書いた

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs:
In European Tradition

(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1961)
178 p.

も出していて、考え方は良く似ています。

Labib Habachi,
edited by Charles C. Van Siclen III,
The Obelisks of Egypt:
Skyscrapers of the Past

(Charles Scribner's Sons, New York, 1977)
xvi, 203 p.

邦訳:
ラビブ・ハバシュ著、吉村作治訳、
「エジプトのオベリスク」
(六興出版、1985年)
230 p.

が、エジプト学の視点から初めて本格的に記されたオベリスクの本だとするならば、4人による合作のこの本は、西洋史の中で扱われるオベリスクに焦点を当てた本。ヒエログリフを読もうとしたキルヒャーについては章を独立させて綴っています。
なお、参考文献には掲げられていませんが、オベリスクに関する怪しげな解釈もあって、厚い本である、

Peter Tompkins,
The Magic of Obelisks
(Harper & Row, New York, 1981)
viii, 470 p.

はその典型。これも別な意味で少しばかり興味深い。