2013年5月4日土曜日
岡田 1909
「紀伊和歌浦明細新地図」も、経緯がよく分からない出版物です。多色刷(墨色、山吹色、淡藍色)の地図で、和歌山県立図書館の他、和歌山市立博物館などが初版を収蔵。
岡田久楠
「紀伊和歌浦明細新地図」
岡田久楠
明治42(1909)年11月
54×39 cm
和歌山市立博物館「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年、96 p. は額田雅裕・太田宏一・寺西貞弘各氏による労作で、貴重な図版が多数収められており、研究者必携の書。この本の52ページに図51として「紀伊和歌浦明細新地図」はカラーで掲載されています(解説文は90ページ)。「あしべ屋本店」の他に、「あしべ屋別荘」が2箇所に記されている点が重要(cf. 塩崎 1893、濱口 1919)。
この地図は何としても個人的に入手したいと思い、願いは叶ったのですが、ただ「和歌浦、その景とうつりかわり」に載っているものとはいくらか違いが認められ、若干手直しがなされたものも初版として頒布されていたようです。
島津俊之
「経験とファンタジーのなかの和歌の浦:田山花袋『月夜の和歌の浦』を読む」
空間・社会・地理思想14(2011年)
pp. 41-67
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space14/14_41shimadu.pdf
の論文の最後にも、「紀伊和歌浦明細新地図」の部分拡大図は掲載されています。この「紀伊和歌浦明細新地図」は和歌山市立博物館に所蔵されているもの。和歌山市立博物館蔵の裏面には、「遊覧記念 和歌浦 明光台」という丸いスタンプが押印されているのが面白い。このエレベーターに乗り込んだ時の記念として地図は用いられたんでしょう。しかしこの初版には、明光台が描かれていないわけです。
明治43(1910)年7月には再版が出ているらしく、香川県立ミュージアムが鎌田家資料の中のひとつとして収蔵しています。その紹介写真を見ると、望海楼が立てた東洋一のエレベーター「明光台」が描き込まれているようです。このエレベーターの築造は明治43(1910)年ですから、ただちに地図の修正が施されたと推定されます。
香川県立ミュージアム所蔵「和歌浦明細新地図」、再版
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kanzouhinkensaku/index.php/rekishi/detail/500415
さて、岡田久楠はこの地図とは別の、変更を加えて題名を変えたものも後に刊行しました。これが
岡田久楠
「名所旅館案内和歌浦地図」
岡田久楠
明治45(1912)年6月
で、高低差はケバによってより細かく表現され、海深も等高線で示されるなど、「和歌浦明細新地図」の再版と全体の構成は酷似しているんですけれども、改変が施されています。多色刷ではなく、墨刷の版に旅館(赤色)や名所(青色)を手塗りによって簡単に彩色したもの。つまり、香川県立ミュージアムが持っている「紀伊和歌浦明細新地図」の再版ととても良く似ているのが特徴です。香川県立ミュージアム収蔵のものは、同様に墨版の単色刷りに赤色で手彩色が施されていると思われ、青色の手塗りはうかがわれない様子。
なお、
田中修司
「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」
日本建築学会計画系論文集第74巻第635号(2009年)
pp.291-97
の294ページと297ページで「紀伊和歌浦明細新地図」と「名所旅館案内和歌浦地図」が言及され、すでに両者の関連は簡単に指摘されています。なお、後者については日本古地図学会「古地図研究ニュース」第54号(2007年4月)の巻末に2枚に分けて掲載されており、p. 6には芳賀啓氏による解説も記されています。
この岡田久楠という人物はいったい何者かという話ですが、
金子郡平・高野隆之編
「北海道人名辞書」第2版
北海道人名辞書編纂事務所
大正12(1923)年
660 p.+9 p.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734
の「札幌市を之部」、38-9ページに「旧姓は貴志。明治17年3月28日、和歌山県和歌山市小松通六丁目生まれ」の岡田久楠が掲載されています。明治42年は彼が20歳半ばの頃に相当しますけれど、北海道勤務ですから、普通なら和歌浦の詳しい地図を作ることはできなかったはず。しかし一方で、優秀な土木技師であったらしい彼の手にかかれば、こうした地図を短期間でこさえることは可能であったようにも思われます。
纏めますと、「紀伊和歌浦明細新地図」の初版には少なくとも2種類あること、「再版」と称する1年後の改訂版があり、そこには良くも悪くも評判となった「明光台」エレベーターの存在が反映されていること、さらには似た構成の「名所旅館案内和歌浦地図」が出されており、これが「紀伊和歌浦明細新地図」の第3版に相当するらしいこと、さらには著者の岡田久楠と同じ名を持つ和歌山市生まれの土木技師が北海道で同時代、活躍した記録が残っているが、関連性は今ひとつ確認できないこと、となります。
100年ほど前のことが、もう詳しく分からなくなっています。
2013年5月3日金曜日
濱口 1919
この本も近代の和歌浦を見る上で面白い冊子。やはり国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができます。
巻頭には折込で地図が挿入されており、表面も裏面も藍色と赤色の2色刷です。地図はこの頃すでに開通していた路面電車の路線図を兼ねており、路線と停留所、及び名所の地点が赤色で示されています。
目次を以下に書き写しましたが、旧字は改めました。ノンブルは38まで認められますけれど、実際はノンブルのない10ページ以上の広告がさらに追加されています。
濱口彌(浜口弥 はまぐちわたる)
「名所案内 新和歌浦と和歌浦(和歌浦と新和歌浦)」
枇榔助彌生堂、大正8(1919)年
参照:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961926
目次:
折込地図 表 和歌浦新和歌浦略図
同 裏 和歌山市街略図
和歌山城(写真) 2
和歌山より和歌浦口 3
高松根上り松(写真) 4
愛宕権現及貌口石 5
弥勒寺及亀遊石 5
新和歌浦全景(写真) 6
秋葉山と鶴立島 7
和歌浦口より新和歌浦 7
和歌浦汽船乗場(写真) 8
鷹の巣(写真) 10
新和歌浦の景趣 11
天神磯(写真) 12
望海楼 13
新和歌浦の怒涛(写真) 14
米栄別荘、支店 15
大島中の島双子島(写真) 16
仙集館 17
新和歌浦の勝地 17
東照権現(写真) 18
鷹之巣 19
玉津島神社(写真) 20
新和歌浦より和歌浦 21
東照権現 21
下り松(写真)
和歌浦口より和歌浦へ 23
あしべや及妹背別荘 23
不老橋と塩釜神社 24
不老橋より三断橋、妹背、旭橋を望む(写真) 26
望海楼址碑 27
観海閣と多宝塔(写真) 28
妹背山、題目石、観海閣 29
紀三井寺全景 30
多宝塔と鶴駕飛降碑 31
和歌浦より紀三井寺へ 32
紀三井寺 32
附近の名所古蹟 33
和水電車線路 34
城東館 35
著名なる物産土産物 36
和歌山城からまずは新和歌浦へと進んで行き、そこから和歌浦に戻り、さらに紀三井寺へ至るという旅程を念頭に記されています。新和歌浦が先に触れられますが、しかし本当に書きたかったのはむしろ和歌浦であったらしく思われる内容。
塩崎 1893のところで述べた論考でもこの本については引用しており、それは国会図書館の近代デジタルライブラリーを通じて読んだのですけれども、その後に比較的安価で入手することができたので、薮清一郎による広告の部分と妹背別荘の写真を実見しようと思い、届いた本を開いてみたら、該当部分にその広告がありませんでした(!)。
ショック。
もともと薮清一郎による「あしべ屋」の広告、特に妹背別荘の存在を強調したページにはノンブルがなく、24〜25ページの間に差し挟まれた格好です。しかしこの欠損がただの落丁ではないことは、巻頭の地図に加工がなされている痕跡より推察することができ、近代デジタルライブラリーで見られる地図に記載のある「あしべ屋」、「望海楼」、「仙集館」といった旅館の名称が、当方の入手した版ではことごとく削除されています。代わりに「米栄(こめえい)」の支店と別荘の名はひと回り大きい赤い文字で印刷されていました。14〜15ページの間の、ノンブルのない広告も大幅に入れ替わっており、「望海楼」と「仙集館」に関する案内が削除されています。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、表紙で「名所案内 和歌浦と新和歌浦」と印刷されているにも関わらず、一頁において「新和歌浦と和歌浦」という題で始められているせいか、「名所案内 新和歌浦と和歌浦」として公開されているという不思議なところがあります。そのため、近代デジタルライブラリーで「和歌浦」と「新和歌浦」の順番を入れ替えた「和歌浦と新和歌浦」を検索しても、該当するものが出てきません。
当方が所持するものの表紙の題名は「名所案内 新和歌浦と和歌浦」で、奥付は近代デジタルライブラリーにてうかがわれるものとまったく一緒です。また後表紙には「米栄別荘 米栄支店」の文字が。
従ってこの本については、「あしべ屋ヴァージョン」と「米栄ヴァージョン」とがあるということになるでしょう。でも、他にもヴァージョンがあるのではないか。その疑念は全部を見ないと拭えません。少なくとも国会図書館関西館と和歌山県立図書館が所蔵している模様。
しかし「あしべ屋」と「米栄」とが組んで2種類の本を作ったのであって、他の版はないのではと考えることもできそうです。というのは、「和歌の浦名勝拾貳景」という同じ題名を有する一枚ものの刷り物で、「あしべ屋」と「米栄」は内容の異なる写真を並べたものを別々に出したりしているからです。このふたつの老舗の旅館は、共同して和歌浦の繁栄を模索したのではないでしょうか。
教訓としては、和歌浦に関する明治・大正時代の出版物にヴァリアントがあって、うかつに引用はできないということでしょうか。少なくとも、どこが所蔵している本なのかを明記する必要が出てくると思います。
こういう経験は初めてで、ナポレオンの「エジプト誌」、Description 1809-1818にいくつかのヴァリアントがあるとは聞いていましたけれど、明治時代の刊行物に見られるとは思い至りませんでした。この場合は「エジプト誌」のような彩色の有無ではなく、内容の変更も伴っているわけですから、慎重な検討が望まれます。文献の探索が一層面倒なことになるわけで、どこから手をつけたらいいのか、呆然としています。「紀伊和歌浦明細新地図」(岡田 1909)も同様。
160ページ以上にわたって記述された2010年の和歌山県教育委員会「和歌の浦学術調査報告書」は重要。PDFを無償でダウンロードすることができます。示されている和歌の浦に関する詳しい年表は、特に参考になります。「和歌山市史」の改訂簡略版に相当。
3ページでは執筆の担当を明記しており、「第2章第1節地質を吉松敏隆、第2節植生を高須英樹、第3節生物を古賀庸憲、第4節地理的環境と考古資料を和歌山市教育委員会前田敬彦、第4章第3節(2)を菅原正明、第4章第3節 4. 第4節近現代を米田頼司、その他は県教育委員会が作成した案の監修を、古代を村瀬憲夫、中世を柏原卓、近世を藤本清二郎、米田頼司、庭園に関しては高瀬要一が行い、総括を水田義一会長が行うこととした」とあって、錚々たる執筆陣です。
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2013年12月6日追記:
その後、「あしべ屋ヴァージョン」や「米栄ヴァージョン」の他に、「望海楼ヴァージョン」も存在することを知りました。和歌浦の旅館の歴史を調べるに当たっては、こうした異本が数種類ある点を前提に研究を進めることが今後、求められるかと思われます。
2013年4月28日日曜日
塩崎 1893
最近、和歌浦の妹背山に残る平屋の木造家屋について共同執筆で書いたのですが、関連史料の探索を今も続けています(cf. 濱口 1919、岡田 1909)。
西本直子・西本真一
「和歌浦『あしべ屋別荘』と夏目漱石」
武蔵野大学環境研究所紀要 第2号(2013)、武蔵野大学環境研究所
pp.77-93
http://issuu.com/naokonishimoto/docs/a_a_soseki
「あしべ屋」というのは当時非常に人気のあった料理旅館で、格式も高く、皇族が訪れた他、南方熊楠が孫文と再会を果たした場所もこの旅館。田山花袋が夜に偶然、この建物をちらっと見たという紀行文も発表されています。しかし夏目漱石が和歌山市へ来て講演をおこなった際、宿泊予定だった宿でもあって、こちらの方が有名(漱石の日記を参照)。この経緯に関しては、溝端佳則氏による多数の図版を交えた詳しい論考をお読みください(「和歌山県立文書館だより」第31号、平成23年7月)。
https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/kanko/tayori/tayori31.pdf
漱石が和歌山市を訪れた様子は多少かたちを変えながら、後期の代表的な長編小説「行人」に活写されました。漱石が和歌浦へ来た時期の旅館の宿泊料も分かっており、あしべ屋の宿代はこの地域において最も高額であったことが知られます。
「あしべ屋別荘」は、その中でも別格であったらしく、妹背山と呼ばれる小さな島に設けられ、静謐な雰囲気の中に建てられた平屋の宿でした。海水を沸かして入浴する「潮(汐)湯」の設備を謳っている広告が残っており、健康に良いと宣伝されています。当時の海水浴は娯楽と言うよりも、健康の維持や治療方法の一環として医学的な効能の喧伝が図られたようで、その様子を伝える以下の刊行本の引用が時折、なされています。
塩崎毛兵衛
「紀伊和歌浦図」
塩崎毛兵衛
明治26(1893)年
十二丁
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765544
一丁 和歌浦海水浴
二丁表 芦邊浦
二丁裏・三丁表 和歌浦全図
三丁裏 愛宕大権現ノ図
四丁表 秋葉大権現ノ図
四丁裏 五百羅漢寺ノ図
五丁表 東照宮ノ図
五丁裏・六丁表 旧四月十七日東照宮御祭禮
六丁裏 七丁表 (同)
七丁裏 南龍社ノ図
八丁表 天満宮ノ図
八丁裏・九丁表 出島濱及片男波ノ図
九丁裏 玉津島神社ノ図
十丁表 観海閣ノ図
十丁裏・十一丁表 芦辺屋ノ図
十一丁裏・十二丁表 芦辺屋ヨリ名草山望ノ図
十二丁裏(奥付)
塩崎毛兵衛の名を2回記しています。最初は執筆者、書名の後に続くのは発行者で、ここでは彼は両方の役割を果たしているため、こうなります。
墨版、薄墨版、肌色の版という合計3色がうかがわれますが、肌色の版は「旧四月十七日東照宮御祭禮」を示した合計4ページの見開きでしか見られません。4月17日というのは徳川家康の命日。
この小さな冊子はあしべ屋が出した旅館広告のパンフレットというべきもので、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている点は非常に便利です。国会図書館関西館に収蔵されている本をデジタル化したもの。しかしモノクロ表示ですし、解像度も高くないのが残念です。和歌山県立図書館も初版を1冊、収蔵しています。
問題なのは、明治26年の初版と明治29年の改訂版とがあることで、しかもこの点があまり知られていません。明治29年の改訂版には、あしべ屋の主人、薮清一郎による二丁の広告「料理業蘆邉屋廣告」が巻末に付されていますけれど、実は初版にこの広告が足されている冊子も存在します。
初版と改訂版との大きな違いは、上記した各ページの表題の字体が異なること、「和歌浦全図」において幾らかの異同があること、また「芦辺屋ノ図」の左下で船渡しの賃金が具体的に記されているかどうかといった点にあります。奥付の構成も両者では異なっており、こうした違いが興味深い。
今、諸研究機関に所蔵されている全部の「紀伊和歌浦図」を閲覧しようとしているところですけれども、たぶん初版も改訂版もそれぞれ2種類ある、そういうことだと思います。
全面改訂版、あるいは続編ともいうべきものがあって、それが塩崎毛兵衛「最新写真銅版 和歌の浦名所図」(明治42年)です。この冊子の冒頭の2ページの文章は「紀伊和歌浦図」の書き出し部分とほとんど一緒。ただ路面電車が当時開通したので、その利便性を付記しており、路線図もあわせて掲載しています。「最新写真銅版 和歌の浦名所図」の奥付には薮清一郎の名が出てきません。でも影で糸を引いていたことは確からしく思われます。たくさんの写真がこの「和歌の浦名所図」では並びますが、最初の写真は旅館あしべ屋本館の全景です。
この頃、和歌浦は観光地として急激に変化を遂げ、それに伴って自在に広告の媒体を駆使し、さまざまな版が矢継ぎ早に出されたのではないでしょうか。小冊子だけではなく、一枚の大きな版に刷られた写真集や、絵はがきも併行して大量に印刷されたようです。絵はがきは組写真としてパノラマが工夫され、同時にバラバラにして使えるようにもなっています。ガラス原版から鶏卵紙に焼き付けたもの、コロタイプ印刷によるもの、さらにオフセット平板によるものへと移る印刷技術の変容に応じながら、観光業に携わる者たちは旅館と和歌浦の姿を発信し続けました。
江戸時代末期から明治・大正時代にかけてのマルチメディアの展開と活用の例を見る上でも、この動きは注目されます。後発であった旅館、たとえば望海楼とのメディア(広告媒体)の使い方の違いも面白い。
あしべ屋は大正時代の末期に旅館を廃業しますが、しかし後年の昭和4年にあしべ屋の経営主は坪内逍遥の作によるあしべ踊り・音頭なるものを発表しているようです。地域全体の活性化を願ったあしべ屋による一連の動向は今一度、見直されるべき時期なのかもしれません。