2012年7月26日木曜日
Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993
「アメンヘテプ3世展」は1992年から1993年にかけて開催された巡回展。クリーヴランド美術館を始めとして、次にはルイス・カーンの設計で有名なフォートワースのキンベル美術館に会場が移され、最後はフランスへ飛び、パリのグラン・パレで締め括られました。
周到な準備が重ねられた企画で、その模様は直前に出されているBerman (ed.) 1990でうかがい知ることができ、この流れはまたその後の重要な専門書であるO'Connor and Cline (ed.) 1998の出版にも繋がっていきます。
アメリカとフランスでの巡回展ですから、カタログは英語(1992年)とフランス語(1993年)の両方が作成されています。目次を見ると当たり前のことながら、ほとんど同じ構成。
でもフランス語版では不思議なことにページ数が60ページ以上も少なくなっており、見比べるとレイアウトもかなり変えられている点が注意を惹きます。
英語版:
Aeielle P. Kozloff and Betsy M. Bryan,
with Lawrence M. Berman,
and an essay by Elisabeth Delange,
Egypt's Dazzling Sun: Amenhotep III and hid World
(Cleveland Museum of Art: Cleveland, 1992)
xxiv, 476 p.
フランス語版:
Arielle P. Kozloff, Betsy M. Bryan, Lawrence M. Berman, et Elisabeth Delange,
Aménophis III: le pharaon-soleil
(Réunion des musées nationaux: Paris, 1993)
xxiii, 411 p.
共著者が4名以上になる場合、普通はこうやってずらずらと挙げるものではないんですが、ここではネット検索の便宜を図るために各著者の名を逐一掲げることを優先したいと思います。海外の参考文献の引用の仕方については厚い専門書が出ています。"Chicago Style"などで調べてくだされば。
英語版よりも1年遅く出版されたフランス語版のカタログのページ数が少ないのは、アメリカからフランスへ会場が移った際に展示品数が減らされたからではないのかという疑念が浮かぶわけですが、しかしまったくの逆で、グラン・パレで開催された時の方が展示品は増えているらしく思われます。
展示品には番号が付されており、英語版でもフランス語版でも最後の品の番号は136で一緒。
一方、フランス語版のpp. 410−1には、どの展示品をどこの美術館から借り出したのかをリストアップしていますけれども、そこでは例えばただの"34"番の他に、別の"34 bis"、"34 ter"というものが見られ、こうした後付けの展示番号を抜き出せば以下の通り。
2 bis: Scarabée de Tiy ou scarabée du règne
22 bis: Fragment d'une statuette d'Aménophis III
34 bis: Déesse Sekhmet
34 ter: Déesse Sekhmet
51 bis: Portraits peints d'Aménophis III
67 bis: Ouchebti d'Aménophis III
75 bis: La tête d'une cuiller à la nageuse
113 bis: Boîte à parfum
これらの8点は、英語版のカタログには掲載されていないようです。
アメンヘテプ3世の横顔を描いた"51 bis"はこの王の墓から切り出された壁画の一部ですが、このようにパリでの展示は、ルーヴル美術館に収蔵されているものなどをいくつか新たに加えた展覧会であったことが分かります。
さて、他には英語版とフランス語版で大きく異なるところがあるのかどうか。
個人的には巻末の参考文献が大幅に変えられているという印象を受けます。リストアップされている文献の総数は双方とも300タイトル弱で、量としてあまり違いは見られません。しかし英語版では
R. A. Schwaller de Lubicz,
Les temples de Karnak, 2 vols.
(Paris, 1982. [English ed., London, 1999])
を挙げていますけれど、フランス語版では削除されており、他方で
C. C. van Siclen,
"The Accession Date of Amenhotep III and the Jubilee,"
JNES 32 (1973), pp. 290-300.
などはフランス語版だけに加えられています。これはほんの一例ですけれども、ここでうかがわれる変更の判断は妥当であるように思えます。
相当、参考文献の欄は手が入れられて整理されている感じが与えられ、もしどちらかを購入したいというのであれば、お勧めしたいのはページ数の少ないフランス語版の方。レイアウトを変えてページ数を減らしながらも、展示品数は8点ほど多く、カラー写真も英語版よりも多いはず。特に最後の宝飾品関係の品々の紹介で、フランス語版ではカラー図版が多く挿入されています。
複数の国々を巡回する大規模な展覧会では、しばしばこうしたカタログの違いが生じます。これは日本に回ってくる国際的な巡回展の場合でも同じ。展覧会のカタログは全部がそのまま翻訳されたもので、内容については同じだろうと考えていると間違えることがある、という教訓。
コズロフはダーラム大学のオリエント博物館に収蔵されているペルパウティ Perpawty(ペルパウト、ペルポー、あるいはパペルパ)とその妻であるアディ Ady の木製の家型木箱について解説を書いています(英語版:pp. 285-7、フランス語版:pp. 250-2)が、この中でボローニャの考古学博物館所蔵のペルパウティの同型の家型木箱との比較もしており、美術様式から見るとボローニャの方が時代は早いのではと記しています。布を納めるための家具の木箱の外側に施された彩色のモティーフが良く似ているので、ペルパウティが年を経た後に、今はボローニャが収蔵している最初に造られた箱を職人に見せ、同じ物を作れと命じてダーラム所蔵の木箱ができたのではないかという推測を述べており、非常に興味深い考察。3000年以上も前の人間の、同じように見える所有物なのに、時代の新旧が分かるという点が面白い。コズロフが目利きであることが、これで了解されるわけです。
以前にも書きましたが、ペルパウティの遺品についてはイタリアの研究者による論考があり、コズロフとはお互いに研究成果を引用していないから併読が必要。
Patrizia Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monograpfie di SEAP, Series Minor, 2
(Giardini: Pisa, 1991)
pp. 105-130.
ペルパウティについては、Roehrig et al. (eds.) 2005も参照のこと。コズロフとピアチェンティーニの両方を引用しています。
2012年7月23日月曜日
Schiff Giorgini, Soleb [5 vols.] (1965-2003)
ツタンカーメン王の祖父に当たる新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世は古代エジプトの黄金時代であったと言って良く、特にこの王は大規模な記念建造物を各地にたくさん建てました。第19王朝のラメセス2世は「建築王」としばしば呼ばれましたが、アメンヘテプ3世による派手な活動の真似をしていたらしく、新王国時代において本当の「建築王」の名に値するのはアメンヘテプ3世であるように感じられます。
アブー・シンベルの正面に並ぶ4体の巨像を発想した源は、アメンヘテプ3世の葬祭殿の前に置かれていた一対のメムノンの巨像。この葬祭殿は、カルナック神殿を凌ぐ最大規模を誇っていただけでなく、ナイル川の増水によって水浸しになる場所へ故意に建立されていた点がアメンヘテプ3世の建築の見どころです。ここでは古代エジプトの神話で語られる「原初の丘」を、とてつもない大きさでいきなり現世に実現させるという荒業がおこなわれました。
A. P. Kozloffが最近、この王に関する本を出しました(Amenhotep III: Egypt's Radiant Pharaoh, Cambridge 2012)けれども、註の振り方を見るだけですぐに了解される通り、これは一般向けの書。この種の先駆けは以前にも触れた通り、
Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press: Norman, 1964)
xi, 212 p.
となります。今から見ると不備が目立つかもしれませんが、テーベを舞台として纏められた佳作。A. P. コズロフはこの王に関する知識を膨大に有している研究者で、先行研究に対する意識は高いはずですから、このRiefstahl 1964の他、Fletcher 2000やCabrol 2000に対し、制限された紙幅の中でどう書いているかが眼目になるかと思います。
20世紀の終わりからアメンヘテプ3世について包括的に述べた展覧会のカタログや研究書は矢継ぎ早に出されており、その代表的なものはBerman (ed.) 1990やKozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993、O'Connor and Cline 1998、そして500ページを費やしている前述のCabrol 2000などでしょうか。
あまりにもたくさんのアメンヘテプ3世による建物があるために、報告書の刊行は全体として遅れていますけれど、全5巻によるソレブ神殿の報告書の刊行が21世紀の初頭に完結し、スーダンに残るこの遺構の全貌をようやく知ることができるようになりました。
全部で1500ページを超える量です。
Soleb [5 vols.] (1965-2003)
Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb I: 1813-1963
(Sansoni: Firenze, 1965)
viii, 161 p., plan.
Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb II: Les nécropoles
(Sansoni: Firenze, 1971)
vii, 407 p., 17 planches.
Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb III: Le temple. Description.
IF 892, Bibliothèque générale (BiGen) 23
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2002)
vi, 446 p.
Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb IV: Le temple. Plans et photographies.
IF 910, Bibliothèque générale (BiGen) 25
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2003)
vi, 264 p.
Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb V: Le temple. Bas-reliefs et inscriptions.
IF 807, Bibliothèque générale (BiGen) 19
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 1998)
xviii, 335 planches, 21 p.
途中で出版社がフィレンツェからカイロ、というよりもIFAOへと変わっている点に注意。この経緯はエジプト学者たちのメーリングリストである Egyptologists' Electronic Forum (EEF) にて報告されたりもしました。
最初の第1巻と第2巻がフィレンツェから刊行の後、30年近く経ってから壁画を報告する第5巻が出ています。建築関連の第3巻と第4巻はさらに遅れて刊行。このように幾冊にもわたる報告書の出版社が途中で変わることは時折見られ、D. B. RedfordによるAkhenaten Temple Projectのシリーズもそのひとつ。
建築に関わる人間にとって最も知りたかった建造過程の変遷は、2003年に正式に明らかにされています。概要はしかし、海外での巡回展「アメンヘテプ3世」のカタログにより先んじて、一般にもすでに公開されていました。
他の建物と同じく、ソレブ神殿もかなり計画が変更された痕跡がうかがわれ、拡張の度合は尋常ではありません。アメンヘテプ3世が「メガロマニア(誇大妄想狂)」と言われる所以です。
国立情報学研究所によるGeNii(ジーニイ)やWebcatのページで、読みたい海外書籍を日本のどの研究機関が所蔵しているかどうか、検索することをもっぱら続けている方がいらっしゃるかもしれない。
今、この"Soleb"の報告書をGeNiiのサイトで検索すると該当するものがなく、その結果からこの本が日本には無いと判断されがちです。しかし例えば早稲田大学図書館のページで検索すると、5冊ともちゃんと所蔵されていることが分かります。
国立の研究所が率先して構築しているデータベースだからといって、それを丸ごと信じてはいけません。研究者たちはそういう漏れがあることをあらかじめ織り込み済みでこの種のデータベースを用いています。データベースには出てこなくても、国内で持っているところが必ずあるはずだという心当たりがある場合、専門家に聞くべきです。こういうことは、卒業論文などを纏めようと志す者にとって重要な点になるかもしれません。
いかに身近の専門家を捕まえて、根掘り葉掘り聞くことができるかが大切かと思われます。
2012年7月21日土曜日
Lee 1992
ツタンカーメンの王墓の発掘の際にハワード・カーターを助け、出土遺物の保存修復に力を注いだ人物の伝記。アーサー・メイスは「ツタンカーメン発掘記」全3巻本の発刊当時、カーターとの共著者でした(cf. Carter [and Mace] 1923-1933、またMace and Winlock 1916)。
メイスはエジプト学の創始者であるフリンダース・ピートリ(Petrie 1892;Petrie 1894;Petrie 1897)と遠縁の従兄弟という関係があって、それ故に1897年、ピートリの助手としてエジプトへ初めて出かけます。この頃はピートリがデンデラやアマルナで調査をする時期に相当しますから、大きな現場を次々にこなしていくことを強いられたと思われます。
最初は何も分からず、おたおたしていたらしいのですが、次第に実地でピートリ流の発掘方法を覚え、その後にG. A. ライスナーの手助けやメトロポリタン美術館のスタッフに加わるなどの活躍を見せ、ピートリのやり方がアメリカに伝わっていくわけです。
それにしても、ピートリの現場はかなり過酷であったらしい。調査中の粗食と空腹感に耐えることができなかったエピソードが伝えられています。
Christopher C. Lee,
...the grand piano came by camel:
Arthur C. Mace, the neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing: Edinburgh and London, 1992)
160 p.
Contents:
Preface (p. 11)
Foreword by Marsha Hill (p. 13)
Chapter One: A Country Childhood (p. 15)
Chapter Two: With 'the great man' (p. 31)
Chapter Three: 'The ideal excavator' (p. 57)
Chapter Four: 'It takes one's breath away' (p. 81)
Chapter Five: 'A beautiful wonderful party...' (p. 113)
Chapter Six: After Tutankhamun (p. 137)
References (p. 151)
Bibliography and Sources (p. 157)
Index (p. 159)
メトロポリタン美術館(MMA)のマーシャ・ヒルが前書きを書いており、メイスがMMAにていかに重要な存在であったかを簡潔に記しています。「メイスの仕事はさまざまな人に今、受け継がれています」と書いていて、
"Only today can we foresee that Mace's archaeological work will be completed - the Lisht North cemetery by Janine Bourriau, the pyramid itself by Dieter Arnold, and the village by Felix Arnold."
(p. 13)
と分担者の実名が出ている箇所があります。フェリックス・アーノルドの名をこの本の中で見るとは思いませんでした。彼は1990年にControl Notes and Team Marksを出版しており、この時20歳ぐらいであったように覚えています。
ピリオドの連続で始まる本のタイトルは稀有であり、また全部が小文字という記法も珍しい。こういうものを引用する際は、書誌の表現に迷います。アカデミックな本の題とは異なり、小さい私的な呟き(この場合にはメイスの長女による呟き)をそのまま題にしたかった、という意図なのでしょう。
「...グランドピアノを駱駝が運んできた」という変わった本の題は、一枚の写真から着想されており、それは本のカバーの裏表紙の他、62ページにも印刷されています。メイスの奥さんの持ち物であったベヒシュタインのグランドピアノを、1900年台の初頭にリシュトの調査宿舎まで駱駝で運んだという逸話があり、それを写した昔の写真を見てメイスの娘が懐かしく語り始める、という本の構成。
メイスはリシュトの発掘に長く携わった人間でした。厳しい環境下にある発掘現場に奥さんを同行し、また彼女の大きな所有物も構わず持ち込むという、今では考えられない調査方法を知ることができます。
この本はだから、メイスの長女がどう生きたのかを示すものでもあります。最後に彼女の写真が大きく掲載されているのはその証拠。
イギリスの片田舎で見つかったメイスの手紙と日記、また草稿などをもとにして展覧会が開かれ、その直後にまとめられた本。ほとんど同じ題でもっとページ数が少ない刊行物が1992年よりも前に出されていますが、この本は決定版という位置づけです。
アーサー・メイスの長女による父親像が多分に反映されていて、伝記といってもこの近親者からの聞き取りに負う部分が大きく、歪みが見られます。本の題名の"neglected"「無視された」というのは非常に強い言い方ですが、メイスの肉親にとってはそう思えるのでしょう。ハワード・カーターのみが注目されている、というように。それは世の中の人間のほとんどが抱くであろう、「無視されたまま」人生を終わるのではという不満を間接的に指し示しているのかもしれません。
本当はエジプト学をやりたかったんだけれども、F. Ll. グリフィスと会った際の試問で、メイスの長女はこの夢を断念したようです。「拒まれる」ことに遭遇したたくさんの人々が、失望にどのように対処するのか、それがこの本に通底する隠れた広いモティーフと言えないこともない。
そうした視点から見れば深く示唆されるところが多く、ツタンカーメン関連の撮影で高名な写真家ハリー・バートンの奥さんがいかにひどくて悪評ばかりであったことや、メイスがカーターに対して「こいつ、何も分かっていないのに人々の前で講演なんてできるのか」と思ったことを手紙に残している下り、またテーベの大規模な発掘だけを進めたがるメトロポリタン美術館の同僚のH. E. ウィンロックとの立場の違いなどがあられもなく記されていますけれども、そうした誰の間にでも生じる些細なすれ違いは時代を経て洗い流され、エジプト学にどのような貢献があったかという公平な評価だけが今は残されていることを改めて感じます。
エジプト学の大御所や有名人が次々に出てくるので、事情を知っている人には面白いはず。
メイスが結婚前に「エジプト学者などと一緒になるのか?」と相手側の両親から疑問が向けられていたこと、メイスの奥さんが完全主義で、どうやら連れて行った発掘現場でもいろいろな揉め事があったらしいこと、生まれた次女がダウン症であったこと、メイス自身が頑強な身体ではなかったこと。
これらに追い打ちをかけて「自分は使われる一方ではないのか」という疑念。これからの生活は一体どうなるのかという健康上あるいは経済上の不安を抱えながら仕事に赴くメイスの姿が活写されており、別の普遍的な問題が浮彫にされているようにも思えます。
メイスに関する最近の紹介は、以下を参照。続編を読むのが楽しみです。
http://www.egyptological.com/2012/05/arthur-cruttenden-mace-taking-his-rightful-place-8940
ハワード・カーターの醜聞については、邦訳されているトマス・ホーヴィング著、屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」がすでに知られています。版を重ねている著作。
リーの本が出た同じ1992年にはハワード・カーターの伝記が発表されており、今ではこちらも改訂版も出ています。亡くなってしまった大英博物館の重鎮、T. G. H. ジェームズの主著書のひとつ。彼はA. H. ガーディナーの伝記を晩年に執筆中であったと伝えられていますが、出版されないのは残念。
Thomas Garnet Henry James,
Howard Carter: The Path to Tutankhamun
(Kegan Paul International: London and New York, 1992)
xv, 443 p.
大学者ピートリの伝記は1985年に刊行されています。
Margaret S. Drower,
Flinders Petrie: A Life in Archaeology
(Victor Gollancz: London, 1985)
xxii, 500 p.
上記の2冊については、専門誌に書評が寄せられているはずです。
さてピートリとともに歩み、「魔女の研究」で注目を浴びたマーガレット・マレーの自伝も、度肝を抜く面白い題名を持ち、良く知られています。
Margaret Murray,
My First Hundred Years
(William Kimber: London, 1963. 2nd ed.)
208 p.
自伝につけられた「私の最初の百年」という題は、長生きしたこの研究者の業績にふさわしい。彼女は次の百年以降も、変わりなく生き続けるつもりだったんでしょう。恐るべき存在。マレーこそ正真正銘の「魔女」であったことが分かります。
2012年7月19日木曜日
Valloggia 2011
早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。
上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。
Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)
Texte: Table des matières
Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)
Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)
Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)
Conclusion (p. 87)
Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)
Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)
Bibliographie (p. 131)
Indices (p. 139)
Table des matières (p. 145)
上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。
意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば
「治世第1年、ペレト期第3月…」
というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では
"An III, 3e mois de per(et)..."
と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。
Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm
Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century:
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.
斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。
ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。
27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。
"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。
2012年7月17日火曜日
Iversen 1993 (First Published in 1961)
30年以上経ってから再版されたイヴァーセンの著作。イヴァーセンについてはIversen 1968-1972や、あるいはヨーロッパにおけるオベリスクの受容史を述べた分厚いCurran, Grafton, Long, and Weiss 2009、あるいはRobins 1994を参照のこと。
Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs in European Tradition
(Princeton University Press: Princeton, 1993. First published in 1961, Gec Gad Publishers, Copenhagen)
178 p.
Contents:
Preface (1993) (p. 7)
Preface to the First Edition (p. 9)
I The System of Hieroglyphic Writing (p. 11)
II The Classical Tradition (p. 38)
III The Middle Ages and the Renaissance (p. 57)
IV The Seventeenth and Eighteenth Centuries (p. 88)
V The Decipherment (p. 124)
Notes (p. 147)
List of Illustrations (p. 169)
Index (p. 173)
本の裏には紹介文が面白く書かれており、
"This is the story of a creative misunderstanding: an erroneous interpretation of the traditions of ancient Egypt became a rich source of inspiration for Europeans from ancient times through the medieval and Renaissance periods to the Baroque era. The misguided notion that hieroglyphs were allegorical, and that they constituted a sacred writing of ideas, exerted a dynamic influence in almost all fields of intellectual and artistic endeavor, as did conceptions of Egypt as the venerable home of true wisdom and of occult and mystic knowledge."
と記してあって、"misunderstanding", "erroneous interpretation", "misguided notion"と続けざまにネガティブな言葉が並べられ、それらの試行錯誤がついにはヒエログリフの解読に繋がったという粗筋が明らかにされています。
自分の知っている見方を、異なった文化の人間に押し付けて解釈するのは良くあること。その過程が歴史の中で淘汰され、次第に両極端の見解が近づき、共通の理解へと収斂していくさまがテーマとなっています。エジプト学の歴史はナポレオンの「エジプト誌」によって始まるとは良く言われますが、それより以前の思考過程については、これから詳細が明らかにされていくのでは。
再版のための序文の中で、フランシス・イエイツ Frances Yates の著作に触れられている点は注目されます。
彼女の本は日本語訳もけっこう出ているから、ここでは述べません。しかしエジプト学者にとって重要なのは、文字の解読に関しては片づいたものの、ヘルメス学(主義)の源流を古代エジプト文明に遡らせるかどうかの判断であって、多くの者は慎重な態度を取っています。
「化学 chemistry」や、錬金術の「アルケミー alchemy」などの語については古代エジプト語の「ケメト "kmt"; kemet」に由来するということは率先して語りながら、直接的な関連についての論理的な防御がきわめて堅いのが特徴。Trigger 1993でも、「エジプト学者は古代エジプト文明を独自なものと思い込んでいる」という批判が見られました。
建築でいうと、ルービッツ R. A. Schwaller de Lubicz のような考え方に対し、どのような反駁が具体的にできるかということになります。黄金比(1:1.618...)や円周率(1:3.14...)が古代エジプト建築の計画方法において考慮されたという諸論は今日でも語られており、Kemp and Rose 1991のような回りくどい説明が必要になっている原因。論の差異と言うものが、明快に指摘されていません。Rossi 2004の欠点があるとするならば、そこにあるかとも思われます。
いくらかの年月が、まだかかるのかもしれません。
2012年7月9日月曜日
Caminos 1954 (Caminos LEM)
リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。
カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。
ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、
Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.
を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。
このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに
"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)
とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。
Gardiner LEMやCaminos LEMは、たとえば
Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)
などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。
Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.
Contents:
Preface (vii)
I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)
Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)
Additions and Corrections (p. 512)
Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)
屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、
「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」
が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。
「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)
という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。
しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、
Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.
に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。
あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。
別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。
2012年7月8日日曜日
Uphill 1972
エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。
Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf
死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。
ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。
以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。
アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。
古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。
Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.
Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.
なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。
Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.