2014年5月18日日曜日

富永 1893


小さな冊子「紀伊和歌浦図」(cf. 塩崎 1893)を前に取り上げましたが、この題にただひとつの文字が加わっただけの「紀伊和歌浦図」という一枚刷りの刊行物もあります。和歌の浦に関してこれから調べようと志している初心者にとっては非常に紛らわしく、最初の関門となる瞬間です。
びっくりしますが、出版年も同じ明治26(1893)年です。

「紀伊和歌浦図」には、全体を筒状に包んだ紙がもともと備えられていました。
ところが、その表書きには一字だけ「」という字が付けられ、「紀伊和歌浦図」となっていて、こういう時には扱いをどうするのか、大いに迷う事態となります。包み紙と、その中身として収められた本体の冊子の表紙において、ちょっとだけとは言え、刊行物の題名そのものが異なるわけですから。
さらに、収蔵品の登録方法というのは各研究機関の方式によって微妙に異っています。これが情報収集の作業を阻んでいます。

OPACというものがありますが、図書館主体のこのシステムには、博物館に収蔵されている書籍は含まれていないようです。OPACは非常に便利な反面、欠点もあるわけで、詳しいところが具体的に明らかとなっていない気がします。Webcatの後継も、またCiNiiについても、これらのサイトで日本中、また世界中の文献を横断して検索できると思い違いしている人がいるのでは。
情報網が劇的に進展したにも関わらず、世界中の文献を横断して検索できるシステムが構築されていないということを、理由を挙げて説明してくれる公的なサイトがあるといいんですけれども。

岡田 1909のところで扱ったのは「紀伊和歌浦明細新地図」で、ここでも題名は似ています。重要な基本文献として挙げた和歌山市立博物館編「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年を見るならば、他にも似た名前の史料が、もうたくさんあることを知ることができます。
さらに各資料において初版と改訂版などによる細かな異同が見られ、新しく研究を始めようとする者にとっては非常に厄介です。

さてここで新しく取り上げたいのは、和歌山県立博物館が収蔵している「紀伊和歌浦之図」という先述した史料です。

富永正太郎「紀伊和歌浦之図」、
富永正太郎、
明治26(1893)年、多色一枚刷り。

墨版の単色だけが刷られたものが2014年にネットオークションで出回っていましたので、博捜するならば他にも見つかるかもしれないと推測しています。画面の上方には十数行の文が記され、そこには「割烹店には芦辺やあり」と書かれているとともに、もうひとつの老舗旅館であった「米栄(こめえい)」の店名もうかがわれます。

全体の描法は塩崎毛兵衛による「紀伊和歌浦図」と似ているようにも見受けられます。もしかしたら、この一枚刷りの発行に「あしべ屋」の当時の店主、薮清一郎が関わっていたのかもしれません。
明治時代において発展し、また技術の急転も重ねたメディアの利用方法について、彼は天才的な才能を発揮したと推察されますので。

しかしこの図で「あしべ屋」本館は木造3階建ての姿であらわされており、これは「紀伊和歌浦図」と同じなのですけれども、玄関と思しき上に高く掲げられた切妻は描かれず、また二階から直接地上階へと降りることのできる正面中央の特徴的な階段も見られません。
「あしべ屋」には正面中央に幅の広い階段が備えられていた時期と、それが撤去されて切妻屋根が中央に高く設けられた時期があったことが知られています。でもそれがいつ改変されたのかを正確に示す史料がなく、「紀伊和歌浦之図」は今後も検討すべき事項を含む、見逃せない画像資料となっています。
似た建物が実際にあれば参考になるのですけれども。

明治期に属する木造3階建て、あるいは4階建ての旅館は、決して珍しくありませんでした。当時、大流行となった絵葉書ではその建物の姿が活写されています。ですが、時代を経てあっけなく取り壊されることが重なり、日本全国で夥しい数の建物が失われました。
現存する和歌山県内の例としては、高野口町の葛城館がまず挙げられるのではないでしょうか。伝統的な木造建築に基づきながら、なおかつガラスのファサードを高く立ち上げているさまに感動します。

さらに条件を絞り、二階から地上に降りることができる階段を備えている明治時代の木造の旅館で、現存している3階建て以上のものを探すとなると、どうしても対象は限られ、和歌山県外にも目を向けるしかありません。

稀有な類例として、地域としてはいささか離れてしまいますが、群馬県四万温泉の旅館である積善館ということになるでしょうか。ここは宮﨑駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」の舞台設定の際に参考にされたとも言われる人気の高い宿です。
本館は江戸時代の木造2階建ての上に、さらに明治時代、3階部分の建て増しがなされた例としても専門家の間では知られています。
積善館の本館は現在、湯治客のために使用されているようです。多少の不便が強いられる代わりに宿泊料も格安ですから、近世の木造高層建築や明治時代の増改築に関する技法に興味のある建築史関係者にとって必見の宿。

本館の建立は元禄4年と伝わっているようですので、学生さんたちとともに本館に宿泊し、建築のどこをどう見るか、長期逗留ゼミをおこなうのも楽しみでしょう。元禄の江戸時代前期から始まって明治・大正・昭和までの増改築の正しい見定めとなると、教員の眼識も逆に厳しく問われます。
ここには「資料室」も備えられていますので、当時の史料に記された、くずし字の読解をおこなう現場としても有用かと思われます。

明治村にも、もともと2階建てだったところに3階部分を建て増しした明治期の木造建築があります。建物の最上階にある部屋も見ることができ、しかもガイドさんによる丁寧な解説付きで、木造高層建築の構造に興味を持つ一般の方々がこれからも増えることを願っています。

「あしべ屋」に似た比較的大きな木造3階建てで、しかも2階から地上階へ降りることができた建物を探すということになると、つい先日に文化審議会から重要文化財指定の答申がなされたことでニュースとなった、同じ和歌山県内の広川町の東濱口家邸宅、特に「御風楼」と呼ばれた東濱口家住宅の迎賓施設(明治42 [1909] 年)が挙げられます。
この建物では木製の直通階段を構えず、石積みの塊をこしらえ、階段として昇り降りできるものを廊下の傍らに構築することで2階と地上階との連絡を実現しており、庭園全体の見栄えを配慮した意匠が見せ場となっています。

この貴重な建物では、3階の雨戸を収めた戸袋全体が、驚くべきことにエレベーターとして下階へ降ろすことができるという工夫が最も興味深い点です。こうしたとんでもない仕組みを考えていたということが、もっとさまざまなかたちのニュースで触れられ、世界共通の建築の面白さが喧伝されると良いのですが。
眺望に恵まれた「御風楼」の3階部分は、座敷の三方を巡る柱間装置、つまり障子や雨戸を開け放すことができるように設計されていましたけれども、雨戸を収納するための、木の板材でできた戸袋だけはどうしても残されてしまい、この部分が視界の広がりを遮ることとなります。
その欠点をなくすため、何枚もの雨戸を戸袋に収めた後に、戸袋そのものを下階へ降ろすという大胆な創案です。

近代建築の巨匠のひとりとして崇められ、また今日の超高層ビルの先駆けをいくつも建てたミース・ファン・デル・ローエMies van der Rohe:要するに「ミース村出身のローエ」という名前)は、チューゲンハット(トゥーゲントハット)邸を1930年に完成させました。
斜面を見下ろす眺めの良い居間の大きなガラス面に対し、電動による窓の自動開閉を考え、しかも通常の横方向にではなくて、ガラス窓を垂直に、床面下へ引き落とすという装置を家に組み込み、世界中の建築関係者をあっと言わせた男です。
チューゲンハット邸は今日、世界遺産に指定されています。

鉄とガラスでできたチューゲンハット邸と同様の工夫が、東濱口家の「御風楼」ではチューゲンハット邸よりも20年も前に、3階建ての木造建築で試みられています。ただし、電動ではなくて手動なのですが。手段は異なりますけれども、目的が同一という点が注目されます。
建物において眺望が優先された時に、どのような驚くべき設計上の方策を探ることができるのか。近代における最先端の建築表現の試みを、ここに見ることができます。

「紀伊和歌浦之図」では、妹背山の小さな入母屋造りの平屋にはっきりと「塩湯」と記されており、この点も銘記されるべきです。
明治時代、海水浴は娯楽ではなく、療養の一環として日本に導入されました。東京の都市計画家として知られている後藤新平が、まだ一介の医者として活動していた頃に発表した「海水功用論」(明治15年)が先駆けかと思われます。詳しい経緯に関しては小口千明の論文、「日本における海水浴の受容と明治期の海水浴」人文地理37:3(1985年)、pp. 215-229が有用です。
この動向を受け、和歌浦でも海水浴を広告に全面に掲げ、また海水を沸かした「塩湯(汐湯もしくは潮湯)」を宣伝したと考えられます。

同志社大学の創設者である新島襄が療養のために和歌浦を訪れたのはしかし、後藤新平の著作が出るよりも少し前の明治10年であって、この頃は和歌山、まして和歌浦へ行くには鉄道もまだ敷設されておらず、大変であったはずです。小口千明の論文でも和歌浦は触れられていないわけで、とても辺鄙な場所であったはずなのですが。
療養の場として、どうしてこの地が選ばれたのか、興味が惹かれます。新島襄とその妻の八重は、和歌浦の漁師の家を借りたらしい。英文の手紙が残っています。

なお、「紀伊和歌浦之図」では妹背山に見られる木造平屋の建物の入側面の様子が「紀伊和歌浦図」とは異なるようです。妹背別荘の往時の姿を探る際、さらなる検討が求められるわけで、「紀伊和歌浦之図」は改めて見直す必要のある史料となっています。

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