2014年7月1日火曜日

Kemp and Garfi 1993


古代エジプトで一時期栄えた首都アマルナに関し、卒業論文のテーマとして考えたいと願う大学4年生は多いのですが、読むべきものがたくさんあって、テーマを絞ることがまず重要だと思われます。

はじめはこんなに既往研究が多くありませんでした。ピートリーが19世紀末にアマルナの王都跡を発掘し、また20世紀の初期にツタンカーメンの王墓が発見されてから、研究はアクエンアテンに関する論考とともに急激に増えています。当初は「若死にした王」しか分からなくて、シュルレアリスムの説明で出てくる「マルドロールの歌」の作者、ロートレアモンと同じぐらいツタンカーメン王には不明な点があったのですが、研究者たちによってだんだんとアケナテン、もしくはアクエンアテンについても、詳細が分かってきました。

アマルナの現場はB. J. Kempが長く発掘に携わっており、立派な報告書が何冊も出されています。この本は地図集ですけれども、それだけに終わらず、図中の建物に関連する文献の索引を作成している点がきわめて重要です。
地図とともに、そこに載っている各々の建物について詳しい文献リストが付されているという本は、聞いたことがありません。ある地域に集まっている遺跡を説明した本の巻末に、全体地図を折込でつけた逆のものはたくさんありますが。
だからここでは、それまでの本の形式にない、また情報豊かなものを出版しようとした意図があったと見るべきだと思います。

Barry J. Kemp and Salvatore Garfi,
A Survey of the Ancient City of El-'Amarna.
Occasional Publications 9
(EES, London, 1993)
112 p., 9 maps.

CoAを述べた時に、この本については記しました。この題名は、J. H. BreastedThe Survey of the Ancient World (Boston, 1919)を思い起こさせます。ブレステッドが1916年に書いた、900ページ近くもある分厚いAncient Times: A History of the Early World (Boston and New York, 1916)の、言わば縮刷版。ブレステッドについては、BAR 1906-1907を参照。40歳でシカゴ大学の教授に就任し、翌年にBARを出版。54歳の時にシカゴ東洋研究所(OIC)の初代所長となっています。The Survey of the Ancient Worldが出版されたのは、この年です。

A Survey of the Ancient City of El-'AmarnaCiNii Booksで検索すると、何も出てきません。では日本国内にはないのかという話になりますが、そんなことはなく、サイバー大学付属図書室には入っています。個人で持っている研究者もたくさんいることでしょう。
このようにCiNiiには情報漏れがどうしてもあって、見たい本がウェブ検索で出てこなかったとしてもうろたえず、研究者に尋ねるのが一番だと思います。

アマルナの住居地域は大きくふたつに分かれており、違いについてはJ. J. Janssenが考えを巡らせたこともありました。ケンプはアマルナの発掘を手掛けた最初の頃、内容が似たような論文をふたつ執筆していますけれども、アマルナ型住居を本格的に分析した2本の論文がTietzeによってZÄSに発表され、今ではこちらの方が重視される傾向にあります。
けれどもアマルナの都市軸の変更があったことなど、ケンプによって新しく重要な問題が詳らかにされた今日、住居部分の成長過程については再び考え直す必要があると思われます。

イギリス隊とドイツ隊が別々におこなった測量にも基準座標についての若干の違いが認められたため、ケンプは補正を加えて統一した図を出版しました。これがこの本の2番めの重要な点です。
区分図の全部を継ぎ合せると、かなりの長さとなります。カラー版としたのはKempの見識で、またマトリックスを組んで縦横に切り分ける図画とはせず、図を斜めに重ねあわせながら細長く伸びる遺構群を覆っていく方式を採っています。
アマルナの南方に建つコム・エル=ナーナの姿が新たに明らかとなりましたから、改訂版を出したいという気持ちがあるかもしれません。

Amarna Projecthttp://www.amarnaproject.com)のページが用意されており、ここでも文献リストが充実しています。さらには模型が作成されていますが、この模型は秀逸で、古代エジプト人たちの生活を彷彿とさせるような工夫があちこちに凝らされています。
長い説明文の中には、「建物の高さがどのくらいであったかを判断するのが難しかった」なんていう記述も見られます。建築の復元をおこなう際には、この問題は必ずと言っていいほど大きな難点となりますけれど、その詳細については後継者のK. Spenceの考察に譲る、といった配慮もうかがわれます。

柱が無数に並び立つ痕跡を残していたSmenkhkare スメンクカーラーによる大きな列柱広間が、実はブドウ畑だったのではというTietzeの論が近年発表されて皆があっと驚きました。しかしこの施設はスメンクカーラーによる施設、すなわち後の増築ということなので、この模型の作成時には復元されませんでした。立体的な復原がかなり難しいという課題もあったように推測されます。
たった数年しか治世がないスメンクカーラーは謎に満ちた王です。アマルナに関して良く御存知の方々にとっては周知の事実。これは一体、誰なのか。いろいろな解釈がこれまで繰り返されてきました。

「スメンクカーラーのホール」があった場所を、ではKempはどのように復元しているかという点も、この模型の見どころのひとつだと感じます。「おお、そう来たか」と納得する人が多いのではないでしょうか。

こういう場合の的確な判断がなされている点についても、改めて監修者の力量が伝わってきます。
37枚の模型写真を、本と一緒に丁寧に眺めると大いに楽しめると思います。