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2014年5月16日金曜日

Ordo et Mensura IV/V 1998


古代エジプトで用いられていた尺度については、一般向けにきわめていい加減な説明がなされている場合が大変多く、この点はいずれ正される必要があろうと案じています。
先日、「計量学-早わかり(第3版)」というページを見つけたのですが、冒頭に書かれていた古代エジプトの尺度についての記述を読んで驚きました。

ものさしという存在から、まずは語る必要があるのかもしれません。ものさしが見つかっているかどうかや、そこに刻まれた目盛りというものによって人の考え方はかなり束縛されるようで、この点で研究者の考えとの大きな乖離が生じることとなります。

ものさしが実際に見つかっていないからといって、もちろんその時代にものさしが存在しなかったと考えるべきではありません。金属でできているニップールのものさし(Nippur cubit)は最古のものさしとしてしばしば取り上げられており、ウィキペディアにも書かれていますが、だからと言ってこれよりも前の時代の世界にはものさしがなかったことにはなりませんし、だいたいニップールのものさしが「本当にものさしなのかどうか」を疑う必要があります。

世界には昔の計量学に焦点を合わせた専門の雑誌が幾冊もあります。以前に触れたNexus誌(cf. Morrison 2008)もそのひとつで、建築と数学を扱っている雑誌でした。ニップールのものさしについてはしかし、例えば以下に示す別の刊行物に所収されている論文で検討がおこなわれています。

Dieter Ahrens und Rolf C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura IV / Ordo et Mensura V,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 25.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1998,
vi, 434 p.

2回開催された会議の記録を収めているため、言わば合併号という体裁をとっています。この中で最も注目がなされるのは、

Marvin A. Powell,
"Gudea's Rule and the So-called Nippur Cubit: The Problem of Historical Evidence,"
D. Arrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.), Ordo et Mensura V,
pp. 93-102.

の論考でしょう。
パウエルという人が編集したPowell (ed.) 1987に関してはこの欄で前に挙げたことがあり、それは古代中近東における労働者組織の話の時であったわけですけれども、この方がミネソタ大学に提出した博士論文のタイトルはSumerian Numeration and Metrology (1971)で、もともとシュメールの計量学が専門の学者です。サッソンやベインズたちによる、

Jack J. Sasson et al. eds., Civilizations of the Ancient Near East, 4 vols.
(New York, Charles Scribner's Sons, 1995) .
Editor in Chief: Jack J. Sasson, Associate Editors: John Baines, Gary Beckman, and Karen S. Rubinson.

Vol. I: xxxii, 648 p.
Vol. II: x, 651-1369 p.
Vol. III: x, 1373-2094 p.
Vol. IV: x, 2097-2966 p.

の4巻本は、E. M. Meyers et al. eds., The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East, 5 vols. (Oxford, Oxford University Press, 1997)とともにこの分野において良く知られた事典ですが、そこでは「メソポタミアの計量学と数学」の項目(Vol. III, pp. 1941-1957)に関して執筆もしており、この領域の権威として認められている人間。その彼が、ニップールのものさしについてどのような見解を抱いているかというと、

"an enigmatic piece of evidence like the so-called Nippur cubit"

と表現した後に、

"It has a curious form, sometimes said - but without supporting evidence - to be shaped like a stylus, with six indentations, dividing it into seven unequal parts. The deepest of these indentations mark off a space of about 518 millimeters, and it is this that has been referred to as the "Nippur Cubit" (Nippur-Elle). (...) In short, it is not usable at present as evidence for historical metrology."
(pp. 100-101)

と記しています。かたちが変で、目盛りの間隔が一定でなく、正確な出土場所が記録されていないために年代が実のところ不明で、学問的な資料としては扱えないという点がはっきりと述べられており、Ordo et Mensura誌のめざしているであろう方針とは真っ向から対立する立場。Powellの論文のあとには、この会議録Ordo et Mensuraの共同編集者のひとり、Rottländer

"Die Standardfehler der Methoden der überkommenen Historischen Meteorologie"
(pp. 103-114)

と題する論文を書いており、ここにもニップールのものさしが分析図付きで出てきますが、相反する意見を並べて掲載しているところが重要です。読者に判断を任せるという姿勢。

ものさしには等間隔の目盛りがあるはずだろうという見方はしかし、ともすると考え方を逆に狭める恐れもあり、ものさしに刻まれていない目盛りで建物を設計することはないだろうという勝手な推測に結びついたりします。古代の尺度を考える際には、ものさしから話を始めなければならないのでは、と思うのはそういう時です。

なお同じ刊行物では、

Florian Huber,
"Das attisch-olympische bzw. geodätische Fußmaß von 30,9 cm.
Seine Herkunft und die Verwendung in der justinianischen Baukunst,"
D. Ahrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura III,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 15.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1995,
pp. 180-192.

のうち、pp. 186-189などでも"Die Nippurelle"を扱っています。

2010年7月13日火曜日

Panagiotaki 1999


ほぼ100年前にエヴァンスによってなされたクノッソス宮殿の発掘調査を、つぶさに眺めようという試みです。宮殿と言っても、王の居室部分が実際に見つかっているわけでもなく、神殿などの宗教建築とは趣が異なる複合建物をこう呼んでいるだけ。

古代世界の"palace"と言われているものには、実は良く分からないものが相当数、含まれています。「宮殿」あるいは「王宮」という言葉からは、「王が住んだ大規模な居宅」というイメージが浮かびますが、それが証明されている建物はほとんど存在しません。
これは古代エジプトのアマルナ王宮やマルカタ王宮、メンフィスにおけるメルエンプタハの王宮、テル・エル=ダバァ、あるいはデル・エル=バラスにおいても等しく言えることです。

クノッソス宮殿でも、王の寝室などが見つかっているわけではありません。今では大規模な祭祀施設のひとつとして捉えられることの方が多い気がします。こうした見直しの機運のもとに書かれた一冊となります。

Marina Panagiotaki,
The Central Palace Sanctuary at Knossos.
British School at Athens, Supplementary Volume No. 31
(British School at Athens, London, 1999)
xviii, 300 p., 45 plates, 2 folded plans.

エジプト文明に親しんでいる人が、他の古代中近東あるいは古代地中海文明の解説に出会ってまず戸惑うのは、年号が明瞭な数字として出てこないことで、エジプト研究では絶対年代が用いられるのに対し、他の地域では多くの場合、相対年代が用いられます。
人類の古い歴史は大きく石器時代、青銅器時代、鉄器時代などと分けられ、この青銅器時代 Bronze Age を、初期 Early、中期 Middle、後期 Late の3つに分けます。それぞれをまたI、II、IIIと分け、さらにまたそれぞれをA、B、などと細分化していきます。例えばMB II とは、それゆえ中期青銅器時代の第II期のこと。
この本ではLM IBとか、MM IIIAという別の言い方も頻出します。ミノア時代 Minoan の略号 M も同時に使っており、話がより複雑になるわけで、LM IBは後期ミノア時代の第I期Bのこと。

クノッソス宮殿の中枢部では改変が認められ、第1期と第2期とがあったことが分かっています。出土したさまざまなもの、土器だけではなく金属製品から動物の骨に至るまで、遺物の総リストが各章の最後に作成されており、全体の註の数も1000ほどあります。アシュモール博物館のクノッソス・アーカイヴ収蔵資料を駆使した労作。
でも結局、どの部屋が一番重要であったのかは不明であるという結論が導かれており、これが残念。
エヴァンスによる全4巻の報告書、

A. J. Evans,
The Palace of Minos at Knossos, 4 vols.
(London, 1921-1935)

などに戻って併読することが必要です。

2010年1月14日木曜日

McKenzie 1990


ヨルダンのペトラ遺跡に関する報告書で、何度も再版が出されている重要な本。マッケンジーによる本の紹介は2冊目です(McKenzie 2007を参照)。
レヴァントと呼ばれる東地中海岸地域は、古くから交通の要衝で良い場所であったため、諸民族が取り合いを長年続けています。「岩」という名を持つこのペトラも、その名残を伝える遺跡のひとつ。当方が持っているのは再版。

Judith McKenzie,
The Architecture of Petra.
British Academy Monographs in Archaeology, No. 1
(Reprint. Oxbow Books, Oxford, 2005.
Originally published by Oxford University Press,
Oxford, and in the United States by Oxford University
Press, New York, 1990, reprint 1995.)
xxii, 209 p., 245 plates, 9 maps

数多くの遺跡の図面と写真が収められています。と言っても高い懸崖に造立されたものがたくさんあるので、実測はほとんど不可能の状態。そのため、主なものはセオドライトによる簡単な測量と写真撮影から立面図を起こしています。
この点は妥当な判断と言うべきで、そうでなかったらいつまで経っても終わらない調査になっていたはず。

今だったら3Dスキャンという手があるけれども、これだって高価な精密機械を砂漠地帯へ持ち込む作業となり、面倒な問題がいくつも発生します。
成果を逆に考え、安価で簡単な作業の方法を後で決めていったふしが見られます。
墓の形式は比較的簡単で、単室の周囲に小部屋を配する形式が少なくないから、実測作業もそれほど大変ではなかったはず。

この報告書に厚みをもたらしているのは考察の部分で、アレキサンダー大王死後のヘレニズム文化を代表する遺構群であるために、エジプトのアレクサンドリアに残る建築との比較などをおこなっています。
ペトラの建築のファサードをタイプ別に分け、それぞれを図示している点も周到で注目されます。用語集として建築装飾を図入りで説明する丁寧さも見受けられます。
報告書はこうやって作るんだという、お手本のような本。
不満があるとしたら、徹頭徹尾、美術史学的な記録が図られた書だという点です。建築学的には、まだ記述すべき部分がありそうです。

なお、Oxbow Booksは中近東における考古学関連の書籍を扱う非常に有名な本屋さんで、研究者の多くが利用しています。

http://www.oxbowbooks.com/home.cfm/Location/Oxbow

メールを登録すると月1回の新刊案内などを送ってくれます。

2010年1月5日火曜日

Krencker und Zschietzschmann 1938


「シリアのローマ神殿」という題の本。実際にはシリアとレバノンとの間に拡がるベカー高原を中心として、点々と両国のあちこちに残っている古代ローマ時代の神殿、その他の遺構を報告しています。
バールベックはそのベカー高原の中心に建てられたとてつもない大神殿で、もちろん別扱いとなり、この本では扱われません。バールベックに関する建築資料を補足するために書かれた2巻本。

テキスト編に収められている説明図は400枚を超えており、筆者たちの力量を伝えています。復原図も適宜作成されており、この作業量はすごい。建築調査は大変であったはず。

Daniel Krencker und Willy Zschietzschmann,
Römische Tempel in Syrien.
Archäologisches Institut des Deutschen Reiches,
Denkmäler antiker Architektur, Band 5.
2 Bände. (Text und Tafeln)
(Walter de Gruyter, Berlin, 1938)
xxv, 297 p. + vii, 118 Tafeln

図版編の最後の2枚の図面集は、縮尺を揃えて各遺構の平面図を並べて見せており、こういう提示の仕方をしないといけないんだと反省させられます。比較的大きなもの3つの基壇の規模はほとんど同じであるようにうかがわれ、規格のようなものが存在していたのではないかという点を疑わせます。

小さい建物を扱う場合のメリットというのは、少人数の隊でもじっくりと調べることができるという点で、ここでも随所に挿入された詳細図や写真から、足早に駆け回ったであろう調査の合間に、よく見ることがなされた跡を看取できます。エジプト様式を持つ大きな祭壇も報告されていて、大いに興味が惹かれるところ。

小神殿などを扱う書籍ですが、古代ローマ建築の豊饒さの片鱗がここでも明瞭に伝わる内容です。
冒頭にはO. PuchsteinB. Schulzへの追悼献辞があり、この2名はバールベックの報告書の執筆を、Krenckerとともに進めた人たち。古代エジプトのカルナック大神殿の報告書を出すような企画ですから、その苦労は並大抵ではなかったと思われます。
日本で喩えて言うならば、奈良六大寺大観の建築報告書を書く、そういうことに相当するでしょうか。

ドイツ隊による調査の成果を、後年になって纏め、出版した経緯が序文で書かれていますけれども、この過程の途中には第一次世界大戦を挟んでおり、ドイツ人研究者たちによる粘り強い姿勢を垣間見ることができます。
なお、1978年には再版も出版されました。

イタリア人研究者のL. クレマも古代ローマ建築に関する分厚い本をいくらか遅れて書いており、当然のことながら、この2巻本に目を通していることが分かります。この人の本(Crema 1959)もすごい。
D. クレンカーの名前は、Schiaparelli 1927でも出てきます。

2010年1月3日日曜日

Naumann 1971 (2nd ed.)


小アジア、つまり現在のトルコ地域の建築を扱ったもので、内容は500ページを超え、図版も600点余りを収めます。著者はインスタンブールのドイツ考古学研究所の所長だった人。

Rudolf Naumann,
Architektur Kleinasiens von ihren Anfaengen bis zum Ende der hethitischen Zeit
(Verlag Ernst Wasmuth, Tübingen, 1971. 1. Auflage 1955, xi, 439 p., 491 Abbildungen)
xiii, 508 p. mit 615 Abbildungen, 2 Falttafeln.

本の題名は「小アジア建築、その始まりからヒッタイト時代の終わりまで」。数千年間に及ぶ建築の歴史が述べられます。
ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャ=ボアズキョイを自分で発掘調査をおこない、報告書まで出版している人の本なので、非常に詳しいのが特徴。類似する書籍は未だ出ていないはずです。
初版から第2版に至り、図版が100点以上追加されました。

ヒッタイトと言えば鉄ですが、この帝国が一番最初に鉄を自由に加工することを始めました。この国が衰えると、密かに隠されていた鉄の製法は世界に拡がっていきます。すなわちヒッタイトが滅びる紀元前12世紀というのは、人類史において非常に大きな意味を持ち、古代史では青銅器時代の終焉と鉄器時代の始まりを告げる画期的な時代をなすものですから、紀元前12世紀前とその後とに大きく2分して語られることがあるぐらいです。
ちなみに古代エジプトではラメセス時代に相当し、この国は田舎でしたから鉄が入ってくる時期が遅れました。王朝時代には鉄の製法が伝わっていないと見るのが通説です。

最初にトルコの地理や気候などに触れているのは、フェルナン・ブローデルの「フェリペニ世の時代における地中海と地中海世界」(1949年)を意識しているのかもしれません。次には建築材料として石や木、土、アスファルト、石灰などが紹介されます。
続いて建物の構造に話を移し、基礎から石積み、煉瓦積み、木材との混構造、柱、天井、窓や扉、階段、また水に関わる設備など事細かに類例を挙げていき、住居、城塞、塔、王宮、神殿などに話が及びます。

第2版は入手困難になりつつあります。
1970年の著者の60歳を祝う本も出ているようですが、未見。

Rudolf Naumann zum 60. Geburtstag am 18. 7. 1970.
Istanbuler Mitteilungen, Band 19/20.
368 p., 97 Zeichnungen, 78 Tafeln mit 233 Abbildungen.

2009年11月16日月曜日

Hitchcock 2000


ミノア建築について論考を重ねているL. A. ヒッチコックの博士論文。副題に出てくる「コンテキスト」というのは美術を解説する時の用語で、20世紀後半から使われるようになりました。
建築の場合には「文脈主義」というように無理して訳され、具体的な敷地の状態から要請されるさまざまな意匠上の明示、というほどの意味で用いられることが多いと思います。簡単に言えば、周りとそぐわない建物を建てても良いの? という反省から起こった流れです。もともとは現代哲学における考え方に由来しています。これを「添い寝主義」と悪口を叩いた人もいました。

この本では、これまでの考古学の成果を疑うことから出発していますので、ああそうなんだ、疑わしいんだ、と面白く感じる部分が少なくありません。序文の7行目では、

"I did not understand why a "Palace" was a palace"

なあんていう衝撃的なことを平気で書いていますし、これは古代エジプトの場合にも当て嵌まるはず。つまり、クノッソス宮殿とかファイストス宮殿とか、これまで良く知られていた宮殿は、「宮殿」ではないかもしれない、ということが記されているわけです。
高名な研究者たちが言ったという、「ミノアの宮殿群は、発掘によって失われた」、「ミノア考古学には『事実』というものがなく、考古学者にできることは、彼らが望んでいることをしゃべることだけだ」、という見解にも驚かされます。
すでに固定されているかのように思われる既往の成果に対し、違う見方ができないかと問いかけること。それが大きなモティーフとなっている本です。

Louise A. Hitchcock,
Minoan Architecture:
A Contextual Analysis.

Studies in Mediterranean Archaeology and Literature,
Pocket-book 155
(Paul Astroms Forlag, Jonsered, 2000)
267 p., including 33 illustrations

第1章の「エーゲ海考古学の考古学に向かって」が最も重要で、考古学のあり方を問い直す試み。ミシェル・フーコーが「知の考古学」を書いたことを踏まえたもの。あとの章は「広庭、拝礼、入口」(第2章)、「倉庫と作業場」(第3章)、「ミノアの建物における広間」(第4章)と、部屋ごとに検討がなされます。
本文の一番最後ではジャック・デリダのへのインタビューに言及して終わっているように、現代の思考におけるいびつな面を意識した上で書かれていますから、時として話が難しくなります。ウンベルト・エーコ(エコ)などの著作も参考文献リストに挙げられていますので、いろいろと読み拡げなければなりません。

スウェーデンに本拠を置くPaul Astroms Forlagという出版社は、考古学者のP. アストレム教授が20世紀の中頃に創立したもので、古代地中海考古学、特にギリシア付近の地域に関しては非常にたくさんの本を刊行しています。
ヒッチコックは共著で

D. Preziosi and Louise A. Hitchcock,
Aegean Art and Architecture.
Oxford History of Art
(Oxford University Press, New York, 1999)
262 p.

も書いていて、カラー図版を多く収めた見やすい本。ペーパーバックも今は刊行され、比較的安価にて入手できるはずです。

Ä&L (Ägypten und Levante) 17 (2007)


Ä&LはオーストリアのM. ビータックが編集をしている雑誌で、彼が発掘調査を続けている下エジプトのテル・エル=ダバァと密接な関連がうかがえます。18本の論考のうち、半分ぐらいがダバァ関連。2007年度の発掘調査の仮報告も、もちろん載っています。

Ägypten und Levante:
Internationale Zeitschrift für ägyptische Archäologie und deren Nachbargebiete
(Egypt and Levant:
International Journal of Egyptian Archaeology and related Disciplines
)
17 (Wien, 2007)
321 p.

エジプトとその近隣諸国との関連性に重点を置いた雑誌で、地中海の全体を扱っている、例えば

Journal of Mediterranean Archaeology (JMA):
hhttp://www.equinoxjournals.com/ojs/index.php/JMA

のような雑誌とも違うし、またエーゲ海に関わる地域を主として扱う

Aegaeum:
http://www2.ulg.ac.be/archgrec/publications.html

などのような雑誌とも異なります。
JMAは数年前に判型を変え、大きくしました。この雑誌に古代エジプトのことは滅多に載らないんですが、その中では

L. Meskell,
"Deir el-Medina in Hyperreality:
Seeking the People of Pharaonic Egypt",
in JMA 7:2 (1994), pp. 193-216.

の論考は見る価値があり、当方の知る限り、ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の屋根が繋がっていて、屋上のネットワークが存在したはずだという点を明記している稀な論文。細い道が集合住居址の中を縦断している平面図だけ眺めていては、思いつかない考察。イスラームの住居を考えている人たちには、屋上が例えば女性たちの空間として知られていたりするわけですが。
Meskellは2002年にも注目すべき本を書いています。

Ä&Lはエジプトに軸足を置いていることを常に忘れていない雑誌であると表現すれば良いんでしょうか。良くも悪くもビータックという研究者に多くを負っているところがあり、背表紙にもちゃんとBietak (Hrsg.)と印刷されています。雑誌の背表紙に編集者の名が掲載されるのは珍しい。

もっとも長い論文は、

Ezra S. Marcus,
"Amenemhet II and the Sea: Maritime Aspects of the Mit Rahina (Memphis) Inscription",
pp. 137-190.

で、これが一番興味深かった。メンフィスで花崗岩に記された文字列が見つかっており、第12王朝の初期のものですが、エジプトとレヴァントとの間の航海の様子をさまざまに考察しています。
いろいろな船荷がリストとして石に記されているわけですが、それら全部を足した重さや量を推測して計算したり、またそれに基づいて船の大きさを推理したりもしている。
「アジア人、一人当たり40kg」なんていう体重の推測が考察の中の表に記されていて面白い。

最後のページには、テル・エル=ダバァの報告書の第16巻から20巻までの刊行が予告されています。この遺跡の報告書、まだまだ完結しそうにありません。エレファンティネの報告書と双璧。

2009年10月14日水曜日

Cadogan, Hatzaki and Vasilakis (eds.) 2004


2000年に開催されたクノッソス宮殿に関する国際会議の報告書。この年はアーサー・エヴァンスがクノッソスの発掘調査を開始した1900年のちょうど100年後に当たり、記念行事として英語とギリシア語の2ヶ国語を使用言語に定め、開かれました。
刊行までに4年かかっていますが、編者たちにとって両言語における綴りや表音の違いが大きく、思わぬ時間を要したと冒頭に書いてあります。

Gerald Cadogan, Eleni Hatzaki and Adonis Vasilakis eds.,
Knossos: Palace, City, State.
Proceedings of the Conference in Herakleion organised by the British School at Athens and the 23rd Ephoreia of Prehistoric and Classical Antiquities of Herakleion, in November 2000, for the Centenary of Sir Arthur Evans's Excavations at Knossos.
British School at Athens Studies 12.
(British School at Athens, London, 2004)
630 p. including CD-ROM.

厚い本で、もし一部分をCD-ROMに回さなかったら、もっと重たい書物になっていたはずです。CD-ROMを添付する出版形態は近年見られるようになりましたが、一般的ではありません。冊子体と電子化された発行物にはそれぞれ短所と長所があり、どちらかが圧倒的に優れているというわけではない。
長く残すことを優先するのであれば、CD-ROMで配布することはもちろん躊躇されます。

全体は54編で、これが13のトピックに分かれます。

From Neolithic to Prepalatial Knossos
Knossos: Palace, city and cemeteries
Politeia
Architecture, arts and crafts
Administration and economy
Religion
Ports of Knossos
Knossos overseas
Greek and Roman Knossos
Knossos: Past and present
Lectures at the Herakleion Museum on 23 March 2000
Contributions to the excavation history of Knossos

クノッソスの宮殿建築に関連する下記の論考、

C. Palyvou, "Outdoor space in Minoan architecture: 'community and privacy'"
(pp. 207-17).

D. J. I. Begg, "An interpretation of mason's marks at Knossos"
(pp. 219-23).

L. Goodison, "From tholos to Throne Room: some considerations of dawn light and directionality in Minoan buildings"
(pp. 339-50).

などもありますが、これらの他に、発掘者エヴァンスについての発表もいくつかあって、こちらの方がどちらかといえば面白い内容を伝えています。どういう経緯でクノッソスの土地を買い集めたのかとか、若い頃は何をやっていたのかとか。
エヴァンスと言えば、自分で解読しようと線文字の資料を独り占めしたり、宮殿の修復方法などで良くないイメージを持たれていますが、改めて公平に彼の人生全体を見直そうという試み。

2009年10月6日火曜日

Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972


非常に広範囲にわたった、集落や都市に関する国際的学会の会議録。全部で1000ページを超えます。錚々たる顔ぶれが揃い、発表がおこなわれています。会議が開催されたのは1970年12月。
時代も地域も異なる集落、また都市というものを、今一度見直そうという試み。これだけ大規模な催しは珍しい。編者のひとりであるUckoは、比較考古学の中心的な役割を担った人物。

Peter John Ucko, Ruth Tringham and G. W. Dimbleby (eds.),
Man, Settlement and Urbanism.
Proceedings of a Meeting of the Research Seminar in Archaeology and Related Subjects held at the Institute of Archaeology, London University.
(Schenkman Publishing Co., Cambridge, Massachusetts, 1972)
xxviii, 979 p.

Contents:
Preface (ix)
List of participants (xv)
Introduction (xix)

Part One: Non-urban settlement
Section One: Concepts, in theory and practice (p. 3)
Section Two: The influence of mobility on non-urban settlement (p. 115)
Section Three: The influence of ecology and agriculture on non-urban settlement (p. 211)

Part Two: Factors influencing both non-urban and urban settlement
Section One: Population, disease and demography (p. 345)
Section Two: Territoriality and the demarcation of Land (p. 427)
Section Three: Techniques, planning and cultural change (p. 487)

Part Three: Urban settlement
Section One: Development and characteristics of urbanism (p. 559)
Section Two: Regional and local evidence for urban settlement
Subsection A: The Nile Valley (p. 639)
Subsection B: Western Asia and the Aegean (p. 735)
Subsection C: Western Europe (p. 843)
Subsection D: Sub-Saharan Africa (p. 883)
Subsection E: Central and South America (p. 903)
Conclusion (p. 947)

General index (p. 955)
Index of sites and localities (p. 961)
Index of authors (p. 967)

あまりにも話題が多岐にわたるため、索引には地名や著者名が検索できるように工夫されています。

第3部のAがナイル川を扱っており、B. J. ケンプが"Fortified towns in Nubia"や"Temple and town in ancient Egypt"を書いている他、D. オコーナーが"The geography of settlement in ancient Egypt"と題した論考を寄稿。ケンプがこの時、すでにセセビについて言及しているのは興味深い。H. S. スミスは"Society and settlement in ancient Egypt"を、また続いてE. アップヒルの"The concept of the Egyptian palace as a ruling machine"が掲載されています。
これは王宮建築に関する論考として、しばしば引用されていた論文。西洋と東洋の「宮殿」の違いがまず指摘されており、次いでラメセス3世葬祭殿(メディネット・ハブ)の宮殿部分を説明していますが、新たな情報が提示されている今、より包括的な論考が求められるところ。

2009年5月28日木曜日

Österreichischen Archäologischen Institut Wien (ÖAIW) 1953 (2. unveränderte Auflage)


エフェソスの図書館に関する大判の報告書。基礎資料となります。ウィーン調査隊による一連のエフェソスの報告書を日本で見るには多少の努力を必要とするかも。

東京近辺であったら、中近東の建築報告書については武蔵野の中近東文化センタ−や町田の国士舘大学イラク古代文化研究所などが、豊富な蔵書を誇ります。
日本や海外の、どこの図書館がどういう書籍を持っているかを知ることは、研究を進める上での第一歩。 こういうことは、いろいろ検索を続けていくうちに自然と身につきます。
全部を持っている図書館は、世界のどこにも存在しません。名だたる大英博物館の図書館も、収蔵図書は偏っています。
逆に言えば、日本語の本だけを見ている人は何年経っても駄目。

Österreichischen Archäologischen Institut Wien
(veröffentlicht vom),
Forschungen in Ephesos, Band V, Heft 1: Die Bibliothek
(Österreichischen Archäologischen Institut Wien, Wien, 1953. 2. unveränderte Auflage.
1. Auflage: 1945)
vi, 84 p., 2 Tafeln, mit 118 Abbildungen im Text

Übersicht des Inhalts:
I: Das Gebäude (1-42)
II. Der Sarkophag des Celsus (43-46)
III. Die Skulpturen (47-60)
IV. Die Inschriften (61-80)
V. Bibliothek und Heroon (81-84)

初版と何も変えていない再版、と書いてあるんですが、初版を見比べる機会がないのでこの再版を扱います。
梁の組み方など、細かいところまで報告をおこなっており、注目されます。
当方は戸口の石の組み方を知るために、この本を調べた次第。
ドイツ系の調査隊による建築報告書は記述が綿密で、圧倒されます。大判の報告書の良さが存分に示されている書。

アメリカの古書店Ars Libriから連絡があり、久しぶりに建築の本をカタログに纏めたからどう? と誘いがあったのですが、ものすごい内容です。

http://www.arslibri.com/


バールベックの報告書3巻本が揃いで8750ドル。スイス隊による古代エジプト建築の調査報告書、BeiträgeBfの12巻までのシリーズが2000ドル。豪華本として知られているタイトゥス・シリーズの古代エジプトの貴族墓報告書の5巻本が6500ドル。
いずれもこの十数年、市場に出回っていない本ばかりです。日本にあまり入っていない。持ってるだろうなと思われる人の顔は具体的に出てくるのです。心は立ち騒ぐものの、ま、購入は到底無理。

日本で海外の建物を調べることの意味を、こういう時にいつも思い知らされます。自分は今、何をやっているのかと言うことですね。
古書店が送ってくる本のカタログから、自分の今の立場を改めて考え直すということが促されたりもするわけです。ここで落ち込むか、それともポジティブに考えるか。

強いものをあおって、ちょっと飲み直しながら再び考えたいところ。

2009年4月3日金曜日

Baldwin Smith 1950


ドームに関する研究書ですが、常識を当てにすると裏切られます。世界に名だたるドーム建築はほとんど登場せず、ハギア・ソフィアはちらっと出てくるだけで、図版では1枚だけという扱い。ローマのパンテオンは2箇所で言及されますけれども、図版はありません。フィレンツェの大聖堂に至っては、まったく触れられないというドームの本。

つまり通常の西欧建築史におけるドーム建築の本ではないわけです。
ドームの起源が探索されており、あまり知られていない古代中近東の遺構についての検討をおこなっています。

E. Baldwin Smith,
The Dome: A Study in the History of Ideas.
Princeton Monographs in Art and Archaeology XXV
(Princeton University Press, Princeton, 1950)
x, 164 p., 228 figs.

Contents:
Preface (vii)
I. Domical Origins (p. 3)
II. The Use of the Wooden Dome in the Near East (p. 10)
III. The Masonry Dome and the Mortuary Tradition in Syria and Palestine (p. 45)
IV. Domical Forms and their Ideology (p. 61)
V. Domical Churches: Martyria (p. 95)
VI. The Place of Commemoration (p. 132)
Appendix: Description of the Church of S. Stephen at Gaza by Choricius, Sections 37-46 - Translation and Notes by G. Downey (p. 155)

「ドーム」というのは、半球状のかたちを言い指す言葉ではないという姿勢がはっきりと打ち出されています。構造技術者による見解と歴史学者の見方とが分かれるところ。
家の祖型から出発したドームの展開が述べられており、その展開は構造力学的な、また建造技術の立場から見られたものではありません。

力学的なふるまいから眺めるならば、アーチを連続的に並べたものがヴォールトで、アーチを回転させたものがドームになります。しかし、これは構造力学が成立した19世紀以降の見方というべきものであって、ボールドウィン・スミスはそうした解釈をしません。
この研究は多文化を横断する作業となりますから、労力を伴う仕事。「観念の歴史の研究」という副題が注目されます。アイデアの歴史、着想の歴史というよりも、もう少し広く意味を汲み取って、観念の歴史と訳したい気持ちに駆られます。文化としての建築の存在に光を当てようとする論考で、この時、ドームは或る世界を象徴する「天蓋」へと変貌します。それこそが建築なのだと、著者は主張しています。

ボールドウィン・スミスというこの建築史学者は、かたちの意味に徹底的にこだわった人で、異色の存在。彼の書いた古代エジプト建築の本が見直される所以です。
もちろん個々の情報が古くなっている点は否めませんが、こうした本にあっては思考の跡こそを辿るべきで、間違い探しをしてもあまり意味がない。むしろ何が批判されているかを読み取ることが重要となります。
ドームについて、あるいは建築文化について知っているような顔をするなという強烈な無言のメッセージがあり、忘れ難い書。

2009年3月11日水曜日

Aurenche (sous la direction de) 1977


古代近東建築に関する図解事典で、似た題名を持つ本はあるのですけれども、多言語による対照表が付されている点は類書に見られず、特記されます。
全体はふたつに分かれ、前半は絵入りの辞書、後半はフランス語を主体とした他の言語への翻訳です。

Olivier Aurenche (sous la direction de),
dessins d'Olivier Callot,
Dictionnaire illustre multilingue de l'architecture du Proche Orient ancien.
Institut Francais d'Archeologie de Beyrouth (I.F.A.B.),
Publication hors serie;
Collection de la Maison de l'Orient Mediterraneen Ancien (CMO) no. 3, Serie Archeologique, 2
(Maison de l'Orient et de la Mediterranee, Lyon, 1977)
391 p., 495 fig., 16 pl. dont 8 en couleurs.

2004年には再版も出されましたので、需要の高いことが想像されます。ただし再版では、初版にあったカラーによる写真は用いられていません。
いくつかの図版はこの本の中で何回も使われたりしていますが、500枚に及ぼうとする枚数の図版の用意は大変であったと思われます。手書きによる線描は簡単に書かれていますが、分かりやすい。写真も豊富に含まれ、他ではなかなか見られない建築の詳細が掲載されています。

フランス語とドイツ語、その逆引き、
フランス語と英語、その逆引き、
フランス語とアラビア語、その逆引き、
フランス語とギリシア語、その逆引き、
フランス語とイタリア語、その逆引き、
フランス語とペルシア語、その逆引き、
フランス語とロシア語、その逆引き、
フランス語とトルコ語、その逆引き、

合計16の辞書が後半に並んでいます。
建築用語の統一は、実はとても手間のかかる作業で、あえてその難業を手がけています。大変便利な本。

類例としては、

Gwendolyn Leick, with illustrations by Francis J. Kirk,
A Dictionary of Ancient Near Eastern Architecture
(Routledge, London and New York, 1988)
xix, 261 p.

などもあります。

2008年12月22日月曜日

Roller 1998


ヘロデ大王は、生まれたばかりのキリストの命を絶つために、2歳以下の男の子を全員殺すように謀った残虐なユダヤの王として聖書に登場し、有名ですが、この人はまた、建築をたくさん建てたことでも広く知られています。古代エジプトの建築王がアメンヘテプ3世や、その真似をしたラメセス2世だとするならば、 この人は古代ユダヤの建築王。
エルサレム神殿の大規模な増改築や、マサダの要塞、ヘロディオンなどが代表作となりますけれども、その業績を通覧しようとした労作。

Duane W. Roller,
The Building Program of Herod the Great
(University of California Press, Berkeley, 1998)
xvii, 351 p.

Contents:
Chapter 1. Herod's First Trip to Rome (p. 10)
Chapter 2. What Herod Saw in Rome (p. 33)
Chapter 3. Herod and Marcus Agrippa (p. 43)
Chapter 4. The Herodian Intellectual Circle (p. 54)
Chapter 5. Herod's Second and Third Trips to Rome (p. 66)
Chapter 6. Early Roman Building in the Southern Levant (p. 76)
Chapter 7. The Building Program of Herod the Great (p. 85)
Chapter 8. Caralogue of Herod's Building Program (p. 125)
Chapter 9. The Buildings of Herod's Descendants (p. 239)
Chapter 10. The Legacy of Herod (p. 254)

非常に巧みな構成を取っており、ヘロデ大王が若い時に、その時代における世界の中心ローマで何を見たのかをまず最初に描き、彼を囲むさまざまな人々、特に親密な交友関係を結んでいたと思われるアグリッパや、ギリシア・ローマの文化を彼に示した他の知識人たちを紹介しています。レヴァントにおける初期のロー マ建築に関して、その次に様相を伝え、ここまでが前提として述べられた部分。各章は平均して10ページほどに纏められており、比較的短い記述が続きます。

しかし第7章と第8章では、かなり長い説明がなされていて、これらふたつで150ページを超えます。章の長さが極端に異なり、ここが中心となるので、ここから読み始めても良いかもしれません。残りは、こうした建物がその後、どのような変遷を辿ったか、またヘロデ王の伝説がいかにして生まれたかを扱っていま す。

序文では、「1970年代の末にヘロデ大王に興味を抱き始めたが、建築王としての彼の達成を誰もまだ書いていないように思われるので、ヘロデ大王の没後2000年(註:ヘロデ王は紀元前4年に没)を記念して本を出した」(!)といったことが述べられています。
考古学的資料の他、アウグストゥス、キケロ、ホメロス、ヨセフス、プルターク、ストラボン、また聖書など、多数の古典著作やその他の文字資料で断片的に記される内容をもとにして組み立てられた、大変な本。引用文献リストは7ページにわたって続き、この他に参考文献リストが30ページ、付されています。
図版はすべてモノクロですが、遺跡の写真はほとんど著者が東地中海を廻って撮り貯めたもの。