2010年7月13日火曜日

Panagiotaki 1999


ほぼ100年前にエヴァンスによってなされたクノッソス宮殿の発掘調査を、つぶさに眺めようという試みです。宮殿と言っても、王の居室部分が実際に見つかっているわけでもなく、神殿などの宗教建築とは趣が異なる複合建物をこう呼んでいるだけ。

古代世界の"palace"と言われているものには、実は良く分からないものが相当数、含まれています。「宮殿」あるいは「王宮」という言葉からは、「王が住んだ大規模な居宅」というイメージが浮かびますが、それが証明されている建物はほとんど存在しません。
これは古代エジプトのアマルナ王宮やマルカタ王宮、メンフィスにおけるメルエンプタハの王宮、テル・エル=ダバァ、あるいはデル・エル=バラスにおいても等しく言えることです。

クノッソス宮殿でも、王の寝室などが見つかっているわけではありません。今では大規模な祭祀施設のひとつとして捉えられることの方が多い気がします。こうした見直しの機運のもとに書かれた一冊となります。

Marina Panagiotaki,
The Central Palace Sanctuary at Knossos.
British School at Athens, Supplementary Volume No. 31
(British School at Athens, London, 1999)
xviii, 300 p., 45 plates, 2 folded plans.

エジプト文明に親しんでいる人が、他の古代中近東あるいは古代地中海文明の解説に出会ってまず戸惑うのは、年号が明瞭な数字として出てこないことで、エジプト研究では絶対年代が用いられるのに対し、他の地域では多くの場合、相対年代が用いられます。
人類の古い歴史は大きく石器時代、青銅器時代、鉄器時代などと分けられ、この青銅器時代 Bronze Age を、初期 Early、中期 Middle、後期 Late の3つに分けます。それぞれをまたI、II、IIIと分け、さらにまたそれぞれをA、B、などと細分化していきます。例えばMB II とは、それゆえ中期青銅器時代の第II期のこと。
この本ではLM IBとか、MM IIIAという別の言い方も頻出します。ミノア時代 Minoan の略号 M も同時に使っており、話がより複雑になるわけで、LM IBは後期ミノア時代の第I期Bのこと。

クノッソス宮殿の中枢部では改変が認められ、第1期と第2期とがあったことが分かっています。出土したさまざまなもの、土器だけではなく金属製品から動物の骨に至るまで、遺物の総リストが各章の最後に作成されており、全体の註の数も1000ほどあります。アシュモール博物館のクノッソス・アーカイヴ収蔵資料を駆使した労作。
でも結局、どの部屋が一番重要であったのかは不明であるという結論が導かれており、これが残念。
エヴァンスによる全4巻の報告書、

A. J. Evans,
The Palace of Minos at Knossos, 4 vols.
(London, 1921-1935)

などに戻って併読することが必要です。

2010年7月11日日曜日

Koltsida 2007


古代エジプトの住居に関する「渡辺篤史の建もの探訪」をやっている感じの研究書。BARシリーズの一冊です。British Archaeological ReportsBAR)には赤い表紙のInternational Seriesと青い表紙のBritish Seriesとの2種類があって、エジプト学の論考はもっぱら前者から刊行されています。
質の高い研究をとても安く供給するシリーズ。A4版のペーパーバックで、モノクロ印刷が基本です。国際学会の報告、博士論文や調査報告などの刊行が主に進められています。

すでにこのシリーズで2500タイトル以上が出版されており、そのすべてを揃えている図書館を日本国内で探すのは難しい。考古学関連書籍の収集に力を入れている早稻田大学でも全部持っていません。国士舘大学のイラク古代文化研究所、あるいは中近東文化センターの図書館などと併せて文献探索をおこなう必要があります。すぐに売り切れるので、新刊案内が届いた際には早く注文しなければならない、ちょっと面倒なシリーズ。
なお考古学関係では、他にBiblical Archaeology Reviewというものもあって、こちらも略称は同じBARなので注意が必要。

Aikaterini Koltsida,
Social Aspects of Ancient Egyptian Domestic Architecture.
British Archaeological Reports (BAR), International Series 1608
(Archaeopress, Oxford, 2007)
xv, 171 p., 88 plates.

社会学的な見地からの研究というのは近年の流行りです。20世紀の少なくとも前半までは、わざわざ本の題名に「社会的」なんていう言葉をことさらにつけたかどうか、記憶があまり定かではありません。歴史学に新風を巻き起こしたフランスのアナール派、また人類学の新たな展開など、近接分野の変化の影響が見られるのでは。

Contents:
Chapter 1: Sources of Evidence
Chapter 2: The Front Room
Chapter 3: The Living Room
Chapter 4: The Bedroom
Chapter 5: The Kitchen
Chapter 6: The Evidence for a Second Storey
Chapter 7: Discussion and Conclusions

残存する住居遺構の入口から、前室、居間、寝室、台所とくまなく回っていく様子が目次からも良く分かります。新王国時代後期のアマルナとディール・アル=マディーナが主として扱われますが、エジプトで資料が豊富な住居遺構と言ったらこれぐらいしかないので、仕方ありません。

第6章では、2階建て以上の日乾煉瓦造住居が王朝時代の都市部にあったか、それとも平屋建てしかなかったかが問われています。B. ケンプが投げかけた有名な問いかけ。大まかにはケンプ、またその弟子のスペンスの考えを追認する結果となっていますが、建築学の見地からは、また別の解釈が提唱できる余地を含んでいるかと思われます。

註が全部で軽く1000を超えますけれども、これはしかし、考察に該当するアマルナの住居番号をすべて書き出そうと無理をしたりするからで、見る方は苦痛です。
古代エジプトの住居研究には、でも欠かせぬ一冊。

2010年7月10日土曜日

Roehrig et al. (eds.) 2005


エジプトの最も華やかな時代において強大な権力を握った女王のひとり、ハトシェプストに関する展覧会のカタログです。
展覧会はサンフランシスコ美術館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館(以下、MMA)、フォートワース・キンベル美術館の3箇所にて開催されました。いずれもアメリカ国内です。
ルイス・カーンの設計によるキンベル美術館は、建築の分野では非常によく知られた建物で、おそらくは米国の美術館における最高傑作10作品の中に入る名作とみなされますが、ここでは触れません。

Edited by Catharine H. Roehrig,
with Renee Dreyfus and Cathleen A. Keller,
Hatshepsut: From Queen to Pharaoh
(The Metropolitan Museum of Art (MMA), New York, 2005)
xv, 339 p.

キャサリン・レーリグが単名の編集者として前面に推し出されていることにまず気づきます。MMAのアーノルド夫妻ももちろん執筆陣に加わっていますが、表には出てきていません。
ハトシェプスト女王の記念神殿、通称「ディール・アル=バフリー(デル・エル=バハリ)」はイギリス隊の他、MMAもまた長年発掘をおこなった場所で、アーノルドも近くで再調査をしていますから、資料としては充分所蔵しているはずです。ですがそれにとどまらずに、できるだけ話題を膨らまそうとしている意図が興味深い点。
例えばトトメス3世の増築神殿を調べたハンガリー隊の人にも執筆させたり、「エジプトとエーゲ」という題でM. ビータックに書かせたりしているのは、その努力のあらわれかと感じられます。

バフリーの壁画では当時のエジプト国外の情報が間接的に描写されていますから、"Egypt's Contacts with Neighboring Cultures"という項目が設けられているのは分かりやすい。
「エジプトとヌビア」の章はイギリスのヴィヴィアン・デーヴィスが執筆しており、この人は博覧強記で知られている人で、”Egypt and Africa"も出していました(Davies (ed.) 1991)。
一方、「エジプトと近東」と名付けられた章では、MMAのリリーキストが書いています。古代エジプトにおける「鏡」の専門家として知られている人ですが、かなりの高齢であるはずにも関わらず、健在ぶりを誇示。
リリーキストの近著は、

Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.

で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
しかし文字読みの専門家ということであるならば、今は職場を移ったけれど、MMAにはJ. P. アレンがいたじゃあないか、何で他国の人に依頼する必要があったのかという素朴で陰鬱な疑問が、まったくの部外者の見方からは生じたりもするところ。

ハトシェプスト女王に仕えた建築家センムトについてはドーマンが記しています。彼の専門領域。すでに2冊を単著で出版しています。

Peter F. Dorman,
The Monument of Senenmut:
Problems in Historical Methodology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London and New York, 1988)
xvi, 248 p., 22 plates.

Peter F. Dorman,
The Tombs of Senenmut:
The Architecture and Decoration of Tombs 71 and 353.
Publications of the Metropolitan Museum of Art,
Egyptian Expedition Vol. XXIV
(MMA, New York, 1991)
181 p., 96 plates.

計測のためのロープの束を抱えているセンムトの彫刻像をカラーで紹介しているのは、建築学的には注目される点。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。

ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
残念なことに図版はすべてモノクロですが、数々の家具を写真で紹介しつつ、Figs. 1, 2ではそこに記された文字列を報告しています。

P. Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.

他にアメリカの研究者も、違ったアプローチから考えてペルパウトはアメ3時代の人間であったろうと判断しており、これは面白い結論。

257-259ページで紹介されている大英博物館収蔵の寝台の断片については、P. ラコヴァラがJSSEA 33 (2006), pp. 125-128にて文を寄せています。これは永らくハトシェプストの玉座と考えられてきたものですが、今日ではケルマの特徴的な寝台との関連性が指摘されています。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。

ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。

2010年7月9日金曜日

Davies (ed.) 1991


大英博物館にエジプトとアフリカを紹介する新たなギャラリーができたことを記念して企画された本で、有名な研究者たちによる論考が30編、集められています。こういうことが実現できる点は、さすが大英博物館の力量。

註の振り方には2種類がうかがわれ、無理して全体の体裁を整えようとしていません。多くの執筆者たちから原稿を集める場合の本では、しばしば見られる形式ですが、特にこの本では豪華な顔ぶれが揃っており、文書の煩雑な手直しを避け、オリジナルの形式を尊重したと見ることができます。
抜刷の配布を考慮していないページネーションで、偶数ページから始まる論文も奇数ページから始まる論文も両方あります。

W. V. Davies ed.,
Egypt and Africa:
Nubia from Prehistory to Islam

(British Museum Press in association with the Egypt Exploration Society, 1991)
x, 320 p., 16 plates.

エジプトと地中海沿岸地域、あるいはエジプトと西アジアとの関連などはかねてより指摘され、古い時代から論じられてきましたが、ここではエジプトの南方に位置するスーダンとの関わりが注目されています。
現在ではスーダンに数十の外国調査隊が入っているらしく、これは今のエジプトが新たな発掘調査の申請を一切認めていなかったり、あるいは申請の継続が打ち切られていたりしている事情も、いくらか反映している様子。
スーダンの遺跡は近年、劇的にアクセスしやすくなっており、すぐそばまで舗装道路が整備されていると聞いています。

レプシウスの「デンクメーラー」(Lepsius 1849-1913; cf. Description 1809-1818)ではヌビア地域まで範疇に含めていましたが、エジプト学が深化するにつれ、ヌビア地域は次第に別扱いされるようになりました。
この地域を扱う専門雑誌としては、メロイティカなどが有名です。

Meroitica
http://www.meroitica.de/

さてこの本に掲載されている論考で興味を惹くものを挙げるならば、

F. Geus,
"Burial Custums in the Upper Main Nile: An Overview,"
pp. 57-73.

は、4千年紀からの埋葬方法の違いを概観したもので、多数の墓が図解され、参考になります。

B. Williams,
"A Prospectus for Exploring the Historical Essence of Ancient Nubia,"
pp. 74-91.

もまた、この地域における長い発掘の経験を生かし、墳墓形式の変遷を辿っています。

F. W. Hinkel,
"The Process of Planning in Meroitic Architecture,"
pp. 220-233.

は、主としてバダウィの理論をもとに建築平面を分析したもので、1キュービット=52.3cmをもとにした分割と8:5理論を展開していますが、より詳しい検討が待たれるところ。個人的には問題がある論考だという印象が強い。

T. Kendall,
"The Napatan Palace at Gebel Barkal: A First Look at B 1200,"
pp. 302-313.

は、オコーナーの考察に基づいて"Palace"を論じたもので、面白い考え方を展開しています。

最後にDaviesが大英博物館に収蔵されている関連の品を列挙しており、情報の公開に努めています。大英博物館ではエジプト部門が拡張され、エジプト・スーダン部門と名称が変更になりました。
エジプト学を少し拡げて考えようとする動きのあらわれと思われる一方、人文科学の分野にはもはや研究費が充分に回らなくなってきている背景も感じられます。

2010年7月6日火曜日

泉井 1978


「数」という存在に言語学から触れた書。この書籍をどういう経緯で入手したのか、もう忘れてしまいましたが、今でも時折読み返すことのある印象深い好著です。

日本語では単数と複数との区別があんまりはっきりとはしていません。でも、これを厳密におこなう言葉は多くあります。この傾向は、特に古代語においては顕著でした。
単数と複数の他に、双数(両数)という概念があり、これはサンスクリットや、また印欧語ではないけれども、古代エジプト語でも見られますし、現在でも例えばアラビア語ではっきりと区別がなされます。本来、2つが揃って然るべき存在に、単数とも複数とも異なるかたちが与えられるわけです。
本書はまず、そこを探ることから始まります。

大昔の人間は数をどう捉えていたか、その意識をどのように言語へ定着させたかが語られ、興味深い本です。

泉井久之助
「印欧語における数の現象」
(大修館書店、1978年)
x, 225 p.

目次:
第一部 複数・単数・複個数 ー顕点と潜点ー
第二部 双数について ーその機能と起源ー
補説  数詞の世界

複数形を明瞭に持たない日本人にとって、名詞の単複の使い分けというのは理解しがたい部分があるわけですけれども、著者はさらに、印欧語には「巨数」あるいは「漠数」という概念が潜在するのではないかと論じています(p. 47ff)。

さらに注意が惹かれる点は巻末の「数詞の進法」(p. 210ff)において述べられる内容です。
原共通印欧語では何故、5が「~と」という意味合いを有する語尾を持つのか、また8がどうして双数形をとるのか(!)を述べています。

フランス語で80のことを、「20が4つ」という言い方をするのは知られていますが、これと似たようなことが古い印欧語でうかがわれるという指摘がなされています。4をひとつのまとまりとして捉えるような感覚があったに違いない、という指摘はとても面白い。
4,8と至って、その次の9にはそれ故に、「新しい」という含意が認められ、ラテン語でもサンスクリットでも、数字の9は「新しい」という言葉と共通の語根を持つのだという指摘にも驚きます。
十進法とはまるで異なる世界が、そこでは開示されています。

現代人にとって、数字の記法とは単に量の増減があるだけの、限りなく平坦に展延されるだけの世界の話となりますが、かつてはそこに不思議な起伏があったことが指摘されています。
「だから何なの?」という疑問を持たれる方には不用の書。
しかし数をかぞえるという素朴な行為の中に、かつては異なった意識や観念の投影がさまざまにあったのだという点に興味を持たれる方にとっては、たぶん読んで失望しない著作です。

2010年7月4日日曜日

Herz and Waelkens (eds.) 1988


古代における大理石の用法を扱った国際学術会議の報告書。古代ローマの石切場、また石の輸出入に関する研究はワード・パーキンスによって本格的に開始されましたが、その遺志を継承しての国際会議。ワード・パーキンスについては、Dodge and Ward-Perkins (eds.) 1992などを参照。
岩石学、経済学、技術史学、考古学、建築学など、多岐にわたる学際的な内容です。

Norman Herz and Marc Waelkens (eds.),
Classical Marble:
Geochemistry, Technology, Trade.

Proceedings of the NATO Advanced Research Workshop on Marble in Ancient Greece and Rome:
Geology, Quarries, Commerce, Artifacts.
Il Ciocco, Lucca, Italy, May 9-13, 1988.
NATO Advanced Science Institutes (ASI), Series E
(Applied Science), Vol. 153
(Kluwer Academic Publishers, Dordrecht, 1988)
xvi, 482 p.

大理石は古代ローマや古代ギリシアにおいて好んで使われた石材で、これを専門的に研究する特殊な学会もあります。

ASMOSIA
(Association for the Study of Marble and Other Stones used In Antiquity)

というのがそれで、同じ石材を前にしながらも、立場が違うとこんなにも見るところが異なるのだという点が面白い。論考の多くは古代社会の経済に関わる研究と、採掘技法や労働組織についての注視、また科学分析を通じての時代・地域の同定、そういうことになります。
これらの論考をまとめて見据えようという難しいことをやっているのが共同編集者のHerzとWaelkensで、ふたりともこの分野では第一人者です。

このような本を手にすると、大理石という石の魅力が未だ強く放たれているという事実を思い知らされます。透過性があり、柔らかく、艶やかさを有するという独特の素材。
透き通る人間の肌と似た質感がある唯一の石と言ってよく、石膏製の模像と実物の大理石像との違いは大きい。

エジプト学が、ここにどういうかたちで関係するかはしかし、微妙です。もっと相互の論議がなされてもいい。

Kemp and O'Connor 1974


水中考古学の専門誌に掲載された、アメンヘテプ3世のマルカタ王宮調査に関する重要な調査報告。マルカタ王宮に関する報告の数は、それほど多くはありません。アクエンアテン(アケナテン)によるアマルナ王宮とは大きく異なる点となります。

アマルナ王宮調査は最初にピートリが手がけ、その後にドイツ隊も居住区を発掘し、イギリス隊が引き継いで大規模な調査をしていますから、報告書の冊数はかなりのものとなります。
一方、マルカタ王宮の場合はダレッシー、及びタイトゥスによる報告の後、メトロポリタン美術館による1910〜1920年の調査の短報が続き、JNESに掲載された1950年代の報告のあと、次いで1970年前半におけるアメリカ隊の調査がなされますが、そのアメリカ隊による概報がこの論文。
他にはペンシルヴァニア大学博物館の紀要にもオコーナーによって書かれましたけれども、僅か2ページの内容で、あまり参考にはなりません。

従って、マルカタ王宮の既往研究のうち、第一次資料を知ろうとした場合には、ダレッシーのフランス語を6ページ、タイトゥスの英語を20ページほど、メトロポリタン美術館による短報、それから1950年代に執筆された出土文字資料の分析をおこなったJNESの英語報告を60ページほど、それにこの文を読めば、だいたい足りることになるかと思います。
最近、アメリカの連中たちによって設けられたマルカタ王宮に関するサイト、

iMalqata
http://imalqata.wordpress.com/

の"Reports"のページでは現在、上記のだいたいが「不法に」PDFファイルにて一般に公開されており、ダウンロードすることができます(!)。
こういうこと、本当にやってもいいんですか。JSTORからダウンロードしたファイルをそのまま一般公開するなど、とっても大胆。

マルカタについては、ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズに載せられたスミスの文章(Smith 1998 (3rd ed.))も見る必要があるかもしれませんが、これもそんなに長くありません。
エジプト学において王宮はそれほど研究は進んでなくて、というよりも、古代中近東の王宮・宮殿の研究というのは穴ばかりなのであって、その点は今まで指摘してきた通り。
「王宮」と呼ばれるものも、"religious palace"か、それとも"residential palace"なのかがずっと論議されてきている、なあんていうことを初めて知る方は多いはず。で、古代中近東において、"residential palace"と仮に呼ばれているものは、実は残っていないに等しいのです。
先日、西アジア考古学会に出席し、講演にてシュメールにおける宮殿建築の新たな解釈について興味深く拝聴させていただきましたけれども、半ば予想されたことかとも思われました。ここでは、Hitchcock 2000にてうかがわれた問題提起を再度、思い起こすべき。
すでに、Hägg and Marinatos (eds.) 1987, The Functions of Minoan Palacesでも同様のモティーフは指摘されていました。王が実際に居住した痕跡というのは、どの遺構でも考古学的にはほとんど検出できていない状況であるはずです。

Barry Kemp and David O'Connor,
"An Ancient Nile Harbour: University Museum Excavations at the 'Birket Habu'",
in The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration (1974), 3:1,
pp. 101-136, 182.

この雑誌名は今では、International Journal of Nautical Archaeology (IJNA)というふうに、短く縮められたようです。
全体はふたつに分かれ、最初にオコーナーが7ページ、交通路として使われたナイル川の重要性とナイルの港湾施設について述べています。これを引き継ぎ、ケンプが調査の目的とその成果を記すという構成です。

マルカタ王宮の中心地はメトロポリタン美術館によってほぼ完掘がなされていますから、それより対象を広げ、特に人工的に造られた近傍の湖「ビルケット・ハブ」に焦点が当てられた調査。
エジプト人は湖を造営するために矩形をなす湖の輪郭に沿って、掘削した土砂を捨て、山が連なるかたちに仕上げました。これは景観を考慮しているのではないか、また土砂の運搬経路を勘案した結果ではないかと書いている点などに、ケンプの才覚が感じられます。世界最初のランドアートではないかとも述べており、人工湖の用途としては日乾煉瓦のための採掘地・祭祀施設・娯楽施設と、3つ挙げています。

サイトKと呼ばれる場所はその小山の一角に当たり、ここから彩画片と煉瓦スタンプ、「セド祭のためのワイン」と記された土器片が見つかっています。セド祭のための小建築が壊されて、ここに廃棄されたと考えられており、非常に重要な発見。それまで同じセド祭のための施設であったと思われてきた「魚の丘」建築を、ではどう考えるかという疑問に繋がります。
サイトKで見つかった建物の残骸は、もしかしたら「魚の丘」建築のものではないかという話は、未だ突き詰められていません。煉瓦スタンプから考えて、別のものだという感触が与えられますが、しかし双方の彩画片は未だ詳しく比較されていない状況にあります。
なお、サイトKから出土した彩画片の特徴については、すでにギリシアの研究家が英語とギリシア語で短く発表済み。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。マルカタではそれがまだうまく整理されていません。その点が興味深いところです。
このページでは、マルカタ王宮については結構多く触れてきました。
「マルカタ」、「Malkata」、「Malqata」などを検索していただければ。

2010年7月2日金曜日

Hawass and Richards (eds.) 2007 (Fs. David B. O'Connor)


D. B. オコーナーへの献呈論文集。オコーナーについてはアビュドスの重厚な本について触れました(O'Connor 2009)。ザヒ・ハワース・他が編集し、またSCAから出版された2巻本です。このふたりは共にアメリカのエジプト学者、オコーナーの教え子。

Zahi A. Hawass and Janet Richards eds.,
The Archaeology and Art of Ancient Egypt:
Essays in Honor of David B. O'Connor
. 2 Vols.
Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Cahier No. 36
(Publications du Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2007)
Vol. I: xxvi, 462 pp.
Vol. II: x, 476 pp.

2冊を合わせると1000ページ近くになるこの本には多数の者が論文を寄稿しており、エジプト学における献呈論文集としては珍しいことに全員が英語で執筆しています。
両巻ともページが1から始まるので、混同する恐れがあるかも。
例によって、建築に関わる論考だけを取り上げるならば、

Dieter Arnold,
"Buried in Two Tombs? Remarks on 'Cenotaphs' in the Middle Kingdom",
Vol. I, pp. 55-61.

「セノタフ Cenotaph(空墓)」というのは、エジプト学の専門用語。この語はしかし、Shaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)では項目立てされていなくて、一般には分かりにくい。アーノルドはすでに、Arnold 2003, p. 50で解説しています。

"Duplicates of tombs, or false tombs, were erected either at the burial sites of several kings (South Tomb in the Djoser precinct, Mentuhotep's temple with the Bab el-Hosan), or as separate structures at Abydos (Osiris tomb, Senwosret III). Private commemorative chapels without a tomb were also set up at Abydos in the Middle Kingdom. (.....) Conflicting interpretations exist concerning the concept of multiple burial places, for example places for statue burials, Osiris tomb, ka-tomb, the duality of Upper and Lower Egypt, tomb for the placenta of the king or Sokar tomb, as well as the survival of earlier, locally divergent burial practices."(抜粋)

単に遺体が収められていない見せかけの墓だけを指す言葉ではないため、面倒なことになっています。これに輪をかけて、錯綜する情報を提示。
61ページの参考文献の欄では、Der Tempel des Königs Mentuhotep von Deir el-Bahari I (Mainz 1974)が、H. アルテンミューラーによって書かれていることになっています(!)。こういう誤りは珍しい。
原稿の最終チェックは、ま、いいやという建築家らしいアバウトさ。

個人的には、B. J. Kempがアマルナにおける被葬者の向きなどを述べたものに興味が惹かれました。

Barry Kemp,
"The Orientation of Burials at Tell el-Amarna",
Vol. II, pp. 21-31.

ここには古代エジプト建築の向きに関するK. スペンスの博士論文が註として挙げられており、建築史関係者は注意を向けておく必要があります。
エジプト学の百科事典では「向き」について項目があるけれども、説明は簡単。A. バダウィは建築家でしたから、建物の向きについては専門家として気にしていました。3巻からなる彼の主著(Badawy 1954-1968)では、説明をある程度おこなっていますけれども、そのトピックを掘り下げた博士論文。

他には、M. LehnerF. Sadaranganiがギザの労働者集合住居における造り付けの寝台について書いているのが面白かった。

Mark Lehner and Freya Sadarangani,
"Beds for Bowabs in a Pyramid City",
Vol. II, pp. 59-81.

またG. Robinsは、ツタンカーメン王墓における装飾計画を比較的長めに説明しています。

Gay Robins,
"The Decorative Program in the Tomb of Tutankhamun (KV 62)",
Vol. II, pp. 321-342.