ラベル 古代エジプト、建築 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 古代エジプト、建築 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年1月5日木曜日

Imhausen 2016


この人の著作については、前にもImhausen 2003などでいくつか言及しました。古代の数学史を専門とする女性の方です。ヒエログリフも楔形文字も、両方読める人。たくさん執筆しています。

Annette Imhausen
Mathematics in Ancient Egypt: A Contextual History.
Princeton and Oxford, Princeton University Press, 2016.
xi, 233p.

廉価版の電子体も広く出回っているようですが、本当に読もうと思っておられる方には、是非とも冊子体の御購入をお勧め致します。この分野の全般を客観的に見渡している最良の書です。アマゾンの「なか見!検索」で、目次の他、内容の概要を見ることが可能です。
表紙が中王国時代の穀物倉庫の模型、というのも示唆的です。穀物を家屋内に持ち込んでいる労働者の他に、座って数量を書き込んでいる書記たちの姿が見られます。ちゃんと膝の上に筆箱(パレット)を置いているのが面白い。
この家屋の模型における戸口の両脇と上框が赤く塗られている表現は貴重。家の戸口は木で作られていたことを伝えています。社会的身分の高い者の家の戸口では石材も用いられましたが、多くは石灰岩や砂岩です。戸口の下は白く塗られており、敷石があったことを示しています。壁体はもちろん、泥煉瓦造であったはずです。四隅の上部が三角形に尖っている点も注目されます。
こういうことを詳しく書いている論考は、あまり見当たりません。この種の分野の主著であるH. E. Winlock, Models of Daily Life in Ancient Egypt: From the tomb of Mekhet-Re' at Thebes. NY, MMA, 1955は今、幸いにもPDFがダウンロードできるようになりました。


さて、中王国時代の模型の家屋の内部には独立柱が一本もありません。注意されるべき点です。専門家はこのように、本を見る時には「何が書かれているか」を読むのではなく、逆に「何が書かれていないか」を集中して見ます。これは恩師・渡辺保忠の教えでした。
古代エジプトの柱については、

Yoshifumi Yasuoka
Untersuchungen zu den Altägyptischen Säulen als Spiegel der Architekturphilosophie der Ägypter.
Quellen und Interpretationen- AltÄgypten (QUIA), Band 2.
Hützel, Backe-Verlag, 2016
が出版され、これまでの事情が一変しました。彼はBiOr (Bibliotheca Orientalis)という専門誌において、建築に関連する書物の目覚ましい書評を次々に書いていたため、良く知られていた人です。この本の内容の充実さに匹敵する類書としては唯一、L. Borchardt, Die aegyptische Pflanzensäule, Berlin 1897だけが挙げられるかと思われます。古代ギリシャの柱との関連、すなわち「オーダー」の初源の姿も示唆しており、素晴らしい。古代ギリシャ建築の碩学であるJ. J. クールトンも扱うことができなかったトピックです。
古代エジプトの柱については、素人が柱の写真集を出したりもしていますが、史料的な価値に乏しく、領野内での評価は思わしくありません。

数学と建築学との間には、接点がないこともありません。古代における大きな造形物がテーマとなった場合、これをどのように設計したかが絶えず問題となります。計画の過程を示すようなものが文章として残される場合があって、特にこれが算術の問題として記されると、数学史の分野では大きく注目されるわけです。書記の養成を目的として、こうした問題は史料としていくらか残されており、リンド数学パピルス、モスクワ数学パピルス、また中王国時代のパピルスなどが知られています。今後、末期王朝以降のパピルスも問題となってくるでしょう。

逆に、建築史の世界で注目されるような単なる寸法指定のテキストは、その記録がいくら古くても数学史の世界ではほとんど取り扱われません。また数学史の領野で古代エジプトの分数の表記の特殊性が強調されても、建築史の専門家たちは関心を寄せないであろうと感じられます。何故なら建築の世界では、当時のキュービット尺のものさしをどのように自在に扱ったかが、より重要であるからです。
他方で、近年では3Dスキャナによる測量を含めた最新の科学方法を競う世界が飛躍的に展開されています。
たぶん、この3つの学的領域で各々、重ならないようで重なっている項目を具体的に挙げていくと、相互の関心の度合いが見えてきて、面白い成果があらわれるのではないかと思います。
お互いの盲点が明瞭となるはずです。

Michel 2014との比較も、たいへん興味深いところです。
不満があるとするならば、大きな枠組の外へ踏み出そうとしていない点でしょうか。
でも、平易な書き方で全体を網羅しており、きわめて重要です。Architectural Calculationという項目がp.112以降に書かれており、またp.170以降にはMathematics in Architecture and Artという項目が見られます。
古代エジプト建築に携わる人間であれば、目を通しておくべき必読書となっています。

2016年12月28日水曜日

Budka, Kammerzell, and Rzepka (eds.) 2015


数日前にデパートへ行ったら、かつてと比べて人が本当にいないことにびっくりです。西洋建築史の授業では19世紀におけるデパートという施設の登場についてけっこう喋ったりしてきましたから、社会の状況を常に見ていないと本当にいけないのだなと改めて思いました。
故・清岡卓行の詩には、「デパートの中の散歩」というものもありましたっけ。僕は昔読んだこの人の書いたものに、今でも非常な愛着があります。

久しぶりにデパートの上階にある天ぷら屋さんに入ったら、品書きのリストの中に「丸十」と書かれているものがあることに気づき、個人的に興味が惹かれました。食べ物の表記で「丸十」というのは良く分からず、まるで判じものです。

「判じもの」という言い方自体が、もう簡単には伝わらなくなっている時代かもしれませんけれども。

日本のお城の石垣に刻線として残されている記号の中には、丸(円)の中に十字を記したものがあって、これは江戸時代の薩摩藩(さつまはん)の島津家における家紋と同じです。従って、石垣を構成している石に「丸十」の印があるものは、薩摩藩が担当して切り出しと運搬をおこなったものとみなされます。

時代や地域を問わず、建物を作る際にはたくさんの人手が必要で、その中には混乱を避けるために情報を直接、建材に担当者の名や日付、大きさ、使用箇所や使用部位などを簡単に書きつける場合が広範に見られます。
すでにお分かりの通り、薩摩藩主の島津家の家紋であった「丸十」は、転じて「さつまいも」という野菜を意味する場合にも用いられるようです。「さつまいも」は、もちろん「薩摩藩(さつまはん)」の名産品。「丸十」は、薩摩芋(さつまいも)の天ぷらをここでは意味します。
言葉の元の意味が拡張される一方、また情報が時代とともに廃れ、二重三重に分かりにくくなっています。このような仕組みを基本的に考えようとするのが言語学で、伝達という点を徹底的に考えようと工夫し、記号学というものも考え出されました。

この小欄にてすでに扱った2冊(Haring and Kaper eds. 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell eds. 2009の続編が出版されました。思わず薩摩藩の「丸十」を思い出した理由は、この本が古代エジプトにおける同様の記号表現をしつこく特集しているからです。
いくらか遅れて購入しましたが、古代エジプトにおける記号の研究がこんなに熱心に続いているのが、とても意外に思われました。

Julia Budka, Frank Kammersell, and Slawomir Rzepka (eds.), 
Non-Textual Marking Systems in Ancient Egypt (and Elsewhere).
Lingua Aegyptia, Studia Monographica 16
(Hamburg: Widmaier Verlag, 2015).
x, 322 p.

Contents:

鮮やかな黄色の布張りのハードカバーが印象的なモノグラフのうちの一冊です。
NTMSなんていう、まったく聞きなれない略称が度々出てきますけれども、古代エジプトで出てくる記号の解読をちょっと大げさに考えたいという姿勢が出てしまっているだけで、少々分かりにくいのですが熱意を汲み、勘弁してあげてください。
全体は4つに分かれており、

Methods & Semiotic
Architecture & Builders' Marks
Deir el-Medina
Pot Marks

という構成です。特に2番目については、こちらの興味に関わります。
末尾に執筆者たちの連絡先が併記されているのが便利です。

記号学(記号論)にまで問題を拡げており、面白くなっています。
今は完全に下火となっていますけれど、記号学についてはかつて日本の思想界にて良く読まれました。建築の世界では、P. アイゼンマンと絡んでチョムスキーの理論を筆頭に、さまざまな著作が参照されたりもしました。丸山圭三郎、前田愛といった方々の名が私的には思い起こされます。

ただ古代エジプトにおいてこの問題がどのように収斂するのかという問いになると、心もとない気もします。泥煉瓦につけられるマークや石切り場でうかがわれる記号などは当方にとっても興味が惹かれますが、それらの解釈に関して、あれ?と思う記述にぶつかる場合があって、些細な点ではあるものの、例えば石切り場の天井に引かれた線が、切り出したい石の大きさをあらわしているというような見方は改められるべきかと思われます。

建材に記された記号に関する基本的な問題はかなり前に指摘されていますけれど、建築を専門とする者以外の人には充分に理解されていないようで、例えばClarke & Engelbach 1930の記述を簡単に否定するのはどうかなと、同じ建築学の側に立つ者としては思うところでした。

西欧中世の教会堂の石材にもマークはうかがわれ、複数の研究書が出版されています。
でもエジプト学におけるこうした記号への注目というのはちょっと他の分野には見られない熱心さがあって、異常とも思われる箇所です。謎解きという面もありますので、そこで注目する人が多いのかも知れません。
記号の表現における表意文字と表音文字との混交という性格にもおそらく起因し、欧米の研究者たちを引きつけているのかなと憶測します。
要するに、難解な暗号の解読が成功した時の魅力に引き寄せられる特異な分野です。

カンボジアのクメール石造建築の石材においても短い書きつけがしばしば刻線で記されていますが、これに興味を示す者は未だいないようです。
そろそろ集成が作られるべきかとも思ったりしています。

2015年3月30日月曜日

Michel 2014


古代エジプトの数学についての厚い本がまた出版されました。
全部で600ページを超えます。
ざっと目を通しただけですけれども、いろいろと示唆を受けました。購入しても損はないのでは。
約55ユーロという値段のようですから、入手しやすい価格です。
最新情報が全部詰め込まれた体裁で、その良い面と悪い面とがあらわれ出ている、そういう印象となります。古代エジプトの数学について、最新の情報が必要な場合には良いかもしれません。

Marianne Michel
Les mathématiques de l'Égypte ancienne: 
Numération, métrologie, arithmétique, géométrie et autres problèmes.
Connaissance de l'Égypte Ancienne 12
(Bruxelles, Éditions Safran, 2014), 
603 p.

目次に関しては以下のURLが、ページ数が明記されていないものの、小項目も含めて全部公表されていますから、参考になるのではないでしょうか。


細かいことは、ここで記しません。
こちらが取り敢えず気になるのは、建築に関わる記述だけとなります。
古代エジプトの数学に関わる著作として、小欄ではこれまでRobson and Stedall (eds.) 2009Imhausen 2007Rossi 2004Imhausen 2003、またClagett 1989-1999などに触れてきました。これらの刊行物の総まとめを狙った意図が見られ、非常に意欲的です。
この点は何よりも評価すべきかと思われます。

ピラミッドに関する記述は、p. 393から始まります。そこにはリンド数学パピルスなどの解説に続いて例の有名な、というか、建築に興味を持っている者なら必ず興味を抱いているに違いない第一アナスタシ・パピルスに出てくる斜路やオベリスクの難問が同時に扱われており、これはすなわち、「建物の勾配の決定方法が古代エジプトの長い時代を超えて検討されている」、ということとなります。
こういう見かたは、これまでなかったように感じられます。
因みに、第一アナスタシ・パピルスは新王国時代後期(ラメセス朝)のもの。リンド数学パピルスは第二中間期、またモスクワ数学パピルスについてはさらに若干古く、第11王朝に遡ります。

だいたいエジプト学における設計方法の研究と言うものは、20世紀の初期までは建築を専門とする人たちによって重要な情報が部分的にもたらされていたのですが、それ以降は考古学者による勝手な解釈が入り混じり、加えて建築学者の中の一部分の方が間違ったことを唱えたりして、状況は悲惨なこととなりました。
今、古代エジプトの遺跡の調査に関わる人の大多数は、建物の規模を測って1キュービット=約52.5cmでちょうど割り切れるかどうかを調べ、それがうまくいかない場合には、すぐに判断を中止すると思います。遺構の測量を専門としている方々も同様です。

基本となるキュービット尺に関する説明を、権威と認められた文献学者が事典等で書き続けた結果、これを真に受ける考古学者が続出し、困ったかたちとなっています。日本での古代エジプトのキュービット尺の紹介は、そうした情報を単に翻訳しているだけですから、読むに値しません。
繰り返しますが、碩学のバリー・ケンプが何故、唐突にアマルナ型住居の平面計画方法の分析において小キュービットを持ち出したのか、その意味を深く考える必要があります(Kemp (ed.) 1995)。古代エジプトの尺度について、もう一回根本的に考えたらどうかという異議がそこでは真剣に出されているとみなすべきです。
なおアマルナ型独立住居の平面寸法分析については、キュービット尺を前提とした短い考察があります(Tietze (Hrsg.) 2008)。

M. Michelの本のp. 437には古代エジプトにおける勾配の一覧表と呼ぶべきものが初めて掲載されており(Fig. 145)、とても注目されます。これまでこうしたものは提示されることがありませんでした。ここではImhausen 2003Rossi 2004の著作が大きな役割を果たしていると見受けられます。ピラミッドもマスタバも塔門の壁体も墓のスロープもオベリスクも、みんな入っています。

この表には第一アナスタシ・パピルスにおける、いわゆる「オベリスクの問題」の勾配も扱われていますが、ただ「1キュービット、1ディジット」と言う解釈は従来通りです。第一アナスタシ・パピルスにせっかく触れたのに、惜しまれます。

「1キュービットに対し、1ディジット(指尺)単位の指定による勾配の規定も存在した」とセケドの概念を拡げたらこの本も革新的になったでしょうが、エジプト学の枠内に論理が収斂したせいで、最も肝要な域を超えることはありませんでした。Miatelloによる近年のセケドの論などにも触れていますが、当方には論外だと感じられます。
個人的に秘かに考えているセケドの概念の枠の解体方法としては、

1、基準となる1キュービットの水平と垂直を入れ替えてもセケドである
2、1キュービットに対してディジット(指尺)単位で指定される勾配もセケドである
3、勾配規定の基準となる1キュービットの長さが6パームでもセケドである

この3つが重要だと思います。
何故、これまで唱えられてきたセケドの概念を解体しなければならないのか。
理由は明瞭です。今のままの硬直した考えでは、ピラミッド研究など、古代エジプト建築の研究がまったく進まないからです。当時の設計方法の推察を重ねていかないと、埒が明きません。

すでにお分かりの通り、「小キュービット」の存在は疑われています。
ただこの考え方で問題となるのは、すべてを古代エジプト人のものさしの多様な扱いの中に解消させようとしている点です。それを他の学者たちが認めてくれるのかどうかは分かりません。
特に日本建築の場合、大尺・小尺という規定がかつてありましたから、その類推で日本人研究者が古代エジプトにおける小キュービットに対して早合点をする場合があって、 問題だと思われます。

19世紀に、古代エジプトのものさしが実際に出土したことも、近代の研究者の考えを束縛しました。

1、ものさしに示された単位長だけを基準として建物を造ったであろうと狭く考えた。
2、ものさしに刻まれた目盛り以外の寸法は用いられなかったであろうと狭く考えた。
3、「セケド」がリンド数学パピルスにピラミッドの設計方法として記されたため、それ以外の斜めに造られている構築物部分へのセケドの適用に対しては慎重になった。

古代エジプトにおける勾配を定める方法である「セケド」はエジプト学者たちによって、これまで概念が極めて限定して考えられてきました。限られた文字史料でしか扱われてこなかったので、その解釈を厳密に考えようとした経緯は当然です。また第二中間期の記述を新王国時代の遺構に当て嵌めていいのかという逡巡もあったことでしょう。
しかし逆に言えば、柔軟に作業を進めた古代エジプト人の設計方法や建造方法をほとんど配慮しない考え方でキュービット尺やセケドの解釈を進めてきたとも言えます。

古代エジプト研究の世界は現在、細分化されています。考古学、文献学、数学など、細分化した分野で解釈の矛盾があるわけですけれど、それらを建築学の中で再びひとつに包括し、問題を解消できるのではないかという、その可能性が指摘できるように思われます。

2014年5月16日金曜日

Ordo et Mensura IV/V 1998


古代エジプトで用いられていた尺度については、一般向けにきわめていい加減な説明がなされている場合が大変多く、この点はいずれ正される必要があろうと案じています。
先日、「計量学-早わかり(第3版)」というページを見つけたのですが、冒頭に書かれていた古代エジプトの尺度についての記述を読んで驚きました。

ものさしという存在から、まずは語る必要があるのかもしれません。ものさしが見つかっているかどうかや、そこに刻まれた目盛りというものによって人の考え方はかなり束縛されるようで、この点で研究者の考えとの大きな乖離が生じることとなります。

ものさしが実際に見つかっていないからといって、もちろんその時代にものさしが存在しなかったと考えるべきではありません。金属でできているニップールのものさし(Nippur cubit)は最古のものさしとしてしばしば取り上げられており、ウィキペディアにも書かれていますが、だからと言ってこれよりも前の時代の世界にはものさしがなかったことにはなりませんし、だいたいニップールのものさしが「本当にものさしなのかどうか」を疑う必要があります。

世界には昔の計量学に焦点を合わせた専門の雑誌が幾冊もあります。以前に触れたNexus誌(cf. Morrison 2008)もそのひとつで、建築と数学を扱っている雑誌でした。ニップールのものさしについてはしかし、例えば以下に示す別の刊行物に所収されている論文で検討がおこなわれています。

Dieter Ahrens und Rolf C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura IV / Ordo et Mensura V,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 25.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1998,
vi, 434 p.

2回開催された会議の記録を収めているため、言わば合併号という体裁をとっています。この中で最も注目がなされるのは、

Marvin A. Powell,
"Gudea's Rule and the So-called Nippur Cubit: The Problem of Historical Evidence,"
D. Arrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.), Ordo et Mensura V,
pp. 93-102.

の論考でしょう。
パウエルという人が編集したPowell (ed.) 1987に関してはこの欄で前に挙げたことがあり、それは古代中近東における労働者組織の話の時であったわけですけれども、この方がミネソタ大学に提出した博士論文のタイトルはSumerian Numeration and Metrology (1971)で、もともとシュメールの計量学が専門の学者です。サッソンやベインズたちによる、

Jack J. Sasson et al. eds., Civilizations of the Ancient Near East, 4 vols.
(New York, Charles Scribner's Sons, 1995) .
Editor in Chief: Jack J. Sasson, Associate Editors: John Baines, Gary Beckman, and Karen S. Rubinson.

Vol. I: xxxii, 648 p.
Vol. II: x, 651-1369 p.
Vol. III: x, 1373-2094 p.
Vol. IV: x, 2097-2966 p.

の4巻本は、E. M. Meyers et al. eds., The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East, 5 vols. (Oxford, Oxford University Press, 1997)とともにこの分野において良く知られた事典ですが、そこでは「メソポタミアの計量学と数学」の項目(Vol. III, pp. 1941-1957)に関して執筆もしており、この領域の権威として認められている人間。その彼が、ニップールのものさしについてどのような見解を抱いているかというと、

"an enigmatic piece of evidence like the so-called Nippur cubit"

と表現した後に、

"It has a curious form, sometimes said - but without supporting evidence - to be shaped like a stylus, with six indentations, dividing it into seven unequal parts. The deepest of these indentations mark off a space of about 518 millimeters, and it is this that has been referred to as the "Nippur Cubit" (Nippur-Elle). (...) In short, it is not usable at present as evidence for historical metrology."
(pp. 100-101)

と記しています。かたちが変で、目盛りの間隔が一定でなく、正確な出土場所が記録されていないために年代が実のところ不明で、学問的な資料としては扱えないという点がはっきりと述べられており、Ordo et Mensura誌のめざしているであろう方針とは真っ向から対立する立場。Powellの論文のあとには、この会議録Ordo et Mensuraの共同編集者のひとり、Rottländer

"Die Standardfehler der Methoden der überkommenen Historischen Meteorologie"
(pp. 103-114)

と題する論文を書いており、ここにもニップールのものさしが分析図付きで出てきますが、相反する意見を並べて掲載しているところが重要です。読者に判断を任せるという姿勢。

ものさしには等間隔の目盛りがあるはずだろうという見方はしかし、ともすると考え方を逆に狭める恐れもあり、ものさしに刻まれていない目盛りで建物を設計することはないだろうという勝手な推測に結びついたりします。古代の尺度を考える際には、ものさしから話を始めなければならないのでは、と思うのはそういう時です。

なお同じ刊行物では、

Florian Huber,
"Das attisch-olympische bzw. geodätische Fußmaß von 30,9 cm.
Seine Herkunft und die Verwendung in der justinianischen Baukunst,"
D. Ahrens und R. C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura III,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 15.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1995,
pp. 180-192.

のうち、pp. 186-189などでも"Die Nippurelle"を扱っています。

2012年7月23日月曜日

Schiff Giorgini, Soleb [5 vols.] (1965-2003)


ツタンカーメン王の祖父に当たる新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世は古代エジプトの黄金時代であったと言って良く、特にこの王は大規模な記念建造物を各地にたくさん建てました。第19王朝のラメセス2世は「建築王」としばしば呼ばれましたが、アメンヘテプ3世による派手な活動の真似をしていたらしく、新王国時代において本当の「建築王」の名に値するのはアメンヘテプ3世であるように感じられます。
アブー・シンベルの正面に並ぶ4体の巨像を発想した源は、アメンヘテプ3世の葬祭殿の前に置かれていた一対のメムノンの巨像。この葬祭殿は、カルナック神殿を凌ぐ最大規模を誇っていただけでなく、ナイル川の増水によって水浸しになる場所へ故意に建立されていた点がアメンヘテプ3世の建築の見どころです。ここでは古代エジプトの神話で語られる「原初の丘」を、とてつもない大きさでいきなり現世に実現させるという荒業がおこなわれました。

A. P. Kozloffが最近、この王に関する本を出しました(Amenhotep III: Egypt's Radiant Pharaoh, Cambridge 2012)けれども、註の振り方を見るだけですぐに了解される通り、これは一般向けの書。この種の先駆けは以前にも触れた通り、

Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press: Norman, 1964)
xi, 212 p.

となります。今から見ると不備が目立つかもしれませんが、テーベを舞台として纏められた佳作。A. P. コズロフはこの王に関する知識を膨大に有している研究者で、先行研究に対する意識は高いはずですから、このRiefstahl 1964の他、Fletcher 2000Cabrol 2000に対し、制限された紙幅の中でどう書いているかが眼目になるかと思います。
20世紀の終わりからアメンヘテプ3世について包括的に述べた展覧会のカタログや研究書は矢継ぎ早に出されており、その代表的なものはBerman (ed.) 1990Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993O'Connor and Cline 1998、そして500ページを費やしている前述のCabrol 2000などでしょうか。

あまりにもたくさんのアメンヘテプ3世による建物があるために、報告書の刊行は全体として遅れていますけれど、全5巻によるソレブ神殿の報告書の刊行が21世紀の初頭に完結し、スーダンに残るこの遺構の全貌をようやく知ることができるようになりました。
全部で1500ページを超える量です。

Soleb [5 vols.] (1965-2003)

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb I: 1813-1963
(Sansoni: Firenze, 1965)
viii, 161 p., plan.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb II: Les nécropoles
(Sansoni: Firenze, 1971)
vii, 407 p., 17 planches.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb III: Le temple. Description.
IF 892, Bibliothèque générale (BiGen) 23
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2002)
vi, 446 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb IV: Le temple. Plans et photographies.
IF 910, Bibliothèque générale (BiGen) 25
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2003)
vi, 264 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb V: Le temple. Bas-reliefs et inscriptions.
IF 807, Bibliothèque générale (BiGen) 19
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 1998)
xviii, 335 planches, 21 p.

途中で出版社がフィレンツェからカイロ、というよりもIFAOへと変わっている点に注意。この経緯はエジプト学者たちのメーリングリストである Egyptologists' Electronic Forum (EEF) にて報告されたりもしました。
最初の第1巻と第2巻がフィレンツェから刊行の後、30年近く経ってから壁画を報告する第5巻が出ています。建築関連の第3巻と第4巻はさらに遅れて刊行。このように幾冊にもわたる報告書の出版社が途中で変わることは時折見られ、D. B. RedfordによるAkhenaten Temple Projectのシリーズもそのひとつ。
建築に関わる人間にとって最も知りたかった建造過程の変遷は、2003年に正式に明らかにされています。概要はしかし、海外での巡回展「アメンヘテプ3世」のカタログにより先んじて、一般にもすでに公開されていました。
他の建物と同じく、ソレブ神殿もかなり計画が変更された痕跡がうかがわれ、拡張の度合は尋常ではありません。アメンヘテプ3世が「メガロマニア(誇大妄想狂)」と言われる所以です。

国立情報学研究所によるGeNii(ジーニイ)Webcatのページで、読みたい海外書籍を日本のどの研究機関が所蔵しているかどうか、検索することをもっぱら続けている方がいらっしゃるかもしれない。
今、この"Soleb"の報告書をGeNiiのサイトで検索すると該当するものがなく、その結果からこの本が日本には無いと判断されがちです。しかし例えば早稲田大学図書館のページで検索すると、5冊ともちゃんと所蔵されていることが分かります。
国立の研究所が率先して構築しているデータベースだからといって、それを丸ごと信じてはいけません。研究者たちはそういう漏れがあることをあらかじめ織り込み済みでこの種のデータベースを用いています。データベースには出てこなくても、国内で持っているところが必ずあるはずだという心当たりがある場合、専門家に聞くべきです。こういうことは、卒業論文などを纏めようと志す者にとって重要な点になるかもしれません。
いかに身近の専門家を捕まえて、根掘り葉掘り聞くことができるかが大切かと思われます。

2012年7月19日木曜日

Valloggia 2011


早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。

上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。

Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)

Texte: Table des matières

Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)

Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)

Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)

Conclusion (p. 87)

Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)

Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)

Bibliographie (p. 131)

Indices (p. 139)

Table des matières (p. 145)

上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。

意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば

「治世第1年、ペレト期第3月…」

というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では

"An III, 3e mois de per(et)..."

と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。

クフ王のピラミッドの脇に設けられた船坑(ボートピット)の蓋石にはラージェドエフ王の名前も以前見つかっていて、これはBeiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeiträgeBf:ただし本書ではBÄBAと略), Heft 12 (Franz Steiner: Wiesbaden, 1971)で発表された報告で注目されたところですけれども、そこから転載された文字列「治世11年、ペレト期第1月24日」が図版編のFig. 3にて紹介されています。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。

ピラミッド時代における代表的な遺構を残したクフ王とカフラー王との間を生きたジェドエフラー王のピラミッドですから、相互の詳しい比較が今後、進められるのでは。ピラミッドの地下に唯一設けられた玄室へと続く下降通路の勾配も、長さが2に対して高さが1という2:1の傾きで、注目されます。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。

Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm

Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century: 
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.

斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。

ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。

岩盤をある程度掘り下げて造られたピラミッドですから、掘り下げる前の初期の設計ではどうだったのか、追究する必要があるかもしれません。たった1.5メートルほどの違いなのですけれども、3次元の巨大な立体物をどのように計画したのかを考えようとする場合、その細部が気になります。

27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に触れられています。
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。

古代語による文字史料を直接読解することから論考を始めている数学者Imhausen(cf. Imhausen 2003、またImhausen 2007)は、古代エジプトにおいてこの「聖三角形」が本当に知られていたかについて懐疑的であり(Robson and Stedall [eds.] 2009)、こうした基本的な点について専門家の間でも未だ意見の一致を見ていないということは、声を大にして言っておかねばなりません。
古代エジプト建築研究に携わる人間でも、3-4-5の比例による三角形は地割にて直角を導くために古代エジプトでも用いられたであろうと安易に判断している研究者はけっこういるわけです。

"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)


つまりエジプト学者たちは、エジプトにおける実際の遺構で3:4:5となる実測値をかなり昔から複数見つけているにも関わらず、「それが後代のピタゴラスの定理と結びつくはずであり、建築に応用した先駆けは古代エジプトである」という見方に関し、非常に慎重な姿勢をずっと取り続けているということです。
この事態を、「考古学者たちに数学の美しさが分かるはずはない」という一言で片づけるのは簡単。しかし長い時間にわたってこだわり続けられているそのモティーフを丁寧に追うことなしに、問題の解決が図られるとは到底思えません。
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。

2012年7月8日日曜日

Uphill 1972


エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。

Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf

死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。

ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。

以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。

アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。

古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。

Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.

Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.

なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。

Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.

2012年3月5日月曜日

Rammant-Peeters 1983


OLAのシリーズの中の知られた一冊。
新王国時代の神殿型貴族墓(tomb chapel:トゥーム・チャペル)の背後には、せいぜい高さが数メートルの、小さな規模のピラミッドが造られました。かつてピラミッドは王の墓であったわけですが、新王国時代に至るとその伝統が途絶え、代わりに貴族たちが真似して小さなものを建て始めます。
情報が錯綜しがちなのは、小さなピラミッドのかたちを「ピラミディオン」と言う点で、古王国時代の大きなピラミッドで最後に設置される四角錐の頂上石をこう呼ぶとともに、新王国時代の小さなピラミッドの全体もまた「ピラミディオン」と記されたりします。さらには、新王国時代のこの小さなピラミッドに置かれる頂上石も専門家によって「ピラミディオン」と名付けられており、混乱を招きやすい状態です。
ここで扱われるのは、新王国時代に建造された小さなピラミッドの頂上に置かれた四角錐の建材で、銘文や図像が記されているため、古代エジプトの葬制に関わる重要な史料となるわけです。

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Departement Oriéntalistiek, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

Table des matières

Introduction (ix)
Bibliographie et liste des abréviations (xiii)

Première partie. Inventaire des documents (p. 1)
I. Pièces conservées dans les musées. Doc. 1-72 (p. 3)
II. Pièces et fragments conservés à Deir el-Médina. Doc. 73-92 (p. 80)
III. Pièces dont le lieu de conservation est inconnu. Doc. 93-107 (p. 92)
IV. Mentions à ne pas retenir (p. 101)

Deuxième partie. Étude des documents (p. 103)
Chapitre I. Technique (p. 105)
Chapitre II. Provenance (p. 113)
Chapitre III. Décoration (p. 121)
Chapitre IV. Évolution chronologique (p. 133)
Chapitre V. Inscriptions (p. 139)
Chapitre VI. Fonction architecturale (p. 165)
Chapitre VII. Signification religieuse (p. 176)
Chapitre VIII. Orientation (p. 192)

Appendice: La documentation de Deir el-Médina (p. 202)
Index (p. 211)
Planches (p. 217)

出版されたのはもう30年ほど前となり、この後にいくつものピラミディオンが発見されているので改訂が望まれます。
建築の見地からは、最後の図46と図47が何を意味するかが貴重。
史料ではピラミディオンの4つの底辺を掲げており、長さが正確に同じでないことが明らか。正面から見た長さの方が、奥行よりも長い場合があって、いい加減といえばいい加減です。ピラミディオンの底辺の長さの1/2と高さとの比を挙げたのが図47になりますけれども、これはリンド数学パピルスで見られるセケド(skd; or sqd)を勘案して考察をおこなった結果で、さらなる研究が必要となるでしょう。
しかしピラミディオンの4つの斜面は曲面であることも多く、角度に関する判断は難しい。具体的な数値が記されていますが、これらの情報のさばき方が建築に携わる者にとって大きな問題となります。

2011年12月31日土曜日

Hartmann 1989


古都エルカブとネクベト女神に関する博士論文。
ドイツに留学中の安岡君が手配してくれ、マイクロフィッシュの形態にて頒布されていたこの論考にようやくアクセスすることができました。
註は1150を超え、初期王朝から神殿が造営されたエルカブの長い歴史を論述しています。 エルカブ(Elkab)、もしくはエル・カブ(El Kab)の表記も、さまざまなかたちがあって難しい。ここでも「ネケブ」は"Nekheb"ではなくてドイツ語表現の"Necheb"となり、ネクベトも"Nekhbet"ではなく、"Nechbet"と綴っています。ネットでの検索に時間がかかる原因。

Hartwig Hartmann,
Necheb und Nechbet: Untersuchungen zur Geschichte des Kultortes Elkab.
Deutsche Hochschulschrifften (DHS) 822
(Dissertation. Mainz 1993)
xx, 404 p., 38 Tafeln.

Inhalt

Abbildungsverzeichnis (vii)
Abkürzungsverzeichnis (ix)
Einleitung (xiii)

1. Das Delta des Wadi Hellal (1)
2. Die ältesten Quellen zur Geschichte Elkabs (14)
3. Der archäologische Befund im Fruchtland bis zum Ende des AR (39)
4. Die Tempelanlage im Fruchtland seit der 1. Zwischenzeit (78)
5. Die Tempelanlagen in der Wüste des AR und NR (129)
6. Die Götter in den Beamtengräbern von Elkab (220)
7. Beiträge zur Verwaltung und Prosopographie von Elkab (267)
8. Resümee und Ausblick (345)

Literaturverzeichnis (349)
Sachindex (377)

Abbildungen

手堅くまとめられたこの考察からはしかし、ネクベトにまつわる研究の広大な領域を改めて思い知らされます。
徹頭徹尾、ネクベト女神に関する図像学との関連を断ち切ることで成立しており、ベルギー隊によって長く調査が続けられているこの都市の歴史については、近年、大英博物館が発行している電子ジャーナルのBMSAESに掲載された論考(Limme 2008)などによっても知られますが、新王国時代以降に造営された多数の石造神殿や王墓といったモニュメントの天井に、両翼を広げたハゲワシの姿で描かれたネクベト画像がいかなる経緯によってあらわされるようになったのかについては不明。

アマルナの労働者集合住居の近くで発見された祠堂では、両翼を広げたネクベト画像が戸口のリンテル側面に描写されていました。その画像の復原がKempWeatherheadによっておこなわれています(Weatherhead and Kemp 2007)けれども、出土した画片が小さいために、全体像として参考にされているのはラメセス時代のものです。
彼らの意識の中では、描かれたネクベト像に格別、時代による様式の変化があったとは考えられていない点が明らか。どれも同じように見えるから当然です。しかし仔細に眺めると、時代が判別できるような相違が認められるように思われ、盲点があると感じられます。

天井画として同じように描写されるネクベトの様式に、実は差異があり、また向きにも法則性があるのではという点は、まだ誰も指摘していないはず。些細に思われることかもしれませんが、こういうところから世界をひっくり返す作業が始められるとも思われます。

Shoukry 2010


マルカタ王宮に関する最新の論考。
「マルカタ」の綴りは、この論文では"Malqatta"となっており、ここにはアラビア語の表音についての普遍的な難しい問題と、地名の意味をあらわす努力、及びマルカタが位置するルクソールの現地での方言の表記の問題が同時にあらわれ出ています。
マルカタ王宮については前にも何回か書きましたけれど、"Malkata"、"Malqata"、"Malgata"、"Malgatta"、"Malqatta"などのヴァリエーションが多数あることが注意されます。

Nermine M. Shoukry,
"Malqatta, une résidence royale d'Amenhotep III à Thèbes-Ouest",
Memnonia, Cahier supplémentaire 2.
Colloque international: Les temples de millions d'années et le pouvoir royal à Thèbes au Nouvel Empire,
sciences et nouvelles technologies appliquées à l'archéologie - Louqsor, 3-5 Janvier 2010.
(Le Caire 2010), pp. 209-227.

この書の目次は、次のサイトで見ることができます。

http://www.mafto.fr/publications/cahiers-supplementaires-des-memnonia/

Memnoniaは比較的若い専門誌で、1990年の創刊。もともとラメセウム(ラメセス2世葬祭殿の通称)の救済を目的として刊行された雑誌でした。緑色の鮮やかな表紙が印象的。その別巻にて国際会議の記録が出版されました。
ここで発表されているShoukryの論考は、ヘルワン大学で執筆されたという博士論文の概要に該当するらしく、このドクター論文が刊行されることを望みます。
マルカタ王宮に関する書誌を、もし手軽にネットで調べるということであるならば、

iMalqata:
http://imalqata.wordpress.com/

のサイトにおける「レポート」の項や、

UCLA Encyclopedia of Egyptology:
http://uee.ucla.edu/index.htm
http://escholarship.org/uc/nelc_uee

における「マルカタ」の項、あるいは

Theban Mapping Project:
http://www.tmpbibliography.com/resources/bibliography_6_other_areas_wb_malqata.html

のページなどがお勧めです。
しかしこうした場合には一次資料をまず提示することが優先されますので、いずれの文献リストにもO'Connor and Cline 1998の中のR. Johnsonによる論考やD. O'Connorの考察、またZiegler (ed.) 2002の中のDorothea Arnoldが書いている論文といったものが紹介されておらず、とても残念。
マルカタ王宮の全体構成を把握するには、本当はこれらの近年の論考から目を通す方が手っ取り早く、また基本的な問題を把握する上で重要だと思われます。
KellerShortlandによる科学分析を主とした論考も、近年は引用される度合いが増えてきました。これらの論文はメトロポリタン美術館による工房の発掘によって出土した遺物に基づいて書かれていますが、実際の工房に関する考古学からの具体的な報告は非常に乏しく、20世紀初期のBMMAの短報、あるいはHayesによるJNESの連続論文による断片的な報告のみが残されているだけで、部分的な再発掘をおこなったKemp and O'Connor 1974との併読が必要です(Site Jに関する記述を参照)。
水中考古学の専門誌に掲載されたこの論文はしかし、国内では入手しづらくて、苦労する文献。iMalqataのサイトでは現在、この論文をダウンロードできる状況にありますが、著作権を考慮せずにアップしていると思われ、いつまで閲覧できるかは不明。

Shoukryの論文でも、挙げられている文献はきわめて限定されています。この国際学会では考古学への最新の科学技術の適用をテーマとしているため、これにあわせて唐突に顔料の化学記号が出てきたりして戸惑いますけれども、この点は仕方ありません。王宮都市の紹介は施設ごとに丁寧な記述がなされています。非西欧の研究者によるマルカタ王宮の考察が進められているという点は、非常に喜ばしい。
マルカタ都市王宮内に建てられた諸施設の建造の順番にも考察が及んだらもっと良かったでしょうが、このトピックは今後、討議されるべき事項。

アマルナ王宮との比較、特に似ているところや共通点を考えることもおこなわれるべきですが、当該分野の権威であるバリー・ケンプが「ふたつの王宮はだいぶ違う」ということをすでに言ってしまっている(Kemp and Weatherhead 2000)ので、本格的に取り組む人はしばらく出てこないかもしれない。
臆することなく、ふたつの王宮を見比べて共通点を指摘するような人が、新しくこれから出てくることを期待しています。

2011年12月29日木曜日

Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]


クフ王のピラミッドに関する測量は、かなり古くからおこなわれていたようです。
でも外形ではなく、ピラミッド内部の計測となると、まったく別の話。

実測の結果に基づいて、オクスフォード大学の天文学者ジョン・グリーヴス(John Greaves: 1602-1652)は17世紀に「ピラミドグラフィア(Pyramidographia)」を著し、世界で初めて大ピラミッド(ギザ台地に立つクフ王のピラミッド)の断面図を公表しました(Greaves 1646)。この人は若い頃に接した計量学の先生の影響を受け、古代建築の基準長の分析に深い興味を抱いていた学徒でもあります。古代ローマの尺度を考えたりもしました。
またアラビア語文献にも通じており、中東への旅行中に、関連書籍の渉猟と収集に努めていたことが知られています。異文化に触れることに楽しみを覚える人だったのではないでしょうか。
こうした少数の者の努力によって、エジプト学の基本的な問題点が切り開かれていきます。

グリーヴスの研究業績をまとめた2巻本は彼の死後、およそ80年経ってからトーマス・バーチの編集によって出版されており、この書が今では無料でダウンロードできます。
編者であったバーチの偉いところは、本をまとめるに当たって関連文献も含めている点です。後世の読者への案内を充分に考えており、このことは貴重でした。グリーヴスの論考が後の人間たちに与えた影響をも具体的に示した結果、最終的にはフリンダース・ピートリというエジプト学の創設者を生み出す契機を促すこととなりました。

グリーヴスの考察に触発されたアイザック・ニュートンによって古代エジプトのキュービット尺の実長が突きとめられ(cf. Newton 1737)、もともとラテン語で書かれていたニュートンの手稿の英訳が、バーチによって本書の中に一緒に収められました。ニュートンはバビロニアの煉瓦を扱っているものの、古代建築の煉瓦の大きさが建物の設計寸法や、全体の煉瓦使用量の積算と関わりがあるのではと問いかけていて、建築学の見地からは重要です。
しかしニュートンのこの手稿は、生前には発表されなかった論文で、書誌はあまり明確ではありません。20世紀になってマイケル・セント・ジョン(Michael St. John)が編集したレプシウスの訳書であるLepsius 1865(English ed. 2000)の中で、ニュートンによるキュービットの論文を1737年としているのは、バーチ編集のこの本に基づいているらしく思われます。
この後、ピアッツィ・スミスによる本(1867)の中にも、ニュートンの論文の英訳は再録されました。

Thomas Birch (ed.),
Miscellaneous Works of Mr. John Greaves, Professor of Astronomy in the University of Oxford
(J. Hughs, London, 1737)

Vol. I:
http://books.google.co.jp/books/?id=Puk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

Vol. II:
http://books.google.co.jp/books?id=0uk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

ここでは目次を割愛します。
バーチというと、古代エジプトではまずサミュエル・バーチが思い起こされますが、直接の関連はない模様。

第1巻の最初でグリーヴスの生涯が語られており、50歳で惜しくも亡くなった波乱の人生が披瀝されていて、これが面白い。
主著「ピラミドグラフィア」の記述にはいくつか誤りがあって、その指摘が読者からすぐになされており、それに対するグリーヴスの応答や訂正の計算などが収録されているというのも興味深い点です。誤りも遺漏もある報告書であったということです。しかし、多大な影響を及ぼした本であったという点に疑いはありません。
誤りがいくらか存在する本であっても、学問として大きく進展させる書物というのはあり得ます。大きな指標が示されるのであるならば、このようなことが可能であるわけです。

グリーヴスによるクフ王のピラミッドの大回廊の断面図に関する報告にも欠陥があり、この書の成果を前提として考察がなされたニュートンの論文では「1キュービットは6パームから構成されるであろう」という誤謬も記されています。
Maragioglio e Rinaldi 1963-1975での図面と比べるならば、この間違いは一目瞭然。でもそれを今、指摘することに対して大きな意味があるとは思えません。大事なことは、正確な情報に基づく考察とは一体何なのかを考えることです。

オクスフォード大学はニュートンが書いたラテン語の手稿を公開し始めており、原典のテクストに基づく比較検討も可能なようになってきました。新たな時代の到来ということを改めて感じます。
ピラミッドの計画寸法を考える上で見逃せない書。同時に、古代エジプトにおけるキュービット尺の実長を探る過程を改めて追う上でも欠かせない本になっていると思います。

2011年10月12日水曜日

Lepsius 1849-1913


Description 1809-1818のところで述べたように、C. R. レプシウス(1810-1884)による通称「デンクメーラー」はナポレオンの「エジプト誌」と並び、エジプト学の中では今でも重用される書で、大判の図版を用いた記念碑的な著作。ヒエログリフの記録なども見逃せません。でも改めて書誌を調べようとすると、けっこう事情が分からなくなります。
試しにPorter and Moss (PM), 8 vols.のうち、まず第1巻第1分冊(第2版)に掲載されている文献リストを見ると、

L. D. = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols., 1849-59.
L. D. Text = As above, Text. 5 vols., 1897-1913.

と示されており、図版編12巻+テキスト編5巻からなる点が知られ、全部で17巻であるように了解されます。 しかしその一方で、このPMの第3巻第2分冊(第2版)を引くと、

L. D. and Text = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols. Berlin, 1849-59. Text, 5 vols. Leipzig, 1897-1913.
L. D. Ergänz. = LEPSIUS (R.), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. Ergänzungsband. Leipzig, 1913.

と書かれていて、どうしたわけか、一冊増える計算に(!)。
確認のため、LÄ (Lexikon der Ägyptologie) 1975-1992を調べるならば、

LD = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, 12 Bde u. Erg.bd, Berlin 1849-58, Leipzig 1913.
LD Text = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, Text. Hg. von Eduard Naville, 5 Bde, Leipzig 1897-1913.

と記されており、"u. Erg.bd"などという省略された記述を見落としがちになるのですが、図版編は結局、あわせて13巻になる様子。
実は一冊増えることになるこの図版編の本は、レプシウスの死後、彼の遺したノートをもとにまとめられたテキスト編(全5冊)の刊行とともに出版された大判の図版に起因しており、これを含めるか含めないかで全体の冊数が変わってきます。

「デンクメーラー」については、図版編とテキスト編との書誌を分けた方が良いかと思われます。
まずは図版編の、初版の書誌です。図版編は大きく6つに分割されました。
原書の表紙における主タイトルではドイツ語のウムラウト記号が用いられていないので、ここではこれを尊重して倣います。レプシウスの姓名の最初も"Karl"と表記される例がありますけれども、このページでは原書の表紙に従って"Carl"とします。"Architectur"という表記もそのまま。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien (Tafelbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
6 Abteilungen in 12 Bände.
(Nicolaische Buchhandlung, Berlin, 1849-1859)

Band I: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt I-LXVI.
Band II: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt LXVII-CXLV.
Band III: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt I-LXXXI.
Band IV: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt LXXII-CLIII.
Band V: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt I-XC.
Band VI: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt XCI-CLXXII.
Band VII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CLXXIII-CCXLII.
Band VIII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CCXLIII-CCCIV.
Band IX: Abtheilung IV. Denkmaeler aus der Zeit der griechischen und roemischen Herrschaft. Blatt I-XC.
Band X: Abtheilung V, Aethiopische Denkmaeler. Blatt I-LXXV.
Band XI: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt I-LXIX.
Band XII: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt LXX-CXXVII.

この12冊の各巻が、何年に刊行されたのかが明瞭ではありません。
さて、レプシウスが亡くなった後、レプシウスの遺したフィールド・ノートに基づいてE. ナヴィーユが編集をおこない、テキスト編の5巻とともに図版編の1冊が刊行されました。
出版社はベルリンからライプチヒへと移ります。ナヴィーユを中心とし、L. ボルヒャルト、K. ゼーテたちが関わりましたが、巻によって変更が見られます。
これら5巻のテキスト編に関しては、発行年が明瞭。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien, Text (Textbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
5 Bände.
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1897-1913)

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band I: Unteraegypten und Memphis
(1897)
238 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band II: Mittelaegypten mit dem Faijum
(1904)
261 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band III: Theben
(1900)
310 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band IV: Oberaegypten
(1901)
176 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Walter Wreszinski, mit einer konkordanz für alle Tafel und Textbände von Hermann Grapow.
Band V: Nubien, Hammamat, Sinai, Syrien und europäische Museen
(1913)
406 p.

この出版に関わった人物たちは錚々たる顔ぶれで、いずれもエジプト学では良く知られている学者ばかり。出版された順番も興味深く、古代エジプトの遺構のうちで、中エジプトを扱った第2巻の刊行は遅れています。
テキスト編の第5巻が刊行された時、一緒に出された大判の新たな図版編が以下の書。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Ergänzungsband
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1913)
(iv), 63 Tafeln.

時代が経って1970年代に至ると、これらのリプリントがようやく出回るようになります。
まずはテキスト編の再版とともに、大きな図版編を原版のサイズでリプリントしたものが出版されました。カラー図版もそのまま再現していますので、利用価値は大です。参考までに本の高さも下記の書誌には記しました。
出版地は、さらに転じてオスナブリュック。13巻の図版編は合冊して7巻に仕立てており、ここには1913年に刊行されたErgänzungsbandも含まれています。7冊全部をあわせ、厚さは20センチ弱程度であったかと記憶します。 テキスト編は3巻に合本。
ですがこの版は、もう入手が困難かもしれません。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
(Neudruck der Ausgabe 1849-1858. Biblio-Verlag, Osnabrück, 1970-1972)
Tafelband: 64 cm. Textband: 30 cm.

Tafelband I-II (1972)
Tafelband III-IV (1972)
Tafelband V-VI (1970)
Tafelband VII-VIII (1970)
Tafelband IX-X (1970)
Tafelband XI-XII (1970-72)
Ergänzungsband (1972)

Textband I-II (1970)
Textband III-IV (1970)
Textband V (1970)

この直後に、ジュネーヴからはモノクロの縮刷版が出版されました。
エジプト学の研究者の間では、オスナブリュックから再版されたものよりも、こちらの版の方が広く知られているかと思われます。まずは図版編の縮刷版が出版され、次いでテキスト編が上梓されました。図はすべてA4版に縮小されている版。
テキスト編は原本通りに全5巻で出版されましたが、図版編はオスナブリュックの版と同様、やはり合本されて7冊にまとめられています。
この版も入手は今、難しくなっているようです。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.

Collection publiée sous l'égide du Centre de Documentation du Monde Oriental
[Réduction photographique de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1972-73)
30 cm.

Abtheilung I. Vol. I et II (Pl. I-CXLV) (1972?)
Abtheilung II. Vol. III et IV (Pl. I-CLIII) (1972)
Abtheilung III. Vol. V et VI (Pl. I-CLXXII) (1972)
Abtheilung III. Vol. VII et VIII (Pl. CLXXIII-CCCIV) (1972)
Abtheilung IV. Vol. IX (Pl. I-XC) (1973)
Abtheilung V. Vol. X (Pl. I-LXXV) (1973)
Abtheilung VI. Vol. XI et XII (Pl. I-CXXVII) (1973)

Collection des Classique Égyptologiques
[Reprographie A4 de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1975)
30 cm.

Text, vol. I. x, 238 p.
Text, vol. II. (v), 261 p.
Text, vol. III. (iii), 310 p.
Text, vol. IV. (v), 176 p.
Text, vol. V. viii, 406 p.

インターネットにて「デンクメーラー」を見ることができると以前、書きましたけれど、そこでは解像度が落とされており、また表紙などもスキャンされていません。制限がやはりあるわけです。

C. R. Lepsius: Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien:
http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/start.html

こうした情報をどのように使うかが問われる点。
インターネット上ではごく最近、「デンクメーラー」のリプリントをまた見かけるようになりましたが、この偉大な書は古代エジプトにおける遺跡を十数巻にわたって紹介しているモニュメンタルな本ですので、図版編なのかテキスト編なのか、あるいはそのうちの何巻目を出版しているのか、ページ数や図版の枚数などがちゃんと揃っているのかなどを確認することが必要となってきます。
残念なことに、ネット上に公開されている文献資料をそのまま印刷に回して販売するという悪質な書籍の売り方をする者も出てきました。充分な注意が求められます。

2011年10月8日土曜日

Zignani 2010


デンデラのハトホル神殿に関する建築報告書。この遺構は古代エジプトにおけるグレコ・ローマ時代、すなわちプトレマイオス朝に建立された代表的な神殿です。
この神殿についてはすでに十数冊もの報告書がフランス・オリエント考古学研究所(Institut Français d'Archéologie Orientale: IFAO)からシリーズとして刊行されており、Émile ChassinatFrançois DaumasSylvie Cauvilleたちによるものが広く知られていますが、神殿の名前の綴りが"Dendera"ではなく、IFAOにおいて近年は"Dendara"に統一された様子。文献を検索する側にとっては、手間がまた増えた感じがあります。
第1巻から5巻までの古い本を一括してまとめたリプリントも出ているようで、それはそれで便利なのですけれども、同時にこの再版ではタイトルの神殿名も綴りが変更されているらしく、引用の際には注意が必要です。
この本を貸してくださった大橋さん、感謝申し上げます。

Pierre Zignani,
Le temple d'Hathor à Dendara:
Relevés et étude architecturale
,
2 tomes. (texte et planches)
IFAO, Bibliothèque d'Étude (BiEtud) 146/1 et 2.
IF 997
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO): Le Caire, 2010)
xii, 421 p., 2 plans de situation + 39 planches.

Sommaire:

Remerciements (p. xi)

Chapitre I. Liminaire (p. 1)
Chapitre II. L'environnement du sanctuaire d'Hathor (p. 31)
Chapitre III. Description du temple d'Hathor (p. 81)
Chapitre IV. La composition de l'espase (p. 151)
Chapitre V. L'usage de l'espase (p. 209)
Chapitre VI. La construction du temple (p. 311)
Chapitre VII. Conclusion (p. 385)

Bibliographie (p. 389)
Table des figures (p. 409)
Plans de situation (p. 423)

これまでデンデラ神殿の基本図(平面図・立面図・断面図)といえば、

Émile Chassinat,
Le temple de Dendera, tome 5
(IFAO, Le Caire, 1947)

に所収された図版編に頼るしかありませんでしたが、もう少し詳しい大判の図版が多数、付け足されています。

Zignaniは1990年代の後半からデンデラ神殿について論文を発表していますけれど、特に

Éric Aubourg et Pierre Zignani,
"Espaces, lumières et composition architecturale au temple d'Hathor à Dendara:
Résultats préliminaires,"
Bulletin de l'Institute Français d'Archéologie Orientale (BIFAO) 100 (2000), pp. 47-77.

は本書の要約となっており、比較すると面白い。30ページほどありますが、本書が出る10年前の短報。
以前にも記した通り、100冊以上に登るBIFAOのバックナンバーは近刊を除き、すべて無料で閲覧することができます。PDFのダウンロードに要する時間がかかるのが難点。

BIFAO:
http://www.ifao.egnet.net/bifao/

BIFAO 100 (2000)の論考( 以下、Aubourg & Zignani 2000と略記)では、註記の一番最初にル・コルビュジェ(Le Corbusier)の高名な著作、「建築をめざして Vers une architecture (Paris, 1923)」が引用されており、古代エジプト建築の報告文に、巨匠とされる近代建築家の名が挙げられるのは珍しいと思っていましたら、本書ではなんと、参照する建築家をすげ替えて、ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn)が代わりに冒頭で挙げられています(p. 7)。
この建築家は「沈黙と光」という題の本を出版していますから、確かにコルビュジェよりは、Zignaniの意向に沿っているように思われます。
コルビュジェの著作としては「モデュロール」の2巻本が参考文献リストに載っており、「建築をめざして」についてはもはや触れられていません。

参考文献リストにルイス・カーンの名前が出ている古代エジプトの建築報告書というものを初めて見ました。本書の第1巻(テキスト編)の巻末に見られる文献リストには、上記のAubourg & Zignani 2000が記されていないというのも面白い。 共同執筆論文とは言え、自分が関わって30ページほど書いた研究論文を、最終報告書の中で引用することをやめているわけです。
ちなみに、古代エジプト時代とその後のグレコ・ローマ時代の建築を分けつつ、資料が多く残る後者から情報を可能な限り汲み取ろうとするRossi 2004の参考文献リストでは、この人の研究業績のうち、[Aubourg &] Zignani 2000だけを掲載。Zignaniが厳密な測量をおこなった点を讃え、註記しています(pp. 171-2)。
共同執筆者の名前を省き、実質的に仕事をおこなった者の名だけを挙げるというやり方だと思われます。

「沈黙と光」という題の本を書いた近代建築家カーンの方が、コルビュジェよりもZignaniにとっては贔屓にしたい存在だったのではと書きましたが、これはAubourg & Zignani 2000ですでに顕著に見られる傾向から推測される点であって、その研究成果がこの報告書にも充分に反映されており、石造神殿の各所に設けられた小さな窓に関し、実に詳細な報告がなされています。
このように窓から建物の中に差し込む陽光(日光)について、また時間を追って移動する日射に関して細かく考察した例は、これまでなかったのでは。
年代が下り、成熟したかたちを示したエジプトの神殿建築の造り方に、さらにギリシアの考え方が流入して影響が与えられているものの、古代エジプト建築における建物内の光と影というテーマについて、初めて切り込んだ著書。

カーンはフォート・ウェインの劇場の設計において、バイオリンとそのケースという入れ子状の構成を考えましたが、デンデラ神殿における入れ子状の構成との関連性を探ってみることも面白い(cf. Hawass, Manuelian, and Hussein (eds.) 2010 [Fs. Edward Brovarski])。

2011年9月27日火曜日

Zoëga (Zoega) 1797


高さが45cmのフォリオ(大判の本)で、全部をあわせると700ページ近くもある大著です。
オベリスクを考える上で大切なこの18世紀の本が、$3,800にて購入できるというページを先ほど見つけました。今は円高ですから30万円ほど。
素直に考えると、安いと思います。・・・買いませんけれども。

イタリアに立つオベリスク、特にローマに残るオベリスクに関する徹底的な分析研究に際しては必携の書であることに間違いはありません。同時に、18世紀末のヨーロッパにおけるオベリスクの状況が良く知られる資料。オベリスクに関連した第一級の参考図書、貴重文献となっています。
古代世界で強大なローマ帝国を打ち立てた現在のイタリアには、エジプトから何本ものオベリスクが苦労して運び込まれました。その中でも、中枢の都ローマはオベリスクがもっとも集中して搬入された場所。この狭い都市内だけで今日、10本以上のオベリスクが聳えており、この本数は本国のエジプト全土に立ち残っている本数を凌ぎます。
ただその中には古代ローマ時代に、エジプトのオベリスクを真似て造られたらしいものも混じっており、その見きわめが必要です。

キルヒャーがラテン語で書いた本(Kircher 1650)の後に出版された、オベリスクに詳しく言及する貴重な著作のひとつ。ヘロドトスやプリニウスなどをはじめとして、古代ギリシアや古代ローマの著作家たちがオベリスクについて触れた記述の部分を逐一、引き写すことをおこなっていて、冒頭の章ではこれに数十ページを費やしています。

xlページの参考文献リストを見ると、ギザのピラミッドの実測値を報告したGreaves 1646の論文も、フランス語の訳を通してちゃんと読んでいる様子。一方、古代エジプトの尺度を正しく推測した偉大な科学者のアイザック・ニュートンによる論考(Newton 1737)は掲げられていません。大旅行家であったRichard Pocockeの著作はしかし、リストアップされていて、この頃のヨーロッパにおける情報の行き来がどのような状態にあったのかが逆に憶測されます。

近年に出された本、例えばローマのオベリスクについて概説を述べているSorek 2010や、Iversen 1968-1972のうちの第1巻を入門書として見ると理解が早いのでは。Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009も重要。
現在、ローマに立っているオベリスクを紹介しているインターネットのサイトは国内外に複数、存在しています。立っている位置も詳しい地図で明示されており、たぶん1週間もあれば、全部を見て回ることができるでしょう。他の者よりもオベリスクを詳しく専門的に知りたい人にとって、この本は必読の書。
このように意義のある本が、何故エジプト学者にもさほど知られていないのかと言えば、オベリスクに関する形状の研究が全体的になおざりにされているからです。エジプト学において、遺構の平面分析はしますが、立体的な、あるいは構造的な数値の把握がなされることは稀です。
ですが、ピラミッドの分析よりも、オベリスクの分析にこそ古代エジプト建築の計画方法を解くための大事な鍵が隠されているように思われます。

大英博物館からかつて刊行された以下の著作(2巻本)の第1巻における「オベリスク」の章、また「ローマのオベリスク」の章では、著者であるZoëgaの略歴や、この本の内容がある程度、英語で説明されており、とても有用でお勧めです。情報は古いのですが、Zoëgaの論考を受け、後の19世紀においてオベリスクがどのように考えられていたのかが良く理解できます。
Google Booksでアップされており、厚い2冊が無料でダウンロードできます。

George Long (ed.),
The British Museum, Egyptian Antiquities, 2 vols.
(London 1832-1836)

Vol. I (1832):
http://books.google.com/books?id=KNg-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=The+British+Museum+Egyptian+antiquities+1832&hl=ja&ei=7Dp2TvGDCaSbmQXF4eTVDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false

Vol. II (1836):
http://books.google.com/books?id=CGkoAAAAYAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

さて、Zoëgaのこの著作は、やはりGoogle Booksにてダウンロードが可能となっています。
ドイツに留学中の安岡さんから御教示いただきました。いつもありがとうございます!

Jørgen Zoëga [Georgio Zoega],
De origine et usu obeliscorum, ad Pium Sextum Pontificem Maximum
(Roma 1797)
xl, 655 p., plates.
http://books.google.com/books?id=xoxCAAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=de&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

Praefatio (v)
Testimonium (viii)
Index (xxix)
Series peregrinatorum in Aegypto et Abessinia, quorum libri passim adducuntur (xl)

Sectio I. Veterum de obeliscis et de stelis Aegyptiis testimonia (p. 1)
Caput I. De obeliscis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 2)
Caput II. De stelis Aegyptiis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 32)
Caput III. Vetera obeliscorum epigrammata (p. 51)
Caput IV. Monumenta in quibus expressi cernuntur obelisci (p. 56)

Sectio II. Enarratio obeliscorum Aegyptiorum, qui hodie vel integri, vel aliqua sui parte superstites offenduntur (p. 65)
Caput I. Obelisci veteres Romae exsistentes (p. 66)
Caput II. Obelisci in Europae provinciis extra Urbem superstites (p. 83)
Caput III. Obelisci hodie exstantes in Aegypto et in Aethiopia (p. 92)

Sectio III. De usu obeliscorum in Aegypto (p. 127)
Caput I. De nomine obeliski (p. 127)
Caput II. De figura obeliscorum (p. 132)
Caput III. De materie e qua facti obelisci (p. 140)
Caput IV. De magnitudine obeliscorum (p. 144)
Caput V. De situ obeliscorum (p. 151)
Caput VI. Quo fine erecti fuerint obelisci (p. 156)
Caput VII. De argumento scalpturarum in obeliscis (p. 175)
Caput VIII. De mechanica obeliscorum (p. 184)

Sectio IV. De origine obeliscorum (p. 193)
Caput I. De monumentorum instituto (p. 193)
Caput II. Litterarum apud Aegyptios usus et origo (p. 423)
Caput III. De stelis Aegyptiis atque de obeliscis originem trahentibus a stelis (p. 571)

Sectio V. De historia obeliscorum (p. 596)
Caput I. Prima obeliscorum epocha (p. 596)
Caput II. Secunda epocha obeliscorum (p. 606)
Caput III. Tertia obeliscorum epocha (p. 609)
Caput IV. Quarta obeliscorum epocha (p. 623)
Caput V. Synopsis chronologica obeliscorum (p. 639)

Corrigenda et addenda (p. 645)

デンマークの学者による、オベリスクに関する初めての包括的、かつ冷静で客観的な考察、ということができます。「オベリスクの起源と用途」といった意味の原題がつけられました。
ローマに立っているオベリスクを中心に、その寸法などの報告も含めて記しつつ、本格的な論考が進められています。Kircher 1650の中で書かれている"De proportione Obeliscorum"「オベリスクのプロポーションについて」はここでも取り上げられていて、第3編第2章の"De figura obeliscorum"「オベリスクの形状について」はそれ故、建築学的にはたいへん重要な、注目される部分となります。ただし、ウィトルウィウス Vitruviusの「建築書」の影響を被っているかも、という点を勘案しなければなりません。

これまでKircherZoëgaがオベリスクの形状について述べている内容が、専門家によって詳細に論じられたことはないのでは。アメリカのワシントンに立っているオベリスクのモニュメントの基本設計に関わった外交官、ジョージ・パーキンズ・マーシュ George Perkins Marshがどこまで文献を読んでいたのか、この点も興味深く思われます(cf. Ashabranner 2002)。

本文はラテン語で、ここに古代ギリシア語、コプト語、ヘブライ語などがしばしば入り混じるのが日本人にとって辛いところ。

*  *  *  *  *

2019年9月に早稲田大学高等研究所講師の安岡義文さんから、何とこの本をプレゼントされました。彼は日本建築学会奨励賞を2019年に受賞。

https://www.aij.or.jp/images/prize/2019/pdf/6_award_015.pdf

ありがとう。さらに勉強を重ねます。
なお、今では以下の書も刊行されており、第17章でオベリスクの書について語られています(Emanuele M. Ciampini)。

Karen Ascani, Paola Buzi, and Daniela Picchi (eds.),
The Forgotten Scholar: Georg Zoëga 1755-1809: 
At the Dawn of Egyptology and Coptic Studies.
Culture and History of the Ancient Near East, Volume 74
(Leiden: Brill, 2015), xii, 267 p.

2011年9月21日水曜日

Graffiti de la montagne thébaine (1969-1983)


テーベ西岸の懸崖などにうかがわれる新王国時代のグラフィティ(落書き)を集成したもの。
エジプトのドキュメンテーション・センター、Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE)の刊行物はルーズリーフ形式で、綴じていないからバラバラにすることができ、図版の比較が可能でとても便利です。
しかしこれが短所となり、せっかく古書店で買い求めても大事なページが抜けていたりという有様で、結局、当方は全部のページを揃えることができませんでした。

ラメセス時代に王墓の造営に関わった労働者たちの村、ディール・アル=マディーナ(デル・エル・メディーナ:しばしばDeMと略称)の研究に際しては基本文献のひとつ。
Jaroslav Cernyが強力に推し進めた研究分野です。彼が執筆した他の著作はあまりにも多く、ここでは触れません。以前に記したCerny 1973などを参照してくだされば。
以下のリストでは、欧文特殊記号を時折省きます。

Graffiti de la montagne thébaine.
Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE), Collection Scientifique
(CEDAE, Le Caire, 1969-1983).
23 vols.

J. Cerny, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, (1): Cartographie et étude topographique illustrée
(1969-1970)
xxii, 61 p., CXXIX plates.

J. Cerny, R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, 2: La Vallée de l'Ouest; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1971)
Frontispiece, xiv, 1-55 p. CXXX-CLXXXVII plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de M. Said, E. A. Zagloul et M. Nelson,
Vol. I, 3: Compléments aux secteurs A et C frange du Sahara thébain; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1972)
Frontispiece, vii, 1-62 p., CLXXXVIII-CCXXXIX plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de Ch. Leblanc, M. Maher, M. Nelson, M. Said et E. A. Zagloul,
Vol. I, 4: Cartographie, topographie, geomorphologie, préhistoire
(1973)
Frontispiece, 1-91 p., CCXLI-CCLXXXVI plates.

J. Félix et M. Kurz,
Vol. II, 1: Plans de position
(1970)
Frontispiece, vi, 1-6 p., 1-84 plans.

L. Aubriot et M. Kurz,
Vol. II, 2: Plans de position
(1971)
iv, 8-11 p., 85-123 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 3: Plans de position
(1972)
v, 12-18 p., 124-139 plans, 52 bis-62 bis plans.

M. Kurz,
Vol. II, 4: Plans de position
(1973)
Frontispiece, xiv, 1-55 p., CXXX-CLXXXVII plans.

M. Kurz,
Vol. II, 5: Plans de position
(1974)
26-32 p., 166-197 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 6: Plans de position
(1977)
33-40 p., 198-215 plans.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 1: Fac-similés [nos. 1578-1980]
(1970)
8 p., I-L plates.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. J. Cerny,
Vol. III, 2: Fac-similés [nos. 1981-2566]
(1970)
LI-CXXVIII plates.

J. Cerny et A. F. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, A. Chérif, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 3: Fac-similés [2567-2928]
(1971)
i, 9-11 p., CXXIX-CLXXIV plates.

A. F. Sadek,
avec collaboration de A. Chérif, M. Shimy et H. el-Achiery,
Vol. III, 4: Fac-similés [nos. 2929-3265]
(1972)
11, 12-14 p., CLXXV-CCXX plates.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 5: Fac-similés [nos. 3266-3579]
(1973)
Frontispiece, CCXX-CCLVIII plates, 15-17 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 6: Fac-similés [nos. 3580-3834]
(1974)
CCLIX-CCXCII plates, 18-20 p.

M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. III, 7: Fac-similés [nos. 3839-3973]
(1977)
CCXCIII-CCCVIII plates, 21-23 p.

J. Cerny et A. A. Sadek,
Vol. IV, (1): Transcriptions et indices [nos. 1578-2566]
(1970)
i, 108 p.

J. Cerny et A. 太字A. Sadek,
Vol. IV, 2: Transcriptions et indices [nos. 2567-2928]
(1971)
i, 109-148 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 3: Transcriptions et indices [nos. 2929-3277]
(1972)
iv, 149-184 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 4: Transcriptions et indices [nos. 3278-3661]
(1973)
185-220 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 5: Transcriptions et indices [nos. 3662-3838]
(1974)
222-241 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. IV, 6: Transcriptions et indices
CEDAE Collection Scientifique 25
(1983)
242-263 p.

レイデン(ライデン)の研究者たちが作り上げたDeMの労働者集団の村に関するページでは、

A Systematic Bibliography on Deir el-Medina
(R. J. Demarée, B. J. J. Haring, W. Hovestreydt and L. M. J. Zonhoven eds.), in
Deir el-Medina Database:
http://www.leidenuniv.nl/nino/dmd/dmd.html

が掲げられていて、これは改訂版であるということなのですけれども、該当する書籍リストを見ると、どうもページ数が合わない部分も見られます。Vol. IV, 6 (1983) が彼らのリストには見当たらないのも不思議。
なおH. el-Achieryは、H. el-Achirieという綴りも用いています。迷いましたが、ここでは"A Systematic Bibliography on Deir el-Medina"にうかがわれる表記に倣いました。
原著に当たって今すぐ確認ができる状態ではないため、取りあえず手元の記録と照合しつつ、矛盾を少なくし、またできるだけ情報を増やしたかたちで書いています。間違いがあると思いますので御教示ください。
古代ローマ時代以降のビザンツからイスラーム時代の前までの間に関するグラフィティについては、IFAO(フランス・オリエント考古学研究所)のページ、

Montagne thébaine:

を参照のこと。

J. J. Janssenの訃報に接しました。
個人的に強い親近感を抱いたエジプト学者のひとりでした。残念で悲しく思います。

2011年9月18日日曜日

Kircher 1650


17世紀の傑人アタナシウス・キルヒャーについては日本でも荒俣宏が紹介をしており、良く知られた研究者ですが、エジプト学の中ではもはや振り返って詳しく読み直そうとする学徒はほとんどいないのでは。
キルヒャーは古代ローマ時代以降、エジプト研究に関していち早く本を刊行している人ですけれども、ヒエログリフの解読について、今から考えるならばデタラメとしか言いようがない考察を残したせいで評価が貶められています。当時、最高の知識人と考えられていたキルヒャーによる誤った解釈のために、古代エジプト研究の進展が大幅に遅れたと非難している者もいるほど。

キルヒャーがラテン語で記した著作は他言語にあまり翻訳されておらず、彼による思考過程全体の理解が阻まれているのは残念。
ここで取り上げる本の中でもギリシア語、コプト語、ヘブライ語やアラビア語などの引用が混じっていますから、全部を読もうと思ったら相当の覚悟が必要です。

キルヒャーはしかし、たぶんオベリスクがどのように設計されたかという問題に真向から挑んだ最初の人で、建築学の領域からは重要な足跡を記していると判断されます。
ピラミッドに関する設計方法については何冊も本が出ているのに、オベリスクの寸法計画に関しては本格的な論考が何ひとつ出版されていないのは不思議だと思われるかもしれません。
けれどもここには理由があり、研究の前提となるオベリスクの正確な実測値がまず分からないという点がまずひとつ。さらに、実測値が知られていると言われているものもよく調べてみるならば、もともと正方形が意図されたと思われるオベリスクのシャフトの底面やピラミディオンの底辺がけっこう歪んでいる場合が多く、誤差が大きいということが分かったため、詳細な研究が控えられているといった事情が挙げられます。
いったん立てられたオベリスクを実測するのは大変です。アレキサンドリアに立つ「ポンペイの柱」も、実測に際してはアルピニストに頼る他ありませんでした。
今では3Dスキャナを用いた最新の計測方法があるという人がいるかもしれない。しかし、実測値をどう解釈するのかという基本的な問題は、依然として残されると思います。

ひとつの石から削り出されることが尊重されたオベリスクの切り出しの工程では、多大な困難に直面することが度々でした。岩盤は決して均質でないため、大きな塊を切り出そうとした場合、岩盤に観察される層の良し悪しを見極めたり、割れ目などを勘案しながら計画を進めざるを得ず、時には初期に決定された長さを縮めるといったような大きな計画変更をおこないながら掘り出されたとみなされています(Engelbach 1922; Engelbach 1923)。
オベリスクの計画寸法についての研究はそれ故、切り出しの工程を十分考慮しつつ、なおかつ実測値の誤差をどう考えるのかを範疇に含めなければなりません。立体物としてのオベリスクの形状の把握、また完数による設計計画を望んだらしい古代エジプト人たちの方法をどのように勘案すべきなのか、こうした諸点が突破口となるでしょう。
ピラミッドの計画寸法を探ることよりも、古代エジプトにおける設計方法がオベリスクに関する研究を通じて明らかになるのではという予測が指摘されます。

書籍のデジタル化によってインターネットで原書が見られることは非常に有難い。ここ数年の劇的な変化だと思います。かつては海外の図書館へ見に行く他、方法がありませんでしたから。
こうした古書の公開によって、たぶん古代エジプト建築研究はこれから少しずつ進むのでは。

Athanasius Kircher,
Obeliscus Phamphilius,
hoc est, interpretatio noua & hucusque intentata obelisci hieroglyphici quem non ita pridem ex Veteri Hippodromo Antonini Caracallae Caesaris, in Agonale Forum transtulit, integritati restituit, & in Urbis Aeternae ornamentum erexit Innocentius X, Pont. Max. in quo post varia Aegypticae, Chaldaicae, Hebraicae, Graecanicae antiquitatis, doctorinaeque quà Sacrae, quà Profanae monumenta, Veterum tandem Theologia, hieroglyphicis inuoluta symbolis, detecta e tenebris in lucem asseritur
(Roma 1650)

参考:Werke von Athanasius Kircher im Internet - Unversität Luzern
http://www.unilu.ch/deu/werke-von-athanasius-kircher-im-internet_269856.html

キルヒャーはオベリスクの碑文について1666年にも本を出しているから紛らわしい。
キルヒャーによる原文をラテン語で読もうと志す方のために、上記のサイトを挙げておきます。ネットからダウンロードできるキルヒャーの本のリストが示されていて便利。
1650年代には、エジプトに関する重要な著作を他にも刊行しており、また当時の知識を集大成することができる立場にあったため、中国についての最先端の研究も試みています。どこまでも多才の人ということになります。

1650年に出されたこの著作では、第1巻第6章の第2節(pp. 52-3)にうかがわれる"De proportione Obeliscorum"(「オベリスクのプロポーションについて」)が肝要。オベリスクのシャフトと、その上に乗るピラミディオンとの設計方法が別々に考えられている点が注目され、シャフト底辺の10倍がシャフトの高さとみなされているのが特徴です。同時に、シャフトの底辺がピラミディオンの断面における斜辺に当てられているのでは、という指摘も見逃せません。
でも、ここには主要寸法に当時の尺度における完数が用いられたのではという考えが完全に欠落しています。当時の尺度に基づいた完数による計画が指摘され始めたのは、18世紀なのではないでしょうか。

大科学者であったアイザック・ニュートンが、ここでも大事な役割を演じています(cf. Newton 1737)。おそらくニュートンはエジプトのギザに立つピラミッドを初めて詳細に実測した報告書、Greaves 1646を読んで大きな示唆を受けており、Greavesが引用したアラビア語文献での記述、「クフ王のピラミッドの一辺の長さは、古代のキュービットで100王尺」という文面を見てヒントを得たらしく思われます。
Greavesは古典語が読めた他、アラビア語も理解した天文学者。政変によってオクスフォード大学から追放されるなど、ひどい目に会っていますが、古代尺の追究に全力を注いだ人でもありました。その情熱の結果は、もはや学問の領域を超えています。

キルヒャーの本では、次の節に記されている4つの「オベリスクの問題」も検討されるべき(pp. 53-7)。
底辺の10倍がオベリスクの高さに近似するという指摘は19世紀以降、何人もの研究者が指摘しています。でも基準となるはずのシャフトの底辺にかなりの誤差があるということなので、この10倍の値が果たしてシャフトの高さなのか、あるいはピラミディオンを含めた全高となるのかが正確に決定できません。それで「底辺の9~11倍」という曖昧な表現がしばしば取られるわけです。

ですが、この時に課題となるのは頂上のピラミディオンの形状で、ピラミディオンの底辺と高さとが同じであったり、または高さの方が大きかったり、底辺の方が大きかったりとバラバラであることは気になるところ。このかたちの違いは大いに注目すべきで、設計意図を解きほぐす糸口になるかもしれません。
設計はおそらくシャフトの底辺を基準としておこなわれたはず。ですが、もしそうであるならば頂上のピラミディオンの形状を統御することは、微妙な傾斜がシャフトに与えられたりするので、大変難しかったのではないでしょうか。
キルヒャーによるオベリスクの論考は、結局は西洋古典建築のオーダーの基本的な問題に結びつくように考えられ、そこがきわめて面白い点です。

2011年9月8日木曜日

Pliny the Elder (Gaius Plinius Secundus), Naturalis Historia, Liber XXXVI


プリニウスの「博物誌」は当時の百科事典という位置づけで、全部で37巻からなる記述のうち、第36巻では多様な石に関する知見が述べられ、古代エジプトのオベリスクについても具体的な寸法を交えながら触れられています。
ただし、古代ローマにおける尺度で書かれているために換算が必要。またこの採寸の値がどこまで正確なのか、分かりません。しかしエジプトから何本も運ばれてきた奇妙な一本石のモニュメントに、相当の興味が持たれていたことは確かなようです。
ここで挙げるのはLoebシリーズによる英訳。10冊の訳本にまとめられています。内容が多岐にわたるため、訳者も大変だったでしょう。苦労が忍ばれます。

Gaius Plinius Secundus (Pliny the Elder),
Naturalis Historia.
Translated by D. E. Eichholz,
Pliny, Natural History, Vol. X: Libri XXXVI-XXXVII.
Loeb Classical Library 419
(Harvard University Press, Massachusetts, 1962)
xviii, 344 p.

邦訳:
中野定雄・中野里美・中野美代
「プリニウスの博物誌」全3巻
(雄山閣、1986年)、
第3巻、pp. 1451-1495.

大プリニウス(Pliny the Elder)と小プリニウス(Pliny the Younger: Gaius Plinius Caecillius Secundus)の2人がいるのは、大プリニウスの甥に当たる人が、非常に貴重なラテン語の手紙類を残しているため。

この本が日本語で読めるというのは嬉しい限りです。この訳書が出版された時には評判になりました。ただ原典のラテン語からではなく、Loebのシリーズによる英訳本文をさらに日本語訳したもので、Loebのシリーズに見られる注釈は省略されていますから注意。
Loebのシリーズによるプリニウスの「博物誌」全10巻の書誌を挙げておきますと、

Pliny the Elder,
Natural History, 10 vols.
(1938-1962)

Vol. I: Books 1-2.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 330
(1938)

Vol. II: Books 3-8.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 352
(1942)

Vol. III: Books 8-11.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 353
(1940)

Vol. IV: Books 12-16.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 370
(1945)

Vol. V: Books 17-19.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 371
(1950)

Vol. VI: Books 20-23.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 392
(1951)

Vol. VII: Books 24-27.
Translated by W. H. S. Jones and A. C. Andrews.
Loeb Classical Library 393
(1956)

Vol. VIII: Books 28-32.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 418
(1963)

Vol. IX: Books 33-35.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 394
(1952)

Vol. X: Books 36-37.
Translated by D. E. Eichholz.
Loeb Classical Library 419
(1962)

最初の5巻と第9巻を訳した1868年生まれのHarris Rackhamは、Loebのシリーズにおいてキケロの訳の他、アリストテレスの著作の訳なども手がけており、こっちの方が本業。古代ギリシア語とラテン語を自在に使いこなすことができた学者であったことが良く分かります。
おそらく全10巻の訳をひとりで完遂したかったと思われますが、1944年に亡くなり、それ故にさまざまに訳者が入れ替わっています。

オベリスクの形状を考える上で「博物誌」の36巻に出てくる記述、

idem digressis inde ubi fuit Mnevidis regia posuit alium, longitudine quidem CXX cubitorum, sed prodigiosa crassitudine, undenis per latera cubitis.

"Ramses also erected another at the exit from the precinct where the palace of Mnevis once stood, and this is 120 cubits high, but abnormally thick, each side measuring 11 cubits."
(XXXVI, XIV: Eichholz, ibid., pp. 50-51)

「ラムセスはまた、かつてムネウィスの宮殿があった構内の出口のところにいま一本立てたが、これは120キュービットの高さがあった。しかし異常に太いもので、各面とも11キュービットもあった。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1466)

は重要。
なぜ「異常に太い」という言及がなされたのかが気になります。この時代、オベリスクの普通のかたちが認識されていたのかもしれません。この巻の訳者はわざわざこの部分に註を設け、

"The proportions are not abnormal. In general, the height of about ten times the maximum breadth, which is at the base."
(Eichholz, p. 50)

と述べています。「ちっとも異常ではないように思われるが」という対応。オベリスクの底辺の10倍が全高になるという見方がいつ生まれたのか、興味深いところです。

プリニウスはこのあとにピラミッドについても書いており、以下の文面はギリシアのヘロドトス、シケリアのディオドロス、ストラボンたちによるクフ王のピラミッドの寸法に関する最古の記述に次ぐもののひとつでしょうか。
すなわち、

amplissima septem iugera optinet soli. quattuor angulorum paribus intervallis DCCLXXXIII pedes singulorum laterum, altitudo a cacumine ad solum pedes DCCXXV colligit, ambitus cacuminis pedes XVIS.

"The largest pyramid covers an area of nearly 5 acres. Each of the four sides has an equal measurement from corner to corner of 783 feet; the height from ground-level to the pinnacle amounts to 725 feet, while the circumference of the pinnacle is 16 1/2 feet."
(XXXVI, XVII: Eichholz, pp. 62-63)

「最大のピラミッドは、7ユゲラの面積を塞いでいる。その四面の各々の隅から隅までの寸法は、等しく783フィート、地面から尖頂までの高さは725フィート、一方尖頂の周りは16フィート半である。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1469)

と言っているのですが、ここで言う「フィート」は古代ローマの尺度であり、ピラミッドの一辺が"DCCLXXXIII pedes"と書いていますけれども、ローマ尺の1フィート(ペデス)を29.5センチメートル(0.295メートル)と考えるならば、換算値で231メートル弱となり、これはかなり良い数値であるように思われます。
紀元後1世紀の記述で、今から2000年ほど前の文。何を汲み取ることができるのか、それが試されています。

2011年5月27日金曜日

Testa 2009


古王国時代におけるピラミッドの形態分析を包括的に扱った著作で、Butler 1998Rossi 2004のようなピラミッド全般の計画寸法についてのまとめの本もありましたが、久しぶりに厚い書籍が出版されました。
一般の読者向けとは言え、イタリアから発信されるピラミッドの論考はたぶん、これから重視されるかと思います。
各巻の目次を端折りながら掲載。目次のページ数は何箇所かで、間違って印刷されています。


Pietro Testa,
L'architettura nella cultura dell'Egitto faraonico:
I complessi funerari a piramide dell'antico regno dalla fine della III dinastia alla fine della VI dinastia (Huny - Pepi II)
.

Volume I: Introduzione informativa.
Aree scientifico-disciplinari A10, 533
(Roma: Aracne, 2009)
186 p.

Indice

Prefazione (p. 7)

La situazione sullo studio del progetto nell'architettura dell'antico Egitto (p. 15)

Capitolo I:
Le scienze matematiche e metriche (p. 19)

Capitolo II:
Progetto, architetti e grafica (p. 31)

Capitolo III:
La tomba (p. 63)

Capitolo IV:
La piramide e l'astronomia (p. 73)

Capitolo V:
Il progetto e la piramide (p. 83)

Appendice no. 1:
La filosofia delle misure e del progetto nell'antico Egitto (p. 97)

Appendice no. 2:
L'impiego della griglia modulare nella piramide (p. 101)

Appendice no. 3:
Scopi della ricerca del progetto nell'architettura egiziana e proposte di programmi di studio (p. 103)

Annesso (p. 105)

Tavole (p. 138)


Volume II: Analisi descrittiva.
Aree scientifico-disciplinari A10, 532
(Roma: Aracne, 2009)
1170 p.

Indice

Prefazione (p. 5)
Cronologia dei sovrani proprietari dei complessi funerari esaminati (p. 25)
Genealogia dei Re da Huny a Pepi II (p. 41)

Episodio 1:
Il compresso funerario del re Huny in Meidûm (p. 45)

Episodio 2:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr sud (p. 69)

Episodio 3:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr nord (p. 115)

Episodio 4:
Il compresso funerario del re Cheope in Gîza (p. 131)

Episodio 5:
Il Compresso funerario del re Gedef-ra in Abu Rawâsh (p. 225)

Episodio 6:
Il compresso funerario del re Chefren in Gîza (p. 251)

Episodio 7:
Il compresso funerario del re Mikerino in Gîza (p. 327)

Episodio 8:
Il compresso funerario della regina Khent-kaus in Gîza (p. 397)

Episodio 9:
Il compresso funerario del re Shepseskaf in Saqqâra (p. 417)

Episodio 10:
Il compresso funerario del re User-kaf in Saqqâra (p. 447)
Il Tempio solare del re User-Kaf in Abu Gurâb (p. 485)

Episodio 11:
Il compresso funerario del re Sahu-ra in Abu Sîr (p. 513)

Episodio 12:
Il compresso funerario del re Nefer-ir-ka-ra Kakai in Abu Sîr (p. 583)

Episodio 13:
Il compresso funerario del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 607)
Il tempio solare del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 695)

Episodio 14:
Il compresso funerario del re Ged-ka-ra Isesi in Saqqâra (p. 729)

Episodio 15:
Il compresso funerario del re Unas in Saqqâra (p. 767)

Episodio 16:
Il compresso funerario del re Teti in Saqqâra (p. 831)

Episodio 17:
Il compresso funerario del re Pepi II in Saqqâra (p. 873)

Annesso (p. 1013)

第1巻と第2巻とのページ数は極端に異なります。シリーズ番号の533と532との順番が入れ替わっているのも不思議なところで、事情は良く分かりません。
カラーを用いた分析図、またCGを用いた復原図が豊富に掲載されている点が注目され、現在はこのようにピラミッドの外形だけでなく、内部の諸室の寸法と位置がキュービットの完数とどのような関連を持つのかを探ることが主流。
この時、先行研究として重要なのがイタリア隊によるMaragioglio e Rinaldi 1963-1975の一連の実測図面集ですが、未刊の巻があるのはきわめて残念。
なお、同じようにピラミッドについての著作3巻本を近年出版しているManziniの著作については、改めて紹介したいと思います。

ピラミッドを造るために石材を切り出した石切場についての本は、昨年出ました。

Dietrich Klemm and Rosemarie Klemm,
The Stones of the Pyramids:
Provenance of the Building Stones of the Old Kingdom Pyramids of Egypt
(Berlin: Walter De Gruyter, 2010)
v, 167 p.

クレム夫妻による古代エジプトの石切り場に関する本は、Klemm and Klemm 2008 (revised ed. of 1993)にて紹介済みです。
夫婦による2番目の著作となった上記の新刊本では、著作者として旦那の名前の方を先に出しているようです。

2010年12月28日火曜日

Bryn 2010

「クフ王のピラミッドに関する建造の新解釈」というニュースが欧米を中心に出回ったのは、確か2010年9月下旬ですが、世界のエジプト学者たちが使っているメーリングリスト、Egyptologists' Electronic Forum (EEF)にてこの知らせが送られて来た時には、「本当は速報することもないんだけども」という但し書きがウェブマスターによって付されていました。

直後にはしかし、EEFではピエトロ・テスタから支持の返事が送られて来ており、こうした受け答えは重要となるかと思います。テスタは2009年に、ピラミッドに関する包括的な本の2巻目をイタリア語で出した建築家。第1巻目は薄いものの、第2巻目は1000ページを超えるという大著で、示されている内容は建築学的には非常に重要だと感じられます。
カラーページを豊富に交えたこの著作については、Testa 2009をご参照ください。同じテスタによる古王国時代の棺に関する設計方法の分析については、Testa 2010もあります。
さて、北欧から発信されたこの論文について。

Ole Jørgen Bryn,
"Retracing Khufu's Great Pyramid.
The "diamond matrix" and the number 7",
Nordic Journal of Architectural Research, Vol. 22, No. 1/2 (2010),
pp. 135-144.
http://www.ntnu.no/c/document_library/get_file?uuid=71763182-fed8-4727-bb58-b5d9e754d6de&groupId=10325

こうした学術論文が発表直後、無料にてネットでダウンロードできるというのはとても珍しい。通常はあり得ないこと。
すなわち反響を大いに期待しての、公開が優先された処置、というふうに解釈されます。

ピラミッドの構築で、頂上石、つまり最上位に置かれる「ピラミディオン」と呼ばれる四角錐の石塊をどのように頂上に置くのかが、ピラミッドの構築方法における最大のカギなのだと述べるくだりは、これまでも繰り返されてきました(cf. Clarke & Engelbach 1930; Houdin 2006)。
ここでもそれが記されています。建築に関わる者であったら、ごく自然な考え方です。

クフ王のピラミッドの断面計画について、キュービット王尺をまず第一に念頭に置いて分析し、階段ピラミッド状の内部構造を想定している点が注目されます。これに、平面における星形となる歪みを重ね合わせた点が新しいところ。
クフ王のピラミッド内に、階段ピラミッドのような断面を想定することにはしかし、大きな異論があると予想されます。これについては十全な論考が示されていません。
短い論文なので、仕方ない点ではありますが。

クフ王のピラミッドが、正確には四角錐ではなく、4つの三角形の各側面がわずかに凹んでいるという事実、つまり平面で言えば4つの先端を持つ星型であること(4芒星の平面;言い換えるなら、凹みが4箇所にある8角形)は、飛行機によって上空から写真が撮られた時に、初めて明らかとなりました。これは凹凸のある8面体のピラミッドとも呼ばれます。この形状の計画寸法を、平面図と断面図との両方において考察した論文。

平面と断面に同間隔の格子線を引いて、ピラミッド内における諸室の位置との整合性を探っており、こうした厳密性はこれまで探られたことがありませんでした。テスタはこうした姿勢を汲んで、賛成していると思われます。
黄金率や円周率に基づく解釈を排している点がきわめて明瞭。この点は強調されるべきです。

でもここにはまだ示されていない研究成果があると推測され、

http://www.sciencedaily.com/releases/2010/09/100924084615.htm

を見ると、他の小ピラミッドに対する分析図がうかがわれますので、この著者による、今後のさらなる発表が期待されます。
クフ王のピラミッドだけを扱った分析はいくらでもあるのですが、ピラミッド全部を包括しようとした考察は極端に少ないわけで、この論考がどこまで射程を有しているのかが、面白いところかと思われます。

一方、参考文献をどのように正しく挙げているのかを見る限り、貧弱な印象しか与えられません。
「そういうところで論文の内容を判断するのか」という反論がもちろん、寄せられるかと思われますけれども、ある程度はこれによって論文の質がうかがわれるのでは。
論文というのは、自分の意見を客観的に、既往の研究を正しく参照しながら綴る行為と思われていますが、この作業が反転して、「逆に読む」という方法が先行する場合も起こります。
この逆転をさらに逆手にとって、「引用すべき文献を並べるリストから始める」という論文の書き方もあるはずかと。
こうした微妙な方法の違いは、興味深く思われます。

2010年7月11日日曜日

Koltsida 2007


古代エジプトの住居に関する「渡辺篤史の建もの探訪」をやっている感じの研究書。BARシリーズの一冊です。British Archaeological ReportsBAR)には赤い表紙のInternational Seriesと青い表紙のBritish Seriesとの2種類があって、エジプト学の論考はもっぱら前者から刊行されています。
質の高い研究をとても安く供給するシリーズ。A4版のペーパーバックで、モノクロ印刷が基本です。国際学会の報告、博士論文や調査報告などの刊行が主に進められています。

すでにこのシリーズで2500タイトル以上が出版されており、そのすべてを揃えている図書館を日本国内で探すのは難しい。考古学関連書籍の収集に力を入れている早稻田大学でも全部持っていません。国士舘大学のイラク古代文化研究所、あるいは中近東文化センターの図書館などと併せて文献探索をおこなう必要があります。すぐに売り切れるので、新刊案内が届いた際には早く注文しなければならない、ちょっと面倒なシリーズ。
なお考古学関係では、他にBiblical Archaeology Reviewというものもあって、こちらも略称は同じBARなので注意が必要。

Aikaterini Koltsida,
Social Aspects of Ancient Egyptian Domestic Architecture.
British Archaeological Reports (BAR), International Series 1608
(Archaeopress, Oxford, 2007)
xv, 171 p., 88 plates.

社会学的な見地からの研究というのは近年の流行りです。20世紀の少なくとも前半までは、わざわざ本の題名に「社会的」なんていう言葉をことさらにつけたかどうか、記憶があまり定かではありません。歴史学に新風を巻き起こしたフランスのアナール派、また人類学の新たな展開など、近接分野の変化の影響が見られるのでは。

Contents:
Chapter 1: Sources of Evidence
Chapter 2: The Front Room
Chapter 3: The Living Room
Chapter 4: The Bedroom
Chapter 5: The Kitchen
Chapter 6: The Evidence for a Second Storey
Chapter 7: Discussion and Conclusions

残存する住居遺構の入口から、前室、居間、寝室、台所とくまなく回っていく様子が目次からも良く分かります。新王国時代後期のアマルナとディール・アル=マディーナが主として扱われますが、エジプトで資料が豊富な住居遺構と言ったらこれぐらいしかないので、仕方ありません。

第6章では、2階建て以上の日乾煉瓦造住居が王朝時代の都市部にあったか、それとも平屋建てしかなかったかが問われています。B. ケンプが投げかけた有名な問いかけ。大まかにはケンプ、またその弟子のスペンスの考えを追認する結果となっていますが、建築学の見地からは、また別の解釈が提唱できる余地を含んでいるかと思われます。

註が全部で軽く1000を超えますけれども、これはしかし、考察に該当するアマルナの住居番号をすべて書き出そうと無理をしたりするからで、見る方は苦痛です。
古代エジプトの住居研究には、でも欠かせぬ一冊。