最近、和歌浦の妹背山に残る平屋の木造家屋について共同執筆で書いたのですが、関連史料の探索を今も続けています(cf.
濱口 1919、
岡田 1909)。
西本直子・西本真一
「和歌浦『あしべ屋別荘』と夏目漱石」
武蔵野大学環境研究所紀要 第2号(2013)、武蔵野大学環境研究所
pp.77-93
http://issuu.com/naokonishimoto/docs/a_a_soseki
「あしべ屋」というのは当時非常に人気のあった料理旅館で、格式も高く、皇族が訪れた他、南方熊楠が孫文と再会を果たした場所もこの旅館。田山花袋が夜に偶然、この建物をちらっと見たという紀行文も発表されています。しかし夏目漱石が和歌山市へ来て講演をおこなった際、宿泊予定だった宿でもあって、こちらの方が有名(漱石の日記を参照)。この経緯に関しては、溝端佳則氏による多数の図版を交えた詳しい論考をお読みください(「和歌山県立文書館だより」第31号、平成23年7月)。
https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/kanko/tayori/tayori31.pdf
漱石が和歌山市を訪れた様子は多少かたちを変えながら、後期の代表的な長編小説「行人」に活写されました。漱石が和歌浦へ来た時期の旅館の宿泊料も分かっており、あしべ屋の宿代はこの地域において最も高額であったことが知られます。
「あしべ屋別荘」は、その中でも別格であったらしく、妹背山と呼ばれる小さな島に設けられ、静謐な雰囲気の中に建てられた平屋の宿でした。海水を沸かして入浴する「潮(汐)湯」の設備を謳っている広告が残っており、健康に良いと宣伝されています。当時の海水浴は娯楽と言うよりも、健康の維持や治療方法の一環として医学的な効能の喧伝が図られたようで、その様子を伝える以下の刊行本の引用が時折、なされています。
塩崎毛兵衛
「紀伊和歌浦図」
塩崎毛兵衛
明治26(1893)年
十二丁
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765544
一丁 和歌浦海水浴
二丁表 芦邊浦
二丁裏・三丁表 和歌浦全図
三丁裏 愛宕大権現ノ図
四丁表 秋葉大権現ノ図
四丁裏 五百羅漢寺ノ図
五丁表 東照宮ノ図
五丁裏・六丁表 旧四月十七日東照宮御祭禮
六丁裏 七丁表 (同)
七丁裏 南龍社ノ図
八丁表 天満宮ノ図
八丁裏・九丁表 出島濱及片男波ノ図
九丁裏 玉津島神社ノ図
十丁表 観海閣ノ図
十丁裏・十一丁表 芦辺屋ノ図
十一丁裏・十二丁表 芦辺屋ヨリ名草山望ノ図
十二丁裏(奥付)
塩崎毛兵衛の名を2回記しています。最初は執筆者、書名の後に続くのは発行者で、ここでは彼は両方の役割を果たしているため、こうなります。
墨版、薄墨版、肌色の版という合計3色がうかがわれますが、肌色の版は「旧四月十七日東照宮御祭禮」を示した合計4ページの見開きでしか見られません。4月17日というのは徳川家康の命日。
この小さな冊子はあしべ屋が出した旅館広告のパンフレットというべきもので、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている点は非常に便利です。国会図書館関西館に収蔵されている本をデジタル化したもの。しかしモノクロ表示ですし、解像度も高くないのが残念です。和歌山県立図書館も初版を1冊、収蔵しています。
問題なのは、明治26年の初版と明治29年の改訂版とがあることで、しかもこの点があまり知られていません。明治29年の改訂版には、あしべ屋の主人、
薮清一郎による二丁の広告「料理業蘆邉屋廣告」が巻末に付されていますけれど、実は初版にこの広告が足されている冊子も存在します。
初版と改訂版との大きな違いは、上記した各ページの表題の字体が異なること、「和歌浦全図」において幾らかの異同があること、また「芦辺屋ノ図」の左下で船渡しの賃金が具体的に記されているかどうかといった点にあります。奥付の構成も両者では異なっており、こうした違いが興味深い。
今、諸研究機関に所蔵されている全部の「紀伊和歌浦図」を閲覧しようとしているところですけれども、たぶん初版も改訂版もそれぞれ2種類ある、そういうことだと思います。
全面改訂版、あるいは続編ともいうべきものがあって、それが
塩崎毛兵衛「最新写真銅版 和歌の浦名所図」(明治42年)です。この冊子の冒頭の2ページの文章は「紀伊和歌浦図」の書き出し部分とほとんど一緒。ただ路面電車が当時開通したので、その利便性を付記しており、路線図もあわせて掲載しています。「最新写真銅版 和歌の浦名所図」の奥付には
薮清一郎の名が出てきません。でも影で糸を引いていたことは確からしく思われます。たくさんの写真がこの「和歌の浦名所図」では並びますが、最初の写真は旅館あしべ屋本館の全景です。
この頃、和歌浦は観光地として急激に変化を遂げ、それに伴って自在に広告の媒体を駆使し、さまざまな版が矢継ぎ早に出されたのではないでしょうか。小冊子だけではなく、一枚の大きな版に刷られた写真集や、絵はがきも併行して大量に印刷されたようです。絵はがきは組写真としてパノラマが工夫され、同時にバラバラにして使えるようにもなっています。ガラス原版から鶏卵紙に焼き付けたもの、コロタイプ印刷によるもの、さらにオフセット平板によるものへと移る印刷技術の変容に応じながら、観光業に携わる者たちは旅館と和歌浦の姿を発信し続けました。
江戸時代末期から明治・大正時代にかけてのマルチメディアの展開と活用の例を見る上でも、この動きは注目されます。後発であった旅館、たとえば望海楼とのメディア(広告媒体)の使い方の違いも面白い。
あしべ屋は大正時代の末期に旅館を廃業しますが、しかし後年の昭和4年にあしべ屋の経営主は坪内逍遥の作によるあしべ踊り・音頭なるものを発表しているようです。地域全体の活性化を願ったあしべ屋による一連の動向は今一度、見直されるべき時期なのかもしれません。