2014年3月26日水曜日

Narita 1990-1992 (Articles in Shihyo) / 成田 1990-1992(「史標」掲載論文)


日本工業大学の成田剛氏が授業中に倒れ、そのまま亡くなったという知らせが伝えられた後、ひと月があっという間に経ちました。
未だに信じられない思いが続いています。

カンボジア遺跡の修復事業を手がけたJSA日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地所長として彼がシェムリアプに長く赴任していた時期は、当方が同じくJSAの団員としてカンボジアに通った頃と重なっており、その際には細やかな便宜をたくさん図っていただきました。当節の感謝の言葉を伝える機会を永遠に失った意味を、改めて考えています。

成田剛氏とともに初めて海外の建築調査に出かけたのは、1984年の年末になされたインド・スリランカ建築調査で、黒河内宏昌氏が調査隊長を務めたこの時の建築調査がとても面白かったので、翌年にエジプト建築調査に誘われた時も参加することを決め、以後もエジプト建築調査を続行したという個人的な経緯があります。成田剛氏は、当方が建築調査を初めて体験した時の数少ない仲間のひとりでした。

史標 (Shihyo)」という小さな刊行誌の編集に僕は関わっていましたが、ここに成田剛氏がいくつかの論考を寄せています。

史標("Shihyo": ISSN 1345-0522)
http://www.linkclub.or.jp/~nishimot/Shihyo-J.html

当冊子に投稿された成田剛氏の論文をリストアップし、英語による書誌の案をここでは併記しました。
成田剛氏の業績を海外へ知らせることを念頭に置いていますけれども、ここに掲げた題名の英訳については当方が勝手に試訳したものですから、今後訂正すべき点が多々出てくるかと思います。あくまでも試案として提示しておきます。
Bruguier 1998-1999の著作に関しては以前、触れたことがありました。Bruguierにこのような情報をメールで知らせるべきかどうか。知らせた方が良いとは思いますが、添付すべきレジュメなど、手続きを考えると迷うところです。

成田氏が「史標」に投稿した論考のうち、カオ・プラ・ヴィハン(プレア・ヴィヘア / プレア・ヴィヒア [Preah Vihear])に触れたものは特に印象に残り、「その2」において何が書かれるはずであったのか、個人的には興味が惹かれます。
最後に投稿された論考のタイトルは「最近したこと考えたことから」でした。「史標」の創刊以降の連続投稿の努力と、その後に問題意識を拡げようとした格闘の様子が推察されます。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand: Rules for Asymmetry" (in Japanese),
Shihyo 1 (September 1, 1990), pp. 21-24.
成田 剛
「タイのクメール建築:アシンメトリーの法則」、
「史標」第1号(1990年9月9日)、pp. 21-24。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Laos: Reconnaissance Records for Three Days to Wat Phu" (in Japanese),
Shihyo 2 (December 12, 1990), pp. 23-28.
成田 剛
「ラオスのクメール建築:ワット・プーを訪ねた3泊2日の調査旅行記」、
「史標」第2号(1990年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 2: Prasat Mueang Sing, The Westernmost Khmer Monument" (in Japanese),
Shihyo 3 (March 3, 1991), pp. 27-30.
成田 剛
「タイのクメール建築 2:プラサート・ムアン・シン、最西端のクメール建築」、
「史標」第3号(1991年3月3日)、pp. 27-30。

NARITA, Tsuyoshi
"Temples and Shrines in Laos: Vientiane and Luang Phabang" (in Japanese),
Shihyo 4 (June 6, 1991), pp. 1-8.
成田 剛
「ラオスの社寺建築:ヴィエンチャンとルアン・パバーン」、
「史標」第4号(1991年6月6日)、pp. 1-8。

NARITA, Tsuyoshi
"The Pentagonal Monuments of Pagan" (in Japanese),
Shihyo 5 (September 9, 1991), pp. 19-26.
成田 剛
「The Pentagonal Monuments of Pagan」、
「史標」第5号(1991年9月9日)、pp. 19-26。

NARITA, Tsuyoshi
"Residential Architecture in Malaysia: Folk House Park, Mini Malaysia" (in Japanese),
Shihyo 6 (December 12, 1991), pp. 23-28.
成田 剛
「マレーシアの住宅建築:マレーシアの民家園、ミニ・マレーシア」、
「史標」第6号(1991年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 3: Khao Phra Viharn, Part 1" (in Japanese),
Shihyo 8 (June 6, 1992), pp. 23-26.
成田 剛
「タイのクメール建築 3:カオ・プラ・ヴィハン(その1)」、
「史標」第8号(1992年6月6日)、pp. 23-26。

NARITA, Tsuyoshi
"From the Recent Activity and thought" (in Japanese),
Shihyo 10 (December 12, 1992), pp. 5-8.
成田 剛
「最近したこと考えたことから」、
「史標」第10号(1992年12月12日)、pp. 5-8。

成田剛氏の命日となった2014年2月8日の土曜日、東京は記録的な大雪でした。その一週間前にはカンボジアのバプーオン遺跡の保存修復に力を尽くしていたPascal Royèreが病死したというメールの通知がフランス極東学院(EFEO)から届いたばかりでした。
以前、パスカル氏の現場に「一緒に行きましょう」と成田氏の御厚意により連れて行ってもらい、視察したこともあったのですけれども、その2人とも亡くなってしまいました。
クメール建築に関わった日本の専門家と言えば、長年にわたり研究を進められてきた片桐正夫先生が2012年に亡くなられ、またバンテアイ・クデイの建築に関し調査を続けられてフランス語で博士論文を執筆した荒樋久雄氏も2004年に命を落とされています。
JSAの現地所長を務めた桜田滋氏も2009年に急逝しました。JSA団員の小榑哲央氏が2002年、交通事故によって亡くなったことも記憶に強く残っています。
いつも元気であった成田剛氏が亡くなるとは、まったく思っていませんでした。

CiNii成田剛氏が執筆した学術論文はネットで検索できますが、実は他にも2000年以降に書かれた、公にされていないレポート類がたくさん存在するように思われます。それらにも陽の光が当たる機会があったらと願っています。これまで撮り貯めて来た遺跡の写真類をすべてデジタル化した、とも言っていました。
昔、「ガーリック・チップス」の2階で共に良く飲みました。当時は溌剌としたサッカー青年でもありましたっけ。
去年の7月26日の夜、成田氏と黒河内氏、当方の3人で飲みました。それが彼と会った最後の機会となりました。残念です。

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2015年2月8日、追悼文集が御両親の編集によって上梓されました。

成田十次郎・瑳智子
「東南アジア仏教遺跡の保存修復にかける ―追憶 成田剛―」
文教社、2015年、177 p. + XXVII

2013年5月4日土曜日

岡田 1909


「紀伊和歌浦明細新地図」も、経緯がよく分からない出版物です。多色刷(墨色、山吹色、淡藍色)の地図で、和歌山県立図書館の他、和歌山市立博物館などが初版を収蔵。

岡田久楠
「紀伊和歌浦明細新地図」
岡田久楠
明治42(1909)年11月
54×39 cm

和歌山市立博物館「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年、96 p. は額田雅裕・太田宏一・寺西貞弘各氏による労作で、貴重な図版が多数収められており、研究者必携の書。この本の52ページに図51として「紀伊和歌浦明細新地図」はカラーで掲載されています(解説文は90ページ)。「あしべ屋本店」の他に、「あしべ屋別荘」が2箇所に記されている点が重要(cf. 塩崎 1893濱口 1919)。
この地図は何としても個人的に入手したいと思い、願いは叶ったのですが、ただ「和歌浦、その景とうつりかわり」に載っているものとはいくらか違いが認められ、若干手直しがなされたものも初版として頒布されていたようです。

島津俊之
「経験とファンタジーのなかの和歌の浦:田山花袋『月夜の和歌の浦』を読む」
空間・社会・地理思想14(2011年)
pp. 41-67
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space14/14_41shimadu.pdf

の論文の最後にも、「紀伊和歌浦明細新地図」の部分拡大図は掲載されています。この「紀伊和歌浦明細新地図」は和歌山市立博物館に所蔵されているもの。和歌山市立博物館蔵の裏面には、「遊覧記念 和歌浦 明光台」という丸いスタンプが押印されているのが面白い。このエレベーターに乗り込んだ時の記念として地図は用いられたんでしょう。しかしこの初版には、明光台が描かれていないわけです。

明治43(1910)年7月には再版が出ているらしく、香川県立ミュージアムが鎌田家資料の中のひとつとして収蔵しています。その紹介写真を見ると、望海楼が立てた東洋一のエレベーター「明光台」が描き込まれているようです。このエレベーターの築造は明治43(1910)年ですから、ただちに地図の修正が施されたと推定されます。

香川県立ミュージアム所蔵「和歌浦明細新地図」、再版
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kanzouhinkensaku/index.php/rekishi/detail/500415

さて、岡田久楠はこの地図とは別の、変更を加えて題名を変えたものも後に刊行しました。これが

岡田久楠
「名所旅館案内和歌浦地図」
岡田久楠
明治45(1912)年6月

で、高低差はケバによってより細かく表現され、海深も等高線で示されるなど、「和歌浦明細新地図」の再版と全体の構成は酷似しているんですけれども、改変が施されています。多色刷ではなく、墨刷の版に旅館(赤色)や名所(青色)を手塗りによって簡単に彩色したもの。つまり、香川県立ミュージアムが持っている「紀伊和歌浦明細新地図」の再版ととても良く似ているのが特徴です。香川県立ミュージアム収蔵のものは、同様に墨版の単色刷りに赤色で手彩色が施されていると思われ、青色の手塗りはうかがわれない様子。
なお、

田中修司
「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」
日本建築学会計画系論文集第74巻第635号(2009年)
pp.291-97

の294ページと297ページで「紀伊和歌浦明細新地図」と「名所旅館案内和歌浦地図」が言及され、すでに両者の関連は簡単に指摘されています。なお、後者については日本古地図学会「古地図研究ニュース」第54号(2007年4月)の巻末に2枚に分けて掲載されており、p. 6には芳賀啓氏による解説も記されています。

この岡田久楠という人物はいったい何者かという話ですが、

金子郡平・高野隆之
「北海道人名辞書」第2版
北海道人名辞書編纂事務所
大正12(1923)年
660 p.+9 p.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734

の「札幌市を之部」、38-9ページに「旧姓は貴志。明治17年3月28日、和歌山県和歌山市小松通六丁目生まれ」の岡田久楠が掲載されています。明治42年は彼が20歳半ばの頃に相当しますけれど、北海道勤務ですから、普通なら和歌浦の詳しい地図を作ることはできなかったはず。しかし一方で、優秀な土木技師であったらしい彼の手にかかれば、こうした地図を短期間でこさえることは可能であったようにも思われます。

纏めますと、「紀伊和歌浦明細新地図」の初版には少なくとも2種類あること、「再版」と称する1年後の改訂版があり、そこには良くも悪くも評判となった「明光台」エレベーターの存在が反映されていること、さらには似た構成の「名所旅館案内和歌浦地図」が出されており、これが「紀伊和歌浦明細新地図」の第3版に相当するらしいこと、さらには著者の岡田久楠と同じ名を持つ和歌山市生まれの土木技師が北海道で同時代、活躍した記録が残っているが、関連性は今ひとつ確認できないこと、となります。
100年ほど前のことが、もう詳しく分からなくなっています。