リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずの
webcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。
カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf.
Gardiner 1935;、また
Gardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。
ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、
Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.
を著しました。これは
Gardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。
このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらは
Caminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー
J. Cerny (cf.
Cerny 1973、及び
Graffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン
H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに
"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)
とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。
Gardiner LEMや
Caminos LEMは、たとえば
Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)
などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。
Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.
Contents:
Preface (vii)
I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)
Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)
Additions and Corrections (p. 512)
Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)
屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、
「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」
が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写した
Gardiner LEM、また原訳は英語で書かれた
Caminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。
「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)
という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。
しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(
Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、
Aylward M. Blackman and
T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (
JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.
に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(
Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後の
M. Lichtheimによる
Ancient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。
あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例については
Hahn 2001と、
Wilson Jones 2000を参照。
別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。
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