ツタンカーメンの王墓の発掘の際に
ハワード・カーターを助け、出土遺物の保存修復に力を注いだ人物の伝記。
アーサー・メイスは「ツタンカーメン発掘記」全3巻本の発刊当時、カーターとの共著者でした(cf.
Carter [and Mace] 1923-1933、また
Mace and Winlock 1916)。
メイスはエジプト学の創始者である
フリンダース・ピートリ(
Petrie 1892;
Petrie 1894;
Petrie 1897)と遠縁の従兄弟という関係があって、それ故に1897年、ピートリの助手としてエジプトへ初めて出かけます。この頃はピートリがデンデラやアマルナで調査をする時期に相当しますから、大きな現場を次々にこなしていくことを強いられたと思われます。
最初は何も分からず、おたおたしていたらしいのですが、次第に実地でピートリ流の発掘方法を覚え、その後に
G. A. ライスナーの手助けやメトロポリタン美術館のスタッフに加わるなどの活躍を見せ、ピートリのやり方がアメリカに伝わっていくわけです。
それにしても、ピートリの現場はかなり過酷であったらしい。調査中の粗食と空腹感に耐えることができなかったエピソードが伝えられています。
Christopher C. Lee,
...the grand piano came by camel:
Arthur C. Mace, the neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing: Edinburgh and London, 1992)
160 p.
Contents:
Preface (p. 11)
Foreword by
Marsha Hill (p. 13)
Chapter One: A Country Childhood (p. 15)
Chapter Two: With 'the great man' (p. 31)
Chapter Three: 'The ideal excavator' (p. 57)
Chapter Four: 'It takes one's breath away' (p. 81)
Chapter Five: 'A beautiful wonderful party...' (p. 113)
Chapter Six: After Tutankhamun (p. 137)
References (p. 151)
Bibliography and Sources (p. 157)
Index (p. 159)
メトロポリタン美術館(MMA)の
マーシャ・ヒルが前書きを書いており、メイスがMMAにていかに重要な存在であったかを簡潔に記しています。「メイスの仕事はさまざまな人に今、受け継がれています」と書いていて、
"Only today can we foresee that Mace's archaeological work will be completed - the Lisht North cemetery by Janine Bourriau, the pyramid itself by Dieter Arnold, and the village by Felix Arnold."
(p. 13)
と分担者の実名が出ている箇所があります。
フェリックス・アーノルドの名をこの本の中で見るとは思いませんでした。彼は1990年に
Control Notes and Team Marksを出版しており、この時20歳ぐらいであったように覚えています。
ピリオドの連続で始まる本のタイトルは稀有であり、また全部が小文字という記法も珍しい。こういうものを引用する際は、書誌の表現に迷います。アカデミックな本の題とは異なり、小さい私的な呟き(この場合にはメイスの長女による呟き)をそのまま題にしたかった、という意図なのでしょう。
「...グランドピアノを駱駝が運んできた」という変わった本の題は、一枚の写真から着想されており、それは本のカバーの裏表紙の他、62ページにも印刷されています。メイスの奥さんの持ち物であったベヒシュタインのグランドピアノを、1900年台の初頭にリシュトの調査宿舎まで駱駝で運んだという逸話があり、それを写した昔の写真を見てメイスの娘が懐かしく語り始める、という本の構成。
メイスはリシュトの発掘に長く携わった人間でした。厳しい環境下にある発掘現場に奥さんを同行し、また彼女の大きな所有物も構わず持ち込むという、今では考えられない調査方法を知ることができます。
この本はだから、メイスの長女がどう生きたのかを示すものでもあります。最後に彼女の写真が大きく掲載されているのはその証拠。
イギリスの片田舎で見つかったメイスの手紙と日記、また草稿などをもとにして展覧会が開かれ、その直後にまとめられた本。ほとんど同じ題でもっとページ数が少ない刊行物が1992年よりも前に出されていますが、この本は決定版という位置づけです。
アーサー・メイスの長女による父親像が多分に反映されていて、伝記といってもこの近親者からの聞き取りに負う部分が大きく、歪みが見られます。本の題名の"neglected"「無視された」というのは非常に強い言い方ですが、メイスの肉親にとってはそう思えるのでしょう。ハワード・カーターのみが注目されている、というように。それは世の中の人間のほとんどが抱くであろう、「無視されたまま」人生を終わるのではという不満を間接的に指し示しているのかもしれません。
本当はエジプト学をやりたかったんだけれども、
F. Ll. グリフィスと会った際の試問で、メイスの長女はこの夢を断念したようです。「拒まれる」ことに遭遇したたくさんの人々が、失望にどのように対処するのか、それがこの本に通底する隠れた広いモティーフと言えないこともない。
そうした視点から見れば深く示唆されるところが多く、ツタンカーメン関連の撮影で高名な写真家
ハリー・バートンの奥さんがいかにひどくて悪評ばかりであったことや、メイスがカーターに対して「こいつ、何も分かっていないのに人々の前で講演なんてできるのか」と思ったことを手紙に残している下り、またテーベの大規模な発掘だけを進めたがるメトロポリタン美術館の同僚の
H. E. ウィンロックとの立場の違いなどがあられもなく記されていますけれども、そうした誰の間にでも生じる些細なすれ違いは時代を経て洗い流され、エジプト学にどのような貢献があったかという公平な評価だけが今は残されていることを改めて感じます。
エジプト学の大御所や有名人が次々に出てくるので、事情を知っている人には面白いはず。
メイスが結婚前に「エジプト学者などと一緒になるのか?」と相手側の両親から疑問が向けられていたこと、メイスの奥さんが完全主義で、どうやら連れて行った発掘現場でもいろいろな揉め事があったらしいこと、生まれた次女がダウン症であったこと、メイス自身が頑強な身体ではなかったこと。
これらに追い打ちをかけて「自分は使われる一方ではないのか」という疑念。これからの生活は一体どうなるのかという健康上あるいは経済上の不安を抱えながら仕事に赴くメイスの姿が活写されており、別の普遍的な問題が浮彫にされているようにも思えます。
メイスに関する最近の紹介は、以下を参照。続編を読むのが楽しみです。
http://www.egyptological.com/2012/05/arthur-cruttenden-mace-taking-his-rightful-place-8940
ハワード・カーターの醜聞については、邦訳されている
トマス・ホーヴィング著、
屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」がすでに知られています。版を重ねている著作。
リーの本が出た同じ1992年には
ハワード・カーターの伝記が発表されており、今ではこちらも改訂版も出ています。亡くなってしまった大英博物館の重鎮、
T. G. H. ジェームズの主著書のひとつ。彼は
A. H. ガーディナーの伝記を晩年に執筆中であったと伝えられていますが、出版されないのは残念。
Thomas Garnet Henry James,
Howard Carter: The Path to Tutankhamun
(Kegan Paul International: London and New York, 1992)
xv, 443 p.
大学者ピートリの伝記は1985年に刊行されています。
Margaret S. Drower,
Flinders Petrie: A Life in Archaeology
(Victor Gollancz: London, 1985)
xxii, 500 p.
上記の2冊については、専門誌に書評が寄せられているはずです。
さてピートリとともに歩み、「魔女の研究」で注目を浴びた
マーガレット・マレーの自伝も、度肝を抜く面白い題名を持ち、良く知られています。
Margaret Murray,
My First Hundred Years
(William Kimber: London, 1963. 2nd ed.)
208 p.
自伝につけられた「私の最初の百年」という題は、長生きしたこの研究者の業績にふさわしい。彼女は次の百年以降も、変わりなく生き続けるつもりだったんでしょう。恐るべき存在。マレーこそ正真正銘の「魔女」であったことが分かります。
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