太田博太郎・飯田喜四郎・鈴木成文、
「住宅」、
『世界大百科事典』第11巻
(平凡社、1966年)
pp. 28-40.
が以下の文を記しています。
御存知の通り、各々の先生方は建築学の各分野において、きわめて有名な専門家。
疑う方は、ネットを駆使してみてください。
「住宅は人間生活をいれる容器とも考えられる。あらゆる建築は程度の差はあれ人間の住に対する要求を実現するためにつくられたものではあるが、そのなかでも最も直接的・基本的な要求にこたえるものが住宅であるとも考えられ、とくに家族生活のいとなまれるものをさすことが多い。原始時代における建築の種類は住宅だけで、人間生活は戸外労働等をのぞいてすべて住宅内で行われた。しかし、時代が進み生活が複雑になるにつれて、しだいに各種の用途をもった建築が現われてくる。これを住宅の側からみれば、戸内における人間の生活全部をいれる容器であった住宅から、いろいろの機能が外に分化していったとみることができる。たとえば、古代における倉庫・宗教建築、近世における学校・娯楽機関・旅館、近代における工場・公共建築などの発生がそれである。(中略)こうして住宅の目的は家族の日常生活のためだけにとどまるようになり、その主たる機能は家族の休養にあるということができる。住宅の機能は、このように、そこに住む人の属する土地・社会・時代によって異なっているから、その形態も各人の生活に応じてさまざまな形をとる。しかしまた、逆に現実の住宅の形が、そこに住む人の生活を空間的に強く規制していることも考えなければならない。」(p. 28)
ここでは約10000年の建築史の流れを十数行で描きあらわしていて、非常に見事。
最初、建築は住居だけしかなくて、時代が降るにつれ、死人のための住居である墳墓、また神のための家である神殿などが造形されたという過程を鮮やかに示しています。
19世紀における構造力学の急速な発展も、あるいは「何でも建てられる」というような近年の構造に関するめざましい展開も、ここでは単に、この「機能の外化」を多種多様に促す働きを担うに過ぎないとみなされます。かたちを捨象した極限の考え方。
一室の空間からなっていた原初の建築が、時代とともに部屋数を増し、無数のヴァリエーションを生み出したという図式が明らか。
「外へ分化した」という言い方が秀逸。
近代に至って、住宅が「安らぎ」を目的とする場となり、ここだけが唯一、人間が自分自身を取り戻せる場所へと変貌した経緯もまた示唆されています。自宅から毎朝、働きに出かけるのはいやいやの行為で、家の外で労働力を売り、へとへとになって帰宅し、ようやく自分を取り戻すという構図。
機能の分化が極端にまで進み、住宅には残された「安らぎ」だけが割り当てられている状況です。
現代の都市部ではさらに多様化を極めており、すでに住宅に関する単一の像は薄らぎ始めていて、外食産業の興隆により、家での食事はもちろんのこと、マンガ喫茶がありますから就寝もとっくのとうに「外化」されており、今の世で住宅に残されている特別な機能というのは、一体何なのか、誰も答えられないような有様。
というか、思いつく住宅固有の機能というものがすぐさま、次々と商業化され、外化されていくわけで、こういう世界では新たな住宅を創造しようと試みる建築家は必然的に劣勢の側へと立たされることになります。
けれどもこれは、今までの経緯をゆっくり振り返ってみる良い機会でもあり、100年前の近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトが何を本当に果たしたのかなど、考察する時間を得たとみなすべき。
同じ百科事典では、高名な考古学者が「住宅」と「住居」との違いについて述べています。これも吟味しながら読むべき記述。
八幡一郎、
「住居」、
『世界大百科事典』第10巻
(平凡社、1965年)
pp. 755-758.
「<住所>が住む場所を、<住宅>が住むための建物をさすのに対して、<住居>という語には一定の土地に定住して生活を営むための構え方が総合的に含まれている。すなわち、住宅とこれをとりまく庭および住宅内部の家具・器物・装飾品なども含まれる。
人間が一定の土地に生活を営む方式が決定づけられるのは、食物を得るための生産関係、家族および社会の中における人間関係、地形・気候などの自然関係とのからみ合いからである。人間関係としては、休息や睡眠を安静にとる願い、所有している財貨を安全に保持する願いなどがあり、自然関係としては、風雨・寒暑を防ぎ、水や食物をうるのに容易な場所を求める願いなどがある。」(p. 755)
独立して存在するかのようにうかがわれる家と、それを取り巻く諸環境を含めての家という存在にまなざしを送る場合とは、見方が違うのだという判断。
「外へ分化した」という言い方が秀逸。
近代に至って、住宅が「安らぎ」を目的とする場となり、ここだけが唯一、人間が自分自身を取り戻せる場所へと変貌した経緯もまた示唆されています。自宅から毎朝、働きに出かけるのはいやいやの行為で、家の外で労働力を売り、へとへとになって帰宅し、ようやく自分を取り戻すという構図。
機能の分化が極端にまで進み、住宅には残された「安らぎ」だけが割り当てられている状況です。
現代の都市部ではさらに多様化を極めており、すでに住宅に関する単一の像は薄らぎ始めていて、外食産業の興隆により、家での食事はもちろんのこと、マンガ喫茶がありますから就寝もとっくのとうに「外化」されており、今の世で住宅に残されている特別な機能というのは、一体何なのか、誰も答えられないような有様。
というか、思いつく住宅固有の機能というものがすぐさま、次々と商業化され、外化されていくわけで、こういう世界では新たな住宅を創造しようと試みる建築家は必然的に劣勢の側へと立たされることになります。
けれどもこれは、今までの経緯をゆっくり振り返ってみる良い機会でもあり、100年前の近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトが何を本当に果たしたのかなど、考察する時間を得たとみなすべき。
同じ百科事典では、高名な考古学者が「住宅」と「住居」との違いについて述べています。これも吟味しながら読むべき記述。
八幡一郎、
「住居」、
『世界大百科事典』第10巻
(平凡社、1965年)
pp. 755-758.
「<住所>が住む場所を、<住宅>が住むための建物をさすのに対して、<住居>という語には一定の土地に定住して生活を営むための構え方が総合的に含まれている。すなわち、住宅とこれをとりまく庭および住宅内部の家具・器物・装飾品なども含まれる。
人間が一定の土地に生活を営む方式が決定づけられるのは、食物を得るための生産関係、家族および社会の中における人間関係、地形・気候などの自然関係とのからみ合いからである。人間関係としては、休息や睡眠を安静にとる願い、所有している財貨を安全に保持する願いなどがあり、自然関係としては、風雨・寒暑を防ぎ、水や食物をうるのに容易な場所を求める願いなどがある。」(p. 755)
独立して存在するかのようにうかがわれる家と、それを取り巻く諸環境を含めての家という存在にまなざしを送る場合とは、見方が違うのだという判断。
0 件のコメント:
コメントを投稿