前にも触れたように、アマルナ王宮とマルカタ王宮はほとんど同じ時期に発見されましたが、以後の経緯は大きく異なります。アマルナ王宮では楔形文字が記された粘土板(アマルナ文書)が偶然に見つかり、これらの中にアクエンアテンの名前を読み取ったウォーリス・バッジはすぐさま粘土板を購入してイギリス本国へ伝えました。これによってF. ピートリの調査隊が組織され、発掘が迅速に開始されます。
一方、マルカタの場合にはフランスのダレッシーがごく一部分、調査しましたけれども、短いその報告は遅れて数年後となりました。裕福なアメリカ人青年タイトゥスによる短期間の発掘を挟み、その後はメトロポリタン美術館が10年間、発掘をおこないます。第一次世界大戦のただ中であったということもあり、結局、最終報告書は出版されていません。
この報告書も、ワイン壺に関して述べるだけのものです。1970年代のこの調査については、他にLeahy 1978があるのみ。
この調査報告書のシリーズの広告で、少なくとも6冊が出版されるであろうと推測される文面が裏表紙に印刷されたため、後年、誤解を受けることになりました。そのうちの4冊については執筆者と題名、及び出版年を記していますから、すでにそれらは全部刊行されたであろうというように、専門家の中でも誤解している人がいます。
Colin Hope,
Jar Sealings and Amphorae.
Egyptology Today, No. 2;
Malkata and the Birket Habu, Vol. 5
(Aris & Phillips, Warminster, 1978)
vi, 80 p.
ワインを入れて保存するために、壺の口には植物で編んだ丸い蓋を置いて塞ぎ、さらに泥がその上に厚く盛られて保護されます。これを「ジャー・シーリング」と言っているわけで、専門用語。
「アンフォラ」という言葉も特別な用語で、用途によってさまざまな器が作られますが、それらには各々、別の名前がつけられていました。ここでは両側にふたつの取っ手を持つ首長の、また底が尖っている壺を指します。
Amphoraの複数形が-sではなく-eであるのは、ラテン語の女性形であるためです。石碑という意味のstela; stelaeと同じ。エジプト学では、他にもostracon、graffito、naos、necropolis、sarcophagusといった、複数形が通常の英語のようにsをつければいいわけではない言葉が良く用いられます。面倒ですが、慣れが必要です。
泥のタイプを6種類に分けたりと、考察は厳密です。しかし、ここまで細かく分けるのはしんどいという気がしなくもない。
再利用の可能性を探ったり、あるいは付章で墓の壁画で見られるジャー・シーリングの例を列挙したりしているのは、書き手の能力の高さを示しています。外国からもたらされたと思われる要素を最後に挙げているのも重要。
つまりマルカタ王宮の研究で、どのようなことが注意されているのかがこれで分かります。長く続いたエジプト文明において最大の版図を築いたアメンヘテプ3世の時代、シリアやパレスティナ、あるいはミケーネといった諸外国と、どのような交流があったのかを念頭に置いており、きわめて限られた情報をもとにして、どこまで言うことができるかを模索しています。
著者は新王国時代の土器研究に関しては知られた人。でもマルカタで新しく出土したものは小さな破片ばかりなので、器自体の分析ができるわけではありません。本来の活躍が充分できない場で、可能な限りの考察を巡らせたいと工夫し、書かれた書です。
安く出版するために全ページが完全版下で用意されており、大きな労力が強いられたであろうと想像される一冊。
0 件のコメント:
コメントを投稿