2009年2月9日月曜日

Leahy 1978


マルカタ王宮の詳細な研究には必見の書。
「遺物を飛行機のトランジットでなくしちゃった」と1ページ目には記され、脱力系の報告書でもあります。巻末の対応表を見ると、20片以上なくしてしまったらしい。
王宮の再発掘に伴って出土した文字資料の報告書です。

M. A. Leahy,
The Inscriptions.
Exacavations at Malkata and the Birket Habu 1971-1974.
Egyptology Today, No. 2, Vol. IV
(Aris & Phillips Ltd., Warminster, 1978)
vi, 63 pp., 24 pls.

マルカタ王宮都市がDaressyによって最初に調査されたのは19世紀末で、ほとんどアマルナ王宮の最初の調査と同時期ですが、年報のASAEでその報告がなされたのは遅れて1903年のこと。この年、アメリカの裕福な青年Tytusによって、マルカタの再調査仮報告書も出版されています。

因みにTytusによる調査の時のエジプト側の視察官は、後にツタンカーメン王墓の大発見で世界的な著名人となるハワード・カーターで、「たいして重要なものは出土していない」ということを短く数行だけ、ぶっきらぼうに同じく1903年のASAEにて報告しており、両者の間で何か諍いがあったのかもしれません。
マルカタ王宮とツタンカーメン王墓との繋がりは約20年後にもあり、ふたつの遺跡の記録撮影は同じ写真家、メトロポリタン美術館のH. バートンがおこなっています。

1910年頃からメトロポリタン美術館による本格的な発掘がなされましたが、第一次世界大戦を挟み、1920年頃まで続くものの、正式な報告書が刊行されず、次いでペンシルヴェニア大学付属博物館による調査が1971年から1974年までおこなわれました。
メトロポリタン美術館による発掘で得られた文字資料の報告はHayesによって1950年代に発表され、この論文が現在のマルカタ王宮に関する位置づけに関し、最も大きな影響力を持っています。
反対の側から見るならば、考古学的資料は今でもほとんど詳しく発表されていません。

ペンシルヴェニア大学付属博物館による発掘隊の隊長は2人いて、D. オコーナーとB. ケンプです。
少なくとも6冊の発掘報告書が刊行予定でしたが、このうちの2冊のみが出版されただけに終わっており、今後、残りがどのように報告されるのかは不明です。

この報告書の重要性はしかし、"Site K"と呼ばれる発掘場所からもたらされた文字資料の報告がおこなわれたという点に尽きると思います。
建築学から見るならば、煉瓦スタンプの報告も重要で、主王宮と同じ型が発見されていることが見逃せません。マルカタ王宮の初期に属する建築がどこかに建てられて、それがすぐに解体され、"Site K"に捨てられたということです。
同時に、セド祭(王位更新祭)の29年あるいは30年の文字資料が複数出土していることが注目されます。早稲田隊が発見した「魚の丘」建築とどう関わるのか。こうした問題を検討する時には、本書を外すことができません。

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