展覧会はサンフランシスコ美術館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館(以下、MMA)、フォートワース・キンベル美術館の3箇所にて開催されました。いずれもアメリカ国内です。
ルイス・カーンの設計によるキンベル美術館は、建築の分野では非常によく知られた建物で、おそらくは米国の美術館における最高傑作10作品の中に入る名作とみなされますが、ここでは触れません。
Edited by Catharine H. Roehrig,
with Renee Dreyfus and Cathleen A. Keller,
Hatshepsut: From Queen to Pharaoh
(The Metropolitan Museum of Art (MMA), New York, 2005)
xv, 339 p.
キャサリン・レーリグが単名の編集者として前面に推し出されていることにまず気づきます。MMAのアーノルド夫妻ももちろん執筆陣に加わっていますが、表には出てきていません。
ハトシェプスト女王の記念神殿、通称「ディール・アル=バフリー(デル・エル=バハリ)」はイギリス隊の他、MMAもまた長年発掘をおこなった場所で、アーノルドも近くで再調査をしていますから、資料としては充分所蔵しているはずです。ですがそれにとどまらずに、できるだけ話題を膨らまそうとしている意図が興味深い点。
例えばトトメス3世の増築神殿を調べたハンガリー隊の人にも執筆させたり、「エジプトとエーゲ」という題でM. ビータックに書かせたりしているのは、その努力のあらわれかと感じられます。
バフリーの壁画では当時のエジプト国外の情報が間接的に描写されていますから、"Egypt's Contacts with Neighboring Cultures"という項目が設けられているのは分かりやすい。
「エジプトとヌビア」の章はイギリスのヴィヴィアン・デーヴィスが執筆しており、この人は博覧強記で知られている人で、”Egypt and Africa"も出していました(Davies (ed.) 1991)。
一方、「エジプトと近東」と名付けられた章では、MMAのリリーキストが書いています。古代エジプトにおける「鏡」の専門家として知られている人ですが、かなりの高齢であるはずにも関わらず、健在ぶりを誇示。
リリーキストの近著は、
Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.
で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
257-259ページで紹介されている大英博物館収蔵の寝台の断片については、P. ラコヴァラがJSSEA 33 (2006), pp. 125-128にて文を寄せています。これは永らくハトシェプストの玉座と考えられてきたものですが、今日ではケルマの特徴的な寝台との関連性が指摘されています。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。
ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。
リリーキストの近著は、
Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.
で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
しかし文字読みの専門家ということであるならば、今は職場を移ったけれど、MMAにはJ. P. アレンがいたじゃあないか、何で他国の人に依頼する必要があったのかという素朴で陰鬱な疑問が、まったくの部外者の見方からは生じたりもするところ。
ハトシェプスト女王に仕えた建築家センムトについてはドーマンが記しています。彼の専門領域。すでに2冊を単著で出版しています。
Peter F. Dorman,
The Monument of Senenmut:
Problems in Historical Methodology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London and New York, 1988)
xvi, 248 p., 22 plates.
Peter F. Dorman,
The Tombs of Senenmut:
The Architecture and Decoration of Tombs 71 and 353.
Publications of the Metropolitan Museum of Art,
Egyptian Expedition Vol. XXIV
(MMA, New York, 1991)
181 p., 96 plates.
計測のためのロープの束を抱えているセンムトの彫刻像をカラーで紹介しているのは、建築学的には注目される点。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。
ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。
ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
残念なことに図版はすべてモノクロですが、数々の家具を写真で紹介しつつ、Figs. 1, 2ではそこに記された文字列を報告しています。
P. Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.
他にアメリカの研究者も、違ったアプローチから考えてペルパウトはアメ3時代の人間であったろうと判断しており、これは面白い結論。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。
ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。
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