2010年7月4日日曜日

Kemp and O'Connor 1974


水中考古学の専門誌に掲載された、アメンヘテプ3世のマルカタ王宮調査に関する重要な調査報告。マルカタ王宮に関する報告の数は、それほど多くはありません。アクエンアテン(アケナテン)によるアマルナ王宮とは大きく異なる点となります。

アマルナ王宮調査は最初にピートリが手がけ、その後にドイツ隊も居住区を発掘し、イギリス隊が引き継いで大規模な調査をしていますから、報告書の冊数はかなりのものとなります。
一方、マルカタ王宮の場合はダレッシー、及びタイトゥスによる報告の後、メトロポリタン美術館による1910〜1920年の調査の短報が続き、JNESに掲載された1950年代の報告のあと、次いで1970年前半におけるアメリカ隊の調査がなされますが、そのアメリカ隊による概報がこの論文。
他にはペンシルヴァニア大学博物館の紀要にもオコーナーによって書かれましたけれども、僅か2ページの内容で、あまり参考にはなりません。

従って、マルカタ王宮の既往研究のうち、第一次資料を知ろうとした場合には、ダレッシーのフランス語を6ページ、タイトゥスの英語を20ページほど、メトロポリタン美術館による短報、それから1950年代に執筆された出土文字資料の分析をおこなったJNESの英語報告を60ページほど、それにこの文を読めば、だいたい足りることになるかと思います。
最近、アメリカの連中たちによって設けられたマルカタ王宮に関するサイト、

iMalqata
http://imalqata.wordpress.com/

の"Reports"のページでは現在、上記のだいたいが「不法に」PDFファイルにて一般に公開されており、ダウンロードすることができます(!)。
こういうこと、本当にやってもいいんですか。JSTORからダウンロードしたファイルをそのまま一般公開するなど、とっても大胆。

マルカタについては、ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズに載せられたスミスの文章(Smith 1998 (3rd ed.))も見る必要があるかもしれませんが、これもそんなに長くありません。
エジプト学において王宮はそれほど研究は進んでなくて、というよりも、古代中近東の王宮・宮殿の研究というのは穴ばかりなのであって、その点は今まで指摘してきた通り。
「王宮」と呼ばれるものも、"religious palace"か、それとも"residential palace"なのかがずっと論議されてきている、なあんていうことを初めて知る方は多いはず。で、古代中近東において、"residential palace"と仮に呼ばれているものは、実は残っていないに等しいのです。
先日、西アジア考古学会に出席し、講演にてシュメールにおける宮殿建築の新たな解釈について興味深く拝聴させていただきましたけれども、半ば予想されたことかとも思われました。ここでは、Hitchcock 2000にてうかがわれた問題提起を再度、思い起こすべき。
すでに、Hägg and Marinatos (eds.) 1987, The Functions of Minoan Palacesでも同様のモティーフは指摘されていました。王が実際に居住した痕跡というのは、どの遺構でも考古学的にはほとんど検出できていない状況であるはずです。

Barry Kemp and David O'Connor,
"An Ancient Nile Harbour: University Museum Excavations at the 'Birket Habu'",
in The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration (1974), 3:1,
pp. 101-136, 182.

この雑誌名は今では、International Journal of Nautical Archaeology (IJNA)というふうに、短く縮められたようです。
全体はふたつに分かれ、最初にオコーナーが7ページ、交通路として使われたナイル川の重要性とナイルの港湾施設について述べています。これを引き継ぎ、ケンプが調査の目的とその成果を記すという構成です。

マルカタ王宮の中心地はメトロポリタン美術館によってほぼ完掘がなされていますから、それより対象を広げ、特に人工的に造られた近傍の湖「ビルケット・ハブ」に焦点が当てられた調査。
エジプト人は湖を造営するために矩形をなす湖の輪郭に沿って、掘削した土砂を捨て、山が連なるかたちに仕上げました。これは景観を考慮しているのではないか、また土砂の運搬経路を勘案した結果ではないかと書いている点などに、ケンプの才覚が感じられます。世界最初のランドアートではないかとも述べており、人工湖の用途としては日乾煉瓦のための採掘地・祭祀施設・娯楽施設と、3つ挙げています。

サイトKと呼ばれる場所はその小山の一角に当たり、ここから彩画片と煉瓦スタンプ、「セド祭のためのワイン」と記された土器片が見つかっています。セド祭のための小建築が壊されて、ここに廃棄されたと考えられており、非常に重要な発見。それまで同じセド祭のための施設であったと思われてきた「魚の丘」建築を、ではどう考えるかという疑問に繋がります。
サイトKで見つかった建物の残骸は、もしかしたら「魚の丘」建築のものではないかという話は、未だ突き詰められていません。煉瓦スタンプから考えて、別のものだという感触が与えられますが、しかし双方の彩画片は未だ詳しく比較されていない状況にあります。
なお、サイトKから出土した彩画片の特徴については、すでにギリシアの研究家が英語とギリシア語で短く発表済み。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。マルカタではそれがまだうまく整理されていません。その点が興味深いところです。
このページでは、マルカタ王宮については結構多く触れてきました。
「マルカタ」、「Malkata」、「Malqata」などを検索していただければ。

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