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2009年10月8日木曜日

Stadelmann 1991 (2., überarb. und erw. Aufl.)


ピラミッドの通史についてエジプト学者が本腰を入れて書いた専門的な刊行物。現在、関連する研究論文においては、もっとも引用される回数が多い本かと思われます。
初版は1985年で、第2版が出回っています。

Rainer Stadelmann,
Die ägyptischen Pyramiden vom Ziegelbau zum Weltwunder.
Kulturgeschichte der antiken Welt, Band 30
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991.
2., überarbeitete und erweiterte Auflage)
313 p.

ピラミッドに関して、おそらく一般の人が読む機会が多いのは、

Mark Lehner,
The Complete Pyramids
(Thames and Hudson, London, 1997)
256 p.

で、これは下記のように和訳も出ており、

マーク・レーナー著、内田杉彦訳、
「図説 ピラミッド大百科」
(東洋書林、2000年)
256 p.

広く馴染みがあるだろうと推測されますが、著者のレーナーは格別、ピラミッドの歴史全体についてこれまで注目される論文を書いている研究者であるわけでもなく、彼が発表している論考の内容はだいたい、自身が関わっているギザにおける調査区域の成果の記述から一歩も出るものではありません。
ピラミッドの通史については画期的な内容を含んでいないことを勘案すべき。建築学的観点からは、これは言わば、カタログに該当します。

Mark Lehner,
"The Tomb Survey",
in Geoffrey T. Martin,
The Royal Tomb at el-'Amarna II.
Archaeological Survey of Egypt (ASE) 35
(EES, London, 1989)
pp. 5-9.

では、アマルナに残るアクエンアテンの墓の断面において、黄金比に従った計画が推測されると記しており、その見方をC. ロッシ(Rossi 2004)によって根本的に手厳しく批判されています。あんまり建築学的な素養がない人だと言うことが、これだけでうかがわれます。

ピラミッド全体を見渡そうとした本で、専門家が書いたものとしてはまず、大御所のJean Philippe Lauerの執筆した書が掲げられますけれども、ロエールの著作に関しては、現在ではかなりの訂正が必要。
ネチェリケト王によるサッカーラの最初のピラミッド(階段ピラミッド)の調査と復原に長く携わった建築家でしたが、彼の論考が今後、どのように評価されるかは注目すべきです。

年代順としては、次いでエドワーズの本、

I. E. S. Edwards,
The Pyramids of Egypt
(Viking Penguin Inc., New York, 1986, revised edition. First published in 1947)
xxii, 328 p.

が挙げられるかと思います。この本は多くの読者を獲得しました。和訳もやはり刊行されています。
近年に刊行されたヴェルナーによるピラミッドの本も和訳されていて、これはいろいろな逸話も交えており、面白い本です。チェコスロヴァキアの研究者で、もちろんエジプト学におけるチェコの立場を高めようと目論まれた書。

Miroslav Verner,
Deutsch von Kathrin Liedtke,
Die Pyramiden
(Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1998. Die tschechische Originalausgabe erschien 1997 unter dem Titel bei Academia Prag)
540 p.

Kurt MendelssohnによるThe Riddle of Pyramids (London, 1974)を含め、日本語でこれらの主要な書が逐一翻訳されている点は、活用されるべき。

シュタデルマンによるこの本の評価は、これからです。
中王国時代の、テーベにおけるメンチュヘテプの神殿の新たな復原は、かなりの程度、喧伝されました。ウィンロックによるピラミッドを載せた復原案がこれまで知られていましたが、文献学上の記述を重視したこの案に対し、建築家ディーター・アーノルドがこれに異を唱え、史料として残る建物の記述の方法にはピラミッドのかたちの文字を決定詞として記す例が他にあることを示し、構造的な見地からも、上部にはピラミッドがなかったはずだと判断しています。
これを受け、シュタデルマンは「原初の丘」を思わせる盛り土と、その上に生えた木々の姿を見せる復原案を発表。復原を巡る可能性の掛け金が外されたのであれば、それをもっとも遠くにまで引き延ばした場合にはどうなるのかという提案です。
こういうところにシュタデルマンの本領があらわれるように思われます。

古代エジプトの王宮についても数多く発言しており、思い切ったことも書く人です。
ピラミッドを調べようと志したら、必ず突き当たる重要な本。

2009年10月5日月曜日

Smith 1998 (3rd ed.)


50年以上も前の出版ながら、古代エジプトの美術と建築を語る上では今なお基本の書籍。W. K. シンプソンによって改訂がなされました。
最新の版ではカラー写真も掲載されると同時に判型もA4版へと大きく変更され、見やすくなっています。ペーパーバックが出ていますので、美術と建築の双方を手早く知りたいという方には、まずこの本がお勧め。定評あるペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの中の一冊。最初の監修者は、高名な建築史家ペヴスナーです。
同シリーズのMcKenzie 2007は、この欄で一番最初に取り上げました。

William Stevenson Smith,
revised with additions by W. K. Simpson,
The Art and Architecture of Ancient Egypt.
Yale University Press Pelican History of Art (Founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1998, 3rd ed. First published in 1958 by Penguin Books)
xii, 296 p.

エジプト美術については以前にGay Robins, The Art of Ancient Egypt (London, 1997)を挙げましたが、建築を彼女は扱っていません。「美術と建築」のふたつを本格的に扱おうとした本は、実は数が少ないという事情があります。当方が知る限り、おそらくは最後の試み。

エジプト学に関わっている建築の専門家は、美術の領域にまで立ち入る余力をもはや持っていません。美術史家による鑑別の眼力が一方で、なかなか他の分野の研究者によって支持されないという問題に関しては、例えばBerman (ed.) 1990で触れました。すでに学問の細分化が極端にまで進んでいます。
美術と建築の分野で対話が困難な状況ですから、考古と科学分析との橋渡しは、さらに難渋を極めます。今日、他分野の読者へ向けての論理力がますます必要になっている所以です。

スミスは美術史家で、博士論文はエジプトの彫刻を扱っており、執筆したのは第二次世界大戦の直前でした。ジョージ・ライスナーの精緻な考古発掘の仕事を助け、第二次世界大戦中に亡くなったライスナーに代わって、彼のギザ発掘調査を推し進めました。
ライスナーが従来の発掘方法をどのように変えたのかは、今さらここで紹介することもないでしょう。美術史家がその発掘調査を引き継ぐのですから、かなりの負担であったことは容易に推察されます。

スミスがどれだけの論文を専門雑誌に書いているか、調べようと思ったら、ほとんど徒労に終わるのでは。この人の功績は、数少ない著作で見るしかない。
スミスの代表作を挙げろと言うことでしたら、まずは彼の専門に関わる内容の

William Stevenson Smith,
A History of Egyptian Sculpture and Painting in the Old Kingdom
(published on behalf of the Museum of Fine Arts, Boston, by the Oxford University Press, Oxford, 1946)
xv, 422 p., 60 pls., 2 color pls.

が注目され、戦争直後に出されている点に注意。
エジプトの彫刻に関してはVandier 1952-1978という包括的な労作のうちの注目すべき第3巻があり、これはスミスによる本書と同じ年に出た厚い解説書。図版編も合わせるならば900ページに及ぼうとする大著です。彼はどのような思いでこれを見たでしょうか。
ライスナーの遺した仕事を纏める作業は、

George Andrew Reisner,
completed and revised by W. S. Smith,
A History of the Giza Necropolis II:
The Tomb of Hetep-heres the Mother of Cheops.
A Study of Egyptian Civilization in the Old Kingdom
(Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1955)
xxv, 107 p., 148 figs, 55 pls.

として出版されており、クフ王の母親であるヘテプヘレスの墓の報告書を編纂するという重大な責務を果たしました。エジプト学にとって、この墓がどれだけの意味を有するのかを充分わきまえた仕事。この墓からは古王国時代のきわめて重要な家具が出土しており、復原がカイロ美術館に展示されています。組み立て式の天蓋は特に貴重。有名なこのA History of the Giza Necropolisは、John William Pye Booksから20世紀の終わりに再版も出ています。
古代エジプトの美術と建築の総論を書くという、驚くべき仕事(本書)の後には、

William Stevenson Smith,
Interconnections in the Ancient Near East:
A Study of the Relationships between the Arts of Egypt, the Aegean, and Western Asia

(Yale University Press, New Haven and London, 1965)
xxxii, 202 p., 221 figs.

を出しています。エジプト学の側から、これだけ明瞭に近隣諸国との美術史学的な関連を探ることを題名に打ち出している論考も珍しい。
出版は彼の死の数年前の、意欲作です。当時のエジプト学に欠けている視点を補おうとした書。

ここで取り上げるThe Art and Architecture of Ancient Egyptは、古代エジプトにおける王宮建築の研究を飛躍的に前進させたという点で画期的です。調査がなされながらも、本報告書が出ていなかったディール・アル・バラスやマルカタ王宮の調査資料を丹念に調べて概要を伝えており、専門外の仕事であったにも関わらず、その後のアマルナ王宮へ向けての建築の流れをうまく描いています。
ここにはたぶん、当時、エジプト建築史の本を刊行していたA. バダウィの著作、Badawy 1954-1968への不満もあったのではと憶測がなされます。ここでも、「どのような情報が不足しているのか」についての配慮がなされており、とても有能な人であったことが良く分かります。60歳ほどで亡くなったのが本当に惜しまれます。
ボストン美術館の古代エジプト部門を牽引してきた人間の系譜、すなわちG. ライスナー、W. S. スミス、W. K. シンプソン、E. ブロヴァルスキー、R. フリード、P. D. マニュエリアンたちのさまざまな著作を踏まえながら、各々が果たしている役割に考えを巡らせると感慨深い。
ボストン博物館によるギザに関する史料集成のページ、

http://www.gizapyramids.org/code/emuseum.asp?newpage=authors_list

からは、スミスの著作の多くのダウンロードが可能。

2009年10月3日土曜日

Arnold 2003


古代エジプト建築事典。もともとはドイツ語で出されたものですが、改訂され、また編集者も加わりましたので、別の本として扱った方が良いように思われます。

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick.
The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture
(I. B. Tauris, London, 2003)
vii, 274 p.

Original:
Dieter Arnold,
Lexikon der ägyptischen Baukunst
(Artemis und Winkler Verlag, Zürich, 1994)
303 p.

中近東建築事典などというものもあるのですけれども、古代エジプト建築に絞って編纂された事典です。
ドイツ語版に増補がなされたと冒頭に書かれています。多くの図版がアーノルドのBuilding in Egyptから流用されていますが、新たに描き起こされたものも少なくありません。
巻末に用語集(Glossary)が1ページ付されており、事典という性格上、用語集がつけられるのはとても珍しい。この場合は古代エジプトの専門用語に限られています。

最後にはSelected Bibliographyが3ページ、加えられています。一番冊数が多いのはボルヒャルトで、レプシウスはたった1冊。この選び方も面白い。

補記:
版を小さくし、題名を変えたペーパーバックが2009年に出ています。(2009.12.11)

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick,
The Monuments of Egypt:
An A-Z Companion to Ancient Egyptian Architecture

(I. B. Tauris, London and New York, 2009. First published in German in 1994 as Lexikon der ägyptischen Baukunst by Artemis & Winkler Verlag, and in English as The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture by I. B. Tauris, 2003)
vii, 274 p.

2009年9月2日水曜日

Phillips 2002


古代エジプトの柱の類例を多数集めたもの。L. BorchardtやG. Foucartが100年ほど前に似たことをやっていますが、ここではもっと徹底的に収集がなされています。
図版が中心と言っていい本ですので、見やすい特徴を持っています。

J. Peter Phillips,
The Columns of Egypt
(Peartree Publishing, Manchester, 2002)
x, 358 p.

大まかには時代順に並べられており、多くは写真を用いて紹介されています。一方で図面が少ないことは、非常に惜しまれる点。
エジプト建築における柱のデザインの豊穣さが良く了解される本と言っていい。ですが、エジプト学の専門家ではないために、系統立って纏められているという印象は薄く、他の本との併読が必要かと思われます。

古代エジプトの柱についての建築学的研究は、欧米ではほとんど進められていないといっても過言ではありません。Petrieが大昔に、「寸法計画がまちまちであるように思われる」と表明した以降、進展していない状況にあります。カルナック大神殿の柱に関する組織的な分析が最近おこなわれ、注目されましたが、この遺跡は新王国時代以降が中心ですので、それより遡る時代に関しては触れていません。
本当はギリシア・ローマ時代のオーダーとの関連が探られてもいいはずなのですけれども。柱の太さに対する高さ、また柱のテーパーとセケドとの関係など、Petrieに倣い、さらに対象を拡張して広範に諸資料が集められるべきだと思います。

著者に関しては、"Senior position in Information Technology at the University of Manchester"を早期に退職して、この柱の研究に打ち込んだと書いてあります。IT出身の方ですね。少々、変わった人。
なお、序文をR. Janssenが書いています。

2009年8月20日木曜日

Rousseau 2001


エジプトのピラミッドがどう計画されたかを問う書。著者は教職につきながら、技術者・建築家として活躍した人です。

Jean Rousseau,
Construire la Grande Pyramide
(L'Harmattan, Paris, 2001)
222 p.

Sommaire:
Introduction, p. 7

Premiere partie: Les tombes egyptiennes de la prehistoire a Cheops, p. 17
Chapitre 1, Les tombes prehistoriques et thinites, p. 19
Chapitre 2, Les pyramides a degres, p. 29
Chapitre 3, Les pyramides de Snefrou, premieres pyramides veritables, p. 41

Deuxieme partie: La Grande Pyramide, p. 51
Chapitre 4, Presentation du complexe de Cheops, p. 53
Chapitre 5, La structure de la Grande Pyramide, p. 69
Chapitre 6, Le projet. Le choix du site, p. 77
Chapitre 7, L'implantation de la pyramide, p. 89

Troisieme partie: La production et le transport des materiaux, p. 97
Chapitre 8, L'extraction des materiaux de construction, p. 99
Chapitre 9, Le transport des dalles et des moellons, p. 107

Quatrieme partie: La construction de la Grande Pyramide, p. 115
Chapitre 10, La taille et la pose du parement. p. 117
Chapitre 11, Les procedes de construction, p. 135
Chapitre 12, Le demarrage du chantier, p. 165

Cinquieme partie: La conception "coudique" de la Grande Pyramide, p. 183
Chapitre 13, Les "regles" de l'architecture egyptienne, p. 175
Chapitre 14, Les plans "coudiques" de la Grande Pyramide, p. 183

Conclusion, p. 205
Annexes, p. 209
Bibliographie, p. 217
Index, p. 221
Sources des illustrations, p. 223

ピラミッドの寸法をもとにして、細かい数字が出てくる本です。またこの数字に対して「聖数(聖なる数)」を考えており、独特。

-les uns, le couple 17 et 19, le premier nombre etant plutot connote aux tenebres, a la mort, a Osiris (?); le second, a la lumiere, a la vie, a Re. Ces nombres, souvent associes, on les retrouve avec une frequence tres anormale dans les expressions les plus diverses de la culture egyptienne tout au long de ses trois ou quatre millenaires.

-les autres, d'origine calendaires, correspondent a la duree en jours des cycles annuals, a savoir:
348 = 29×12 jours (annee lunaire coutre), 354 = 59×6 jours (annee lunaire longue) et 384 jours, annee lunaire extra-longue a 13 mois, toujours en usage dans le Proche Orient et, en particulier, en Israel.
365 jours (73×5), 366 jours (61×6), annee bissextile deja connue du roi Djoser (cf. p. 31).
29, 59, 73 et 61 sont les nombres premiers caracteristiques de ces cycles. (p. 14)

などという記述が最初の関門。
「聖数」の整数倍がピラミッドの計画では採用されたであろうと考えられていて、完数(半端な値を持たない数。基本的に10、20、30といったようなまとまりを持つ数だが、3や5の倍数なども含まれる)で設計されたというモティーフそれ自体は了解されますが、暦や天文学、あるいは神学と結びつけられて思考が巡らされており、独自の解釈がおこなわれています。
天体の動きと記念建造物とを結びつける考え方は根強く、確かにそうした遺構もあると思われるのですが、果たしてピラミッドでどの程度まで天体の運行との関連が意識され、象徴的な意味が込められたのか、未だ統一した見解が出ていません。
ピラミッドの向きが正確に東西南北を向いていることが、天体の動きとの関わりがあった根拠のひとつとされていますけれども、365日という数との関連など、ここは充分な吟味が必要だと思われます。
当時、用いられた古代の尺度の数値と、暦の日数とを関連させる論法は他にもいろいろとありますけれども、建築を専門とする学徒の間では、あまり信用されていない考え方。

2009年8月13日木曜日

Hodges 1989


テレビ番組にもなったピラミッドの建造方法に関する新説。著者は1980年に亡くなっており、別の人によって草稿が出版され、この本となったのは9年後。
斜路がここでも検討されています。建築の仕事に携わった人ですから、技術的な話が多いのが特徴。

Perter Hodges,
edited by Julian Keable,
How the Pyramids were Built
(Aris and Phillips, Warminster, 1989)
xiii, 154 p.

Contents:
Foreword (editor), ix

1. A new look at the pyramids, p. 1
2. Previous building theories, p. 10
3. Raising the stones at Giza, p. 19
4. The craftsmen and their skills, p. 33
5. Setting out a pyramid, p. 39
6. The anatomy of the pyramids, p. 53
7. Building stepped pyramids, p. 65
8. Building the Great Pyramid, p. 73
9. Casing the pyramids, p. 85
10. Further aspects, p. 100
Appendix, p. 107

Editor's additional material
Ramps, p. 119
Levers, p. 133

References, p. 145
Index, p. 151

斜路が問題になるのは、その長大となる規模と、必要になる土砂の量、またその構築によってピラミッド建造そのものが妨げられる可能性があるからです。
しかし見落としてならないのは、現実に斜路がいくつかのピラミッド調査地において見つかっていることで、またマスタバに取り付いた煉瓦造の斜路の図も、絵画資料として残されています。
従って、最大の規模を誇るクフ王のピラミッドでも、やはり同様の斜路が設けられたのか、また設けられたとしたらどのような形式だったのかを問題視する人がいる、ということであって、ピラミッドの建造用斜路の存在を完全に否定することはできません。

著者はてこを多用したのであろうという説を挙げ、実際に自分たちで試しています。
Hodgesは先の曲がったてこを用いていますが、この本の編集者のKeableは先細りのてこでもうまく使えると、付章で報告しています。
編集者のKeableはHodgesの遺稿を良く纏めていて、適宜、註を入れたりしています。自分の調べた知識を披瀝しようと思えば、もっと註を増やせたはず。そうした過剰な記述をやっていません。遺された原稿の出版に、最小限の最新の情報を組み入れようとした跡が良く了解され、好感を覚えます。

Keableの息子のローランドが、熟練の家具職人だそうです。ここでも親戚類縁の使い回し。ま、エジプト学では良くあることなんですが。
オーク材を用い、4本のてこを手作りして、

「1986年のクリスマスの日に、2トン半の石が調達できなかったので、私たちは1.7トンしかないSAAB(の車体)を持ち上げた。いくつかの点が了解された。[中略]
エジプトだったら、もっと楽しめただろうに - この日の朝は雨が降っていた。」(p. 134)

と、この人たちはどこまで真面目なのか、良く分からない。

2009年8月3日月曜日

Bülow-Jacobsen 2009


古代ギリシア・ローマ時代に属する石切場のひとつから見つかった石片には文字を記したものがあり、9000ほどのその中から石切り活動に関わる文字だけを選んで報告した書。
エジプトの石切場調査は最近、増えてきていますが、建築学的な知見がどれだけ増えているかというと、そうでもありません。建築技法についてはもちろん、いろいろ新しく見つかっても当然のことです。けれどもそれらは些末的な問題。ここを間違えている人が多くいます。
建築に関わって、なおかつ他の分野に繋げられるトピックが探し出されることこそ本当は重要なのですが、それがあまりおこなわれていない現状です。

Adam Bülow-Jacobsen,
Mons Claudianus:
Ostraca graeca et latina
IV.
The Quarry-Texts O. Claud. 632-896.
IF 995.
Documents de Fouilles (DFIFAO) 47
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2009)
xiii, 367 p.

Table of Contents:
http://www.ifao.egnet.net/uploads/publications/sommaires/IF995.pdf

O. Claud.というような省略した書き方が専門書ではなされており、要するにオストラカ Ostraca、という言葉が端折って記されるわけです。これはパピルスも同じ。

O. BM (あるいはoBM)=大英博物館(British Museum)収蔵のオストラカ
O. Cairo (あるいはoCairo)=カイロ博物館収蔵のオストラカ
O. Turin (あるいはoTurin)=トリノ・エジプト博物館収蔵のオストラカ
P. Anastasi I (あるいはpAnastasi I)=第1アナスタシ・パピルス

といった感じです。
そう言えばトリノ博物館の展覧会が始まりましたが、トリノ博物館はラメセス時代に属する多くのオストラカを収蔵しており、貴重。報告はJesus Lopezが4巻本でおこなっています。

ギリシアでは、アルファベットが数字としても代用されました。すなわち、

α(アルファ)=1
β(ベータ)=2
γ(ガンマ)=3
δ(デルタ)=4

などとなります。
従って、O. Claud. 841の35行目に出てくる簡単なアルファベットの3つの羅列、

ε δ α

は「5 × 4 × 1」と訳され(p. 170)、これは石材の長さと幅と高さの寸法。
ここにはふたつ重ねられた飛躍があります。3つ並ぶアルファベットが数字をあらわし、しかもそれがひとつの石材の大きさであるという認識が必要。何しろ石切り現場での書き付けですから、省略がいろいろあり、これを勘案しながら石切り作業の全体像を追っていくことが望まれます。
石切場を巡る研究というのは、こういうところが面白い。

石材の大きさがこのように文字資料として小さな石片に記録されることは、王朝時代にはしかしあまり例がなく、ラメセウムのオストラカとして知られているものぐらいしかありません。岩窟墓における掘削量を記録しているものなら、いくらかあるのですけれども。
石に直接、その大きさを記した王朝時代の例も極端に少なく、クフ王の船坑の蓋石に書かれたものがほとんど唯一の例と思われます。クフの第2の船の調査研究を担当されているサイバー大学の山下弘訓先生にこの6月、初めて蓋石の書き付けを見せていただきましたけれども、きわめて貴重。
王朝時代からグレコ・ローマ時代にかけての長い期間における石切りの様相を概括することは、建築に関わる人間の仕事だと思います。

この巻では3つの付章が重要です。
Appendix 1では石切り作業に関連する専門用語を所収しており、他の辞書ではほとんど見られない語ばかりが並びます。
Appendix 2は、「この石切場に何人いたか?」という章で、人名リストを挙げています。労働組織の規模に関わる論考。
Appendix 3は、巨大な石の運搬に関する論議がなされています。
とても大きな建材の運搬について考えるはずのところなのに、規模がえらく異なった実験を、住宅内の床の上にて自分で進めていることがすごくおかしい。コロの上に載せた、小型の段ボール箱の側面にデジタルキッチンスケール(台所用の計り)をテープで固定し、その計量皿の部分の中央を右のひとさし指で押しています。わざわざこれを写真で紹介しており(p. 271, App. 3, Figs. 2-3)、靴下を履いた足が背景に写っているのも御愛嬌。
註もつけてあって、

"I am grateful to my brother, Jan Bülow-Jacobsen, who provided the necessary floor-space and most of the materials for this experiment." (p. 271)

と、読者に向かってウインクしてみせる様子がうかがわれ、かなりユーモアに富んだ著者であることがこれで分かる。
本文におけるきわめて専門的な書き方との、大きな落差が笑えます。

2009年8月2日日曜日

Endruweit 1994


エジプトの「アマルナ型住居」と呼ばれるものは、住居の歴史で最初の方に出てくる有名なものになっていますが、それだけを取り上げて論じている専門書ということになると、世界でたった数冊しかありません。その中では、もっとも新しい本です。

Albrecht Endruweit,
Staedtischer Wohnbau im Aegypten:
Klimagerechte Lehmarchitektur in Amarna

(Gebr. Mann, Berlin, 1994)
220 p., 11 Tafeln

Inhaltsverzeichnis:
1. Die Aussenhuelle
2. Die Mittelhalle
3. Zur Schaffung eines behaglichen Innenklimas
4. Das Schlafzimmer
5. Der Garten
6. Zusammenfassung
7. Klimatische Faktoren und Wohnkultur

アマルナ型住居の研究と言えば、H. リッケによるモノグラフが基本となります。その後にボルヒャルトとリッケによる図面集が出版されたのは20世紀末で、これをもとにして詳しい分析がようやく始められるようになりました。

この本は、中部エジプトの砂漠に建てられたアマルナ型住居が、その土地の風土と気候にどのように適合しているかを詳述したものです。
エジプトは乾燥地帯で、砂混じりの北風が年間を通じて吹きつける場所ですから、住居の形態もこれに合うように工夫されていました。北風を受けるための北向きの高窓が造られたのはそのひとつです。寝室が必ず北向きに造られたのもこの理由によります。日乾煉瓦造による住居はこの地方にとって、過ごしやすい住環境を提供する重要な役割を演じていました。

砂漠の家の周囲に木を植えたり、人工的に池を造ったりすることは大変な苦労を必要としたはずなのですが、古代エジプト人たちは好んで庭園を造営しました。水面や緑を見て楽しむということもあったでしょうが、並んだ樹木は砂を含んだ風から泥造りの家が損傷を受けることを防ぐ防風林や防砂林の役目を果たし、水を湛えた人工湖もまた、気化熱によって気温を下げることに幾分は貢献したのではないかと言われています。
壁画には、家の中に水を撒いている光景を描写したものもあり、打ち水がおこなわれたと考えられています。

寝室の奥の天井の形式で、ヴォールト天井が架けられていたという復原は、おそらくは否定されるべきものです。根拠は、ここだけ両側の壁体が厚くなっているという点と、ピートリの報告による家型模型ですけれども、あまり説得力を感じません。ここには早稲田隊のマルカタ王宮の「王の寝室」も引用されていますが、曖昧な報告をしたことは反省すべき点。もしヴォールトが架かっていたとしたら、アマルナ型住居の通風窓が絵画史料で三角形に描かれることはなかったと思われます。

この本の書評を、アマルナ調査にも携わったK. SpenceがJESHO 39:1 (1996), pp. 50-52で書いており、そこで展開されている知恵比べも面白い。古い科学情報をもとにしているのではないかという疑義が出されたりしますけれども、最後の方では自分がエジプトの日乾煉瓦造の建物で日々を過ごした結果の快適さを個人的経験として述べていて、結局は泥で造られた建物の魅力を双方の研究者が伝える結果となっています。

2009年7月31日金曜日

Crozat 1997


ピラミッドの組積に関わる原論を扱おうとした書。第1章で、ピラミッドに関連したこれまでの論を3つに大別し、建造技術に関わるものは第2章で、さらに3つに分類しています。こうした分け方が大胆。
ファルーク・ホスニによる序文つき。

Pierre Crozat,
Système constructif des pyramides
(Canevas, Frasne, 1997)
159 p., 1 tableau.

Table des matières:
Préface de Farouk Hosni, Ministre Égyptien de la Culture, p. 5
Introduction, p. 7

I L'état de la question, p. 15
A. Les théories mystiques, p. 16
B. Les théories pseudo-scientifiques, p. 21
C. Les théories constructivistes, p. 22

II Analyse critiques des théories constructivistes
A. Le système à rampes frontales, p. 25
B. Le système à rampes latérales ou enveloppantes, p. 36
C. Le système par accrétion et outils de levage, p. 40

III Esquisses d'une autre approche, p. 47
IV Notre raisonnement, p. 61
V Concept de construction, p. 83
VI Modélisation, p. 97
VII Rampe et Grande Galerie, p. 107
VIII Confrontation, p. 123
IX Hypothèse de l'exploitation de carrière, p. 137
X Conclusion, p. 147
XI Bibliographie sommaire, p. 151
Annexe: Tableau comparatif des assises de la Grande Pyramide, p. 153

J.-P. AdamJ. Keriselの考え方も紹介しており、珍しい。前者は古代ローマ建築を専門とする建築家・考古学者、また後者は地盤工学を専門とする研究者で、ピラミッドについて何冊も本を書いている人。筆者のCrozatは建築家・都市計画家で、だからこういう論考にも目を向ける余裕があるわけです。
考え方は独特で、まずはギリシア語で書かれたヘロドトスの「歴史」の抜粋から始め、

"Ainsi fut construite cette pyramide: quelques-uns appellent ce mode de faire les 'krossaï' et les 'bomides', une telle appellation [bomides] au début, après qu'ils construisent, une telle autre [krossaï]. Les pierres suivantes furent soulevées grâce à des machines faites de morceaux de bois court, en les enlevant de dessus le sol [pour les mettre] sur la première rangée de degrés..." (p. 48)

と、"krossaï", "bomides"の区別から出発。
その後、数式がいくらか出てきますので、覚悟が必要。
例えば68ページでは、

η Ση
1 - 1  1
2 - 3  1+2
3 - 6  1+2+3
4 - 10 1+2+3+4
5 - 15 1+2+3+4+5
6 - 21 1+2+3+4+5+6
7 - 28 1+2+3+4+5+6+7
8 - 36 1+2+3+4+5+6+7+8
9 - 45              +9
10 - 55               +10
etc.                   etc.

という階段状に並べられた数式があらわれます。これで驚いてはいけません。積み木を用い、実際にピラミッドの構築を縮尺1/50でやって見せています。

黄金比φや円周率πについて否定するために、足し算だけでピラミッドのかたちを正しく復原して見せている、そういう印象が与えられます。基本的な事項から考えるということが徹底され、目眩がする本。否定のために費やされている労力が尋常ではありません。
黄金比φや円周率πをピラミッド論の内に持ち込むことにはいびつさが感じられるわけですが、その反論にも同様のいびつさが押し出されている例。
しかしこうした論の、おおもとのモティーフは重要で、検討に値します。

ほぼ正方形の版型の、グレーの表紙のペーパーバック。
巻末に収められた大きな折り込みの図は、イタリア隊のMaraglioglio & Rinaldiによる図に加筆を施したもの。
クフ王のピラミッド内における諸室、あるいは上昇通廊でうかがわれる、いわゆる「ガードルストーン」の配置に、根拠を与えようとした考察も面白い。
ピラミッドを巡っての、こういった論が数年ごとに出てくるというところが、欧米の思考力の凄さです。
おそらく、この本の中で最も批判されているのはJ.-Ph. ロエール。エジプト学では高名ですが、論理としてはたいした解釈を提示できず、誤謬ばかりを撒き散らした張本人、という見解になるかと思われます。

2009年7月29日水曜日

Arnold 1987


ダハシュールに残るアメンエムハト3世のピラミッドに関する報告書。泥煉瓦の巨大な塊が残る遺構です。ドイツ考古学研究所カイロ支部(DAIK)からのシリーズの一冊。
「ダハシュール」の綴りは国によって異なったりするので、検索に際しては面倒なところがあります。ここではドイツ語ですからDahschurですが、英語ではDahshurもしくはDashur、フランスではDahchour、イタリア語でDahsciurなど。
なお、出土遺物を扱った第2巻、"Die Funde"はかなり遅れて2002年に出ています。

Dieter Arnold,
Der Pyramidenbezirk des Königs Amenemhet III. in Dahschur,
Band I: Die Pyramide.
Deutsches Archäologisches Institut Abteilung Kairo (DAIK),
Archäologische Veröffentlichungen 53
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1987)
105 p., 72 Tafeln, 3 Faltpläne.

Inhaltsverzeichnis:
Vorwort, p. 7
1. Baubeschreibung, p. 9
2. Einzelbetrachtungen zur Bautechnik, p. 73
3. Die Geschichte der Pyramide und ihrer Erforschung, p. 93
4. Die Stellung des Pyramidenbezirkes Amenemhet III. innerhalb der 12. Dynastie, p. 97
5. Bemerkungen zur Entwicklung der Innerräume der Gräber von Königinnen der 12. Dynastie, p. 99
6. Sachregister, p. 104
Abkürzungsverzeichnis, p. 105

彼が51歳の時の報告書で、1979年にはディール・アル=バフリーのメンチュヘテプの建物の報告書を出版。ダハシュールにおけるアメンエムヘト3世のピラミッドに関するこの本を出した翌年の1988年には、リシュトのセンウセルト1世のピラミッドの報告書の第1巻をメトロポリタン美術館から英語で出しています。むろん、同時並行に仕事を進めていたに違いないわけで、彼の旺盛な活躍はこの頃から顕著になります。

見どころの多い報告集。
Building in Egyptに転載されている図面が多くうかがわれます。玄室の笠石の組み方はもちろんのこと、古代エジプトではきわめて珍しい、部屋と部屋とのつながりを確認するための模型の紹介、また計画寸法の検討などが面白い。
p. 82, Abb. 40には、煉瓦に指でいろいろな印を付けているさまを15例ほど挙げており、注意を惹きます。A. J. SpencerによるBrick Architecture in Ancient Egyptが1979年の出版ですから、そこには反映されていません。煉瓦についてのこうした情報は、今一度、纏められておいて良いかと思われるところです。

2009年7月27日月曜日

Gundlach and Taylor (eds.) 2009


王の住居に関する国際シンポジウムの報告書。王の家はほとんど全く残っていないので、皆がどう考えているかが興味深いところです。早稲田大学の河合望先生から教えていただいた書籍。
王権に関するシンポジウムの一環として開催され、こうした催しは4回目で、過去の記録はÄgypten und Altes Testament (ÄAT) 36:1-3 (1995-2001)に所収されています。

Rolf Gundlach and John H. Taylor,
Egyptian Royal Residences:
4. Symposium zur ägyptischen Königsideologie / 4th Symposium on Egyptian Royal Ideology,
London, June, 1st-5th 2004.
Königtum, Staat, und Gesellschaft früher Hochkulturen (KSG) 4,1
(Harrassowitz, Wiesbaden, 2009)
viii, 197 p.

Table of Contents:
Vorwort, vii
Preface, viii

Denise M. Doxey,
The Nomarch as Ruler: Provincial necropoleis of the Old and Middle Kingdoms, p. 1
Andrea M. Gnirs,
In the King's House: Audiences and receptions at court, p. 13
Rolf Gundlach,
'Horus in the Palace': The centre of state and culture in pharaonic Egypt, p. 45
Eileen Hirsch,
Residences in Texts of Senwosret I, p. 69
Peter Lacovara,
The Development of the New Kingdom Royal Palace, p. 83
Stephen Quirke,
The Residence in Relations between Places of Knowledge, Production and Power: Middle Kingdom evidence, p. 111
Christine Raedler,
Rank and Favour at the Early Ramesside Court, p. 131
Maarten J. Raven,
Aspects of the Memphite Residence as illustrated by the Saqqara New Kingdom necropolis, p. 153
Kate Spence,
The Palaces of el-Amarna: Towards an architectural analysis, p. 165

Lacovaraの論文内容は、しかし彼の博士論文である

Peter Lacovara,
The New Kingdom Royal City.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1997)
xiv, 202 p.

から進展なし。Spenceのものも、同じ年に出された彼女の博士論文、

Katherine Emma Spence,
Orientation in Ancient Egyptian Royal Architecture
(Dissertation, unpublished. University of Cambridge, September 1997)
vi, 248 p., 37 Figs.

の内容と代わり映えがありません。
むしろここではGnirsやQuirkeたちの論考が目を惹きます。
中王国時代の王宮を研究する際には非常に重要となる1冊です。

2009年7月25日土曜日

O'Connor 2009


1960年代からアビュドスの発掘調査に関わっている第一人者による、古代エジプトの聖地アビュドスについての非常に詳しい重要な書籍。エジプト学における最も権威ある「エジプト学事典」、Lexikon der Ägyptologie (LÄ)で「アビュドス」の項を執筆しているのもこの人でした。とてもお勧めしたい本です。
ただ7ページに"Aydos"と脱字があって、本の題でも用いられている大事な地名が間違って記されており、この書籍は本当に大丈夫なのかと思わせますが、ここは編集者による文章で、オコーナーが書いた部分ではありません。

David O'Connor,
Abydos:
Egypt's First Pharaohs and the Cult of Osiris

(Thames & Hudson, London, 2009)
216 p.

Contents:
General Editor's foreword, p. 7
Preface, p. 9
Introduction, p. 15

PART I Abydos and Osiris, p. 22
1 The Discovery of Abydos, p. 22
2 Osiris - Eternal Lord Who Presides in Abydos, p. 30
3 The Temple of Seti I, p. 42

PART II Life Cycle of a Sacred Landscape, p. 62
4 The Rediscovery of Abydos, p. 62
5 The Evolution of a Sacred Landscape, p. 70
6 The Expanding Landscape of the Middle Kingdom, p. 86
7 The Landscape Completed: Abydos in the New Kingdom, p. 104
8 The Climax of the Osiris Cult, p. 120

PART III Origins of the Abydos Landscape, p. 136
9 The Royal Tombs of Abydos, 136
10 The Mysterious Enclosures of Abydos, p. 158
11 Boat Graves and Pyramid Origins, p. 182
12 Abydos: Summing-up, p. 201

注目されるのは第3部で、G. ドライヤーが発掘したU-j墓の検討、そこから見つかった「世界最古」と言われる文字の読解、中が空っぽの葬祭周壁の解釈や、14隻並んで発見された木造船の正体、またこれらがピラミッドの歴史とどうつながるか、などという点にありますが、問題をそれぞれ分かりやすく説明しており、面白い。

DjerとQa'aの墓の復原については、ドライヤーの説に対し、祠堂も付設した自説を、立体図も交えて紹介しており(Fig. 85)、こういうところにオコーナーの考え方があらわれています。ただ、第3王朝の階段ピラミッドを、それまでのマウンド墓、祠堂、葬祭周壁によるセットのひとまとめにしたものと捉えようとして、時代を遡ったDjerとQa'aの墓にも祠堂を設けた復原を提示している感じも若干、与えます。
常に大きく構想しようとするこの人の姿勢が、時として強引さを与えかねないということ。

天に登るための階段をピラミッドは象徴しているのではという、専門家も良く言っている考え方を明確に否定しており(pp. 198-199)、この点は賛成。
ここ20年ほどで、ピラミッドがどのような過程で生まれたかに関する研究が進みました。アビュドスのマウンド墓や、マスタバの中に隠されたマウンド状の覆いの様相が詳しく分かってきたからです。その要点が語られています。

註の数は抑え気味にされて、読みやすさが第一に勘案されていることが分かります。カラーページもいくらか差し挟まれています。
5ページにわたるSelect Bibliographyが巻末に付され、細かい活字で数百の文献を紹介。

"The definitive account of one of Egypt's most important ancient sites, written by the world authority"

という宣伝文句は、嘘ではありません。

2009年7月23日木曜日

Spencer 1979


古代エジプトの煉瓦造建築に関して取り纏めた珍しい本。さまざまな技法が図示されています。スペンサーは中部エジプトにあるアシュムネインの神域の発掘調査を手がけていた人。この本もアシュムネイン調査と関連しており、言わば自分が使うためのカタログを出版したとみなせなくもない。

A. J. Spencer,
Brick Architecture in Ancient Egypt
(Aris & Phillips, Warminster, 1979)
v, 159 p., 56 plates

建築調査は石造のものが優先的に対象とされたというのは理由があって、要するに煉瓦造の建物は壊れ方が甚だしく、その記録方法がきわめて面倒であるために、手をつけるのが億劫であったということに尽きます。修復方法も、未だ確立しているとは言えません。難題が折り重なっている建材だと言うことができます。昔のように、取り除けてしまうと非常に楽なのですが、そうも行かない。

こういう種類の本が今まで出ていなかったというのが不思議です。
ただ、これはカタログなので、最初から最後まで通して読むようなものでは決してない。必要な時に、該当部分を引いて読むものです。巻末の組積方法の分類はきわめて見にくく、立体的に表現するなど、工夫があっても良かったと思われます。ブケウムの報告書における分類に倣ったのでしょうが、惜しまれるところ。
この本が出版されてから、ケンプが煉瓦の項目を執筆したり、補足の情報がいくつかあるけれども、まだ煉瓦については書かれるべきことが残されているような気がします。

煉瓦の組成分析については、あまり進んでいないように感じられます。ナイル川が運んできた黒土に、砂やスサを混ぜる他に、何を加えるのかということがはっきりしていません。灰を混ぜたとか、動物の糞を混ぜた、という説がどこまで本当なのかが良く分かっていないということです。
アマルナを訪れると、使われている煉瓦の砂質成分が多いことに驚かされます。煉瓦と言っても質が均一ではないから、丁寧な報告ではいくつかに分類されたりしますが、アマルナの煉瓦の特質といったものがもっと強調されても良い。

煉瓦の大きさに関しては、時代に応じた変化がグラフ化されているけれども、一般化できるようなものではなく、例えば煉瓦の長辺を測ると時代が分かるようにはなっていません。古代エジプトに規格が無かったのかという主題はしかし、キュービット尺があれだけ長い期間にわたって固定化されていたことを勘案するならば、奇妙な話です。タラッタートの大きさは、建造作業において便利ではなかったのかなど、話題は拡がります。

他の近隣地域の煉瓦についてはMooreyなどが書いていますが、これも年代が経っており、改訂を求める声は多いはず。技法に関する写真も増やした新たなものが望まれています。

日本における焼成煉瓦の包括的な研究というと、

水野信太郎
「日本煉瓦史の研究」
法政大学出版局、1999年

がまず挙げられるはず。これ以外はciniiで論文などを検索するのが早道となります。

2009年7月22日水曜日

Houdin 2006


クフ王のピラミッドの建造過程に関する新説を披瀝した書。テレビでも番組が放映されています。特徴はピラミッド内に螺旋状のトンネルを構築し、内側から建造していったという、度肝を抜く発想。

Jean-Pierre Houdin,
Translated from the French by Dominique Krayenbühl,
Foreword by Zahi Hawass,
Khufu:
The Secrets behind the Building of the Great Pyramid

(Farid Atiya Press, Egypt, 2006)
160 p.

ミイラの紹介やツタンカーメンの死因についてベストセラーを書き、テレビにも多数出演しているBob Brierがこれに関わって、下記の共著を出しています。Brierも出演しているテレビ番組は、たぶんこちらの本の映像化と言っていい。

Bob Brier and Jean-Pierre Houdin,
The Secret of the Great Pyramid:
How One Man's Obsession Led to the Solution of Ancient Egypt's Greatest Mystery

(Smithsonian Books, Washington DC, 2008)
304 p.

権威あるスミソニアンから出版されている点に注意。出版社で本を選ぶのは危ないという好例。
BrierはHoudinの説を書き広めており、例えば旧版を改めて40ページばかりの文章を加え、昨年に出した書、

Bob Brier and Hoyt Hobbs,
Daily Life of the Ancient Egyptians
(Greenwood Press, Connecticut, 2008.
2nd ed. First published in 1999)
xvi, 311 p.

の221ページ以降でその記述を見ることができます。
この"Daily Life"はしかしひどい本で、"Architecture"の章(pp. 155-180)は読むに耐えません。特に宮殿の説明は最悪で、B. ケンプによるアマルナ王宮の解釈は完全に無視され、20世紀中葉に出されたA. バダウィの「カタログ本」全3巻のみに情報源を頼っています。マルカタ王宮の平面図(p. 164)はでたらめ。あとは推して知るべしです。

ピラミッドの内側にトンネルが巡らされており、これを搬路としているという無理が何故、拒まれていないのかというと、大きく理由はふたつあって、ひとつは重力計による科学的な測定により、1980年代の後半に、このピラミッドの内部が一様な密度を持たないことがはっきりしたからです。日本の早稲田隊も同様の調査をしていますが、ここでは触れません。
入れ子状に納めた枡を上から眺めたような様態を呈するその平面の解析図は、同じ建築家を職業とする者による詳細な考察が述べられた書、Dormion 2004でも最初のFig. 1に挙げられています。

"En ce qui concerne la Grande Pyramide elle-même, qui présente d'être intacte, des mesures de microgravimétrie réalisées en 1987 par EDF ont permis d'éclairer cette question en évaluant la densité du monument et ses variations. On a pu mettre en évidence des alternances de densité conformes à ce que produirait la présence d'une structure interne en gradins (fig. 1)."
(pp. 35-36)

解析図から、Dormionは内部に段状の構築("gradins")があると推測しており、ピラミッド研究に通じた者の通常の解釈は、だいたいこうなるかと思われます。
ただ、よく見ると確かに四角い螺旋状を呈するようにも見え、これが出発点。

もうひとつは、かねてより問題とされてきた基準の設定方法で、地上から空中に140メートル以上も上がった位置のピラミッドの先の仮想点に向かって、どうやって4つの稜線を合致させたのかという施工上の困難に関する推察。すでにふたりの建築家による、Clarke and Engelbach 1930の本の第10章で、詳しく指摘がなされている問題です。
常に複数の基準点を見通しながら建造を進めたと考えるならば、ピラミッドの周りには何も付加したくはありません。これがピラミッドの外周を取り巻く斜路を、短絡的に内部へ想定する根拠となっているようです。

以上の2点を勘案した結果として、斜路をピラミッド内に想定するというのは、しかしかなり飛躍があり、古代エジプト建築に関係する者で誰も支持しなかったから、建築には疎いけれども説明の上手なBrierが出てきたのではないかと思われるところ。

真っ直ぐ伸びた建造用の斜路があまりにも長くなるために、その存在が否定されるという論理は、説明になっていません。U. Hölscherの考察による、カルナック神殿の第1塔門の裏に残存している泥煉瓦造の斜路の復原のように、途中で折れ曲がっていれば問題が解消します。
四角い構造物の内部に通廊が巡らされている例として、ネウセルラーの太陽神殿の報告書の第1巻、

Ludwig Borchardt,
Das Re-Heiligtum des Königs Ne-Woser-Re,
Band I: Der Bau
(Verlag von Alexander Duncker, Berlin, 1905)
vii, 89 p., 62 Abb., 6 Blatt.

を引いてくるのも、どうかと思われます。ここでは巨大なオベリスクを台座の上に立てた姿が復原されており、台座の上に登るための通廊が設けられているのであって、用途が異なります。

古くはPetrie 1883(The Pyramids and Temples of Gizeh)で、クフ王のピラミッドの各石積みの層の高さが異なることが、巻末の折り込みページの棒グラフで明らかに示されており、そこでは地上の第1層から頂上に向かって、大まかには石は次第に小さくなる傾向がうかがわれるものの、途中で何回か、また大きくなったりし、各層の石材の高さが全体として段状に変化する点が示されているのが興味深い。
長年にわたって考えられてきた疑問点をまずは整理して考えるべき。ピラミッド内部に思いを巡らせるならば、ほぼ等間隔の距離で垂直に配された、上昇通廊に見られる4つの石版の意味も考えどころです。
組織的に石を積む順序が結果として、緩い勾配の斜めの線を外側に描くと言うことは充分にあり得ます。

いたずらに「科学的」という装いを過剰に纏っているものだから、Houdinの話はややこしくなっています。重力計の計測結果の図示が意味する答えは、ピラミッド内部の螺旋トンネルというひとつの説に限定されて収斂するわけではないと思われます。
ただこのウーダンによる論考に見るべき点があるとするならば、それはピラミッドの内部構造に焦点を当てたというところで、このことは評価されて良いかもしれません。
ピラミッド研究はGreaves 1646など、かなり前から開始されているので、この360年以上にわたる欧米の蓄積を、数日や数週間で手早く理解しようとするのは難しい。誤謬を辿ることも大事です。

2009年6月5日金曜日

Kramer 2009


古代エジプトの新王国時代末期、アクエンアテンによるアマルナ時代だけに用いられた定形の小型石材を「タラタート」と呼び、3000年続いたエジプトの石造文化の中では異色。この大きさの石が出土したら、時代が分かると言うことになります。石の寸法を測ったら時代が分かるなどという研究は、世界でほとんどおこなわれていないはず。
クメール建築の分野で、ちらと見た覚えがありますけれども、建築学の専門家による考察ではありません。

このタラタートに関する文献を網羅しようとした論文で、早稲田大学の河合望先生からの御教示。こうした論考の背景には岩石学からの新たな知見が増えたこと、石切場の調査が近年、増加していることなどが挙げられます。
鍵となる本があって、すでに紹介しているVergnieuxらによる書籍がこの方面の研究をうまく促しています。

Arris H. Kramer,
"Talatat Shipping from Gebel el-Silsileh to Karnak:
A Literature Survey",
in Bibliotheca Orientalis (BiOr) LXVI, No. 1-2 (2009),
cols. 7-20.

「ビブリオテカ・オリエンタリス」は、BiOrと略記される中近東関連の研究紹介雑誌で、オランダから出版。年に3回発行で、書籍に関する雑誌。

年に1回刊行されるのは年刊誌(annual journal)。年に2回出るのは年2回刊誌(semiannual journal)。2ヶ月に一度の割合で、一年に6冊出る形態は隔月刊誌(bimonthly journal)。3ヶ月に一度の割合で、年に4回刊行されるのは季刊誌(quarterly journal)。

BiOrはいずれでもなく、年3回刊誌(quadrimonthly journal)で、かつてのDiscussions in Egyptology (DE)やVaria Aegyptiaca (VA)などもそうでした。
Quadrimonthlyというのは聞き慣れない語ですが、quadr-というのは建築で時折、目にする単語。Quadrangleやquadriface、またquadrupleなど。「4」を意味します。

この雑誌では、組版が二段組となっていて、1ページの中に縦にふたつ、文章のコラムが立ち、それぞれに別のナンバーが振られます。1ページ内にふたつの番号が振られるという方法。引用箇所の指定の際には、「××ページ、左」というような書き方よりも簡単な指示ができるわけで、エジプト学における最強の百科事典、Lexikon der Ägyptologieと同じやり方。

建築でタラタートが問題となるのはまずその大きさで、52×26×20-24センチメートルという定形のうち、高さがどうしてこの値となるのかが良く分からない。1キュービットは52.5センチですから、長さはこの尺度を意識したに違いなく、また幅もこれの半分です。タラタートの積み方はレンガで言うイギリス積みで、組積の際には縦目地が揃うことは避けられますから、レンガの場合と同じく、1/4枚分の幅だけずらされることになります。
高さが幅よりも若干短い根拠、また長さと幅に比べて誤差が大きい理由は不明ですが、石材の層理を考えてのことであったのかもしれません。寸法が同じだと、横に並べて置くべきものを縦に倒して設置する可能性があるからで、石目を意識した結果かも。
Kramerは註7で、1×1/2×1/2キュービット、と書いていますけれども、高さを幅とは数値を揃えない明瞭な意図があったのかもしれない。

ベルギー隊の報告に基づき、

"Quarry marks on the ceilings of some of the stone quarries at this site indicate the size of the blocks to be extracted." (col. 13)

と書いてありますが、ひょっとして彼らは石の切り出しの際のセパレーション・トレンチのこと、また天井面に沿って水平に掘り進めるトンネルのことを忘れているのではないかと思います。必要な石材の大きさが、石切場の天井面に残されることはほとんどないということに気づいていないのではないかという心配があり、ベルギー隊の調査の進捗が注目されます。

2009年6月3日水曜日

Vergnieux 1999


アメンヘテプ4世(アクエンアテン)によるテーベの建物を追究した専門書。二巻本です。
アマルナへ遷都をおこなう前に、この王によってカルナックのアメン大神殿の最奥の部分へ建造物が建立されたのですが、その際、大きさの規格を持つ石材タラタート(あるいはタラッタート)によって積まれました。
人ひとりが持ち上げることのできるほどの大きさの石で、これにより、迅速な建造が図られたと考えられています。

Robert Vergnieux,
Recherches sur les monuments thebaines d'Amenhotep IV a l'aide d'outils informatiques:
Methodes et resultats
.
Cahiers de la Societe d'Egyptologie, vol. 4,
2 fascicules (texte et planches)
(Societe d'Egyptologie, Geneve, 1999)
ix, 243 p. + (iii), 109 planches

タラタートにはレリーフが刻まれており、そのモティーフの復原が主な作業。図版編の第2巻は、折り込みのページを多用し、丁寧に図示をおこなっています。
今、見比べてみる時間がないのですが、この作業は

Jocelyn Gohary,
Akhenaten's Sed-festival at Karnak.
Study in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1992)
x, 238 p., 110 pls.

でもおこなわれていたはず。またD. レッドフォードのアケナテン・テンプル・プロジェクトの仕事とどれくらいの差異があるのかも、興味が惹かれるところです。
複数の国にまたがって、パズルが長い年月にわたって進められてきた典型。

この著者のタラタートに関する考え方は周到で、規格材を用いて壁を作る時、隅部の収まりで問題が生じることを、しっかりと考察しています。
それだけではなく、岩盤からの具体的な石切りの様子までも考察している点は注目されます。

すでに書きましたが、タラタートは小口積みと長手積みの層を交互に重ねていく、今で言う「イギリス積み」と同じ煉瓦の積み方を示しますが、これですと「羊羹」と呼ばれる縦割りの細長い煉瓦が必要となってきます。タラタートの場合にも同じことがおこなわれたという考察が示されており、これはタラタートそのものの寸法を考える上で重要。

しかしパズルの結果を示している図版がやはり目を惹き、感心するところです。
もう少し大きい図版を用いて、著者は出版したかったかもしれませんが、しかしこれは切りがない願いというもの。

2009年6月2日火曜日

Vergnieux and Gondran 1997


アメンヘテプ4世(アケナテンもしくはアクエンアテンという名前に変えられる前の王名)がカルナックのアメン大神殿の裏側に作った神殿の復原をおこなっている本。コンピュータ・グラフィックスをたくさん用い、ほとんど全ページにカラー図版があります。

Robert Vergnieux et Michel Gondran,
Amenophis IV et les pierres du soleil: Akhenaton retrouve
(Arthaud, Paris, 1997)
198 p.

カルナックの裏側には、観光客は現在、立ち入ることができませんが、こんな凄いものが当時はあったのかと驚かされます。と言うか、アマルナのアテン神殿をそのまま持ってきている復原図ではあるのですけれども。

「タラタート(タラッタート)」と呼ばれる石の説明が詳しく、石切りの様子までも復原しています。またそこに残されているレリーフのジグソーパズルを経て復原された壁面レリーフの図が掲載されており、これもまた見事。

タラタート(タラッタート)というのは、長さが1キュービットの石で、後にアメンヘテプ4世からアケナテン(アクエンアテン)と名前を変えるこの王様だけが使った規格石材。
3000年の間、古代エジプトではさまざまな石造建築が造られましたが、その石材の大きさはまちまちで、同じ大きさのものはないと言っても良いかもしれません。
例えば、クフ王のピラミッドでは、上に行くほど石の大きさは小さくなっていきます。唯一、石の大きさを揃えて建物を建てたのがアメンヘテプ4世で、このためにこの石が出土すると、たちどころに時代が分かります。石の大きさだけで時代の判別ができるという、稀有な例です。

一般向けなので、巻末の参考文献は最小限に抑えられています。
ルクソール博物館の2階には、タラタートによる復原された大壁面の展示があって、この博物館の特徴のひとつとなっていますが、しかし石のパズルというのは大変で、かつてはIBMが協力し、どの石とどの石とが合うかをコンピュータを使って処理したりもしました。この仕事はカナダの歴史家D. レッドフォードが進め、別に報告書も刊行されています。

カンボジアのバイヨン寺院の外周壁のパズルをやろうか、という企画にも関わったことがありましたけれども、ひとりでは到底動かせない石材のレリーフのパズルというのは大変です。本当に接合できるのかどうか、最後はやはり合わせてみないと分からない。
ボロブドゥールの首を切られた多数の仏像でも、頭と胴体との接合をコンピュータで処理する試みをおこなっていたかと思います。

「アメンヘテプ」と刻まれている王名を、「アクエンアテン」と刻み直している写真もあったりと、見て楽しませることが存分に発揮されています。
83ページに掲載されているカルナックのアメン大神殿のカラー図版による平面図では、どこの部分をどの王が建立したがが一目で分かり、重要。こういうものを掲載している書籍はきわめて限られます。
カルナックへ行けば、入口のところに似たような大きな平面図がガラスに入って掲示されていますが、その綺麗な図版が載っているとお考えください。

2009年6月1日月曜日

Bietak (Hrsg.) 1996


古代エジプトの住居、また王宮や宮殿について論じ合った国際会議の記録。主催者はM. ビータックで、テル・エル=ダバァの王宮を発掘した人であり、できる限り広い見地からエジプトの住居や王宮を眺め渡そうとした試みがおこなわれています。
こうした会合はあんまり例がなく、貴重。

Manfred Bietak (Herausgeber),
Haus und Palast im alten Ägypten.
Internationales Symposium 8. bis 11. April 1992 in Kairo.
Untersuchungen der Zweigstelle Kairo des Österreichischen Archäologischen Instituts, Band XIV.
Österreichische Akademie der Wissenschaften:
Denkschriften der Gesamtakademie, Band XIV.
(Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien, 1996)
294 p., 9 Pläne.

Inhalt:
Vorwort (7)
Felix Arnold: Settlement Remains at Lisht-North (13)
Manfred Bietak: Zum Raumprogramm ägyptischer Wohnhäuser des Mittleren und des Neuen Reiches (23)
Charles Bonnet: Habitat et palais dans l'ancienne Nubie (45)
Zahi Hawass: The Workmen's Community of Giza (53)
Josef Dorner: Zur Lage des Palastes und des Haupttempels der Ramsesstadt (69)
Dieter Eigner: A Palace of the Early 13th Dynasty at Tell el-Dab'a (73)
Robin Hägg: The Palaces of Minoan Crete / Architecture and Function in a Comparative Perspective (81)
Peter Jánosi: Hausanlagen der späten Hyksoszeit und der 18. Dynastie in Tell el-Dab'a und 'Ezbet Helmi (85)
Peter Jánosi: Die Fundamentplattform eines Palastes (?) der späten Hyksoszeit in 'Ezbet Helmi (Tell el-Dab'a) (93)
Horst Jaritz: The Temple Palace of Merenptah in his House of a Million Years at Qurna (99)
Achim Krekeler: Stadtgrabung am Westkom von Elephantine / Wohnbauten des 1. Jahrtausends v. Chr. (107)
Klaus Peter Kuhlmann: Serif-style Architecture and the Design of the Archaic Egyptian Palace ("Königszelt") (117)
Peter Lacovara: Deir el-Ballas and New Kingdom Royal Cities (139)
Nannó Marinatos: The Iconographical Program of the Palace of Knossos (149)
P. Paice, J. S. Holladay Jr., E. C. Brock: The Middle Bronze Age / Second Intermediate Period Houses at Tell El-Maskhuta (159)
Ibrahim Rizkana: The Prehistoric House (175)
Abdel-Aziz Saleh: Ancient Egyptian House and Palace at Giza and Heliopolis (185)
Stephan J. Seidlmayer: Die staatliche Anlage der 3. Dyn. in der Nordweststadt von Elephantine / Archäologische und historische Probleme (195)
Alan J. Spencer: Houses of the Third Intermediate Period at El-Ashmunein (215)
Rainer Stadelmann: Temple Palace and Residential Palace (225)
Christian Tietze: Amarna, Wohn- und Lebensverhältnisse in einer ägyptischen Stadt (231)
Charles C. Van Siclen III: Remarks on the Middle Kingdom Palace at Tell Basta (230)
Thomas von der Way: Early Dynastic Architecture at Tell el-Fara'în-Buto (247)
Cornelius von Pilgrim: Elephantine im Mittleren Reich: Bemerkungen zur Wohnarchitektur in einer "gewachsenen" Stadt (253)
Robert J. Wenke and Douglas J. Brewer: The Archaic - Old Kingdom Delta: the Evidence from Mendes and Kom El-Hisn (265)
David Jeffreys: House, Palace and Islands at Memphis (287)

Marinatos、あるいはHäggが発表者の中に入っているのは面白い。エジプトとミノアとの関連がもちろん考慮されています。彼らの編書、

Robin Hägg and Nanno Marinatos, eds.,
The Function of the Minoan Palaces.
Skrifter Utgivna av Svenska Institutet i Athen, 4, XXXV / Acta Instituti Atheniensis Regni Sueciae, Series in 4, XXXV.
Proceedings of the Fourth International Symposium at the Swedish Institute in Athens, 10-16 June, 1984
(Stockholm, 1987)
344 p.

は見るべき価値があります。

この中で重要なのは、ビータック、クールマン、そしてシュタデルマンによる各論考であるように思えます。
ビータックはエジプトにおける住居の空間構成の変遷に光を当てようとしており、しばしば引用される論文。ピートリが発掘し、H. リッケが解釈をおこなったカフーンの住居が再び注目されています。ここだけカラー図版が用いられている(pp. 32-33)のは、編者だからできること。
クールマンはエジプトの最初の建築の姿を探っていますが、口を開けたワニの写真を載せるなど、想像力を駆使した楽しい読み物を提示しています。この人は古代エジプトにおける玉座、つまり王が座る椅子の専門家で、実物があまり残っていないものをヒエログリフや絵画資料から類推する術に長けている研究者。

Klaus P. Kuhlmann
Der Thron im alten Ägypten: 
Untersuchungen zu Semantik, Ikonographie und Symbolik eines Herrschaftszeichens.
Abhandlungen des Deutschen Archäologischen Instituts Kairo, 
Ägyptologische Reihe, Band 10
(Verlag von J. J. Augustin, Glückstadt, 1977)
xvi, 114 p., V Tafeln.

ピラミッド研究で有名なシュタデルマンは王宮の研究家でもあり、新王国時代の王宮全般に関して分かりやすい説明をおこなっていて、自分の調査地のひとつであるクルナのセティ1世葬祭殿をもとに、さまざまな示唆を投げかけているのが興味深い。アマルナを抜きにした王宮の解説。

2009年4月30日木曜日

Bietak (Hrsg.) 2001


古代ギリシア建築と古代エジプト建築との接点を探るため、ウィーンで開催された国際コロキアムの報告書。薄手の本ながら、重要な論考が収められています。コロキアムは、シンポジウムと似たような専門家による会合ですが、より専門性が高く、通常は少人数でおこなわれます。

Manfred Bietak (Herausgegeben von),
Archaische Griechische Tempel und Altegypten.
Internationales Kolloquium am 28. November 1997 am Institut fur Agyptologie der Universitat Wien.
Untersuchungen der Zweigstelle Kairo des Osterreichischen Archaologischen Instituts, Band XVIII
(Verlag der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien, 2001)
115 p.

エジプト建築がどこまでギリシア建築に影響を与えたのかに関しては、実は多くが分かっていない状況です。ギリシア建築研究の大御所クールトンも、この点に関してはほとんど何も言っていない。
ウィーン大学のビータックのもとで、この会合が開かれている点は注目されるべき。たぶん彼のところ以外では、こうした企画は困難と思われます。「古代エジプトにおける住居と王宮」(1996年)が出版された時と同じシリーズにて刊行。
地中海を取り巻く諸文明を踏まえた研究調査を進めているビータックならではの書。

イスミアの前身神殿についての、建造技術を扱った論考は非常に興味深い。小振りの石を用いて建造された神殿ですが、使用石材には溝が切られており、縄をかけた跡と見られるこの加工痕はきわめて珍しいため、クールトンもかつて言及していました。

ヘーニーやアーノルドといった、有名な学者たちも執筆しています。
G. ヘーニーは、"Tempel mit Umgang"という副題を持つ論文を書いており、これはもちろんボルヒャルトの名高い著作を意識したもの。ボルヒャルトに対する注釈と情報の更新という位置づけです。図版多数。
D. アーノルドは末期王朝以降の神殿における木製屋根の復原を述べています。彼自身がすでに出版している"The Temples of the Last Pharaohs" (1999)を補完する内容。これも復原図がたくさん作成されています。

2009年4月29日水曜日

Romer 2007


クフ王のピラミッドに関し、最新の情報を盛り込んだ分厚い書。一般向けに何冊も出しているローマーだけあって、読みやすさが工夫されています。
51の断章から構成され、それらの全体を7つの章に分けていますが、こういう書き方は珍しいと言っていい。ひとつひとつの断章は短い記述からなっており、必ず断章の中には図版が含まれるように配慮されています。クフ王のピラミッドについての面白いトピックが50以上、集められているという印象です。
裏表紙にはW. K. シンプソン、B. J. ケンプ、そしてI. ショーによる好意的な書評の抜粋が掲載されており、この3人はいずれも非常に有名なエジプト学者。もっとも、ショーはケンプの弟子筋だから、その点は割り引かないといけないかもしれません。
でも、全般的には評価が高い書だと思います。

John Romer,
The Great Pyramid: Ancient Egypt Revisited
(Cambridge University Press, Cambridge, 2007)
xxii, 564 p.

話の中心は、このピラミッドがどう設計され、また建造されたかを綴った部分にあります。
大きな特徴は、20キュービット間隔の水平線と、底辺を6つに分割してできる垂直線とでできる格子を基本として、内部の部屋や通路の位置も、外側の勾配も決定されたとみなしている点で、これは要するに、今まではピラミッドの設計方法を語るに当たっては抜きにはできなかった「リンド数学パピルス」の「ピラミッドの問題」をすっぱりと切り捨てたことを意味します。
建築学的には、これが最も重大な点となるかと思われます。

「リンド数学パピルス」をどう考えるかは、悩ましい問いのひとつではありました。
書かれた時代はピラミッド時代よりも下りますから、同じ手法が古王国時代にも果たして適用されていたかは疑念が残るのではないか。これは文献学が主流のエジプト学にとって、当然討議がなされる問いかけです。従って、「リンド数学パピルスは考慮しなくてもいい」という立場を取る研究者がいても不思議ではありません。

「リンド数学パピルス」を手放すメリットがあって、それはこの本のように、少なくともクフ王のピラミッドまでは話が簡略化でき、整然と語ることができるという点です。
逆に考えるならば、この流れに属する説における致命的なデメリットは、クフ王以降のピラミッドに対して普遍性を持たないという点です。この説に拘泥する限り、「クフ王のピラミッド以降では計画方法が変わったんだ」と考えざるを得ません。

ここはピラミッド研究に関わる者の見解が大きく分かれるところで、非常に興味深い様相を呈しています。
建築に関わる人間は、「リンド数学パピルス」に書かれている勾配の素朴な決定方法を重視する傾向にあり、だから古代エジプト建築研究の第一人者、D. アーノルドは、古王国時代のピラミッドのセケド(リンド数学パピルスに登場する、勾配を決める方法)を求めたりしています。

ここ20年の間にピラミッド学はかなりの進展を見せました。残念なことに、日本にはあまりその情報が入ってきていないと感じます。
この本の日本語訳もまた望まれる所以です。
スペンスによるこの本の評については、EA (Egyptian Archaeology) 33 (2008)を参照。