2009年2月8日日曜日

Hulten 1968


ニューヨークの近代美術館で開催された「機械展」のカタログ。表紙がブリキでできている特殊な装釘で、本が広げられるように蝶番がついているのが大きな特色。

K. G. Pontus Hulten,
The Machine as Seen at the End of the Mechanical Age
(The Museum of Modern Art, New York, 1968)
216 p.

正確には「機械時代の終わりの機械」という名の展覧会。
20世紀の後半からは、はっきりと今までの機械とは異なる機械の存在が意識されるようになります。具体的にはコンピュータ。簡単な機械というものは古代からあったわけですが、19世紀の後半からは日常生活に画期的な機械が導入されて事情が一変します。この時期、新たな知覚を得たといっても過言ではありませんでした。
鉄道や自動車の普及による高速度の体験、気球や飛行船、あるいは飛行機による高位置の視点の獲得、写真や映画による視覚像の定着、そして電気というこれまで用いられなかった不思議なエネルギー。20世紀の初頭に、こうした驚きの感覚はすぐに未来派などによって表現されます。

このカタログはレオナルド・ダ・ヴィンチによる飛行機のスケッチから始められており、機械にまつわる美術を中心として集められています。「絵を描く機械」などのユーモラスかつペシミスティックな作品を作ったジャン・ティンゲリーなど、懐かしいものが並んでいますが、もちろん目玉はマルセル・デュシャンによる「大ガラス」。
これらの図版はすべてモノクロですけれども、「美術とテクノロジー」と題された最後の章の数ページだけ青刷りで、機械時代が終わり、再び世界観が変わったことが告げられています。

機械文明と美術・文学を結びつけて語ったミッシェル・カルージュのきわめて有名な著作「独身者の機械」が、ここで下敷きにされているのは言うまでもありません。この本、今では和訳されたものさえ高額で取引されています。20世紀前半の機能主義や機械美について語ろうとする際には基本となる、重要な評論。
「独身者の機械」という妙なタイトルは、デュシャンの「大ガラス」の正式な題名、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」に基づきます。

ミッシェル・カルージュ著、高山宏・森永徹訳
「独身者の機械」
(ありな書房、1991年)
原著:
Michel Carrouges,
Les Machines celibataires
(Arcanes, Paris, 1954)
245 p.

機械は実際に出てきませんが、この和訳と同じ年に出版された種村季弘による似た題名の本があって、大きく動いた20世紀という時代を1990年代に多くの人が振り返ろうとしたことを示唆しています。

種村季弘
「愚者の機械学」
(青土社、1991年)
292 p.

近代社会からはみ出した、とんでもなくおかしな芸術家や学者、詐欺師などを語った面白い書。

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