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2009年8月22日土曜日

KRI (Kitchen, Ramesside Inscriptions) 1969-1990


古代エジプトの第19王朝と第20王朝とをあわせて「ラメセス時代」と言われますが、この間の歴史的な文字資料を集成した膨大な量の文献。8巻で総計が3000ページを超えています。8巻目は索引ですが、それ以外は全部、ヒエログリフを手書きで筆写しています。

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions (KRI): Historical and Biographical, 8 vols.
(B. H. Blackwell, Oxford, 1969-1990)

Vol. I: xxxii, 416 p.
Vol. II: xxxii, 928 p.
Vol. III: xxxii, 848 p.
Vol. IV: xxxii, 448 p.
Vol. V: xxxii, 672 p.
Vol. VI: xxxii, 880 p.
Vol. VII: xxxii, 464 p.
Vol. VIII: viii, 264 p.

この時期の文字資料はあまりにも数が多すぎて、纏める人が出てこなかったのですが、長い年月をかけて出版が実現されました。現在においてもラメセス時代に属する文字史料は、発掘調査の進展に伴い、増え続けているわけで、終わりのない仕事。

当初は1960年代の末から各巻はいくつもの分冊にて刊行。それ故、初版の刊行年次は複雑です。
さらにこのKRI(7巻+索引)には、題名が似ている続編があって、英語への翻訳を扱うRITAと、注釈を記載したRITANCの2つのシリーズがそれぞれ対応して7巻ずつ、刊行の予定。早稲田隊によるアブシール調査で発見されたカエムワセトの石造建造物に関しても、ある程度、成果を反映させています。
書店のサイトで検索すると、あまり正確ではない近刊の予告も含まれる場合があります。ものすごく情報が錯綜していて、もう何が何だか分からなくなっているのはこうした以上の理由のため。

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions: Translated and Annotated.
Translations
(RITA)
(Blackwell, Oxford, 1993-)

現在、第5巻(2008)までが刊行。この最新刊の目次と書評については

http://www.bmcreview.org/2009/07/20090762.html

などを参照。一方、

Kenneth A. Kitchen,
Ramesside Inscriptions: Translated and Annotated.
Notes and Comments
(RITANC)
(Blackwell, Oxford, 1993-)

のシリーズは、第2巻(1998)までが既刊。
KRIの最初の巻が出てから40年が経ちますが、今なお、独力で進められています。信じ難い仕事です。

最初はRITARITANCが交互に出されていたのですが、最も重要であるとみなされるラメセス2世時代を記したRITANCの巻が刊行された後、近年では英訳を扱うRITAのみが先行して出版されるようになりました。時間がより必要とされる注釈を後回しとし、仕事のやり方を変えたのだと思われます。
Kitchenはもうすぐ80歳。

2009年8月2日日曜日

Endruweit 1994


エジプトの「アマルナ型住居」と呼ばれるものは、住居の歴史で最初の方に出てくる有名なものになっていますが、それだけを取り上げて論じている専門書ということになると、世界でたった数冊しかありません。その中では、もっとも新しい本です。

Albrecht Endruweit,
Staedtischer Wohnbau im Aegypten:
Klimagerechte Lehmarchitektur in Amarna

(Gebr. Mann, Berlin, 1994)
220 p., 11 Tafeln

Inhaltsverzeichnis:
1. Die Aussenhuelle
2. Die Mittelhalle
3. Zur Schaffung eines behaglichen Innenklimas
4. Das Schlafzimmer
5. Der Garten
6. Zusammenfassung
7. Klimatische Faktoren und Wohnkultur

アマルナ型住居の研究と言えば、H. リッケによるモノグラフが基本となります。その後にボルヒャルトとリッケによる図面集が出版されたのは20世紀末で、これをもとにして詳しい分析がようやく始められるようになりました。

この本は、中部エジプトの砂漠に建てられたアマルナ型住居が、その土地の風土と気候にどのように適合しているかを詳述したものです。
エジプトは乾燥地帯で、砂混じりの北風が年間を通じて吹きつける場所ですから、住居の形態もこれに合うように工夫されていました。北風を受けるための北向きの高窓が造られたのはそのひとつです。寝室が必ず北向きに造られたのもこの理由によります。日乾煉瓦造による住居はこの地方にとって、過ごしやすい住環境を提供する重要な役割を演じていました。

砂漠の家の周囲に木を植えたり、人工的に池を造ったりすることは大変な苦労を必要としたはずなのですが、古代エジプト人たちは好んで庭園を造営しました。水面や緑を見て楽しむということもあったでしょうが、並んだ樹木は砂を含んだ風から泥造りの家が損傷を受けることを防ぐ防風林や防砂林の役目を果たし、水を湛えた人工湖もまた、気化熱によって気温を下げることに幾分は貢献したのではないかと言われています。
壁画には、家の中に水を撒いている光景を描写したものもあり、打ち水がおこなわれたと考えられています。

寝室の奥の天井の形式で、ヴォールト天井が架けられていたという復原は、おそらくは否定されるべきものです。根拠は、ここだけ両側の壁体が厚くなっているという点と、ピートリの報告による家型模型ですけれども、あまり説得力を感じません。ここには早稲田隊のマルカタ王宮の「王の寝室」も引用されていますが、曖昧な報告をしたことは反省すべき点。もしヴォールトが架かっていたとしたら、アマルナ型住居の通風窓が絵画史料で三角形に描かれることはなかったと思われます。

この本の書評を、アマルナ調査にも携わったK. SpenceがJESHO 39:1 (1996), pp. 50-52で書いており、そこで展開されている知恵比べも面白い。古い科学情報をもとにしているのではないかという疑義が出されたりしますけれども、最後の方では自分がエジプトの日乾煉瓦造の建物で日々を過ごした結果の快適さを個人的経験として述べていて、結局は泥で造られた建物の魅力を双方の研究者が伝える結果となっています。

2009年7月21日火曜日

Haring 2006


前にも触れたことがありますが、エジプト学でTTとは"Theban Tomb"のことで、その第1番がディール・アル=マディーナにあるセンネジェムの墓。2番はその隣の息子たちの墓となります。
センネジェムの墓に記された文字を集成したのがこの本。パレオグラフィーというのは「古文書学」と訳されたりしますけれども、フィロロジー「文献学」との区別が分かりにくい。手書きの文字のかたちなどを調べることによって地域による違いや年代差など、古い時代のことを研究する分野のことを指します。
他にもレキシコグラフィーとかプロソポグラフィー(プロソフォグラフィー)とか、何々グラフィーというのが複数あって、非常に紛らわしい。
ま、文字を専門にやろうと思わない人は、あまり気にしないことです。

Ben J. J. Haring,
The Tomb of Sennedjem (TT1) in Deir el-Medina:
Paleography.
IF 958.
Paléographie Hiéroglyphique (PalHiero) 2
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2006)
iv, 220 p.

フランスのオリエント考古学研究所(IFAO)からは、すでにパレオグラフィーのシリーズが3冊出ており、他にもエスナ神殿のアーキトレーヴに刻まれた文字や、アブー・シンベルの小神殿の文字などが既刊。

http://www.ifao.egnet.net/publications/catalogue/PalHiero/


にてリストを見ることが可能です。
10ページ目からは文字の向きが記してあって、H. G. Fischerが1977年に書いた本の影響がうかがわれる箇所。向きに規則があるわけですが、いわゆる"retrograde"がこの墓にもあって、その説明が11ページにあり、縦書きの文章が左から右に書かれているものの、通常とは異なって文字は右向きとなります。
人の足であらわされる文字の向きが、場合によって左向きにも右向きにもなるという話は、やはり面白い。墓室に「入る」あるいは「出る」という記述に合わせ、向きが逆転します。

13ページからは間違いの指摘が記されており、古代エジプト人による手書きの文章が、3200年ほど経ってから徹底的に添削されています。30ほどの書き誤りが見つかっており、列挙されていますけれども、「死者に鞭打つ」とはこのことを言います。

今日、労働者集合住居内にはもはや立ち入れない状態となっており、墓室内にも保護のためのガラスの衝立が巡らされているはず。時代の流れで見学しにくくなっていますが、他方でウェブサイトは充実しており、

http://www.osirisnet.net/tombes/artisans/sennedjem1/e_sennedjem1_01.htm


では3ページにわたってこの墓を丁寧に紹介しています。
近年、この墓を包括的に扱った論文にも触れておくべきでしょう。同じ2006年の執筆。カタロニア語で書かれています。

Marta Saura Sanjaume,
La Tomba de Sennedjem a Deir-El-Medina TT.1
(Thesis, University of Barcelona, 2006)
xi, 541 p.

http://tdx.cesca.es/TESIS_UB/AVAILABLE/TDX-0814106-114225/


全文をPDFでダウンロードできますが、12の章ごとに分かれているため、少々手間がかかります。遺物をカタログ化した労作。著者の名とセンネジェムとは、子音の並びが似ているところも面白い。著者はこれをきっかけに研究を進めたのかもしれません。

多色で描かれたヒエログリフを紹介した本は、そう言えばまだあんまり出ていません。
パピルスは伊東屋などで販売されていますから、日本画の顔料を膠で溶いてこれに描き、それを纏めるだけでも出版する価値があると思います。ヒエログリフは1000文字ほどありますが、全部を扱う必要がなく、良く用いられるものだけで充分。
文法を知る必要が一切ないというのが大きな利点です。卒業研究のテーマとしては最適と思われるのですが。

2009年7月13日月曜日

Martin 1987


サッカーラ(サッカラ)でツタンカーメンに仕えた時代の高官ホルエムヘブ(ホレムヘブ)や宝庫長マヤなどの墓を発見した、G. T. マーティンによる新王国時代のレリーフの報告書。ホルエムヘブは後に王となり、テーベの王家の谷に自分の墓を造営しています。
この本、第1巻のみが現在、刊行されています。

Geoffrey Thorndike Martin,
Corpus of Reliefs of the New Kingdom from the Memphite Necropolis and Lower Egypt, Vol. I
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1987)
xv, 63 p., 114 plates.

最終ページは63ページ。
けれども本文の途中にたくさんの図版が入っており、実際にはもっとページがあります。

画像の説明はきわめて簡単。
これまであまり知られていなかったりした画像資料をできるだけ広く認めてもらおうという意図のもとに集成し、刊行された本。続巻が強く望まれますが、新しい墓、特にラメセス時代のものが次々と見つかっている状況ですので、なかなか難しい。
謝辞の最後には1985年の9月という日付が見られ、かなり前から準備されていた本であることがうかがわれます。

インデックス(索引)が設けられており、各博物館に収蔵されている登録番号と、この本で紹介されている番号との対照リスト(コンコーダンス)、及びレリーフに記載されている個人名のリストが巻末に収められています。
本を新しく出す時には、長く使ってもらいたい、読んでもらいたいと思うのは誰もが強く願うことで、その時にこの巻末のインデックスがきわめて重要になります。
単に、知っていることを長々と書くだけでは駄目だというしるし。使う人の立場に立って、使いやすいように心がけられています。こういう配慮がないと、書評では正しく指摘されます。

マーティンは歴史学者であるとともに碑文学者。ですからこういう点は周到。
文献学者がレリーフの本を出すのかという反発がもちろんあるわけで、それを充分わきまえた刊行です。むしろ、美術史学者が何故、こうしたものを早く用意しないのかという批判もここには当然、隠されていると考えるべき。

この本からは、最低限、こういう報告をすべきだという示唆をさまざまに知ることができて、非常に役に立ちます。完全版下で原稿が用意されたと推測され、著者の苦労が忍ばれる本。
カイロの早稲田ハウスで今回、久しぶりに見て、改めてマーティンの考え方に接した様な気がしています。
マーティンが一般向けに書いた本としては、

Geoffrey T. Martin,
The Hidden Tombs of Memphis.
New Discoveries from the Time of Tutankhamun and Ramesside the Great
(Thames and Hudson, London, 1991)
216 p.

が知られています。巻末にはメンフィス地域で現在確認されていない新王国時代の高官たちの墓のリストが掲載されており、きわめて面白い。
なお、関係資料として

The New Kingdom Memphis Newsletter
(Leiden and London, 1988-. ca. 20 p)

No. 1 (October 1988)
No. 2 (September 1989)
No. 3 (October 1995)

があり、これは関係者たちのみで刊行されている冊子。メンフィスにおけるトゥーム・チャペルを研究する者にはおそらく必読の刊行物。
こういうふうに、アクセスが難しい少部数刊行の出版物がある点が厄介です。続巻があるのかどうか、当方も把握していません。

アマルナの王墓の報告書だったか、マーティンが現場まで歩いていくという記述が序文にあって、驚きました。アマルナを訪れたことのある人であったら、それがどれ程の長い距離なのか、分かるかと思います。
この人の書いた報告書の序文はすごく興味深い。間違いだらけの、印刷技術が始まったばかりの時の本からの引用があります。
何が正確で何が正確でないか。また何が伝わって後世に残り、何が伝わらないのか。
そうした経緯を知っている書き方がなされています。

2009年6月5日金曜日

Kramer 2009


古代エジプトの新王国時代末期、アクエンアテンによるアマルナ時代だけに用いられた定形の小型石材を「タラタート」と呼び、3000年続いたエジプトの石造文化の中では異色。この大きさの石が出土したら、時代が分かると言うことになります。石の寸法を測ったら時代が分かるなどという研究は、世界でほとんどおこなわれていないはず。
クメール建築の分野で、ちらと見た覚えがありますけれども、建築学の専門家による考察ではありません。

このタラタートに関する文献を網羅しようとした論文で、早稲田大学の河合望先生からの御教示。こうした論考の背景には岩石学からの新たな知見が増えたこと、石切場の調査が近年、増加していることなどが挙げられます。
鍵となる本があって、すでに紹介しているVergnieuxらによる書籍がこの方面の研究をうまく促しています。

Arris H. Kramer,
"Talatat Shipping from Gebel el-Silsileh to Karnak:
A Literature Survey",
in Bibliotheca Orientalis (BiOr) LXVI, No. 1-2 (2009),
cols. 7-20.

「ビブリオテカ・オリエンタリス」は、BiOrと略記される中近東関連の研究紹介雑誌で、オランダから出版。年に3回発行で、書籍に関する雑誌。

年に1回刊行されるのは年刊誌(annual journal)。年に2回出るのは年2回刊誌(semiannual journal)。2ヶ月に一度の割合で、一年に6冊出る形態は隔月刊誌(bimonthly journal)。3ヶ月に一度の割合で、年に4回刊行されるのは季刊誌(quarterly journal)。

BiOrはいずれでもなく、年3回刊誌(quadrimonthly journal)で、かつてのDiscussions in Egyptology (DE)やVaria Aegyptiaca (VA)などもそうでした。
Quadrimonthlyというのは聞き慣れない語ですが、quadr-というのは建築で時折、目にする単語。Quadrangleやquadriface、またquadrupleなど。「4」を意味します。

この雑誌では、組版が二段組となっていて、1ページの中に縦にふたつ、文章のコラムが立ち、それぞれに別のナンバーが振られます。1ページ内にふたつの番号が振られるという方法。引用箇所の指定の際には、「××ページ、左」というような書き方よりも簡単な指示ができるわけで、エジプト学における最強の百科事典、Lexikon der Ägyptologieと同じやり方。

建築でタラタートが問題となるのはまずその大きさで、52×26×20-24センチメートルという定形のうち、高さがどうしてこの値となるのかが良く分からない。1キュービットは52.5センチですから、長さはこの尺度を意識したに違いなく、また幅もこれの半分です。タラタートの積み方はレンガで言うイギリス積みで、組積の際には縦目地が揃うことは避けられますから、レンガの場合と同じく、1/4枚分の幅だけずらされることになります。
高さが幅よりも若干短い根拠、また長さと幅に比べて誤差が大きい理由は不明ですが、石材の層理を考えてのことであったのかもしれません。寸法が同じだと、横に並べて置くべきものを縦に倒して設置する可能性があるからで、石目を意識した結果かも。
Kramerは註7で、1×1/2×1/2キュービット、と書いていますけれども、高さを幅とは数値を揃えない明瞭な意図があったのかもしれない。

ベルギー隊の報告に基づき、

"Quarry marks on the ceilings of some of the stone quarries at this site indicate the size of the blocks to be extracted." (col. 13)

と書いてありますが、ひょっとして彼らは石の切り出しの際のセパレーション・トレンチのこと、また天井面に沿って水平に掘り進めるトンネルのことを忘れているのではないかと思います。必要な石材の大きさが、石切場の天井面に残されることはほとんどないということに気づいていないのではないかという心配があり、ベルギー隊の調査の進捗が注目されます。

2009年6月3日水曜日

Vergnieux 1999


アメンヘテプ4世(アクエンアテン)によるテーベの建物を追究した専門書。二巻本です。
アマルナへ遷都をおこなう前に、この王によってカルナックのアメン大神殿の最奥の部分へ建造物が建立されたのですが、その際、大きさの規格を持つ石材タラタート(あるいはタラッタート)によって積まれました。
人ひとりが持ち上げることのできるほどの大きさの石で、これにより、迅速な建造が図られたと考えられています。

Robert Vergnieux,
Recherches sur les monuments thebaines d'Amenhotep IV a l'aide d'outils informatiques:
Methodes et resultats
.
Cahiers de la Societe d'Egyptologie, vol. 4,
2 fascicules (texte et planches)
(Societe d'Egyptologie, Geneve, 1999)
ix, 243 p. + (iii), 109 planches

タラタートにはレリーフが刻まれており、そのモティーフの復原が主な作業。図版編の第2巻は、折り込みのページを多用し、丁寧に図示をおこなっています。
今、見比べてみる時間がないのですが、この作業は

Jocelyn Gohary,
Akhenaten's Sed-festival at Karnak.
Study in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1992)
x, 238 p., 110 pls.

でもおこなわれていたはず。またD. レッドフォードのアケナテン・テンプル・プロジェクトの仕事とどれくらいの差異があるのかも、興味が惹かれるところです。
複数の国にまたがって、パズルが長い年月にわたって進められてきた典型。

この著者のタラタートに関する考え方は周到で、規格材を用いて壁を作る時、隅部の収まりで問題が生じることを、しっかりと考察しています。
それだけではなく、岩盤からの具体的な石切りの様子までも考察している点は注目されます。

すでに書きましたが、タラタートは小口積みと長手積みの層を交互に重ねていく、今で言う「イギリス積み」と同じ煉瓦の積み方を示しますが、これですと「羊羹」と呼ばれる縦割りの細長い煉瓦が必要となってきます。タラタートの場合にも同じことがおこなわれたという考察が示されており、これはタラタートそのものの寸法を考える上で重要。

しかしパズルの結果を示している図版がやはり目を惹き、感心するところです。
もう少し大きい図版を用いて、著者は出版したかったかもしれませんが、しかしこれは切りがない願いというもの。

2009年6月2日火曜日

Vergnieux and Gondran 1997


アメンヘテプ4世(アケナテンもしくはアクエンアテンという名前に変えられる前の王名)がカルナックのアメン大神殿の裏側に作った神殿の復原をおこなっている本。コンピュータ・グラフィックスをたくさん用い、ほとんど全ページにカラー図版があります。

Robert Vergnieux et Michel Gondran,
Amenophis IV et les pierres du soleil: Akhenaton retrouve
(Arthaud, Paris, 1997)
198 p.

カルナックの裏側には、観光客は現在、立ち入ることができませんが、こんな凄いものが当時はあったのかと驚かされます。と言うか、アマルナのアテン神殿をそのまま持ってきている復原図ではあるのですけれども。

「タラタート(タラッタート)」と呼ばれる石の説明が詳しく、石切りの様子までも復原しています。またそこに残されているレリーフのジグソーパズルを経て復原された壁面レリーフの図が掲載されており、これもまた見事。

タラタート(タラッタート)というのは、長さが1キュービットの石で、後にアメンヘテプ4世からアケナテン(アクエンアテン)と名前を変えるこの王様だけが使った規格石材。
3000年の間、古代エジプトではさまざまな石造建築が造られましたが、その石材の大きさはまちまちで、同じ大きさのものはないと言っても良いかもしれません。
例えば、クフ王のピラミッドでは、上に行くほど石の大きさは小さくなっていきます。唯一、石の大きさを揃えて建物を建てたのがアメンヘテプ4世で、このためにこの石が出土すると、たちどころに時代が分かります。石の大きさだけで時代の判別ができるという、稀有な例です。

一般向けなので、巻末の参考文献は最小限に抑えられています。
ルクソール博物館の2階には、タラタートによる復原された大壁面の展示があって、この博物館の特徴のひとつとなっていますが、しかし石のパズルというのは大変で、かつてはIBMが協力し、どの石とどの石とが合うかをコンピュータを使って処理したりもしました。この仕事はカナダの歴史家D. レッドフォードが進め、別に報告書も刊行されています。

カンボジアのバイヨン寺院の外周壁のパズルをやろうか、という企画にも関わったことがありましたけれども、ひとりでは到底動かせない石材のレリーフのパズルというのは大変です。本当に接合できるのかどうか、最後はやはり合わせてみないと分からない。
ボロブドゥールの首を切られた多数の仏像でも、頭と胴体との接合をコンピュータで処理する試みをおこなっていたかと思います。

「アメンヘテプ」と刻まれている王名を、「アクエンアテン」と刻み直している写真もあったりと、見て楽しませることが存分に発揮されています。
83ページに掲載されているカルナックのアメン大神殿のカラー図版による平面図では、どこの部分をどの王が建立したがが一目で分かり、重要。こういうものを掲載している書籍はきわめて限られます。
カルナックへ行けば、入口のところに似たような大きな平面図がガラスに入って掲示されていますが、その綺麗な図版が載っているとお考えください。

2009年5月27日水曜日

Cerny 1973


チェルニーの主著。
デル・エル=メディーナ(Deir el-Medina: もしくはディール・アル=マディーナ)が、王家の谷で働いていた者たちの村であるということをいち早く類推した研究者でした。新王国時代のヒエラティックを精力的に読んだ人の本です。カイロ博物館収蔵の土器片・石灰岩片に記された文字資料(「オストラコン」;複数形は「オストラカ」)やデル・エル=メディーナから出土した文字資料、あるいはテーベの懸崖に残る読みにくい多数の落書きなどを、何冊もの報告書にまとめた偉人。ツタンカーメンの墓から見つかったヒエラティックを解読した報告書も書いています。
この人の教えを受けたのがJ. J. Janssenで、彼はその後、オランダのレイデンにデル・エル=メディーナに関する一大研究拠点を作り上げました。

デル・エル=メディーナ研究の難しいところは、刊行された資料を用いるだけでは埒があかないことです。未刊行資料にも目を通さないと話が進みません。
10数年ほど前にクメール研究に携わるようになった時、連想したのは、デル・エル=メディーナ研究と似た状況だなということでした。クメール研究においても、パリに本拠を置くEFEO(フランス極東学院)所蔵の未刊行資料に当たらないと、非常な不自由を感じることになります。資料が一握りの人間たちだけに知られている状態にあるという好例。

Jaroslav Cerny,
A Community of Workmen at Thebes in the Ramesside Period.
Bibliotheque d'Etude (BdE) 50; IF 453
(Institut Francais d'Archeologie Orientale, Le Caire, 1973)
iv, 383 p.

レプリントも出版されました。
王家の谷が当時、何と呼ばれていたか(「セト・マァト」、『真実の場所』というほどの意味)の説明に始まり、労働者集団の名、階層と各肩書き、班構成の考察、掘削された石の量の単位、その他、岩窟墓の造営に関する基本的な問題がここでは展開されています。デル・エル=メディーナ研究における必携の書。
これには続巻というべきものがあって、彼の遺した断片的な情報が薄い本となって纏められています。

Jaroslav Cerny,
The Valley of the Kings (Fragments d'un manuscrit inarcheve).
Bibliotheque d'Etude (BdE) 61; IF 455
(Institut Francais d'Archeologie Orientale, Le Caire, 1973)
vi, 55 p.

また、上記2冊の本に書かれている内容の要約に類する文章が、The Cambridge Ancient History (CAH)のどこかの巻に短く掲載されているはずですので、興味のある方は最初、これに目を通すと良いかもしれない。

チェルニーはまた、グロールと共著で新エジプト語の文法書を書いており、まず中エジプト語の学習を終えた者はこれに進むことになります。

Jaroslav Cerny and Sarah Israelit Groll
assisted by Christopher Eyre,
A Late Egyptian Grammar.
Studia Pohl: Series Maior, Dissertations Scientificae de Rebus Orientis Antiqui 4.
(Biblical Institute Press, Rome, 1984, 3rd updated ed.
First published in 1973)
lxxxiv, 620 p.

アシストしている人間がクリストファー・エアである点に注意。Powell編の本で新王国時代の労働について書いている研究者です。
この書、本文をなす620ページの文法解説の前に、84ページにもわたる前置きが付きます。ちょっとない。
グロールも2007年末、81歳で亡くなってしまいました。

2009年5月3日日曜日

Demaree and Egberts 1992


世界最初のストライキがおこなわれたと言われるデル・エル・メディーナ(ディール・アル=マディーナ:専門書においては"DeM"と略されることが多々あります)の研究書。
これは王家の谷を造営した職人たちが住んでいた村で、200年ばかり存続しました。
この村の研究を進めていることで有名なのがレイデン大学。ここに「非西欧研究センター、Centre of Non-Western Studies: CNWS」というのがあって、エジプト学も東南アジア研究もおこなっています。

R. J. Demaree and A. Egberts,
Village Voices:
Proceedings of the Symposium "Texts from Deir el-Medina and Their Interpretation", Leiden, May 31 - June 1, 1991.
CNWS Publications no. 13
(Centre of Non-Western Studies, Leiden University, Leiden, 1992)
(ix), 147 p.

DeMの研究書は何冊も出ていますけれども、非常にコアな研究グループですから、全貌を知るまでには時間がかかります。重要史料であるオストラカが全部出版されていないというのが難点のひとつ。1/3が出版済み、残りの1/3についてはチェルニーのノートに記されていて、あとの1/3が公開待ち、というような情勢でしたが、このところ史料の出版が続いており、改善されつつあります。CNWS Publicationsのシリーズはきわめて有用。
編者のDemareeは大英博物館蔵のオストラカの本を近年、出版しました。でも判型が小さく、情報の重複を避けているために他の本をいちいち参照しなければいけないところが残念。

Robert J. Demarée,
Ramesside Ostraca
(The British Museum, London, 2002)
48 p., 224 plates.

この村には、字が汚いことで知られる書記がいます。性格も相当悪かったようですが、3000年以上も前なのに、悪筆で歴史に名を残していることでは有数の人。
あるオストラカでは、この人の名前がほんの一部しか残されていないのにも関わらず、読解では職名まで復元されており、この狭い学問領域における研究層の厚さが示唆されます。
住人についてはとことん細かく調べられていて、Who's Who at Deir el-Medina (1999)などという本まで出ています。家系図も作成されており、3000年以上も前の当時の住人にとって、それが喜ばしいことなのかどうかは不明。

Demareeはこの本で王墓の寸法に言及しているオストラカを集めており、注目されます。村の人のうち、一体どれだけの者が字を読み書きできたかを問うJanssenの論考も読むべき論文。
Bierbrier、Gasse、Haring、McDowellも寄稿しており、この人たちはメディーナ研究の中枢にいる学者たちです。Haringはこのところ、活躍が目立っています。

20ページ以上も続く巻末の

"A Systematic Bibliography on Deir el-Medina"

は、まことに瞠目すべきリスト。この改訂版は出ていますし、最新情報の公開方法は今日、すでにウェブサイトへと移っています。
この出版物は薄手の本ながら、未だ重要さを失っていません。

2009年4月24日金曜日

Petrie 1897


ピートリによるルクソール地域における調査報告。「テーベの6つの神殿」と題名をさらっと書いていますが、現在ではこのような大胆な調査は絶対にできません。ナイル川沿いに並ぶ王の記念神殿を、次から次へと渡り歩いています。
見るだけであったら、もちろん可能。しかし発掘をやってるわけで、こういうすごい調査が今後もおこなわれるのであれば、是非とも参加したいと思わせます。

W. M. Flinders Petrie, with chapter by Wilhelm Spiegelberg,
Six Temples at Thebes. 1896.
(Bernard Quaritch, London, 1897)
iv, 33 p., 26 plates.

Contents:
Introduction (p. 1)
Chapter I. The Chapel of Uazmes, etc. (p. 3)
Chapter II. The Temple of Amenhotep II (p. 4)
Chapter III. The Temple of Tahutmes IV (p. 7)
Chapter IV. The Work of Amenhotep III (p. 9)
Chapter V. The Temple of Merenptah (p. 11)
Chapter VI. The Temple of Tausert (p. 13)
Chapter VII. The Temple of Siptah (p. 16)
Chapter VIII. Later Objects and Plan (p. 17)
Chapter IX. The Inscriptions (by W. Spiegelberg) (p. 20)
Chapter X. Shells Used by the Egyptians (p. 30)

建築に関する情報が各所に散りばめられている報告書で、ピートリが建築についての深い知識を豊富に有していたことが、ここからも容易にうかがわれます。建築の見方を自分で会得した人。稀有な存在です。
特別な言葉に慣れない者にとっては専門用語の「鎮壇具」と言われても「ファンデーション・デポジット」と言われても、いっこうにイメージが思い浮かばないのですが、要するに建物の下に埋められる「お供え品」あるいは「記念品」のことで、それを基礎の下から見つけ出しており、貴重な報告。中でも「ネフェル」の文字を書き込んだ石片が報告されていて、これはアブ・シールのカエムワセトの遺構からも出ていたはず。
「古代エジプトにおける鎮壇具」という題の博士論文はすでに英語で書かれていますが、時を経ていますので、情報の更新が必要となっています。

James Morris Weinstein,
Foundation Deposits in Ancient Egypt
(Dissertation, University of Pennsylvania. 1973)
lxxvi, 437 p.

さて、

"The two model corn grinders of yellow quartzite have the 'nefer' signs and a border line painted on in black." (p. 15)

と記していて、解釈が面白い。
図版21では、出土したさまざまな工具を紹介しており、特に3つのノコギリに関する言及が注目されます。

"The saws are of the Eastern type, to cut when pulling and not when pushing. There is no appreciable set in the teeth to alternate sides in order to clear the way in cutting; but the rake of the teeth toward the handle is obvious in the longest saw, implying the pulling cut." (p. 19)

と、ノコギリの目立ての有無などについても細かく観察していて、さすがです。わざわざ「このノコギリは手前に引く時に切れるもので、押す時に切れるものではない」と書いてあります。
日本人だったら、当たり前のことなのでこういうことは報告書に書かないはず。というのは、日本のノコギリはみな引く時に切れるタイプなのですが、西洋のノコギリは押す時に切れるタイプで、方向が逆となります。彼らにとっては、そちらの方が奇異。
"Eastern type"なのだと記しているのはこのためです。

石材に記されていた書きつけをシュピーゲルバーグが報告しており、労働者たちが「右班」と「左班」とに分かれていたことをすでに19世紀末に指摘していて、偉大な学者であったことを改めて思い知らされます(pp. 22-23)。図版9の24番は"position of filling"と訳されており、建造に関わるグラフィティとしての例がきわめて少ないヒエラティックの「 r' 」(ラー)が記されている点は重要。ラメセウムの他、KV 5などで類例があります。

2009年4月2日木曜日

Berman (ed.) 1990


クリーヴランド美術館は75周年記念に当たる1991年のために「アメンヘテプ3世展」を企画しました。この展覧会はアメリカとフランスを巡回し、大成功を収めましたが、その準備のために開催された国際シンポジウムの記録。研究会といった性格を持ちます。
この企画の発案者はクリーヴランド美術館の学芸員A. P. コズロフで、彼女は滋賀県にあるMiho Museumの収蔵品カタログの解説も書いたりしていますので、日本においても知られている研究者。
シンポジウムはコズロフとB. M. ブライアンが手配し、その後に"Amenhotep III, Lord of a Perfect World"という名の展覧会が開かれるはずでした。

Lawrence Michael Berman (ed.),
The Art of Amenhotep III:
Art Historical Analysis.
Papers Presented at the International Symposium Held at
The Cleveland Museum of Art, Cleveland, Ohio, 20-21 November 1987.
(The Cleveland Museum of Art, Cleveland, 1990)
xii, 92 p., 27 pls.

この論文集で一番長い原稿を寄せているのはR. ジョンソンで、彼は壁画や碑文を模写して記録にとどめる作業を行う専門家です。ルクソールにおいて長くこの作業に携わっている中で、アメンヘテプ3世の図像を、様式的に3つに分けられる点に気づきました。アメンヘテプ3世の治世は40年弱であって、これは紀元前約1300年前の話です。今から3300年前に描かれた壁画を見て、そこに3つの年代差を見分けることができるという、まったく新しい話をこのシンポジウムで発表しました。またこの話が、以前から決着がずっとつかないでいたアメンヘテプ3世とアクエンアテンとの共同統治の問題と深く関わったものですから、一躍、注目を浴びることになります。
この影響か、展覧会の題も当初の計画から"Egypt's Dazzling Sun: Amenhotep III and His World"へと変更されました。"Dazzling Sun"は、ジョンソンの論文に出てくる言葉です。

ジョンソンの論考に対する意見をJ. F. ロマーノがすぐその後のページに書いており、このふたつは比較して読む必要があります。

W. Raymond Johnson,
"Images of Amenhotep III in Thebes:
Styles and Intentions",
pp. 26-46.

James F. Romano,
"A Second Look at 'Images of Amenhotep III in Thebes:
Styles and Intentions' by W. Raymond Johnson",
pp. 47-54.

ジョンソンが根拠としたのは眼や鼻、また唇のかたちの違いで、美術史学的なこの鑑識の結果が考古学者には実感が伴わず、共有されないことが明瞭にされており、興味深い。
ベス神の像を扱って1000ページ以上の分量の博士論文を著しているロマーノは、こうした断絶の様態を良く知るひとりで、

"Archaeologists and art historians are trained to separate their subjects, be they artistic styles, cultures, etc., into groups." (p. 53)

とさえ言っています。
最後のまとめの言葉を記しているW. K. シンプソンも、

"Egypt communicates to us in two principal ways. The first is text --- in written language, artfully structured, always with a purpose but not always a comprehensive intent. (.......) The second means of communication is two- and three- dimensional communication, which is more subtle." (pp. 81-82)

というように、表現の引き裂かれた空隙を問いかけています。
エジプト学において何が「真」なのかが定まっていない点が露呈され、薄いけれども注目される書です。

2009年3月31日火曜日

Weatherhead and Kemp 2007


アマルナの彩色された祠堂を扱う書。煉瓦造の建築復原をおこなう考察の中で、これほど詳しく記述したものを見たことがありません。非常な労作ですが、しかし一方で読者層はきわめて限られるために、どうやら徹底して安く出版することを考慮したらしく推測されます。

Fran Weatherhead and Barry J. Kemp,
The Main Chapel at the Amarna Workmen's Village and its wall painting.
EES Excavation Memoir 85
(Egypt Exploration Society, London, 2007)
iv, 420 p., colour plates (4 p.)

Egypt Exploration Society Excavation Memoir (EESEM)のシリーズですけれども、ペーパーバックです。EESEMのシリーズで他にこういうものがあったかどうか、あまり思い出すことができません。珍しいと思います。活字の大きさを落としており、かなり詰め込んでいる印象を受けます。
註は本文中で上付き数字ではなく、カッコ内に示されます。註に特別な組み方をしません。参考文献リストは2ページだけです。ケンプが関わった刊行物としては稀。
またテキストのページと図版のページ、表のページは綺麗に分けられており、入り混じるということがありません。複雑なページ構成を避けたようです。

図版を多く所収していますが、図版リストを掲載していません。ほとんどがモノクロによる図示で、カラー図版は巻末の4ページだけとなります。図版番号は章の番号と対応しており、このためカラー図版は3.1から始められますけれども、1.1があるわけではない。
モノクロのスクリーン・トーンの貼り分けで色彩を区別しており、図版の作成に多くの時間を要したと思われますが、オリジナルは大きな図であるらしく、ところどころでトーンの継ぎ目が白い線としてあらわれたり、あるいは製版の過程でモアレが生じてしまっていたりします。惜しいところですが、けれども本質的な問題ではない。

扱うのは床面積が300平方メートルに満たない祠堂で、発掘前、発掘後の平面図のみならず、壁体が倒壊した方向、各部屋に埋まった建築関連の遺物の図示、各彩色壁面のモティーフなどが復原図とともに掲げられています。入念な考察がなされており、層位を示す断面図も豊富。
もっとも感心したのは、彩画片の接合状況を図示した点です。どの断片とどの断片とが実際に接合できたのか。これをモティーフ全体を復原してあらわす図の中に書き入れています。つまり、全部のピースが揃っていないジグソーパズルを解くわけですから空白部分があるわけで、このためにモティーフはいくらか伸縮が自在となります。しかし決して離して考えてはいけないピース同士があり、これらを具体的に図示したのは画期的です。

一番重要と考えられるサンクチュアリの前面については、2種類の復原図が見開きで対照できるように提示されています(pp. 220-221, Figs. 3.16, 3.17)。ブーケのパネルの当初位置が不明であることが原因。鍵となるべきコーナー片などが見つからなかったようです。
この判断も非常に面白い。自分だったらどのように判断するか、楽しめます。

最後の復原パネルの制作を扱った項も参考になります。パネルの重量を低減させるために工夫が見られ、またやり直しができるようにも考えられています。
本の裏には著者紹介が掲載されており、

"Fran currently lives in Norfolk, paints for a living, and is making a study of the local fishing industry."

とありました。この文が何を意味するのか、感慨を覚えるところがあります。

2009年3月20日金曜日

Hoelscher 1934-1954


古代エジプト建築の中で最も詳しく報告がなされているのは実はピラミッドではなく、メディネット・ハブとして知られているラメセス3世の記念祭殿。ヘルシャーが20年をかけてまとめた大判のこの5冊の報告書は、もちろんヘルシャーの主著のうちのひとつ。
特に第一巻の、判型がさらに大きい図面集には圧倒されます。ここには塔門のカラー復原図なども掲載されています。歴史あるアメリカ・シカゴ大学の東洋研究所(OIC)による刊行。

Uvo Hoelscher,
The Excavation of Medinet Habu, 5 vols.

Vol. I: General Plan and Views.
Oriental Institute Publications (OIP) XXI
(The Oriental Institute of the University of Chicago (OIC), Chicago, 1934)
xiv, 4p., 37 plates.

Vol. II: The Temples of the Eighteenth Dynasty.
OIP XLI
(OIC, Chicago, 1939)
xvii, 123 p., 58 plates.

Vol. III: The Mortuary Temple of Ramses III, Part I.
OIP LIV
(OIC, Chicago, 1941)
xiii, 87 p., 40 plates.

Vol. IV: The Mortuary Temple of Ramses III, Part II.
OIP LV
(OIC, Chicago, 1951)
xiii, 54 p., 42 plates.

Vol. V: Post-Ramessid Remains.
OIP LXVI
(OIC, Chicago, 1954)
xiii, 81 p., 48 plates.

第18王朝時代に属する記念神殿との比較をおこなった第2巻については、シュタデルマンが後に新たな考察を加えています。

このシリーズで見どころといえば、記念神殿に付設された宮殿が詳細に報告されている点で、第1期と第2期とが区別され、復原図も描き起こされています。古代エジプトの宮殿建築に関する第一級の資料。
古代エジプトのいわゆる「ハーレム」について調べようとすると、このメディネット・ハブの入口の門に必ず言及されていることに気づきますが、これは上階に珍しいモティーフが残っているためです。

メディネット・ハブの紹介でしたら以下の本も、とても重要。
薄い横長のペーパーバックながら、内容は非常に充実しています。トトメス3世小神殿の紹介は参考になります。
著者は惜しくも亡くなりました。現在ではダウンロードが可能。

William J. Murnane,
United with Eternity: A Concise Guide to the Monuments of Medinet Habu
(OIC, Chicago, 1980)
vi, 90 p.

http://oi.uchicago.edu/research/pubs/catalog/misc/united.html


2009年3月12日木曜日

Frankfort 1933


亡き人を収めない空墓が「セノタフ」。
この建築遺構は異様な雰囲気を有し、中心の部屋では装飾がいっさい払拭されて、花崗岩の重厚な構成が呈する圧倒的な迫力が特徴。
類例遺構との比較考察から、古王国時代のものと比定される可能性もありましたが、石と石とを繋ぐ「かすがい」にセティ1世の王名が記されているのが発見されたため、オシレイオンとも呼ばれる当該建築の建造年代は決着を見ました。

新王国時代の後期に属するものの、古王国時代の様式を真似た建築であることが明らかであり、古様を尊重する建物の造り方がすでに存在していたことを示す上で貴重。
中央には水が引かれた溝を周囲に回した基壇を地下に据え、これは水面に浮かび上がった孤立する島をかたどっているとみなされます。
古代エジプトにおける世界創造の神話、「原初の丘」の再現を勘案した建築。

H. Frankfort,
with chapters by A. de Buck and Battiscombe Gunn,
The Cenotaph of Seti I, 2 vols.
Vol. I: Text.
Vol. II: Plates.
Thirty-ninth Memoir
(The Egypt Exploration Society, London, 1933)
viii, 96 p. + vii, XCIII plates.

出土したオストラカも異例で、ふたつの作業班によって造営が進められたことが伝えられています。労働者組織の様子がうかがえる稀な文字資料。ディール・アル=マディーナ以外ではほとんど出土しません。

アビュドスに建てられたこのオシレイオンの前面に立つ葬祭殿もはなはだ奇妙で、全体が「くの字」に曲がっており、奥行きを確保することができなかったために最奥部を横へずらせた常識外れの建造物。ここでは伝統を丁寧に踏襲しつつも、必要な際には大胆な決断を下して解決を図ったエジプト人の智恵が看取されます。
思えば建築史家を戸惑わせる大がかりな仕組みの構築物を、次々と造った王でした。

セティ1世の墓も特異で、この王墓は王家の谷において最も長く、また最も深く掘削された例として有名。玄室は全体の長さのほぼ中央に位置し、意味不明の通廊が長々とさらに地下へと続いています。どこまで到達しているのか、今日でも良く分かっていません。下記のURLにて図面が見られます。
1980年代後半から修復のため閉鎖されており、見学は非常に困難。装飾が良好に残存している遺構として知られており、かつては王家の谷の中でも人気のあった墓です。

Theban Mapping Project:
http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_831.html


近年、P. ブランドはこうした注目すべき記念建造物群を概観した論考を出版し、脚光を浴びました。単一の王による壮大なモニュメントの数々を概括した本格的な考察。
セティ1世は、古代エジプトにおける「建築王」として名高いラメセス2世の父親です。3000年にわたる歴史の中で、建築の生産性を最も高めることに成功した偉大な王の礎を築いた父であって、このことは忘れ難く思われます。

Peter J. Brand,
The Monuments of Seti I:
Epigraphic, Historical and Art Historical Analysis.
Probleme der Aegyptologie, Sechszehnter Band.
(Brill, Leiden, 2000)
xlii, 446 p., 148 figs., 8 plans.

2009年3月6日金曜日

Cabrol 2000


アメンヘテプ3世について書かれた一般向けの一冊。この王について記した本は、アメリカとフランスでおこなわれた展覧会の成功以後、ずいぶんと増えてきました。
ペーパーバックですが、カラー写真も所収しており、図も比較的豊富です。メムノンの巨像の頭部分を上空から撮影した写真があって、もともとは王冠が載せられていたことを告げています。巻末には家系図、また「ライオン狩り」や「結婚記念」のスカラベのヒエログリフも転載。
アメンヘテプ3世に関わる遺物も50ページ近くにわたってリストアップされており、これはポーター&モスなどから抜き出して作られたものです。専門情報をやさしく伝えようとしていることが了解されます。

Agnes Cabrol,
Amenhotep III: Le magnifique
(Editions du Rocher, Monaco, 2000)
537 p.

ただ206ページの註98や巻末の参考文献リストには、

B. J. Kemp, The Excavations of Sites J, K, and P, EgyTod 2, III, 1978.

Concordian [sic], (Lilian), Malkata and the Birket Habu, The Painted Plaster from Site K, EgyTod 2, VI, 1978.

なるものが挙がっていますけれども、これらは予告だけ出され、実際には出版されていない報告書。
実際の本をろくに見もしないまま、確認を怠ってうかうかと引用すると言うことは当方もしばしばやる手なのですが、危険なことだと改めて思う次第。
数日前もEgyptologists' Electronic Forum (EEF)で、

Dieter Arnold,
Der Tempel des Königs Mentuhotep von Deir el-Bahari, Band 4:
Relieffragmente des Mentuhotep
(Mainz, 1993)

は本当に出版されているのかという問い合わせが書かれていました。これも幻の報告書のうちのひとつかと思われます。アーノルドが2003年に出しているThe Encyclopaedia of Ancient Egyptian ArchitectureArnold 2003)の"Mentuhotep, Temple of"の項目(pp. 149-150)には、

Der Tempel des Königs Mentuhotep von Deir el-Bahari, 3 vols. (Mainz 1974, 1974, 1981)

と示され、第4巻目の存在を、まず本人が記していません。
一方で、Theban Mapping Projectにおける"Bibliography for Dayr al Bahri"には第4巻が挙げてあり、こういう場合にはどちらを信じるか、ということだと感じられます。
他にもR. Stadelmannによる建築報告書など、予告だけされていて何年も経っているというものが存在します。

アメンヘテプ3世に関しては、

Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press, Norman, 1964)
xi, 212 p.

が出ていて、これがかなり早い時期の刊行物となります。
フレッチャーによる入門書はドイツ語版もあるようですが、簡単な内容。

Joann Fletcher,
Egypt's Sun King:
Amenhotep III, An Intimate Chronicle of Ancient Egypt's Most Glorious Pharaoh
(Duncan Baird Publishers, London, 2000)
176 p.

Joann Fletcher,
Sonnenkoenig vom Nil, Amenophis III.
Die persoenliche Chronik eines Pharaos
(Droemer, Nuenchen, 2000)
176 p.

さらにはスペインで出版された別の本もあります。

Francisco J. Martin Valentin,
Amen-hotep III:
El esplendor de Egipto.
Coleccion: El legado de la historia, No. 1
(Alderaban Ediciones, Madrid, 1998)
366 p.

お気づきのように、「アメンヘテプ」の綴りが本によって異なっており、これを勘案しないとインターネットによる検索で情報をうまく把握することができません。
Amenhotep, Amunhotep, Amenophis, Amen-hotepとさまざまに記され、こういうところが厄介です。

2009年3月5日木曜日

Carter (and Mace) 1923-1933


ハワード・カーターによるツタンカーメンの墓の発掘記録で、3冊で構成されています。しかしオリジナルは稀覯本扱いとなり、揃いで買うと今なら1200ドル以上の出費を覚悟せねばなりません。
レプリントの他、抄録版も出ているので注意を要します。

Howard Carter (and A. C. Mace),
photographs by Harry Burton,
The Tomb of Tut-Ankh-Amen:
Discovered by the Late Earl of Carnavon and Howard Carter,
3 Vols.
(George H. Doran, New York)

Vol. I: 1923, 334 p., LXXIX plates.
Vol. II: 1927, xxxiv, 277 p., LXXXVIII plates.
Vol. III: 1933, xvi, 248 p., LXXX plates.

10年をかけて刊行された3冊。各巻に80点ほどの図版が付されています。
和訳は酒井傳六・他によるものが出ています。

ハワード・カーター著、
酒井傳六・熊田亨訳、
「ツタンカーメン発掘記」
筑摩叢書185(筑摩書房、1971年)
口絵12 p. + 406 p.(図版74点を含む)

この和訳では図版が大幅にカットされており、写真の質も良くありません。廉価版の出版物ですから、仕方のないところです。
ツタンカーメンの遺物のカラー写真をもっとも精力的に出版しているのはおそらく日本で、特に講談社から出された「エジプトの秘宝」(1979〜1985年)全5巻の分厚い大型本では、そのうちの2冊をツタンカーメンの遺品の紹介に充てています。

発掘者自身によってツタンカーメンの墓の発掘過程が述べられた唯一の本で、カーターに執筆の依頼が来た際には、一般の読者層に売れることがあらかじめ予測された図書でもありました。つまりベストセラーになることが約束されていた書ということになります。カーターの負担は大きかったに違いありません。W. バッジのような上手な書き手はいたものの、エジプト学に関するそうした本というのは、それまで出されたことがなかったかと思われます。
彼はエジプト学の公的な専門教育を受けたわけでなく、ヒエログリフも読めませんでした。次から次へと、誰もこれまで見たこともなかった王の遺品が出てくるわけですから、当然、書き方としては慎重になります。発掘までの経緯を記した第一冊目を早く出して欲しいという相当強い圧力もあったはずで、そうした事情も踏まえながら読むと面白い。

トマス・ホーヴィング著、屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」を次に読むと、さらに面白いかも。カーターの捏造についてすっぱ抜いた話題の書。エジプト学者の屋形禎亮先生はCh. デローシュ=ノーブルクール「トゥトアンクアモン」も訳されています。ほとんど資料が揃っていなかった時代において、学的な推察力を駆使して王を描いた書。この本を「古い」と一言で片付けるのは誤りで、むしろ想像力を展延させていく方法が非常に参考となります。

玄室への封鎖壁を解体している写真は、建築学的にきわめて貴重。戸口の上に架け渡された丸太が写真に写っています。第18王朝における煉瓦造の戸口がどう造られていたかが分かる、ほとんど唯一の資料です。

カーターが本を書くのはこれが初めてではなく、

The Earl of Carnavon and Howard Carter,
Five Years' Explorations at Thebes:
A Record of Work Done 1907-1911
(Oxford University Press, London, 1912)
frontispiece, xii, 100 p., LXXIX plates.

を第一次世界大戦の直前に出しています。
大して目立った遺物が出土したわけでもないのに、分担執筆者はF. Ll. グリフィス、G. ルグラン、G. メーラー、P. E. ニューベリー、W. シュピーゲルバーグとエジプト学の大御所が並んでおり、不思議な印象を与える本。カーターの交友関係の広さがしのばれます。カーターの本でなかったら、レプリントも刊行されなかったかもしれません。

2009年3月2日月曜日

Lacovara 1990


古代エジプトの初期新王国時代の王宮であるディール・エル=バラスの発掘調査報告書。使われた煉瓦は大ぶりで、中王国時代のピラミッドで用いられたものを思い起こさせます。
城塞のような造りで、矩形平面の周壁を巡らせ、その中央に高い基壇が築かれて、その上に建物が立っていた模様。テル・エル=ダーバの王宮との類似点が挙げられ、注目されます。
彩画片もいくらか出土しています。
発掘を始めてからこの報告書が出るまでに、10年かかっています。遺跡の調査では、短い場合でもだいたいこのぐらいかかってしまうという例。

Peter Lacovara,
Deir el-Ballas:
Preliminary Report on the Deir el-Ballas Expedition, 1980-1986
.
American Research Center in Egypt Reports, Vol. 12
(Eisenbrauns, Winona Lake, 1990)
x, 67 p., XVII plates, 5 folded plans.

この発掘調査の成果をもとにして、以下の博士論文が執筆されました。162ページから250ページまでは図版です。新王国時代に属する住居系の建物の平面図が集められていますから便利。
もちろんアマルナやマルカタも含まれていますし、それ以外にも小規模な住宅類の図が所収されています。E. Roikによるモノグラフといった少数を除き、こういう本はあまりありません。

Peter Lacovara,
State and Settlement:
Deir el-Ballas and the Development, Structure, and Function of the New Kingdom Royal City.

A Dissertation submitted to the Faculty of the Division of the Humanities in Candidacy for the degree of Doctor of Philosophy.
Department of Near Eastern Languages and Civilizations, University of Chicago
(Chicago, 1993)
xiii, 275 p.

この博士論文の内容がほとんどそのままのかたちでロンドンのKPI社から本が刊行されました。"Studies in Egyptology"のうちの一冊です。
題名も改められましたが、しかしこのタイトルであったなら、本当はもうちょっと数多くの遺構を取り扱わなければなりません。このため、「扱う範囲が狭い」というような辛口の書評が確か、寄せられていたように記憶しています。

Peter Lacovara,
The New Kingdom Royal City.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1997)
xiv, 202 p.

この後に王宮建築に関する本がいくつも出されていますから、重要性がいくらか薄らいだとも思えますが、しかし古代エジプトの王宮を知ろうとする場合にはやはり、基本的な著作のひとつに数えられます。

2009年2月27日金曜日

Clarke and Engelbach 1930


古代エジプト建築がどのように造られたかを扱う本で、建築家たちによる専門的な考察が含まれます。このように建築構法を考えた書としては、石造に限ったものとしてD. アーノルドの新しい本が現在ではすでに出ていますが、クラークとエンゲルバッハの本の言わば改訂版に相当する一冊。
クラークとエンゲルバッハの本については、複数の安価なレプリント版が広く出回っています。長く読み続けられている、重要な書。

Somers Clarke and R. Engelbach,
Ancient Egyptian Masonry:
The Building Craft
(Oxford University Press, London, 1930)
xvi, 242 p.

Contents:
I. The Earliest Egyptian Masonry
II. Quarrying: Soft Rocks
III. Quarrying: Hard Rocks
IV: Transport Barges
V. Preparations before Building
VI. Foundations
VII. Mortar
VIII. Handling the Blocks
IX. Dressing and Laying the Blocks
X. Pyramid Construction
XI. Pavements and Column Bases
XII. Columns
XIII. Architraves, Roofs, and Provision against Rain
XIV. Doors and Doorways
XV. Windows and Ventilation Openings
XVI. Stairs
XVII. Arches and Relieving Arches
XVIII. Facing, Sculpturing, and Painting the Masonry
XIX. Brickwork
XX. Egyptian Mathematics
Appendices

日乾煉瓦や、あるいは古代エジプトの数学の章も含められており、包括的に扱おうとしている様子がうかがえます。屋根のところでは神殿などで見られる周到な排水計画などについて触れています。ただ、世界最初の石造建築である階段ピラミッドの報告書の刊行は1936年で、そうした成果が充分盛り込まれていません。

29ページでは、アスワーンの未完成のオベリスクの近くで見つかった「労働者別の掘削進行表」が扱われています。これはエンゲルバッハの報告書でお馴染みのもの。3キュービットの計測棒が用いられた可能性も、再びここで記されています。
ただし、註が設けられており、この3キュービットの長さの棒の使用を思いついたのは自分たちではなく「ピートリ卿である」と新しく書き加えられていて、どうして何年も経ってからこういう事実が記されたのか、不思議なところ。

ケンプはさらに近年、3キュービットの棒ではなく、労働者自身の身長に基づいて計測がおこなわれたのではないかと考察しています。70年経って新たな解釈が提示されたわけで、少数の目利きたちによって建築に関する考察がこうしてゆっくりと進み、次第に深められていく様子が分かります。

2009年2月26日木曜日

CoA I-III, 4 Vols. (1923-1951)


「アケナテン(アクエンアテン)の都市 City of Akhenaten」というのはアマルナのことで、ピートリが19世紀末に中枢部を発掘した後、同じイギリス隊によって私人墓の調査がなされました。次にはドイツ隊が住居地域の発掘を始めましたが、第一次世界大戦により中断。
戦争終了後、イギリス隊は再びこの地で本格的な調査を開始します。その成果を纏めたもので、全3巻4冊からなる報告書。専門家は"CoA"としばしば省略して引用をおこないます。この発掘によってアマルナの全貌がほぼ明らかにされました。レプリントも出ていますが、それも入手が難しくなりつつあります。

T. Eric Peet and C. Leonard Woolley,
with chapters by Battiscombe Gunn and P. L. O. Guy,
drawings and plans by F. G. Newton,
The City of Akhenaten, Part I:
Excavations of 1921 and 1922 at El-'Amarneh.
38th Memoir of the Egypt Exploration Society (EES)
(EES, London, 1923)
vii, 176 p., LXIV plates.

H. Frankfort and J. D. S. Pendlebury,
with a chapter by H. W. Fairman,
The City of Akhenaten, Part II:
The North Suburb and the Desert Alters;
The Excavations at Tell El Amarna during the Seasons 1926-1932.
40th Memoir of EES
(EES, London, 1933)
ix, 122 p., LVIII plates.

J. D. S. Pendlebury,
with chapters and contributions by J. Cerny, H. W. Fairman, H. Frankfort, L. Murray Thriepland, Julia Samson,
The City of Akhenaten, Part III:
The Central City and the Official Quarters;
The Excavations at Tell El-Amarna during the Seasons 1926-1927 and 1931-1936.
2 Vols. (Text and Plates)
44th Memoir of EES
(EES, London, 1951)
xix, 261 p. + xii, CXII plates.

アマルナの綴りが第1巻では異なり、また執筆者も違う点に注意。T. E. ピートはこの同じ年にリンド数学パピルスの本を出していますから、相当忙しかったはず。C. L. ウーリーはこの後、エジプトを離れてウルの発掘の指揮に携わります。
調査に関わったJ. D. S. ペンドルベリーもJ. サムソンも、それぞれアマルナに関する一般向けの本を書いていますが、研究書ではまず触れられません。

広大なアマルナで誰がどこを掘って、それはどの報告書の何ページに載っているのか、こうして長い年月を重ねるとともに当然、情報は錯綜してくるわけですが、ケンプらは全体地図を作成し直した際に建物ごとの索引を付しており、きわめて便利。どのような情報が本当に必要とされているかを充分に知った人による本の作り方。

Barry J. Kemp and Salvatore Garfi,
A Survey of the Ancient City of El-'Amarna.
Occasional Publications 9
(EES, London, 1993)
112 p., 9 maps.

多色刷りの地図で、つなぎ合わせるとかなりの大きさとなります。もっとも詳しいアマルナ王都中心部の図面。

2009年2月24日火曜日

Petrie 1894


エジプトのアマルナ王宮に関する最初の発掘報告書で、最重要となる本。都市の中枢部が掘られ、王宮の大列柱室から見事な床面の彩色画が発見されました。現在、カイロのエジプト考古学博物館の一階の中央吹抜けホールに展示されているのがこれです。
もっとも、すごく大きな家型のガラスケースに覆われていて見にくく、また彩色画は復原して加筆がなされているために、新たに描き起こした部分だけを見て帰る人が多いのが残念。
もちろん色の鮮やかなところは、現代の職人が真似して描いた部分です。退色し、モティーフが良く分からなくなっている部分こそが3400年前の床絵。

W. M. Flinders Petrie,
Tell el Amarna
(Methuen & Co., London, 1894)
iv, 46 p., XLII plates.

アマルナ王宮が発掘された経緯は劇的です。通常、日乾煉瓦造の建物が折り重なる都市遺構は発掘調査が大変なので敬遠されがちだったのですが、ここから楔形文書の記されたタブレット(粘土板)が見つかって、急遽、イギリスの調査隊が編成されました。
きっかけは、或る農婦が田畑の肥料となる泥煉瓦を探すために遺跡を掘り返したこと。大英博物館のW. バッジのところへ、「こんなものが見つかったけど、買ってくれないか」とこのタブレットが持ち込まれました。アッカド語が読めた彼は資料の重要性にすぐさま気づいて、どこからこれが掘り出されたかを教えろと問い正します。
古代の外交文書として高名な「アマルナ文書」が、こうして世に知られることとなりました。

「アマルナ文書」の訳業に一生を賭したのはW. L. モランで、英訳も出ています。国家間の「よろしくお付き合いのほどを」という豪華な贈り物のリスト、「隣国からいじめられていて、もう大変です」という泣きの手紙、「王さまの歯が痛いんだけれども」という相談などが記されており、たいへん貴重。

William L. Moran (edited and translated),
The Amarna Letters
(The John Hopkins University Press, Baltimore, 1992.
Originally published as "Les Lettres d'El-Amarna",
Editions du Cerf, 1987)
xlvii, 393 p.

和訳は飯島紀先生の「古代の歴史ロマン11、エジプト・アマルナ王朝手紙集 :王への手紙 王からの手紙」(国際語学社、2007年)も出ているけれども、数十通の抄訳となるのが惜しい。
アマルナ王宮の華麗な壁画は、最初の発掘報告の35年後に大判の画集として出版されています。植物が繁茂し、鳥たちが飛び交う場面をあらわしている通称「グリーン・ルーム」の壁画は特に有名。

H. Frankfort ed.,
with contributions by N. de Garis Davies, H. Frankfort, S. R. K. Glanville, T. Whittemore;
Plates in colour by the late Francis G. Newton, Nina de G. Davies, N. de Garis Davies,
The Mural Paintings of El-'Amarneh.
F. G. Newton Memorial Volume
(The Egypt Exploration Society (EES), London, 1929)
xi, 74 p., XXI plates.

この「グリーン・ルーム」の壁面には小さな矩形の窪みがいくつも設けられており、鳥を飼うための巣箱を意図したものではないかとも言われていますが、詳細は不明です。ケンプはある程度、その可能性を認めています。

Kemp and Weatherhead 2000

の文献における、最後のディスカッションの項を参照のこと。