2014年5月8日木曜日

Silva 2004


スリランカの建築史を語る上で重要な本。著者のローランド・シルヴァ(ローランド・シルバ)氏は高名な方で、世界的な要職を務めた人です。ICOMOSの委員長にアジア人として初めて就きました。遺跡保存のために尽力されています。

Roland Silva,
Thūpa, Thūpaghara and Thūpa-Pāsāda.
Architecture and Town Planning in Sri Lanka during the Early and Medieval Periods.
Memoires of the Archaeological Survey of Ceylon, Volume X, Part II.
Colombo, The Department of Archaeology, 2004.
x, 225 p.


Contents:
Preface (v)
Acknowledgement (vii)
Contents (ix)

Chapter I: Introduction (p. 1)
Chapter II: Thūpa or Stūpa (p. 5)
Chapter III: Thūpaghara or Vaṭadāge (p. 69)
Chapter IV: Thūpaghara or Kuḷudāge (p. 97)
Chapter V: Thūpaghara or Cetiya Leṇa (p. 103)
Chapter VI: Thūpa-pāsāda or Pyramidal Stūpa (p. 107)
Chapter VII: Conclusion (p. 115)

Appendix I: A Chronological List of Sri Lankan Kings (p. 119)
Appendix II: Dimensions of Dāgābas (p. 123)

List of Figures (p. 125)
Figures (p. 137)
List of Plates (p. 163)
Plates (p. 169)

Glossary of Architectural Terms (p. 201)
Bibliography and Abbreviations (p. 207)
Index (p. 219)

目次では若干の乱れが見受けられます。念校の段階で生じた変更が、うまく反映されなかったんでしょう。
出版はスリランカの考古学局で、つまり建築史の専門家はここでも少なく、考古学者が主導しているありさまが了解されます。イギリスに統治されていた時代があって、このためにこの国の考古学はどちらかと言えば英国寄りと判断されます。アヌラーダプラの発掘報告書がBARのシリーズ(British Archaeological Reportsで出ていたりします。
大国である隣のインドとの違いをどのように打ち出すかに関しては、スリランカの考古学者たちはとても良く考えている様子で感心します。古代からヨーロッパとの交易が試みられていた地域でした。

さて、153ページにはポロンナルワのワタターゲーの復元図が掲載されています。154ページには詳細図も載っています。実は10年以上も前に、

中川武監修、
「スリランカの古代建築:アヌラーダプラ後期〜ポロンナルワ期(7世紀〜13世紀)の寺院建築遺構の設計方法と復元に関する考察、および修復方法への提言」
早稲田大学アジア建築研究会、1990年、
(x), 294 p.

が先に出版されました。調査に当たってはシルヴァ氏にさまざまな便宜を図っていただきました。
実質的には黒河内宏昌氏がほとんど全章を執筆したこの報告書のpp. 169-180にはダラダーマルワ寺院のワタターゲーの復元が記載されているので、見比べるとどのような違いがあるのかが分かり、有益です。主要部の屋根勾配や入口部の屋根の形式が細かく変更されており、復元図の作成の際には、こうした細かい点こそが要。
1990年に日本で出版された「スリランカの古代建築」についての引用がない点は残念ですが、どこの世界でもあることですし、今後、事情が変わることを期待しています。「スリランカの古代建築」の巻末には英語のサマリーが付されており、また各図版のキャプションには英文も併記しているのですけれども、他の手立てが必要であったとも思われます。同じことは、当方が担当した「マルカタ王宮」の報告書でも当てはまるわけです。

ワタターゲーの素晴らしい模型は、成田剛氏の手による労作でした。記しておきます。

2014年3月26日水曜日

Narita 1990-1992 (Articles in Shihyo) / 成田 1990-1992(「史標」掲載論文)


日本工業大学の成田剛氏が授業中に倒れ、そのまま亡くなったという知らせが伝えられた後、ひと月があっという間に経ちました。
未だに信じられない思いが続いています。

カンボジア遺跡の修復事業を手がけたJSA日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地所長として彼がシェムリアプに長く赴任していた時期は、当方が同じくJSAの団員としてカンボジアに通った頃と重なっており、その際には細やかな便宜をたくさん図っていただきました。当節の感謝の言葉を伝える機会を永遠に失った意味を、改めて考えています。

成田剛氏とともに初めて海外の建築調査に出かけたのは、1984年の年末になされたインド・スリランカ建築調査で、黒河内宏昌氏が調査隊長を務めたこの時の建築調査がとても面白かったので、翌年にエジプト建築調査に誘われた時も参加することを決め、以後もエジプト建築調査を続行したという個人的な経緯があります。成田剛氏は、当方が建築調査を初めて体験した時の数少ない仲間のひとりでした。

史標 (Shihyo)」という小さな刊行誌の編集に僕は関わっていましたが、ここに成田剛氏がいくつかの論考を寄せています。

史標("Shihyo": ISSN 1345-0522)
http://www.linkclub.or.jp/~nishimot/Shihyo-J.html

当冊子に投稿された成田剛氏の論文をリストアップし、英語による書誌の案をここでは併記しました。
成田剛氏の業績を海外へ知らせることを念頭に置いていますけれども、ここに掲げた題名の英訳については当方が勝手に試訳したものですから、今後訂正すべき点が多々出てくるかと思います。あくまでも試案として提示しておきます。
Bruguier 1998-1999の著作に関しては以前、触れたことがありました。Bruguierにこのような情報をメールで知らせるべきかどうか。知らせた方が良いとは思いますが、添付すべきレジュメなど、手続きを考えると迷うところです。

成田氏が「史標」に投稿した論考のうち、カオ・プラ・ヴィハン(プレア・ヴィヘア / プレア・ヴィヒア [Preah Vihear])に触れたものは特に印象に残り、「その2」において何が書かれるはずであったのか、個人的には興味が惹かれます。
最後に投稿された論考のタイトルは「最近したこと考えたことから」でした。「史標」の創刊以降の連続投稿の努力と、その後に問題意識を拡げようとした格闘の様子が推察されます。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand: Rules for Asymmetry" (in Japanese),
Shihyo 1 (September 1, 1990), pp. 21-24.
成田 剛
「タイのクメール建築:アシンメトリーの法則」、
「史標」第1号(1990年9月9日)、pp. 21-24。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Laos: Reconnaissance Records for Three Days to Wat Phu" (in Japanese),
Shihyo 2 (December 12, 1990), pp. 23-28.
成田 剛
「ラオスのクメール建築:ワット・プーを訪ねた3泊2日の調査旅行記」、
「史標」第2号(1990年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 2: Prasat Mueang Sing, The Westernmost Khmer Monument" (in Japanese),
Shihyo 3 (March 3, 1991), pp. 27-30.
成田 剛
「タイのクメール建築 2:プラサート・ムアン・シン、最西端のクメール建築」、
「史標」第3号(1991年3月3日)、pp. 27-30。

NARITA, Tsuyoshi
"Temples and Shrines in Laos: Vientiane and Luang Phabang" (in Japanese),
Shihyo 4 (June 6, 1991), pp. 1-8.
成田 剛
「ラオスの社寺建築:ヴィエンチャンとルアン・パバーン」、
「史標」第4号(1991年6月6日)、pp. 1-8。

NARITA, Tsuyoshi
"The Pentagonal Monuments of Pagan" (in Japanese),
Shihyo 5 (September 9, 1991), pp. 19-26.
成田 剛
「The Pentagonal Monuments of Pagan」、
「史標」第5号(1991年9月9日)、pp. 19-26。

NARITA, Tsuyoshi
"Residential Architecture in Malaysia: Folk House Park, Mini Malaysia" (in Japanese),
Shihyo 6 (December 12, 1991), pp. 23-28.
成田 剛
「マレーシアの住宅建築:マレーシアの民家園、ミニ・マレーシア」、
「史標」第6号(1991年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 3: Khao Phra Viharn, Part 1" (in Japanese),
Shihyo 8 (June 6, 1992), pp. 23-26.
成田 剛
「タイのクメール建築 3:カオ・プラ・ヴィハン(その1)」、
「史標」第8号(1992年6月6日)、pp. 23-26。

NARITA, Tsuyoshi
"From the Recent Activity and thought" (in Japanese),
Shihyo 10 (December 12, 1992), pp. 5-8.
成田 剛
「最近したこと考えたことから」、
「史標」第10号(1992年12月12日)、pp. 5-8。

成田剛氏の命日となった2014年2月8日の土曜日、東京は記録的な大雪でした。その一週間前にはカンボジアのバプーオン遺跡の保存修復に力を尽くしていたPascal Royèreが病死したというメールの通知がフランス極東学院(EFEO)から届いたばかりでした。
以前、パスカル氏の現場に「一緒に行きましょう」と成田氏の御厚意により連れて行ってもらい、視察したこともあったのですけれども、その2人とも亡くなってしまいました。
クメール建築に関わった日本の専門家と言えば、長年にわたり研究を進められてきた片桐正夫先生が2012年に亡くなられ、またバンテアイ・クデイの建築に関し調査を続けられてフランス語で博士論文を執筆した荒樋久雄氏も2004年に命を落とされています。
JSAの現地所長を務めた桜田滋氏も2009年に急逝しました。JSA団員の小榑哲央氏が2002年、交通事故によって亡くなったことも記憶に強く残っています。
いつも元気であった成田剛氏が亡くなるとは、まったく思っていませんでした。

CiNii成田剛氏が執筆した学術論文はネットで検索できますが、実は他にも2000年以降に書かれた、公にされていないレポート類がたくさん存在するように思われます。それらにも陽の光が当たる機会があったらと願っています。これまで撮り貯めて来た遺跡の写真類をすべてデジタル化した、とも言っていました。
昔、「ガーリック・チップス」の2階で共に良く飲みました。当時は溌剌としたサッカー青年でもありましたっけ。
去年の7月26日の夜、成田氏と黒河内氏、当方の3人で飲みました。それが彼と会った最後の機会となりました。残念です。

||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

2015年2月8日、追悼文集が御両親の編集によって上梓されました。

成田十次郎・瑳智子
「東南アジア仏教遺跡の保存修復にかける ―追憶 成田剛―」
文教社、2015年、177 p. + XXVII

2013年5月4日土曜日

岡田 1909


「紀伊和歌浦明細新地図」も、経緯がよく分からない出版物です。多色刷(墨色、山吹色、淡藍色)の地図で、和歌山県立図書館の他、和歌山市立博物館などが初版を収蔵。

岡田久楠
「紀伊和歌浦明細新地図」
岡田久楠
明治42(1909)年11月
54×39 cm

和歌山市立博物館「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年、96 p. は額田雅裕・太田宏一・寺西貞弘各氏による労作で、貴重な図版が多数収められており、研究者必携の書。この本の52ページに図51として「紀伊和歌浦明細新地図」はカラーで掲載されています(解説文は90ページ)。「あしべ屋本店」の他に、「あしべ屋別荘」が2箇所に記されている点が重要(cf. 塩崎 1893濱口 1919)。
この地図は何としても個人的に入手したいと思い、願いは叶ったのですが、ただ「和歌浦、その景とうつりかわり」に載っているものとはいくらか違いが認められ、若干手直しがなされたものも初版として頒布されていたようです。

島津俊之
「経験とファンタジーのなかの和歌の浦:田山花袋『月夜の和歌の浦』を読む」
空間・社会・地理思想14(2011年)
pp. 41-67
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space14/14_41shimadu.pdf

の論文の最後にも、「紀伊和歌浦明細新地図」の部分拡大図は掲載されています。この「紀伊和歌浦明細新地図」は和歌山市立博物館に所蔵されているもの。和歌山市立博物館蔵の裏面には、「遊覧記念 和歌浦 明光台」という丸いスタンプが押印されているのが面白い。このエレベーターに乗り込んだ時の記念として地図は用いられたんでしょう。しかしこの初版には、明光台が描かれていないわけです。

明治43(1910)年7月には再版が出ているらしく、香川県立ミュージアムが鎌田家資料の中のひとつとして収蔵しています。その紹介写真を見ると、望海楼が立てた東洋一のエレベーター「明光台」が描き込まれているようです。このエレベーターの築造は明治43(1910)年ですから、ただちに地図の修正が施されたと推定されます。

香川県立ミュージアム所蔵「和歌浦明細新地図」、再版
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kanzouhinkensaku/index.php/rekishi/detail/500415

さて、岡田久楠はこの地図とは別の、変更を加えて題名を変えたものも後に刊行しました。これが

岡田久楠
「名所旅館案内和歌浦地図」
岡田久楠
明治45(1912)年6月

で、高低差はケバによってより細かく表現され、海深も等高線で示されるなど、「和歌浦明細新地図」の再版と全体の構成は酷似しているんですけれども、改変が施されています。多色刷ではなく、墨刷の版に旅館(赤色)や名所(青色)を手塗りによって簡単に彩色したもの。つまり、香川県立ミュージアムが持っている「紀伊和歌浦明細新地図」の再版ととても良く似ているのが特徴です。香川県立ミュージアム収蔵のものは、同様に墨版の単色刷りに赤色で手彩色が施されていると思われ、青色の手塗りはうかがわれない様子。
なお、

田中修司
「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」
日本建築学会計画系論文集第74巻第635号(2009年)
pp.291-97

の294ページと297ページで「紀伊和歌浦明細新地図」と「名所旅館案内和歌浦地図」が言及され、すでに両者の関連は簡単に指摘されています。なお、後者については日本古地図学会「古地図研究ニュース」第54号(2007年4月)の巻末に2枚に分けて掲載されており、p. 6には芳賀啓氏による解説も記されています。

この岡田久楠という人物はいったい何者かという話ですが、

金子郡平・高野隆之
「北海道人名辞書」第2版
北海道人名辞書編纂事務所
大正12(1923)年
660 p.+9 p.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734

の「札幌市を之部」、38-9ページに「旧姓は貴志。明治17年3月28日、和歌山県和歌山市小松通六丁目生まれ」の岡田久楠が掲載されています。明治42年は彼が20歳半ばの頃に相当しますけれど、北海道勤務ですから、普通なら和歌浦の詳しい地図を作ることはできなかったはず。しかし一方で、優秀な土木技師であったらしい彼の手にかかれば、こうした地図を短期間でこさえることは可能であったようにも思われます。

纏めますと、「紀伊和歌浦明細新地図」の初版には少なくとも2種類あること、「再版」と称する1年後の改訂版があり、そこには良くも悪くも評判となった「明光台」エレベーターの存在が反映されていること、さらには似た構成の「名所旅館案内和歌浦地図」が出されており、これが「紀伊和歌浦明細新地図」の第3版に相当するらしいこと、さらには著者の岡田久楠と同じ名を持つ和歌山市生まれの土木技師が北海道で同時代、活躍した記録が残っているが、関連性は今ひとつ確認できないこと、となります。
100年ほど前のことが、もう詳しく分からなくなっています。

2013年5月3日金曜日

濱口 1919


この本も近代の和歌浦を見る上で面白い冊子。やはり国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができます。
巻頭には折込で地図が挿入されており、表面も裏面も藍色と赤色の2色刷です。地図はこの頃すでに開通していた路面電車の路線図を兼ねており、路線と停留所、及び名所の地点が赤色で示されています。
目次を以下に書き写しましたが、旧字は改めました。ノンブルは38まで認められますけれど、実際はノンブルのない10ページ以上の広告がさらに追加されています。

濱口彌浜口弥 はまぐちわたる
「名所案内 新和歌浦と和歌浦(和歌浦と新和歌浦)」
枇榔助彌生堂、大正8(1919)年

参照:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961926

目次:
折込地図 表 和歌浦新和歌浦略図
同 裏 和歌山市街略図

和歌山城(写真) 2
和歌山より和歌浦口 3
高松根上り松(写真) 4
愛宕権現及貌口石 5
弥勒寺及亀遊石 5
新和歌浦全景(写真) 6
秋葉山と鶴立島 7
和歌浦口より新和歌浦 7
和歌浦汽船乗場(写真) 8
鷹の巣(写真) 10
新和歌浦の景趣 11
天神磯(写真) 12
望海楼 13
新和歌浦の怒涛(写真) 14
米栄別荘、支店 15
大島中の島双子島(写真) 16
仙集館 17
新和歌浦の勝地 17
東照権現(写真) 18
鷹之巣 19
玉津島神社(写真) 20
新和歌浦より和歌浦 21
東照権現 21
下り松(写真)
和歌浦口より和歌浦へ 23
あしべや及妹背別荘 23
不老橋と塩釜神社 24
不老橋より三断橋、妹背、旭橋を望む(写真) 26
望海楼址碑 27
観海閣と多宝塔(写真) 28
妹背山、題目石、観海閣 29
紀三井寺全景 30
多宝塔と鶴駕飛降碑 31
和歌浦より紀三井寺へ 32
紀三井寺 32
附近の名所古蹟 33
和水電車線路 34
城東館 35
著名なる物産土産物 36

和歌山城からまずは新和歌浦へと進んで行き、そこから和歌浦に戻り、さらに紀三井寺へ至るという旅程を念頭に記されています。新和歌浦が先に触れられますが、しかし本当に書きたかったのはむしろ和歌浦であったらしく思われる内容。
塩崎 1893のところで述べた論考でもこの本については引用しており、それは国会図書館の近代デジタルライブラリーを通じて読んだのですけれども、その後に比較的安価で入手することができたので、薮清一郎による広告の部分と妹背別荘の写真を実見しようと思い、届いた本を開いてみたら、該当部分にその広告がありませんでした(!)。
ショック。

もともと薮清一郎による「あしべ屋」の広告、特に妹背別荘の存在を強調したページにはノンブルがなく、24〜25ページの間に差し挟まれた格好です。しかしこの欠損がただの落丁ではないことは、巻頭の地図に加工がなされている痕跡より推察することができ、近代デジタルライブラリーで見られる地図に記載のある「あしべ屋」、「望海楼」、「仙集館」といった旅館の名称が、当方の入手した版ではことごとく削除されています。代わりに「米栄(こめえい)」の支店と別荘の名はひと回り大きい赤い文字で印刷されていました。14〜15ページの間の、ノンブルのない広告も大幅に入れ替わっており、「望海楼」と「仙集館」に関する案内が削除されています。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、表紙で「名所案内 和歌浦と新和歌浦」と印刷されているにも関わらず、一頁において「新和歌浦と和歌浦」という題で始められているせいか、「名所案内 新和歌浦と和歌浦」として公開されているという不思議なところがあります。そのため、近代デジタルライブラリーで「和歌浦」と「新和歌浦」の順番を入れ替えた「和歌浦と新和歌浦」を検索しても、該当するものが出てきません。
当方が所持するものの表紙の題名は「名所案内 新和歌浦と和歌浦」で、奥付は近代デジタルライブラリーにてうかがわれるものとまったく一緒です。また後表紙には「米栄別荘 米栄支店」の文字が。

従ってこの本については、「あしべ屋ヴァージョン」と「米栄ヴァージョン」とがあるということになるでしょう。でも、他にもヴァージョンがあるのではないか。その疑念は全部を見ないと拭えません。少なくとも国会図書館関西館と和歌山県立図書館が所蔵している模様。
しかし「あしべ屋」と「米栄」とが組んで2種類の本を作ったのであって、他の版はないのではと考えることもできそうです。というのは、「和歌の浦名勝拾貳景」という同じ題名を有する一枚ものの刷り物で、「あしべ屋」と「米栄」は内容の異なる写真を並べたものを別々に出したりしているからです。このふたつの老舗の旅館は、共同して和歌浦の繁栄を模索したのではないでしょうか。

教訓としては、和歌浦に関する明治・大正時代の出版物にヴァリアントがあって、うかつに引用はできないということでしょうか。少なくとも、どこが所蔵している本なのかを明記する必要が出てくると思います。
こういう経験は初めてで、ナポレオンの「エジプト誌」、Description 1809-1818にいくつかのヴァリアントがあるとは聞いていましたけれど、明治時代の刊行物に見られるとは思い至りませんでした。この場合は「エジプト誌」のような彩色の有無ではなく、内容の変更も伴っているわけですから、慎重な検討が望まれます。文献の探索が一層面倒なことになるわけで、どこから手をつけたらいいのか、呆然としています。「紀伊和歌浦明細新地図」岡田 1909)も同様。

160ページ以上にわたって記述された2010年の和歌山県教育委員会和歌の浦学術調査報告書は重要。PDFを無償でダウンロードすることができます。示されている和歌の浦に関する詳しい年表は、特に参考になります。「和歌山市史」の改訂簡略版に相当。

3ページでは執筆の担当を明記しており、「第2章第1節地質を吉松敏隆、第2節植生を高須英樹、第3節生物を古賀庸憲、第4節地理的環境と考古資料を和歌山市教育委員会前田敬彦、第4章第3節(2)を菅原正明、第4章第3節 4. 第4節近現代を米田頼司、その他は県教育委員会が作成した案の監修を、古代を村瀬憲夫、中世を柏原卓、近世を藤本清二郎、米田頼司、庭園に関しては高瀬要一が行い、総括を水田義一会長が行うこととした」とあって、錚々たる執筆陣です。

||||||||||||||||||||||||||||||

2013年12月6日追記:
その後、「あしべ屋ヴァージョン」や「米栄ヴァージョン」の他に、「望海楼ヴァージョン」も存在することを知りました。和歌浦の旅館の歴史を調べるに当たっては、こうした異本が数種類ある点を前提に研究を進めることが今後、求められるかと思われます。

2013年4月28日日曜日

塩崎 1893


最近、和歌浦の妹背山に残る平屋の木造家屋について共同執筆で書いたのですが、関連史料の探索を今も続けています(cf. 濱口 1919岡田 1909)。

西本直子・西本真一
「和歌浦『あしべ屋別荘』と夏目漱石」
武蔵野大学環境研究所紀要 第2号(2013)、武蔵野大学環境研究所
pp.77-93
http://issuu.com/naokonishimoto/docs/a_a_soseki

「あしべ屋」というのは当時非常に人気のあった料理旅館で、格式も高く、皇族が訪れた他、南方熊楠が孫文と再会を果たした場所もこの旅館。田山花袋が夜に偶然、この建物をちらっと見たという紀行文も発表されています。しかし夏目漱石が和歌山市へ来て講演をおこなった際、宿泊予定だった宿でもあって、こちらの方が有名(漱石の日記を参照)。この経緯に関しては、溝端佳則氏による多数の図版を交えた詳しい論考をお読みください(「和歌山県立文書館だより」第31号、平成23年7月)。

https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/kanko/tayori/tayori31.pdf

漱石が和歌山市を訪れた様子は多少かたちを変えながら、後期の代表的な長編小説「行人」に活写されました。漱石が和歌浦へ来た時期の旅館の宿泊料も分かっており、あしべ屋の宿代はこの地域において最も高額であったことが知られます。
「あしべ屋別荘」は、その中でも別格であったらしく、妹背山と呼ばれる小さな島に設けられ、静謐な雰囲気の中に建てられた平屋の宿でした。海水を沸かして入浴する「潮(汐)湯」の設備を謳っている広告が残っており、健康に良いと宣伝されています。当時の海水浴は娯楽と言うよりも、健康の維持や治療方法の一環として医学的な効能の喧伝が図られたようで、その様子を伝える以下の刊行本の引用が時折、なされています。

塩崎毛兵衛
「紀伊和歌浦図」
塩崎毛兵衛
明治26(1893)年
十二丁
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765544

一丁 和歌浦海水浴
二丁表 芦邊浦
二丁裏・三丁表 和歌浦全図
三丁裏 愛宕大権現ノ図
四丁表 秋葉大権現ノ図
四丁裏 五百羅漢寺ノ図
五丁表 東照宮ノ図
五丁裏・六丁表 旧四月十七日東照宮御祭禮
六丁裏 七丁表 (同)
七丁裏 南龍社ノ図
八丁表 天満宮ノ図
八丁裏・九丁表 出島濱及片男波ノ図
九丁裏 玉津島神社ノ図
十丁表 観海閣ノ図
十丁裏・十一丁表 芦辺屋ノ図
十一丁裏・十二丁表 芦辺屋ヨリ名草山望ノ図
十二丁裏(奥付)

塩崎毛兵衛の名を2回記しています。最初は執筆者、書名の後に続くのは発行者で、ここでは彼は両方の役割を果たしているため、こうなります。
墨版、薄墨版、肌色の版という合計3色がうかがわれますが、肌色の版は「旧四月十七日東照宮御祭禮」を示した合計4ページの見開きでしか見られません。4月17日というのは徳川家康の命日。
この小さな冊子はあしべ屋が出した旅館広告のパンフレットというべきもので、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている点は非常に便利です。国会図書館関西館に収蔵されている本をデジタル化したもの。しかしモノクロ表示ですし、解像度も高くないのが残念です。和歌山県立図書館も初版を1冊、収蔵しています。

問題なのは、明治26年の初版と明治29年の改訂版とがあることで、しかもこの点があまり知られていません。明治29年の改訂版には、あしべ屋の主人、薮清一郎による二丁の広告「料理業蘆邉屋廣告」が巻末に付されていますけれど、実は初版にこの広告が足されている冊子も存在します。
初版と改訂版との大きな違いは、上記した各ページの表題の字体が異なること、「和歌浦全図」において幾らかの異同があること、また「芦辺屋ノ図」の左下で船渡しの賃金が具体的に記されているかどうかといった点にあります。奥付の構成も両者では異なっており、こうした違いが興味深い。
今、諸研究機関に所蔵されている全部の「紀伊和歌浦図」を閲覧しようとしているところですけれども、たぶん初版も改訂版もそれぞれ2種類ある、そういうことだと思います。

全面改訂版、あるいは続編ともいうべきものがあって、それが塩崎毛兵衛「最新写真銅版 和歌の浦名所図」(明治42年)です。この冊子の冒頭の2ページの文章は「紀伊和歌浦図」の書き出し部分とほとんど一緒。ただ路面電車が当時開通したので、その利便性を付記しており、路線図もあわせて掲載しています。「最新写真銅版 和歌の浦名所図」の奥付には薮清一郎の名が出てきません。でも影で糸を引いていたことは確からしく思われます。たくさんの写真がこの「和歌の浦名所図」では並びますが、最初の写真は旅館あしべ屋本館の全景です。

この頃、和歌浦は観光地として急激に変化を遂げ、それに伴って自在に広告の媒体を駆使し、さまざまな版が矢継ぎ早に出されたのではないでしょうか。小冊子だけではなく、一枚の大きな版に刷られた写真集や、絵はがきも併行して大量に印刷されたようです。絵はがきは組写真としてパノラマが工夫され、同時にバラバラにして使えるようにもなっています。ガラス原版から鶏卵紙に焼き付けたもの、コロタイプ印刷によるもの、さらにオフセット平板によるものへと移る印刷技術の変容に応じながら、観光業に携わる者たちは旅館と和歌浦の姿を発信し続けました。
江戸時代末期から明治・大正時代にかけてのマルチメディアの展開と活用の例を見る上でも、この動きは注目されます。後発であった旅館、たとえば望海楼とのメディア(広告媒体)の使い方の違いも面白い。

あしべ屋は大正時代の末期に旅館を廃業しますが、しかし後年の昭和4年にあしべ屋の経営主は坪内逍遥の作によるあしべ踊り・音頭なるものを発表しているようです。地域全体の活性化を願ったあしべ屋による一連の動向は今一度、見直されるべき時期なのかもしれません。

2012年9月25日火曜日

Vogelsang-Eastwood 1999


歴史上からその名前が抹殺されていた少年王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の墓が、かつては細々と水彩画の模写をエジプトで続けたりしていたハワード・カーターによって発見されたのが1922年。今年は発見90周年ということになりますでしょうか。
ツタンカーメンの墓から出土した膨大な量の多様な遺物については、楽器、ゲーム盤、模型の船といったように、品目ごとに報告書がイギリス・オクスフォードのグリフィス研究所 Griffith Institute より少しずつ出版されていて、それらの本の総リストは

http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/5publ.html

のページにて見ることができます。Tutankhamun's Tomb Series (TTS)として良く知られているものの他に、グリフィス研究所からはツタンカーメン関連の報告書6冊がこれまで上梓されており、いずれも専門家の間ではしばしば引用されている刊行物。
H. Beinrich und M. Sarah, Corpus der hieroglyphischen Inschriften aus dem Grab des Tutanchamun(Oxford, 1989. ドイツ語の本なので「ツタンカーメン」の綴りが英語と異なります)はツタンカーメンの遺物に記されているヒエログリフのすべてを集成した本ですが、この墓から見つかったヒエラティックで書かれた文字資料については、Černý(cf. Černý 1973)が別の集成を出版(J. Černý, Hieratic Inscriptions from the Tomb of Tutankhamun, Oxford, 1965)。この2冊を持っていれば、ツタンカーメンの墓の遺物に書かれていた文字をとりあえずすべて網羅することになります。「とりあえず」、というのは他に記号の類があるからで、組み立て式の祠堂では部材のどことどことが接合されるのかが記号で示してありました。
ツタンカーメンの墓から見つかった遺物を対象としたグリフィス研究所による報告書の中での最新刊はEaton-Krauss 2008で、そこではツタンカーメンの玉座や腰掛けなどが扱われています。グリフィス研究所とは異なった出版社から2010年に刊行されたツタンカーメンの履物の報告書に関しては後述。

この墓に納められていた衣類に関しては、しかしながら未だ刊行がなされていません。従って、1999年から2011年にかけて欧米を巡回した下記の展覧会「ツタンカーメンの衣装 Tutankhamun's Wardrobe」展のカタログが重要になってくるわけです。薄いカタログですけれども、カラー写真や着衣の状態の復元図も納められており、貴重。衣服がたたまれて入っている衣装箱の様子を真上から撮影した写真も掲載されていますから、古代エジプトの家具を知りたい人間にとっても有用な本となります。

G. M. Vogelsang-Eastwood,
illustrations by Martin Hense and Kelvin Wilson,
[with contributions by J. Fletcher and W. Wendrich],
Tutankhamun's Wardrobe: Garments from the Tomb of Tutankhamun
(Barjesteh van Waalwijk van Doorn: Rotterdam, 1999)
[115] p.
http://www.tutankhamuns-wardrobe.com/

Table of contents:

Preface (p.4)

1. Tutankhamun (p.6)
2. Materials and decoration (p. 20)
3. Birds, beasts and plants on Tutankhamun's clothing (p.32)
4. Tutankhamun's Egyptian style garments (p.46)
5. Tutankhamun's foreign garments (p.78)
6. The king's wardrobe (p.92)

Bibliography (p.112)

この展覧会カタログの中では、J. Fletcherがツタンカーメンの鬘(かつら)箱について("The king's wig and wig box", pp.67-8)、またW. WendrichVogelsang-Eastwoodと共著で履物(サンダル)について("The king's footwear", pp.68-77)短く書いています。なおツタンカーメンの履物(サンダル)を報告したものはA. J. Veldmeijer(cf. Veldmeijer 2009)により、Tutankhamun's Footwear: Studies of Ancient Egyptian Footwearという題で2010年に出版されました。VeldmeijerAncient Egyptian Leatherwork and Footwearというページを運営していて、活発な研究成果をそこでつぶさに見ることができます。

Vogelsang-Eastwoodについては、Kemp and Vogelsang-Eastwood 2001で触れたことがありました。この人は今日において古代エジプトの衣服を詳しく知っているほとんど唯一の専門家と言って良く、

Gillian Vogelsang-Eastwood,
Pharaonic Egyptian Clothing.
Studies in Textile and Costume History II
(E. J. Brill: Leiden, 1993)
xxiii, 195 p., 44 plates.

という書籍を執筆しています。近年では類例が見られない書。古代エジプトではいったいどのような衣服が作られ、また当時の人々はどのような服装で着飾っていたのかを知る上で、第一に基本となる重要な本です。
古代エジプト学における服装の美術史学的な分析は進展しており、編年も確立されつつあるのですが、これは彫像や壁画などの資料に彫出あるいは描写された着衣の観察に基づく論考が主であって、実際に出土した衣類との整合性を検討する研究者はそれほど多くいないと思われます。J. J. Janssenによるラメセス時代のディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)における衣服の値段(価格)の考察については、Kemp and Vogelsang-Eastwood 2001にて記しました。

Tutankhamun's Wardrobeでは、通常の男性の体型とツタンカーメン王の体型とを比較した図(Fig.1:11, p. 19)なども載っていますから、人体と衣服との関連に興味のある方には役立つはず。
サッシュ(飾り帯)やチュニックの簡単な型紙も小さく紹介されていますので、器用な方はこれを見て、新王国時代の衣服を自分で作ることもできるかと思われます。「装飾」の項では、エジプト禿鷲の姿であらわされるネクベト女神像についても若干述べられています(pp.34-36)。
オランダにおける古代エジプト研究の長い歴史が改めて示唆される刊行物のひとつで、目立たない冊子でありながら、誰も手をつけていない分野がどのように開拓されるかを如実に示している好著。ツタンカーメンの衣服に関して詳しく述べている本は他にありません。

2012年9月23日日曜日

Égypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996)


Égypte, Afrique & Orienthttp://www.revue-egypte.net/)はフランスのアヴィニョンから年に4回刊行されている雑誌。毎号のテーマを決めて少数の書き手により紙面を埋める構成を取ることが多く、最近の特集の中では第64号(2011-2012年)の「古代エジプトの船と航海 Les bâteaux et la navigation en Égypte ancienne [I]」などが目を惹きます。海洋を通じた交易とこれに伴う船舶に関してはJournal of Ancient Egyptian Interconnections (JAEI) 2:3 (August 2010)において、"Special Maritime Interconnections Issue"と題した特集が組まれました。またBritish Museum Studies in Ancient Egypt and Sudan (BMSAES) 18 (August 2012)でも、"Mariners and Traders"、"Egypt's Trade with Punt"と題された特集号を刊行。古代エジプトの船については近年、新たな情報が増えつつあり、第1王朝のデン王時代の木造船の出土は2012年7月のニュースでも報じられたところ。
船に関しては、これまでの成果を簡便にまとめ、特に中王国時代の資料を充実させた最新刊である

Michael Allen Stephens,
A Categorisation and Examination of Egyptian Ships and Boats from the Rise of the Old to the End of the Middle Kingdoms.
BAR International Series 2358
(Archaeopress: Oxford, 2012)
vi, 220 p.

も出ている模様です。

Égypte, Afrique & Orientは一般向けとは言え、カラー写真も組み込まれ、また世に知られている学者たちが執筆しているので資料的な価値が高く、それ故にオクスフォードのグリフィス研究所ではポーター&モス(cf. Porter and Moss, 8 vols.)を編纂するための予備作業として、この雑誌に掲載されている遺物の総リストを作成したりしているのでしょう(cf. http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/3Egypte_Afrique_&_Orient.pdf)。
ここではÉgypte, Afrique & Orientの、古代エジプト家具の特集号を掲げます。

Égypte, Afrique & Orient 3 (septembre 1996)
Les meubles des Anciens égyptiens

Sommaire

Geoffrey Killen: "Le travail du bois et ses techniques dans l'Égypte ancienne",
traduit de l'anglais par Anne Berthoin-Mathieu (pp. 2-7).

Jean-Luc Bovot: "Les meubles égyptiens du musée du Louvre" (pp. 8-13).

Enrichetta Leospo: "Les meubles égyptiens. Les styles de l'Ancien au Nouvel Empire. Tendances et innovations",
traduit de l'italien par Jean Bruguier (pp. 14-19).

Christian E. Loeben: "La fonction funéraire des meubles égyptiens",
traduit de l'allemand par Nathalie Baum (pp. 20-27).

4人の執筆者のうち、フランス語で書いているのはたったひとりだけで、あとは英語、イタリア語、ドイツ語で書いてもらった原稿を仏訳して載せています。どの人もかなり有名。Loebenの原稿をフランス語に訳したBaumは、

Nathalie Baum,
Arbres et arbustes de l'Égypte ancienne:
La liste de la tombe thébaine d'Ineni (No 81).
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 31
(Leuven, 1988)
xx, 381 p.

を出しています。
最初の書き手については前にも何回か触れました(Killen 1980; Killen 2003; Herrmann ed. 1996)。現在はラメセス期の家具に関してまとめをおこなっているようです。木工技術についての紹介。
2番目の人は古代エジプト美術の解説書を執筆している他、ルーヴル美術館のサイトでは作品の解説文も手がけている研究者。ルーヴル美術館に収蔵されている良質の家具を、たくさん取り上げている点が注目されます。
3番目のレオスポについては、Leospo 2001などを参照。トリノ・エジプト博物館の遺物を交え、新王国時代の家具の様式を概観しています。家具の様式についてはH.G. Fischer(cf. Fischer 1996)が著した「4つの講義録」、L'écriture et l'art de l'Égypte ancienne: Quatre leçons sur la paléographie et l'épigraphie pharaoniques (Paris, 1986)の中で重要なことが述べられており(Leçon IV: Les meubles égyptiens, pp. 169-240)、その線に沿って語られている論考。
レーベンはテーベ西岸の「王妃の谷」の研究等で知られていますが、この知見を生かし、「死者の書」でうかがわれる記述と副葬品としての家具との関連を最初に述べ、墓の中に副葬品として納められる家具の役割を語っています。ツタンカーメンの家具も取り上げられていて、面白い見方が展開されています。開け閉めで用いる部分のすり減っている度合いから、王宮内で使われていた家具であろうと判断するなど、観察が詳細で非常に鋭い。

この雑誌は古い号の入手が難しく、エジプト学の書だけを専門とする特異なフランスの古書店Librairie Cybeleを通じても品切の状態がずっと続いています。

2012年9月19日水曜日

ビックリハウス Super 8 (Winter 1978)


ビックリハウス Super 9に続き、その前号を紹介。
目次では「第2回JPC展(日本パロディ広告展)作品カタログ」というのが出てきますが、これは当時、美術を志す人にとっては応募のしやすい公募展で、非常に人気がありました。この回の入賞者の方々の名を、できるだけ正確に挙げておきます。
日本写真文化協会 Japan Photo Culture Associationという由緒ある団体が、似た名前の「JPC全国写真展」を昔から本格的に開催していますので、たいへん紛らわしい。混同しやすい展覧会の名をわざと考えたビックリハウス側の、手に余るたちの悪さが改めて指弾されます。

後には間口を拡げ、「日本パロディ・カルチャー展」となります。パルコ(PARCO)の一貫した戦略がかつて成功をおさめたひとつのプロジェクト。
月刊「ビックリハウス」や、その別冊(別巻)の後続誌「スーパーアート」とその後に改称された「スーパーアート悟空(スーパーアートゴクー / スーパーアートゴクウ / スーパーアート Gocoo)」の書誌については、ビックリハウス Super 9 (Spring 1979)を御参照ください。


ビックリハウス Super 第8号 (1978 Winter)
ビックリハウス別冊
森=迷宮感覚/第2回JPC展カタログ

1978(昭和53)年11月10日刊(冬期号)、580円
表紙イラストレーション:吉田カツ

p. (1) 目次

p. (2) 「迷図」、関三平(Maze No. 36)

pp. (3-4) 広告

pp. 5-28 森=迷宮感覚
p. 5 (口絵、作者不詳)
pp. 6-7 評論:「森の画家たち」、中山公男
pp. 8-9 美術:「コラージュ」、合田佐和子
p. 10 美術:「オブジェ」、鈴木慶則、撮影=山崎博
pp. 11-13 詩:「暗黒賛歌」、田村隆一、イラストレーション=滝野晴夫
pp. 14-15 絵本:「FOREST」、鈴木康治
pp. 16-17 歌:「森傅圖」、須永朝彦、イラストレーション「妖精たちの森」、野中ユリ
pp. (18-20) 広告
pp. 21-23 評論:「<森>とは何か -グリムと賢治を手がかりに-」、天沢退二郎、イラストレーション=磯原育生
p. 24 随筆:「森の魔」、佐々木幹郎
pp. 25-27 創作:「迷宮の森の芝刈り」、赤瀬川原平
p. 28 随筆:「センチメンタル・オラウータン」(註:ママ)、糸井重里

pp. 29-35 狂気と建築
pp. 29-32 「書物の空間:アントニオ・ガウディ・コルネ(1852-1926)」、粟津潔
pp. 33-35 「1g essay 工事中であるものたちへの覚え書き」、松岡正剛

p. (36) 広告

pp. 37-67 第2回JPC展(日本パロディ広告展)作品カタログ:受賞・入選作品紹介
p. 37 JPC賞 塩谷秀行(横浜市)
p. 38 入選 福田直美(渋谷区)、入選 武市真先・朝倉毅(川崎市)、入選 南部俊安・戸漱秀昭・武田学(大阪市)、入選 伊藤清彦(北区)
p. 39 入選 よしだともひこ(藤沢市)、入選 武富謙二(福岡市)、入選 宮沢一郎(武蔵野市)、入選 井上資巳(渋谷区)
p. 40 パルコ賞 山県旭(横浜市)
p. 41 特選 小長谷朗彦(大阪市)
p. 42 入選 清水和男(杉並区)、入選 横山晃治(横浜市)、入選 信原真治(刈谷市)、入選 横山晃治(横浜市)
p. 43 入選 小林友征(北足立郡)、入選 山県旭(横浜市)、入選 小林友征(北足立郡)、入選 山県旭(横浜市)
p. 44 特選 八木沢重之(小金井市)
p. 45 特選 雪組・佐々木(渋谷区)
p. 46 入選 本山昌司(横浜市)、入選 本山昌司(横浜市)、入選 本山昌司(横浜市)、入選 本山昌司(横浜市)
p. 47 入選 染谷義紀(目黒区)、入選 吉田康彦(板橋区)、入選 宮野哲也(横浜市)、入選 菅谷健夫・須賀昌彦(千代田区)
p. 48 ダイヤトーン賞 坪井泰彦(上越市)、デルモンテ賞 浅野泰弘(川口市)
p. 49 スーパーニッカ賞 和田哲裕(豊島区)、アバロンヒル賞 マエダ・ヒオミ(大阪市)
p. 50 入選 西永奨(富山市)、入選 野上周一(神戸市)、入選 伊川英雄(小平市)、入選 加藤由記夫(葛飾区)
p. 51 入選 村上豊(京都市)、入選 村上豊(京都市)、入選 村上豊(京都市)、入選 今西雅文(神戸市)
p. 52 キャノン賞 町田哲(渋谷区)、キャノン賞 片上晴夫(神戸市)
p. 53 キャノン賞 竹林賢二(横浜市)、奨励賞 吉田良三(杉並区)
p. 54 入選 荒井孝昌(豊川市)、入選 山中宏文(東大阪市)、入選 浮田邦彦(新宿区)、入選 瀬戸理子(小田原市)
p. 55 入選 駒根木弘子(堺市)、入選 上口睦人(新宿区)、入選 大成留美(京都市)、入選 平野内智彦(渋谷区)
p. 56 奨励賞 浜崎哲治(福岡市)、奨励賞 加藤順一(国立市)
p. 57 奨励賞 中村豊(杉並区)、奨励賞 横山新一(川崎市)
P. 58 入選 長谷川裕一(横浜市)、入選 田中悦郎(小牧市)、入選 清水宏章(松戸市)、入選 佐々木誠(愛知郡)
p. 59 入選 寺嶋三重子(国分寺市)、入選 内田一秀(新宿区)、入選 野上碧(横浜市)、選外佳作 上口睦人(新宿区)、選外佳作 伊藤俊文(目黒区)
p. 60 佳作入選 山口せえご、佳作入選 新家公徳(広島市)、佳作入選 白浜誠一(福岡市)、佳作入選 平出孝(田無市)
p. 61 佳作入選 猥飢男(横浜市)、佳作入選 高村智(豊島区)、佳作入選 河根徹・新井功(江戸川区)、佳作入選 サコーカズオ(岐阜市)
p. 62 選外佳作 藤井えり子(京都府)、選外佳作 リノ・ルテ(尼ヶ崎市)、選外佳作 飯泉隆(千葉市)、選外佳作 松田正比古(箕面市)、選外佳作 佐藤博(八戸市)、選外佳作 森口英晴(小金井市)、選外佳作 加来義則(杉並区)、選外佳作 松野裕司(世田谷区)、選外佳作 藤原ゆーぞー(京都市)
p. 63 選外佳作 菊田哲(金沢市)、選外佳作 菅谷健夫・須賀晶彦(千代田区)、選外佳作 緒方和彦(世田谷区)、選外佳作 布施保宏(大田区)、選外佳作 戸崎利美(交野市)、選外佳作 山田晴樹(川崎市)、選外佳作 森谷統(東村山市)、選外佳作 杉本三智男(浜松市)、選外佳作 サコーカズオ(岐阜市)
p. 64 入選 宮島浩一(文京区)、入選 菊池弘光(名古屋市)、入選 古館陽子(三郷市)、入選 俊悦治(中野区)
p. 65 入選 河合悌市(新宿区)、入選 しのはらみちこ(杉並区)、入選 島田勲(横須賀市)、入選 多田正文(東大阪市)
p. 66 選外佳作 浜田良作(摂津市)、選外佳作 沢田コータロー(中央区)、選外佳作 小林友征(北足立郡)、選外佳作 竹友浩二(渋谷区)、選外佳作 つげ勝年(岡山市)、選外佳作 小林友征(北足立郡)、選外佳作 宮本悦美(大阪市)、選外佳作 寺西健治(文京区)、選外佳作 伊川英雄(小平市)
p. 67 選外佳作 橋詰里江(保谷市)、選外佳作 原真澄(三鷹市)、選外佳作 松永茂晴(船橋市)、選外佳作 安部清次(佐伯郡)、選外佳作 岡田清隆(渋谷区)、選外佳作 横山新一(川崎市)、選外佳作 山下雅章(宝塚市)、選外佳作 青野信夫(中野区)
p. (68) (SUPERMAN)

pp. (69)-77 第2回JPC展(日本パロディ広告展)選評座談 <状況を笑え>
出席:赤瀬川原平、粟津潔、福田繁雄、マッド・アマノ、しとうきねお、高梨豊、山口はるみ、司会:榎本了壱、撮影:山崎博
p. 71 受賞者一覧
p. 72 受賞者の略歴:JPC賞受賞の辞、塩谷秀行・柴山宜康
p. 73 受賞者の略歴:パルコ賞受賞の辞、山県旭;特選受賞の辞、小長谷朗彦
pp. 73-74 受賞者の略歴:特選受賞の辞、八木沢重之
p. 74 受賞者の略歴:特選受賞の辞、雪組・佐々木、山本としお
pp. 74-75 受賞者の略歴:キャノン賞、町田哲
p. 75 受賞者の略歴:キャノン賞、片上晴夫・野田耕司・南本艶子・旦昌弘・田川秀史;キャノン賞、竹林賢二;デルモンテ賞、浅野泰弘;ダイヤトーン賞、坪井泰彦
pp. 75-76 受賞者の略歴:アバロンヒル賞、マエダ・ヒオミ
p. 76 受賞者の略歴:スーパーニッカ賞、和田哲裕;奨励賞、浜崎哲治・酒井隆晴;奨励賞、加藤順一;奨励賞、吉田良三;奨励賞、中村豊
pp. 76-77 受賞者の略歴:奨励賞、横山新一

pp. 78-(79) 讀ムリ*新聞(*註:「ムリ」は「魚」ヘンに「売」)

pp. 80-(81) 朝目新聞

pp. (82-84) 広告

pp. 85-87 「発想について6:タイムトンネルに吹く風 日本画とグラフィックデザインの間」、佐藤晃一

pp. (88-89),  (92-93) 「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル6:HEGEMONY <覇権>」、木村恒久

pp. 90-91, 94-95 「スーパーニット」、山田峰子;撮影=中道順詩

pp. 96-97 「福田繁雄のグラフィック・トーア6 直線仕立てのフレンチ・ホルン」、福田繁雄

pp. 98-100 「HOW TO パロディ5:交差点の巻」、マッド・アマノ

pp. (101-102) 広告

p. (103) 季刊ビックリハウス Super バックナンバー

p. (104) 第2回JPC展(日本パロディ広告展)開催広告、編集ノート


もともとがパロディ誌のため、タイトルや投稿者の名前、投稿作品の内容などで一文字だけ違うのが誤植なのか、それとも本当に意図されたものなのかの見きわめがけっこう難しい。
当時の校正作業は大変であったろうと推察されます。

2012年9月15日土曜日

ビックリハウス Super 9 (Spring 1979)


ビックリハウス」という、紙質はあまり良くない雑誌(月刊誌)が1975(昭和50)年に発刊され、これは1985年11月の最終号(130号)まで続きました。「宝島」などと並び、当時に見られたサブカルチャーの隆盛のさまを代表して示す有数の雑誌のうちのひとつ。
最初はぺらぺらの雑誌だったのですけれども、すぐその後に投稿を広く募る独自の形式を採用し始め、かなりの人気となって、後に判型を大きくした別冊(別巻)が刊行されるようになります。これが季刊「ビックリハウス Super(ビックリハウススーパー)」で、1977年から1979年まで出版されました。
ビックリハウス Super」の後継誌(あるいは継続誌、継承誌)は月刊「スーパーアート悟空(スーパーアート Gocoo):スーパーアートゴクー、あるいはスーパーアートゴクウ」です。季刊から月刊へと変更され、最初はただの「スーパーアート」でしたが、第8号から「スーパーアートGocoo」に改称。1979年から1981年まで続きました。
後継誌は当初、「スーパーアート」ではなく、「ソピカ」という誌名を候補として考えていたことが知られています(cf. ビックリハウス Super 9、pp. 30-31、104:後述)。パブロ・ピカソ Pabro Picassoという、有名な現代絵画の巨匠のファミリーネームに基づき、このカタカナを単純に入れ替えただけの誌名は、視覚的なパロディの紹介に特化しようとしたこの雑誌の方向性を良くあらわしているように思われます。
似た命名の方法の代表はたぶん、Googleによるデジタル写真管理ソフトのピカサ Picasa

月刊「ビックリハウス」が栄えた歴史を知るには、

ビックリハウスアゲイン
http://www.ne.jp/asahi/gomasio/rf-2/bh.html

を訪れるのが一番です。「ビックリハウス」の刊行の後期に当時、編集作業に携わっていた管理人イノリンさんによるページ。雑誌から直接スキャンされた抜粋が具体的に掲載することも多々おこなわれていますから、とても重要。上記のHPでは、映像作家かわなかのぶひろ氏によるコラム、http://www.rundog.org/kawagochi/にて月刊「ビックリハウス」が世に公刊された経緯が詳細に披瀝され、まことに貴重な情報だと思われますが、現在はリンク切れの様子。

ここでは競合を避けるために、月刊「ビックリハウス」の別巻である季刊「ビックリハウス Super」が、季刊から月刊「スーパーアート悟空」へと変わる直前の最終号を紹介。
3誌を並べ立てて論じており、分かりにくくてすみません。検索の便宜を考え、タイトルのカタカナ表記も繰り返しています。

ビックリハウス Super(ビックリハウススーパー:ビックリハウス別冊)、季刊
発行:パルコ出版
編集:エンジンルーム
編集人:榎本了壱
出版期間:第1号(1977 [昭和52] 年1月)〜第9号(1979 [昭和54] 年2月)

後継誌:スーパーアート(第1〜7号)、後にスーパーアート悟空(スーパーアート Gocoo/スーパーアートゴクー、あるいはスーパーアートゴクウ:第8〜23号)、月刊
第1号(1979 [昭和54] 年5月)〜第23号(1981 [昭和56] 年3月)


ビックリハウス Super 第9号 (Spring 1979)
ビックリハウス別冊
JPC展作家競作集

1979(昭和54)年2月10日刊(春期号)、580円
表紙イラストレーション:中山泰

pp. (1)-2 目次

pp. (3-4) 広告

pp. 5-14 国際現在美術館 International Contemporary Museum 巨匠漫画展
p. 5 「偏執狂的批判的こまわり - サルマネール・ダレ」、島田勲
p. 6 「赤兵衛の叫び(フギャーッ!) - エドバーロ・モンク」、菊地弘光
p. 7 「耳を切る前の自画像 - ファン・コッホ」、河合悌市
p. 8 「摩訶呂尼法蓮僧之図 - 陳方志切」、小長谷朗彦+西田猛
p. 9 「スポーツカーを運転する天才バカボン - ノーミン・コックウェル」、中村豊
p. 10 「サラリーマンのいる風景1・2 - ヘルナール・ビュッファ」、マエダ・ヒオミ
p. 11 「パスカルの群れの少女 - ボール・ゼサンヌ」、山口せえご
p. 12 「つる姫の予感 - ネル・マグネット」、小林友征
p. 13 「キャプテン・ハーロックとクイーン・エメラルダス - モジリ・アネ」、竹林賢二
p. 14 「太陽の鉄兵 - 岡木大郎」、宮沢一郎

pp. 15-20 雑誌表紙パロディ
p. 15 「暗しの手帖 - 首つりひもは、どこのメーカーがよいか」、山県旭
p. 16 「太相撲 - 月面場所総決算号」、和田哲裕
p. 17 「COOKIN’ON - ミック・ジャガイモスープの作り方ほか」、八木沢重之
p. 18 「侍とメルヘン - 侍はタフでなければ生きられない」、浅野泰弘
p. 19 「ビッグ・クミッコ - <ブロマイド・レディ>」、浜崎哲治+酒井隆晴
p. 20 「ぷあ - 食後の静かなブーム『プアプリン』」、塩谷秀行+柴山宜康

pp. 21-27 特集 シーク・ア・ワード(言葉探し) Seek a word
p. 21 「アリスの生き物探し」、柳瀬尚紀
p. 22 「わが犬ピュスのあだ名いろいろ」、名木田恵子
p. 23 「レコード・レーベル」、大瀧詠一
p. 24 「小説のように」、日向あき子
p. 25 「言語の権化」、窪田僚
p. 26 「国定忠次の歌」、明石町先生
p. 27 「航海記」、日下部真紀子

pp. 28-29 「異見絵画論:レオナルド・ダ・ヴィンチ」、火野鉄平

pp. 30-31 月刊ソピカ10大公募規定
(「ビックリハウス SUPERは4月1日刊(5月号)より、ソピカと誌名も新たに月刊化します」)

p. (32) Seek a word 解答

pp. (33-34) 日刊どうも

pp. 35-36 日刊ちょっとスポーツ

pp. 37-39 「発想法について7」、戸村浩

pp. 40-41 「福田繁雄のグラフィック・トーア7 プルッツルと正十五面体」、福田繁雄

pp. 42-43 「迷図」、関三平(Maze No. 78)

pp. 44-49 「アメリカを遊園地と勘違いしては困る:アダルトコミックスの背景にあるもの」、マッド・アマノ

pp. 50-51 「映画=ナショナル・ランプーンのアニマル・ハウス」(執筆者不詳)

pp. 52-59 「シンボルマーク II」、制作=安部清次、マエダ・ヒオミ、山県旭、河合悌市、清水和男、加藤順一、南部俊安、武田学、吉川晶子、平野内智彦、宮沢一郎、和田哲裕、戸瀬秀昭、山下雅章、坪谷一利、清水健司
p. 52 安部清次、マエダ・ヒオミ
p. 53 山県旭、マエダ・ヒオミ
p. 54 清水和男、加藤順一、河合悌市
p. 55 マエダ・ヒオミ、加藤順一、安部清次
p. 56 山県旭、平野内智彦、加藤順一、南部俊安+武田学+吉川晶子、マエダ・ヒオミ、戸瀬秀昭
p. 57 山県旭、マエダ・ヒオミ、宮沢一郎、和田哲裕、加藤順一
p. 58 山下雅章、坪谷一利、清水健司、平野内智彦、南部俊安+吉川晶子、加藤順一
p. 59 坪谷一利、平野内智彦

pp. (60)-65 「ヴィジュアル・ファンタジイの新しい展開:コミックスとイラストレーションのあいだ」、小野耕世

pp. (66-68) 広告

pp. 69-73 ベスト・オブ・ビックリハウス1978、パロディ・コマーシャル総集編
p. 69 荒井孝昌、杉谷博士、桜桃太、富谷弘彰、甲斐智子、杉谷博士
p. 70 薬師神良行、小野寺紳、江渡加奈、高橋おさむ、水野はるみ、森多たかし、荒井勉、やなぎけいこ
p. 71 とみやひろあき、高橋浩徳、渡辺一恵、ゲランの光子、片桐沙恵子、辻昌宏、薬師神良行、きだまきし
p. 72 杉谷博士、村山晃史、モタイタカヒデ、斉藤淳一、加藤謙二、坂田洋子、のともあきら、高橋健治
p. 73 富谷弘彰、ジェントリー富沢、清水良郎、富谷弘彰、岩崎信幸、荒井雅視、権田均、のともあきら

pp. 74-79 ベスト・オブ・ビックリハウス1978、月例フォト・コンテスト総集編
p. 74 「あっち向いてホイ!」名和誠、「いらっしゃいませ!」金原司、「僕陸上部です。足? もちろん自信あります」おヨシ坊金時、「これ5杯が限度かな?」小林孝次
p. 75 「非常口」後藤大和、「燃料補給中」岡本史郎、「うっ、わ、我家が…」早坂幸一、「うっ、中々取れないこのマスク」石井文也、「誰でんねん。わてが、ねてる間にたんこぶ作ったのは!!」望月主悦、「我ら、偏向世代ッ!!」岩田邦彦、「立たされ坊主」曽根浩、「今月のベスト5」小野寺紳
p. 76 「非情ブレーキ!!」岡本省司、「すみからすみまでずずずいと……」小貝高妙子・和子、「ぼっ木」佐藤彰洋、「僕は、寝る子は育つという諺を信じております」中島弘人、「住宅難」金井康子、「親分、ほらあそこにUFOが!」坂田ピコ、「観察結果! 左より震度2、震度3、震度5!!」池田陽一、「人種差別ハンタ〜イ! 黄色人種だって駐車させてよ!」いまいずみゆう
p. 77 「新カップル––愛があれば年の差なんて……」杉谷博士、「僕写真写り悪いんだ」長尾勉、「異母兄弟」大島博、「これ本物の心霊写真でしょうか?」岡本幹哉、「ちきしょう! 接着剤が、効いてきやがった!」安藤岳志、「面白半分」中村幸一郎、「出口まで10ヶ月要!!」柳恵子、「無視––かわいそうな先生」(投稿者名記載なし)
p. 78 「オルカ」川崎豊志、「ママ、ここにもおしりがあるョ」山崎まこと、「今からうんこするんだから見るなよ」「うん」山口茂、「ワッハハ、ワシがミルク会社の社長じゃ」増田辺伊志代、「風見猫」井川正貴、「次の一手」高橋浩徳、「アンチ・ジャイアンツ」大木孝威、「金とひまをもてあます」三宅由希児、「母ちゃん! 長らくお世話になりました。わたしお嫁に行きます」高田風子、「ウ〜ウォンテッド!!」萩原麻理子、「愛してるよ」「あら、そんな所さわっちゃダメ!」石川よしあき、「キミ、そのヒゲはどうにかならんのかね!?」小野寺紳
p. 79 「石油のおじさん、タンクの栓が抜けとるで〜!!」上野智、「ある夏の暑い日」佐川光夫、「世界を股に掛ける男」長尾勉、「恐怖の受験地獄…か、か、顔まで脳味噌に……」長尾勉、「ホームシック」船越重子、「フィルム逆に入ってるの!」佐久間鉄朗、隔月刊・小説怪物広告

pp. (80-84) 広告

pp. (85)-91 スーパーパース
p. (85) 「牛野屋インド支店」、片上晴夫+旦昌弘
p. 86 「クラウンライタービル」、坪井泰彦、「走り過ぎた新幹線」、片上晴夫+旦昌弘、「人民寺院東京支部」、加藤順一
p. 87 「新宿新幹線」、加藤順一
p. 88 「世界的住宅難」、吉田良三、「新発売超大型冷蔵庫」、吉田良三、他
p. (89) 「(う〜ん、チョコレートまであともう少し……)」、加藤順一
p. 90 「グランドキャニオンの四代首領」、福田直美、「(なんだなんだ)」、加藤順一
p. 91 「スターダム1978」、横山新一

pp. (92)-(97) 「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル7 氷河期」、木村恒久

pp. (98)-100 「マッド・アマノのHOW TO パロディ6 政治の巻」、マッド・アマノ

pp. (101-102) 広告

p. (103) 季刊ビックリハウス SUPER バックナンバー

p. (104) 編集ノート、誌名改変予告


ページ数が印刷されていない場合にはカッコ内で表示。
個人による多数の投稿がうかがわれ、かつての諸作品は年月を経た後も投稿者によってネット検索がなされるかもしれないという点を勘案し、ここでは情報を比較的詳しく記載しました。
国立国会図書館大宅壮一文庫、あるいは米沢嘉博記念図書館をもとに2014年度の完成をめざしている明治大学国際マンガ図書館等も、

ビックリハウス
ビックリハウス Super」(別巻)
スーパーアート悟空/Gocoo」(別巻後継誌)

といった3誌の全巻を、今のところ収蔵していない様子だと思われます。当時、ゲリラ的に出版されたことを良く示している有様。特に国立国会図書館法の納本制度は守られていないわけです。
若い頃に熱意を抱き、当誌に原稿を投稿された方々にとってはたいへん残念な状態。改善が望まれます。

月刊「ビックリハウス」の簡単な書誌については以下の通り。

ビックリハウス
発行:パルコ出版
編集:エンジンルーム

第1号(創刊号):1975(昭和50)年1月~第130号(最終号):1985(昭和60)年11月;
第131号(復刊号):2004(平成16)年1月。

なお関連書として「ビックリハウス驚愕大全」(1993 [平成5] 年12月)の他、「BH」や「小説怪物」といったシリーズなども出ているはずです。他に、音版ビックリハウスというものもあるらしい。
当方はこれらについて知識を持っておりません。詳しい事情を御存じの方から御教示いただけましたら幸いです。

2012年9月12日水曜日

Moon 2005


世界遺産に指定されているタンザニアのキルワ島へ行く機会を得ました。東アフリカの沿岸に属し、島々が点在して珊瑚礁が発達しているこの場所は港湾の設営にも適しているため、古来から海外交易によって栄えた場所。
案内役を務めてくださったのは、このキルワ島について学位論文を執筆されている人類学者の中村亮先生(総合地球環境研究所)で、もしもたったひとりで行ったとしたら到底見ることができない遺跡をたくさん拝見することができました。予定されていた現地での御自身の研究もあったと思われますが、わざわざダル・エス・サラーム空港までお迎えいただいた後、キルワ島への移動と滞在で数日間行動をともにしていただき、貴重なお時間を割いてくださったこと、また遺跡にて詳しい専門的な御説明を逐一賜りました点について厚く御礼申し上げます。
もともとエジプト・シナイ半島南部に残存する珊瑚造建築の調査に関わっていたことを機縁とした比較調査です。古代エジプトの石造建築は非常に有名ですが、クセイルやシナイ半島南部のラーヤあるいはトゥールなどの沿岸部において珊瑚を用いた建物が残っていることは、あまり知られていません(cf. Le Quesne 2007)。
一方で、Greenlaw 1976の報告によりスーダンの交易港サワーキン(スアキン)における珊瑚造の建物群は有名で、建築構法としてどのような違いがあるのかどうかが気になるところです。

以下の本はキルワ島に残存する遺跡の様相を簡潔にまとめたもので、上空からのカラー写真も多く交えており、参考になります。キルワ島をこれから訪れようと考えている方々に役に立つことは間違いありません。各遺構の平面図もカラーで掲載されています。見やすい地図の他、CGによる復元図もいくつか紹介されており、往時の姿を知ることもできます。高さ20センチ、幅21センチのほぼ正方形の薄い判型で、持って歩くのにも便利。重宝します。

Karen Moon,
Kilwa Kisiwani: Ancient Port City of the East African Coast
(Ministry of Natural Resources and Tourism: Dar es Salaam, 2005)
68 p.

Contents:

Introduction (p.9)

Historic Sites (p.13)
Malindi Mosque and Cemetery (p.13)
Gereza (Kilwa's Fort) (p.15)
Makutani (p.18)
Tombs of the Kilwa Sultans (p.22)
Jangwani Mosque and House (p.23)
Small Domed Mosque (p.25)
The Great Mosque (p.27)
The Great House (p.32)
Husuni Kubwa (p.35)
Husuni Ndogo (p.40)
Ancient wells (p.42)

Village and Island (p.44)
Kisiwani village (p.44)
Cultural Practices and Traditions (p.48)
Further Historical Sites of Kilwa Kisiwani (p.52)
Nature Walks (p.55)

Kisiwani in Context (p.61)
Other Sites of Kilwa Bay (p.61)
Related Sites of the Swahili Coast (p.64)

Chronology of Events (p.66)
Further Reading (p.68)

ただ難点を述べるならば、あくまでも一般向けの薄い書籍なので、建築遺構のどこが面白い点なのかを具体的に知ることは難しいと思われます。
逆に、この本で触れられていない点を探し出して図を交え、説明することが、あるいは一般に対して建築史の全体の流れをより分かりやすく語ることができるのかもしれません。
特に柱を林立させ、各ベイ(格間:4本の柱によって囲まれた部分)の天井形式に変化を持たせている大モスクを見る時、そう感じます。
ここでは各辺の長さが微妙に異なる長方形平面の上に載せられた楕円形のドームとヴォールト vault の天井の併用が見られ、天井近くの壁体上部にはペンデンティブ、また柱間には半円アーチとポインテッド・アーチ、さらには外壁にリンテル・アーチ lintel arch(フラット・アーチ flat arch)なども多々観察されて、西洋の主要な建築構造の流れを説明するには最適。ひとつの遺構に、全部が集まっている状況です。
なお、平らなアーチすなわちフラット・アーチや、「平らなヴォールト屋根(!):フラット・ヴォールト」については、Fitchen 1961Rabasa Diaz 2000を参照。
東アフリカ沿岸に残る遺構としては画期的な巨大なドームが、この建物の一隅にかつては存在したという報告もなされています。

列柱廊におけるドームの建設についてはこの場合、小規模であり、おそらくは土砂を積み立てて仮設の土台を造ったのでは。ドームやアーチを架構する場合には足場が必要とされるわけですけれども、ひとつひとつの楕円形のドームのライズ(高さ)や曲率が異なるように見受けられ、同じ木製の型枠を使い回したとは考えにくいと推察されます。この点については今後の研究の進展が望まれます。

小モスクの片隅で見られる、井戸から汲み上げた水を建物内に導き入れるための水路も貴重。キルワ島の遺構全般に見られることですが、水に関する諸施設が良好に残存している点は特記されるべきだと思われます。水浴施設と便所が高度に整備されていたことを今日まで明瞭に伝えており、詳細な報告がおこなわれるならば注目を集めるのではないでしょうか。
この方面の研究はあまり進んでいない状態で、古代ローマ建築の包括的なトイレの研究に関してはHobson 2009がようやく近年初めて刊行されており、そこで見られる遺構例との類似点が面白いと感じられます。井戸に頼るしかない生活であったにも関わらず、衛生設備の付設がキルワ島では十全に図られたということを指し示しているように見受けられます。古代エジプトにしても、アマルナの住居遺構(Borchardt und Ricke 1980; cf. Tietze ed. 2008)や、メディネット・ハブ(マディーナト・ハブー)すなわちラメセス3世葬祭殿の附属小宮殿(cf. Hölscher 1934-1954)などにしか残っていません。

この島の建築ガイドブックをもし簡明に執筆する機会を得たとしたら、何を書くべきか。
さまざまな思いが去来します。面白く書くことは可能かもしれない。キルワ島に残る遺跡を通じ、西洋建築史の古代から中世までの流れを建物の構造という視点から描くこと。しかしそれはこの島にひっそりと平和に佇む遺構の何かを破壊する契機へと繋がるような気もします。
電気も水道もないこの地では、久しぶりに満天の星々を見ることができたのが印象に残りました。星など見えなくなっても一向に困らない生活を現代人は加速している、ということを改めて実感した数日の滞在でした。

2012年9月4日火曜日

Russo 2012


古代エジプトの第18王朝に活躍した建築家カーは、いったい何者であったのかを詳細に調べ上げた論考です。
職長であり、建築家であったカー(Kha)は、アメンヘテプ2世からアメンヘテプ3世の時代を生きたディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の住人で、イタリアの偉大な考古学者エルネスト・スキアパレッリ(Ernesto Schiaparelli)によってカーとその妻メリトの未盗掘の墓が20世紀の初頭に発見されました。多数の副葬品はトリノ・エジプト博物館に収蔵されています。この博物館における主要展示品のひとつ。
ディール・アル=マディーナは第18王朝から第20王朝にかけて栄えた職人たちの集合住居で、彼らの仕事は王家の谷や女王の谷に岩窟墓を造営することでした。
オランダ・レイデン(ライデン)にある学術機関が非常に緻密な研究を進めていますが、第18王朝における公開資料は少なく、今後の進展が望まれるところ(cf. Tosi 1999)。

Barbara Russo,
Kha (TT8) and his Colleagues:
The Gifts in his Funerary Equipment and related Artefacts from Western Thebes.
GHP Egyptology 18
(Golden House Publications (GHP): London, 2012)
v, 98 p., 8 color pls.

Table of contents:

Introduction (p.1)

Chapter 1. The discovery (p.3)

Chapter 2: Analysis of the artefact (p.9)
  The "gifts": nature and documentation
  The gift cubit rod of Amenhotep II
  The senet-board and a walking stick of Neferhebef et Banermer(u)t
  The walking stick of Neferhebef
  The statue group A 57, Musée du Louvre, Paris
  The funerary scene of TT 8
  The "gold of favour"
  The scribal pallete of Amonmes
  Excursus: the title imy-r k3(w)t nbt nt nswt
  The bronze cup with cartouche of Amenhotep III
  The vase of Userhat
  The walking staff of Khaemuaset

Chapter 3: The artefacts found outside the tomb (p.49)
  Ostracon 5598, Hermitage Museum, St. Petersburg
  Ostracon SR 12204, Egyptian Museum, Cairo
  Graffiti nos. 1670 and 1850 from the Theban mountains
  Stela BM EA 1515, British Museum, London
  Jar-labels from Malqata

Chapter 4: Suppositions concerning the Great Place (p.64)
  The identity of Kha: datable elements
  Kha's family
  Kha's career
  Titles composed with st '3t
  ḥry (n) st-'3t
  imy-r k3(w)t n st-'3t
  sdm-'š n st-'3t
  sš nsw n st-'3t and sš n st-'3t

Conclusions (p.77)

Abbreviations (p.79)
Bibliography (p. 79)
Index (p.95)

目次の第2章のところでは僅かな編集上の誤記があるようで、上記の目次は本文に見られる項目名を尊重するように努め、転記をおこないました。
キュービット・ロッドに記されたヒエログリフを紹介している10ページでは、訂正の紙片が貼り付けてあって、これも校正が行き届かなかったことを示しています。でも、大した問題ではありません。

序文には「2006年に開催された会議 "Ernesto Schiaparelli e la tomba di Kha" で発表した内容をもとに展開した」と書かれており、以降も継続して入念な研究が進められた様子。巻末の参考文献では400タイトル近くの充実した文献がリストアップされており、その粘り強い努力のあとが示唆されます。
カーの墓から見つかった品々のうち、情報量が多くうかがわれるもの、特に王名が記された副葬物を中心に分析を始めており、次いで海外の博物館に収蔵されているカーに関連した遺物を検討。さらにはオストラカや、テーベの谷で見つかっているグラフィティ(Graffiti de la montagne thébaine 1969-1983)といった文字史料の中からカーに関する記述を探し出して考察を加えています。アメンヘテプ3世のマルカタ王宮から出土したジャー・ラベルにも言及しているのが注目されるところ。

最後近くでは、

"Judging by the value of some of Kha's objects it can be argued that he was of middle-high rank status."
(p.69)

と論じており、カーの社会的な地位が諸資料の吟味をもとに推測されています。
エジプト学のオーソドックスな方法を踏襲しながら、カーの肩書き(タイトル)の検討などを経て追究の成果が披瀝されており、好著となっています。

関連文献としては、Schiaparelli 1927Moiso 2008などでしょうか。
比較的最近に刊行が始まったGHPから出版されているエジプト学のモノグラフのシリーズをさらに面白くしている最新刊で、この領域に興味を持たれている方にはお薦めの本です。

2012年7月26日木曜日

Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993


「アメンヘテプ3世展」は1992年から1993年にかけて開催された巡回展。クリーヴランド美術館を始めとして、次にはルイス・カーンの設計で有名なフォートワースのキンベル美術館に会場が移され、最後はフランスへ飛び、パリのグラン・パレで締め括られました。
周到な準備が重ねられた企画で、その模様は直前に出されているBerman (ed.) 1990でうかがい知ることができ、この流れはまたその後の重要な専門書であるO'Connor and Cline (ed.) 1998の出版にも繋がっていきます。

アメリカとフランスでの巡回展ですから、カタログは英語(1992年)とフランス語(1993年)の両方が作成されています。目次を見ると当たり前のことながら、ほとんど同じ構成。
でもフランス語版では不思議なことにページ数が60ページ以上も少なくなっており、見比べるとレイアウトもかなり変えられている点が注意を惹きます。

英語版:
Aeielle P. Kozloff and Betsy M. Bryan,
with Lawrence M. Berman,
and an essay by Elisabeth Delange,
Egypt's Dazzling Sun: Amenhotep III and hid World
(Cleveland Museum of Art: Cleveland, 1992)
xxiv, 476 p.

フランス語版:
Arielle P. Kozloff, Betsy M. Bryan, Lawrence M. Berman, et Elisabeth Delange,
Aménophis III: le pharaon-soleil
(Réunion des musées nationaux: Paris, 1993)
xxiii, 411 p.

共著者が4名以上になる場合、普通はこうやってずらずらと挙げるものではないんですが、ここではネット検索の便宜を図るために各著者の名を逐一掲げることを優先したいと思います。海外の参考文献の引用の仕方については厚い専門書が出ています。"Chicago Style"などで調べてくだされば。

英語版よりも1年遅く出版されたフランス語版のカタログのページ数が少ないのは、アメリカからフランスへ会場が移った際に展示品数が減らされたからではないのかという疑念が浮かぶわけですが、しかしまったくの逆で、グラン・パレで開催された時の方が展示品は増えているらしく思われます。
展示品には番号が付されており、英語版でもフランス語版でも最後の品の番号は136で一緒。
一方、フランス語版のpp. 410−1には、どの展示品をどこの美術館から借り出したのかをリストアップしていますけれども、そこでは例えばただの"34"番の他に、別の"34 bis"、"34 ter"というものが見られ、こうした後付けの展示番号を抜き出せば以下の通り。

2 bis: Scarabée de Tiy ou scarabée du règne
22 bis: Fragment d'une statuette d'Aménophis III
34 bis: Déesse Sekhmet
34 ter: Déesse Sekhmet
51 bis: Portraits peints d'Aménophis III
67 bis: Ouchebti d'Aménophis III
75 bis: La tête d'une cuiller à la nageuse
113 bis: Boîte à parfum

これらの8点は、英語版のカタログには掲載されていないようです。
アメンヘテプ3世の横顔を描いた"51 bis"はこの王の墓から切り出された壁画の一部ですが、このようにパリでの展示は、ルーヴル美術館に収蔵されているものなどをいくつか新たに加えた展覧会であったことが分かります。

さて、他には英語版とフランス語版で大きく異なるところがあるのかどうか。
個人的には巻末の参考文献が大幅に変えられているという印象を受けます。リストアップされている文献の総数は双方とも300タイトル弱で、量としてあまり違いは見られません。しかし英語版では

R. A. Schwaller de Lubicz,
Les temples de Karnak, 2 vols.
(Paris, 1982. [English ed., London, 1999])

を挙げていますけれど、フランス語版では削除されており、他方で

C. C. van Siclen,
"The Accession Date of Amenhotep III and the Jubilee,"
JNES 32 (1973), pp. 290-300.

などはフランス語版だけに加えられています。これはほんの一例ですけれども、ここでうかがわれる変更の判断は妥当であるように思えます。
相当、参考文献の欄は手が入れられて整理されている感じが与えられ、もしどちらかを購入したいというのであれば、お勧めしたいのはページ数の少ないフランス語版の方。レイアウトを変えてページ数を減らしながらも、展示品数は8点ほど多く、カラー写真も英語版よりも多いはず。特に最後の宝飾品関係の品々の紹介で、フランス語版ではカラー図版が多く挿入されています。
複数の国々を巡回する大規模な展覧会では、しばしばこうしたカタログの違いが生じます。これは日本に回ってくる国際的な巡回展の場合でも同じ。展覧会のカタログは全部がそのまま翻訳されたもので、内容については同じだろうと考えていると間違えることがある、という教訓。

コズロフはダーラム大学のオリエント博物館に収蔵されているペルパウティ Perpawty(ペルパウト、ペルポー、あるいはパペルパ)とその妻であるアディ Ady の木製の家型木箱について解説を書いています(英語版:pp. 285-7、フランス語版:pp. 250-2)が、この中でボローニャの考古学博物館所蔵のペルパウティの同型の家型木箱との比較もしており、美術様式から見るとボローニャの方が時代は早いのではと記しています。布を納めるための家具の木箱の外側に施された彩色のモティーフが良く似ているので、ペルパウティが年を経た後に、今はボローニャが収蔵している最初に造られた箱を職人に見せ、同じ物を作れと命じてダーラム所蔵の木箱ができたのではないかという推測を述べており、非常に興味深い考察。3000年以上も前の人間の、同じように見える所有物なのに、時代の新旧が分かるという点が面白い。コズロフが目利きであることが、これで了解されるわけです。
以前にも書きましたが、ペルパウティの遺品についてはイタリアの研究者による論考があり、コズロフとはお互いに研究成果を引用していないから併読が必要。

Patrizia Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monograpfie di SEAP, Series Minor, 2
(Giardini: Pisa, 1991)
pp. 105-130.

ペルパウティについては、Roehrig et al. (eds.) 2005も参照のこと。コズロフとピアチェンティーニの両方を引用しています。

2012年7月23日月曜日

Schiff Giorgini, Soleb [5 vols.] (1965-2003)


ツタンカーメン王の祖父に当たる新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世は古代エジプトの黄金時代であったと言って良く、特にこの王は大規模な記念建造物を各地にたくさん建てました。第19王朝のラメセス2世は「建築王」としばしば呼ばれましたが、アメンヘテプ3世による派手な活動の真似をしていたらしく、新王国時代において本当の「建築王」の名に値するのはアメンヘテプ3世であるように感じられます。
アブー・シンベルの正面に並ぶ4体の巨像を発想した源は、アメンヘテプ3世の葬祭殿の前に置かれていた一対のメムノンの巨像。この葬祭殿は、カルナック神殿を凌ぐ最大規模を誇っていただけでなく、ナイル川の増水によって水浸しになる場所へ故意に建立されていた点がアメンヘテプ3世の建築の見どころです。ここでは古代エジプトの神話で語られる「原初の丘」を、とてつもない大きさでいきなり現世に実現させるという荒業がおこなわれました。

A. P. Kozloffが最近、この王に関する本を出しました(Amenhotep III: Egypt's Radiant Pharaoh, Cambridge 2012)けれども、註の振り方を見るだけですぐに了解される通り、これは一般向けの書。この種の先駆けは以前にも触れた通り、

Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press: Norman, 1964)
xi, 212 p.

となります。今から見ると不備が目立つかもしれませんが、テーベを舞台として纏められた佳作。A. P. コズロフはこの王に関する知識を膨大に有している研究者で、先行研究に対する意識は高いはずですから、このRiefstahl 1964の他、Fletcher 2000Cabrol 2000に対し、制限された紙幅の中でどう書いているかが眼目になるかと思います。
20世紀の終わりからアメンヘテプ3世について包括的に述べた展覧会のカタログや研究書は矢継ぎ早に出されており、その代表的なものはBerman (ed.) 1990Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993O'Connor and Cline 1998、そして500ページを費やしている前述のCabrol 2000などでしょうか。

あまりにもたくさんのアメンヘテプ3世による建物があるために、報告書の刊行は全体として遅れていますけれど、全5巻によるソレブ神殿の報告書の刊行が21世紀の初頭に完結し、スーダンに残るこの遺構の全貌をようやく知ることができるようになりました。
全部で1500ページを超える量です。

Soleb [5 vols.] (1965-2003)

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb I: 1813-1963
(Sansoni: Firenze, 1965)
viii, 161 p., plan.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb II: Les nécropoles
(Sansoni: Firenze, 1971)
vii, 407 p., 17 planches.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb III: Le temple. Description.
IF 892, Bibliothèque générale (BiGen) 23
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2002)
vi, 446 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb IV: Le temple. Plans et photographies.
IF 910, Bibliothèque générale (BiGen) 25
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2003)
vi, 264 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb V: Le temple. Bas-reliefs et inscriptions.
IF 807, Bibliothèque générale (BiGen) 19
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 1998)
xviii, 335 planches, 21 p.

途中で出版社がフィレンツェからカイロ、というよりもIFAOへと変わっている点に注意。この経緯はエジプト学者たちのメーリングリストである Egyptologists' Electronic Forum (EEF) にて報告されたりもしました。
最初の第1巻と第2巻がフィレンツェから刊行の後、30年近く経ってから壁画を報告する第5巻が出ています。建築関連の第3巻と第4巻はさらに遅れて刊行。このように幾冊にもわたる報告書の出版社が途中で変わることは時折見られ、D. B. RedfordによるAkhenaten Temple Projectのシリーズもそのひとつ。
建築に関わる人間にとって最も知りたかった建造過程の変遷は、2003年に正式に明らかにされています。概要はしかし、海外での巡回展「アメンヘテプ3世」のカタログにより先んじて、一般にもすでに公開されていました。
他の建物と同じく、ソレブ神殿もかなり計画が変更された痕跡がうかがわれ、拡張の度合は尋常ではありません。アメンヘテプ3世が「メガロマニア(誇大妄想狂)」と言われる所以です。

国立情報学研究所によるGeNii(ジーニイ)Webcatのページで、読みたい海外書籍を日本のどの研究機関が所蔵しているかどうか、検索することをもっぱら続けている方がいらっしゃるかもしれない。
今、この"Soleb"の報告書をGeNiiのサイトで検索すると該当するものがなく、その結果からこの本が日本には無いと判断されがちです。しかし例えば早稲田大学図書館のページで検索すると、5冊ともちゃんと所蔵されていることが分かります。
国立の研究所が率先して構築しているデータベースだからといって、それを丸ごと信じてはいけません。研究者たちはそういう漏れがあることをあらかじめ織り込み済みでこの種のデータベースを用いています。データベースには出てこなくても、国内で持っているところが必ずあるはずだという心当たりがある場合、専門家に聞くべきです。こういうことは、卒業論文などを纏めようと志す者にとって重要な点になるかもしれません。
いかに身近の専門家を捕まえて、根掘り葉掘り聞くことができるかが大切かと思われます。

2012年7月21日土曜日

Lee 1992


ツタンカーメンの王墓の発掘の際にハワード・カーターを助け、出土遺物の保存修復に力を注いだ人物の伝記。アーサー・メイスは「ツタンカーメン発掘記」全3巻本の発刊当時、カーターとの共著者でした(cf. Carter [and Mace] 1923-1933、またMace and Winlock 1916)。
メイスはエジプト学の創始者であるフリンダース・ピートリPetrie 1892Petrie 1894Petrie 1897)と遠縁の従兄弟という関係があって、それ故に1897年、ピートリの助手としてエジプトへ初めて出かけます。この頃はピートリがデンデラやアマルナで調査をする時期に相当しますから、大きな現場を次々にこなしていくことを強いられたと思われます。
最初は何も分からず、おたおたしていたらしいのですが、次第に実地でピートリ流の発掘方法を覚え、その後にG. A. ライスナーの手助けやメトロポリタン美術館のスタッフに加わるなどの活躍を見せ、ピートリのやり方がアメリカに伝わっていくわけです。
それにしても、ピートリの現場はかなり過酷であったらしい。調査中の粗食と空腹感に耐えることができなかったエピソードが伝えられています。

Christopher C. Lee,
...the grand piano came by camel:
Arthur C. Mace, the neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing: Edinburgh and London, 1992)
160 p.

Contents:

Preface (p. 11)

Foreword by Marsha Hill (p. 13)

Chapter One: A Country Childhood (p. 15)
Chapter Two: With 'the great man' (p. 31)
Chapter Three: 'The ideal excavator' (p. 57)
Chapter Four: 'It takes one's breath away' (p. 81)
Chapter Five: 'A beautiful wonderful party...' (p. 113)
Chapter Six: After Tutankhamun (p. 137)

References (p. 151)
Bibliography and Sources (p. 157)
Index (p. 159)

メトロポリタン美術館(MMA)のマーシャ・ヒルが前書きを書いており、メイスがMMAにていかに重要な存在であったかを簡潔に記しています。「メイスの仕事はさまざまな人に今、受け継がれています」と書いていて、

"Only today can we foresee that Mace's archaeological work will be completed - the Lisht North cemetery by Janine Bourriau, the pyramid itself by Dieter Arnold, and the village by Felix Arnold."
(p. 13)

と分担者の実名が出ている箇所があります。フェリックス・アーノルドの名をこの本の中で見るとは思いませんでした。彼は1990年にControl Notes and Team Marksを出版しており、この時20歳ぐらいであったように覚えています。

ピリオドの連続で始まる本のタイトルは稀有であり、また全部が小文字という記法も珍しい。こういうものを引用する際は、書誌の表現に迷います。アカデミックな本の題とは異なり、小さい私的な呟き(この場合にはメイスの長女による呟き)をそのまま題にしたかった、という意図なのでしょう。

「...グランドピアノを駱駝が運んできた」という変わった本の題は、一枚の写真から着想されており、それは本のカバーの裏表紙の他、62ページにも印刷されています。メイスの奥さんの持ち物であったベヒシュタインのグランドピアノを、1900年台の初頭にリシュトの調査宿舎まで駱駝で運んだという逸話があり、それを写した昔の写真を見てメイスの娘が懐かしく語り始める、という本の構成。
メイスはリシュトの発掘に長く携わった人間でした。厳しい環境下にある発掘現場に奥さんを同行し、また彼女の大きな所有物も構わず持ち込むという、今では考えられない調査方法を知ることができます。
この本はだから、メイスの長女がどう生きたのかを示すものでもあります。最後に彼女の写真が大きく掲載されているのはその証拠。

イギリスの片田舎で見つかったメイスの手紙と日記、また草稿などをもとにして展覧会が開かれ、その直後にまとめられた本。ほとんど同じ題でもっとページ数が少ない刊行物が1992年よりも前に出されていますが、この本は決定版という位置づけです。
アーサー・メイスの長女による父親像が多分に反映されていて、伝記といってもこの近親者からの聞き取りに負う部分が大きく、歪みが見られます。本の題名の"neglected"「無視された」というのは非常に強い言い方ですが、メイスの肉親にとってはそう思えるのでしょう。ハワード・カーターのみが注目されている、というように。それは世の中の人間のほとんどが抱くであろう、「無視されたまま」人生を終わるのではという不満を間接的に指し示しているのかもしれません。
本当はエジプト学をやりたかったんだけれども、F. Ll. グリフィスと会った際の試問で、メイスの長女はこの夢を断念したようです。「拒まれる」ことに遭遇したたくさんの人々が、失望にどのように対処するのか、それがこの本に通底する隠れた広いモティーフと言えないこともない。

そうした視点から見れば深く示唆されるところが多く、ツタンカーメン関連の撮影で高名な写真家ハリー・バートンの奥さんがいかにひどくて悪評ばかりであったことや、メイスがカーターに対して「こいつ、何も分かっていないのに人々の前で講演なんてできるのか」と思ったことを手紙に残している下り、またテーベの大規模な発掘だけを進めたがるメトロポリタン美術館の同僚のH. E. ウィンロックとの立場の違いなどがあられもなく記されていますけれども、そうした誰の間にでも生じる些細なすれ違いは時代を経て洗い流され、エジプト学にどのような貢献があったかという公平な評価だけが今は残されていることを改めて感じます。
エジプト学の大御所や有名人が次々に出てくるので、事情を知っている人には面白いはず。

メイスが結婚前に「エジプト学者などと一緒になるのか?」と相手側の両親から疑問が向けられていたこと、メイスの奥さんが完全主義で、どうやら連れて行った発掘現場でもいろいろな揉め事があったらしいこと、生まれた次女がダウン症であったこと、メイス自身が頑強な身体ではなかったこと。
これらに追い打ちをかけて「自分は使われる一方ではないのか」という疑念。これからの生活は一体どうなるのかという健康上あるいは経済上の不安を抱えながら仕事に赴くメイスの姿が活写されており、別の普遍的な問題が浮彫にされているようにも思えます。

メイスに関する最近の紹介は、以下を参照。続編を読むのが楽しみです。

http://www.egyptological.com/2012/05/arthur-cruttenden-mace-taking-his-rightful-place-8940

ハワード・カーターの醜聞については、邦訳されているトマス・ホーヴィング著、屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」がすでに知られています。版を重ねている著作。

リーの本が出た同じ1992年にはハワード・カーターの伝記が発表されており、今ではこちらも改訂版も出ています。亡くなってしまった大英博物館の重鎮、T. G. H. ジェームズの主著書のひとつ。彼はA. H. ガーディナーの伝記を晩年に執筆中であったと伝えられていますが、出版されないのは残念。

Thomas Garnet Henry James,
Howard Carter: The Path to Tutankhamun
(Kegan Paul International: London and New York, 1992)
xv, 443 p.

大学者ピートリの伝記は1985年に刊行されています。

Margaret S. Drower,
Flinders Petrie: A Life in Archaeology
(Victor Gollancz: London, 1985)
xxii, 500 p.

上記の2冊については、専門誌に書評が寄せられているはずです。
さてピートリとともに歩み、「魔女の研究」で注目を浴びたマーガレット・マレーの自伝も、度肝を抜く面白い題名を持ち、良く知られています。

Margaret Murray,
My First Hundred Years
(William Kimber: London, 1963. 2nd ed.)
208 p.

自伝につけられた「私の最初の百年」という題は、長生きしたこの研究者の業績にふさわしい。彼女は次の百年以降も、変わりなく生き続けるつもりだったんでしょう。恐るべき存在。マレーこそ正真正銘の「魔女」であったことが分かります。

2012年7月19日木曜日

Valloggia 2011


早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。

上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。

Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)

Texte: Table des matières

Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)

Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)

Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)

Conclusion (p. 87)

Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)

Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)

Bibliographie (p. 131)

Indices (p. 139)

Table des matières (p. 145)

上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。

意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば

「治世第1年、ペレト期第3月…」

というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では

"An III, 3e mois de per(et)..."

と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。

クフ王のピラミッドの脇に設けられた船坑(ボートピット)の蓋石にはラージェドエフ王の名前も以前見つかっていて、これはBeiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeiträgeBf:ただし本書ではBÄBAと略), Heft 12 (Franz Steiner: Wiesbaden, 1971)で発表された報告で注目されたところですけれども、そこから転載された文字列「治世11年、ペレト期第1月24日」が図版編のFig. 3にて紹介されています。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。

ピラミッド時代における代表的な遺構を残したクフ王とカフラー王との間を生きたジェドエフラー王のピラミッドですから、相互の詳しい比較が今後、進められるのでは。ピラミッドの地下に唯一設けられた玄室へと続く下降通路の勾配も、長さが2に対して高さが1という2:1の傾きで、注目されます。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。

Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm

Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century: 
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.

斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。

ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。

岩盤をある程度掘り下げて造られたピラミッドですから、掘り下げる前の初期の設計ではどうだったのか、追究する必要があるかもしれません。たった1.5メートルほどの違いなのですけれども、3次元の巨大な立体物をどのように計画したのかを考えようとする場合、その細部が気になります。

27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に触れられています。
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。

古代語による文字史料を直接読解することから論考を始めている数学者Imhausen(cf. Imhausen 2003、またImhausen 2007)は、古代エジプトにおいてこの「聖三角形」が本当に知られていたかについて懐疑的であり(Robson and Stedall [eds.] 2009)、こうした基本的な点について専門家の間でも未だ意見の一致を見ていないということは、声を大にして言っておかねばなりません。
古代エジプト建築研究に携わる人間でも、3-4-5の比例による三角形は地割にて直角を導くために古代エジプトでも用いられたであろうと安易に判断している研究者はけっこういるわけです。

"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)


つまりエジプト学者たちは、エジプトにおける実際の遺構で3:4:5となる実測値をかなり昔から複数見つけているにも関わらず、「それが後代のピタゴラスの定理と結びつくはずであり、建築に応用した先駆けは古代エジプトである」という見方に関し、非常に慎重な姿勢をずっと取り続けているということです。
この事態を、「考古学者たちに数学の美しさが分かるはずはない」という一言で片づけるのは簡単。しかし長い時間にわたってこだわり続けられているそのモティーフを丁寧に追うことなしに、問題の解決が図られるとは到底思えません。
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。

2012年7月17日火曜日

Iversen 1993 (First Published in 1961)


30年以上経ってから再版されたイヴァーセンの著作。イヴァーセンについてはIversen 1968-1972や、あるいはヨーロッパにおけるオベリスクの受容史を述べた分厚いCurran, Grafton, Long, and Weiss 2009、あるいはRobins 1994を参照のこと。

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs in European Tradition
(Princeton University Press: Princeton, 1993. First published in 1961, Gec Gad Publishers, Copenhagen)
178 p.

Contents:

Preface (1993) (p. 7)
Preface to the First Edition (p. 9)
I The System of Hieroglyphic Writing (p. 11)
II The Classical Tradition (p. 38)
III The Middle Ages and the Renaissance (p. 57)
IV The Seventeenth and Eighteenth Centuries (p. 88)
V The Decipherment (p. 124)

Notes (p. 147)
List of Illustrations (p. 169)
Index (p. 173)

本の裏には紹介文が面白く書かれており、

"This is the story of a creative misunderstanding: an erroneous interpretation of the traditions of ancient Egypt became a rich source of inspiration for Europeans from ancient times through the medieval and Renaissance periods to the Baroque era. The misguided notion that hieroglyphs were allegorical, and that they constituted a sacred writing of ideas, exerted a dynamic influence in almost all fields of intellectual and artistic endeavor, as did conceptions of Egypt as the venerable home of true wisdom and of occult and mystic knowledge."

と記してあって、"misunderstanding", "erroneous interpretation", "misguided notion"と続けざまにネガティブな言葉が並べられ、それらの試行錯誤がついにはヒエログリフの解読に繋がったという粗筋が明らかにされています。
自分の知っている見方を、異なった文化の人間に押し付けて解釈するのは良くあること。その過程が歴史の中で淘汰され、次第に両極端の見解が近づき、共通の理解へと収斂していくさまがテーマとなっています。エジプト学の歴史はナポレオンの「エジプト誌」によって始まるとは良く言われますが、それより以前の思考過程については、これから詳細が明らかにされていくのでは。

再版のための序文の中で、フランシス・イエイツ Frances Yates の著作に触れられている点は注目されます。
彼女の本は日本語訳もけっこう出ているから、ここでは述べません。しかしエジプト学者にとって重要なのは、文字の解読に関しては片づいたものの、ヘルメス学(主義)の源流を古代エジプト文明に遡らせるかどうかの判断であって、多くの者は慎重な態度を取っています。
「化学 chemistry」や、錬金術の「アルケミー alchemy」などの語については古代エジプト語の「ケメト "kmt"; kemet」に由来するということは率先して語りながら、直接的な関連についての論理的な防御がきわめて堅いのが特徴。Trigger 1993でも、「エジプト学者は古代エジプト文明を独自なものと思い込んでいる」という批判が見られました。

建築でいうと、ルービッツ R. A. Schwaller de Lubicz のような考え方に対し、どのような反駁が具体的にできるかということになります。黄金比(1:1.618...)や円周率(1:3.14...)が古代エジプト建築の計画方法において考慮されたという諸論は今日でも語られており、Kemp and Rose 1991のような回りくどい説明が必要になっている原因。論の差異と言うものが、明快に指摘されていません。Rossi 2004の欠点があるとするならば、そこにあるかとも思われます。
いくらかの年月が、まだかかるのかもしれません。

2012年7月9日月曜日

Caminos 1954 (Caminos LEM)


リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。

カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。

ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、

Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.

を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。

このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに

"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)

とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。

Gardiner LEMCaminos LEMは、たとえば

Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)

などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。

Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.

Contents:

Preface (vii)

I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)

Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)

Additions and Corrections (p. 512)

Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)

屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、

「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」

が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。

「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)

という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。

しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、

Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.

に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。

あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。

別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。

2012年7月8日日曜日

Uphill 1972


エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。

Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf

死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。

ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。

以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。

アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。

古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。

Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.

Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.

なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。

Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.

2012年6月18日月曜日

Yegül 1995


古代ローマの公共浴場については、20世紀末期に出版された包括的な専門の研究書が注目されます。
公共浴場を示すテルマエ thermae は古代ギリシャ語の「テルモス(温かい)」が語源で温浴場の意味。体温計を意味する英語のサーモメーター thermometer や温度を調節する器械であるサーモスタット thermostat などの他、日本の医療会社の名前「テルモ」のもととなっているようです。
テルマエ・ロマエ Thermae Romaeというように、thermaeは複数形をとるのが通例。この場合、女性名詞の地名Romaの地格が続き、それはこの語の単数属格と同じです。

共同浴場 thermae はひとつの大きな建物内に複数の男女別、またカルダリウム caldarium(高温浴場)、テピダリウム tepidarium(温浴場)、フリギダリウム frigidarium (冷浴場)を備え、温度が異なる3つの浴場を備えたという点が面白いところ。
frigidariumというラテン語の綴りから「冷蔵庫 refrigerator」の英語の綴りを直ちに思い出された方は鋭いと思います。日本語で「冷たい」という意味の語根を共通して持っています。

「公共浴場」という名称から思い起こされる範疇を超えて、ここには走り回るための陸上競技走路が設けられることもありました。フィットネス・ジムと、その後の疲れの癒しのため利用するスパが合体された豪華な施設、あるいは温泉健康ランドの原型が、はるか昔からあったというわけです。
Delaine 1997では、大規模なカラカラ浴場の建造過程と、これを建てるために必要な資材と労力を積算するという試みがおこなわれており、とても注目される著作。
なお、共同浴場の具体的な平面の設計方法についてはWilson Jones 2000にて分かりやすく図解されています。

しかし下記の労作も重要で、500ページを費やし、古代における共同浴場の全般を記しています。こういう本は長い間、待たれていました。

Fikret Yegül
Baths and Bathing in Classical Antiquity
(Architectural History Foundation and the Massachusetts Institute of Technology, New York, 1992)
ix, 501p.

個別の遺構の報告ということであるならば、近年の例として

Andrew Farrington
The Roman Baths of Lycia: An Architectural Study.
British Institute of Archaeology at Ankara, Monograph 20
(British Institute of Archaeology at Ankara, London, 1995)
xxv, 176p., 202 plates.

が挙げられると思います。

2012年6月2日土曜日

Lavin 1992


カトルメール・ド・カンシーに関する博士論文を刊行した書。カトルメール・ド・カンシー Quatremère de Quincy はエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts 国立高等美術学校)において有力者であった人ですが、古代エジプト建築に関し、早い時代に評論を書いたことでも名を残しています。ナポレオンの「エジプト誌」が刊行される前の18世紀末の話。

Lavinの博士論文の主査を務めたのはコロンビア大学のロビン・ミドルトン Robin Middleton で、高名な建築史の研究者。謝辞の中には建築評論家ケネス・フランプトン Kenneth Frampton の名もうかがわれます。Lavinの面白そうな近著も出ていますが、いずれまたの機会に。

Sylvia Lavin,
Quatremère de Quincy and the Invention of a Modern Language of Architecture
(MIT Press, Cambridge, Massachusetts and London 1992)
xvi, 334 p.

Contents:

Acknowledgments (viii)
Preface (x)

Introduction: Quatremère de Quincy and the Genesis of the Prix Caylus (p. 2)

I. Origins (p. 18)
II. Architectural Etymology (p. 62)
III. The Language of Imitation (p. 102)
IV. The Republic of the Arts (p. 148)

Conclusion: The Sociality of Modern Language of Architecture (p. 176)

Appendixes A-E (p. 186)
Notes (p. 200)
Bibliography (p. 292)
Index (p. 328)

古代エジプトの神殿の空間構成について、「奥へ行くに従って部屋が小さくなる。床面も徐々に上げられ、天井は少しずつ下げられる。同時に室内へ導かれる光も限定されていく」と説明するやり方は今でも良く見られ、もう通俗化していると言ってもいいと思われますが、これは19世紀末期にショワジーがすでに述べていること(Choisy 1899)。ここ100年以上、言い方が変わっていないわけです。

"Dans la plupart des temples, à mesure qu'on approche du sanctuaire, le sol s'élève et les plafonds s'abaissent, l'obscurité croît et le symbole sacré n'apparaît qu'environné d'une lueur crépusculaire."
(Choisy 1899: I, 60)

でも最初の頃は、かなり違った捉え方がなされていたらしく思われます。
カトルメール・ド・カンシーは1785年、古代エジプト建築に関する論文の公募に応じましたが、後にこの論文の改訂と増補をおこない、ページ数を倍増させて1803年に出版。両者の間ではかなりの内容の変更がうかがわれ、Lavinのこの本は彼の思想の劇的な変転とその後の展開に焦点を当てています。当初書かれたカトルメールの論文を読み解いて、古代エジプトの神殿に関し、Lavin

"Egyptian temples, according to Quatremère, were an assemblage of porticoes, courts, vestibules, galleries, and rooms, one linked to the next and the whole enclosed by a wall. This multiplicity of parts, while apparently an exception to the rule of uniformity, was in fact its product. He contends that this internal subdivision was created intentionally to counterbalance the lack of variety offered by the model of the original cave dwelling but that its effect was reduced by the absolute and repetitive regularity with which the separate units were distributed."
(Lavin 1992: 25-6)

と記しており、興味が惹かれます。ショワジーによる論述との差異は明らか。カトルメールの論文は、フリーメーソンに大きな影響を与えたことが建築史家カールによって指摘されています(Curl 1991)。
建築装置として、さまざまに異なったものが長軸上に並べられていたとするカトルメールの見方を、たとえば

A - B - C - D - ...

と表記することができるとするならば、ショワジーの観点は

A - A' - A'' - A''' - ...

とあらわすことができ、この違いがきわめて面白い。
出版されたカトルメールの論考は、ダウンロードして読むことが可能。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
De l'architecture égyptienne: considérée dans son origine, ses principes et son gôut, et comparée sous les mêmes rapports à l'architecture grecque.
Dissertation qui a rempotré, en 1785, le prix proposé par l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres
(Paris, 1803)
xii, 268 p., 18 planches.
http://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/quatremeredequincy1803

初稿に関しては、LavinがAppendix Bの中で言及。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
manuscript (Archives de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, Prix Caylus, 1785, MS D74)

なおLavinの本が出版された同じ年に、下記の論考が日本で刊行されています。

白井秀和
「カトルメール・ド・カンシーの建築論:小屋・自然・美をめぐって」
(ナカニシヤ出版、1992年)
171 p.

2012年4月2日月曜日

Tosi 1999


古代エジプトにおける貴族墓に収められた数々の副葬品の量と質によって、彼らが当時占めていた社会的な地位の高さが推し量れるのではないかという論議は昔からありましたけれども、それを数理学的に扱えないかという問いがあって、その土台を構築したのがJ. Janssenの主著。
Janssen 1975については、すでに別の項にて触れたことがありました(Janssen 2009)。ここで再び挙げておきます。
Janssenは惜しくも近年亡くなりましたが、J. Cernyによる研究のモティーフを正しく継承し、「メディーナ学」とも言うべき分野を新しく打ち立てた人。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)と呼ばれるこの小さな村落の様態を対象として、古代エジプト人の生活の解明に人生を捧げた研究者でした。
CernyJanssenの両名が成し遂げた仕事の重要性は、これから後、さらに深く討議されることとなるように思われます。

Jac. J. Janssen,
Commodity Prices from the Ramessid Period:
An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes

(E. J. Brill, Leiden, 1975)
xxvi, 601 p.

例えばテーベの新王国時代の貴族墓において、家具や「死者の書」のパピルスが収められていたならば、それは社会的に、より地位が高かった証拠とみなされています。これは特定の物品の有無、あるいはそれらの個数によっての判断。
一方でラメセス時代を主としたテーベにおける物品の相対的な「価値」というものが上述したJanssenの著書によって判明していますので、これに基づいて墓に収められた一切の副葬品の、おおよその「価値」を求めることが可能となります。石灰岩片に記された多数の文字資料(オストラカ)の読解によって、このことが明らかになりました。

ここで注意すべきは、「デベン deben」として示される価値が新王国時代末期のテーベ、もっと正確に言うと、ディール・アル=マディーナという狭い村の中でのみでしか認められないという制約がある点で、これを他の時代、あるいは同時代の他地域に拡張し、ものごとを言うことは困難です。
「貨幣の成立」という、世界史における大きな問題に対し、この事象がどこまで関わるのかについては、B. J. Kempによる主著の初版が刊行された際にJanssenが書評で要点を述べているはず。
ここには当時良く読まれたポランニーなどの考え方も関わっており、今後も検討が重ねられるかと思います。

Janssenの考えを受け、当時の副葬品の価値を「数値」として換算し、墓内における品々全部の価値を導こうとした論文が後代に出ること自体は不思議ではありませんでしたが、M. TosiL. Meskellの二人が、ほとんど同じ時期に建築家カーとその妻メリトの墓(TT 8)の副葬品の総価値について発表をおこなっているというのがとても面白い。またその副葬品の、細かい扱いが異なっているのが注目されるべきところ。
何故、カーとメリトという夫妻の墓が選ばれているのか、こういった点にもこの墓の重要性があらわれています。

Mario Tosi,
"Il valore in "denaro" di un corredo sepolcrale dell'antico Egitto",
Aegyptus: Rivista italiana di egittologia e di papyrologia 79 (1999),
pp. 19-29.

Lynn Meskell,
"Intimate archaeologies: the case of Kha and Merit",
World Archaeology 29:3 (1998),
pp. 363-379.

M. Tosiの方がTT 8の副葬品に関する「デベン」の換算をより詳しく表にして記しているので、ここでは彼の論考を当ブログの主題として掲げましたが、二人とも同時期に執筆している論文であるため、当然のことながら参考文献の欄ではお互いの論考をリストアップしていません。これをすれ違っていると見るか、それとも同じモティーフを同時期、知らずに追っていたと見るべきか。
Meskellが書いた本に関しては、前に述べたことがありました(Meskell 2002)。

Menu (2010)のところで挙げたように、第18王朝末におけるオストラカに関しては未だ資料の公開が充分におこなわれていないという難点が指摘されています。近年のDemaréeの論考が重要で、第18王朝末を生きたカーとメリトの副葬品のデベンへの換算に慎重さが必要である所以。
つまり第18王朝末期と第19・20王朝とでは様相が異なる、という含意がうかがわれます。

Robert J. Demarée,
"The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina:
A Preliminary Update,"
in B. Menu ed., L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie:
Colloque AIDEA, Nice 4-5 octobre 2004
(Le Caire, Institut Français d'Archéologie Orientale, 2010),
pp. 185-192.

カー(Kha)とその妻メリト(Merit, or Meryt)の墓における木製遺品の中で、大きなものとしては橇に載せられた木棺や寝台、また墓の入口の扉などがまず挙げられるでしょうか。
その次にはメリトの鬘(かつら)箱といった、非常に特殊でとても大きな木製の箱が注目されるはず。
「デベン」に換算するならば、この特別な鬘箱が一体どのくらいの価値になるのかどうか。こういった問題は、しかし二人とも回避しているように思われます。その点に興味がつのります。

メリトの鬘箱に関する実測調査の結果については以下を参照。

西本直子
「メリトの鬘箱(Inv.S.8493、トリノ博物館蔵)について」、
武蔵野大学環境研究所紀要 No. 1 (2012) [ISSN 2186-6422],

2012年3月30日金曜日

VA (Varia Aegyptiaca) 1985-


Varia Aegyptiaca (VA)は高さ20cmほどの、灰色の表紙を装丁とした魅力的な小冊子。基本的に年3回発行。たぶんエジプト学に関わる専門の定期刊行物の中で、もっとも書誌が良く分からなくなっているもののうちのひとつかと感じられます。
かなり昔のこととなりますけれども、Porter and Moss (PM)の編集をしているJ. Malekがエジプト学者たちのメーリングリストEEFEgyptologists' Electronic Forum)にて、「VAの最新号が何号まで出ているか知りませんか」といった内容を尋ねているのを見て、ああ最も知悉しているはずのこの人でも、やっぱり分からないんだと改めて思ったことがありました。

追跡がさらに難しかった、少数の内輪向けに回覧されたNew Kingdom Memphis Newsletter (1988-1995)などの冊子もありましたが、これらの号は今ではもう、Jacobus van DijkによってPDFで広く配信されています(http://www.jacobusvandijk.nl/NKMN.html)。
この種のものとはわけが違って、VAはれっきとした年3回の定期刊行物。にも関わらず、創刊の時から第1号と第2号との合併号ということになっているのが、どうにも不思議。
編集者はエジプト学者のCharles Cornell Van Siclen IIIで、Van Siclen Booksという出版局をSan Antonioに構え、そこから刊行されています。

Varia Aegyptiaca (ISSN 0887-9026):

Vol. 1, Nos. 1-2 (August 1985)
Vol. 1, No. 3 (December 1985)
Vol. 2, No. 1 (April 1986)
Vol. 2, No. 2 (August 1986)
Vol. 2, No. 3 (December 1986)
Vol. 3, No. 1 (April 1987)
Vol. 3, No. 2 (August 1987)
Vol. 3, No. 3 (December 1987)
Vol. 4, No. 1 (April 1988)
Vol. 4, No. 2 (August 1988)
Vol. 4, No. 3 (December 1988)
Vol. 5, No. 1 (March 1989)
Vol. 5, Nos. 2-3 (June-September 1989)
Vol. 5, No. 4 (December 1989)
Vol. 6, Nos. 1-2 (April-August 1990)
Vol. 6, No. 3 (December 1990)
Vol. 7, No. 1 (April 1991)
Vol. 7, Nos. 2-3 (August-December 1991)
Vol. 8, No. 1 (April 1992)
Vol. 8, No. 2 (August 1992)
Vol. 8, No. 3 [not yet published?]
Vol. 9, Nos. 1-2 (1993)
Vol. 9, No. 3 [not yet published?]
Vol. 10, No. 1 [not yet published?]
Vol. 10, Nos. 2-3 (August-December 1995 [1997])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part I
Vol. 11, No. 1 (April 1996 [1998])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part II

第5巻では第4号が出ています。え、年3回発行のはずなのに。
エジプト学に関するすべての文献の収集をめざしているはずのOnline Egyptological Bibliography (OEB)を検索しても、果たして第8巻第3号や第9巻第3号などが出ているのかどうか、今なお不明なままです。しかしこういう点こそが面白いわけで、ヴァン・シクレンが既成の由緒ある諸雑誌とは別に、もう少し小回りの利いた定期刊行物を独自に出そうとした大きな志が重要。それとともに、編集作業の先を見て号数を飛ばしたものの、結局は出版が遅れている号があるという変則的な雑誌刊行の捻れが興味深い。
個人的には、エジプト学の興隆を強く願っているところをまず見るべきだと思います。

本来は1995年に出されるべきものが1997年に刊行された、第10巻第2-3合併号所収のPeter Der Manuelianの論文などについてはPDFが出回っていますが、そこではこの時点で"8/3 and 9/3 are not yet available"と印刷された出版社による巻末の告知のページまでもが含まれていて、当該雑誌の書誌に関する貴重な情報が得られます。
VAに関する分かりやすい一覧はネットでうかがわれないようでしたので、急遽作成してみました。ここで欠号として挙げているものについて、海外の研究機関にて実見された方より、訂正事項を詳しく御教示いただけましたら有り難い。

Z. Hawassによるギザのピラミディオンの報告を調べていく過程で偶然、VAの欠号に気づいたのですけれども、こうした空隙が何を意味するのか、改めて考えたくなります。
学者によってすでに言及されている点を追うことはこの時代、ネットが急速に展開して以来は容易くなっているのですが、「彼らによって書かれていないこと」は、ではいったいどう見つけ出すのか。古くて新しい問題。もちろん研究というのは「誰もやってないことを見つけること」なのでしょうけれども、思わぬ陥穽があるようで。

VAは10年以上にわたって続けられた雑誌で、できれば十全な刊行を応援したいところ。
なお、別巻も刊行されています。

Supplement 1
Thierry Zimmer, Les grottes des crocodiles de Maabdah (Samoun): Un cas extrême d'analyse archéologique
(San Antonio, Van Siclen Books, 1987).

Supplement 2
Hans Goedicke, Studies in "The Instructions of King Amenemhet I for his Son", text and plates, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1988).

Supplement 3
Sheldon Lee Gosline, Bahariya Oasis Expedition, Season Report for 1988, Part I. Survey of Qarat Hilwah.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1990).

Supplement 4
Adel Farid, Die demotischen Inschriften der Strategen, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1993).

Supplement 5
Hans Goedicke, Comments on the "Famine Stela".
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

Supplement 6
Anthony J. Spalinger, Revolutions in time: Studies in Ancient Egyptian Calendrics.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

2012年3月5日月曜日

Rammant-Peeters 1983


OLAのシリーズの中の知られた一冊。
新王国時代の神殿型貴族墓(tomb chapel:トゥーム・チャペル)の背後には、せいぜい高さが数メートルの、小さな規模のピラミッドが造られました。かつてピラミッドは王の墓であったわけですが、新王国時代に至るとその伝統が途絶え、代わりに貴族たちが真似して小さなものを建て始めます。
情報が錯綜しがちなのは、小さなピラミッドのかたちを「ピラミディオン」と言う点で、古王国時代の大きなピラミッドで最後に設置される四角錐の頂上石をこう呼ぶとともに、新王国時代の小さなピラミッドの全体もまた「ピラミディオン」と記されたりします。さらには、新王国時代のこの小さなピラミッドに置かれる頂上石も専門家によって「ピラミディオン」と名付けられており、混乱を招きやすい状態です。
ここで扱われるのは、新王国時代に建造された小さなピラミッドの頂上に置かれた四角錐の建材で、銘文や図像が記されているため、古代エジプトの葬制に関わる重要な史料となるわけです。

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Departement Oriéntalistiek, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

Table des matières

Introduction (ix)
Bibliographie et liste des abréviations (xiii)

Première partie. Inventaire des documents (p. 1)
I. Pièces conservées dans les musées. Doc. 1-72 (p. 3)
II. Pièces et fragments conservés à Deir el-Médina. Doc. 73-92 (p. 80)
III. Pièces dont le lieu de conservation est inconnu. Doc. 93-107 (p. 92)
IV. Mentions à ne pas retenir (p. 101)

Deuxième partie. Étude des documents (p. 103)
Chapitre I. Technique (p. 105)
Chapitre II. Provenance (p. 113)
Chapitre III. Décoration (p. 121)
Chapitre IV. Évolution chronologique (p. 133)
Chapitre V. Inscriptions (p. 139)
Chapitre VI. Fonction architecturale (p. 165)
Chapitre VII. Signification religieuse (p. 176)
Chapitre VIII. Orientation (p. 192)

Appendice: La documentation de Deir el-Médina (p. 202)
Index (p. 211)
Planches (p. 217)

出版されたのはもう30年ほど前となり、この後にいくつものピラミディオンが発見されているので改訂が望まれます。
建築の見地からは、最後の図46と図47が何を意味するかが貴重。
史料ではピラミディオンの4つの底辺を掲げており、長さが正確に同じでないことが明らか。正面から見た長さの方が、奥行よりも長い場合があって、いい加減といえばいい加減です。ピラミディオンの底辺の長さの1/2と高さとの比を挙げたのが図47になりますけれども、これはリンド数学パピルスで見られるセケド(skd; or sqd)を勘案して考察をおこなった結果で、さらなる研究が必要となるでしょう。
しかしピラミディオンの4つの斜面は曲面であることも多く、角度に関する判断は難しい。具体的な数値が記されていますが、これらの情報のさばき方が建築に携わる者にとって大きな問題となります。

2012年1月31日火曜日

BACE 22 (2011)


The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology
(BACE), Vol. 22 (2011)が送られてきました。 背表紙に紙が貼ってあり、誤って2008年と印刷された発行年が2011年に訂正されています。珍しいミス。
なお、ACEのHPを見たら、1〜21号までの全目次が掲載されており、とても有用。

この雑誌、早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されていますが、webcatには反映されていないように思われます。
目次を記しておきます。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology, Vol. 22 (2011)
158 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian Bowen,
"The 2011 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

John Burn,
"The Pyramid Texts and Tomb Decoration in Dynasty Six:
The Tomb of Mehu at Saqqara" (p. 17)

Vivienne G. Callender,
"Notes on the Statuary from the Galarza Tomb in Giza" (p. 35)

Julien Cooper,
"The Geographic and Cosmographic Expression t3-nTr" (p. 47)

Jennifer Cromwell,
"A Case of Sibling Scribes in Coptic Thebes" (p. 67)

Arlette David,
"Devouring the Enemy:
Ancient Egyptian Metaphors of Domination" (p. 83)

Miral Lashien,
"Narrative in Old Kingdom Wall Scenes:
The Progress through Time and Space" (p. 101)

Silvia Lupo and Maria Beatriz Cremonte,
"Upper Egyptian Vessels at Tell el-Ghaba, North Sinai:
Local Elite Sumptuary Objects" (p. 115)

Samah Mahmood,
"Dating an Oil Lamp of Multicultural Design" (p. 129)

Anna-Latifa Mourad,
"Siege Scenes of the Old Kingdom" (p. 135)

最後の論文が面白かった。註が130以上も付されています。砦を包囲して攻略するため、はしごを高い城壁の外側からかけたりするのですが、このはしごの下には車輪がついており、移動が可能なように造られているのは明らか。「車」というものはこの時代、確かに知られていたわけです。
しかし古代エジプトにおいて、石材の運搬は車輪のついた台車に載せておこなわれたとは考えられていません。Arnold 1991の中で指摘されている通り。古代ギリシアの場合とは大きく違います。

車輪の有用性は知られていたのに、運搬用の台車や、重いものを引き上げるための滑車がなぜ活用されなかったのか。ここには堅い鉄という金属が、人間の歴史にとっていかに画期的であったかが関わってくると考えられています。古代エジプトでは銅や青銅をもっぱら用いる時代が長く続き、溶解させるに当たって非常な高温を必要とした鉄を扱うことが困難でした。
車軸や滑車の軸に青銅を用いても、荷重で簡単に曲ってしまい、役に立たなかったであろうという見方が支配的です。
しかし、古代エジプトだけは鉄の導入が遅れたとする解釈に対し、金属史の専門家からは「痕跡が見つかっていないだけではないのか」という反問が寄せられることもしばしば。

ただツタンカーメン王墓内の遺物やGuidotti (ed.) 2002でも見られるように、馬に引かせる戦車は新王国時代には類例がいくつか知られており、精緻な組み立てによる木製の車輪を見ることができるというのは興味深いところです。

2011年12月31日土曜日

Hartmann 1989


古都エルカブとネクベト女神に関する博士論文。
ドイツに留学中の安岡君が手配してくれ、マイクロフィッシュの形態にて頒布されていたこの論考にようやくアクセスすることができました。
註は1150を超え、初期王朝から神殿が造営されたエルカブの長い歴史を論述しています。 エルカブ(Elkab)、もしくはエル・カブ(El Kab)の表記も、さまざまなかたちがあって難しい。ここでも「ネケブ」は"Nekheb"ではなくてドイツ語表現の"Necheb"となり、ネクベトも"Nekhbet"ではなく、"Nechbet"と綴っています。ネットでの検索に時間がかかる原因。

Hartwig Hartmann,
Necheb und Nechbet: Untersuchungen zur Geschichte des Kultortes Elkab.
Deutsche Hochschulschrifften (DHS) 822
(Dissertation. Mainz 1993)
xx, 404 p., 38 Tafeln.

Inhalt

Abbildungsverzeichnis (vii)
Abkürzungsverzeichnis (ix)
Einleitung (xiii)

1. Das Delta des Wadi Hellal (1)
2. Die ältesten Quellen zur Geschichte Elkabs (14)
3. Der archäologische Befund im Fruchtland bis zum Ende des AR (39)
4. Die Tempelanlage im Fruchtland seit der 1. Zwischenzeit (78)
5. Die Tempelanlagen in der Wüste des AR und NR (129)
6. Die Götter in den Beamtengräbern von Elkab (220)
7. Beiträge zur Verwaltung und Prosopographie von Elkab (267)
8. Resümee und Ausblick (345)

Literaturverzeichnis (349)
Sachindex (377)

Abbildungen

手堅くまとめられたこの考察からはしかし、ネクベトにまつわる研究の広大な領域を改めて思い知らされます。
徹頭徹尾、ネクベト女神に関する図像学との関連を断ち切ることで成立しており、ベルギー隊によって長く調査が続けられているこの都市の歴史については、近年、大英博物館が発行している電子ジャーナルのBMSAESに掲載された論考(Limme 2008)などによっても知られますが、新王国時代以降に造営された多数の石造神殿や王墓といったモニュメントの天井に、両翼を広げたハゲワシの姿で描かれたネクベト画像がいかなる経緯によってあらわされるようになったのかについては不明。

アマルナの労働者集合住居の近くで発見された祠堂では、両翼を広げたネクベト画像が戸口のリンテル側面に描写されていました。その画像の復原がKempWeatherheadによっておこなわれています(Weatherhead and Kemp 2007)けれども、出土した画片が小さいために、全体像として参考にされているのはラメセス時代のものです。
彼らの意識の中では、描かれたネクベト像に格別、時代による様式の変化があったとは考えられていない点が明らか。どれも同じように見えるから当然です。しかし仔細に眺めると、時代が判別できるような相違が認められるように思われ、盲点があると感じられます。

天井画として同じように描写されるネクベトの様式に、実は差異があり、また向きにも法則性があるのではという点は、まだ誰も指摘していないはず。些細に思われることかもしれませんが、こういうところから世界をひっくり返す作業が始められるとも思われます。