ラベル ファンタジー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ファンタジー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年11月16日月曜日

ボルヘス 1975 (Japanese ed. 1980)


『本の形式を問いかける本』ということであれば、ボルヘスの短編「バベルの図書館」に出てくる無限の本棚がまず思い起こされますけれども、この短編集のタイトルにもなっている「砂の本」もまたその変奏。
常軌を逸した本をついに手に入れるものの、後にはそれを図書館へ「捨てに行く」奇妙な話。本についての高度な専門知識が交錯する、良くわけの分からない売買交渉も読むことができます。
全部で13の短編を収めた小説集。原書の題で"arena"という単語を用いています。武道館などでのコンサートで、「アリーナ」席が設けられることの、もともとの古い意味。流れた血を吸わせるため、闘技場に撒かれた「砂」に原意を持つと言われます。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、篠田一士
「砂の本」
現代の世界文学
(集英社、1980年)
169 p.

原著:
Jorge Luis Borges,
El libro de arena
(Emece editores, Buenos Aires, 1975)

目次:
他者(p. 7)
ウルリーケ(p. 23)
会議(p. 31)
人智の思い及ばぬところ(p. 63)
三十派(p. 75)
恵みの夜(p. 81)
鏡と仮面(p. 91)
ウンドル(p. 99)
疲れた男のユートピア(p. 109)
贈賄(p. 123)
アベリーノ・アレドンド(p. 135)
円盤(p. 145)
砂の本(p. 151)
後書き(p. 161)

アメリカの作家ラヴクラフトに捧げられた「人智の思い及ばぬこと」は、この世の生き物でない怪物の正体を最後まで具体的に明かさないままに終わる恐怖の小説。例えばラヴクラフトの代表作「ダンウィッチの怪」を彷彿とさせます。
周知の通り、ラヴクラフトの小説の中にはクトゥルフ神話にまつわる「何とかホテプ」という人名も出てきて、古代エジプトからヒントを得たようです。「ヘテプ」というのは古代エジプト語で「満足する」、というほどの意味でしたね。ラヴクラフトはヨーロッパの画家H. R. ギーガーにも影響を与えました。ハリウッド映画「エイリアン」を導いた、画集「ネクロノミコン」の作者。エジプト学の残響が、こうしてアメリカとヨーロッパの大陸間を往復したことになります。

個人的にもっとも惹かれるのは「円盤」と題された、5ページしかない短い掌編。王と名乗る年取った男が、片側しか持たない円盤というものを握って登場します。
「贈賄」も、研究者にとっては面白いはず。ひとつの論文を巡っての学者同士の、<客観的な判断>を巡る争いです。
現世の世界の逸脱を巡って文章を一心に書き続けたラテンアメリカの作家による、目眩を引き起こす短編集。

フーコーの「言葉と物」の冒頭に示されたボルヘスの作品の引用で分かるように、この人の短編は考え方が捻れている、奇妙なものばかり。
考えの水準がもともと異なることを、意図的にねじ曲げて相互を接触させようとした作家で、図書館に勤務していた時にいったい何をやっていたのか、想像するとそれだけで楽しい文学者。

2008年12月31日水曜日

ローリング 2007


ハリー・ポッター・シリーズの最終巻です。面白かった。
実は他の書評をまだ読んでません。7月下旬のエジプトへの出国日がちょうど刊行日で、成田空港で2冊を買ったものの、帰国後にようやく読了。

J. K. ローリング作、松岡祐子訳
「ハリー・ポッターと死の秘宝」、上下巻
(静山社、2008年)
565 + 565 p.

原著:
J. K. Rowling,
Harry Potter and the Deathly Hallows, 2 vols.
(Bloomsbury Publishing, London, 2007)

シリーズの第1巻が出た時からこの作品にはそれまでのファンタジーの読み手からの異論が強く、3大ファンタジーである「指輪物語」、「ナルニア国ものがたり」、「ゲド戦記」と比較されたりで、厳しい意見も出ていたように感じられます。でもこの作者の高い力量は一目瞭然で、長い期間を通じ、しかも映画化が同時に進行するというとてつもないストレスを受けつつ、良く書き通せたなという思いがします。
どんでん返しに次ぐどんでん返しを、普通は7回にもわたって完遂できるものではありません。並の才能ではない。ルイスによるナルニア最終巻「さいごの戦い」を彷彿とさせるこのシリーズの最終巻でも、終章近くのヴォルデモートとの一騎打ちの前に、死んだはずのダンブルドアとの対話を挿んだりと、構成がしっかり考えられていて感心します。「分霊箱」、あるいは魔法の杖は本当は誰に仕えるのかというプロットも素晴らしい。

少年少女向けの本に色恋沙汰、あるいは性的な場面を交えるのはいかがなものか、という誰もが何となく思っていた点についてはル・グウィンの「ゲド戦記」の4巻目で、嵐のような論議が巻き起こされました。しかし、それももう古い話です。この巻の最後のポッターの落ち着き先に文句を言う人がいるでしょうけれども、こうした終わり方は悪くない。というか、どんでん返しを最後まで繰り返した結果、このような落ち着いた終章「十九年後」を選び取るしかなかったのではないかと推測されます。

このシリーズではヴォルデモートが饒舌であることに失望した人も少なくないかと思います。確かに大作の「指輪物語」では、サウロンがしゃべるのはあの非常に長い物語の中で、たったの二言三言しかありません。それだけ悪と言う存在の描き方が巨大であったわけです。
「叩き上げの悪人」という親近感がある点は、しかしヴォルデモートの魅力にも繋がります。この悪人も、けっこう苦労してるんだと思わせるところがすごく面白い。映画の「スター・ウォーズ」に登場する皇帝と同じ側面がある。
太字や斜体字、感嘆符など、活字上の目障りな効果の多用に辟易し、離れていった読者もいるかと推察されますが、でもこれらは単に、今日の文学表現における些末的な工夫と見ればいいかと感じます。

3大ファンタジーにこの長編を加え、では4つの中ではどれが一番なのかと聞かれたら、「指輪物語」にも「ナルニア国ものがたり」にもそれぞれ愛着がありますが、個人的にはやはり「ゲド戦記」でしょうか。
前にも記した通り、学校の解体というモティーフが含まれていて、僕はル・グウィンの作品を高く買っています。長年にわたり書き続けてきた内容を壊すというモティーフ、その創作の意図に興味を惹かれます。

2008年12月30日火曜日

糸井(編) 2007


アーシュラ・ル=グウィンによるファンタジーの代表作「ゲド戦記」へ誘うために作られた小さな冊子。無料で配布されました。
直接には「広告としての役割」を負った本で、良く考えるとこの書籍(?)は奇妙な存在です。

糸井重里(プロデューサー)
中沢新一、宮崎駿、河合隼雄、清水真砂子、上橋菜穂子、中村うさぎ、佐藤忠男、宮崎吾朗
「ゲドを読む。」
(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
 ブエナ ビスタ ホーム エンターティメント,2007年)
非売品。206 p.

中沢新一による解説「『ゲド戦記』の愉しみ方」(pp. 13-59)がとても良い。特に「ゲド戦記」の第4巻の扱いが非常に上手で、秀逸です。
長い間隔を置いて発表されたこの4巻目に対しては、「がっかりした」、というような感想が寄せられることが多いかもしれないのですが、そうした反発は実は大したことではないのだという見方がなされており,作者ル=グウィンが本当にやろうとしたと思われるモティーフが見据えられています。

3冊が刊行された後、20年近くの歳月を隔てて書かれたこの4巻目と,さらに10年以上を経て出版された5巻目がなかったら、この作品は凡庸なものに終わっていたに違いないという解釈が,文章でははっきりと書かれていないのですが、ここではなされていると思います。
自分の書き継いで来た世界を、4巻目と5巻目は壊そうともくろんでおり、そのためにだけ2冊が後に書き加えられたといった見方には興味が惹かれます。
表現というものの本質がここでは問われている、そう考えて良いかもしれません。
レヴィ=ストロースではないけれども、「女性とは何か」、そういうこともこの4巻目と5巻目における読解では問われています。大地と結びついた女性と、そこへ降り立った名うての魔術師が魔法の能力の一切を奪われる、という対比の鮮やかさ。

最終の第5巻では、魔法学校であるローク学院の存在意義が疑われる格好になって終わっており、個人的にはここも面白かった。「学校の解体」に鋭く反応してしまうのは,ただの職業病。
6巻目の「外伝」にも,佳作が集められています。小さな断片がいくつも散らされて、本編との間に無数のものがたりが展開していることを想像させます。

映画を見に来る人たちを増やすことだけを狙ったのではない、巧みな導入を図った小冊子です。