ラベル 東南アジア建築 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 東南アジア建築 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年12月28日水曜日

Budka, Kammerzell, and Rzepka (eds.) 2015


数日前にデパートへ行ったら、かつてと比べて人が本当にいないことにびっくりです。西洋建築史の授業では19世紀におけるデパートという施設の登場についてけっこう喋ったりしてきましたから、社会の状況を常に見ていないと本当にいけないのだなと改めて思いました。
故・清岡卓行の詩には、「デパートの中の散歩」というものもありましたっけ。僕は昔読んだこの人の書いたものに、今でも非常な愛着があります。

久しぶりにデパートの上階にある天ぷら屋さんに入ったら、品書きのリストの中に「丸十」と書かれているものがあることに気づき、個人的に興味が惹かれました。食べ物の表記で「丸十」というのは良く分からず、まるで判じものです。

「判じもの」という言い方自体が、もう簡単には伝わらなくなっている時代かもしれませんけれども。

日本のお城の石垣に刻線として残されている記号の中には、丸(円)の中に十字を記したものがあって、これは江戸時代の薩摩藩(さつまはん)の島津家における家紋と同じです。従って、石垣を構成している石に「丸十」の印があるものは、薩摩藩が担当して切り出しと運搬をおこなったものとみなされます。

時代や地域を問わず、建物を作る際にはたくさんの人手が必要で、その中には混乱を避けるために情報を直接、建材に担当者の名や日付、大きさ、使用箇所や使用部位などを簡単に書きつける場合が広範に見られます。
すでにお分かりの通り、薩摩藩主の島津家の家紋であった「丸十」は、転じて「さつまいも」という野菜を意味する場合にも用いられるようです。「さつまいも」は、もちろん「薩摩藩(さつまはん)」の名産品。「丸十」は、薩摩芋(さつまいも)の天ぷらをここでは意味します。
言葉の元の意味が拡張される一方、また情報が時代とともに廃れ、二重三重に分かりにくくなっています。このような仕組みを基本的に考えようとするのが言語学で、伝達という点を徹底的に考えようと工夫し、記号学というものも考え出されました。

この小欄にてすでに扱った2冊(Haring and Kaper eds. 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell eds. 2009の続編が出版されました。思わず薩摩藩の「丸十」を思い出した理由は、この本が古代エジプトにおける同様の記号表現をしつこく特集しているからです。
いくらか遅れて購入しましたが、古代エジプトにおける記号の研究がこんなに熱心に続いているのが、とても意外に思われました。

Julia Budka, Frank Kammersell, and Slawomir Rzepka (eds.), 
Non-Textual Marking Systems in Ancient Egypt (and Elsewhere).
Lingua Aegyptia, Studia Monographica 16
(Hamburg: Widmaier Verlag, 2015).
x, 322 p.

Contents:

鮮やかな黄色の布張りのハードカバーが印象的なモノグラフのうちの一冊です。
NTMSなんていう、まったく聞きなれない略称が度々出てきますけれども、古代エジプトで出てくる記号の解読をちょっと大げさに考えたいという姿勢が出てしまっているだけで、少々分かりにくいのですが熱意を汲み、勘弁してあげてください。
全体は4つに分かれており、

Methods & Semiotic
Architecture & Builders' Marks
Deir el-Medina
Pot Marks

という構成です。特に2番目については、こちらの興味に関わります。
末尾に執筆者たちの連絡先が併記されているのが便利です。

記号学(記号論)にまで問題を拡げており、面白くなっています。
今は完全に下火となっていますけれど、記号学についてはかつて日本の思想界にて良く読まれました。建築の世界では、P. アイゼンマンと絡んでチョムスキーの理論を筆頭に、さまざまな著作が参照されたりもしました。丸山圭三郎、前田愛といった方々の名が私的には思い起こされます。

ただ古代エジプトにおいてこの問題がどのように収斂するのかという問いになると、心もとない気もします。泥煉瓦につけられるマークや石切り場でうかがわれる記号などは当方にとっても興味が惹かれますが、それらの解釈に関して、あれ?と思う記述にぶつかる場合があって、些細な点ではあるものの、例えば石切り場の天井に引かれた線が、切り出したい石の大きさをあらわしているというような見方は改められるべきかと思われます。

建材に記された記号に関する基本的な問題はかなり前に指摘されていますけれど、建築を専門とする者以外の人には充分に理解されていないようで、例えばClarke & Engelbach 1930の記述を簡単に否定するのはどうかなと、同じ建築学の側に立つ者としては思うところでした。

西欧中世の教会堂の石材にもマークはうかがわれ、複数の研究書が出版されています。
でもエジプト学におけるこうした記号への注目というのはちょっと他の分野には見られない熱心さがあって、異常とも思われる箇所です。謎解きという面もありますので、そこで注目する人が多いのかも知れません。
記号の表現における表意文字と表音文字との混交という性格にもおそらく起因し、欧米の研究者たちを引きつけているのかなと憶測します。
要するに、難解な暗号の解読が成功した時の魅力に引き寄せられる特異な分野です。

カンボジアのクメール石造建築の石材においても短い書きつけがしばしば刻線で記されていますが、これに興味を示す者は未だいないようです。
そろそろ集成が作られるべきかとも思ったりしています。

2014年5月11日日曜日

Le Roux, Sellato et Ivanoff (éds.) 2004-2008


EFEO(École française d'Extrême-Orient)から出版された、東南アジア諸国の度量衡に関する研究書。
第2巻目の巻末には両巻に収められた論文の詳細な目次が掲載されていますが、これをタイピングするのは一苦労ですので、時間のある時に再度、試みることにします。
タイ、ベトナム(ヴェトナム)、ラオス、フィリピン、その他の諸国における度量衡を扱っています。

Pierre Le Roux, Bernard Sellato et Jacques Ivanoff éds.,
Poids et mesures en Asie du Sud-Est: Systèmes métrologiques et sociétés, 2 vols.
Études thématiques 13-1/2.
Paris et Marseille, École française d'Extrême-Orient, Institut de Recherche sur le Sud-Est Asiatique, 2004-2008.

Volume I: L'Asie du Sud-Est austronésienne et ses marches, 
Études thématiques 13-1,
423 p.

Volume II: L'Asie du Sud-Est continentale et ses marches, 
Études thématiques 13-2,
pp. 425-826 (404 p.)

この2巻本で見たかったのは、ただひとつの論文で、カンボジアを扱ったものです。

Marie Alexandrine Martin
"Dâmloeung et niel: Évaluer l'or et le riz dans le Cambodge traditionnel,"
 in P. Le Roux, B. Sellato et J. Ivanoff éds.,
Poids et mesures en Asie du Sud-Est: Systèmes métrologiques et sociétés, vol. 2, 
Études thématiques 13-2, pp. 503-514.

P. 508からは"Les mesures de longueur et de surface"と題した章の論述が始まり、p. 509には、"probablement les 41 cm notés par certains auteurs," といった記述が見られるのですけれど、これが果たして知りたかった長さの数値なのかどうかは、また別の問題となります。
人体尺の話はこの本のあちこちに出ていて、図示がなされ、興味深い。
本の背表紙には書物のモティーフが述べられていますので、ちょっと長くなりますが、これを引き写しておきます。

Poids et mesures en Asie du Sud-Est
Plus que jamais présents dans les sociétés, les systèmes de poids et de mesures intéressent aussi le politique; la n'a-t-elle pas présidé à l'établissement et au développement des États ? Des nombreux travaux existants de métrologie historique, bien peu concernent l'Asie du Sud-Est. Cet ouvrage, né d'un ambitieux projet d'envisager les systèmes métrologiques du point de vue englobant de l'anthropologie sociale tout en tirant profit d'une approche interdisciplinaire, regroupe quarante contributions de spécialistes internationaux:  ethnologues, historiens, archéologues, sociologues, linguistes. Voici donc écrit un vaste chapitre de l'histoire économique et sociale de l'Asie du Sud-Est, entendue au sens large - ce qui constitue l'autre originalité du projet -, puisqu'il englobe ses marches culturelles: la région himalayenne, la Nouvelle-Guinée et Madagascar.

建築に関する度量衡としては、一番重要なものとして「長さ」があるんですけれども、これをどう捉えるかで一冊の本が書けるように思います。古代の「ものさし」の話は複雑で、実際に「ものさし」が出土し、尺度が分かっているように思われる古代エジプトにあっても、尺度を巡る論議が未だ続いています。面白いところです。

2014年3月26日水曜日

Narita 1990-1992 (Articles in Shihyo) / 成田 1990-1992(「史標」掲載論文)


日本工業大学の成田剛氏が授業中に倒れ、そのまま亡くなったという知らせが伝えられた後、ひと月があっという間に経ちました。
未だに信じられない思いが続いています。

カンボジア遺跡の修復事業を手がけたJSA日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地所長として彼がシェムリアプに長く赴任していた時期は、当方が同じくJSAの団員としてカンボジアに通った頃と重なっており、その際には細やかな便宜をたくさん図っていただきました。当節の感謝の言葉を伝える機会を永遠に失った意味を、改めて考えています。

成田剛氏とともに初めて海外の建築調査に出かけたのは、1984年の年末になされたインド・スリランカ建築調査で、黒河内宏昌氏が調査隊長を務めたこの時の建築調査がとても面白かったので、翌年にエジプト建築調査に誘われた時も参加することを決め、以後もエジプト建築調査を続行したという個人的な経緯があります。成田剛氏は、当方が建築調査を初めて体験した時の数少ない仲間のひとりでした。

史標 (Shihyo)」という小さな刊行誌の編集に僕は関わっていましたが、ここに成田剛氏がいくつかの論考を寄せています。

史標("Shihyo": ISSN 1345-0522)
http://www.linkclub.or.jp/~nishimot/Shihyo-J.html

当冊子に投稿された成田剛氏の論文をリストアップし、英語による書誌の案をここでは併記しました。
成田剛氏の業績を海外へ知らせることを念頭に置いていますけれども、ここに掲げた題名の英訳については当方が勝手に試訳したものですから、今後訂正すべき点が多々出てくるかと思います。あくまでも試案として提示しておきます。
Bruguier 1998-1999の著作に関しては以前、触れたことがありました。Bruguierにこのような情報をメールで知らせるべきかどうか。知らせた方が良いとは思いますが、添付すべきレジュメなど、手続きを考えると迷うところです。

成田氏が「史標」に投稿した論考のうち、カオ・プラ・ヴィハン(プレア・ヴィヘア / プレア・ヴィヒア [Preah Vihear])に触れたものは特に印象に残り、「その2」において何が書かれるはずであったのか、個人的には興味が惹かれます。
最後に投稿された論考のタイトルは「最近したこと考えたことから」でした。「史標」の創刊以降の連続投稿の努力と、その後に問題意識を拡げようとした格闘の様子が推察されます。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand: Rules for Asymmetry" (in Japanese),
Shihyo 1 (September 1, 1990), pp. 21-24.
成田 剛
「タイのクメール建築:アシンメトリーの法則」、
「史標」第1号(1990年9月9日)、pp. 21-24。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Laos: Reconnaissance Records for Three Days to Wat Phu" (in Japanese),
Shihyo 2 (December 12, 1990), pp. 23-28.
成田 剛
「ラオスのクメール建築:ワット・プーを訪ねた3泊2日の調査旅行記」、
「史標」第2号(1990年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 2: Prasat Mueang Sing, The Westernmost Khmer Monument" (in Japanese),
Shihyo 3 (March 3, 1991), pp. 27-30.
成田 剛
「タイのクメール建築 2:プラサート・ムアン・シン、最西端のクメール建築」、
「史標」第3号(1991年3月3日)、pp. 27-30。

NARITA, Tsuyoshi
"Temples and Shrines in Laos: Vientiane and Luang Phabang" (in Japanese),
Shihyo 4 (June 6, 1991), pp. 1-8.
成田 剛
「ラオスの社寺建築:ヴィエンチャンとルアン・パバーン」、
「史標」第4号(1991年6月6日)、pp. 1-8。

NARITA, Tsuyoshi
"The Pentagonal Monuments of Pagan" (in Japanese),
Shihyo 5 (September 9, 1991), pp. 19-26.
成田 剛
「The Pentagonal Monuments of Pagan」、
「史標」第5号(1991年9月9日)、pp. 19-26。

NARITA, Tsuyoshi
"Residential Architecture in Malaysia: Folk House Park, Mini Malaysia" (in Japanese),
Shihyo 6 (December 12, 1991), pp. 23-28.
成田 剛
「マレーシアの住宅建築:マレーシアの民家園、ミニ・マレーシア」、
「史標」第6号(1991年12月12日)、pp. 23-28。

NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 3: Khao Phra Viharn, Part 1" (in Japanese),
Shihyo 8 (June 6, 1992), pp. 23-26.
成田 剛
「タイのクメール建築 3:カオ・プラ・ヴィハン(その1)」、
「史標」第8号(1992年6月6日)、pp. 23-26。

NARITA, Tsuyoshi
"From the Recent Activity and thought" (in Japanese),
Shihyo 10 (December 12, 1992), pp. 5-8.
成田 剛
「最近したこと考えたことから」、
「史標」第10号(1992年12月12日)、pp. 5-8。

成田剛氏の命日となった2014年2月8日の土曜日、東京は記録的な大雪でした。その一週間前にはカンボジアのバプーオン遺跡の保存修復に力を尽くしていたPascal Royèreが病死したというメールの通知がフランス極東学院(EFEO)から届いたばかりでした。
以前、パスカル氏の現場に「一緒に行きましょう」と成田氏の御厚意により連れて行ってもらい、視察したこともあったのですけれども、その2人とも亡くなってしまいました。
クメール建築に関わった日本の専門家と言えば、長年にわたり研究を進められてきた片桐正夫先生が2012年に亡くなられ、またバンテアイ・クデイの建築に関し調査を続けられてフランス語で博士論文を執筆した荒樋久雄氏も2004年に命を落とされています。
JSAの現地所長を務めた桜田滋氏も2009年に急逝しました。JSA団員の小榑哲央氏が2002年、交通事故によって亡くなったことも記憶に強く残っています。
いつも元気であった成田剛氏が亡くなるとは、まったく思っていませんでした。

CiNii成田剛氏が執筆した学術論文はネットで検索できますが、実は他にも2000年以降に書かれた、公にされていないレポート類がたくさん存在するように思われます。それらにも陽の光が当たる機会があったらと願っています。これまで撮り貯めて来た遺跡の写真類をすべてデジタル化した、とも言っていました。
昔、「ガーリック・チップス」の2階で共に良く飲みました。当時は溌剌としたサッカー青年でもありましたっけ。
去年の7月26日の夜、成田氏と黒河内氏、当方の3人で飲みました。それが彼と会った最後の機会となりました。残念です。

||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

2015年2月8日、追悼文集が御両親の編集によって上梓されました。

成田十次郎・瑳智子
「東南アジア仏教遺跡の保存修復にかける ―追憶 成田剛―」
文教社、2015年、177 p. + XXVII

2010年1月13日水曜日

Jacques (and Freeman) 1997


カンボジア・アンコール遺跡の解説書はたくさんありますが、日本で出ているものは観光の紹介に偏りすぎていたりする本が多く、あまり使いものになりません。この本を書いているクロード・ジャックは、アンコール遺跡の編年研究に筋道をつけたG. セデスの弟子で、碑文学者。プレ・アンコール時代から13世紀以降までを包括して取り扱っており、カラー写真が豊富に収められています。

Claude Jacques, photographs by Michael Freeman,
translation by Tom White,
Angkor: Cities and Temples
(Asia Books, Bangkok, 1997)
319 p.

平面図が多く紹介されているだけでなく、タ・プロームやプレア・カン、バイヨンなどについては複数の図面を用い、増改築の過程を説明しています。他の本では見られない、大きな特色です。
ただバイヨンについては建造過程の解釈に誤りがあり、J. デュマルセやO. クニンの考察を無視していますので、注意が必要。ジャックとデュマルセたちとの意見の相違は、第一回廊と第二回廊との間に立ち並んでいた16棟の「祠堂」の扱いに顕著です。Clark (ed.) 2007も参照。ジャックはこれらの創建を初期にまで遡らせたいようですが、痕跡からはそのように考えることのできる余地がまったくありません。

アンコール地域の遺構だけを扱っているため、サンボール・プレイ・クックやコー・ケル、あるいはコンポン・スヴァイのプレア・カン、プレア・ヴィヘア、バンテアイ・チュマールについては触れられていません。これらやカンボジアの外にあるピマイなどの遺跡については、また別の本が必要となります。出版社は異なるものの、姉妹巻として扱われるものに、

Claude Jacques and Philippe Lafond,
The Khmer Empire:
Cities and Sanctuaries from the 5th to the 13th Century

(River Books, Bangkok, 2007)
279 p.

があり、こちらもカラー写真がふんだんに掲載されています。

アンコール遺跡に関するガイドブックでお勧めしたいのは、

Jean Laur,
Angkor: temples et monuments
(Flammarion, Paris, 2002)
391 p.

で、英語版も出版されています。著者は建築家で、アンコールにおける保存修復にも携わりました。100ページあまりを費やして、最初にクメール文明の流れを説明し、石材の運搬経路を地図で示してもいます。こういう図は他の本には載っていないはず。このため、O. クニンの博士論文にもこの箇所が引用されているわけです。
クメールの遺跡にはすべて番号がつけられているのですが、それが明記されているのもLaurの本の特徴です。マイナーな「486」と呼ばれる遺跡も平面図が掲載されています。アンコール・トムの域内にあって、ラテライトで造られた基壇が後に砂岩で覆われている面白い建物。

なお、「踊り子の綱」として知られるプラサート・スープラの年代は13世紀ではなく、もっと遡って12世紀であろうと今日では判断されます。

2010年1月12日火曜日

Bruguier 1998-1999


カンボジアに残存するすべての遺構に関し、情報の網羅をめざした基礎台帳。最も基本となる文献です。東南アジア建築研究に際しては必携の書。遺構名からも、また著者名からも文献資料を検索することができます。第1巻は著作リストです。また第2巻は遺構番号や遺構名から引くための索引集。
エジプト学における、PMPorter and Moss, 8 vols. に相当する本。

Bruno Bruguier,
avec la collaboration de Phann Nady,
Bibliographie du Cambodge ancien, 2 vols.

Vol. I: Corpus bibliographique
(Ecole Francaise d'Extreme-Orient, Paris, 1998)
338 pp.

Vol. II: Tables et index
(Ecole Francaise d'Extreme-Orient, Paris, 1999)
367 pp.

例えば上智大学の石澤良昭先生による海外に向けた研究業績を調べたいのであれば、第1巻で "Ishizawa (Yoshiaki)" を引きます。
すると、pp. 172-179にかけて、延々と論文リストが並ぶさまを見ることができます。

また、アンコール・ワットについてどれだけ既往の研究資料があるのかを調べたかったら、第2巻を見ます。"Angkor Vat"の項を引くと、pp. 74-78にわたって数字・英文字の羅列が続きます。
これらはパリに本部があるフランス極東学院(EFEO: Ecole Francaise d'Extreme-Orient)に収蔵されている調査日誌のページ数や、省略して書かれた数多くの著作・論文名を列記したもの。
図面がどれだけ存在するかも同時に分かります。

ただし、10年前に出版されたものなので、最新の研究成果は反映されていません。
さらに問題なのは、未刊行資料が多いということです。実際に資料を見ようとすると、パリに行かなくてはならない(!)場合も出てくるように思われます。

半ば絶望を誘う書ですが,クメールの遺跡群に関する考察の糸口を見つけるための重要な本。書評では、ヨーロッパ主要国以外の研究者たちの論考が抜けている点などが指摘されてもいますが、PMだって初版はそんな感じのものでした。
エジプト学に関わる文献の一切を網羅しようとしているOEBOnline Egyptological Bibliographyのような試みが、次には模索されるかと想像されます。OEBの年間使用料は今、個人で申し込むと50ユーロ(7000円弱)。

2009年7月29日水曜日

Clark (ed.) 2007


カンボジアのシェムリアプに行くと、アンコール地域のクメール建築がたくさん見られますが、それらの中で、たぶん最も複雑怪奇な構成を呈しているバイヨン寺院に関する本格的な研究論文集です。数年前から予告されながら、なかなか出版されませんでした。

Joyce Clark ed.,
Bayon: New Perspectives
(River Books, Bangkok, 2007)
403 p.

執筆陣は非常に豪華で、

Joyce Clark
Ang Choulean
Olivier Cunin
Claude Jacques
T. S. Maxwell
Vittorio Rovera
Anne-Valerie Schweyer
Peter D. Sharrock
Michael Vickery
Hiram Woodward


といったメンバーが、各研究分野の立場から執筆をおこなっています。バイヨン研究にとっては必読の、きわめて重要な書です。
この中で一番長く書かれているOlivier Cuninによる論考、

"The Bayon: An Archaeological and Architectural Study"
(pp. 136-229)

は圧巻で、多数の図版や加工した写真を交えて、何回も増改築が繰り返されたバイヨン寺院の建設工事の模様を、立体的に図示することが試みられています。久々に面白い建築報告を読むことができました。壮大で非常に複雑な立体パズルだと言えるかも知れません。

イントロダクションでVickeryは、

"Readers will also note serious disagreement, especially between Jacques and Cunin, on the dating, both absolute and relative, of the phases of the Bayon's construction; and their views, presented here, differ from earlier proposals, for example by Parmentier and Dumarçay." (p. 18)

と、クニンとジャックの論が異なることを指摘しており、これは特に"16 courtyard passageways (structures A-P)"がいつ建てられたかに関しての見解の違いで顕著となっていますが、建築学からは、ジャックの論が成り立たない点はきわめて明瞭。
石のかたちや目地を見ることで、どちらの石が先に設置されたのかは分かります。立体的な造形の把握に疎いため、ジャックは致命的な間違いを犯しています。
砂岩における微弱な磁気の傾向(帯磁率)を検出することで、石材の切り出された場所が異なる点を指し示せるようになりましたが、その結果もクニンの説を支持しています。
Dumarcay 1967-1973にてクニンの博士論文がダウンロードできることはすでに記しましたが、この論考は非常に重要。

Olivier Cunin,
De Ta Prohm au Bayon, Analyse comparative de l'histoire architecturale des principaux monuments du style du Bayon, 4 vols.
(Nancy, 2004)

Tome I: Analyse comparative de l'histoire architecturale des principaux monuments du style du Bayon
(viii), 484 p.
Tome II: Contribution à l'histoire architecturale du temple du Bayon
(iii), 181 p.
Annexe I: Documents graphiques
(i), 313 p.
Annexe II: Documents photographiques
(i), 98 p.

http://tel.archives-ouvertes.fr/tel-00007699

Clark編集のこの本は比較的細かい字でびっしりと印刷された書籍で、通常通りの文字の大きさであったなら、きっと600ページを超える本になっていたでしょう。
サンスクリット語、ヴェトナム語・チャム語、クメール語の専門用語集が巻末に付されています。
註も充実しています。

2009年3月21日土曜日

Dumarcay 2005


南アジア及び東南アジアにおける建造技法を図説した本。ボロブドゥールやバイヨンの建築報告書などを執筆したことで、著者デュマルセは名高い学者です。建築の目利きとして有名。
特に南アジア建築の技法を述べた本はきわめて稀で、注目されます。
概説を広く記すことに心が砕かれたようです。

Jacques Dumarcay, translated by Barbara Silverstone and Raphaelle Dedourge,
Construction Techniques in South and Southeast Asia: A History.
Handbook of Oriental Studies, Section 3: Southeast Asia, vol. 15
(Brill, Leiden, 2005)
vii, 108 p., 100 figs.

本文は100ページほどしかなく,あとはモノクロの図版ですが,木,土,石など、この地域で用いられた建築素材を網羅しています。多種多様にわたる建築の形式をまとめることができたのも、この人ならではの仕事。厚い書籍ではありませんが、初めて見る図版がいくつか加えられています。石だけを重視するという立場を取っていません。

「建築の技術では建物を空中へ実際に浮かせることはできないけれども、アンコール・ワットやペナタランのように、ガルーダに支えられて浮かんでいる強烈なイメージの実現こそが建築なのだ」というようなことが結論の最後には書かれており,そこに彼の深い建築観が看取されます。
この20年ほどの間で、建造技法について記した本は矢継ぎ早に出版されており、そろそろ比較がおこなわれても良い時期です。

この同じシリーズで、デュマルセはクメール建築史を書いています。

Jacques Dumarcay and Pascal Royere, translated and edited by Michael Smithies,
Cambodian Architecture, Eighth to Thirteenth Centuries.
Handbook of Oriental Studies, Section 3: Southeast Asia, vol. 12
(Brill, Leiden, 2001)
xxx, 274 p., 148 figs.

こちらも重要。
出版社のブリルはヨーロッパにおける老舗で,このHandbook of Oriental Studiesのシリーズには,他にも見るべきものが多く含まれています。

2009年1月31日土曜日

藤原 2008


フランス極東学院によるカンボジアのクメール学研究史が興味深く語られます。幾人かの高名なフランス人研究者たちについては他の本でも紹介がなされており、また経歴を調べることも可能ですけれども、歴史背景を踏まえて大きな流れを辿ったものはきわめて稀。

藤原貞朗
「オリエンタリストの憂鬱:
植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学」
(めこん、2008年)
582 p.

註、及び参考文献も充実しており、厚い本となっています。
「考古学と政治との関係を探った」と書かれていて、確かに政治的な意図のもとにさまざまな学的な方向性が決定されることはあり、あるいはアンコール・ワットの部分原寸模型がマルセイユ博覧会などで立ち上げられた理由の裏にはフランスの国威を示す狙いがあったと記されれば、それはそういう側面もうかがわれるだろうなと思います。

面白いとは思ったんですが、どこかで「それで何?」と感じる向きもあるかもしれない。フランスの外交手法はつとに知られた剛腕。初めて聞く話ではありません。きわめて政治的な色彩を帯びながら、フランス極東学院は創設されたはずです。
中近東の調査現場に出かける人たちならば、学術分野の方向性が政治によってあっけなく左右されてしまうことを身にしみて知っています。イラク戦争が起こった時には、関連する研究者たちによる反対声明の署名運動がメールで世界中を回りました。たぶん効力がないと感じながら応じた人も少なくなかった。

つまりこのような論考が、例としてエジプト学などの領域であり得るかなと考えた時、あまり思い浮かべることができない原因がそこにあるように思われます。
少なくともエジプト学では、こうした論考にあまり重きを置かないのではないでしょうか。政治によって現実が反転される可能性を繰り込みながら常時、調査がおこなわれているわけで、格別取り上げて論じるような珍しいことではない。

だから論を立てるのであれば、もっとラディカルな見方が必要なのではないかと不満がいくらか残るわけです。たとえばブルーノ・ラトゥールの「科学が作られているとき:人類学的考察」(産業図書、1999年)が示す徹底した方法のように。
本書の最後近くでは、

「長い欧米列強と日本の帝国主義時代の中で、東洋の考古学・美術史はバラバラに分断された。繰り返すように、フランスはインドシナを、イギリスはインドを、オランダはインドネシアを、日本は韓半島などを独占的な調査の場とし、独自の(政治的な)美術史構想を育んでいった」(p. 484)

とありますけれども、本当の分断の原因を単に政治だけに求められるのかどうかは課題となるはずで、もっと根が深いように思われます。

しかしながら強く興味が惹かれたのは、この本に伊東忠太、岡倉覚三(天心)、関野貞、藤岡通夫、藤田嗣治といった者たちが登場するからであって、変なところで変な人がカンボジア研究史を横切ります。そこがとても面白い。
著者はリヨン第二大学への留学を経た茨城大学人文科学部准教授。

【追記】
本書は第31回サントリー学芸賞を受賞。
受賞のことばは、

http://www.suntory.co.jp/news/2009/10600-3.html

で見ることができます。
(2009.11.10)

2009年1月19日月曜日

Dumarcay et Courbin 1988


フランス極東学院(EFEO)による刊行物で、これまで未発表であった図面を多数掲載している点は貴重。カンボジアのクメール建築遺構研究においては重要な本です。

Jacques Dumarcay,
Documents graphiques de la Conservation d'Angkor 1963-1973.

Paul Courbin,
La fouille du Sras-Srang.

Memoires archeologiques 18
(Ecole Francaise d'Extreme-Orient (EFEO), Paris, 1988)
59 p., 89 pls.

B. P. グロリエに捧げられた本です。
この学者はクメール学に多大な貢献を果たした大物。1986年に亡くなりましたが、1960年から1975年まで、アンコール地域の保存修復家として活躍しました。

しかしどこかがおかしな出版物で、一冊の本の中に、無理矢理ふたつの内容を詰め込んだ印象が拭えません。表紙ではデュマルセが纏めた図面資料に関する題を先に置き、スラ・スランの発掘報告が後になりますが、実際はその逆です。
序文をデュマルセが記し、十数枚の写真と図面を付しながら二つの内容の統一を図る書き方をしていますけれども、本の構成は半ば混乱をきたしているとしか思われない。むしろ89枚の図面を出版することのみが主目的であったのではと疑われる書籍です。

折り込みを利用して、大きな図面も掲載しようと試みています。例えばタ・ソムの平面図は3ページ分の幅を持ちます。
アンコールのプレア・カンの平面図に至っては、何と4ページ分の幅の紙に印刷されていますが、これを長軸に沿って南北に切り分けています。
常識から考えて、普通はまずやらないだろうなと思わせるのは、信じられないことにこの細長く切られた平面図を一枚の長い紙面の表裏の両面に刷るという荒技をやっていて、見にくいこと、この上ない。

"Collection de textes et documents sur l'Indochine XVII"と表紙には印刷されていますが、このシリーズの17番目については、実は別に"Nouvelles inscriptions du Cambodge"として1989年に刊行されており、EFEOのサイトでも確認することができます。
それ故、本当のシリーズ名は"Memoires archeologiques 18"であるらしい。EFEOのサイトではそうなっています。
どのような理由で間違ったのか、良く分かりません。

コンポン・スヴァイのプレア・カンの中心部の平面図が掲載されています。これを見るためだけでも入手する価値があります。

2009年1月14日水曜日

Dumarcay 1967-1973


アンコール・ワットと並び、アンコール地域で注目されるバイヨン寺院に関する報告書。著者はクメール建築のみならず、広く東南アジア建築を知る重鎮。特に1970年代、彼はたくさんの報告書を刊行しました。どれもフランス極東学院による調査が重ねられながらも、報告書が出ていなかった遺構ばかりです。
すでにH. パルマンティエが、この複雑きわまる構成を持つ寺院の概要を発表していましたが、それも自分の説を途中で訂正したりと、内容の把握には骨が折れます。しかしながらパルマンティエによる修正後の説をデュマルセは良く受け継いでおり、現在言われているバイヨンの建造過程の4段階説は正確には、パルマンティエ・デュマルセ説と表現すべきだと思われます。

Jacques Dumarcay,
Le Bayon: Histoire architecturale du temple: Atlas et notice des planches.
Publications de l'Ecole Francaise d'Extreme-Orient (PEFEO),
Memoire Archeologique III(-1)
(Ecole Francaise d'Extreme-Orient (EFEO), Paris, 1967)
11 p., 68 planches.

Jacques Dumarcay,
Le Bayon: Histoire architecturale du temple (Textes).
Bernard Philippe Groslier,
Inscriptions du Bayon.
Publications de l'Ecole Francaise d'Extreme-Orient (PEFEO),
Memoire Archeologique III-2
(Ecole Francaise d'Extreme-Orient (EFEO), Paris, 1973)
(iv), 1-76 p., 1-53 planches, 81-332 p., 54-72 planches.

最初に図版だけを出版し、6年後に文章編を刊行しています。あとで出された方には、バイヨンのあちこちに見られる文字資料の報告もなされており、こちらはグロリエによって執筆されました。アンコール・トムの城門が3つの建造過程を有する点に短く触れており、これも重要な報告。

パルマンティエとデュマルセの見方に基づき、さらに問題を展開させたのがオリヴィエ・クニンによる非常に分厚い博士論文で、

Olivier Cunin,
De Ta Prohm au Bayon, Analyse comparative de l'histoire architecturale des principaux monuments du style du Bayon, 4 vols.
(Nancy, 2004)
http://tel.archives-ouvertes.fr/tel-00007699

のURLで見ることができます。
「タ・プロームからバイヨンまで:バイヨン様式の主要遺構に関する建築史の比較分析」という題で、PDFで4冊分、総計200MBを超えます。プリンタで打ち出すのは一日がかり。バイヨン期に属する遺構群についての詳細な論考で、図版が多数収められており、専門家にとっては必見の書。バイヨンについてクロード・ジャックが唱えている説は、完全に排除されています。
このように、クメール研究に当たっては未刊行資料にも目を通す必要がある点は銘記されるべきで、エジプト学におけるデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)研究と似たところがあります。
デュマルセはまた近代文学と建築を取り結ぶ小さな本も書いたりしており、この人の器が示唆されます。

2009年1月5日に亡くなった桜田滋には、クメール建築調査の際にさまざまな面でずいぶんと助けてもらいました。日本国政府アンコール遺跡救済チーム(Japanese Government Team for Safeguarding Angkor: JSA)のシェムリアプの現地事務所の所長を務めた男です。高校の時から30年のつき合いでした。
黙祷。