2009年12月31日木曜日

Haselberger (ed.) 1999


人間の眼は垂直や水平の線の知覚に敏感である一方、想像される重量感など、周囲の状況を含んで脳が判断するために、時として曲がったり傾いたりしているという誤った認識がもたらされることがあります。建築を造る際にはこれが支障となり、わざと真っ直ぐであるべき床や梁材をごく僅か、曲げたり傾けたりという視覚矯正がなされる場合が見られ、これが「リファインメント」と呼ばれます。
パルテノン神殿には直線がどこにもない、と言われるのはこのため。

Lothar Haselberger ed.,
Appearance and Essence:
Refinements of Classical Architecture; Curvature.

University Museum Monograph 107, Symposium Series 10.
Proceedings of the Second Williams Symposium on Classical Architecture, held at the University of Pennsylvania, Philadelphia, April 2-4, 1993
(The University Museum, University of Pennsylvania, Philadelphia, 1999)
xvi, 316 p.

意図的に歪ませるというこの手法について、専門家たちが集まり、世界で初めて開催されたシンポジウムの記録。J. J. Coulton, M. Korres, M. Wilson Jones, P. Grosなど、古典古代建築の研究において、とてもよく知られた学者たちによる発表が含まれています。
このシンポジウムを纏めているHaselbergerは、トルコにあるディディマのアポロ神殿に残されていた、柱が曲線を描きながら先細りとなっている設計の下図を報告した人。

Lothar Haselberger,
"Werkzeichnungen am Jüngeren Didymeion: Vorbericht",
Istanbuler Mitteilungen 30 (1980), pp. 191-215.

は日本でも伊藤重剛氏によって紹介されたりしていて、知られた論文。
「リファインメント」というのは、実は建築の事典に載っていないことが多く、

"This book focuses on curvature and other refinements of Classical architecture - subtle, intentional deviations from geometrical regularity, that left no line, no element of a structure truly straight, or vertical, or what it appears to be."
(p. v)

と冒頭にわざわざ説明が改めてなされてもいます。xvページに"Introductory Bibliography"が設けられており、ここでリファインメント研究の先駆者、F. C. PenroseW. H. GoodyearA. K. Orlandosたちの著作が挙げられています。

中国建築におけるリファインメント、としてHuei-Min Luという人が中国の建築書「営造方式 Ying-tsao Fa-shih」(1103年)を扱っています(pp. 289-292)。
この建築書については、竹島卓一「営造方式の研究」(1972年)が有名。J. ニーダムによる紹介もありますけれども、世界で本格的な解説書はこれしか出版されていません。日本人だけが「営造方式」の注解書を読むことができるという状況にあるため、この研究者もSsu-cheng Liang, A Pictorial History of Chinese Architecture (Cambridge, Mass. 1984)の図版を挙げつつも、日本語からの翻訳も掲げています。柱を中心に向けてごく僅か、傾けるという手法を簡単に紹介。

「営造方式の研究」の分厚い手書き原稿は、いったん1942年に完成されたものの、第二次世界大戦の空襲によって消失。にも関わらず、再度の執筆が開始され、1949年に学位論文として提出されたという経緯が知られています。及び難い、不屈の精神。
中央公論美術出版社から出された3巻本の「営造方式の研究」は、2000ページを超える大著。

会議が開催された1993年以降の研究も付加されており、また19世紀・20世紀の建築で見られる同様の手法が巻末にリストアップされています。建築意匠の普遍的な手法としてこの矯正を見ようとするあらわれで、面白い。

2009年12月24日木曜日

Bierbrier 2008 (2nd ed.)


M. L. ビアブライヤーによる古代エジプト歴史事典の改訂版。全体の約2/3が事典で各項目の短い解説。これにアペンディクスとして参考文献リストなどの諸情報が加わります。
図版はほとんど掲載されていません。

Morris L. Bierbrier,
Historical Dictionary of Ancient Egypt.
Historical Dictionaries of Ancient Civilizations and Historical Eras, No. 22
(The Scarecrow Press, Lanham, Maryland, 2008, second edition. First published in 1999)
xxxix, 427 p.

すでに同じく改訂を重ねている「大英博物館古代エジプト百科事典」、つまりShaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)の存在が強力であるため、項目説明の部分はどうしても見劣りがするかもしれません。しかし各々の説明を短くすることで、逆に項目数を大幅に増やしています。

例えば117ページから"KV"(テーベの「王家の谷」の略称)の説明が始まり、その直後の"KV1"から128ページの"KV63"まで延々と続いているのが典型。また私人名、タイトル(職名・肩書き)などをたくさん取り入れており、"High Priest of Ptah"などという項目があるのも本書の特徴。 アペンディクスAでは、紀元7世紀まで及ぶ支配者たちの人名が列記されるなど、工夫されています。ビザンティン時代の皇帝たちなどをも含んだ長いリストです。
アペンディクスBは古代エジプトの遺物を収蔵している世界の博物館の住所録。とは言え、日本の博物館はふたつしか掲載されていませんが。 そのひとつは東京の"Ukebukuro"にあるそうです。併記されている郵便番号は3桁しか無く、一体いつ頃に得た情報なのかと疑われるところ。インターネットで確認することがおこなわれていません。

311ページから最後まで続く参考文献リストに、本書の特色が最もあらわれているかもしれません。ほぼ100ページにわたって、エジプト学に関する基本的な文献が網羅されているからです。古いもの、また英語で書かれたもの以外はなるべく外されるという手続きがここでも取られていますけれども。 全体は「歴史」、「美術と建築」、「宗教」、「言語と文学」、「数学と天文学」、「科学と技術」、「博物館の収蔵品」というように20項目ほどに分けられており、最初の"General Works"ではいわゆる「総記」が扱われています。
特に"Archaeology: Excavations and Surveys"では遺構名がアルファベット順に並んでいますから、ポーター&モス(Porter and Moss (PM), 8 Vols.)の簡略版がここに挿入されているともみなされます。有用です。 膨大な文献リスト。
ただし、文献の選択眼には揺らぎが感じられ、今ひとつ中途半端な感じが否めません。重要な書籍をすべて網羅しようとした訳ではない、ということは承知されますけれども、もう一工夫があっても良かったのではないかと惜しまれます。

村上 2006


美術家の本。金儲けと美術とを直接結びつけたとして注目を浴び、また反発を覚えた向きもあったのではないかと想像しますが、しかしそのこと自体は、たぶん建築の分野ではあまり珍しいことではありません。建築というのは、基本的に人のお金で建物を造る作業ですから。
そこが個人的には面白いところです。

村上隆
「芸術起業論」
(幻冬舎、2006年)
247 p.

芸大の美術学部日本画科を出て、博士課程修了という経歴を持ちます。
日本画の世界は江戸時代からの流れを未だに脈々と汲んでおり、たとえば美術年鑑を見たことのある人ならば、そこに系統図が載っていたりしたのを御存知かもしれません。
淋派や狩野派という言葉は、まだ生きています。先生の先生の先生…というように遡ると、江戸時代まで行くということです。

長く続く伝統の良さもあるのですが、一方でこれを束縛と感じる学生も、もちろんいるかと思います。昔、芸大卒制展と東京五美大卒業制作展が合同で上野の東京都美術館にて開催されていました。芸大、武蔵美、多摩美、女子美、造形大、日芸、各大学の作品を見比べることができましたが、当時は芸大日本画科の人たち、自由に出品ができなかったのでは。

記されている内容はしかし、ブルーノ・ラトゥール「科学が作られているとき:人類学的考察」(1987年)ときわめて近い部分があるかもしれないと思わせます。そう言えば、ラトゥールの本に繰り返し出てくるヤヌスのふたつの顔と、この本の装丁はそっくりです。
心を打つものを制作すれば、それは自然に注目されるようになるという考え方を真っ向から否定していますが、これは、学問において真実を発表すれば必ず広く認められるという大きな誤謬を突くラトゥールの考え方と酷似しています。

起業という言葉に鋭く反応するよりも、ここでは現在という時代における回路の積極的な恢復がめざされているのだと考えた方が分かりやすいと思われます。「ほんとうのこと」が今日では深く疑われており、それに対する過激な、また現実的な処方箋が提示されているのだということです。
本人がそれを実践しているのだから、説得力がある。

著者が芸大に提出した博士論文が「意味の無意味の意味」を巡る考察、というのも非常に興味深い。概念とメタ概念とを分ける考え方。
時代の空隙を見定める作業を続けている人なのだと言うことが、この題名だけでも伝わってきます。頭の回転が速い人なのだなと言うことも、同時に分かる題名の付け方です。

「です・ます」調で書かれているので、非常に読みやすい。海洋堂のプロ集団に認められていく経緯も面白いけれども、終盤のマチスとピカソとの対比がとても示唆的です。ウォーホールのやり方は分かる、という言い方にも興味が惹かれます。

Davies and Gardiner 1936


古代エジプトの絵画に関して網羅を図った代表的な著作で、第1巻と第2巻は高さが60cm以上もある大判の書籍。それぞれ50枚以上のきれいな図版を収めています。これもまたルーズリーフ形式で、各図版をバラバラにして見ることができます。全部で104枚の画集。第3巻は文章にて解説。
ニーナ・デーヴィスはエジプト学者の奥さんで、旦那と一緒にエジプトへ行くようになってから壁画の模写の仕事を覚え、有名な模写担当となりました。共同執筆者の相方は、優れた文字読みの研究者。

Nina M. Davies and Alan H. Gardiner,
Ancient Egyptian Paintings, 3 vols.
(The University of Chicago Press, Chicago, 1936)

Vol. I: I-LII Plates.
Vol. II: LIII-CIV plates.
Vol. III: Descriptive Text. xlviii, 209 p.

フランス語版も出ており、

Nina M. Davies, avec la collaboration de Alan H. Gardiner,
préface et adaptation de Albert Champdor,
La peinture égyptienne, 5 tomes.
Art et Archéologie
(Albert Guillot, Paris, 1953-1954)

はしかし、本の大きさも半分ぐらいに減じられているし、各々の巻に10枚ずつの図しか収めていません。
この2人による刊行物は他にもあって、ツタンカーメンに関するものでは

Nina M. Davies,
with explanatory text by Alan H. Gardiner,
Tutankhamun's Painted Box
(Oxford University Press for the Griffith Institute, Oxford, 1962)
22 p., 5 looseleaves.

を挙げることができ、これは長さ62cmほどの薄い木箱に入っている本。エジプト学に関する刊行物の中でも、こうした体裁はとても珍しい。
テーベの墓、アメンエムハト(TT82)についての本も彼らによるものです。夫やガーディナーたちに支えられて出版されていることが明瞭。

Nina de Garis Davies and Alan H. Gardiner,
The Tomb of Amenemhet (No. 82).
The Theban Tombs Series: Edited by Norman de Garis Davies and Alan H. Gardiner.
First and Introductory Memoir
(Egypt Exploration Fund, London, 1915)
vii, 132 p., XLVI plates.

彼女は単独で、テーベの墓の壁画についての抜粋も出しています。

Nina de Garis Davies,
Private Tombs at Thebes IV:
Scenes from Some Theban Tombs (Nos. 38, 66, 162, with excerpts from 81)
(Griffith Institute, Oxford, 1963)
xi, XXIV plates.

「エジプトの絵画」という、薄くて小さな本も1954年に執筆していますが、これはもう顧みられることが極めて少ない刊行物。

2009年12月23日水曜日

Jéquier 1911


新王国時代のテーベにおける私人墓の天井画を集めた画集。フリーズ文様も扱っています。
高さが40cmほどの本で、カラー図版を印刷したルーズリーフ形式をとり、バラバラにして見比べることができます。
古くはオーウェン・ジョーンズによる名高い「装飾の文法」(Owen Jones, The Grammar of Ornament. Messrs Day and Son, London, 1856)でも、古代エジプトの天井画とおぼしき文様がカラーで見られますが、ここではもう少し詳しく紹介がなされているのが特色。
お墓の天井画を集めようとしている本というのはなかなかなくて、この他にはElke Roik, Das altägyptische Wohnhaus und seine Darstellung im Flachbild, 2 Bände(Peter Lang, Frankfurt am Main, 1988)などがあるのみですけれども、Roikのこの本には残念ながらカラー図版が掲載されていません。

Gustave Jéquier,
L'art décoratif dans l'antiquité décoration égyptienne:
Plafonds et frises végétales du Nouvel Empire thébain (1400 à 1000 avant J.-C.)

(Librairie centrale d'art et architecture, Paris, 1911)
16 p., XL planches.

G. ジェキエと言えば、マスタバ・ファラオンやペピ2世の葬祭建築を扱った報告書が知られています。建築と装飾に関する資料の収集を心がけた学徒としても有名で、以下の3冊による写真集は50cmを超える高さを有し、20世紀の中葉には良く参照されました。
これもまたルーズリーフ形式で、研究者の便宜を図っていることが分かります。ただ図版はモノクロ。最近ではカラー図版を豊富に載せている本が多数出版されているので、古写真を集めた本として逆に価値が高まっているかもしれません。

Gustave Jéquier,
L'architecture et la décoration dans l'ancienne Égypte (3 tomes)
(Albert Moranc, Paris, 1920-1924).

Les temples memphites et thébains des origines a la XVIIIe dynastie
(1920)
v, 16 p., 80 planches.

Les temples ramessides et saïtes de la XIXe a la XXXe dynastie
(1922)
v, 11 p., 80 planches.

Les temples ptolémaïques et romains
(1924)
iii, 10 p., 80 planches.

主著はおそらく、以下の書。
日本建築史でいうならば、天沼俊一博士を彷彿とさせるエジプト学者でした。

Gustave Jéquier,
Manuel d'archéologie égyptienne:
Les éléments de l'architecture

(Picard, Paris, 1924)
xiv, 401 p.

2009年12月22日火曜日

Frankfort (ed.) 1929


フランクフォートによるアマルナの壁画集。王宮だけではなく、住居の壁画も掲載しています。
F. G. ニュートンを追悼した刊行物。模写を担当したニュートンのカラー作品の他、デーヴィス夫妻によるものも載っています。
現在では入手の困難な書籍のひとつ。もし今、市場に出たとしても、おそらく10万円ほどは覚悟しなければなりません。

Henri Frankfort (ed.),
with contributions by N. de Garis Davies, H. Frankfort, S. R. K. Glanville, T. Whittemore,
plates in colour by the late Francis G. Newton, Nina de G. Davies, N. de Garis Davies,
The Mural Painting of El-'Amarneh.
F. G. Newton Memorial Volume
(Egypt Exploration Society, London, 1929)
xi, 74 p. XXI plates.

Contents:

Francis Giesler Newton. A biographical note by Thomas Whittemore (vii)
Note (ix)
List of Plates (xi)
I. Francis Giesler Newton (Frontispiece)
II. "Green Room," East Wall
III. The Doves (Detail from Plate II). In colour
IV. "Green Room," West Wall
V. Pigeons and Shrike (Detail from Plate IV). In colour
VI. Kingfisher (Detail from Plate IV). In colour
VII. Three fragments of border designs: A and C, Details from Plate II; B, From east half of south wall of North-eastern Court. In colour
VIII. Kingfisher and Dove (Details from Plates II and IV)
IX. Shrike (Detail from Plate II); Vine-leaves and Olive (unplaced fragments). In colour
X. Geese and Cranes, from West Rooms of North-eastern Court of Northern Palace
XI. Goose (Detail from Plate X). In colour
XII. Various Fragments from the Northern Palace
XIII. Paintings from the Palace of Amenhotep III near Thebes
XIV. Plan of the Northern Palace
XV. Detail of flowers and fruit in Fayence and Wall-paintings
XVI. Garland designs on Mummy Cases
XVII. Ducks from House V.37.1. In colour
XVIII. Mural Designs from Houses
A. A Garland Fragment, House V.37.1
B. Frieze, Official Residence of Pnehsy
C. Garland, House R.44.2
XIX. Garland and Ducks, House V.37.1. In colour
XX. Garland and Ducks, House of Ra'nûfer
XXI. False Window Frieze, House V.37.1

Chapter I. The Affinities of the Mural Paintings of El-'Amarneh, by H. Frankfort (p. 1)
Chapter II. The Decoration of the Houses, by S. R. K. Glanville (p. 31)
Chapter III. The Paintings of the Northern Palace, by N. de Garis Davies (p. 58)

Index (p. 73)

50cmに迫る高さの本で、大判。
「グリーン・ルーム」という名で知られている部屋の壁画の詳細を見ることができます。
アマルナ型住居の彩色に関しても、この本を見ることが必要。第2章にその解説があります。関連書としてはまず、Wheatherhead 2007が重要で、この他にKemp and Weatherhead 2000Weatherhead and Kemp 2007もあります。

最後に掲げられている「疑似窓」の図版は資料として貴重。実際には外光を取り入れない、室内から見上げた時に窓のかたちに見えるように造られたニセの窓。扉だけではなく、部屋の対称位置にまがい物の窓も造られたようです。
ドイツ隊による報告書でも、カラー図版による巻頭の復原図の中で、このニセの窓の存在を確認することができます。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft (WVDOG) 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, 7 site plans, 112 plans.

とっくのとうに亡くなっているボルヒャルトの名前が著者として出されているものとしては最新刊です。アマルナ型住居に関する、もっとも詳しい図面集。

2009年12月21日月曜日

Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)


"CG"は一般にコンピュータ・グラフィックスを指しますが、Catalogue Generalの略称、つまり博物館に収蔵されている遺物の目録を意味する場合が時としてあります。特にエジプト学において、"CGC"とはカイロ・エジプト博物館から出ている収蔵遺物カタログを指し、これは100年以上も前からすでに数十冊出ていますけれども、今もなお刊行が継続している膨大なシリーズ。しかし既刊分をすべて揃えている研究機関というのは、日本では皆無かもしれない。
そのうちの、オベリスクを扱ったもの。

Charles Kuentz,
Obélisques.
Catalogue Général des antiquités égyptiennes du musée du Caire (CGC), nos. 1308-1315 et 17001-17036
(Institut Francais d'Archéologie Orientale, Le Caire, 1932)
viii, 81 p., 16 planches.

博物館に収めることのできる程度のものの報告ですから、あんまり大きいオベリスクは扱われていません。報告は丁寧で、本来は各辺が等しくなるように造られるべきだったんでしょうが、実際はかなりの誤差があり、ここでは各辺の実測値が挙げられています。勾配も記されていますけれども、片側だけを測った値で、エンゲルバッハの考え方はまったく反映されていない点が興味を惹かれるところです。

CGCのうち、古いもののいくつかは今日、ウェブで見ることができます。もう入手することが困難なものも多く、古本屋ではかなりの高額で扱われていますので、こういう基本的な図書が簡単に見られるというのは非常にありがたい。下記のCGCリストはEEFの有志によって纏められているもの。

http://www.egyptologyforum.org/EEFCG.html

このCGCとは別に、20世紀の半ばに、"CAA"という出版企画も立てられました。このシリーズも、すでに数十冊の刊行がなされています。

Corpus Antiquitatum Aegyptiacarum (CAA)

というのは、世界の博物館が収蔵しているエジプトの遺物を、一定の記述項目の定めに従って順次出版しようという壮大な試みで、考えは素晴らしい。特色は各ページを綴じず、ばらばらにして読むことができることで、ルーズリーフ形式を採用しています。各遺物を見比べられるという大きな利点がここにはあります。
ただ、出版の進捗状況は思わしくなく、多くの人が見たいと考えているはずの新王国時代のレリーフや壁画片などはなかなか刊行されず、後回しにされている状況です。

もっと問題なのは、このシリーズを図書館が購入した場合、ページがなくなることを恐れて製本してしまう場合が多いことで、こうなるとルーズリーフで出版される意味がありません。不特定多数の人に公開する際に生じる盗難や攪乱などの問題の回避のため、不便な方法が選択されるという点が、ここでもうかがわれます。

2009年12月20日日曜日

Arnold 1999


古代エジプトの末期王朝からグレコ・ローマン時代までの建築を詳しく扱う本。ほとんど類書がありません。アレキサンダー・バダウィが古代エジプト建築史について、それぞれ古王国時代、中王国時代、新王国時代を述べた3巻本を書いており(Badawy 1954-1968)、末期王朝以降を扱う第4冊目の刊行が予告されていましたが、結局は出版されませんでした。
30年以上経って、それが実現されたことになります。

Dieter Arnold,
Temples of the Pharaohs
(Oxford University Press, New York, 1999)
viii, 373 p.

王別によって建物が豊富な図版とともに順次紹介されており、たとえば流されてしまって今は失われた、ヤシ柱の列柱室を前面に有するカウ・エル=ケビール(アンタエオポリス)の神殿、あるいはアルマントの誕生殿などは、コンピュータ・グラフィックスによって復原されているという具合。
計画寸法の話、木造屋根の復原考察、柱頭の装飾モティーフの配列など、怠りなく説明されています。

近年はHölblなどが出版を重ねて、グレコ・ローマン時代に関する文献も増えつつあります。

Günther Hölbl,
Altägypten im römischen Reich:
Der römische Pharao und seine Tempel.


Band I:
Römische Politik und altägyptische Ideologie von Augustus bis Diocletian, Tempelbau in Oberägypten
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2000)
v, 122 p.

Band II:
Die Tempel des römischen Nubien
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2004)
iv, 160 p.

Band III:
Heiligtümer und religiöses Leben in den ägyptischen Wüsten und Oasten
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2005)
116 p.

なども有用。
この人は1994年に"Geschichte des Ptolemäerreiches"を書いており、英訳された本、

Günther Hölbl,
translated by Tina Saavedra,
A History of the Ptolemaic Empire
(Routledge, London, 2001)
xxxvi, 373 p., 2 maps.

なども出しています。

2009年12月19日土曜日

Arnold 1991


古代エジプトの建築技術に関する、最も権威ある書。出版されてから20年ほど経ちますが、内容はさほど古びていません。

Dieter Arnold,
Building in Egypt:
Pharaonic Stone Masonry

(Oxford University Press, New York, 1991)
ix, 316 p.

序文を読むと、いろいろと考えていることが分かります。古代エジプトにおいては巨石文化が見当たらず、いきなり精巧な石造を始めたような印象があるという指摘がまずひとつ。この点は重要です。
また、他地域における建造技術についての出版物に注意を払っていることがうかがわれます。古代エジプト建築に関する本なのに、註にはミノア建築やインカ建築、また中世の建築の書籍にも触れられています。時代や地域に関わらず、石造建築の共通性を見ようとしている姿勢が示唆されています。
ただ本文においては、そうした意識はきわめて希薄。欲張りな願いですけれども、本当はクールトンの本などに言及が欲しかったところ。

中王国時代の建築は遺構例が限られることもあって、情報が比較的少ないのですが、この時代の専門家であるだけに、独壇場と言った感じ。これほど中王国時代の建築に詳しい人は今、世界にいません。
でもそれが逆に、他の時代についての記述との落差を生んでいる部分があって、この人が例えばフランス人と組んで本を出したりしたら、完璧なのにと思ったりします。フランス隊はエジプトと共同でカルナック神殿調査を永らく担当しており、その情報量は膨大です。
この本に対し、フランス側の威信をかけて出された本が

Jean-Claude Goyon, Jean-Claude Golvin, Claire Simon-Boidot, Gilles Martinet,
La construction pharaonique du Moyen Empire à l'époque gréco-romaine:
Contexte et principes technologiques
(Picard, Paris, 2004)
456 p.

で、比較すると面白い。

アーノルドのこの本の書評はいくつもすでに出ていて、それぞれベタ褒めです。しかし問題点はいくつかあるように思われます。そのひとつは建築計画について述べている章で、あまり深く立ち入って考察しているとは思われない。反論を試みようとするならば、ここら辺が問題になるかと感じられます。

註は充実しており、この本1冊を丹念に見るならば、ほとんど網羅されているので非常に有用です。ここ20年の情報は、自分で補わなくてはなりませんが。

2009年12月18日金曜日

Badawy 1965


「古代エジプト建築のデザイン」というタイトルが付けられた書。著者は古代エジプトの建築研究の分野では有名な人で、先王朝時代・古王国時代から新王国時代までにわたる、三巻に及ぶ通史を書いています(Badawy 1954-1968)。本格的な古代エジプト建築の通史を書いた、最後の研究者。
予定されていた四巻目、これは末期時代以降の建築が扱われる予定でしたが、結局は刊行されませんでした。この仕事はArnold 1999にて実現されます。
晩年に下記の本を出したのですけれども、出版から40年以上が経ち、現在はその評価を巡って意見が分かれるところです。

Alexander Badawy,
Ancient Egyptian Architectural Design:
A Study of the Harmonic System
.
University of California Publications, Near Eastern Studies Volume 4
(University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1965)
xii, 195 p., 1 sheet of "harmonic triangle".

黄緑色のペーパーバックで、前半は副題にも明示されている「ハーモニック・システム」を論理的に考証し、後半の図面集にて検討と分析をおこなうというもの。
「ハーモニック・システム」とは何を意味するかと言うことですが、建築を建てる前にはその平面を地面に描く作業が必要となり、その時にはどのようにして正確に直角を定めることができたかが問題となります。古代から用いられてきたのは、各辺3:4:5の長さに縄で直角三角形を構成するという作図方法で、ここまでは疑念がないと最近まで思われてきました。
これに疑問を呈したのがRobson and Stedall (eds.) 2009に論考を書いているA. Imhausen です。

この直角三角形を2つ並べ、8:5という比例を重視して、黄金比である1:1.618との近似を指摘する当たりから、だんだんと見解が分かれることになります。19世紀にはこうした当て嵌めが流行しました。
けれども、精度をより重視した姿勢、また実際の建造工程を含んだ考察方法が今では主流になっており、平面図の上で幾何学的に作図した線が合致するというような簡単な説明で説得力を得ることはできなくなっています。

本の後半に収められている多数の建築の平面分析を示す図には、でもさまざまな教唆が秘められているように思われます。
まず第一に古代エジプト建築の主要な建築図面が揃っていない今日、未だこうした図面資料の類が貴重となります。図面の縮尺を当時の尺度であるキュービットをもとにしている点も、建築計画に関して知識があった人ならではの工夫です。

透明の小さなシートに8:5の直角三角形を印刷し、それを巻末のポケットに入れています。建築の図面に直接当てて確認してください、という趣向。
ここには不特定多数の人間に、古代エジプト建築にできるだけ触れて欲しいという願いが込められていると見るべきであって、彼の元から直接には傑出した弟子が特に輩出することのなかったことを考え合わせると、また別の感慨を感じることになります。

アメリカのボルティモアにあるジョンズ・ホプキンズ大学には「アレクサンダー・バダウィ教授職」という、彼の名を冠した地位があり、これは彼の業績を記念して創設されています。バダウィは後年、アメリカに渡って研究と教育を続けました。
現在はベッツィ・ブライアン教授(Bryan 1993を参照)がその役職に就任。

2009年12月17日木曜日

Raven 2003


エジプトのトゥーム・チャペル(神殿型貴族墓)の計画方法を述べている論考で、メンフィス地域の平地に建つ新王国時代の貴族墓の平面図を分析しています。エジプト学者に対するA. Badawyの本の影響力が知られる論文。
バダウィはAncient Egyptian Architectural Design: A Study of the Harmonic System (Universty of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1965)という本を書いていて、近年はこの考え方に対する反論が出ている状況です。バダウィの他の本については、Badawy 1954-1968などを参照。彼はArchitecture in Ancient Egypt and the Near East (MIT Press, Cambridge, 1966)なども出しています。


Maarten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002) (2003),
pp. 53-69.

1. Introduction
2. The tomb of Maya and Meryt
2.1. Reconstruction of the modular grid
2.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
2.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
3. The tomb of Horemheb
3.1. Reconstruction of the modular grid
3.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
3.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
4. The tomb of Pay and Raia
4.1. Reconstruction of the modular grid
4.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
4.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
5. The tomb of Tia and Tia
5.1. Reconstruction of the modular grid
5.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
5.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
6. Conclusions

4つの墓を対象としており、例えばティアの墓は平行四辺形に歪んでいるのですが、これを長方形に直して計画格子線を推定している点など、問題の在処を良く理解して考察を進めています。基本的に外壁の内々寸法をキュービット尺の完数で押さえているという計画方法を、うまく導き出しているところが眼目。他方で、マヤの墓では第一中庭が外々寸法で計画されたと考える点を併記しており、面白い。

5:8の比例が本当に用いられたかは、今後、検討されるべき問題。本当は実測値を逐一示して、キュービットの完数値とどれだけの誤差があるのかを示す方が望ましいのですけれども、本文中に主な計寸の値を出すだけで、他の研究者が詳しく確認できない状態にあるところは残念です。
しかし、歪んで見える平面も、正しく計画格子線の上に載るようだということを説得力を持って主張しており、これは大きな成果。

最後の註には、早稲田大学の小岩正樹さんによる論考が引用されています。ダハシュールにおけるパシェドゥの墓の平面分析が参照されているわけで、この方面の研究の進展が期待されます。

2009年12月16日水曜日

Schulz 1911 (reprint 1974)


イタリアのラヴェンナに建つテオドリクス霊廟は世界遺産にも含まれていますが、この建物に関する論考。
直径が10mちょっとの円筒形をした2階建てで、装飾も控えめな小さい建物ですが、これがなぜ、石造建築の技術を扱う専門書で必ずと言っていいほど登場するのかという理由はまず、ひとつの巨大な石板から刳り抜かれて造られたドーム屋根が載っているからで、度肝を抜く造り方をおこなっています。
1階のアーチ迫り石には、目地にずれ止めのためのわずかな段差が設けられ、これも大きな特徴。2階の入口上部に見られるフラット・アーチにも同じような工夫が観察されます。この2階の入口は、日本建築で言うところの「幣軸構え」を石造でおこなっており、外側から入口を見るならば垂直材と上部の水平架構材との接合で45度の斜めの目地を呈していますけれども、内側から見れば水平の目地がとられ、垂直材の上に加工材が載るかたち。
「幣軸構え」についてはCiNiiにて検索すると、平山育男氏による論文が多数ヒットするはずです。ほとんど全部が無償でダウンロードできます。

こうした石造の「幣軸構え」は古代ローマ時代の遺構でも見られ、リビアにおけるレプティス・マグナの広場やサブラタの劇場、トルコのアフロディシアスの劇場などでも確認されます。

Bruno Schulz,
Das Grabmal des Theoderich zu Ravenna und seine Stellung in der Architekturgeschichte.
Darstellungen früh- und vorgeschichtlicher Kultur-, Kunst- und Völkerentwicklung, Heft 3
(Curt Kabitzsch (A. Stuber's Verlag), Würzburg, 1911. Reprint, Mannus Verlag, Bonn, 1974)
(ii), 34 p., mit 34 Textabbildungen und einem Titelbild.

ヘレニズム期の霊廟建築などを参照しつつ、2階部分の柱廊について考察を進め、壁体に残存する痕跡を詳細に調べて復原図を作成、これを巻頭に掲載しています。奇妙で例外的な建物ですから、復元考察は大変です。他の研究者たちがすでに復原図を提示しているので、これを乗り越える試みがなされています。

1階の天井で見られる交差ヴォールトの組み方も面白いのですが、ここでは詳しく触れません。
残念なことに鳩が出入りする遺跡で、見終わった観光客は、「暗くて汚れているし、とても臭い」という意見を口にしていました。建築を見た感想としては最悪に属するもので、残念。
しかし石造建築の長い歴史の中においては名状しがたい異彩を放っている作品で、一見の価値があるように思います。

2009年12月15日火曜日

Urk. IV (Urkunden IV) 1906-1961


古代エジプトにおいて「ルネサンス時代」とも「バロック時代」とも比される、最も華やかな時期であった新王国時代の第18王朝の歴史的な史料を集成した重要な書。Kurt Setheがヒエログリフを全部手書きで写した本を出した後に、Wolfgang Helckがこの大仕事を引き継いで補完しました。

Urkunden IVは全部で22章からなり、Setheは1-16章を、またHelckは17-22章を担当。Helckは訳文までつけるという偉業をなし遂げました。
Setheのものだけを急いで挙げるならば、

Kurt Sethe,
Urkunden der 18. Dynastie.
Historische-biographische Urkunden (Akademie-Verlag, Berlin), 4 Bände
Band 1, vi, 1-314 p.
Band 2, vi, 315-624 p.
Band 3, vi, 625-936 p.
Band 4, vi, 937-1226 p.

と、1000ページ以上にわたる、手書きの本です。驚くべき書物。実際に見てその仕事量を確認すべき。
第18王朝の史料を集めたものが、どうして"IV"、つまり4番目となっているのかは説明が必要です。
もともとこれは、19世紀生まれの碩学Georg Steindorffの編纂による、ドイツで企てられた壮大な

"Urkunden des ägyptischen Altertums"

と呼ばれるシリーズのうちのひとつで、古代エジプト時代の歴史史料を集成しようとした目論み。
英語版のウィキペディアなどでは、8巻からなる構想が紹介されているはずです。ドイツ語版のウィキペディアはもっと詳しい。
"Urk. IV"、と専門家によって略されるこの巻については、まずは英語で書かれている

http://en.wikipedia.org/wiki/Urkunden_der_18._Dynastie

を参照のこと。
Helckによる分冊の英訳について、この英語版のウィキペディアでは、Barbara Cummingが3冊を出した後に、訳者が交代してBenedict G. Daviesが後続巻の3冊を担当し、10年以上前に最後の22章までが出版済みであることを記していません。

この出版物は非常に有名な書籍なので、多くのページで紹介されています。
Michael Tilgnerは、

http://www.egyptologyforum.org/EEFUrk.html

にてダウンロードの可能なリンクを張った最新版のページを作成しており、注目されます。今日、ほとんどの巻がダウンロードできることがこれで了解されます。

リンク先に注目。シカゴ大学のオリエント研究所(OIC: Oriental Institute of Chicago)に多く繋がっています。
この大学が開設している資料集、"ETANA"を使いこなすことはエジプト学のみならず、西アジア研究を進める上でもたいへん重要です。圧倒的な情報を収めたアーカイヴ。改訂の情報は主に"EEF"で配信されます。

Urk. IVの索引が出たのは、何と1988年。

Monika Hasitzka und Helmut Satzinger (Bearbeitet von) / Adelheid Burkhardt,
Urkunden der 18. Dynastie: Indices zu Heften 1-22 / Corrigenda zu den Heften 5-16
(Akademie-Verlag, Berlin, 1988)
119 p.

とても大がかりな仕事です。ですから"1906-1961"という表題における後者の年号は、あくまでもHelckがHeft 22を出版した年で、このシリーズが完結したことを意味していません。
先日、福岡キャンパスの図書館で、久しぶりに手に取って思い出した書。どうかこれらを使いこなす人たちがもっと出てきますように。

Adam 2007 (5e éd.)


古代ローマ時代の建造技術について、詳細をまとめた専門書。もともとはフランス語で書かれ、現在は第5版を重ねており、一方、英訳されたものは第2版をもとに出版されています。
700点以上の図版を収めており、古代ローマ建築の技術に関する基本図書という位置づけ。Lugli 1957Crema 1959などが類書として知られていますが、現在では双方とも入手が難しく、特に後者はほとんど市場に出ることがありません。

Jean-Pierre Adam,
La construction romaine:
Matériaux et techniques.

Grands Manuels Picard
(Picard, Paris, 2007, 5e édition. 1re édition: 1984. 2e édition: 1989. 3e édition: 1995. 4e édition: 2005)
368 p.

[English ed.:
Jean-Pierre Adam,
translated by Anthony Mathews,
Roman Building: Materials & Techniques
(B. T. Batsford, London, 1994)
360 p.]

Table des matières:

Introduction (p. 7)
1. La topographie (p. 9)
2. Les matériaux de construction (p. 23)
3. Le grand appareil (p. 111)
4. Les structures mixtes (p. 129)
5. Le petit appareil (p. 137)
6. Les arcs, les voûtes (p. 173)
7. La charpente (p. 213)
8. Les revêtements (p. 235)
9. Les sols (p. 251)
10. Les programmes techniques (p. 257)
11. L'architecture domestique et artisanale (p. 317)

Lexique illustré de modénature courante (p. 355)
Bibliographie (p. 360)
Index (p. 367)

建物の造り方といっても、計画方法については述べておらず、このトピックについてはWilson Jones 2000に委ねられることになります。石造だけでなく、混構造や煉瓦、また木造架構や瓦などに関しても概要を記述。ローマ時代の木工についてはUlrich 2007が唯一、まとまった情報を伝えており、重要。
なお、ローマ建築全般については、同じピカール社から

Pierre Gros,
L'architecture romaine.
Vol. I: Les monuments public
(Picard, Paris, 1996)
Vol. II: Maisons, villas, palais et tombeaux
(Picard, Paris, 1999)

が出ており、第2版も出されています。

Adamは古代ギリシア建築に関する本を著している他、Christiane Zieglerとの共著でピラミッドの本も出版しており、時代・地域を横断して古代の建造技術を語ることができる数少ない研究者のひとり。

2009年12月14日月曜日

Roueche and Smith (eds.) 1996


トルコの山中に位置する古代ローマ遺跡アフロディシアスの仮報告書の3冊目。広大な敷地に数多くの施設を有する都市遺構で、外周壁はおよそ1キロメートル四方に及びます。

Charlotte Roueche and R. R. R. Smith (eds.),
Aphrodisias Papers 3:
The setting and quarries, mythological and other sculptural decoration, architectural development, Portico of Tiberius, and Tetrapyron.
Including the papers given at the Fourth International Aphrodisias Colloquium, held at King's College, London on 14 March, 1992.
Journal of Roman Archaeology (JRA), Supplementary Series no. 20
(Journal of Roman Archaeology, Ann Arbor, 1996)
224 p.

本の全体は3つに分けられており、

Part I: Recent Work at Aphrodisias
Part II: The Setting and Development of the City
Part III: Aspects of Decoration

遺跡を都市として見ていることが、この目次でもはっきり打ち出されています。副題が示すように、さまざまな視点からの考察と報告がおこなわれているのが了解されます。これまで主流であった個々の建築、あるいは彫刻作品の美術史的考察は二義的なものとして退かされ、代わりに都市の成長や諸外国との交易、特に小アジア地域におけるこの遺跡の位置づけなどが多角的に検討されているのが特色。

石切場の調査報告が寄せられているのは興味深い。執筆者はPeter Rockwellで、この人は彫刻家でもあり、石造建築技術に関わる研究者の間では知られた人。石を実際に扱う人なので、独自の観点が提示されているのが見どころです。
技法が中心ですけれども、他に石材の搬出のルートも分析しています。石切場を4つのタイプに分類しているのは注目され、通常は露天掘りとトンネル掘り、つまりオープン・タイプとギャラリー・タイプに2分されるだけなのが普通ですが、検討してみる価値のある記述です。

劇場について発表をおこなっているTheodorescuの論文も建築の視点からは重要(pp. 127-148)。この論文はフランス語で書かれていますが、最後の2編の論文はドイツ語で執筆されており、このように3ヶ国語ないし4ヶ国語で一冊の本が書かれると言うことは決して珍しくありません。日本人にとっては辛いところです。ローマの遺跡だったら、さらにラテン語やギリシア語なども出てきます。
2008年には続巻の第4号が出ていますけれども、未見。

アメリカから出版されているJRAは古代ローマを扱う雑誌で、未だ若い雑誌ながら、重要な刊行物のひとつ。
多くのSupplementary Seriesを出版しています。

Rockwell 1993


古代エジプトや古典古代時代の石材の加工に関して詳細に述べたもの。著者は彫刻家で、実際に石を用いた彫刻作品を制作しており、彼自身のウェブサイトでそのいくつかを見ることもできます。
エジプトからギリシア、そしてローマ時代までにわたる長い歴史を扱う石の技法書は、きわめて稀有。

Peter Rockwell,
The Art of Stoneworking:
A Reference Guide

(Cambridge University Press, Cambridge, 1993)
x, 319 p.

Contents:

List of photographs (viii)
Acknowledgments (ix)

1 Introduction (p. 1)
2 Principles of stoneworking (p. 8)
3 Stone (p. 15)
4 Tools (p. 31)
5 Tool drawings (p. 55)
6 Methods (p. 69)
7 Architectural process (p. 89)
8 Sculptural process (p. 107)
9 Design and process (p. 127)
10 The project (p. 142)
11 Quarrying (p. 156)
12 Moving, transport and lifting (p. 166)
13 Workshop organization (p. 178)
14 Carving without quarrying and the reuse of stone (p. 187)
15 The history of stoneworking technology (p. 198)
16 Documentation I (p. 207)
17 Documentation II (p. 216)
18 Documentation of major monuments (p. 226)
19 Computer documentation (p. 243)
20 Conclusion (p. 250)

Photographs (p. 254)
Tables (p. 292)
References (p. 299)
Index (p. 309)

彫刻作品の違いに触れているのはもちろんのこと、建材としての石についても触れており、石切場の話、あるいは石材の運搬方法にも言及しています。実際に石を扱って作業をおこなう人ならではの視点が随所にうかがわれ、面白い。石を持ち上げる方法が時代とともに移り変わることを、明瞭な施工上の理由とともに記しているのは特に注目されます。

この彫刻家はトルコのアフロディシアス遺跡における大理石の石切場調査の報告(Roueche and Smith (eds.) 1996)を書いていますし、ミケランジェロの技法に関しても論文を書いている、珍しい作家。
現在は絶版で入手困難の状態。再版が望まれます。記録方法に関するガイド、またコンピュータを使った資料化にも最後に触れており、有用な書。

2009年12月13日日曜日

Rabasa Diaz 2000 (Japanese ed. 2009)


古代と中世とでは石造建築の造り方が著しく異なり、中世以降の石切りの方法は立体截石術(ステレオトミー)と深く関わることが増えていきます。これは古代の組積方法から変化し、整形した石を積んでいく方法がとられるからで、曲面を交えた複雑な形状を有する屋根を持つ構築物を建てようとする場合には、特に立体幾何学の素養が必要でした。
平明に言うならば、正方形や長方形の平面の上に、いかにして石材を用いて丸屋根を築いてきたか、その歴史を解説している本です。このため、柱を立ててその上に水平の梁を架け渡す、より簡単な構法については述べられていません。
この本はとても珍しい研究書で、あとがきで示されているように、当該分野については日本語で読める唯一の本、ということになります。

エンリケ・ラバサ・ディアス著、入江由香訳、
「石による形と建設:中世石切術から一九世紀截石術まで」
(中央公論美術出版、2009年)
(vi), 318 p.

原著:
Enrique Rabasa Diaz,
Forma y construcción en piedra:
De la cantería medieval a la estereotomía del siglo XIX

(Ediciones Akal, Madrid, 2000)

西洋の中世以降において主流をなす宗教建築で、どのように石造の天井を架けたのか、その全般の変遷を追う偉業をおこなっており、めざましい労作。邦訳も大変であったことがしのばれます。
Fitchen 1961ももちろん出てきます。中世以降を対象としながらも、参考文献のページにはRockwell 1993も掲げられており、広く目配りがなされている点が知られます。

例えば冒頭の13ページの図3では、「ビザンティン様式による交差ヴォールトが生じるための回転」というキャプションとともに、天井の断面図と見上げ図の輪郭線とが示されていますけれども、これは正方形平面の上に架け渡された浅いライズを持つ交差ヴォールトの交点から、正方形の各辺までを覆う屋根の形状をどのように定めたかを問う説明図で、正方形平面における縦横2本の対称軸を手がかりとして円弧を連続させたことをあらわした表現。
こうやって文章で書くと、めちゃめちゃ複雑になります。

全体として図版が豊富で、素晴らしい。
ただし、立体的な形態の表示方法に見慣れていないと、いったい何の図であるかを理解するのに、しばらく時間がかかる場合が少なくないかもしれません。アクソノメトリックによる見上げ図がしばしば用いられており、これはA. ショワジーによる著作(Choisy 1899)以降、建築の本では馴染みのある描き方なのですが、通常はあまり見られない図法ですので、初心者にとっては、特にライン・ドローイングで示される場合に奥行きが反転して見えたりするかと思われます。

個人的には、206ページ以降の「平坦なヴォールト」(つまりフラットなヴォールト)がきわめて面白かった。まるで立体パズルです。ステレオトミーが充分に成熟し、また建築構造力学が発達して初めて実現が可能であった工夫。
「平坦なアーチ」(フラット・アーチ)とか「平坦なヴォールト」(フラット・ヴォールト)という言い方に矛盾を感じる向きもあるかと思いますけれども、それはアーチやヴォールトといったものを、単にかたちの問題であると誤解するからであって、本当は違います。これは建築構造と密接に関わる用語。この点が正確に説明されない場合もあるので、注意が必要。
アーチを直線に沿って平行移動させるとヴォールトになり、またアーチの頂点を通る垂直線を軸として回転させるとドームになるというかたちについての解説は、意匠の説明としては分かりやすい反面、誤解を招きやすく、平らなアーチやヴォールトの存在を埒外に置くことになりかねません。

巻末に用語解説がつきますが、併記されているのはスペイン語です。124~125ページには興味深い図版がいくつも並んでいますが、充分な説明が文中にてなされていない点は残念。
ここに出てくる「カスタネット」は、英語圏では"Lewis"として知られている装置で、スペインでこれを「カスタネット」と呼ぶところにこの国の文化を感じます。架構に関する建築技術の駆使の歴史を、改めて感じさせる貴重な厚い一冊。
Sakarovitch 1998も類書として挙げておかなければなりません。ともにステレオトミーに関する代表的な書となります。

Choisy 1899 (Japanese ed. 2008)


オーギュスト・ショワジーの名著「建築史」が和訳されました。
原著が出版されたのは100年以上も前で、世界中の建築の歴史を記述しようとした意欲作として良く知られています。日本や中国の建築にも、また「新世界の建築」として、新たに情報が伝わってきたメキシコやペルーの建築にも触れられています。当時の知識が総動員された大著。
今はこういうのをひとりで書くことはとうてい無理です。分野が細分化されているからで、たぶん別の方策が求められるかと思います。

オーギュスト・ショワジー著、桐敷真次郎訳
「建築史」上・下巻
(中央公論美術出版、2008年)

原著は

Auguste Choisy,
Histoire de l'architecture, 2 vols.
(Paris, 1899)
Tome I: 642 pp.
Tome II: 800 pp.

2巻本のリプリントについては、おそらく今日、安く入手が可能。
刊行当時、斬新な図面表現とともに非常な評判を呼びました。これは柱や壁の根本のところで水平に切って、見上げた状態を立体的に描く方法で、特にゴシック建築の複雑な屋根の形状を説明する中ではこの図法が多用されています。

研究にも流行り廃りがあって、その事情を訳者が冒頭で長めに記しています。
建築史研究が美術史研究とどのように異なるのかが分かって、とても面白い。これは設計方法に関する分析において特に無視することのできない点で、幾何学的な分析を主流とする美術史学の方法では円周率πや黄金律φの計画用法が提唱されたりもしたのですけれども、今日では劣勢だと見ていいかと思われます。
古代ギリシア建築の設計方法についてはCoulton 1977 (Japanese ed. 1991)を、また古代ローマ建築の設計方法に関してはWilson Jones 2000を参照。

Coulton 1977 (Japanese ed. 1991)


古代ギリシア建築の碩学クールトンによる名著。
20世紀初頭まで、建築の計画方法の分析と言えば、平面図や立面図の上に補助線をたくさん描いて、正方形や円(円周率πとの関連の模索)、簡単な比例値の長方形、ファイ(φ:黄金分割比・黄金律。1:1.618)などとの整合を見つけ出すというのが多くの方法でした。
それをひっくり返したのがこの本です。建築の設計というのは、一般の人が思っているよりももっと大ざっぱな部分があって、完璧な美のかたちがもともとあるわけではなく、曖昧模糊とした発想からどんどん手直しを重ねていく試行錯誤があるんだ、という実際の建造方法を理論の前提にしています。
専門家による和訳も出ています。

J. J. Coulton,
Ancient Greek Architects at Work:
Problems of Structure and Design

(Cornell University Press, Ithaca, 1977)
196 p.

邦訳:
J. J. クールトン著、伊藤重剛
「古代ギリシアの建築家:設計と構造の技術」
(中央公論美術出版、1991年)
318 p.

古代エジプト建築研究は、まだこの水準まで行っていません。この書が今なお取り上げられるべきなのは、そこに問題があるからです。
建造の経験を充分に積んでいくと、立てる前から建築の建ち上がった際の上方における細かな部分の不具合が予想できるようになり、それを建造前の段階から調整できるようになります。
つまり、柱の上にある部材の間隔を均等に揃えるために、柱の位置を最初からずらして計画するということをおこなうわけで、これは日本建築でも見られる方法。
古代エジプト建築の面白いところは、造りながら修正をおこなう場合がある点で、これは膨大な数の労働者が使えたから初めて可能な方法でした。
極端な例では、造りかけのピラミッドの位置を設計変更でずらすという場合も見受けられます。現代でこういうことをやると、建築家は業界で命を失います。

参考文献リストは、古典文献と近代の研究者による文献とが分けてあります。古典古代を研究する文献学者は、こういうふうに大別するのが普通。ただそれが他領域の研究者にまで浸透していない傾向があります。

専門用語の解説も図入りで付されていますが、必要最小限にとどめられており、ちょっと分かりにくいかもしれない。
例えばグッタエは項目で短く説明されていますが、図版では具体的に示されておらず、迷うかも知れません。

Lepsius 1865 (English ed. 2000)


古代エジプトで使われた尺度について述べられた、きわめて重要な本。にも関わらず、本当は誰も詳しく読んでいなかったという奇妙な経緯があります。
初めての英語訳です。編者が最初に、「世界で初版が9冊だけ確認されている」と書いています。再版も出ていましたが、この英訳が出たおかげでレプシウスの考えが広く知られることになりました。

Richard Lepsius,
The Ancient Egyptian Cubit and its Subdivision 1865.
Including a Reprint of the Complete Original Text with Two Appendices and Five Half Scale Plates.
Translated by J. Degreef, with expanded bibliographical notes on the works cited by Lepsius and brief biographical notes on their authors.
Compiled by Bruce Friedman and Michael Tilgner.
Edited by Michael St. John.
(The Museum Bookshop Ltd., London, 2000)
67 p. + 67 p., 5 Tafeln, xx.

Original:
Richard Lepsius,
Die alt-aegyptische Elle und ihre Eintheilung.
Abhandlungen der philosophisch- historischen Klasse der königl. Akademie der Wissenschaften zu Berlin
(Königlichen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1865. Reprint, LTR-Verlag, Bad Honnef, 1982)
(ii), 63 p., 5 folded figures.

大科学者アイザック・ニュートンの名がここで見られるのは面白い(Newton 1737)。ナポレオンによる「エジプト誌」の文章編にたくさん書いているジョマールの論考にも言及しています。
200年以上にわたってエジプトの尺度が考え続けられ、今なお結論が出ていないことを伝える不思議な書。

1997年に出たマーク・レーナーの"Complete Pyramids"では、アイザック・ニュートンに言及していなかったはず。
2007年のジョン・ローマーによる"The Great Pyramid: Ancient Egypt Revisited"(Romer 2007)ではしかし、ニュートンの業績について触れられています。最近でもMDAIKの発掘調査報告でニュートンの果たした役割について見かけましたが、編者のM. セント・ジョンの功績を称えるべきだと思います。
この人はポルトガル在住で、エジプトの物差しに興味を持っている方。新王国時代の物差しについての薄い本を出版しています。

Michael St. John,
Three Cubits Compared
(Estoi, Portugal, 2000)
i, 39 p.

長さ52.5cmの王尺(ロイヤル・キュービット)の他に、エジプトでは長さ45cmの小キュービットも用いられていた、という記述はあちこちで見受けられますが、その根拠が実はあやふやであることが、このレプシウスを読むと良く分かります。「王尺は建物に、そして小キュービット尺は家具などに用いられた」などという巷の説を、そのまま信じるべきではありません。建築と美術史とでは見方が異なる点にも注意。
エジプトの尺度について述べている文章で、この本に触れていないものは皆無であると言っていいと思います。あらゆる論考がこの本に戻ってきています。
でもその内容は入り組んでおり、今後も詳しく討議されるべき。

2009年12月12日土曜日

La Loggia 2009


大英博物館の古代エジプト・スーダン部局が出している電子ジャーナル、BMSAESの最新号(第13号)には、2008年に開催された先王朝・初期王朝に関する国際会議の議録が掲載されています。無料で配信されている、不定期刊行の専門雑誌。

http://www.britishmuseum.org/research/online_journals/bmsaes/issue_13.aspx

この号には、同僚でもある早稲田大学の馬場匡浩さんによる論考も載っていて注目されるのですが、建築とはあんまし縁のない、ナカーダ2期の土器の製造についての論文でもあることだし、ここではちょっと飛ばして建物に関わる別の論文を紹介。

Angela La Loggia,
"Egyptian Engineering in the Early Dynastic Period:
The Sites of Saqqara and Helwan",
BMSAES 13 (2009), pp. 175-196.
http://www.britishmuseum.org/research/online_journals/bmsaes/issue_13/laloggia.aspx

「柱廊」という意味の名前を持っているこの人の論文については以前、BACE 19 (2008)にて触れたことがあります。題名にも明らかなように、古代エジプトの初期における建築技術に関して述べられており、特に石と木の天井が構造力学的に妥当な寸法を有していたかを考察。数式を並べる論考ではないので、読みやすい。
グラフにも工夫が凝らされていて、壁体の実際の高さと厚さ、また計算された強度との関係を一枚の中に表現しようとしています。一方、図6の、木の梁の撓みを示した曲線は、建築の人間だったらこういうふうには描かなかったはず。
計算が大ざっぱではないかという見方もあるかもしれませんが、でも結論としてはどちらにせよ、「現代から見ても建材の用い方が理にかなっている」、そういうことになるかと思います。5000年前の遺構に、現代の構造計算を当てはめようとする試みで、意欲は買うべきかと思われます。

Walter B. Emeryの素晴らしい図版が何枚か、転載されています。巨大な建物なのに、煉瓦の目地も全部描き入れ、なおかつ屋根を一部分取り除いて内部の構成を見せるという、カットアウトが施された詳細なアクソノメトリック・ドローイング。
出版されてから50年以上経つのに、未だ引用され続けている有名な図版で、こういう図が描けるかどうかは勝負のしどころ。

2009年12月11日金曜日

Robson and Stedall (eds.) 2009


「私たちは、この本が皆さんの期待したものとは違っていることを願っています」という、風変わりな書き出しから序文が始められています。数学史に関する分厚い最新刊で、東欧に研究拠点を移した安岡義文さんから教えてもらいました。

"Instead, this book explores the history of mathematics under a series of themes which raise new questions about what mathematics has been and what it has meant to practice it. The book is not descriptive or didactic but investigative, comprising a variety of innovative and imaginative approaches to history."
(p. 1)

オックスフォード大学出版局から出版されているハンドブック・シリーズのうちの一冊。40名弱による執筆陣がうかがわれます。
この本の中ではたったひとり、日本人が論考を書いています。801~826ページの、大阪府立大学の斎藤憲先生による"Reading ancient Greek mathematics"ですが、勝手ながらここでは他の時代に属する内容を紹介。

Eleanor Robson and Jacqueline Stedall eds.,
The Oxford Handbook of the History of Mathematics
(Oxford University Press, Oxford, 2009)
vii, 918 p.

Table of Contents:

Introduction (p. 1)

Geographies and Cultures
1. Global (p. 5)
2. Regional (p. 105)
3. Local (p. 197)

People and Practices
4. Lives (p. 299)
5. Practices (p. 405)
6. Presentation (p. 495)

Interactions and Interpretations
7. Intellectual (p. 589)
8. Mathematical (p. 685)
9. Historical (p. 779)

About the contributors (p. 881)
Index (p. 891)

古代エジプトに関しては、C. RossiとA. Imhausenの2人が分担執筆をしていて、どちらも興味深い考察を記しています。双方の論考とも古代エジプト建築に深く関わるので、見逃せません。
この研究者たちについてはRossi 2004、またImhausen 2003Imhausen 2007を参照。

Corinna Rossi,
"Mixing, building, and feeding: mathematics and technology in ancient Egypt"
(pp. 407-428).

Annette Imhausen,
"Traditions and myths in the historiography of Egyptian mathematics"
(pp. 781-800).

順序は逆になりますが、後者を先に見た方が分かりやすい。
彼女は

"Since the 1990s, the aims and methodology of ancient Mesopotamian, Egyptian, Greek, and Roman mathematics have been undergoing radical change, as part of larger developments in the history of mathematics (see for example Bottazzini and Dalmedico 2001). The move towards cultural context in the historiography of ancient mathematics has improved the interpretation of Egyptian mathematical writings. It is now recognized that it is no longer adequate simply to re-express their mathematical content in modern terms. When instead the formal features and cultural context of a text are taken into account, a whole new range of interesting questions can be asked (Ritter 1995; 2000; Rossi 2004)."
(pp. 785-786)

と指摘して、これまで流布してきた古代エジプトにおける数学の神話を例として5つ、挙げています。
建築の側から言うならば、この中で最も重要なのは"Myth no. 3: rope stretching, right angled triangles, and Pythagoras" (p. 791)で、3-4-5の比からなる直角三角形について問いかけており、これはピラミッドの断面計画でも実測値としてうかがわれるわけですが、再考を求めています。

Rossiの論考では、特に412~417ページに書かれた"stone"の項目が面白い。そこでは煉瓦の量を見積もるpReisner Iの記述が扱われ、また石切場における掘削量も同時に出てきます。

"As already mentioned above, papyrus Reisner I, suggests that the cubic cubit was subdivided into 'volume palms' corresponding to 'slices' of cubic cubits 1 palm wide, rather than small cubes with a side-length of 1 palm (Rossi and Imhausen, forthcoming). Such a subdivision would have been useful both in theory for performing calculations and in practice for quarrying trenches or rock-cut chambers."
(p. 412)

でもこの考え方は、アイザック・ニュートンがとうの昔に書いている「煉瓦が古代尺に合わせた大きさであったなら、建物全体での使用量の積算に便利であったろう」という透徹した見方と、結局はとても近いように思われます(Newton 1737)。
予告されている続編が楽しみ。

2009年12月10日木曜日

Imhausen 2007


古代・中世における、数学についての史料集。最も紙数が割かれているのは、中国の数学についての解説です。

Victor J. Katz (ed.),
The Mathematics of Egypt, Mesopotamia, China, India, and Islam: A Sourcebook
(Princeton University Press, Princeton and Oxford, 2007)
xiv, 685 p.

Contents:

Preface (ix)
Permissions (xi)
Introduction (p. 1)

Chapter 1 Egyptian Mathematics (p. 7)
by Annette Imhausen
Chapter 2 Mesopotamian Mathematics (p. 58)
by Eleanor Robson
Chapter 3 Chinese Mathematics (p. 187)
by Joseph W. Dauben
Chapter 4 Mathematics in India (p. 385)
by Kim Plofker
Chapter 5 Mathematics in Medieval Islam (p. 515)
by J. Lennart Berggren

このうち、最初の古代エジプトに関する章を書いているのがImhausenで、この人の博士論文についてはImhausen 2003で触れました。
紙幅に限りがあって、3000年のエジプトの数学の歴史を書くには苦労が伴ったと思いますけれども、リンド数学パピルス(RMP)やモスクワ数学パピルス(MMP)だけでなく、 ディール・アル=マディーナの労働者たちによる岩窟墓の掘削作業記録を記したオストラコン oIFAO 1206や、あるいは中王国時代に遡るライスナー・パピルス pReisner I などを紹介している点が珍しい。これらは時折省略を交え、掘削量や煉瓦の量といったものに関わる積算を求めた記録ですけれども、こうしたものも重要だという視線が感じられます。
古代エジプトの諸活動において、算術がどのように用いられたのかをじっくり眺めようとしており、古代ギリシアの数学の水準にどこまで追いついているかを問うてはいません。

オベリスクの計画方法などが唯一、まとまった文書として残されているpAnastasi Iを、ここでも冒頭に引用しています。
ただ、A. ガーディナーの訳と異なるのは、オベリスクの勾配の記述を「1キュービット1ディジット」ではなく、「1キュービット」としていること(p. 10)。Fischer-Elfertによる研究を踏まえ、oDeM 1012:9に「1ディジット」が記されていないことなどを勘案していると思われます。もともとアナスタシ・パピルスのこの部分の「1ディジット」という記述には気がかりなところがありました。ガーディナーが「1ディジット」と訳した見識の高さも、ここで改めて感じられるわけですが。

"All of them have met difficulties, which are caused not only by the numerous philological problems but also by the fact that the problems are deliberately "underdetermined." These examples were not intended to be actual mathematical problems that the Egyptian reader (i.e., scribe) should solve, but they were meant to remind him of types of mathematical problems he encountered in his own education."
(pp. 11-12)

というように、意図的に現実を外れた数値を含んだ問題が扱われているところが重要で、そこから何を見出すかが問われています。

2009年12月9日水曜日

Clagett 1989-1999


10年をかけて刊行された「古代エジプトの科学」の全3巻本。アメリカ哲学学会から出版されています。3冊で2000ページ近くに及びますが、ペーパーバックでも出ていますから、比較的安価で入手できるはず。

Marshall Clagett,
Ancient Egyptian Science: A Source Book, 3 vols.

Vol. I. Knowledge and Order.
Memoirs of the American Philosophical Society held at Philadelphia for promoting useful knowledge, Vol. 184
(American Philosophical Society, Philadelphia, 1989)
xx, 863 p.

Vol. II. Calendars, Clocks, and Astronomy.
Memoirs of the American Philosophical Society held at Philadelphia for promoting useful knowledge, Vol. 214
(American Philosophical Society, Philadelphia, 1995)
xvi, 575 p., 106 figures.

Vol. III. Ancient Egyptian Mathematics.
Memoirs of the American Philosophical Society held at Philadelphia for promoting useful knowledge, Vol. 232
(American Philosophical Society, Philadelphia, 1999)
xi, 462 p.

古代エジプトで展開した科学技術は、ギリシア世界にも畏敬の念を持って迎え入れられました。エジプト人たちは自分たちのことを古代エジプト語で「ケメト Kemet」と呼びましたが、この語はもともと「黒い土」という意味で、「赤い土=砂漠」である「デシェレト Desheret」と対概念をなします。

「ケメト」という語はその後、物質をさまざまに反応させて姿や性質を変えさせる技術である化学「ケミストリー Chemistry」の語源となったという説が良く引用されます。アラビア語の定冠詞「アル al-」がつくと「アルケミー Alchemy」となり、これは「錬金術」のこと。
「賢者の石」でファンタジーでもしばしば取り扱われる有名な技術ですが、近代科学の父であるアイザック・ニュートンも、実は真面目に取り組んでいました。
第2巻は古代エジプトにおける時間概念を扱った本。暦や天文学が主題とされています。

第3巻の、古代エジプトの数学を述べた巻は有用で、概観するには便利な本。代表的なリンド数学パピルスを詳細に紹介したピート、あるいはチェイスによる刊行物は、現在、入手が難しい状況です。ロビンスとシュートによる簡便な本も出ていますが、場合によっては端折り過ぎと見られるかもしれません。
古代語が読める数学者によって書かれた本、Imhausen 2003は詳しいものの、ドイツ語で記されており、敷居は若干高くなります。

2009年12月8日火曜日

Dormion 2004


建築家が書いた「クフの部屋:建築学的分析」という本。ドリルでクフ王ピラミッドの内部通路に穴を開ける調査をおこない、以前、大きな騒動を引き起こした2人の張本人のうちの片割れです。
その後20年近く粘り強い考察を進めてきたようで、いわゆる「王妃の間」の下に、別の部屋があるのではないかという示唆をおこなっています。

Gilles Dormion,
La chambre de Chéops: Analyse architecturale.
Études d'Égyptologie 5
(Librairie Arthème Fayard, 2004)
311 p.

Table des matières:

Préface par Nicholas Grimal (p. 7)

chapitre I La construction des pyramides (p. 29)
chapitre II Les demeures d'éternité (p. 45)
chapitre III Les pyramides de Snéfrou (p. 54)
chapitre IV Le problème de la Grande Pyramide (p. 68)
chapitre V L'appartement souterrain (p. 76)
chapitre VI Le couloir ascendant (p. 87)
chapitre VII Le prolongement du puits (p. 106)
chapitre VIII Le couloir horizontal (p. 114)
chapitre IX La chambre dite (p. 134)
chapitre X La grande galerie (p. 156)
chapitre XI La chambre des herses (p. 183)
chapitre XII La chambre dite (p. 201)
chapitre XIII Le dilemme (p. 224)
chapitre XIV La chambre du second projet (p. 228)
chapitre XV La chambre de Chéops (p. 263)
chapitre XVI Synthèse (p. 270)

Plans (p. 274)
Les rois de la IVe dynastie et leurs pyramides (p. 300)
Bibliographie (p. 301)
Remerciements (p. 303)
Table des figures (p. 304)

前書に当たる2冊を、ここで掲げておかなくてはなりません。発端を語っているのが以下の2冊。

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Khéops: Nouvelle enquête;
Propositions préliminaires

(Éditions Recherche sur les Civilisations, Paris, 1986)
110 p., plan.

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Les nouveaux mystères de la Grande Pyramide
(Édition Albin Michel, Paris, 1987)
249 p.

「王妃の間」の床に、訳の分からない痕跡が多数あることは、すでに19世紀の終わりに詳細な調査をおこなったピートリの報告によって指摘されていました。
この建築家はその痕跡を克明に追い、また床に電磁探査をかけたりして、この部屋の下に想定される落とし戸のある通路や、その先に続くべき秘密の部屋の実像を突き止めようとしています。
非常に大胆なことを示していて面白い。

石材の目地の不規則さ、また石に残っているわずかな削り跡や穴の痕を、どのように解釈し、総体としてまとめ上げられるかが述べられていて、驚嘆します。
王の間に残る石棺の痕跡から、蓋の形状を復元し、この蓋が単に上から載せられる形式のものではなくて、石棺の長手方向の真横から溝に沿って辷り込ませるものであること、また3つのダボを用いて、いったん閉めると二度と開かなくなる仕組みについて、明快に図示しています(202ページ、図45)。この種の図解は最近、しばしば見られるようになりましたが、その先駆け。

巻末に収められた何枚ものピラミッドの詳細図は素晴らしい。初めて見る図面が少なくありません。観察眼が鋭く、良く細部を見ていることに感心させられます。
特に「王妃の間」の図面は、これまで刊行されたどの図面よりも詳細で、イタリア隊の図面、Maragioglio e Rinaldi 1963-1975の第4巻よりもはるかに詳しい。比べて見るならば、すぐに分かります。

彼の説がどれだけ受け入れられるかどうか、危うく思われるし、これを確かめるにはかなりの量の石を取り外さないといけないこともあり、その調査が実現できるかも難しいところ。
しかしクフ王のピラミッドの内部に、未知の部屋があるらしいことをこれだけ具体的に示した本は稀有です。
痕跡の解釈に関しては、恐るべき才覚を備えた人物であって、見習うべきところが多い。

本には前書き以外、註が一切、振られていません。参考文献もたったの2ページ。普通の研究者ならば、頭を傾げるところです。この欠点を上回るのが圧倒的な痕跡の解釈であって、後年、彼の説の全部ではないにしても、再評価されることを期待します。

序文をコレージュ・ド・フランスの教授、N. グリマルが書いています。フランスにおけるエジプト学の最高権威のひとり。

Raven 2005


20世紀の後半、ツタンカーメン王に仕えていた大物クラスの者たちの墓がメンフィス地域で並んで見つかり、この発見が新王国時代の貴族たちの墓の研究を一挙に推し進めました。
このうち、将軍ホルエムヘブは後に王となって、ツタンカーメンの名前を歴史から抹殺した極悪人。王となる前にメンフィスの地で墓を造り始め、次第に規模を大きく増築させたことが分かっていますが、結局、王位を継ぐと自分の墓をテーベの「王家の谷」にも改めて設けています(KV57)。

歴史から消されたはずのツタンカーメンについて、3000年以上も経ってから次第に詳細が分かってくるというのはちょっと信じられないことなのですけれども、何事も大らかにことを運んだ古代エジプト人たちですから、「抹殺せよ」と上層部から言いつけられても、けっこういい加減にこの命令をこなしたらしい。
ツタンカーメンの墓が発見された当時は、「若くして死んだ王がいた」ということ以外に、ほとんど詳しいことが分からない状態だったのですが、完全にはツタンカーメンの存在が抹消されなかったため、また記録捏造の辻褄合わせが杜撰でもあったため、今日、いろいろ知られる点があるということになります。
エジプト学の魅力のひとつは、あるいはこうした一面だらしないとも思われる、人間味溢れる痕跡に触れることが多い、という印象の内に潜んでいるのかもしれません。
「しょうがない連中だなー」という共感です。

Maarten J. Raven,
with the collaboration of Barbara G. Aston, Georges Bonani, Jacobus van Dijk, Geoffrey T. Martin, Eugen Strouhal and Willy Woelfli.
Photographs by Peter Jan Bomhof and Elisabeth van Dorp, and a plan by Kenneth J. Frazer.
The Tomb of Pay and Raia at Saqqara.
74th Excavation Memoir
(National Museum of Antiquities Leiden and Egypt Exploration Society, Leiden and London, 2005)
xxiv, 171 p., 160 pls. (157-160 in color)

発掘調査の費用の捻出はどこでも困難をきわめる状況にありますけれども、イギリスのEESはオランダと組んでメンフィス地域の研究をおこなうことを選びました。この本でも、出版費の助成をオランダの財団から受けています。
本書はホルエムヘブの墓の南東に残る、パイとその息子のライアの墓に関する報告書。パイはアメンヘテプ3世時代の人物であると判断されています。ライアの石棺片も見つかりました。
つまり、小さな遺構ですが、活気溢れた時代の、かなり位の高い貴族の墓だということ。

一冊の本の中に考古・建築・人類学などの観点からの報告を纏めていて、クロス・リファレンスも充実。どの部屋から何が出土したかをまとめた巻末の"Spatial Distribution of Objects"(p. 167)を設けた点は、見習うべきかと感じます。

著者はレイデンのRMOにいる考古学者ですが、建築にまつわる報告への配慮も怠っていません。新王国時代第18王朝の末期以降、高位の貴族たちは石棺を造りましたが、その多くは報告されずに終わっている点を受け、ライアの壊された石棺を接合する面倒な立体パズルをおこなった後、図を交えながらこれを論じています。
日本隊がダハシュールの墓域で見つけたメスの石棺についても未報告の石棺リストの中に並んでいて(p. 57)、これは「英語でもっと詳しく報告しろ」という催促。

65ページの、石棺をどのように地下の玄室へと導き入れたかを示す図8は、D. アーノルドの"Building in Egypt"の影響を強く受けて描かれた図だとしか思われない。シャフト墓の内部の狭い各寸法を念頭に置いて、どのような手順で一番下の部屋へ石棺が運び込まれたかを図示していますが、"sarcophagus case"と"sarcophagus lid"とが「別々に運び込まれた」と考察している点は注目されるべきところ。
運び入れる作業の途中で石棺に傷がつき、これを地下で直したらしい点を述べ、またいくらか色塗りもこの地下室でなされたであろうとみなしている指摘も面白い。

建築学的には、平面を分析した16ページの"Metrology"が貴重です。キュービット尺の完数を用いて計画がなされたことを説明していますが、

"All these proportions refer to the bare brickwork only; the application of limestone wall revetment changed the overall effect. Because so many of the limestone architectural elements are now missing, it is very difficult to assess whether these, too, observed fixed rules of proportion."

とあって、壁体の芯の部分をなす泥煉瓦造の壁の位置が完数による基準格子に乗ることを示唆しており、石版を煉瓦壁に張って壁厚が増えている仕上げの状態を想定しつつ建物が計画されたわけではないであろうという微妙な点に触れています。
彼が発表している

Marten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002),
pp. 53-69.

が題名もなしに註として付されていますが、JEOLのこの論考は検討を要します。
平面の分析については大きな異論がありませんけれども、シャフトの深さまでキュービット尺の完数で計画されたのではないかという考えは、建築の人間としては少々、受け入れ難い。
本書における、

"The total depth of Shaft i is 7.70 m (almost 15 cubits)."
(p. 17)

といった記述も気になります。

地下の部屋をどの深さで造り始めるかという問題は、シャフト墓が密集した墓域での全体の断面図を勘案して考えるべきで、これはたぶん、テーベの「王家の谷」においても当て嵌まります。建築に関わる者であったら、たぶん「掘りやすい地層を見計らって掘るだろう」という結論になるはずです。
平面にキュービット尺の完数を適用するのは、建築の専門家や熟練工が少ない中、その方が建造の工程として合理的になるからであって、一方、シャフトの深さにまでキュービットの完数を当て嵌めることは、掘削作業の実際を蔑ろにすることへ繋がりかねません。
要するに、古代エジプトの建造作業においてなぜ完数が用いられるのかが、未だ考古学者に深く理解されていないと言うことになります。
これは地質学者にも協力してもらって、説得力に富んだ説が展開されることを期待したいトピック。

上部が緩い円弧となっているステラの断片(図77、Stela [72])では、ヒエログリフが円弧に沿って外周に刻まれていますが、頂部から左方へと続く横書きの文字列が、だんだんと傾いていくために途中で向きを90度変え、縦書きに変更されています。
矩形のステラの外周で、上辺の中央から始まって、振り分けで左右に文字列が続き、隅部で横書きから縦書きに変わることは良く見られますが、上部が丸いステラでもこれがおこなわれると、このようになるという興味深い作例。

図157〜160では、泥プラスターの上に描かれた壁画がカラー写真で掲載されています。陽の下に晒される地上部の壁画に対し、どのように保存を図ったのか、これも個人的に聞きたい点ではあります。

前書きを1ページだけ、Geoffrey T. Martinが記していて、「王家の谷の仕事に最近は追われ、長年携わってきたメンフィスの実りある調査から離れることに胸が裂かれる」といったことを述べています。
Honorary Directorという肩書きをもらっているけれども、現場の人であることを最後まで続けようとしている碩学の言葉。

2009年12月7日月曜日

Hobson 2009


何と、古代ローマにおけるトイレの専門書です。巻末に地名の索引が用意されているように、西はイギリスから東はシリアまで、また北アフリカのチュニジア・リビアにおける都市遺跡のトイレの類例も集めています。大理石の便座が用意され、下には水を流すための溝が設けられている公衆便所の有様、また簡単に作られた一人用のトイレの様子が良く分かります。
最も数多く資料が集められているのはしかし、やはりポンペイで、豊富な写真によって紹介がおこなわれています。

Barry Hobson,
Latrinae et Foricae:
Toilets in the Roman World

(Duckworth, London, 2009)
x, 190 p., 142 text figures.

Contents:
Acknowledgements (vii)
Preface (ix)

1. Toilets in the Roman world: an introduction (p. 1)
2. Roman Britain (p. 33)
3. Pompeii (p. 45)
4. Chronology of toilets (p. 61)
5. Upstairs toilets (p. 71)
6. Privacy (p. 79)
7. Rubbish and its disposal (p. 89)
8. Dirt, smell and culture (p. 105)
9. Water supply, usage and disposal (p. 117)
10. Who used these toilets? (p. 133)
11. Motions, maladies and medicine (p. 147)
12. Who cares about latrines? (p. 155)
13. Future research? (p. 165)

Glossary (p. 173)
Bibliography (p. 177)
Index of Places (p. 187)

序文は、

"Why, you may ask, a book on Roman toilets?"

という書き出しから始められており、また最終章の題は「これからの研究?」と疑問符付きです。どうも変な研究対象であるという点は、著者自身が最も良く承知しているということ。
集められた写真は著者自身が各国の遺跡を回って撮りためたもので、例えばリビアのレプティス・マグナで見られる男女別のトイレについては、

"The huge bath house, dedicated to the Emperor Hadrian, has two large latrines (Figs. 39 & 40), one allegedly for women which is slightly smaller than the one for the men. Each has a central peristyle with a colonnade, within which are seats in rows down three of the four sides. The side opposite the entrances in the men's latrine is 16 m long and the other two sides are over 13 m, giving a seating capacity of about forty-eight persons. The diameter of each hole is only 15.5 cm and they are between 60 and 65 cm apart. The seating is marble, 8 cm thick." (pp. 26-28)

と、観察が非常に細かい。間仕切りもないところに、ほとんど隣の人と触れ合う距離で座ったのでは。
著者が自分で実際に現場を見に行って、あちこち測ったことは明らかです。誰もまだこのように詳しく書いたことがないので、この部分の記述については一切の註がありません。イタリア隊がこの大規模な都市遺跡レプティス・マグナを発掘したわけですが、これを指揮したGiacomo Caputoなどによる文献は巻末の参考文献にまったく掲載されていません。オランダの研究者Gemma C. M. Jansenの論考、ローマ都市における水を扱った2002年の博士論文などを核として、対象を各地にまで拡げたように思われます。

「この主題を述べるに当たって、差し障りがあるかもしれない用語を避けることは難しい」などと、序文で前もって書いています。トイレを扱う以上、これは仕方のないこと。特に、

"Scatological words occur occasionally, mostly when quoting other authors' translations" (p. ix)

とあって、これはラテン語による文献や落書きを引用した本書の後半部分が相当します。実地調査とともに、文献調査ももちろんおこなっているわけで、ここが大変重要。
読んで一番面白いのはここであるといっても良く、ポンペイで発見されている注意書き、

Stercorari ad murum progredere si pre(n)sus fueris poena(m) patiare neces(s)e est, cave

If you shit against the walls and we catch you, you will be punished (CIL IV.7038)
(p. 144)

などは、今の日本でもたぶん見られるはず。いつになっても事情は変わらないし、不埒な者はどこにでもいるようです。
別の書きつけ、

Quodam quisem testis eris quid senserim ubi cacatuiero veniam cacatum

Someday indeed you will learn how I feel. When you begin to shit I will shit on you (CIL IV.5242)
(p. 145)

では、注意書きを記した人の、わなわなと震えている怒りのほどが伝わってきて、この人に同情したくなります。
古代エジプトでも便座と言われているものが遺物として残されており、機会があったら実測してみようか、と思ったりしました。
20世紀末からトイレ研究は進展を見せているようです。「トイレ考古学」、あるいは「環境考古学」をキーワードとして検索されると良いのでは。

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2014年7月4日、追加:

Hobsonは500ページ以上のポンペイのトイレ写真集も出版しています。BARのシリーズ。

Barry Hobson,
Pompeii, Latrines and Down Pipes: A General Discussion and Photographic Record of Toilet Facilities in Pompeii.
BAR International Series 2041.
Oxford, Archaeopress, 2009.

2009年11月16日月曜日

ボルヘス 1975 (Japanese ed. 1980)


『本の形式を問いかける本』ということであれば、ボルヘスの短編「バベルの図書館」に出てくる無限の本棚がまず思い起こされますけれども、この短編集のタイトルにもなっている「砂の本」もまたその変奏。
常軌を逸した本をついに手に入れるものの、後にはそれを図書館へ「捨てに行く」奇妙な話。本についての高度な専門知識が交錯する、良くわけの分からない売買交渉も読むことができます。
全部で13の短編を収めた小説集。原書の題で"arena"という単語を用いています。武道館などでのコンサートで、「アリーナ」席が設けられることの、もともとの古い意味。流れた血を吸わせるため、闘技場に撒かれた「砂」に原意を持つと言われます。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、篠田一士
「砂の本」
現代の世界文学
(集英社、1980年)
169 p.

原著:
Jorge Luis Borges,
El libro de arena
(Emece editores, Buenos Aires, 1975)

目次:
他者(p. 7)
ウルリーケ(p. 23)
会議(p. 31)
人智の思い及ばぬところ(p. 63)
三十派(p. 75)
恵みの夜(p. 81)
鏡と仮面(p. 91)
ウンドル(p. 99)
疲れた男のユートピア(p. 109)
贈賄(p. 123)
アベリーノ・アレドンド(p. 135)
円盤(p. 145)
砂の本(p. 151)
後書き(p. 161)

アメリカの作家ラヴクラフトに捧げられた「人智の思い及ばぬこと」は、この世の生き物でない怪物の正体を最後まで具体的に明かさないままに終わる恐怖の小説。例えばラヴクラフトの代表作「ダンウィッチの怪」を彷彿とさせます。
周知の通り、ラヴクラフトの小説の中にはクトゥルフ神話にまつわる「何とかホテプ」という人名も出てきて、古代エジプトからヒントを得たようです。「ヘテプ」というのは古代エジプト語で「満足する」、というほどの意味でしたね。ラヴクラフトはヨーロッパの画家H. R. ギーガーにも影響を与えました。ハリウッド映画「エイリアン」を導いた、画集「ネクロノミコン」の作者。エジプト学の残響が、こうしてアメリカとヨーロッパの大陸間を往復したことになります。

個人的にもっとも惹かれるのは「円盤」と題された、5ページしかない短い掌編。王と名乗る年取った男が、片側しか持たない円盤というものを握って登場します。
「贈賄」も、研究者にとっては面白いはず。ひとつの論文を巡っての学者同士の、<客観的な判断>を巡る争いです。
現世の世界の逸脱を巡って文章を一心に書き続けたラテンアメリカの作家による、目眩を引き起こす短編集。

フーコーの「言葉と物」の冒頭に示されたボルヘスの作品の引用で分かるように、この人の短編は考え方が捻れている、奇妙なものばかり。
考えの水準がもともと異なることを、意図的にねじ曲げて相互を接触させようとした作家で、図書館に勤務していた時にいったい何をやっていたのか、想像するとそれだけで楽しい文学者。

エコ 1977 (Japanese ed. 1991)


「フーコーの振り子」、また映画化された「薔薇の名前」など、広く読まれた小説の作者でもあるこのイタリアの記号論の学徒は、「論文の書き方」という本も出版しています。いかにもウンベルト・エコ(ウンベルト・エーコ)によって記されたらしい書物で、入門書であると同時に、面白い読み物としても成立させています。
基本的な問題がほとんどすべて記してあるという点が魅力的。すでに十数ヶ国語に訳されている大人気の書です。今でも入手は可能。

ウンベルト・エコ著、谷口勇訳、
「論文作法:調査・研究・執筆の技術と手順」
教養諸学シリーズ1
(而立書房、1991年)
xv, 276 p.

原書:
Umberto Eco,
Come si fa una tesi di laurea: le materie umanistiche
(Bompiani, Milano, 1977)
249 p.

目次:
第I章 卒業(博士)論文とは何か。何に役立つか
第II章 テーマの選び方
第III章 資料調査
第IV章 作業計画とカード整理
第V章 原稿作成
第VI章 決定稿の作成
第VII章 むすび

論文という形式のさまざまなあり方に触れており、それは「モノグラフ的論文か、パノラマ的論文か」、「古典的テーマか、現代的テーマか」、あるいは「科学的論文か、政治的論文か」といった節を用意していることからも明らかです。発表という出口の方法に知悉している人だから、広範なやり方が開陳されています。
凡庸な教授なら、普通は「客観的な書き方をしなさい」などというだけで終わるところ。

「指導教員に利用されるのを回避するには」という項目もある点がとても可笑しい。許される剽窃の限度までもが紹介されていて、「訳者あとがき」に述べられているように、本当はある程度、論文を書いた経験を有する者に向けて書かれていることが、こうして了解されます。

「外国語を知る必要があるか」の項も興味深い。「自分が知らず、また学ぶ気もない言語についての知識を要しないような論文を選ぶべし」(p. 29)と書いています。こういう具体的な(?)指導は珍しい。教員にとって、とっても参考になります。手抜きの方法をはっきり伝えているわけです。
「引用の仕方」(p. 187)、また「脚注のつけ方」(p. 202)は詳細に語られています。
例としてアメリカの4コマ漫画であるチャーリー・ブラウンの心理を問いかける論文を書く場合の、笑える目次案というものも掲げてあって、この著者のただならぬサーヴィス精神を知ることができます。

彼はHPを持っており、

http://www.umbertoeco.com/

ではビブリオグラフィーを見ることができます。クリックするとすぐにAmazonのページに飛ぶようにリンクを設けているところは御愛嬌。
エコは映画化されている「007」のシリーズのジェームズ・ボンド研究でも知られており、1982年には「ボンド・ガール」に関する論考が雑誌「海」に掲載され、当時は評判になりました。興味のある方は探し出してみてください。

そう言えば、特定の読者に向かって論文が執筆され、これを巡って2人の学者による丁々発止の対決を描いたボルヘスの短編もありましたっけ。

Hitchcock 2000


ミノア建築について論考を重ねているL. A. ヒッチコックの博士論文。副題に出てくる「コンテキスト」というのは美術を解説する時の用語で、20世紀後半から使われるようになりました。
建築の場合には「文脈主義」というように無理して訳され、具体的な敷地の状態から要請されるさまざまな意匠上の明示、というほどの意味で用いられることが多いと思います。簡単に言えば、周りとそぐわない建物を建てても良いの? という反省から起こった流れです。もともとは現代哲学における考え方に由来しています。これを「添い寝主義」と悪口を叩いた人もいました。

この本では、これまでの考古学の成果を疑うことから出発していますので、ああそうなんだ、疑わしいんだ、と面白く感じる部分が少なくありません。序文の7行目では、

"I did not understand why a "Palace" was a palace"

なあんていう衝撃的なことを平気で書いていますし、これは古代エジプトの場合にも当て嵌まるはず。つまり、クノッソス宮殿とかファイストス宮殿とか、これまで良く知られていた宮殿は、「宮殿」ではないかもしれない、ということが記されているわけです。
高名な研究者たちが言ったという、「ミノアの宮殿群は、発掘によって失われた」、「ミノア考古学には『事実』というものがなく、考古学者にできることは、彼らが望んでいることをしゃべることだけだ」、という見解にも驚かされます。
すでに固定されているかのように思われる既往の成果に対し、違う見方ができないかと問いかけること。それが大きなモティーフとなっている本です。

Louise A. Hitchcock,
Minoan Architecture:
A Contextual Analysis.

Studies in Mediterranean Archaeology and Literature,
Pocket-book 155
(Paul Astroms Forlag, Jonsered, 2000)
267 p., including 33 illustrations

第1章の「エーゲ海考古学の考古学に向かって」が最も重要で、考古学のあり方を問い直す試み。ミシェル・フーコーが「知の考古学」を書いたことを踏まえたもの。あとの章は「広庭、拝礼、入口」(第2章)、「倉庫と作業場」(第3章)、「ミノアの建物における広間」(第4章)と、部屋ごとに検討がなされます。
本文の一番最後ではジャック・デリダのへのインタビューに言及して終わっているように、現代の思考におけるいびつな面を意識した上で書かれていますから、時として話が難しくなります。ウンベルト・エーコ(エコ)などの著作も参考文献リストに挙げられていますので、いろいろと読み拡げなければなりません。

スウェーデンに本拠を置くPaul Astroms Forlagという出版社は、考古学者のP. アストレム教授が20世紀の中頃に創立したもので、古代地中海考古学、特にギリシア付近の地域に関しては非常にたくさんの本を刊行しています。
ヒッチコックは共著で

D. Preziosi and Louise A. Hitchcock,
Aegean Art and Architecture.
Oxford History of Art
(Oxford University Press, New York, 1999)
262 p.

も書いていて、カラー図版を多く収めた見やすい本。ペーパーバックも今は刊行され、比較的安価にて入手できるはずです。

Meskell 2002


古代エジプト人の生活を追った本というのは、もう何冊もあるけれども、エジプト学におけるイギリスの重鎮、J. ベインズのもとに居ただけのことはあって、文字資料としてはっきり残されていない生活の像、それをどのように把握するのかということ自体が大きなテーマのひとつとなっています。こういうテーマはとても珍しい。
図版はだから、モノクロで60枚ほどしかありません。エジプト学の中で、さまざまな情報がどのように組み立てられ、解釈されているのかを念入りに見直す作業がおこなわれています。意図的に難しい話題が選択されていると考えられます。分かりやすい題名とは相反し、この分野の専門家に向けて反駁している本と言っていい。

Lynn Meskell,
Private Life in New Kingdom Egypt
(Princeton University Press, Princeton, 2002)
xvii, 238 p.

冒頭には人類学者のマリノウスキーや、哲学者フーコーの著作からの引用が並んでいます。Hitchcock 2000のミノア建築に関する本でも、ミシェル・フーコーの「知の考古学」が引用されていました。こうしたところは注意しておきたい点です。
第1章の題は"The Interpretative Framework"で、private life,「私生活」とはそもそも一体何かということから話が始まります。特に、古代エジプトにおける私生活、ということが再度問われており、ここからも、たいへん意欲的な内容であることが了解されます。
だから、例えばストロウハルの本、これは和訳が出ていますが、

エヴジェン・ストロウハル著、内田杉彦
「図説 古代エジプト生活誌(上・下巻)」、原書房、1996年

と、ある意味で対極的な位置にある本といって良い。
中心となるのはやはりデル・エル=メディーナで、オストラカに記されていることが資料として、しばしば引用されているのが特徴。

いわゆる「寝室」というものがこの村落の家々の奥にはあるんだけれども、その部屋にベッドが置かれていた痕跡は一切見つかっておらず、逆に外の通りからベッドが出土している点がとても奇妙。寝るためだけの部屋ではなく、もっと別の機能もあったらしいと言われている点が改めて指摘されています。

この建築遺構、細い路地からすぐ入った第一の部屋からは、動物の糞や藁くずが家の中から発見されているので、動物と一緒に暮らしていたことは明らかであるとみなされています。床が一段低くなっているこの部屋にはまた、「造り付け寝台」のようなものがあることも知られていますが、人が寝るためのものではなく、むしろ宗教に関わることがおこなわれたのではないかと考えられています。これは考古遺物からの判断。
出産用のベッドではないかという説については、この時代の出産ではむしろ椅子を使っていると思われる絵画資料があるので退けられるものの、女性のためのしつらいが目立つ点は強調されています。
こうしたことはすでに分かっていた事項なんですが、著者はさらに一歩進め、第一の部屋は女性のためのもの、またそのすぐ奥の第二の狭苦しい部屋は、男性のためのものではないかと推定しています。

この家の男たちは、いくらか離れたところにある王墓の造営に関わった石工・彫工、また画工であったので、毎日家には帰ってこなかったと考えられてきました。どうも王家の谷へ行く途中の仮小屋に寝泊まりし、10日に1日か2日しか帰らなかったらしい。本来の住居の内部は、女性たちの手によって勝手に都合良くしつらえられたようです。
3200年前の昔から、何とかは「元気で留守がいい」と考えられていたことが、ここからも容易に推察されます。やれやれです。

工人たちが構成していた労働者集団の動向については、また別の研究分野となりますので、この本では触れられていません。
建築の分野では、しかしこういう分け隔てることをしないことが重要。
彼女は後に、雑誌JMAにも2004年に論文を寄せています。Ä&L 17 (2007)を参照。

Ä&L (Ägypten und Levante) 17 (2007)


Ä&LはオーストリアのM. ビータックが編集をしている雑誌で、彼が発掘調査を続けている下エジプトのテル・エル=ダバァと密接な関連がうかがえます。18本の論考のうち、半分ぐらいがダバァ関連。2007年度の発掘調査の仮報告も、もちろん載っています。

Ägypten und Levante:
Internationale Zeitschrift für ägyptische Archäologie und deren Nachbargebiete
(Egypt and Levant:
International Journal of Egyptian Archaeology and related Disciplines
)
17 (Wien, 2007)
321 p.

エジプトとその近隣諸国との関連性に重点を置いた雑誌で、地中海の全体を扱っている、例えば

Journal of Mediterranean Archaeology (JMA):
hhttp://www.equinoxjournals.com/ojs/index.php/JMA

のような雑誌とも違うし、またエーゲ海に関わる地域を主として扱う

Aegaeum:
http://www2.ulg.ac.be/archgrec/publications.html

などのような雑誌とも異なります。
JMAは数年前に判型を変え、大きくしました。この雑誌に古代エジプトのことは滅多に載らないんですが、その中では

L. Meskell,
"Deir el-Medina in Hyperreality:
Seeking the People of Pharaonic Egypt",
in JMA 7:2 (1994), pp. 193-216.

の論考は見る価値があり、当方の知る限り、ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の屋根が繋がっていて、屋上のネットワークが存在したはずだという点を明記している稀な論文。細い道が集合住居址の中を縦断している平面図だけ眺めていては、思いつかない考察。イスラームの住居を考えている人たちには、屋上が例えば女性たちの空間として知られていたりするわけですが。
Meskellは2002年にも注目すべき本を書いています。

Ä&Lはエジプトに軸足を置いていることを常に忘れていない雑誌であると表現すれば良いんでしょうか。良くも悪くもビータックという研究者に多くを負っているところがあり、背表紙にもちゃんとBietak (Hrsg.)と印刷されています。雑誌の背表紙に編集者の名が掲載されるのは珍しい。

もっとも長い論文は、

Ezra S. Marcus,
"Amenemhet II and the Sea: Maritime Aspects of the Mit Rahina (Memphis) Inscription",
pp. 137-190.

で、これが一番興味深かった。メンフィスで花崗岩に記された文字列が見つかっており、第12王朝の初期のものですが、エジプトとレヴァントとの間の航海の様子をさまざまに考察しています。
いろいろな船荷がリストとして石に記されているわけですが、それら全部を足した重さや量を推測して計算したり、またそれに基づいて船の大きさを推理したりもしている。
「アジア人、一人当たり40kg」なんていう体重の推測が考察の中の表に記されていて面白い。

最後のページには、テル・エル=ダバァの報告書の第16巻から20巻までの刊行が予告されています。この遺跡の報告書、まだまだ完結しそうにありません。エレファンティネの報告書と双璧。

2009年11月14日土曜日

Fitchen 1961


ゴシックの大聖堂がどのように建造されたかを、豊富に図版を交え、説明している本。非常に有名な本で、しばしば教科書などでも取り上げられています。

John Fitchen,
The Construction of Gothic Cathedrals:
A Study of Medieval Vault Erection

(Chicago, 1961)
xix, 344 p.

因みにアーチ、ヴォールト、ドームというのは、かたちに対してつけられている名称ではなく、本当は構造的な解釈を交えた命名であって、戸口の上部が半円形に仕上げられていればアーチかというと、間違えます。真正アーチとにせアーチとが峻別されているのはこのためです。
平たいアーチ、これはフラット・アーチとかリンテル・アーチとも言われますが、そういうものも存在します。フラット・ヴォールト(平たいヴォールト)の具体的な姿についてはRabasa Diaz 2000を参照。

副題に記されている「ヴォールト」とは、耳慣れない言葉。でも建築学科の学生でも、知らない者はいっぱいいますから、気にする必要はありません。要するに曲がった面を持つ天井の便宜的な総称です。かまぼこ型の天井を多く指し、時にはシャンパン・グラスを逆さまにしたような、ドームに似た縦長の形状の天井(ドーミカル・ヴォールト)や、あるいは中華蒸し器の蓋のように浅く球状に盛り上がっている天井もこれに含まれます。ドームは重要な部屋に架けられるヴォールト天井の呼び方。
これがアーチと組み合わせられたり、あるいはヴォールト同士が交差したりする時、少々面倒なことになってきます。基本は半円を描くかたちが用いられるのですが、アーチやヴォールト、またドームというものを石や煉瓦で作る時にはどうしても木の型枠が必要で、この型枠の製作を単純にしようとする結果、作図しやすい半円が選ばれる傾向にあります。
ところが、正方形平面の各辺に半円アーチを架け渡した交差ヴォールトを想定した際、対角線の長さは一辺よりも約1.414倍の長さとなりますから、この対角線のアーチは平たくつぶれた楕円形のかたちとなってしまい、半円にはなりません。

対角線方向のアーチに半円形を採用した時には、事情が異なります。正方形の各辺は、今度は背の高い放物線となるはず。少なくとも、幾何学的に厳密な立体図を作図しようと思えば、そうなります。この作図にはしかし手間がかかり、あんまり実用的ではありませんでした。
時代や地域を問わず、建造作業にはつきものなのですが、端折って計画することがだんだんと試みられます。曲面の端部の形状、及び膨らんでいる部分の高さを決定し、後は「なりゆき」で埋めるというやり方。

天井を構造的に安定した曲面で覆い、なおかつ複雑ではない造り方を目指した時に、頂部が尖ったアーチが出現します。そのありさまをうまく解説しており、またさまざまな木製の型枠を紹介しています。この型枠はまたヴォールトやアーチが完成後、容易に分解して取り外さないといけませんから、別の工夫が考案されます。

中世の建築を素材として、建築の基本設計が実際に立ち上げられる時の矛盾や不都合の発見と、それに対する的確な対処の仕方の模索という、建築を造る際にはどこでも見られる普遍的な問題点が討議されており、曲線あるいは曲面の重なりがこれに話題として加わるわけですので、本当は模型を用意して説明しないとなかなか説得できないところ。たくさんの立体図を描いて、それを補っています。
望むことができるのであれば、著者は、読む者に鉛筆を持たせて実際に簡単な作図をさせ、問題点を確認させたかったに違いない、読み進んでいくとそう思わせます。

16もの付章が巻末に収められています。構法上のトピックを取り上げたもの。用語集も10ページあります。
再版を重ねており、これを超える本はなかなか出てきません。
彼は

John Fitchen,
Building Construction before Mechanization
(MIT Press, Cambridge, 1986)
xvii, 326 p.

なども著しており、ここにはピラミッド建造の話も最後に出てきます。
「建築を造る」ということの全般について、格別の興味をいつも失わなかった人の著作。

Hope 1978


マルカタ王宮の再発掘を試みたイギリスのB. J. ケンプとアメリカのD. オコーナーによる、1970年代初期における共同発掘の調査報告書のうちの一冊。
前にも触れたように、アマルナ王宮とマルカタ王宮はほとんど同じ時期に発見されましたが、以後の経緯は大きく異なります。アマルナ王宮では楔形文字が記された粘土板(アマルナ文書)が偶然に見つかり、これらの中にアクエンアテンの名前を読み取ったウォーリス・バッジはすぐさま粘土板を購入してイギリス本国へ伝えました。これによってF. ピートリの調査隊が組織され、発掘が迅速に開始されます。

一方、マルカタの場合にはフランスのダレッシーがごく一部分、調査しましたけれども、短いその報告は遅れて数年後となりました。裕福なアメリカ人青年タイトゥスによる短期間の発掘を挟み、その後はメトロポリタン美術館が10年間、発掘をおこないます。第一次世界大戦のただ中であったということもあり、結局、最終報告書は出版されていません。
この報告書も、ワイン壺に関して述べるだけのものです。1970年代のこの調査については、他にLeahy 1978があるのみ。

この調査報告書のシリーズの広告で、少なくとも6冊が出版されるであろうと推測される文面が裏表紙に印刷されたため、後年、誤解を受けることになりました。そのうちの4冊については執筆者と題名、及び出版年を記していますから、すでにそれらは全部刊行されたであろうというように、専門家の中でも誤解している人がいます。

Colin Hope,
Jar Sealings and Amphorae.
Egyptology Today, No. 2;
Malkata and the Birket Habu, Vol. 5
(Aris & Phillips, Warminster, 1978)
vi, 80 p.

ワインを入れて保存するために、壺の口には植物で編んだ丸い蓋を置いて塞ぎ、さらに泥がその上に厚く盛られて保護されます。これを「ジャー・シーリング」と言っているわけで、専門用語。
「アンフォラ」という言葉も特別な用語で、用途によってさまざまな器が作られますが、それらには各々、別の名前がつけられていました。ここでは両側にふたつの取っ手を持つ首長の、また底が尖っている壺を指します。
Amphoraの複数形が-sではなく-eであるのは、ラテン語の女性形であるためです。石碑という意味のstela; stelaeと同じ。エジプト学では、他にもostracon、graffito、naos、necropolis、sarcophagusといった、複数形が通常の英語のようにsをつければいいわけではない言葉が良く用いられます。面倒ですが、慣れが必要です。

泥のタイプを6種類に分けたりと、考察は厳密です。しかし、ここまで細かく分けるのはしんどいという気がしなくもない。
再利用の可能性を探ったり、あるいは付章で墓の壁画で見られるジャー・シーリングの例を列挙したりしているのは、書き手の能力の高さを示しています。外国からもたらされたと思われる要素を最後に挙げているのも重要。
つまりマルカタ王宮の研究で、どのようなことが注意されているのかがこれで分かります。長く続いたエジプト文明において最大の版図を築いたアメンヘテプ3世の時代、シリアやパレスティナ、あるいはミケーネといった諸外国と、どのような交流があったのかを念頭に置いており、きわめて限られた情報をもとにして、どこまで言うことができるかを模索しています。

著者は新王国時代の土器研究に関しては知られた人。でもマルカタで新しく出土したものは小さな破片ばかりなので、器自体の分析ができるわけではありません。本来の活躍が充分できない場で、可能な限りの考察を巡らせたいと工夫し、書かれた書です。
安く出版するために全ページが完全版下で用意されており、大きな労力が強いられたであろうと想像される一冊。

2009年10月19日月曜日

Zenihiro 2009


日本人の若手研究者が、修士論文を英語で出版した本。
柔らかい藁色のペーパーバックで、表紙では著者名が省かれており、それは序文にも記されていないから、この本を誰が執筆したのかは最後の奥付を見るまではっきりと分かりません。欧米の本と日本の書籍とでは、書誌の印刷されるページが異なるので、面倒なことを嫌う外国の学者によっては、戸惑う部分かもしれない。
にも関わらず、Thames & Hudson社の刊行書を念頭に置いたその攻撃的なタイトルの意味するところは明瞭で、言わば学界への殴り込みに相当します。

Kento Zenihiro,
The Complete Funerary Cones
(Privately published, Maruzen, Tokyo, 2009)
(iv), 307 p.

関連サイト:
http://www.funerarycones.com/

Contents:
Abbreviations (p. 1)
0. Introduction (p. 3)
1. Brief overview and reasons for the use of cones (p. 5)
2. Funerary cones (p. 10)
3. Comparison of titles based on dates (p. 27)
4. Conclusion (p. 36)

References (p. 37)

Appendices
1. A catalogue of all known cones (p. 48)
Index for Appendix 1 (p. 241)
2. All titles of the deceased who appears in the present work (p. 265)
Index for Appendix 2 (p. 284)
3. A table designating the date and the origin of each cone (p. 293)
4. Assignments by each scholar (p. 295)

Acknowledgements (p. 307)

若い日本人による、こういう大胆不敵な企ては当方の知る限り、これまでなかったと思われるので非常に痛快。
葬祭に関連したコーン(Funerary Cone)がほとんどテーベからしか発見されないという点は、López 1978-1984 (O. Turin)の本の紹介の欄で前に触れました。石灰岩片の上に書かれたヒエラティック・オストラカも同じ。テーベという土地の独自性を示すひとつの指標。
エジプト学においては出土場所も出土点数も限られる特異な遺物であり、編年もこれまであまり考察されなかった状況でしたが、近年、イギリスで纏められた博士論文、

M. Al-Thibi,
Aspects of Egyptian Funerary Cones
(Ph.D. thesis submitted to the University of Liverpool, 2005)

が出たそうで、これに対するひっくり返しが試みられています。
コーンは建築学的にも、軒飾りの一形態として考察されるべき遺物。

第51回日本オリエント学会大会(2009年、京都)での著者による発表で明らかなように、ここではリヴァプール大学の博士論文に対し、日本の修士論文によって「そりゃ違う」という間違いの指摘が本格的に開始されているわけで、これが面白くないはずはありません。リヴァプールの側では、いったい誰が博士論文を審査したのかも同時に問われることになります。

英文によるサイトも併行して開設し、限定しながらも情報を公開しつつ、幅広く意見を求めている点も注目されます。本のタイトルを勘案した方法を採用しており、評価されるべき。
まずはできるだけ品格が上位のエジプト学の専門誌に概要を投稿して・・・などという、従来の因襲的で迂遠な回路を無視し、いきなり英語で単著の出版に及んでいる点が目覚ましい。これに続く人たちが次々と出てくればいいのですが。
カラーページも含んでおり、説明図に工夫がなされています。

スケール・バーをセンチ表示ではなく、古代エジプトのディジット単位だけにしている点は、ちょっと思い切った方法です。センチメートルの単位による実寸の併記がないのは、いささか気になるところ。
11ページには長さが"52.5 cm (= 1 cubit)"のコーンが存在すると書かれていて、ここに振られた註を見るとD. Arnoldからの引用であることが分かり、なるほどそうであるならば、未だエジプト学者たちの間では広く定着していると思われない、

1.875 cm×28 ディジット=7.5 cm(4ディジット)×7 パーム=1 王尺(キュービット)=52.5 cm

という、建築の専門家アーノルドによる遺構の報告書において必ず用いられている換算の値が、この著作では珍しく前提にされているのだな、おお建築関係者にとってはとても喜ばしいことだと感心するのですが、でも他方でその同じページの数行下には、これと矛盾して建築に関わる学徒の期待を完全に裏切る"1 digit=1.6 cm"、という表記が見られます(!)。同じ換算値は略号表における"d."の項の説明(p. 1)にもうかがわれ、縮尺が1:2と明記してある図中の各々のスケール・バーも、測ってみれば1ディジットが全部1.6 cmの長さを表示。
因みに1.6 cmを28倍すると約45cmで、これは小キュービットの長さと同一となり、王尺として知られるキュービットの長さである52.5 cmには届きません。

1ディジット当たりの違いで見れば、ほんの僅かな数ミリです。
けれどもこれですと、基本となるキュービット尺の長さをこの研究者は一体どのように考えているかが反問されかねず、注意が必要。1.6 cmという値は1.9 cmの単純な誤植なのか、ミスにミスを重ねた計算間違いなのか、それとも小キュービットが適用されるのではという重要な考えを示唆しようとして、錯誤も交えながら言葉足らずに終わっている部分なのか。
それは出土しているコーンの直径がすべてほとんど一緒であるという事実と、どこでどう交差するのか。新王国時代の煉瓦の標準サイズ、特にその厚さと果たして深く関わる問題なのかどうか。
いろいろと混乱を招く箇所かと思われます。

新たに加えられた資料には、著者自身の名が付されています(pp. 233-240)。この著者の意気込みが感じられ、今後の研究の進展が大いに期待されます。
サイトを通じての申し込みによって、購入が可能。煉瓦などに押印されるスタンプに興味を抱いている人であるならば、手元に置く価値がある貴重な一冊で、お勧めです。煉瓦スタンプと思われる若干の例が、先行研究を尊重してそのまま掲載されていますし、もともと王名と私人名との双方に関するスタンプの集成はJ. Spencerによる煉瓦の本(Spencer 1979)などでしか見られず、稀です。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月16日金曜日

Nishi and Hozumi 1985


日本の伝統建築を英語で紹介している絵本。日本建築について書いている英語の本は案外と少なくて、探すのに苦労します。
西和夫は建築史家。穂積和夫はイラストレーター。ともに知られたベテラン。

Kazuo Nishi and Kazuo Hozumi,
Translated, adapted, and with an introduction by H. Mack Horton,
What is Japanese Architecture?
(Kodansha International, Tokyo, 1985.
Originally published under the title
"Nihon kenchiku no katachi:Seikatsu to kenchiku-zokei no rekishi"
by Shokokusha Publishing Co. Ltd., Tokyo, 1983)
144 p.

全体は4つに分かれ、社寺建築、住居と都市、城郭、数寄屋建築の順に説明。けっこう欲張りです。

WORSHIP: The Architecture of Buddhist Temples
and Shinto Shrines

DAILY LIFE: Residential and Urban Architecture

BATTLE: Castles and Castle Towns

ENTERTAINMENT: Architecture in the Sukiya Spirit

工具から仕口の話、伊勢、出雲、奈良や京都の諸遺構、茶室、城下町まで扱っており、それらを英語で何と表現するかを調べる時に便利です。非常に厚い建築学事典というのも出版はされているのですが、こちらは何と言っても、図から探し出すことができるという大きな利点があります。

茶室の下地窓をどう表現するかを調べていて、ここで"wattle"が用いられているのを見て思わず膝を打ちました。イェーツの「イニスフリーの湖島」で出てくる小屋の説明に、これが出てきます。
茶室の簡単な起こし絵まで折り込みで用意されており、魅力的な本。

2009年10月15日木曜日

太田・飯田・鈴木 1966


住宅とは何か、改めて考えると迷宮へと踏み込むことになります。この種のことは、事典で引いて確かめるのが一番。ちょっと古い百科事典を繙くならば、

太田博太郎・飯田喜四郎・鈴木成文
「住宅」、
『世界大百科事典』第11巻
(平凡社、1966年)
pp. 28-40.

が以下の文を記しています。
御存知の通り、各々の先生方は建築学の各分野において、きわめて有名な専門家。
疑う方は、ネットを駆使してみてください。

「住宅は人間生活をいれる容器とも考えられる。あらゆる建築は程度の差はあれ人間の住に対する要求を実現するためにつくられたものではあるが、そのなかでも最も直接的・基本的な要求にこたえるものが住宅であるとも考えられ、とくに家族生活のいとなまれるものをさすことが多い。原始時代における建築の種類は住宅だけで、人間生活は戸外労働等をのぞいてすべて住宅内で行われた。しかし、時代が進み生活が複雑になるにつれて、しだいに各種の用途をもった建築が現われてくる。これを住宅の側からみれば、戸内における人間の生活全部をいれる容器であった住宅から、いろいろの機能が外に分化していったとみることができる。たとえば、古代における倉庫・宗教建築、近世における学校・娯楽機関・旅館、近代における工場・公共建築などの発生がそれである。(中略)こうして住宅の目的は家族の日常生活のためだけにとどまるようになり、その主たる機能は家族の休養にあるということができる。住宅の機能は、このように、そこに住む人の属する土地・社会・時代によって異なっているから、その形態も各人の生活に応じてさまざまな形をとる。しかしまた、逆に現実の住宅の形が、そこに住む人の生活を空間的に強く規制していることも考えなければならない。」(p. 28)

ここでは約10000年の建築史の流れを十数行で描きあらわしていて、非常に見事。
最初、建築は住居だけしかなくて、時代が降るにつれ、死人のための住居である墳墓、また神のための家である神殿などが造形されたという過程を鮮やかに示しています。
19世紀における構造力学の急速な発展も、あるいは「何でも建てられる」というような近年の構造に関するめざましい展開も、ここでは単に、この「機能の外化」を多種多様に促す働きを担うに過ぎないとみなされます。かたちを捨象した極限の考え方。
一室の空間からなっていた原初の建築が、時代とともに部屋数を増し、無数のヴァリエーションを生み出したという図式が明らか。

「外へ分化した」という言い方が秀逸。
近代に至って、住宅が「安らぎ」を目的とする場となり、ここだけが唯一、人間が自分自身を取り戻せる場所へと変貌した経緯もまた示唆されています。自宅から毎朝、働きに出かけるのはいやいやの行為で、家の外で労働力を売り、へとへとになって帰宅し、ようやく自分を取り戻すという構図。
機能の分化が極端にまで進み、住宅には残された「安らぎ」だけが割り当てられている状況です。

現代の都市部ではさらに多様化を極めており、すでに住宅に関する単一の像は薄らぎ始めていて、外食産業の興隆により、家での食事はもちろんのこと、マンガ喫茶がありますから就寝もとっくのとうに「外化」されており、今の世で住宅に残されている特別な機能というのは、一体何なのか、誰も答えられないような有様。

というか、思いつく住宅固有の機能というものがすぐさま、次々と商業化され、外化されていくわけで、こういう世界では新たな住宅を創造しようと試みる建築家は必然的に劣勢の側へと立たされることになります。
けれどもこれは、今までの経緯をゆっくり振り返ってみる良い機会でもあり、100年前の近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトが何を本当に果たしたのかなど、考察する時間を得たとみなすべき。
同じ百科事典では、高名な考古学者が「住宅」と「住居」との違いについて述べています。これも吟味しながら読むべき記述。

八幡一郎
「住居」、
『世界大百科事典』第10巻
(平凡社、1965年)
pp. 755-758.

「<住所>が住む場所を、<住宅>が住むための建物をさすのに対して、<住居>という語には一定の土地に定住して生活を営むための構え方が総合的に含まれている。すなわち、住宅とこれをとりまく庭および住宅内部の家具・器物・装飾品なども含まれる。
人間が一定の土地に生活を営む方式が決定づけられるのは、食物を得るための生産関係、家族および社会の中における人間関係、地形・気候などの自然関係とのからみ合いからである。人間関係としては、休息や睡眠を安静にとる願い、所有している財貨を安全に保持する願いなどがあり、自然関係としては、風雨・寒暑を防ぎ、水や食物をうるのに容易な場所を求める願いなどがある。」(p. 755)

独立して存在するかのようにうかがわれる家と、それを取り巻く諸環境を含めての家という存在にまなざしを送る場合とは、見方が違うのだという判断。

2009年10月14日水曜日

Cadogan, Hatzaki and Vasilakis (eds.) 2004


2000年に開催されたクノッソス宮殿に関する国際会議の報告書。この年はアーサー・エヴァンスがクノッソスの発掘調査を開始した1900年のちょうど100年後に当たり、記念行事として英語とギリシア語の2ヶ国語を使用言語に定め、開かれました。
刊行までに4年かかっていますが、編者たちにとって両言語における綴りや表音の違いが大きく、思わぬ時間を要したと冒頭に書いてあります。

Gerald Cadogan, Eleni Hatzaki and Adonis Vasilakis eds.,
Knossos: Palace, City, State.
Proceedings of the Conference in Herakleion organised by the British School at Athens and the 23rd Ephoreia of Prehistoric and Classical Antiquities of Herakleion, in November 2000, for the Centenary of Sir Arthur Evans's Excavations at Knossos.
British School at Athens Studies 12.
(British School at Athens, London, 2004)
630 p. including CD-ROM.

厚い本で、もし一部分をCD-ROMに回さなかったら、もっと重たい書物になっていたはずです。CD-ROMを添付する出版形態は近年見られるようになりましたが、一般的ではありません。冊子体と電子化された発行物にはそれぞれ短所と長所があり、どちらかが圧倒的に優れているというわけではない。
長く残すことを優先するのであれば、CD-ROMで配布することはもちろん躊躇されます。

全体は54編で、これが13のトピックに分かれます。

From Neolithic to Prepalatial Knossos
Knossos: Palace, city and cemeteries
Politeia
Architecture, arts and crafts
Administration and economy
Religion
Ports of Knossos
Knossos overseas
Greek and Roman Knossos
Knossos: Past and present
Lectures at the Herakleion Museum on 23 March 2000
Contributions to the excavation history of Knossos

クノッソスの宮殿建築に関連する下記の論考、

C. Palyvou, "Outdoor space in Minoan architecture: 'community and privacy'"
(pp. 207-17).

D. J. I. Begg, "An interpretation of mason's marks at Knossos"
(pp. 219-23).

L. Goodison, "From tholos to Throne Room: some considerations of dawn light and directionality in Minoan buildings"
(pp. 339-50).

などもありますが、これらの他に、発掘者エヴァンスについての発表もいくつかあって、こちらの方がどちらかといえば面白い内容を伝えています。どういう経緯でクノッソスの土地を買い集めたのかとか、若い頃は何をやっていたのかとか。
エヴァンスと言えば、自分で解読しようと線文字の資料を独り占めしたり、宮殿の修復方法などで良くないイメージを持たれていますが、改めて公平に彼の人生全体を見直そうという試み。

2009年10月13日火曜日

Stocks 2003


この著者がカイロのファラオニック・ヴィレッジの技術コンサルタントをやっているなんて、初めて知りました。適任かと思われます。
古代エジプトの石材加工について述べている本で、類書と大きく異なっているのは、著者が自分で工具を作り、実際に試して造ってみていることで、この姿勢が徹底しています。
在野の研究者による成果としては、すでにIsler 2001を挙げました。

Denys Allen Stocks,
Experiments in Egyptian Archaeology:
Stoneworking technology in Ancient Egypt

(Routledge, London, 2003)
xxxi, 263 p.

花崗岩を昔の方法で削ったりということを、労力を厭わずやっています。花崗岩を削る時には長い時間がかかり、その時には「つんとする臭いがする」なんて報告してありますが、こんなことは他の本で書いていません。

本人はもちろん大まじめで取り組んでいるわけですけれども、ユーモラスな印象が残るのは、一生懸命に古代のやり方で逐一、石を切ったり削ったり、また道具まで作っているからです。制作途中の、著者が写っている写真も面白い。1941年生まれだから、今年、68歳です。

幻の筒状ドリルも、復原して使ってみています。これは未だにどこからも発見されていない工具で、残存する加工痕より、かなり早くからこういう形状のものが用いられたであろうと、例えばピートリが19世紀末に論考を発表している代物。花崗岩製の棺の内部を刳り貫くためなどに使われたと考えられているものです。

ピラミッド内に残るクフの石棺については詳しい分析を試みており、この時代は柔らかい銅製の工具しかありませんから、この硬い花崗岩製の棺を加工する過程で、1日当たり1キログラムの銅が工具から磨り減ってなくなったであろう、などと詳細な計算もしています。

本を出しているラウトレッジは有名な出版社。エジプト学関連の多くの本も刊行しています。

2009年10月12日月曜日

Kerisel 1987


もう最近亡くなってしまいましたが、非常に見識の広かった土木工学者による書。「基礎の過去と現在:建造者による見えない技芸」というその題名が、著者の意図を良くあらわしています。地域・時代を問わず、人間が造った建造物と、それを支えた地盤の研究に一生を捧げた人物です。Crozat 1997でこの人の著作が引用されている、そう書いたこともありました。

Jean Kerisel,
Down to Earth.
Foundations Past and Present:
The Invisible Art of the Builder
(A. A. Balkema, Rotterdam, 1991)
ix, 149 p.

何冊も本を書いていますけれども、この本が一番特色を打ち出しているかもしれません。
扱う対象は恐竜の足跡から始まって、メソポタミアのジッグラト、エジプトのピラミッド、ギリシア・ローマの遺構、古代の中国、インドネシアのボロブドゥール、ピサの斜塔から各種の橋梁やダム、パナマ運河、エッフェル塔などに至るまで、本当に多種多様です。
地球上に築かれた構築物であり、建造される前に基礎工事がなされたというこのただ一点だけの共通点で、これらは結ばれています。

安定しているように見える地面も、実を言えばそうではなく、地球は動いているものなのだというプレート・テクトニクスも紹介されています。もちろん、建物を支える地盤とはスケールの違う話であるのですが、例えば王家の谷の岩窟墓の崩壊過程を示しているように、地球のゆっくりとした動きから眺めるならば、いずれはどの構築物も消えて無くなるのだというような徹底的に醒めた視点がどこかに感じられ、それがたぶん、この本の特色になっています。

ピラミッドの勾配に関しても独自の見解を有していたように見受けられ、この点でも注目されます。きわめてユニークな人物による本で、死去が惜しまれます。

2009年10月9日金曜日

Iversen 1968-1972


オベリスクがヨーロッパに多数渡った顛末を述べた2巻本。
縦長の変型版が採用されており、強い印象を与える刊行物です。1巻目と2巻目との間に4年間の開きがありますが、どうやらイスタンブールのオベリスクを調べていくうちに記述が増えて、当初の出版予定に大きな変更が強いられたらしい。第2巻目の序文には、「第3巻目でフランス、ドイツ、イタリア、アメリカのオベリスクを扱いたい」と記していますけれども、もはや続巻を望むのは無理なようです。

建築関連で、このように中途で刊行が挫折しているシリーズがいくつもあって、バダウィによる「古代エジプト建築史」の4冊目が結局は出なかったのを初めとして、ペンシルヴェニア大学隊によるマルカタ王宮の報告書シリーズ(2冊のみが既刊)、イタリア隊による全ピラミッド調査報告書のシリーズ(2〜8巻だけが既刊)など、基本的な部分で問題が多いこと、この上ありません。

Erik Iversen,
Obelisks in Exile, 2 vols.
(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1968-1972)

Vol. I: The Obelisks of Rome (1968)
206 p.

Vol. II: The Obelisks of Istanbul and England (1972)
168 p.

イヴァーセンという研究者はとても面白い人で、壁画にうかがわれる下書きの格子線とキュービット尺との関連を述べた研究が一番知られているかと思います。 この考察に対しては数学者を夫に持っていたアメリカの学者ロビンスが反論を発表し、今ではこちらの方が支持されている傾向にありますが、反対意見も見られることは記憶にとどめておいていい。Robins 1994を参照。在野の研究者レゴンの意見も、読むべき価値があると思います。

イヴァーセンのやってきたことはバラバラではないかとも一見、感じられます。よく知られた"Canon and Proportions in Egyptian Art"の初版が発表されたのと同じ年の1955年に、赤や青、緑や黄色といった顔料がどのような名前を有し、記されているのかを考察しており、数例だけ残っている「色(顔料)のリスト」を調べ上げました。
古代エジプトにおいて、色というものがどのように考えられたのかを知りたい人にとっては、基本の文献。

Erik Iversen,
Some Ancient Egyptian Paints and Pigments:
A Lexicographical Study.

Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab;
Historisk-filologisske Meddelelser, bind 34, nr. 4
(Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab, Kobenhavn, 1955)
42 p.

エジプト学で見つかるさまざまな穴を、上手に探ることのできる人と言っていい。
1992年には献呈論文集も出されました。

Jürgen Osing and Erland Kolding Nielsen (eds.),
The Heritage of Ancient Egypt:
Studies in Honour of Erik Iversen.

CNI Publications 13
(The Carsten Niebuhr Institute (CNI) of Ancient Near Eastern Studies, University of Copenhagen / Museum Tusculanum Press, Copenhagen, 1992)
123 p.

編者はオージング・他で、他にアスマン、エデル、エドワーズ、ヘルク、ルクランといった大御所たちが目次に名を連ねています。

北欧の代表的な研究者のひとりとして数え上げることができ、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアなどと比べれば傍流に属する環境の内にあって、エジプト学に対し、何ができるのかを絶えず考え続けた人だということが伝わってきます。
日本も何となくやって行けるのではないかと、勇気を与えてくれる学者。

2009年10月8日木曜日

Stadelmann 1991 (2., überarb. und erw. Aufl.)


ピラミッドの通史についてエジプト学者が本腰を入れて書いた専門的な刊行物。現在、関連する研究論文においては、もっとも引用される回数が多い本かと思われます。
初版は1985年で、第2版が出回っています。

Rainer Stadelmann,
Die ägyptischen Pyramiden vom Ziegelbau zum Weltwunder.
Kulturgeschichte der antiken Welt, Band 30
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991.
2., überarbeitete und erweiterte Auflage)
313 p.

ピラミッドに関して、おそらく一般の人が読む機会が多いのは、

Mark Lehner,
The Complete Pyramids
(Thames and Hudson, London, 1997)
256 p.

で、これは下記のように和訳も出ており、

マーク・レーナー著、内田杉彦訳、
「図説 ピラミッド大百科」
(東洋書林、2000年)
256 p.

広く馴染みがあるだろうと推測されますが、著者のレーナーは格別、ピラミッドの歴史全体についてこれまで注目される論文を書いている研究者であるわけでもなく、彼が発表している論考の内容はだいたい、自身が関わっているギザにおける調査区域の成果の記述から一歩も出るものではありません。
ピラミッドの通史については画期的な内容を含んでいないことを勘案すべき。建築学的観点からは、これは言わば、カタログに該当します。

Mark Lehner,
"The Tomb Survey",
in Geoffrey T. Martin,
The Royal Tomb at el-'Amarna II.
Archaeological Survey of Egypt (ASE) 35
(EES, London, 1989)
pp. 5-9.

では、アマルナに残るアクエンアテンの墓の断面において、黄金比に従った計画が推測されると記しており、その見方をC. ロッシ(Rossi 2004)によって根本的に手厳しく批判されています。あんまり建築学的な素養がない人だと言うことが、これだけでうかがわれます。

ピラミッド全体を見渡そうとした本で、専門家が書いたものとしてはまず、大御所のJean Philippe Lauerの執筆した書が掲げられますけれども、ロエールの著作に関しては、現在ではかなりの訂正が必要。
ネチェリケト王によるサッカーラの最初のピラミッド(階段ピラミッド)の調査と復原に長く携わった建築家でしたが、彼の論考が今後、どのように評価されるかは注目すべきです。

年代順としては、次いでエドワーズの本、

I. E. S. Edwards,
The Pyramids of Egypt
(Viking Penguin Inc., New York, 1986, revised edition. First published in 1947)
xxii, 328 p.

が挙げられるかと思います。この本は多くの読者を獲得しました。和訳もやはり刊行されています。
近年に刊行されたヴェルナーによるピラミッドの本も和訳されていて、これはいろいろな逸話も交えており、面白い本です。チェコスロヴァキアの研究者で、もちろんエジプト学におけるチェコの立場を高めようと目論まれた書。

Miroslav Verner,
Deutsch von Kathrin Liedtke,
Die Pyramiden
(Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1998. Die tschechische Originalausgabe erschien 1997 unter dem Titel bei Academia Prag)
540 p.

Kurt MendelssohnによるThe Riddle of Pyramids (London, 1974)を含め、日本語でこれらの主要な書が逐一翻訳されている点は、活用されるべき。

シュタデルマンによるこの本の評価は、これからです。
中王国時代の、テーベにおけるメンチュヘテプの神殿の新たな復原は、かなりの程度、喧伝されました。ウィンロックによるピラミッドを載せた復原案がこれまで知られていましたが、文献学上の記述を重視したこの案に対し、建築家ディーター・アーノルドがこれに異を唱え、史料として残る建物の記述の方法にはピラミッドのかたちの文字を決定詞として記す例が他にあることを示し、構造的な見地からも、上部にはピラミッドがなかったはずだと判断しています。
これを受け、シュタデルマンは「原初の丘」を思わせる盛り土と、その上に生えた木々の姿を見せる復原案を発表。復原を巡る可能性の掛け金が外されたのであれば、それをもっとも遠くにまで引き延ばした場合にはどうなるのかという提案です。
こういうところにシュタデルマンの本領があらわれるように思われます。

古代エジプトの王宮についても数多く発言しており、思い切ったことも書く人です。
ピラミッドを調べようと志したら、必ず突き当たる重要な本。

2009年10月7日水曜日

Lawrence 1983 (5th ed.)


古代ギリシア建築に関する解説書で、良く取り上げられる本。現在流通しているのは第5版で、1957年の初版から、細かくほぼ5年おきに改訂がなされ、1973年の第4版が出た10年後、さらに改訂が重ねられました。ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの一冊。

Arnold Walter Lawrence,
revised by R. A. Tomlinson,
Greek Architecture.
Yale University Press Pelican History of Art (founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1983.
5th edition. First published in 1957, Penguin Books, Harmondsworth, in series: Pelican History of Art)
xv, 243 p.

著者は城塞の専門家でもあり、そのために軍事建築の歴史を辿る本でも、彼の名前を見ることがしばしばです。城塞に関連する本に関してはMcNicoll 1997、またLander 1984で触れました。特に、

A. W. Lawrence,
Greek Aims in Fortification
(Oxford, 1979)

は、良く引用される書。
エジプトの南シナイ・ラーヤ遺跡には珊瑚ブロック造の大規模な城塞が残っており、ここからはイスラーム時代の遺物が出土していますが、ビザンティン時代にまで建造年代が遡ります。

Mutsuo Kawatoko and Yoko Shindo (eds.),
Artifacts of the Islamic Period Excavated in the Raya/al-Tur Area, South Sinai, Egypt:
Ceramics / Glass / Painted Plaster

(Joint Usage / Research Center for Islamic Area Studies, Waseda University, Tokyo, 2009)
(v), 32 color pls., 79 p.

"A fort constructed in the Byzantine period was found in the excavations at the Raya site, and we discovered a large quantity of glassware and earthenware that is an immediate successor to the Byzantine culture, luster-painted pottery, pale green or purple painted pottery closely related to Iraq, earthenware associated with the Syrian and Palestinian cultural zone, together with gold coins and glass weights which had been minted and made in Egypt."
(pp. 2-3)

という記述を参照。
時代が異なっても、こういう遺構を調べる時にはLawrenceの著作が重要。

目次がかなりたくさんの章に分けられています。全体を、"Part One: Pre-Hellenic Building"と、"Part Two: Hellenic Architecture"のふたつに大きく分けていて、比重のかけ方の違いを題名でもページ数でも表明。

前半の1/3で新石器時代と青銅器時代を扱い、クノッソスなどのクレタ島の王宮群もここで述べられています。ミノア時代が解説された後にミケーネを説明(pp. 43-55)。
後半の第2部では神殿の祖型を述べ、オーダーを紹介し、アテネのアクロポリスに触れるのが第14章。次いでヘレニズムの建築については第19章で語り、最後近くでは劇場に言及。
各章に詳細な註が設けられていますが、参考文献も章ごとに紹介されているのはちょっと使いづらいところ。
非常に評価の高い著作。

2009年10月6日火曜日

Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972


非常に広範囲にわたった、集落や都市に関する国際的学会の会議録。全部で1000ページを超えます。錚々たる顔ぶれが揃い、発表がおこなわれています。会議が開催されたのは1970年12月。
時代も地域も異なる集落、また都市というものを、今一度見直そうという試み。これだけ大規模な催しは珍しい。編者のひとりであるUckoは、比較考古学の中心的な役割を担った人物。

Peter John Ucko, Ruth Tringham and G. W. Dimbleby (eds.),
Man, Settlement and Urbanism.
Proceedings of a Meeting of the Research Seminar in Archaeology and Related Subjects held at the Institute of Archaeology, London University.
(Schenkman Publishing Co., Cambridge, Massachusetts, 1972)
xxviii, 979 p.

Contents:
Preface (ix)
List of participants (xv)
Introduction (xix)

Part One: Non-urban settlement
Section One: Concepts, in theory and practice (p. 3)
Section Two: The influence of mobility on non-urban settlement (p. 115)
Section Three: The influence of ecology and agriculture on non-urban settlement (p. 211)

Part Two: Factors influencing both non-urban and urban settlement
Section One: Population, disease and demography (p. 345)
Section Two: Territoriality and the demarcation of Land (p. 427)
Section Three: Techniques, planning and cultural change (p. 487)

Part Three: Urban settlement
Section One: Development and characteristics of urbanism (p. 559)
Section Two: Regional and local evidence for urban settlement
Subsection A: The Nile Valley (p. 639)
Subsection B: Western Asia and the Aegean (p. 735)
Subsection C: Western Europe (p. 843)
Subsection D: Sub-Saharan Africa (p. 883)
Subsection E: Central and South America (p. 903)
Conclusion (p. 947)

General index (p. 955)
Index of sites and localities (p. 961)
Index of authors (p. 967)

あまりにも話題が多岐にわたるため、索引には地名や著者名が検索できるように工夫されています。

第3部のAがナイル川を扱っており、B. J. ケンプが"Fortified towns in Nubia"や"Temple and town in ancient Egypt"を書いている他、D. オコーナーが"The geography of settlement in ancient Egypt"と題した論考を寄稿。ケンプがこの時、すでにセセビについて言及しているのは興味深い。H. S. スミスは"Society and settlement in ancient Egypt"を、また続いてE. アップヒルの"The concept of the Egyptian palace as a ruling machine"が掲載されています。
これは王宮建築に関する論考として、しばしば引用されていた論文。西洋と東洋の「宮殿」の違いがまず指摘されており、次いでラメセス3世葬祭殿(メディネット・ハブ)の宮殿部分を説明していますが、新たな情報が提示されている今、より包括的な論考が求められるところ。

2009年10月5日月曜日

Hayes 1937


断片的に出土した彩色陶板を報告し、復原考察をおこなったもの。ラメセス2世の宮殿があった場所から見つかった絵付きの飾り板を、そのモティーフや形状によってタイプ別に分け、次いでどこで使われていたかを探っています。
きわめて少ない情報から建築を想像して組み立てていくパズルをやっており、絵画史料を駆使して復原を進めている典型的な論考。わずか数十ページからなる薄い冊子で、最終ページには500部発行ということが明記してあります。報告書の発行部数としてはこの数字が最小限度であるはずで、カラー図版もなく、安く作られたと思われる報告書。
この頃は、第二次世界大戦が始まろうとしている不穏な時代でもありました。
カンティールを含め、第2中間期〜新王国時代における下エジプトの都市に関する総合的な研究は、この後にマンフレッド・ビータックによる大規模な発掘調査へと引き継がれます。
キーワードはアヴァリスやテル・エル・ダバァ。

William C. Hayes,
Glazed Tiles from a Palace of Ramesses II at Kantir.
The Metropolitan Museum of Art Papers, No. 3
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1937)
46 p., 13 plates

著者はニューヨークのメトロポリタン美術館に勤め、収蔵品に関する公開に貢献しました。実地の訓練で古代エジプト語を覚えた人です。ヒエラティックの読み手としても知られ、建築に関わる重要な考察も残しました。JNESに4回に渡って連載したマルカタ王宮出土の文字資料の報告は絶対に欠かすことのできないものだし、またハトシェプスト女王に仕えて寵愛された建築家センムトの墓出土の、石灰岩片のヒエラティック・インスクリプションの読解がなされた

William C. Hayes,
Ostraka and Name Stones from the Tomb of Sen-mut (No. 71) at Thebes.
Publication of the Metropolitan Museum of Art, Egyptian Expedition Vol. XV
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1942)
viii, 57 p., 33 plates

は、「ネビィ」という尺度を考える上で必ず触れられる研究。トトメス時代のオストラカをいくつも読んで建築工事の進展の様子を述べた面白い論文をJEAに書いたりもしています。
代表的な著作はしかし、おそらくは

William C. Hayes,
The Scepter of Egypt:
A Background for the Study of the Egyptian Antiquities in The Metropolitan Museum of Art,

2 vols.
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1953)
xviii, 421 p. + xv, 526 p.

で、メトロポリタン美術館に収蔵されている遺物を紹介することを目的とした通史。載せる図版が先に決まっていて書かれた2巻本で、良くできています。これを見ればこの美術館に収められている名品がひと通り解説されるという、うまい仕組みになっており、重版が出されている理由も分かります。

Smith 1998 (3rd ed.)


50年以上も前の出版ながら、古代エジプトの美術と建築を語る上では今なお基本の書籍。W. K. シンプソンによって改訂がなされました。
最新の版ではカラー写真も掲載されると同時に判型もA4版へと大きく変更され、見やすくなっています。ペーパーバックが出ていますので、美術と建築の双方を手早く知りたいという方には、まずこの本がお勧め。定評あるペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの中の一冊。最初の監修者は、高名な建築史家ペヴスナーです。
同シリーズのMcKenzie 2007は、この欄で一番最初に取り上げました。

William Stevenson Smith,
revised with additions by W. K. Simpson,
The Art and Architecture of Ancient Egypt.
Yale University Press Pelican History of Art (Founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1998, 3rd ed. First published in 1958 by Penguin Books)
xii, 296 p.

エジプト美術については以前にGay Robins, The Art of Ancient Egypt (London, 1997)を挙げましたが、建築を彼女は扱っていません。「美術と建築」のふたつを本格的に扱おうとした本は、実は数が少ないという事情があります。当方が知る限り、おそらくは最後の試み。

エジプト学に関わっている建築の専門家は、美術の領域にまで立ち入る余力をもはや持っていません。美術史家による鑑別の眼力が一方で、なかなか他の分野の研究者によって支持されないという問題に関しては、例えばBerman (ed.) 1990で触れました。すでに学問の細分化が極端にまで進んでいます。
美術と建築の分野で対話が困難な状況ですから、考古と科学分析との橋渡しは、さらに難渋を極めます。今日、他分野の読者へ向けての論理力がますます必要になっている所以です。

スミスは美術史家で、博士論文はエジプトの彫刻を扱っており、執筆したのは第二次世界大戦の直前でした。ジョージ・ライスナーの精緻な考古発掘の仕事を助け、第二次世界大戦中に亡くなったライスナーに代わって、彼のギザ発掘調査を推し進めました。
ライスナーが従来の発掘方法をどのように変えたのかは、今さらここで紹介することもないでしょう。美術史家がその発掘調査を引き継ぐのですから、かなりの負担であったことは容易に推察されます。

スミスがどれだけの論文を専門雑誌に書いているか、調べようと思ったら、ほとんど徒労に終わるのでは。この人の功績は、数少ない著作で見るしかない。
スミスの代表作を挙げろと言うことでしたら、まずは彼の専門に関わる内容の

William Stevenson Smith,
A History of Egyptian Sculpture and Painting in the Old Kingdom
(published on behalf of the Museum of Fine Arts, Boston, by the Oxford University Press, Oxford, 1946)
xv, 422 p., 60 pls., 2 color pls.

が注目され、戦争直後に出されている点に注意。
エジプトの彫刻に関してはVandier 1952-1978という包括的な労作のうちの注目すべき第3巻があり、これはスミスによる本書と同じ年に出た厚い解説書。図版編も合わせるならば900ページに及ぼうとする大著です。彼はどのような思いでこれを見たでしょうか。
ライスナーの遺した仕事を纏める作業は、

George Andrew Reisner,
completed and revised by W. S. Smith,
A History of the Giza Necropolis II:
The Tomb of Hetep-heres the Mother of Cheops.
A Study of Egyptian Civilization in the Old Kingdom
(Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1955)
xxv, 107 p., 148 figs, 55 pls.

として出版されており、クフ王の母親であるヘテプヘレスの墓の報告書を編纂するという重大な責務を果たしました。エジプト学にとって、この墓がどれだけの意味を有するのかを充分わきまえた仕事。この墓からは古王国時代のきわめて重要な家具が出土しており、復原がカイロ美術館に展示されています。組み立て式の天蓋は特に貴重。有名なこのA History of the Giza Necropolisは、John William Pye Booksから20世紀の終わりに再版も出ています。
古代エジプトの美術と建築の総論を書くという、驚くべき仕事(本書)の後には、

William Stevenson Smith,
Interconnections in the Ancient Near East:
A Study of the Relationships between the Arts of Egypt, the Aegean, and Western Asia

(Yale University Press, New Haven and London, 1965)
xxxii, 202 p., 221 figs.

を出しています。エジプト学の側から、これだけ明瞭に近隣諸国との美術史学的な関連を探ることを題名に打ち出している論考も珍しい。
出版は彼の死の数年前の、意欲作です。当時のエジプト学に欠けている視点を補おうとした書。

ここで取り上げるThe Art and Architecture of Ancient Egyptは、古代エジプトにおける王宮建築の研究を飛躍的に前進させたという点で画期的です。調査がなされながらも、本報告書が出ていなかったディール・アル・バラスやマルカタ王宮の調査資料を丹念に調べて概要を伝えており、専門外の仕事であったにも関わらず、その後のアマルナ王宮へ向けての建築の流れをうまく描いています。
ここにはたぶん、当時、エジプト建築史の本を刊行していたA. バダウィの著作、Badawy 1954-1968への不満もあったのではと憶測がなされます。ここでも、「どのような情報が不足しているのか」についての配慮がなされており、とても有能な人であったことが良く分かります。60歳ほどで亡くなったのが本当に惜しまれます。
ボストン美術館の古代エジプト部門を牽引してきた人間の系譜、すなわちG. ライスナー、W. S. スミス、W. K. シンプソン、E. ブロヴァルスキー、R. フリード、P. D. マニュエリアンたちのさまざまな著作を踏まえながら、各々が果たしている役割に考えを巡らせると感慨深い。
ボストン博物館によるギザに関する史料集成のページ、

http://www.gizapyramids.org/code/emuseum.asp?newpage=authors_list

からは、スミスの著作の多くのダウンロードが可能。