2009年10月19日月曜日

Zenihiro 2009


日本人の若手研究者が、修士論文を英語で出版した本。
柔らかい藁色のペーパーバックで、表紙では著者名が省かれており、それは序文にも記されていないから、この本を誰が執筆したのかは最後の奥付を見るまではっきりと分かりません。欧米の本と日本の書籍とでは、書誌の印刷されるページが異なるので、面倒なことを嫌う外国の学者によっては、戸惑う部分かもしれない。
にも関わらず、Thames & Hudson社の刊行書を念頭に置いたその攻撃的なタイトルの意味するところは明瞭で、言わば学界への殴り込みに相当します。

Kento Zenihiro,
The Complete Funerary Cones
(Privately published, Maruzen, Tokyo, 2009)
(iv), 307 p.

関連サイト:
http://www.funerarycones.com/

Contents:
Abbreviations (p. 1)
0. Introduction (p. 3)
1. Brief overview and reasons for the use of cones (p. 5)
2. Funerary cones (p. 10)
3. Comparison of titles based on dates (p. 27)
4. Conclusion (p. 36)

References (p. 37)

Appendices
1. A catalogue of all known cones (p. 48)
Index for Appendix 1 (p. 241)
2. All titles of the deceased who appears in the present work (p. 265)
Index for Appendix 2 (p. 284)
3. A table designating the date and the origin of each cone (p. 293)
4. Assignments by each scholar (p. 295)

Acknowledgements (p. 307)

若い日本人による、こういう大胆不敵な企ては当方の知る限り、これまでなかったと思われるので非常に痛快。
葬祭に関連したコーン(Funerary Cone)がほとんどテーベからしか発見されないという点は、López 1978-1984 (O. Turin)の本の紹介の欄で前に触れました。石灰岩片の上に書かれたヒエラティック・オストラカも同じ。テーベという土地の独自性を示すひとつの指標。
エジプト学においては出土場所も出土点数も限られる特異な遺物であり、編年もこれまであまり考察されなかった状況でしたが、近年、イギリスで纏められた博士論文、

M. Al-Thibi,
Aspects of Egyptian Funerary Cones
(Ph.D. thesis submitted to the University of Liverpool, 2005)

が出たそうで、これに対するひっくり返しが試みられています。
コーンは建築学的にも、軒飾りの一形態として考察されるべき遺物。

第51回日本オリエント学会大会(2009年、京都)での著者による発表で明らかなように、ここではリヴァプール大学の博士論文に対し、日本の修士論文によって「そりゃ違う」という間違いの指摘が本格的に開始されているわけで、これが面白くないはずはありません。リヴァプールの側では、いったい誰が博士論文を審査したのかも同時に問われることになります。

英文によるサイトも併行して開設し、限定しながらも情報を公開しつつ、幅広く意見を求めている点も注目されます。本のタイトルを勘案した方法を採用しており、評価されるべき。
まずはできるだけ品格が上位のエジプト学の専門誌に概要を投稿して・・・などという、従来の因襲的で迂遠な回路を無視し、いきなり英語で単著の出版に及んでいる点が目覚ましい。これに続く人たちが次々と出てくればいいのですが。
カラーページも含んでおり、説明図に工夫がなされています。

スケール・バーをセンチ表示ではなく、古代エジプトのディジット単位だけにしている点は、ちょっと思い切った方法です。センチメートルの単位による実寸の併記がないのは、いささか気になるところ。
11ページには長さが"52.5 cm (= 1 cubit)"のコーンが存在すると書かれていて、ここに振られた註を見るとD. Arnoldからの引用であることが分かり、なるほどそうであるならば、未だエジプト学者たちの間では広く定着していると思われない、

1.875 cm×28 ディジット=7.5 cm(4ディジット)×7 パーム=1 王尺(キュービット)=52.5 cm

という、建築の専門家アーノルドによる遺構の報告書において必ず用いられている換算の値が、この著作では珍しく前提にされているのだな、おお建築関係者にとってはとても喜ばしいことだと感心するのですが、でも他方でその同じページの数行下には、これと矛盾して建築に関わる学徒の期待を完全に裏切る"1 digit=1.6 cm"、という表記が見られます(!)。同じ換算値は略号表における"d."の項の説明(p. 1)にもうかがわれ、縮尺が1:2と明記してある図中の各々のスケール・バーも、測ってみれば1ディジットが全部1.6 cmの長さを表示。
因みに1.6 cmを28倍すると約45cmで、これは小キュービットの長さと同一となり、王尺として知られるキュービットの長さである52.5 cmには届きません。

1ディジット当たりの違いで見れば、ほんの僅かな数ミリです。
けれどもこれですと、基本となるキュービット尺の長さをこの研究者は一体どのように考えているかが反問されかねず、注意が必要。1.6 cmという値は1.9 cmの単純な誤植なのか、ミスにミスを重ねた計算間違いなのか、それとも小キュービットが適用されるのではという重要な考えを示唆しようとして、錯誤も交えながら言葉足らずに終わっている部分なのか。
それは出土しているコーンの直径がすべてほとんど一緒であるという事実と、どこでどう交差するのか。新王国時代の煉瓦の標準サイズ、特にその厚さと果たして深く関わる問題なのかどうか。
いろいろと混乱を招く箇所かと思われます。

新たに加えられた資料には、著者自身の名が付されています(pp. 233-240)。この著者の意気込みが感じられ、今後の研究の進展が大いに期待されます。
サイトを通じての申し込みによって、購入が可能。煉瓦などに押印されるスタンプに興味を抱いている人であるならば、手元に置く価値がある貴重な一冊で、お勧めです。煉瓦スタンプと思われる若干の例が、先行研究を尊重してそのまま掲載されていますし、もともと王名と私人名との双方に関するスタンプの集成はJ. Spencerによる煉瓦の本(Spencer 1979)などでしか見られず、稀です。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月16日金曜日

Nishi and Hozumi 1985


日本の伝統建築を英語で紹介している絵本。日本建築について書いている英語の本は案外と少なくて、探すのに苦労します。
西和夫は建築史家。穂積和夫はイラストレーター。ともに知られたベテラン。

Kazuo Nishi and Kazuo Hozumi,
Translated, adapted, and with an introduction by H. Mack Horton,
What is Japanese Architecture?
(Kodansha International, Tokyo, 1985.
Originally published under the title
"Nihon kenchiku no katachi:Seikatsu to kenchiku-zokei no rekishi"
by Shokokusha Publishing Co. Ltd., Tokyo, 1983)
144 p.

全体は4つに分かれ、社寺建築、住居と都市、城郭、数寄屋建築の順に説明。けっこう欲張りです。

WORSHIP: The Architecture of Buddhist Temples
and Shinto Shrines

DAILY LIFE: Residential and Urban Architecture

BATTLE: Castles and Castle Towns

ENTERTAINMENT: Architecture in the Sukiya Spirit

工具から仕口の話、伊勢、出雲、奈良や京都の諸遺構、茶室、城下町まで扱っており、それらを英語で何と表現するかを調べる時に便利です。非常に厚い建築学事典というのも出版はされているのですが、こちらは何と言っても、図から探し出すことができるという大きな利点があります。

茶室の下地窓をどう表現するかを調べていて、ここで"wattle"が用いられているのを見て思わず膝を打ちました。イェーツの「イニスフリーの湖島」で出てくる小屋の説明に、これが出てきます。
茶室の簡単な起こし絵まで折り込みで用意されており、魅力的な本。

2009年10月15日木曜日

太田・飯田・鈴木 1966


住宅とは何か、改めて考えると迷宮へと踏み込むことになります。この種のことは、事典で引いて確かめるのが一番。ちょっと古い百科事典を繙くならば、

太田博太郎・飯田喜四郎・鈴木成文
「住宅」、
『世界大百科事典』第11巻
(平凡社、1966年)
pp. 28-40.

が以下の文を記しています。
御存知の通り、各々の先生方は建築学の各分野において、きわめて有名な専門家。
疑う方は、ネットを駆使してみてください。

「住宅は人間生活をいれる容器とも考えられる。あらゆる建築は程度の差はあれ人間の住に対する要求を実現するためにつくられたものではあるが、そのなかでも最も直接的・基本的な要求にこたえるものが住宅であるとも考えられ、とくに家族生活のいとなまれるものをさすことが多い。原始時代における建築の種類は住宅だけで、人間生活は戸外労働等をのぞいてすべて住宅内で行われた。しかし、時代が進み生活が複雑になるにつれて、しだいに各種の用途をもった建築が現われてくる。これを住宅の側からみれば、戸内における人間の生活全部をいれる容器であった住宅から、いろいろの機能が外に分化していったとみることができる。たとえば、古代における倉庫・宗教建築、近世における学校・娯楽機関・旅館、近代における工場・公共建築などの発生がそれである。(中略)こうして住宅の目的は家族の日常生活のためだけにとどまるようになり、その主たる機能は家族の休養にあるということができる。住宅の機能は、このように、そこに住む人の属する土地・社会・時代によって異なっているから、その形態も各人の生活に応じてさまざまな形をとる。しかしまた、逆に現実の住宅の形が、そこに住む人の生活を空間的に強く規制していることも考えなければならない。」(p. 28)

ここでは約10000年の建築史の流れを十数行で描きあらわしていて、非常に見事。
最初、建築は住居だけしかなくて、時代が降るにつれ、死人のための住居である墳墓、また神のための家である神殿などが造形されたという過程を鮮やかに示しています。
19世紀における構造力学の急速な発展も、あるいは「何でも建てられる」というような近年の構造に関するめざましい展開も、ここでは単に、この「機能の外化」を多種多様に促す働きを担うに過ぎないとみなされます。かたちを捨象した極限の考え方。
一室の空間からなっていた原初の建築が、時代とともに部屋数を増し、無数のヴァリエーションを生み出したという図式が明らか。

「外へ分化した」という言い方が秀逸。
近代に至って、住宅が「安らぎ」を目的とする場となり、ここだけが唯一、人間が自分自身を取り戻せる場所へと変貌した経緯もまた示唆されています。自宅から毎朝、働きに出かけるのはいやいやの行為で、家の外で労働力を売り、へとへとになって帰宅し、ようやく自分を取り戻すという構図。
機能の分化が極端にまで進み、住宅には残された「安らぎ」だけが割り当てられている状況です。

現代の都市部ではさらに多様化を極めており、すでに住宅に関する単一の像は薄らぎ始めていて、外食産業の興隆により、家での食事はもちろんのこと、マンガ喫茶がありますから就寝もとっくのとうに「外化」されており、今の世で住宅に残されている特別な機能というのは、一体何なのか、誰も答えられないような有様。

というか、思いつく住宅固有の機能というものがすぐさま、次々と商業化され、外化されていくわけで、こういう世界では新たな住宅を創造しようと試みる建築家は必然的に劣勢の側へと立たされることになります。
けれどもこれは、今までの経緯をゆっくり振り返ってみる良い機会でもあり、100年前の近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトが何を本当に果たしたのかなど、考察する時間を得たとみなすべき。
同じ百科事典では、高名な考古学者が「住宅」と「住居」との違いについて述べています。これも吟味しながら読むべき記述。

八幡一郎
「住居」、
『世界大百科事典』第10巻
(平凡社、1965年)
pp. 755-758.

「<住所>が住む場所を、<住宅>が住むための建物をさすのに対して、<住居>という語には一定の土地に定住して生活を営むための構え方が総合的に含まれている。すなわち、住宅とこれをとりまく庭および住宅内部の家具・器物・装飾品なども含まれる。
人間が一定の土地に生活を営む方式が決定づけられるのは、食物を得るための生産関係、家族および社会の中における人間関係、地形・気候などの自然関係とのからみ合いからである。人間関係としては、休息や睡眠を安静にとる願い、所有している財貨を安全に保持する願いなどがあり、自然関係としては、風雨・寒暑を防ぎ、水や食物をうるのに容易な場所を求める願いなどがある。」(p. 755)

独立して存在するかのようにうかがわれる家と、それを取り巻く諸環境を含めての家という存在にまなざしを送る場合とは、見方が違うのだという判断。

2009年10月14日水曜日

Cadogan, Hatzaki and Vasilakis (eds.) 2004


2000年に開催されたクノッソス宮殿に関する国際会議の報告書。この年はアーサー・エヴァンスがクノッソスの発掘調査を開始した1900年のちょうど100年後に当たり、記念行事として英語とギリシア語の2ヶ国語を使用言語に定め、開かれました。
刊行までに4年かかっていますが、編者たちにとって両言語における綴りや表音の違いが大きく、思わぬ時間を要したと冒頭に書いてあります。

Gerald Cadogan, Eleni Hatzaki and Adonis Vasilakis eds.,
Knossos: Palace, City, State.
Proceedings of the Conference in Herakleion organised by the British School at Athens and the 23rd Ephoreia of Prehistoric and Classical Antiquities of Herakleion, in November 2000, for the Centenary of Sir Arthur Evans's Excavations at Knossos.
British School at Athens Studies 12.
(British School at Athens, London, 2004)
630 p. including CD-ROM.

厚い本で、もし一部分をCD-ROMに回さなかったら、もっと重たい書物になっていたはずです。CD-ROMを添付する出版形態は近年見られるようになりましたが、一般的ではありません。冊子体と電子化された発行物にはそれぞれ短所と長所があり、どちらかが圧倒的に優れているというわけではない。
長く残すことを優先するのであれば、CD-ROMで配布することはもちろん躊躇されます。

全体は54編で、これが13のトピックに分かれます。

From Neolithic to Prepalatial Knossos
Knossos: Palace, city and cemeteries
Politeia
Architecture, arts and crafts
Administration and economy
Religion
Ports of Knossos
Knossos overseas
Greek and Roman Knossos
Knossos: Past and present
Lectures at the Herakleion Museum on 23 March 2000
Contributions to the excavation history of Knossos

クノッソスの宮殿建築に関連する下記の論考、

C. Palyvou, "Outdoor space in Minoan architecture: 'community and privacy'"
(pp. 207-17).

D. J. I. Begg, "An interpretation of mason's marks at Knossos"
(pp. 219-23).

L. Goodison, "From tholos to Throne Room: some considerations of dawn light and directionality in Minoan buildings"
(pp. 339-50).

などもありますが、これらの他に、発掘者エヴァンスについての発表もいくつかあって、こちらの方がどちらかといえば面白い内容を伝えています。どういう経緯でクノッソスの土地を買い集めたのかとか、若い頃は何をやっていたのかとか。
エヴァンスと言えば、自分で解読しようと線文字の資料を独り占めしたり、宮殿の修復方法などで良くないイメージを持たれていますが、改めて公平に彼の人生全体を見直そうという試み。

2009年10月13日火曜日

Stocks 2003


この著者がカイロのファラオニック・ヴィレッジの技術コンサルタントをやっているなんて、初めて知りました。適任かと思われます。
古代エジプトの石材加工について述べている本で、類書と大きく異なっているのは、著者が自分で工具を作り、実際に試して造ってみていることで、この姿勢が徹底しています。
在野の研究者による成果としては、すでにIsler 2001を挙げました。

Denys Allen Stocks,
Experiments in Egyptian Archaeology:
Stoneworking technology in Ancient Egypt

(Routledge, London, 2003)
xxxi, 263 p.

花崗岩を昔の方法で削ったりということを、労力を厭わずやっています。花崗岩を削る時には長い時間がかかり、その時には「つんとする臭いがする」なんて報告してありますが、こんなことは他の本で書いていません。

本人はもちろん大まじめで取り組んでいるわけですけれども、ユーモラスな印象が残るのは、一生懸命に古代のやり方で逐一、石を切ったり削ったり、また道具まで作っているからです。制作途中の、著者が写っている写真も面白い。1941年生まれだから、今年、68歳です。

幻の筒状ドリルも、復原して使ってみています。これは未だにどこからも発見されていない工具で、残存する加工痕より、かなり早くからこういう形状のものが用いられたであろうと、例えばピートリが19世紀末に論考を発表している代物。花崗岩製の棺の内部を刳り貫くためなどに使われたと考えられているものです。

ピラミッド内に残るクフの石棺については詳しい分析を試みており、この時代は柔らかい銅製の工具しかありませんから、この硬い花崗岩製の棺を加工する過程で、1日当たり1キログラムの銅が工具から磨り減ってなくなったであろう、などと詳細な計算もしています。

本を出しているラウトレッジは有名な出版社。エジプト学関連の多くの本も刊行しています。

2009年10月12日月曜日

Kerisel 1987


もう最近亡くなってしまいましたが、非常に見識の広かった土木工学者による書。「基礎の過去と現在:建造者による見えない技芸」というその題名が、著者の意図を良くあらわしています。地域・時代を問わず、人間が造った建造物と、それを支えた地盤の研究に一生を捧げた人物です。Crozat 1997でこの人の著作が引用されている、そう書いたこともありました。

Jean Kerisel,
Down to Earth.
Foundations Past and Present:
The Invisible Art of the Builder
(A. A. Balkema, Rotterdam, 1991)
ix, 149 p.

何冊も本を書いていますけれども、この本が一番特色を打ち出しているかもしれません。
扱う対象は恐竜の足跡から始まって、メソポタミアのジッグラト、エジプトのピラミッド、ギリシア・ローマの遺構、古代の中国、インドネシアのボロブドゥール、ピサの斜塔から各種の橋梁やダム、パナマ運河、エッフェル塔などに至るまで、本当に多種多様です。
地球上に築かれた構築物であり、建造される前に基礎工事がなされたというこのただ一点だけの共通点で、これらは結ばれています。

安定しているように見える地面も、実を言えばそうではなく、地球は動いているものなのだというプレート・テクトニクスも紹介されています。もちろん、建物を支える地盤とはスケールの違う話であるのですが、例えば王家の谷の岩窟墓の崩壊過程を示しているように、地球のゆっくりとした動きから眺めるならば、いずれはどの構築物も消えて無くなるのだというような徹底的に醒めた視点がどこかに感じられ、それがたぶん、この本の特色になっています。

ピラミッドの勾配に関しても独自の見解を有していたように見受けられ、この点でも注目されます。きわめてユニークな人物による本で、死去が惜しまれます。

2009年10月9日金曜日

Iversen 1968-1972


オベリスクがヨーロッパに多数渡った顛末を述べた2巻本。
縦長の変型版が採用されており、強い印象を与える刊行物です。1巻目と2巻目との間に4年間の開きがありますが、どうやらイスタンブールのオベリスクを調べていくうちに記述が増えて、当初の出版予定に大きな変更が強いられたらしい。第2巻目の序文には、「第3巻目でフランス、ドイツ、イタリア、アメリカのオベリスクを扱いたい」と記していますけれども、もはや続巻を望むのは無理なようです。

建築関連で、このように中途で刊行が挫折しているシリーズがいくつもあって、バダウィによる「古代エジプト建築史」の4冊目が結局は出なかったのを初めとして、ペンシルヴェニア大学隊によるマルカタ王宮の報告書シリーズ(2冊のみが既刊)、イタリア隊による全ピラミッド調査報告書のシリーズ(2〜8巻だけが既刊)など、基本的な部分で問題が多いこと、この上ありません。

Erik Iversen,
Obelisks in Exile, 2 vols.
(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1968-1972)

Vol. I: The Obelisks of Rome (1968)
206 p.

Vol. II: The Obelisks of Istanbul and England (1972)
168 p.

イヴァーセンという研究者はとても面白い人で、壁画にうかがわれる下書きの格子線とキュービット尺との関連を述べた研究が一番知られているかと思います。 この考察に対しては数学者を夫に持っていたアメリカの学者ロビンスが反論を発表し、今ではこちらの方が支持されている傾向にありますが、反対意見も見られることは記憶にとどめておいていい。Robins 1994を参照。在野の研究者レゴンの意見も、読むべき価値があると思います。

イヴァーセンのやってきたことはバラバラではないかとも一見、感じられます。よく知られた"Canon and Proportions in Egyptian Art"の初版が発表されたのと同じ年の1955年に、赤や青、緑や黄色といった顔料がどのような名前を有し、記されているのかを考察しており、数例だけ残っている「色(顔料)のリスト」を調べ上げました。
古代エジプトにおいて、色というものがどのように考えられたのかを知りたい人にとっては、基本の文献。

Erik Iversen,
Some Ancient Egyptian Paints and Pigments:
A Lexicographical Study.

Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab;
Historisk-filologisske Meddelelser, bind 34, nr. 4
(Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab, Kobenhavn, 1955)
42 p.

エジプト学で見つかるさまざまな穴を、上手に探ることのできる人と言っていい。
1992年には献呈論文集も出されました。

Jürgen Osing and Erland Kolding Nielsen (eds.),
The Heritage of Ancient Egypt:
Studies in Honour of Erik Iversen.

CNI Publications 13
(The Carsten Niebuhr Institute (CNI) of Ancient Near Eastern Studies, University of Copenhagen / Museum Tusculanum Press, Copenhagen, 1992)
123 p.

編者はオージング・他で、他にアスマン、エデル、エドワーズ、ヘルク、ルクランといった大御所たちが目次に名を連ねています。

北欧の代表的な研究者のひとりとして数え上げることができ、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアなどと比べれば傍流に属する環境の内にあって、エジプト学に対し、何ができるのかを絶えず考え続けた人だということが伝わってきます。
日本も何となくやって行けるのではないかと、勇気を与えてくれる学者。

2009年10月8日木曜日

Stadelmann 1991 (2., überarb. und erw. Aufl.)


ピラミッドの通史についてエジプト学者が本腰を入れて書いた専門的な刊行物。現在、関連する研究論文においては、もっとも引用される回数が多い本かと思われます。
初版は1985年で、第2版が出回っています。

Rainer Stadelmann,
Die ägyptischen Pyramiden vom Ziegelbau zum Weltwunder.
Kulturgeschichte der antiken Welt, Band 30
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991.
2., überarbeitete und erweiterte Auflage)
313 p.

ピラミッドに関して、おそらく一般の人が読む機会が多いのは、

Mark Lehner,
The Complete Pyramids
(Thames and Hudson, London, 1997)
256 p.

で、これは下記のように和訳も出ており、

マーク・レーナー著、内田杉彦訳、
「図説 ピラミッド大百科」
(東洋書林、2000年)
256 p.

広く馴染みがあるだろうと推測されますが、著者のレーナーは格別、ピラミッドの歴史全体についてこれまで注目される論文を書いている研究者であるわけでもなく、彼が発表している論考の内容はだいたい、自身が関わっているギザにおける調査区域の成果の記述から一歩も出るものではありません。
ピラミッドの通史については画期的な内容を含んでいないことを勘案すべき。建築学的観点からは、これは言わば、カタログに該当します。

Mark Lehner,
"The Tomb Survey",
in Geoffrey T. Martin,
The Royal Tomb at el-'Amarna II.
Archaeological Survey of Egypt (ASE) 35
(EES, London, 1989)
pp. 5-9.

では、アマルナに残るアクエンアテンの墓の断面において、黄金比に従った計画が推測されると記しており、その見方をC. ロッシ(Rossi 2004)によって根本的に手厳しく批判されています。あんまり建築学的な素養がない人だと言うことが、これだけでうかがわれます。

ピラミッド全体を見渡そうとした本で、専門家が書いたものとしてはまず、大御所のJean Philippe Lauerの執筆した書が掲げられますけれども、ロエールの著作に関しては、現在ではかなりの訂正が必要。
ネチェリケト王によるサッカーラの最初のピラミッド(階段ピラミッド)の調査と復原に長く携わった建築家でしたが、彼の論考が今後、どのように評価されるかは注目すべきです。

年代順としては、次いでエドワーズの本、

I. E. S. Edwards,
The Pyramids of Egypt
(Viking Penguin Inc., New York, 1986, revised edition. First published in 1947)
xxii, 328 p.

が挙げられるかと思います。この本は多くの読者を獲得しました。和訳もやはり刊行されています。
近年に刊行されたヴェルナーによるピラミッドの本も和訳されていて、これはいろいろな逸話も交えており、面白い本です。チェコスロヴァキアの研究者で、もちろんエジプト学におけるチェコの立場を高めようと目論まれた書。

Miroslav Verner,
Deutsch von Kathrin Liedtke,
Die Pyramiden
(Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1998. Die tschechische Originalausgabe erschien 1997 unter dem Titel bei Academia Prag)
540 p.

Kurt MendelssohnによるThe Riddle of Pyramids (London, 1974)を含め、日本語でこれらの主要な書が逐一翻訳されている点は、活用されるべき。

シュタデルマンによるこの本の評価は、これからです。
中王国時代の、テーベにおけるメンチュヘテプの神殿の新たな復原は、かなりの程度、喧伝されました。ウィンロックによるピラミッドを載せた復原案がこれまで知られていましたが、文献学上の記述を重視したこの案に対し、建築家ディーター・アーノルドがこれに異を唱え、史料として残る建物の記述の方法にはピラミッドのかたちの文字を決定詞として記す例が他にあることを示し、構造的な見地からも、上部にはピラミッドがなかったはずだと判断しています。
これを受け、シュタデルマンは「原初の丘」を思わせる盛り土と、その上に生えた木々の姿を見せる復原案を発表。復原を巡る可能性の掛け金が外されたのであれば、それをもっとも遠くにまで引き延ばした場合にはどうなるのかという提案です。
こういうところにシュタデルマンの本領があらわれるように思われます。

古代エジプトの王宮についても数多く発言しており、思い切ったことも書く人です。
ピラミッドを調べようと志したら、必ず突き当たる重要な本。

2009年10月7日水曜日

Lawrence 1983 (5th ed.)


古代ギリシア建築に関する解説書で、良く取り上げられる本。現在流通しているのは第5版で、1957年の初版から、細かくほぼ5年おきに改訂がなされ、1973年の第4版が出た10年後、さらに改訂が重ねられました。ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの一冊。

Arnold Walter Lawrence,
revised by R. A. Tomlinson,
Greek Architecture.
Yale University Press Pelican History of Art (founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1983.
5th edition. First published in 1957, Penguin Books, Harmondsworth, in series: Pelican History of Art)
xv, 243 p.

著者は城塞の専門家でもあり、そのために軍事建築の歴史を辿る本でも、彼の名前を見ることがしばしばです。城塞に関連する本に関してはMcNicoll 1997、またLander 1984で触れました。特に、

A. W. Lawrence,
Greek Aims in Fortification
(Oxford, 1979)

は、良く引用される書。
エジプトの南シナイ・ラーヤ遺跡には珊瑚ブロック造の大規模な城塞が残っており、ここからはイスラーム時代の遺物が出土していますが、ビザンティン時代にまで建造年代が遡ります。

Mutsuo Kawatoko and Yoko Shindo (eds.),
Artifacts of the Islamic Period Excavated in the Raya/al-Tur Area, South Sinai, Egypt:
Ceramics / Glass / Painted Plaster

(Joint Usage / Research Center for Islamic Area Studies, Waseda University, Tokyo, 2009)
(v), 32 color pls., 79 p.

"A fort constructed in the Byzantine period was found in the excavations at the Raya site, and we discovered a large quantity of glassware and earthenware that is an immediate successor to the Byzantine culture, luster-painted pottery, pale green or purple painted pottery closely related to Iraq, earthenware associated with the Syrian and Palestinian cultural zone, together with gold coins and glass weights which had been minted and made in Egypt."
(pp. 2-3)

という記述を参照。
時代が異なっても、こういう遺構を調べる時にはLawrenceの著作が重要。

目次がかなりたくさんの章に分けられています。全体を、"Part One: Pre-Hellenic Building"と、"Part Two: Hellenic Architecture"のふたつに大きく分けていて、比重のかけ方の違いを題名でもページ数でも表明。

前半の1/3で新石器時代と青銅器時代を扱い、クノッソスなどのクレタ島の王宮群もここで述べられています。ミノア時代が解説された後にミケーネを説明(pp. 43-55)。
後半の第2部では神殿の祖型を述べ、オーダーを紹介し、アテネのアクロポリスに触れるのが第14章。次いでヘレニズムの建築については第19章で語り、最後近くでは劇場に言及。
各章に詳細な註が設けられていますが、参考文献も章ごとに紹介されているのはちょっと使いづらいところ。
非常に評価の高い著作。

2009年10月6日火曜日

Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972


非常に広範囲にわたった、集落や都市に関する国際的学会の会議録。全部で1000ページを超えます。錚々たる顔ぶれが揃い、発表がおこなわれています。会議が開催されたのは1970年12月。
時代も地域も異なる集落、また都市というものを、今一度見直そうという試み。これだけ大規模な催しは珍しい。編者のひとりであるUckoは、比較考古学の中心的な役割を担った人物。

Peter John Ucko, Ruth Tringham and G. W. Dimbleby (eds.),
Man, Settlement and Urbanism.
Proceedings of a Meeting of the Research Seminar in Archaeology and Related Subjects held at the Institute of Archaeology, London University.
(Schenkman Publishing Co., Cambridge, Massachusetts, 1972)
xxviii, 979 p.

Contents:
Preface (ix)
List of participants (xv)
Introduction (xix)

Part One: Non-urban settlement
Section One: Concepts, in theory and practice (p. 3)
Section Two: The influence of mobility on non-urban settlement (p. 115)
Section Three: The influence of ecology and agriculture on non-urban settlement (p. 211)

Part Two: Factors influencing both non-urban and urban settlement
Section One: Population, disease and demography (p. 345)
Section Two: Territoriality and the demarcation of Land (p. 427)
Section Three: Techniques, planning and cultural change (p. 487)

Part Three: Urban settlement
Section One: Development and characteristics of urbanism (p. 559)
Section Two: Regional and local evidence for urban settlement
Subsection A: The Nile Valley (p. 639)
Subsection B: Western Asia and the Aegean (p. 735)
Subsection C: Western Europe (p. 843)
Subsection D: Sub-Saharan Africa (p. 883)
Subsection E: Central and South America (p. 903)
Conclusion (p. 947)

General index (p. 955)
Index of sites and localities (p. 961)
Index of authors (p. 967)

あまりにも話題が多岐にわたるため、索引には地名や著者名が検索できるように工夫されています。

第3部のAがナイル川を扱っており、B. J. ケンプが"Fortified towns in Nubia"や"Temple and town in ancient Egypt"を書いている他、D. オコーナーが"The geography of settlement in ancient Egypt"と題した論考を寄稿。ケンプがこの時、すでにセセビについて言及しているのは興味深い。H. S. スミスは"Society and settlement in ancient Egypt"を、また続いてE. アップヒルの"The concept of the Egyptian palace as a ruling machine"が掲載されています。
これは王宮建築に関する論考として、しばしば引用されていた論文。西洋と東洋の「宮殿」の違いがまず指摘されており、次いでラメセス3世葬祭殿(メディネット・ハブ)の宮殿部分を説明していますが、新たな情報が提示されている今、より包括的な論考が求められるところ。

2009年10月5日月曜日

Hayes 1937


断片的に出土した彩色陶板を報告し、復原考察をおこなったもの。ラメセス2世の宮殿があった場所から見つかった絵付きの飾り板を、そのモティーフや形状によってタイプ別に分け、次いでどこで使われていたかを探っています。
きわめて少ない情報から建築を想像して組み立てていくパズルをやっており、絵画史料を駆使して復原を進めている典型的な論考。わずか数十ページからなる薄い冊子で、最終ページには500部発行ということが明記してあります。報告書の発行部数としてはこの数字が最小限度であるはずで、カラー図版もなく、安く作られたと思われる報告書。
この頃は、第二次世界大戦が始まろうとしている不穏な時代でもありました。
カンティールを含め、第2中間期〜新王国時代における下エジプトの都市に関する総合的な研究は、この後にマンフレッド・ビータックによる大規模な発掘調査へと引き継がれます。
キーワードはアヴァリスやテル・エル・ダバァ。

William C. Hayes,
Glazed Tiles from a Palace of Ramesses II at Kantir.
The Metropolitan Museum of Art Papers, No. 3
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1937)
46 p., 13 plates

著者はニューヨークのメトロポリタン美術館に勤め、収蔵品に関する公開に貢献しました。実地の訓練で古代エジプト語を覚えた人です。ヒエラティックの読み手としても知られ、建築に関わる重要な考察も残しました。JNESに4回に渡って連載したマルカタ王宮出土の文字資料の報告は絶対に欠かすことのできないものだし、またハトシェプスト女王に仕えて寵愛された建築家センムトの墓出土の、石灰岩片のヒエラティック・インスクリプションの読解がなされた

William C. Hayes,
Ostraka and Name Stones from the Tomb of Sen-mut (No. 71) at Thebes.
Publication of the Metropolitan Museum of Art, Egyptian Expedition Vol. XV
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1942)
viii, 57 p., 33 plates

は、「ネビィ」という尺度を考える上で必ず触れられる研究。トトメス時代のオストラカをいくつも読んで建築工事の進展の様子を述べた面白い論文をJEAに書いたりもしています。
代表的な著作はしかし、おそらくは

William C. Hayes,
The Scepter of Egypt:
A Background for the Study of the Egyptian Antiquities in The Metropolitan Museum of Art,

2 vols.
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1953)
xviii, 421 p. + xv, 526 p.

で、メトロポリタン美術館に収蔵されている遺物を紹介することを目的とした通史。載せる図版が先に決まっていて書かれた2巻本で、良くできています。これを見ればこの美術館に収められている名品がひと通り解説されるという、うまい仕組みになっており、重版が出されている理由も分かります。

Smith 1998 (3rd ed.)


50年以上も前の出版ながら、古代エジプトの美術と建築を語る上では今なお基本の書籍。W. K. シンプソンによって改訂がなされました。
最新の版ではカラー写真も掲載されると同時に判型もA4版へと大きく変更され、見やすくなっています。ペーパーバックが出ていますので、美術と建築の双方を手早く知りたいという方には、まずこの本がお勧め。定評あるペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの中の一冊。最初の監修者は、高名な建築史家ペヴスナーです。
同シリーズのMcKenzie 2007は、この欄で一番最初に取り上げました。

William Stevenson Smith,
revised with additions by W. K. Simpson,
The Art and Architecture of Ancient Egypt.
Yale University Press Pelican History of Art (Founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1998, 3rd ed. First published in 1958 by Penguin Books)
xii, 296 p.

エジプト美術については以前にGay Robins, The Art of Ancient Egypt (London, 1997)を挙げましたが、建築を彼女は扱っていません。「美術と建築」のふたつを本格的に扱おうとした本は、実は数が少ないという事情があります。当方が知る限り、おそらくは最後の試み。

エジプト学に関わっている建築の専門家は、美術の領域にまで立ち入る余力をもはや持っていません。美術史家による鑑別の眼力が一方で、なかなか他の分野の研究者によって支持されないという問題に関しては、例えばBerman (ed.) 1990で触れました。すでに学問の細分化が極端にまで進んでいます。
美術と建築の分野で対話が困難な状況ですから、考古と科学分析との橋渡しは、さらに難渋を極めます。今日、他分野の読者へ向けての論理力がますます必要になっている所以です。

スミスは美術史家で、博士論文はエジプトの彫刻を扱っており、執筆したのは第二次世界大戦の直前でした。ジョージ・ライスナーの精緻な考古発掘の仕事を助け、第二次世界大戦中に亡くなったライスナーに代わって、彼のギザ発掘調査を推し進めました。
ライスナーが従来の発掘方法をどのように変えたのかは、今さらここで紹介することもないでしょう。美術史家がその発掘調査を引き継ぐのですから、かなりの負担であったことは容易に推察されます。

スミスがどれだけの論文を専門雑誌に書いているか、調べようと思ったら、ほとんど徒労に終わるのでは。この人の功績は、数少ない著作で見るしかない。
スミスの代表作を挙げろと言うことでしたら、まずは彼の専門に関わる内容の

William Stevenson Smith,
A History of Egyptian Sculpture and Painting in the Old Kingdom
(published on behalf of the Museum of Fine Arts, Boston, by the Oxford University Press, Oxford, 1946)
xv, 422 p., 60 pls., 2 color pls.

が注目され、戦争直後に出されている点に注意。
エジプトの彫刻に関してはVandier 1952-1978という包括的な労作のうちの注目すべき第3巻があり、これはスミスによる本書と同じ年に出た厚い解説書。図版編も合わせるならば900ページに及ぼうとする大著です。彼はどのような思いでこれを見たでしょうか。
ライスナーの遺した仕事を纏める作業は、

George Andrew Reisner,
completed and revised by W. S. Smith,
A History of the Giza Necropolis II:
The Tomb of Hetep-heres the Mother of Cheops.
A Study of Egyptian Civilization in the Old Kingdom
(Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1955)
xxv, 107 p., 148 figs, 55 pls.

として出版されており、クフ王の母親であるヘテプヘレスの墓の報告書を編纂するという重大な責務を果たしました。エジプト学にとって、この墓がどれだけの意味を有するのかを充分わきまえた仕事。この墓からは古王国時代のきわめて重要な家具が出土しており、復原がカイロ美術館に展示されています。組み立て式の天蓋は特に貴重。有名なこのA History of the Giza Necropolisは、John William Pye Booksから20世紀の終わりに再版も出ています。
古代エジプトの美術と建築の総論を書くという、驚くべき仕事(本書)の後には、

William Stevenson Smith,
Interconnections in the Ancient Near East:
A Study of the Relationships between the Arts of Egypt, the Aegean, and Western Asia

(Yale University Press, New Haven and London, 1965)
xxxii, 202 p., 221 figs.

を出しています。エジプト学の側から、これだけ明瞭に近隣諸国との美術史学的な関連を探ることを題名に打ち出している論考も珍しい。
出版は彼の死の数年前の、意欲作です。当時のエジプト学に欠けている視点を補おうとした書。

ここで取り上げるThe Art and Architecture of Ancient Egyptは、古代エジプトにおける王宮建築の研究を飛躍的に前進させたという点で画期的です。調査がなされながらも、本報告書が出ていなかったディール・アル・バラスやマルカタ王宮の調査資料を丹念に調べて概要を伝えており、専門外の仕事であったにも関わらず、その後のアマルナ王宮へ向けての建築の流れをうまく描いています。
ここにはたぶん、当時、エジプト建築史の本を刊行していたA. バダウィの著作、Badawy 1954-1968への不満もあったのではと憶測がなされます。ここでも、「どのような情報が不足しているのか」についての配慮がなされており、とても有能な人であったことが良く分かります。60歳ほどで亡くなったのが本当に惜しまれます。
ボストン美術館の古代エジプト部門を牽引してきた人間の系譜、すなわちG. ライスナー、W. S. スミス、W. K. シンプソン、E. ブロヴァルスキー、R. フリード、P. D. マニュエリアンたちのさまざまな著作を踏まえながら、各々が果たしている役割に考えを巡らせると感慨深い。
ボストン博物館によるギザに関する史料集成のページ、

http://www.gizapyramids.org/code/emuseum.asp?newpage=authors_list

からは、スミスの著作の多くのダウンロードが可能。

2009年10月3日土曜日

Arnold 2003


古代エジプト建築事典。もともとはドイツ語で出されたものですが、改訂され、また編集者も加わりましたので、別の本として扱った方が良いように思われます。

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick.
The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture
(I. B. Tauris, London, 2003)
vii, 274 p.

Original:
Dieter Arnold,
Lexikon der ägyptischen Baukunst
(Artemis und Winkler Verlag, Zürich, 1994)
303 p.

中近東建築事典などというものもあるのですけれども、古代エジプト建築に絞って編纂された事典です。
ドイツ語版に増補がなされたと冒頭に書かれています。多くの図版がアーノルドのBuilding in Egyptから流用されていますが、新たに描き起こされたものも少なくありません。
巻末に用語集(Glossary)が1ページ付されており、事典という性格上、用語集がつけられるのはとても珍しい。この場合は古代エジプトの専門用語に限られています。

最後にはSelected Bibliographyが3ページ、加えられています。一番冊数が多いのはボルヒャルトで、レプシウスはたった1冊。この選び方も面白い。

補記:
版を小さくし、題名を変えたペーパーバックが2009年に出ています。(2009.12.11)

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick,
The Monuments of Egypt:
An A-Z Companion to Ancient Egyptian Architecture

(I. B. Tauris, London and New York, 2009. First published in German in 1994 as Lexikon der ägyptischen Baukunst by Artemis & Winkler Verlag, and in English as The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture by I. B. Tauris, 2003)
vii, 274 p.

2009年10月2日金曜日

Crouch and Johnson 2001


世界の建築史を学ぼうとする大学の新入生を対象にした本で、副題で良くあらわされている通り、非欧米圏の建築に光が当てられています。アメリカの研究者たちが、それまで情報の欠けていた地域を積極的に取り上げ、また既成の建築史観をも乗り越えようとした企画。

Dora P. Crouch and June G. Johnson,
Traditions in Architecture:
Africa, America, Asia, and Oceania
(Oxford University Press, New York, 2001)
xiii, 433 p.

イントロダクションの最初では、「建築とは何か?」と反問しています。

"Like history, the term architecture has both broad and strict meanings. In the widest sense, architecture is everything built or constructed or dug out for human occupation or use. A more restricted definition would emphasize the artistic and aesthetic aspects of construction. A third, and still more limited, definition would say that architecture is what specially trained architects do or make."(p. 1)

最も広い意味においては、建築は人間が用いたり占有するために構築された、また掘られたもののすべてを指すと述べられ、動物の営巣にまで近づけられている点が明瞭。また最も狭義の意味では「経験を積んだ建築家が作るもの」と言われており、ここで何が指し示されているかが意味深い。
続いて、

"In this book, architecture include three categories of built elements: professionally designed and built monuments; the houses and other structures erected by traditional building tradesmen; and structures, either fixed or movable, that ordinary people build for their own use, some of which attain the level of memorable art. We define architecture as "buildings that have been carefully thought through before they were made." We have broadened the concept of architecture to include residential spaces, such as houseboats, and natural objects that people use culturally, such as certain mountains."(pp. 1-2)

と書いており、注目されます。
「造られる前に入念に考慮された建物」という言い回しに注意。美学に関する積極的な言及を払拭。とても上手な言い方で、感心します。
さらに、「ここで包括的な建築理論を差し出そうとするつもりはないが」と断りながらも、その検討が必要だと説き、

"The old Euro-American lens for architectural history, with its emphasis on the relations of form and content, is inadequate to the study of traditional architecture of the rest of the world."(p. 3)

という文が、「新しい建築史に向かって」と題された小節の下には記されています。

冒頭の謝辞にはたくさんの建築史学者の名前が並んでいますが、日本人の名がひとつだけうかがわれ、それが渡辺保忠先生。マルカタの「魚の丘」建築を復原された方で、僕はこの先生のマルカタ王宮調査のお手伝いから古代エジプト建築に触れることになりました。
参考文献の欄には先生の「伊勢と出雲」が掲載されています。

現代美術のジェームズ・タレルの作品に触れられたりと、雑多な印象が生じるのは、何もかも非西欧的な要素を扱おうとしたためで、仕方がなかったかと思われます。アメリカで建築史を教える職業の人の多数に「こういう本が欲しかった」と言われたとありますから、まあ、出版自体は喜ばしいこと。

日本の建築史は海外においてほとんど詳しく紹介されていない、という点は銘記されるべきです。古代エジプト建築との関連を考える上で、しかしそれは悪いことではないのかもしれない。先入観がないので、最初から説明ができるわけですから。
200点以上の図版が掲載されており、それを見るだけでも楽しめます。

アメリカ人が共同で「良く知らなかった建物」という本を、反省しつつ著したのですが、その中には日本の建築はもちろん、アジアの建築、またアフリカの建築なども含まれているということ。そういう複眼的な見方で眺めるならば、また違った面白い点が発見できる書です。