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2012年7月19日木曜日

Valloggia 2011


早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。

上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。

Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)

Texte: Table des matières

Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)

Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)

Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)

Conclusion (p. 87)

Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)

Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)

Bibliographie (p. 131)

Indices (p. 139)

Table des matières (p. 145)

上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。

意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば

「治世第1年、ペレト期第3月…」

というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では

"An III, 3e mois de per(et)..."

と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。

クフ王のピラミッドの脇に設けられた船坑(ボートピット)の蓋石にはラージェドエフ王の名前も以前見つかっていて、これはBeiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeiträgeBf:ただし本書ではBÄBAと略), Heft 12 (Franz Steiner: Wiesbaden, 1971)で発表された報告で注目されたところですけれども、そこから転載された文字列「治世11年、ペレト期第1月24日」が図版編のFig. 3にて紹介されています。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。

ピラミッド時代における代表的な遺構を残したクフ王とカフラー王との間を生きたジェドエフラー王のピラミッドですから、相互の詳しい比較が今後、進められるのでは。ピラミッドの地下に唯一設けられた玄室へと続く下降通路の勾配も、長さが2に対して高さが1という2:1の傾きで、注目されます。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。

Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm

Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century: 
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.

斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。

ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。

岩盤をある程度掘り下げて造られたピラミッドですから、掘り下げる前の初期の設計ではどうだったのか、追究する必要があるかもしれません。たった1.5メートルほどの違いなのですけれども、3次元の巨大な立体物をどのように計画したのかを考えようとする場合、その細部が気になります。

27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に触れられています。
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。

古代語による文字史料を直接読解することから論考を始めている数学者Imhausen(cf. Imhausen 2003、またImhausen 2007)は、古代エジプトにおいてこの「聖三角形」が本当に知られていたかについて懐疑的であり(Robson and Stedall [eds.] 2009)、こうした基本的な点について専門家の間でも未だ意見の一致を見ていないということは、声を大にして言っておかねばなりません。
古代エジプト建築研究に携わる人間でも、3-4-5の比例による三角形は地割にて直角を導くために古代エジプトでも用いられたであろうと安易に判断している研究者はけっこういるわけです。

"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)


つまりエジプト学者たちは、エジプトにおける実際の遺構で3:4:5となる実測値をかなり昔から複数見つけているにも関わらず、「それが後代のピタゴラスの定理と結びつくはずであり、建築に応用した先駆けは古代エジプトである」という見方に関し、非常に慎重な姿勢をずっと取り続けているということです。
この事態を、「考古学者たちに数学の美しさが分かるはずはない」という一言で片づけるのは簡単。しかし長い時間にわたってこだわり続けられているそのモティーフを丁寧に追うことなしに、問題の解決が図られるとは到底思えません。
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。

2011年12月29日木曜日

Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]


クフ王のピラミッドに関する測量は、かなり古くからおこなわれていたようです。
でも外形ではなく、ピラミッド内部の計測となると、まったく別の話。

実測の結果に基づいて、オクスフォード大学の天文学者ジョン・グリーヴス(John Greaves: 1602-1652)は17世紀に「ピラミドグラフィア(Pyramidographia)」を著し、世界で初めて大ピラミッド(ギザ台地に立つクフ王のピラミッド)の断面図を公表しました(Greaves 1646)。この人は若い頃に接した計量学の先生の影響を受け、古代建築の基準長の分析に深い興味を抱いていた学徒でもあります。古代ローマの尺度を考えたりもしました。
またアラビア語文献にも通じており、中東への旅行中に、関連書籍の渉猟と収集に努めていたことが知られています。異文化に触れることに楽しみを覚える人だったのではないでしょうか。
こうした少数の者の努力によって、エジプト学の基本的な問題点が切り開かれていきます。

グリーヴスの研究業績をまとめた2巻本は彼の死後、およそ80年経ってからトーマス・バーチの編集によって出版されており、この書が今では無料でダウンロードできます。
編者であったバーチの偉いところは、本をまとめるに当たって関連文献も含めている点です。後世の読者への案内を充分に考えており、このことは貴重でした。グリーヴスの論考が後の人間たちに与えた影響をも具体的に示した結果、最終的にはフリンダース・ピートリというエジプト学の創設者を生み出す契機を促すこととなりました。

グリーヴスの考察に触発されたアイザック・ニュートンによって古代エジプトのキュービット尺の実長が突きとめられ(cf. Newton 1737)、もともとラテン語で書かれていたニュートンの手稿の英訳が、バーチによって本書の中に一緒に収められました。ニュートンはバビロニアの煉瓦を扱っているものの、古代建築の煉瓦の大きさが建物の設計寸法や、全体の煉瓦使用量の積算と関わりがあるのではと問いかけていて、建築学の見地からは重要です。
しかしニュートンのこの手稿は、生前には発表されなかった論文で、書誌はあまり明確ではありません。20世紀になってマイケル・セント・ジョン(Michael St. John)が編集したレプシウスの訳書であるLepsius 1865(English ed. 2000)の中で、ニュートンによるキュービットの論文を1737年としているのは、バーチ編集のこの本に基づいているらしく思われます。
この後、ピアッツィ・スミスによる本(1867)の中にも、ニュートンの論文の英訳は再録されました。

Thomas Birch (ed.),
Miscellaneous Works of Mr. John Greaves, Professor of Astronomy in the University of Oxford
(J. Hughs, London, 1737)

Vol. I:
http://books.google.co.jp/books/?id=Puk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

Vol. II:
http://books.google.co.jp/books?id=0uk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

ここでは目次を割愛します。
バーチというと、古代エジプトではまずサミュエル・バーチが思い起こされますが、直接の関連はない模様。

第1巻の最初でグリーヴスの生涯が語られており、50歳で惜しくも亡くなった波乱の人生が披瀝されていて、これが面白い。
主著「ピラミドグラフィア」の記述にはいくつか誤りがあって、その指摘が読者からすぐになされており、それに対するグリーヴスの応答や訂正の計算などが収録されているというのも興味深い点です。誤りも遺漏もある報告書であったということです。しかし、多大な影響を及ぼした本であったという点に疑いはありません。
誤りがいくらか存在する本であっても、学問として大きく進展させる書物というのはあり得ます。大きな指標が示されるのであるならば、このようなことが可能であるわけです。

グリーヴスによるクフ王のピラミッドの大回廊の断面図に関する報告にも欠陥があり、この書の成果を前提として考察がなされたニュートンの論文では「1キュービットは6パームから構成されるであろう」という誤謬も記されています。
Maragioglio e Rinaldi 1963-1975での図面と比べるならば、この間違いは一目瞭然。でもそれを今、指摘することに対して大きな意味があるとは思えません。大事なことは、正確な情報に基づく考察とは一体何なのかを考えることです。

オクスフォード大学はニュートンが書いたラテン語の手稿を公開し始めており、原典のテクストに基づく比較検討も可能なようになってきました。新たな時代の到来ということを改めて感じます。
ピラミッドの計画寸法を考える上で見逃せない書。同時に、古代エジプトにおけるキュービット尺の実長を探る過程を改めて追う上でも欠かせない本になっていると思います。

2011年6月19日日曜日

Petrie 1892


ピートリによるメイドゥム地域の調査報告書。
ここには「崩れピラミッド」という通称で知られているものも残っており、彼が何をどう見たか、それが最も面白いところです。出版されてから100年以上が経過しており、情報が古くなっているのは当たり前。しかし何を気にしているのか、自分であったらそこまでできるかどうかをたえず問わないと、こうした古い報告書を改めて読むことの意味がありません。
この報告書に関しては、1994年にLTR-Verlagから再版も出ています。

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by F. Ll. Griffith, A. Wiedemann, W. J. Russell, and W. E. Crum,
Medum
(London: David Nutt 1892)
Color frontispiece, iv, 52 p., 36 plates.

同名の報告書が99年後にオーストラリア隊からも出版されていますので、掲げておく必要があります。
薄いペーパーバックですが、石材に記されていた日付を2色刷にて、たくさん報告していますので、古代の労働者組織を研究する者にとってはとても重要な資料。クリストファー・エア(Christopher Eyre)は確か、この記録を読んでピラミッド建設の季節について言及していたはず(Powell (ed.) 1987所収)。
記憶が間違っていたらごめんなさい。

Ali el-Khouli,
with contributions by Paule Posner-Kriéger, Milward Jones, Edwin C. Brock, Jan Borkowski and Grzegorz Majcherek,
Medum.
The Australian Centre for Egyptology (ACE), Reports 3
(Sydney: The Australian Centre for Egyptology, 1991)
51 p., 62 plates.

さて、ピートリによる建物への目配りはここでも発揮されており、たとえば最初の方で

"These tombs were rectangular masses of brickwork, or of earth coated with brick, with faces sloping at about 75°, the mastaba angle differing from the usual pyramid angle of 51°." (p. 5)

と書かれていたりします。
マスタバの壁体の傾斜については今日でも情報がきわめて限られており、そうした中では貴重。エジプト学に関わる者は一般に、建築壁面の角度が当時どう定められたかに関してはまったく注意を払っておらず、これをセケドに直すとどうなるかと言った研究が今後、進展することを望みます。せめて分数や比率によって勾配を表記をしてもらったら、古代エジプト建築研究は随分と進んでいたのでは。
建築学におけるメイドゥムのマスタバ17号の重要性は、ここで繰り返す必要はないと思います。図版8は、再三引用がなされているもの。
マスタバの四隅の外には煉瓦で「くの字」型平面の壁が立てられており、その内側には水平に1キュービットずつの線が引かれ、またマスタバの外壁の傾きも記されていました。

"The outer faces slope at the characteristic angle of mastaba, 76°, or an angle of 4 vertical on 1 horizontal." (p. 12)

などと、ピートリは記しています。このような記述を100年以上も前に残している点に、建築や測量に携わる人間は驚かなければなりません。建造当初の技術を勘案し、数値を構造的に把握しようとしているわけです。

"as the breadth is exactly 100, and the length 200, cubits." (p. 12)

と、完数を意識してキュービット尺へ換算しているのも彼の論考の素晴らしいところです。
あれ、最初に1キュービットずつの水平線を引いておくというのは良いとして、でもキュービット尺は7分割されているのだから、マスタバの壁面の勾配が1/4というのはおかしいのじゃないのか。1/4という目盛はキュービット尺において特別の意味を持っていたのか、といったように考えは進められていくべきです。
すでに発見されているキュービットの物差しによって与えられる解釈の硬直から、どれだけ逃れることができるのか。そこがいつも問題となっています。

2011年5月27日金曜日

Testa 2009


古王国時代におけるピラミッドの形態分析を包括的に扱った著作で、Butler 1998Rossi 2004のようなピラミッド全般の計画寸法についてのまとめの本もありましたが、久しぶりに厚い書籍が出版されました。
一般の読者向けとは言え、イタリアから発信されるピラミッドの論考はたぶん、これから重視されるかと思います。
各巻の目次を端折りながら掲載。目次のページ数は何箇所かで、間違って印刷されています。


Pietro Testa,
L'architettura nella cultura dell'Egitto faraonico:
I complessi funerari a piramide dell'antico regno dalla fine della III dinastia alla fine della VI dinastia (Huny - Pepi II)
.

Volume I: Introduzione informativa.
Aree scientifico-disciplinari A10, 533
(Roma: Aracne, 2009)
186 p.

Indice

Prefazione (p. 7)

La situazione sullo studio del progetto nell'architettura dell'antico Egitto (p. 15)

Capitolo I:
Le scienze matematiche e metriche (p. 19)

Capitolo II:
Progetto, architetti e grafica (p. 31)

Capitolo III:
La tomba (p. 63)

Capitolo IV:
La piramide e l'astronomia (p. 73)

Capitolo V:
Il progetto e la piramide (p. 83)

Appendice no. 1:
La filosofia delle misure e del progetto nell'antico Egitto (p. 97)

Appendice no. 2:
L'impiego della griglia modulare nella piramide (p. 101)

Appendice no. 3:
Scopi della ricerca del progetto nell'architettura egiziana e proposte di programmi di studio (p. 103)

Annesso (p. 105)

Tavole (p. 138)


Volume II: Analisi descrittiva.
Aree scientifico-disciplinari A10, 532
(Roma: Aracne, 2009)
1170 p.

Indice

Prefazione (p. 5)
Cronologia dei sovrani proprietari dei complessi funerari esaminati (p. 25)
Genealogia dei Re da Huny a Pepi II (p. 41)

Episodio 1:
Il compresso funerario del re Huny in Meidûm (p. 45)

Episodio 2:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr sud (p. 69)

Episodio 3:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr nord (p. 115)

Episodio 4:
Il compresso funerario del re Cheope in Gîza (p. 131)

Episodio 5:
Il Compresso funerario del re Gedef-ra in Abu Rawâsh (p. 225)

Episodio 6:
Il compresso funerario del re Chefren in Gîza (p. 251)

Episodio 7:
Il compresso funerario del re Mikerino in Gîza (p. 327)

Episodio 8:
Il compresso funerario della regina Khent-kaus in Gîza (p. 397)

Episodio 9:
Il compresso funerario del re Shepseskaf in Saqqâra (p. 417)

Episodio 10:
Il compresso funerario del re User-kaf in Saqqâra (p. 447)
Il Tempio solare del re User-Kaf in Abu Gurâb (p. 485)

Episodio 11:
Il compresso funerario del re Sahu-ra in Abu Sîr (p. 513)

Episodio 12:
Il compresso funerario del re Nefer-ir-ka-ra Kakai in Abu Sîr (p. 583)

Episodio 13:
Il compresso funerario del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 607)
Il tempio solare del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 695)

Episodio 14:
Il compresso funerario del re Ged-ka-ra Isesi in Saqqâra (p. 729)

Episodio 15:
Il compresso funerario del re Unas in Saqqâra (p. 767)

Episodio 16:
Il compresso funerario del re Teti in Saqqâra (p. 831)

Episodio 17:
Il compresso funerario del re Pepi II in Saqqâra (p. 873)

Annesso (p. 1013)

第1巻と第2巻とのページ数は極端に異なります。シリーズ番号の533と532との順番が入れ替わっているのも不思議なところで、事情は良く分かりません。
カラーを用いた分析図、またCGを用いた復原図が豊富に掲載されている点が注目され、現在はこのようにピラミッドの外形だけでなく、内部の諸室の寸法と位置がキュービットの完数とどのような関連を持つのかを探ることが主流。
この時、先行研究として重要なのがイタリア隊によるMaragioglio e Rinaldi 1963-1975の一連の実測図面集ですが、未刊の巻があるのはきわめて残念。
なお、同じようにピラミッドについての著作3巻本を近年出版しているManziniの著作については、改めて紹介したいと思います。

ピラミッドを造るために石材を切り出した石切場についての本は、昨年出ました。

Dietrich Klemm and Rosemarie Klemm,
The Stones of the Pyramids:
Provenance of the Building Stones of the Old Kingdom Pyramids of Egypt
(Berlin: Walter De Gruyter, 2010)
v, 167 p.

クレム夫妻による古代エジプトの石切り場に関する本は、Klemm and Klemm 2008 (revised ed. of 1993)にて紹介済みです。
夫婦による2番目の著作となった上記の新刊本では、著作者として旦那の名前の方を先に出しているようです。

2010年12月16日木曜日

Testa 2010


古代エジプトの古王国時代における棺を集め、寸法計画を分析した本です。木棺が8例、石棺が42例。
建築家である著者ならではの考察。CADを用いたカラー図版を用いながら、直方体を呈する棺の寸法と、キュービット王尺(1キュービット=52.5cm)との関連を探っています。
古代エジプトにおける寸法計画を考える上で、かなり画期的な書。どの棺を対象としているのかは、たぶん注目される事項ですので、第5章のみ、長くなりますが目次の小項目も掲げておきます。クフ王の石棺、カフラー王の石棺は考察対象に入っていますが、地中海に沈んでしまったメンカウラー王の石棺は入っていません。
目次と実際の小項目との記載が合致していないので、注意が必要。表記の統一が徹底されていません。ここでは適当に(!)勘案して掲げます。
被葬者の名前が分からない場合、Inv. No.ぐらいは明記しておいて欲しかったところですが。

Pietro Testa,
La progettazione dei sarcofagi egiziani dell'Antico Regno.
Area 10: Scienze dell'antichità, filologico-letterarie e storico-artistiche, 650
(Aracne Editrice, Roma, 2010)
126 p., 21+25 tavole.

Indice:

Prefazione (p. 11)

Capitolo I: La religione egiziana (p. 13)
Capitolo II: Mummificazione e rituali (p. 31)
Capitolo III: Il rituale funerario (p. 43)
Capitolo IV: I sarcofagi (p. 71)
Capitolo V: L'analisi progettuale (p. 77)

Sarcofago ligneo nº1
Sarcofago ligneo nº2. Set-ka
Sarcofago ligneo nº3. Idu II
Sarcofago ligneo nº4
Sarcofago ligneo nº5. Mery-ib
Sarcofago ligneo nº6. Seshem-nofer
Sarcofago ligneo nº7. Ny-ankh-Pepy
Sarcofago ligneo nº8

Sarcofago litico nº1
Sarcofago litico nº2. Hetep-heres
Sarcofago litico nº3. Kheope
Sarcofago litico nº4. Hor-gedef
Sarcofago litico nº5. Heru-baf
Sarcofago litico nº6. Ka-uab
Sarcofago litico nº7. Ka-em-sekhem
Sarcofago litico nº8. Gedef-Khufu
Sarcofago litico nº9. Khufu-ankh
Sarcofago litico nº10. Khefren
Sarcofago litico nº11. Kha(i)-merr(u)-nebty (I)
Sarcofago litico nº12. Meres-ankh III
Sarcofago litico nº13. Kha-merru-nebty (II?)
Sarcofago litico nº14. Una regina di Mikerino (?)
Sarcofago litico nº15. Kai-em-nefert
Sarcofago litico nº16
Sarcofago litico nº17
Sarcofago litico nº18
Sarcofago litico nº19
Sarcofago litico nº20. Snefru-khaef
Sarcofago litico nº21
Sarcofago litico nº22. Seshem-nofer (III)
Sarcofago litico nº23. Hetep-heres, moglie di Seshem-nofer (III)
Sarcofago litico nº24. Senegem-ib Inti
Sarcofago litico nº25. Ptah-segefa detto Fefi
Sarcofago litico nº26. Ny-ankh-Ra (I)
Sarcofago litico nº27. Weta
Sarcofago litico nº28. Hetepi
Sarcofago litico nº29. Ny-ankh-Ra (II)
Sarcofago litico nº30. Hekeni-Khnum
Sarcofago litico nº31. Ir-sekhu
Sarcofago litico nº32. Seshem-nofer (IV)
Sarcofago litico nº33. Nefer detto Idu (I)
Sarcofago litico nº34. Sekhem-ka
Sarcofago litico nº35. Ankh-ma-Hor
Sarcofago litico nº36. Khnum-nefer
Sarcofago litico nº37. Seneb
Sarcofago litico nº38
Sarcofago litico nº39. Meru
Sarcofago litico nº40. Teti
Sarcofago litico nº41. Pepi II
Sarcofago litico nº42. La gatta Ta-miat

Bibliografia (p. 125)
Tavole (p. 127)

実測値については逐一、掲載されていません。
テスタが参考にしているのは、トリノ・エジプト学博物館の前館長であった人物が以前出版した古王国時代の棺に関する本で、この書物は現在、ボストン博のページからPDFのダウンロードが可能。
A. M. Donadori Roveriの著作については、これまでも何回か触れてきました。下記の本でも、木工の仕口は詳しく図示されており、興味深い書です。

Anna Maria Donadoni Roveri,
I sarcofagi egizi dalle origini alla fine dell'Antico Regno.
Istituto di Studi del Vicino Oriente, Serie Archeologica 16
(Università di Roma, Roma, 1969)
180 p., 20 figs., 40 tavole.
http://www.gizapyramids.org/pdf%20library/roveri_sarcofagi.pdf

テスタの本は、古代エジプトの尺度と、計画方法とをともに考えようとしたものであることには疑いなく、同時に「小キュービット」と呼ばれてきた尺度(=45cm)が本当に存在したのかという、大事な点を問うことを言外に示している書、という位置づけになります。
巻末に収められた、カラーを交えた棺の分析図は、建築を専門とする者にとって重要。
本文中に誤記が散見される点は残念です。

2010年1月19日火曜日

Wilkinson 2000


現在7つの断片のみが知られているパレルモ・ストーン関連の纏まった研究書。近年、古代エジプトの国家形成の過程についての研究が盛んになってきて、この影響でエジプトの通史を語るに際してはロゼッタ・ストーンと並んで、良く取り上げられる資料となりつつあります。トリノ・エジプト博物館などにも、複製品が展示されていたはず。

さまざまな国家論は特にヘーゲル以降、19世紀で問題となりました。弊害をもたらす国家の解体への関心、またインディアンなど国家を持たなかった共同体のあり方への注目などの、長い思想的・社会学的な経緯を暗黙の内に踏まえ、エジプト学においても国家形成論が展開されているとみなすことができるかと思われます。
特にケンプがこの石を紹介している意味合いは、その傾向が強い(Kemp 2006 (2nd ed.)を参照)。国家の成立は自然に発展して進んだように見えますが、社会共同体のあり方として、それが唯一の道ではないということです。

パレルモ・ストーンは第5王朝までの王の名と、治世年における主な行事、またその年のナイル川の水位を簡明に記したもの。歴代の王名が書かれた歴史史料としては、トリノ・エジプト博物館所蔵の王名リストが見られるパピルス、またアビュドスのセティ1世葬祭殿における最奥部の廊下の壁面に見られるリスト、カルナック神殿の奥の方の壁面にあったリストなどが知られていますが、それらの中では最も古いものであり、貴重です。
ウィルキンソンという名前を持つエジプト学者は、物故者も含めて何人もいるのですけれども、その中では最も若手。

Toby A. H. Wilkinson,
Royal Annals of Ancient Egypt:
The Palermo Stone and its associated fragments.

Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 2000)
287 p., 11 figs.

7つの断片のうち、最も大きいものがイタリアに属するシチリア島のパレルモにあって、そのために「パレルモ・ストーン」と呼ばれているわけですが、これは高さが43.5cm、幅が25cmしかなく、カイロとロンドンにある残りの6つの断片はこれより小さい。
にも関わらず、例えばShaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)を引くと、「もともとは2.1mの長さ、0.6mの幅」なんてことが書いてあります(1995年の初版や、内田杉彦先生によるその和訳本には、ウィルキンソンの本書はもちろん参考文献として挙げられていないので注意)。

たった7つの断片しか残されていなくて、圧倒的にパズルのピースの数が足りないはずなのに、何故、そんな具体的なもともとの大きさが分かるのか。この理由が詳しく書いてあって、きわめて面白い。
表計算ソフトのエクセルの使い方を知っている人なら、復元の過程が良く了解されるはずです。王名は、横方向に長く続いている縦書の各治世年における特記事項のリストの上に、セルが結合されて、しかも横書きの「中央揃い」で配置されていたに違いない、といったような推測から、この具体的な復元寸法が提示されているからです。
他にも、「丸い記号がひとつおきにあらわれている」といった観察結果が重要な役割を果たしており、たくさんの人が知恵を絞って、この石の全体像の復元に成功している様子が示されています。

建築学的にこの石が重要なのは、カーセケムウィ Khasekhemwy の第13年の記述に、

"appearance of the dual king: building in stone (the building) 'the goddess endures'"
(p. 132)

が見られるからであって、最初の石造建築についての言明です。これがどの遺構を指すのか、著者はコメントを付しています。

この本が出る前年には、やはりパレルモ・ストーンを扱い、CGで復元している

Michael St. John,
Palermo Stone: An Arithmetical View;
together with a computer graphics enhancement of the recto of the Palermo fragment

(Museum Bookshop, London, 1999)
60 p.

が出版されていますけれども、ウィルキンソンの本の巻末の参考文献には含まれていません。
St. Johnという人については、Lepsius 1865(English ed. 2000)で触れました。エジプト学で情報の欠けている場所を上手に見つけ、ゲリラ的に本を出してしまう人、という印象です。

2010年1月1日金曜日

Butler 1998


ピラミッドに関してはここ10年ほどで多くの本が出版されており、たいへんな興隆を見せています。アビュドスの初期王朝の王墓U-jの発掘報告書がドイツ隊によって刊行されたりした(1998年)のもひとつの要因。また、塚を含み持つようなマスタバの存在が再認識され、階段ピラミッドのかたちが出現した経緯が語られるようになりました。こうした近年におけるピラミッド学の前進はしかし、日本ではあまり紹介されていないのが残念です。

この本は第4王朝に光を当てて、その遺構群に幾何学的な分析を試みています。
ベンベン出版社はカナダの研究グループと繋がりをもっており、かつては縮尺を揃えたエジプト建築の図面集の刊行を予告したりしていましたが、最近は目にしないところを見ると断念された様子。メソポタミア建築ではこうした図面集がすでに出ており、非常に有用ですから、この種の企画は是非、実現してもらいたいところ。


Hadyn R. Butler,
Egyptian Pyramid Geometry:
Architectural and Mathematical Patterning in Dynasty IV Egyptian Pyramid Complexes

(Benben Publications, Mississauga, 1998)
xvii, 242 p.

ちょっと荒い図ですが、100枚以上の分析図を収めており、キュービット尺による完数が多く示されています。古代エジプトの数学についても紹介を2章にわたっておこなっており、丁寧です。第7章の、ギザ台地の高さ関係についての分析は珍しく、面白いところ。第4王朝のピラミッドだけではなく、第11章では続く第5王朝、第6王朝に属するものについても言及しています。

ただ、ひとつの考えに収斂を見せないのが弱く感じられ、どこまで行っても完数計画の実例を延々と並べ立てているような印象がなくもない。四角い建物の平面の完数を探るのは比較的簡単で、問題は少ないと思えます。
これがピラミッドとなると、平面は正方形になるけれども、角度にもまた簡単な決め方が求められ、それは高さの完数計画にも決定的な影響を与えるから、さまざまなヴァリエーションが生み出されます。特に、高さの計測はものさしを当てて測れるようなものでないから、平面の一辺を定める時とは違う精度が求められたはずです。

著者は在野の地質学者であるらしく、苦労がしのばれますが、ここでも建物がどのように計画され、また造られるのかという実際上の問題がまったく触れられていません。これがいつでも課題となり、多くの混乱を招き寄せているように思われます。

2009年12月8日火曜日

Dormion 2004


建築家が書いた「クフの部屋:建築学的分析」という本。ドリルでクフ王ピラミッドの内部通路に穴を開ける調査をおこない、以前、大きな騒動を引き起こした2人の張本人のうちの片割れです。
その後20年近く粘り強い考察を進めてきたようで、いわゆる「王妃の間」の下に、別の部屋があるのではないかという示唆をおこなっています。

Gilles Dormion,
La chambre de Chéops: Analyse architecturale.
Études d'Égyptologie 5
(Librairie Arthème Fayard, 2004)
311 p.

Table des matières:

Préface par Nicholas Grimal (p. 7)

chapitre I La construction des pyramides (p. 29)
chapitre II Les demeures d'éternité (p. 45)
chapitre III Les pyramides de Snéfrou (p. 54)
chapitre IV Le problème de la Grande Pyramide (p. 68)
chapitre V L'appartement souterrain (p. 76)
chapitre VI Le couloir ascendant (p. 87)
chapitre VII Le prolongement du puits (p. 106)
chapitre VIII Le couloir horizontal (p. 114)
chapitre IX La chambre dite (p. 134)
chapitre X La grande galerie (p. 156)
chapitre XI La chambre des herses (p. 183)
chapitre XII La chambre dite (p. 201)
chapitre XIII Le dilemme (p. 224)
chapitre XIV La chambre du second projet (p. 228)
chapitre XV La chambre de Chéops (p. 263)
chapitre XVI Synthèse (p. 270)

Plans (p. 274)
Les rois de la IVe dynastie et leurs pyramides (p. 300)
Bibliographie (p. 301)
Remerciements (p. 303)
Table des figures (p. 304)

前書に当たる2冊を、ここで掲げておかなくてはなりません。発端を語っているのが以下の2冊。

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Khéops: Nouvelle enquête;
Propositions préliminaires

(Éditions Recherche sur les Civilisations, Paris, 1986)
110 p., plan.

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Les nouveaux mystères de la Grande Pyramide
(Édition Albin Michel, Paris, 1987)
249 p.

「王妃の間」の床に、訳の分からない痕跡が多数あることは、すでに19世紀の終わりに詳細な調査をおこなったピートリの報告によって指摘されていました。
この建築家はその痕跡を克明に追い、また床に電磁探査をかけたりして、この部屋の下に想定される落とし戸のある通路や、その先に続くべき秘密の部屋の実像を突き止めようとしています。
非常に大胆なことを示していて面白い。

石材の目地の不規則さ、また石に残っているわずかな削り跡や穴の痕を、どのように解釈し、総体としてまとめ上げられるかが述べられていて、驚嘆します。
王の間に残る石棺の痕跡から、蓋の形状を復元し、この蓋が単に上から載せられる形式のものではなくて、石棺の長手方向の真横から溝に沿って辷り込ませるものであること、また3つのダボを用いて、いったん閉めると二度と開かなくなる仕組みについて、明快に図示しています(202ページ、図45)。この種の図解は最近、しばしば見られるようになりましたが、その先駆け。

巻末に収められた何枚ものピラミッドの詳細図は素晴らしい。初めて見る図面が少なくありません。観察眼が鋭く、良く細部を見ていることに感心させられます。
特に「王妃の間」の図面は、これまで刊行されたどの図面よりも詳細で、イタリア隊の図面、Maragioglio e Rinaldi 1963-1975の第4巻よりもはるかに詳しい。比べて見るならば、すぐに分かります。

彼の説がどれだけ受け入れられるかどうか、危うく思われるし、これを確かめるにはかなりの量の石を取り外さないといけないこともあり、その調査が実現できるかも難しいところ。
しかしクフ王のピラミッドの内部に、未知の部屋があるらしいことをこれだけ具体的に示した本は稀有です。
痕跡の解釈に関しては、恐るべき才覚を備えた人物であって、見習うべきところが多い。

本には前書き以外、註が一切、振られていません。参考文献もたったの2ページ。普通の研究者ならば、頭を傾げるところです。この欠点を上回るのが圧倒的な痕跡の解釈であって、後年、彼の説の全部ではないにしても、再評価されることを期待します。

序文をコレージュ・ド・フランスの教授、N. グリマルが書いています。フランスにおけるエジプト学の最高権威のひとり。

2009年8月22日土曜日

Málek 1986


古代エジプトの彫像(人間の姿の彫刻像)は、死んでミイラにされた時の状態をあらわすのであれば両足が揃っていますけれども、それ以外の場合は何故、右足ではなく左足を前に出していることが多いのか。良い質問を数日前に学生のKimieさんから書き込んでいただいて、これが日本語であまり詳細に説明されていないことに気づきました。
古代エジプトに詳しい方ならば、エジプトでは「左」よりも「右」が重視されたという点は御存知のはず。「王の右側の羽扇持ち」、という重要な役職名もありました。ならば、右足を前方に出すはずではないのか、という疑問が当然出てくるわけです。
今、イタリアのトリノ・エジプト博物館展が上野で開催されていますから、改めて注意して見ると良いかもしれません。

この問いに関しては、博覧強記で有名なエジプト学者J. マレクが見解を書いています。エジプトのあらゆる遺跡の情報を集めようとしている、通称「ポーター&モス」(Porter and Moss, 8 Vols.)と呼ばれる基礎台帳のシリーズの編集者として広く知られている人。面白い説明の仕方なので、ちょっと長くなりますが書き写しておきます。

Jaromír Málek,
photographs by Werner Forman,
In the Shadow of the Pyramids:
Egypt during the Old Kingdom

(Orbis Book Publishing Corporation, London, 1986;
The American University in Cairo Press, Cairo, 1986;
reprint, University of Oklahoma Press, Norman, 1992)
128 p.

"Already the earliest male standing statues invariably show the left foot advanced in the typically Egyptian 'flat-footed' posture. There are two reasons for this: the favourite 'main' direction in Egyptian two-dimensional art, as well as writing, was for figures and hieroglyphs to face right, while one of the basic representational rules was that none of the important elements should be obscured. For the Egyptians the ideas of completeness and perfection were almost identical. If we imagine two people of the same height, both facing right, represented side by side on the same base-line, it has to be the person farther away from us whose face is projected slightly forward of the face of the nearer person. If represented differently, the man's face, his most characteristic feature, would be obscured. In the case of the feet of a man standing facing right it is the left foot which is shown slightly advanced, even if the person is just standing, not striding. A sculptor started to make a statue by sketching its profile on a stone block from which he was going to carve, and thus introduced this element into three-dimensional sculpture."
(p. 54)

これが碑文も読めて美術史にも詳しいエジプト学者の解釈。彼が著したエジプト美術に関する本は、和訳も出ています。
ヒエログリフは右から左にも、また左から右にも書くことができましたが、正式には右から左に記す書式が尊ばれました。この時、文字自体は右向きとなります。レリーフなどを含む絵画表現においても、この決まりが適用されたらしく思われます。右向きに重きが置かれると言うことです。

一方、絵画などにおいて、古代エジプト人はもののかたちを、見える通りではなく、知っている通りにあらわそうとしました。記憶に残る、重要で特徴的なことを全部描こうとしたわけです。人体の場合には、腕や足が2本ずつあることの明示が大切であったようです。このために、右向きの立った人物像が描かれた場合、顔は右向きながら、胴体は正面を向いて2本の腕が伸びる様子がはっきりとあらわされ、また歩くポーズではなくて、ただ立っている時でさえも、奥にある左足が少し前に出されて、手前に描かれた右足とともに両足が描写されます。

右向きの立像の図ですから、右足が観察者の手前に描かれます。奥にある左足を、右足の左に描写する、つまり左足の「かかと」を右足のかかとの左に描くのではなく、左足の、「かかと」よりも普段見慣れた特徴的なかたちである「つま先」を右足のつま先の右に描くという点に注意。この時、足の親指の爪まで描かれることが多い。
マレクは人の顔で説明していますが、事情は同じです。

つまり3次元の立体表現である彫刻の像の場合でも、「古代エジプトでは右が優先されているのだから右足の方が前に出て然るべきではないか」ということではなく、たとえ正面から眺めるべきものであっても、像の全体には「右向きの格好で見られることへの尊重」が勘案されており、この際には左足が前に、右足が後ろになる姿勢が取られます。ここにはエジプト人が大切なことを最大限に表現しようと注意を払った痕跡がうかがわれ、とても興味深い。
寝そべった姿をしたスフィンクスの彫刻で、尻尾の見える側面の方が重要なのだと見学会で以前、説明したこともありましたが、この話題と重なります。

Gay Robinsによるエジプト美術の本を紹介したことがありましたけれど、そこでも

"The primary orientation in two-dimensional art for hieroglyphs and figures was facing to the viewer's right. However, both could be reversed to face left as the occasion demanded."
(Robins 1997, p. 24)

と書かれており、ここでまたもや引用されているのが、Henry George Fischerによる1977年の本。「方向の逆転」という題を持つ、大変楽しい本ですが、残念なことに第1冊目が出ただけで終わってしまいました。
古代エジプトのさまざまな場面において「右」が優先されるということは良く知られていますから、立像などの三次元の立体的な表現においても、右足を前に出すのではという発想を誰もが抱きがちです。しかし実際の彫刻作品では逆であるわけで、そのためにいろいろな説がまことしやかに語られて流布している、そういうことだと思われます。
左右の逆転という話題は、本当に面白い。対象物(ここでは立像)を中心に考えるか、それともそれを見る人の視点を中心に考えるかによって、左右が入れ替わります。

エジプト美術については下記の古い本が今なお、基本文献と思われます。大美術史家ゴンブリッチの序文付きで、ベインズが適宜情報を補って英訳。

Heinrich Schäfer,
edited by Emma Brunner-Traut, translated and edited by John Baines,
foreword by E. H. Gombrich,
Principles of Egyptian Art
(Griffith Institute, Oxford, 1986, reprint, with revisions of first English edition.
First published in 1919, "Von ägyptischer Kunst", Leipzig.
Fourth edition, Otto Harrassowitz, Wiesbaden, 1963.
First English edition, Oxford, 1974)
xxviii, 470 p., 109 plates.

500ページ近くもある大著。中が4つに仕切られている器を、古代エジプト人はどう絵に描いたかなど、興味ある指摘がたくさん書かれています。サイバー大学福岡キャンパス附属図書館にも収蔵されています。図版多数。

さて、現在ではGoogle booksという、書籍の全ページではないけれども、厖大な数の本をスキャンしたものが公開されていますから、時折、知りたい内容がヒットすることもあります。

グーグル・ブックス
http://books.google.com/

のページで検索用の小窓に、

egyptian statue & left foot & reason

と入力して検索してみると、マレクの本を含む記述が多く出てきます。上記の引用文も、これを参照しました。
キーワードの選択がここでは重要。最適の言葉を複数、選ばなければなりません。でないと文献の山に溺れてしまいます。
あとはその中から、名の知れた学者が書いたものを参照すればいいかと思います。
こういうのは、根気よく、いろいろと試してみるのが一番。

グーグル・スカラー
http://scholar.google.co.jp/

もありますが、こちらは論文の題名や最初のページしか出てこないことが多く、自宅のコンピュータでキーボードを叩いて使いこなすのは難しい。アクセスに制限があるからです。もちろん電子化された多数の学術雑誌へのアクセスが可能となっている研究機関の図書館では有用。書評なども含まれています。

2009年8月20日木曜日

Rousseau 2001


エジプトのピラミッドがどう計画されたかを問う書。著者は教職につきながら、技術者・建築家として活躍した人です。

Jean Rousseau,
Construire la Grande Pyramide
(L'Harmattan, Paris, 2001)
222 p.

Sommaire:
Introduction, p. 7

Premiere partie: Les tombes egyptiennes de la prehistoire a Cheops, p. 17
Chapitre 1, Les tombes prehistoriques et thinites, p. 19
Chapitre 2, Les pyramides a degres, p. 29
Chapitre 3, Les pyramides de Snefrou, premieres pyramides veritables, p. 41

Deuxieme partie: La Grande Pyramide, p. 51
Chapitre 4, Presentation du complexe de Cheops, p. 53
Chapitre 5, La structure de la Grande Pyramide, p. 69
Chapitre 6, Le projet. Le choix du site, p. 77
Chapitre 7, L'implantation de la pyramide, p. 89

Troisieme partie: La production et le transport des materiaux, p. 97
Chapitre 8, L'extraction des materiaux de construction, p. 99
Chapitre 9, Le transport des dalles et des moellons, p. 107

Quatrieme partie: La construction de la Grande Pyramide, p. 115
Chapitre 10, La taille et la pose du parement. p. 117
Chapitre 11, Les procedes de construction, p. 135
Chapitre 12, Le demarrage du chantier, p. 165

Cinquieme partie: La conception "coudique" de la Grande Pyramide, p. 183
Chapitre 13, Les "regles" de l'architecture egyptienne, p. 175
Chapitre 14, Les plans "coudiques" de la Grande Pyramide, p. 183

Conclusion, p. 205
Annexes, p. 209
Bibliographie, p. 217
Index, p. 221
Sources des illustrations, p. 223

ピラミッドの寸法をもとにして、細かい数字が出てくる本です。またこの数字に対して「聖数(聖なる数)」を考えており、独特。

-les uns, le couple 17 et 19, le premier nombre etant plutot connote aux tenebres, a la mort, a Osiris (?); le second, a la lumiere, a la vie, a Re. Ces nombres, souvent associes, on les retrouve avec une frequence tres anormale dans les expressions les plus diverses de la culture egyptienne tout au long de ses trois ou quatre millenaires.

-les autres, d'origine calendaires, correspondent a la duree en jours des cycles annuals, a savoir:
348 = 29×12 jours (annee lunaire coutre), 354 = 59×6 jours (annee lunaire longue) et 384 jours, annee lunaire extra-longue a 13 mois, toujours en usage dans le Proche Orient et, en particulier, en Israel.
365 jours (73×5), 366 jours (61×6), annee bissextile deja connue du roi Djoser (cf. p. 31).
29, 59, 73 et 61 sont les nombres premiers caracteristiques de ces cycles. (p. 14)

などという記述が最初の関門。
「聖数」の整数倍がピラミッドの計画では採用されたであろうと考えられていて、完数(半端な値を持たない数。基本的に10、20、30といったようなまとまりを持つ数だが、3や5の倍数なども含まれる)で設計されたというモティーフそれ自体は了解されますが、暦や天文学、あるいは神学と結びつけられて思考が巡らされており、独自の解釈がおこなわれています。
天体の動きと記念建造物とを結びつける考え方は根強く、確かにそうした遺構もあると思われるのですが、果たしてピラミッドでどの程度まで天体の運行との関連が意識され、象徴的な意味が込められたのか、未だ統一した見解が出ていません。
ピラミッドの向きが正確に東西南北を向いていることが、天体の動きとの関わりがあった根拠のひとつとされていますけれども、365日という数との関連など、ここは充分な吟味が必要だと思われます。
当時、用いられた古代の尺度の数値と、暦の日数とを関連させる論法は他にもいろいろとありますけれども、建築を専門とする学徒の間では、あまり信用されていない考え方。

2009年7月31日金曜日

Crozat 1997


ピラミッドの組積に関わる原論を扱おうとした書。第1章で、ピラミッドに関連したこれまでの論を3つに大別し、建造技術に関わるものは第2章で、さらに3つに分類しています。こうした分け方が大胆。
ファルーク・ホスニによる序文つき。

Pierre Crozat,
Système constructif des pyramides
(Canevas, Frasne, 1997)
159 p., 1 tableau.

Table des matières:
Préface de Farouk Hosni, Ministre Égyptien de la Culture, p. 5
Introduction, p. 7

I L'état de la question, p. 15
A. Les théories mystiques, p. 16
B. Les théories pseudo-scientifiques, p. 21
C. Les théories constructivistes, p. 22

II Analyse critiques des théories constructivistes
A. Le système à rampes frontales, p. 25
B. Le système à rampes latérales ou enveloppantes, p. 36
C. Le système par accrétion et outils de levage, p. 40

III Esquisses d'une autre approche, p. 47
IV Notre raisonnement, p. 61
V Concept de construction, p. 83
VI Modélisation, p. 97
VII Rampe et Grande Galerie, p. 107
VIII Confrontation, p. 123
IX Hypothèse de l'exploitation de carrière, p. 137
X Conclusion, p. 147
XI Bibliographie sommaire, p. 151
Annexe: Tableau comparatif des assises de la Grande Pyramide, p. 153

J.-P. AdamJ. Keriselの考え方も紹介しており、珍しい。前者は古代ローマ建築を専門とする建築家・考古学者、また後者は地盤工学を専門とする研究者で、ピラミッドについて何冊も本を書いている人。筆者のCrozatは建築家・都市計画家で、だからこういう論考にも目を向ける余裕があるわけです。
考え方は独特で、まずはギリシア語で書かれたヘロドトスの「歴史」の抜粋から始め、

"Ainsi fut construite cette pyramide: quelques-uns appellent ce mode de faire les 'krossaï' et les 'bomides', une telle appellation [bomides] au début, après qu'ils construisent, une telle autre [krossaï]. Les pierres suivantes furent soulevées grâce à des machines faites de morceaux de bois court, en les enlevant de dessus le sol [pour les mettre] sur la première rangée de degrés..." (p. 48)

と、"krossaï", "bomides"の区別から出発。
その後、数式がいくらか出てきますので、覚悟が必要。
例えば68ページでは、

η Ση
1 - 1  1
2 - 3  1+2
3 - 6  1+2+3
4 - 10 1+2+3+4
5 - 15 1+2+3+4+5
6 - 21 1+2+3+4+5+6
7 - 28 1+2+3+4+5+6+7
8 - 36 1+2+3+4+5+6+7+8
9 - 45              +9
10 - 55               +10
etc.                   etc.

という階段状に並べられた数式があらわれます。これで驚いてはいけません。積み木を用い、実際にピラミッドの構築を縮尺1/50でやって見せています。

黄金比φや円周率πについて否定するために、足し算だけでピラミッドのかたちを正しく復原して見せている、そういう印象が与えられます。基本的な事項から考えるということが徹底され、目眩がする本。否定のために費やされている労力が尋常ではありません。
黄金比φや円周率πをピラミッド論の内に持ち込むことにはいびつさが感じられるわけですが、その反論にも同様のいびつさが押し出されている例。
しかしこうした論の、おおもとのモティーフは重要で、検討に値します。

ほぼ正方形の版型の、グレーの表紙のペーパーバック。
巻末に収められた大きな折り込みの図は、イタリア隊のMaraglioglio & Rinaldiによる図に加筆を施したもの。
クフ王のピラミッド内における諸室、あるいは上昇通廊でうかがわれる、いわゆる「ガードルストーン」の配置に、根拠を与えようとした考察も面白い。
ピラミッドを巡っての、こういった論が数年ごとに出てくるというところが、欧米の思考力の凄さです。
おそらく、この本の中で最も批判されているのはJ.-Ph. ロエール。エジプト学では高名ですが、論理としてはたいした解釈を提示できず、誤謬ばかりを撒き散らした張本人、という見解になるかと思われます。

2009年7月22日水曜日

Houdin 2006


クフ王のピラミッドの建造過程に関する新説を披瀝した書。テレビでも番組が放映されています。特徴はピラミッド内に螺旋状のトンネルを構築し、内側から建造していったという、度肝を抜く発想。

Jean-Pierre Houdin,
Translated from the French by Dominique Krayenbühl,
Foreword by Zahi Hawass,
Khufu:
The Secrets behind the Building of the Great Pyramid

(Farid Atiya Press, Egypt, 2006)
160 p.

ミイラの紹介やツタンカーメンの死因についてベストセラーを書き、テレビにも多数出演しているBob Brierがこれに関わって、下記の共著を出しています。Brierも出演しているテレビ番組は、たぶんこちらの本の映像化と言っていい。

Bob Brier and Jean-Pierre Houdin,
The Secret of the Great Pyramid:
How One Man's Obsession Led to the Solution of Ancient Egypt's Greatest Mystery

(Smithsonian Books, Washington DC, 2008)
304 p.

権威あるスミソニアンから出版されている点に注意。出版社で本を選ぶのは危ないという好例。
BrierはHoudinの説を書き広めており、例えば旧版を改めて40ページばかりの文章を加え、昨年に出した書、

Bob Brier and Hoyt Hobbs,
Daily Life of the Ancient Egyptians
(Greenwood Press, Connecticut, 2008.
2nd ed. First published in 1999)
xvi, 311 p.

の221ページ以降でその記述を見ることができます。
この"Daily Life"はしかしひどい本で、"Architecture"の章(pp. 155-180)は読むに耐えません。特に宮殿の説明は最悪で、B. ケンプによるアマルナ王宮の解釈は完全に無視され、20世紀中葉に出されたA. バダウィの「カタログ本」全3巻のみに情報源を頼っています。マルカタ王宮の平面図(p. 164)はでたらめ。あとは推して知るべしです。

ピラミッドの内側にトンネルが巡らされており、これを搬路としているという無理が何故、拒まれていないのかというと、大きく理由はふたつあって、ひとつは重力計による科学的な測定により、1980年代の後半に、このピラミッドの内部が一様な密度を持たないことがはっきりしたからです。日本の早稲田隊も同様の調査をしていますが、ここでは触れません。
入れ子状に納めた枡を上から眺めたような様態を呈するその平面の解析図は、同じ建築家を職業とする者による詳細な考察が述べられた書、Dormion 2004でも最初のFig. 1に挙げられています。

"En ce qui concerne la Grande Pyramide elle-même, qui présente d'être intacte, des mesures de microgravimétrie réalisées en 1987 par EDF ont permis d'éclairer cette question en évaluant la densité du monument et ses variations. On a pu mettre en évidence des alternances de densité conformes à ce que produirait la présence d'une structure interne en gradins (fig. 1)."
(pp. 35-36)

解析図から、Dormionは内部に段状の構築("gradins")があると推測しており、ピラミッド研究に通じた者の通常の解釈は、だいたいこうなるかと思われます。
ただ、よく見ると確かに四角い螺旋状を呈するようにも見え、これが出発点。

もうひとつは、かねてより問題とされてきた基準の設定方法で、地上から空中に140メートル以上も上がった位置のピラミッドの先の仮想点に向かって、どうやって4つの稜線を合致させたのかという施工上の困難に関する推察。すでにふたりの建築家による、Clarke and Engelbach 1930の本の第10章で、詳しく指摘がなされている問題です。
常に複数の基準点を見通しながら建造を進めたと考えるならば、ピラミッドの周りには何も付加したくはありません。これがピラミッドの外周を取り巻く斜路を、短絡的に内部へ想定する根拠となっているようです。

以上の2点を勘案した結果として、斜路をピラミッド内に想定するというのは、しかしかなり飛躍があり、古代エジプト建築に関係する者で誰も支持しなかったから、建築には疎いけれども説明の上手なBrierが出てきたのではないかと思われるところ。

真っ直ぐ伸びた建造用の斜路があまりにも長くなるために、その存在が否定されるという論理は、説明になっていません。U. Hölscherの考察による、カルナック神殿の第1塔門の裏に残存している泥煉瓦造の斜路の復原のように、途中で折れ曲がっていれば問題が解消します。
四角い構造物の内部に通廊が巡らされている例として、ネウセルラーの太陽神殿の報告書の第1巻、

Ludwig Borchardt,
Das Re-Heiligtum des Königs Ne-Woser-Re,
Band I: Der Bau
(Verlag von Alexander Duncker, Berlin, 1905)
vii, 89 p., 62 Abb., 6 Blatt.

を引いてくるのも、どうかと思われます。ここでは巨大なオベリスクを台座の上に立てた姿が復原されており、台座の上に登るための通廊が設けられているのであって、用途が異なります。

古くはPetrie 1883(The Pyramids and Temples of Gizeh)で、クフ王のピラミッドの各石積みの層の高さが異なることが、巻末の折り込みページの棒グラフで明らかに示されており、そこでは地上の第1層から頂上に向かって、大まかには石は次第に小さくなる傾向がうかがわれるものの、途中で何回か、また大きくなったりし、各層の石材の高さが全体として段状に変化する点が示されているのが興味深い。
長年にわたって考えられてきた疑問点をまずは整理して考えるべき。ピラミッド内部に思いを巡らせるならば、ほぼ等間隔の距離で垂直に配された、上昇通廊に見られる4つの石版の意味も考えどころです。
組織的に石を積む順序が結果として、緩い勾配の斜めの線を外側に描くと言うことは充分にあり得ます。

いたずらに「科学的」という装いを過剰に纏っているものだから、Houdinの話はややこしくなっています。重力計の計測結果の図示が意味する答えは、ピラミッド内部の螺旋トンネルというひとつの説に限定されて収斂するわけではないと思われます。
ただこのウーダンによる論考に見るべき点があるとするならば、それはピラミッドの内部構造に焦点を当てたというところで、このことは評価されて良いかもしれません。
ピラミッド研究はGreaves 1646など、かなり前から開始されているので、この360年以上にわたる欧米の蓄積を、数日や数週間で手早く理解しようとするのは難しい。誤謬を辿ることも大事です。

2009年4月29日水曜日

Romer 2007


クフ王のピラミッドに関し、最新の情報を盛り込んだ分厚い書。一般向けに何冊も出しているローマーだけあって、読みやすさが工夫されています。
51の断章から構成され、それらの全体を7つの章に分けていますが、こういう書き方は珍しいと言っていい。ひとつひとつの断章は短い記述からなっており、必ず断章の中には図版が含まれるように配慮されています。クフ王のピラミッドについての面白いトピックが50以上、集められているという印象です。
裏表紙にはW. K. シンプソン、B. J. ケンプ、そしてI. ショーによる好意的な書評の抜粋が掲載されており、この3人はいずれも非常に有名なエジプト学者。もっとも、ショーはケンプの弟子筋だから、その点は割り引かないといけないかもしれません。
でも、全般的には評価が高い書だと思います。

John Romer,
The Great Pyramid: Ancient Egypt Revisited
(Cambridge University Press, Cambridge, 2007)
xxii, 564 p.

話の中心は、このピラミッドがどう設計され、また建造されたかを綴った部分にあります。
大きな特徴は、20キュービット間隔の水平線と、底辺を6つに分割してできる垂直線とでできる格子を基本として、内部の部屋や通路の位置も、外側の勾配も決定されたとみなしている点で、これは要するに、今まではピラミッドの設計方法を語るに当たっては抜きにはできなかった「リンド数学パピルス」の「ピラミッドの問題」をすっぱりと切り捨てたことを意味します。
建築学的には、これが最も重大な点となるかと思われます。

「リンド数学パピルス」をどう考えるかは、悩ましい問いのひとつではありました。
書かれた時代はピラミッド時代よりも下りますから、同じ手法が古王国時代にも果たして適用されていたかは疑念が残るのではないか。これは文献学が主流のエジプト学にとって、当然討議がなされる問いかけです。従って、「リンド数学パピルスは考慮しなくてもいい」という立場を取る研究者がいても不思議ではありません。

「リンド数学パピルス」を手放すメリットがあって、それはこの本のように、少なくともクフ王のピラミッドまでは話が簡略化でき、整然と語ることができるという点です。
逆に考えるならば、この流れに属する説における致命的なデメリットは、クフ王以降のピラミッドに対して普遍性を持たないという点です。この説に拘泥する限り、「クフ王のピラミッド以降では計画方法が変わったんだ」と考えざるを得ません。

ここはピラミッド研究に関わる者の見解が大きく分かれるところで、非常に興味深い様相を呈しています。
建築に関わる人間は、「リンド数学パピルス」に書かれている勾配の素朴な決定方法を重視する傾向にあり、だから古代エジプト建築研究の第一人者、D. アーノルドは、古王国時代のピラミッドのセケド(リンド数学パピルスに登場する、勾配を決める方法)を求めたりしています。

ここ20年の間にピラミッド学はかなりの進展を見せました。残念なことに、日本にはあまりその情報が入ってきていないと感じます。
この本の日本語訳もまた望まれる所以です。
スペンスによるこの本の評については、EA (Egyptian Archaeology) 33 (2008)を参照。

2009年4月22日水曜日

Newton 1737


科学者のアイザック・ニュートンが古代エジプトのキュービットの長さを突き止めていたということが広く知られるようになったのは、Michael St. Johnが編集し、J. Degreefがドイツ語から訳したレプシウスの本が2000年に新しく出てからです(Lepsius 1865 [English ed. 2000])。PetrieがNature誌などで、ニュートンによりキューピットの長さの分析がおこなわれていることを書いていますけれども、それまではほとんど知られていませんでした。これには理由があって、"Alt-aegyptische Elle und ihre Eintheilung"というこの本、誰もほとんど見たことがないままに皆が引用を続けていたという、力が抜ける話。
ラテン語によるニュートンの論文は19世紀に英訳が出ており、ピアッツィ・スミスの本がこうして今日でも別の意味で役に立つことになります。

Isaac Newton,
Dissertatio De Sacro Judaeorum Cubito, atque de Cubitis aliarum Gentium nonnullarum; in qua ex maximae Aegyptiacarum Pyramidum dimensionibus, quales Johannes Gravius invenit, antiquus Memphis Cubitus definitur

[Dissertation on the sacred Jewish cubit, and the cubits of some other nations, in which the ancient cubit of Memphis is determined on the basis of the dimensions of the Great Pyramid of Egypt, as Johannes Gravius discovered]

(Lausannae & Genevae, 1744),
pp. 491-510, 1 figure.

(English translation)
C. Piazzi Smyth,
Life and Work at the Great Pyramid during the Months of January, February, March, and April, A.D. 1865;
with a Discussion of the Facts Ascertained. Vol. II
(Edinburgh, 1867)
pp. 341-366.

Johannes GraviusとはJohn Greavesのこと(Greaves 1646)。
ニュートンの考え方は徹底しており、煉瓦造建築についても触れているのが面白い点です。彼によれば、もし煉瓦が古代尺に合わせた大きさであったなら、建物全体で使用する煉瓦の量が計算しやすいであろうとのこと。これは煉瓦の大きさに関する論考の、非常に早い例のうちのひとつであろうかと思われます。

実際にはしかし、煉瓦の大きさはまちまちで、キュービット尺とは整合性があまり認められません。古代エジプトの建築において、数多く積まれる建材の大きさがキュービット尺と揃えられるのは第18王朝末期のアクエンアテン時代の「タラタート」の場合だけで、石の寸法によって時代がただちに判別できるという唯一の例。
でも「古代で積算がおこなわれたに違いない」という重要な指摘は当たっており、このような論理の飛び方と、結びつかせる方法には感心します。

出てくる数値は非常に細かく、電卓を片手に持ちながら読むことになります。フィートとインチだから、また換算が大変。
ニュートンの本は東京大学の駒場キャンパスの図書館が所有。スミスの方は結局、当方の場合、イギリスの図書館に複写を依頼することになりました。

追記(2012年3月7日)
Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]においても、ニュートンの論文の英訳を読むことができます。

2009年4月21日火曜日

Greaves 1646


ギザのピラミッドに関する実測の結果を詳しく伝えたものとしては最古の部類に属する書。この有名な本はマーク・レーナーの「ピラミッド大百科」でも紹介されているので、御存知の方も少なくないかと思われます。ピラミッド学では欠かせぬ基本書となります。
比較的簡単に複写を入手することができ、ここ数日をかけて目を通しましたが、非常に面白かった。

John Greaves,
Pyramidographia:
or A Description of the Pyramids in Aegypt
(Printed for George Badger, and are to be sold at his shop in St Dunstans Churchyard in Fleet-street, London, 1646)
(xiii), 142 p. (?), illustrations.

(Contents:)
The Preface (iii)
Of the Authors or Founders of the Pyramids (p. 1)
Of the Time in which the Pyramids were built (p. 16)
Of the end or intention of the Pyramids, that they were for Seplchers: where, by the way is expressed the manner of imbalming used by the Aegyptians (p. 43)
A description of the Pyramids in Aegypt, as I found them, in the ⅭⅠↃ XL VIII yeare of the Hegira, or in the yeares ⅭⅠↃ DCXXXVIII, and ⅭⅠↃ DCXXXIX of our Lord, after the Dionysian account (p. 67)
A description of the first and fairest Pyramid (p. 67)
The description of the inside of the first Pyramid (p. 79)
A description of the second Pyramid (p. 103)
A description of the third Pyramid (p. 108)
Of the rest of the Pyramids in the Libyan desert (p. 114)
In what manner the Pyramids were built (p. 115)
The Conclusion (p. 119)

高さ16cm、幅10cmほどの小さな本です。p. 119の次にはp. 142が来ています。本文の前に置かれた13ページ分などが、最終ページには含まれて表記されているのかとも思われますが、それにしても勘定が合わず、詳細は不明。
本当は著者の名前はIOHN GREAVESと記されてあって、これはラテン語表記。また活字の"s"と"f"との区別がつきにくく、注意が必要です。

すでに上記の目次でお分かりの通り、1000に対する数字の表記は"M"を用いていません。例えば3000は本文中で"ⅭⅠↃ ⅭⅠↃ ⅭⅠↃ"とあらわされています。ここら辺の読み方は、インターネットで"Roman numeral"を検索すれば情報がすぐに出てきます。便利な時代です。
17世紀の本ですから、"yeare"などと記されるのも興味深いところ。
67ページから始まる章名では、"the first and fairest Pyramid"と言葉遊びも交えています。

本の前半は当時知られていたことのまとめで、頭がおかしくなりそうな記述が満載。しかしピラミッドにまつわる今日の怪しげで胡散臭い論議のほとんどが、ここで全部提出されているとも見ることができます。
著者はオクスフォード大学の教授であった人。天文学者で50歳の時に亡くなりましたが、学者には収まらずにどうやら破天荒な人生を送った模様。大旅行家で、古代ローマの度量衡に関する本も出版しています。
たぶん、時代の間尺に合わなかった人でした。

ジョン・グリーヴスによる「ピラミドグラフィア」はアイザック・ニュートンの注意を惹き、キュービットの長さに関する論文が執筆される契機となります。この論文はニュートンの生前には発表されませんでしたが、これを後世に向け、積極的に紹介したのがThomas Birchで、バーチはJ. Greavesの一連の著作についても同じようにまとめて紹介をおこなっています。
これらを読んで、再びピラミッドの実測を試みたのがエジプト学の始祖であるフリンダース・ピートリです。まるで手帖のような一冊の小さな本を出発点として始まった経緯を考え合わせながら繙くと、エジプト学、あるいはピラミッド学の成立過程の縮図が立ちあらわれます。
授業でこの小さな本をどう使おうかと思案中。

2009年1月29日木曜日

Simpson 1963-1986


中王国時代に属するパピルス(pReisner)の読解。全4巻からなり、建造計画が記されている部分もあるため、注目される資料です。序文にもありますが、似たような記述は新王国時代にはいくつかあっても、それより前の時代ではきわめて稀となります。

第4巻が出版されたのは、第1巻が出てから23年後で、非常に長い時間がかかっていますが、これでも出版計画を大幅に縮めた結果で、第2巻からは体裁を変え、記述を簡単にする方法へと改めました。ページ数が第2巻目以降、少なくなっているのはそのためです。

貴重な資料なので、著者であるシンプソンもじっくりと構えて入念な報告書を刊行したかったでしょう。念頭にはたぶん、ガーディナーによる記念碑的な大著、ウィルボー・パピルス(pWilbour)に関する全4巻の存在があったかと思われます。
ガーディナーのこの報告書の第1巻(1941年)は図版を扱い、高さが60cmもある大型本で、第二次世界大戦を挟み、やはり10年以上をかけてようやく完結した刊行物でした。

第1巻目を出して残りの仕事量を勘案した時、シンプソンは考えを改めたようです。
第2巻の序文では「迅速に出版するため、報告の方法を簡略化する」ということを読者に断っています。

William Kelly Simpson,
Papyrus Reisner I:
The Records of a Building Project in the Reign of Sesostris I
(Museum of Fine Arts, Boston, 1963)
142 p., 31 plates

Papyrus Reisner II:
Accounts of the Dockyard Workshop at This in the Reign of Sesostris I
(Boston, 1965)
60 p., 24 plates

Papyrus Reisner III:
The Records of a Building Project in the Early Twelfth Dynasty
(Boston, 1969)
45 p., 21 plates

Papyrus Reisner IV:
Personnel Accounts of the Early Twelfth Dynasty.
With Indices to Papyrus Reisner I-IV and Paleography to Papyrus Reisner IV, Sections F, G.
(Boston, 1986)
47 p., 33 plates

最も厚い第1巻目では、日付、石の大きさ、労働者名などがリストになっているぼろぼろのパピルスを対象としており、神殿の建造記録について触れている第5章が特に興味深い。
しかし分からないことだらけで、71ページのサマリーでぼやいていますけれども、扱われている数字が一体、建物のどこの寸法なのか、まず理解が不能です。

"In brief, the conclusions presented in this initial
presentation of these records are largely negative."

と書かれてあって、「結局、私には何のことだか全然分かりませんでした」という内容を、学術の世界で難しく表現するとこういう言い回しになるという典型。
そうか、"largely negative"という言い方があるのか、と大変勉強になります。

2008年12月24日水曜日

Herz-Fischler 2000


クフ王のピラミッドのかたちはどのように決められたのか。10以上ある諸説を数学者が根底から再吟味をおこない,妥当性を検証した書。
こういう本は珍しい。いくつかの説を紹介する本はあっても、実測値とどれだけの誤差があるか,また当時の数学の知識を踏まえての仮定は正しいのか、充分に考察を重ねたものは少ないからです。

Roger Herz-Fischler,
The Shape of the Great Pyramid
(Wilfrid Laurier University Press, Waterloo, Ontario, 2000)
xii+293 pp.

この本はエジプト学者にほとんど引用されていないけれども,問題点を整理している点で,とても重要だと思われます。結果として,いくつかの論には説得力があるものの、どれも完全には承服できない,と書かれているところが面白い。
ホームページをこの著者は開設していて、建築と数学に関する他の論考もそこで読むことができます。

http://herz-fischler.ca/index.html

筆者がこぼしているように(p. 164)、ピラミッドと絡めてよく語られる「セケド」 "sqd" (=seqed)という勾配の決め方は、当時の尺度など複雑な問題が絡み合っているため、エジプト学の専門分野内でもっぱら論議されることが多く,一般の人には縁遠くなっているのは事実だと思われます。
こういう指摘は重要で,「セケド」と呼ばれるものが専門家たちの間でのみ抱え込まれてしまい、情報が広がっていないという点が言われているわけです。

実はこの「セケド」は,日本の伝統的な木造建築を知る者にとっては単純な話で、1キュービットという基準の長さに対し,それに直交して別の長さを指定して傾きを与えるやり方に違いありません。酷似した方法は日本建築の屋根勾配の定め方でも出てきます。「4寸勾配」といったら、水平に1尺=10寸を取り,垂直に4寸下がった傾きのことで、大工さんなら誰でも知っている方法です。
「セケド」という方法がリンド数学パピルスにしか見当たらないものですから、エジプト学研究者は概念をきわめて限定して扱っているのですけれども、本当は非常に単純で、また普遍的な方法だと考えていいと思われます。

「セケド」の概念が、もっと一般的な方法であったのではないかということは近年,気づかれつつあります。
「セケド」については現在,下記の文献がおそらく最良です。

Annette Imhausen,
Agyptische Algorithmen: Eine Untersuchung zu den mittelagyptischen mathematischen Aufgabentexten.
Agyptologische Abhandlungen 65
(Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, 2003),
pp. 162-168, "sqd-Aufgaben."

この執筆者もホームページを開設しており、そちらも興味深い。

2008年12月19日金曜日

Verner et al. 2006


ピラミッドに関する最新の報告書ということであれば、エジプトのアブシールを発掘中のチェコスロヴァキア隊による、このラーネフェルエフのピラミッドを扱った刊行物になるかと思われます。

Miroslav Verner et al.,
The Pyramid Complex of Raneferef: The archaeology.
Abusir IX, Excavations of the Czech Institute of Egyptology
(Czech Institute of Egyptology, Faculty of Arts, Charles University in Prague; Akademia, Publishing House of the Academy of Sciences of the Czech Republic, Prague, 2006)
xxiv, 521 p.

大規模な複合施設の調査報告書を纏める作業は大変で、ここでも序文で続巻があることを記しています。500ページ以上を費やしながら、触れることができなかった点がまだたくさんあるということです。ピラミッドに付設された葬祭殿は後に増築されているため、さらに輪をかけて話は複雑となります。

内容はまず考古学的発掘調査の報告と、出土遺物に関する報告とのふたつに分かれており、後半の出土遺物の方が約2/3を占めています。
前半部を締めくくる章、「古王国時代のピラミッドのかたちと意味」(pp. 172-184)は、重要な話をしていて詳細にわたる検討が必要なので、ここには意見を書きません。ただラーネフェルエフの墓は、最初はピラミッドとして建造が開始されたにも関わらず、結局は四角の平たいマスタバ状の構築物に変えられたらしく、この点はネチェリケト王の階段ピラミッドと順序が逆です。興味が惹かれるところです。

最後の章は王のミイラ片の分析(pp. 513-518)で、ピラミッドから実際に王の遺体が発見されている例がきわめて稀であるため、ピラミッド学では今後、おそらく注目がなされる部分。

全体の目次立てから見るならば、まずは良く纏められた報告書であるという印象が伝えられる一方で、しかし急いで出版されたらしく、充分な校正がおこなわれなかったらしい痕跡が散見される点は残念です。
「序文」では、19世紀の先行研究であるペリングやレプシウスによる図版を紹介していますけれども、これらは別の章を立てて「既往の研究」として扱うべきだったのではとも感じます。記述内容が少なかったので、こうした対処が選ばれたのでしょうか。
184ページの、ピラミッド複合体に関する主構造物の寸法表が抜け落ちたために、別刷の訂正紙が添付されている点は致命的です。前述した「古王国時代のピラミッドのかたちと意味」の章そのものが、あとから急遽、書き加えられたのではないかという疑念を招くからです。当然、読み手としてはその点を含みながら読み進めることになります。

また188ページの下方においては、"see also pl. 00"という意味不明の記述も見られ、たぶんカラー図版への言及を意図したのでしょうが、校正が間に合わなかったようです。328〜329ページの間に挿入されたこのカラー図版に対しては、ページが振られていないから、これを探すのに不便きわまりありません。まとめて巻頭あるいは巻末へ回すべきでした。

520ページには、"Index od Selected Names"と書かれています。インデックスは最後に作られる部分であり、目が行き届かなかったということだと思います。
細かい配慮が不足しているのではと、いくつか気になる点がある書物でした。面白いピラミッドであるだけに惜しまれます。
なお書評がMichel Valloggia, JEA 94 (2008), pp. 327-29で掲載されました。

2008年12月16日火曜日

Hobby-Aegyptologen der Gruppe Rott 1994-1997


118個目のピラミッドがエジプトで新たに発見されたというニュースが今年の11月上旬にありましたが、これは南サッカーラのテティ王(第6王朝)の母親であったセシェシェトのものであるとのこと。一辺が22メートル、高さについては今では5メートルしか残っていないけれども、もともとは14メートルに及んだらしいという情報も伝わってきました。

この一辺を2で割ると11メートルで、もとの高さとの比は11:14になります。一辺を2で割ると言うことは、ピラミッドの一辺の中央から正方形の底面の中心(対角線の交点)、つまりピラミッドの中心までの長さを求めるということ。ですからこの長さと高さとの比を考えるということは、ピラミッドの斜面の勾配を考えることと同じになります。
この比はまた、7を基準とする時の値に着目するならば、両方の値をさらに2で割って、11:14=5 1/2:7。何故、7を基準とする値を考えるかと言いますと、当時の古代尺であるキュービット尺が、1キュービット=7パームという制度であったからです。斜めの勾配については、パームで指定する方法「セケド」がありました。リンド数学パピルスで読むことができる内容です。
大きな値が7の時に、小さな数の方はセケドで 5 1/2になりますから、第4王朝のクフ王のピラミッドなどと同一の勾配をめざしたピラミッドであったのではないかという推測が、断片的なニュースの内容から知ることができるわけです。クフ王のピラミッドの勾配(セケド)が5 1/2であるという点は、良く知られている事項。
第6王朝に属するこのピラミッドは、復古的な意味合いを有するものであったのかもしれませんが、大ざっぱな寸法の伝聞をもとにした仮定ですから、詳しくは専門家による報告を待たなければなりません。

ピラミッドに関する数多くの本のうち、ドイツ語で書かれた以下の2巻本は、海外の同好の士たちの水準が高いことを充分に伝える興味深い出版物。「エジプト趣味の同好会」が出しています。

Hobby-Aegyptologen der Gruppe Rott, 
Aegyptische Pyramiden: Von den Lehmziegel-Mastabas der 1. Dynastie bis zu den Pyramiden der 13. Dynastie >300-1750 v. Chr.<

Band 1, Katalog zur Ausstellung
(Laufen Druck GmbH, Aachen, 1994)
255 p.

Band 2
(Hobby-Aegyptologen e. V., Rott, 1997)
143 p.

手助けしてくれた研究者たちの名前も記載されているものの、あちこちから図面を集めてきて、かなり詳しい図示をおこなっており、初期王朝のマスタバから中王国時代のピラミッドまでを包括的に扱っています。縮尺を揃えて多数のピラミッドを並べて見せてくれている点は有用です。
図各面の縮尺をある程度、揃えているところなども非常に使いやすい工夫ですけれども、1/333という縮尺はしかし、他の本ではあまり見られません。1/1000の、そのまた1/3という大きさです。
巻末には年表がついています。