古代エジプトで用いられていた尺度については、一般向けにきわめていい加減な説明がなされている場合が大変多く、この点はいずれ正される必要があろうと案じています。
先日、
「計量学-早わかり(第3版)」というページを見つけたのですが、冒頭に書かれていた古代エジプトの尺度についての記述を読んで驚きました。
ものさしという存在から、まずは語る必要があるのかもしれません。ものさしが見つかっているかどうかや、そこに刻まれた目盛りというものによって人の考え方はかなり束縛されるようで、この点で研究者の考えとの大きな乖離が生じることとなります。
ものさしが実際に見つかっていないからといって、もちろんその時代にものさしが存在しなかったと考えるべきではありません。金属でできているニップールのものさし(Nippur cubit)は最古のものさしとしてしばしば取り上げられており、ウィキペディアにも書かれていますが、だからと言ってこれよりも前の時代の世界にはものさしがなかったことにはなりませんし、だいたいニップールのものさしが「本当にものさしなのかどうか」を疑う必要があります。
世界には昔の計量学に焦点を合わせた専門の雑誌が幾冊もあります。以前に触れた
Nexus誌(cf.
Morrison 2008)もそのひとつで、建築と数学を扱っている雑誌でした。ニップールのものさしについてはしかし、例えば以下に示す別の刊行物に所収されている論文で検討がおこなわれています。
Dieter Ahrens und
Rolf C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura IV /
Ordo et Mensura V,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 25.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1998,
vi, 434 p.
2回開催された会議の記録を収めているため、言わば合併号という体裁をとっています。この中で最も注目がなされるのは、
Marvin A. Powell,
"Gudea's Rule and the So-called Nippur Cubit: The Problem of Historical Evidence,"
D. Arrens und
R. C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura V,
pp. 93-102.
の論考でしょう。
パウエルという人が編集した
Powell (ed.) 1987に関してはこの欄で前に挙げたことがあり、それは古代中近東における労働者組織の話の時であったわけですけれども、この方がミネソタ大学に提出した博士論文のタイトルは
Sumerian Numeration and Metrology (1971)で、もともとシュメールの計量学が専門の学者です。サッソンやベインズたちによる、
Jack J. Sasson et al. eds.,
Civilizations of the Ancient Near East, 4 vols.
(New York, Charles Scribner's Sons, 1995) .
Editor in Chief:
Jack J. Sasson, Associate Editors:
John Baines,
Gary Beckman, and
Karen S. Rubinson.
Vol. I: xxxii, 648 p.
Vol. II: x, 651-1369 p.
Vol. III: x, 1373-2094 p.
Vol. IV: x, 2097-2966 p.
の4巻本は、
E. M. Meyers et al. eds.,
The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East, 5 vols. (Oxford, Oxford University Press, 1997)とともにこの分野において良く知られた事典ですが、そこでは「メソポタミアの計量学と数学」の項目(Vol. III, pp. 1941-1957)に関して執筆もしており、この領域の権威として認められている人間。その彼が、ニップールのものさしについてどのような見解を抱いているかというと、
"an enigmatic piece of evidence like the so-called Nippur cubit"
と表現した後に、
"It has a curious form, sometimes said - but without supporting evidence - to be shaped like a stylus, with six indentations, dividing it into seven unequal parts. The deepest of these indentations mark off a space of about 518 millimeters, and it is this that has been referred to as the "Nippur Cubit" (Nippur-Elle). (...) In short, it is not usable at present as evidence for historical metrology."
(pp. 100-101)
と記しています。かたちが変で、目盛りの間隔が一定でなく、正確な出土場所が記録されていないために年代が実のところ不明で、学問的な資料としては扱えないという点がはっきりと述べられており、
Ordo et Mensura誌のめざしているであろう方針とは真っ向から対立する立場。
Powellの論文のあとには、この会議録
Ordo et Mensuraの共同編集者のひとり、
Rottländerが
"Die Standardfehler der Methoden der überkommenen Historischen Meteorologie"
(pp. 103-114)
と題する論文を書いており、ここにもニップールのものさしが分析図付きで出てきますが、相反する意見を並べて掲載しているところが重要です。読者に判断を任せるという姿勢。
ものさしには等間隔の目盛りがあるはずだろうという見方はしかし、ともすると考え方を逆に狭める恐れもあり、ものさしに刻まれていない目盛りで建物を設計することはないだろうという勝手な推測に結びついたりします。古代の尺度を考える際には、ものさしから話を始めなければならないのでは、と思うのはそういう時です。
なお同じ刊行物では、
Florian Huber,
"Das attisch-olympische bzw. geodätische Fußmaß von 30,9 cm.
Seine Herkunft und die Verwendung in der justinianischen Baukunst,"
D. Ahrens und
R. C. A. Rottländer (Hrsg.),
Ordo et Mensura III,
Sachüberlieferung und Geschichte: Siegener Abhandlungen zur Entwicklung der materiellen Kultur, Band 15.
St. Katharinen, Scripta Mercaturae Verlag, 1995,
pp. 180-192.
のうち、pp. 186-189などでも"Die Nippurelle"を扱っています。