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2014年7月1日火曜日

Kemp and Garfi 1993


古代エジプトで一時期栄えた首都アマルナに関し、卒業論文のテーマとして考えたいと願う大学4年生は多いのですが、読むべきものがたくさんあって、テーマを絞ることがまず重要だと思われます。

はじめはこんなに既往研究が多くありませんでした。ピートリーが19世紀末にアマルナの王都跡を発掘し、また20世紀の初期にツタンカーメンの王墓が発見されてから、研究はアクエンアテンに関する論考とともに急激に増えています。当初は「若死にした王」しか分からなくて、シュルレアリスムの説明で出てくる「マルドロールの歌」の作者、ロートレアモンと同じぐらいツタンカーメン王には不明な点があったのですが、研究者たちによってだんだんとアケナテン、もしくはアクエンアテンについても、詳細が分かってきました。

アマルナの現場はB. J. Kempが長く発掘に携わっており、立派な報告書が何冊も出されています。この本は地図集ですけれども、それだけに終わらず、図中の建物に関連する文献の索引を作成している点がきわめて重要です。
地図とともに、そこに載っている各々の建物について詳しい文献リストが付されているという本は、聞いたことがありません。ある地域に集まっている遺跡を説明した本の巻末に、全体地図を折込でつけた逆のものはたくさんありますが。
だからここでは、それまでの本の形式にない、また情報豊かなものを出版しようとした意図があったと見るべきだと思います。

Barry J. Kemp and Salvatore Garfi,
A Survey of the Ancient City of El-'Amarna.
Occasional Publications 9
(EES, London, 1993)
112 p., 9 maps.

CoAを述べた時に、この本については記しました。この題名は、J. H. BreastedThe Survey of the Ancient World (Boston, 1919)を思い起こさせます。ブレステッドが1916年に書いた、900ページ近くもある分厚いAncient Times: A History of the Early World (Boston and New York, 1916)の、言わば縮刷版。ブレステッドについては、BAR 1906-1907を参照。40歳でシカゴ大学の教授に就任し、翌年にBARを出版。54歳の時にシカゴ東洋研究所(OIC)の初代所長となっています。The Survey of the Ancient Worldが出版されたのは、この年です。

A Survey of the Ancient City of El-'AmarnaCiNii Booksで検索すると、何も出てきません。では日本国内にはないのかという話になりますが、そんなことはなく、サイバー大学付属図書室には入っています。個人で持っている研究者もたくさんいることでしょう。
このようにCiNiiには情報漏れがどうしてもあって、見たい本がウェブ検索で出てこなかったとしてもうろたえず、研究者に尋ねるのが一番だと思います。

アマルナの住居地域は大きくふたつに分かれており、違いについてはJ. J. Janssenが考えを巡らせたこともありました。ケンプはアマルナの発掘を手掛けた最初の頃、内容が似たような論文をふたつ執筆していますけれども、アマルナ型住居を本格的に分析した2本の論文がTietzeによってZÄSに発表され、今ではこちらの方が重視される傾向にあります。
けれどもアマルナの都市軸の変更があったことなど、ケンプによって新しく重要な問題が詳らかにされた今日、住居部分の成長過程については再び考え直す必要があると思われます。

イギリス隊とドイツ隊が別々におこなった測量にも基準座標についての若干の違いが認められたため、ケンプは補正を加えて統一した図を出版しました。これがこの本の2番めの重要な点です。
区分図の全部を継ぎ合せると、かなりの長さとなります。カラー版としたのはKempの見識で、またマトリックスを組んで縦横に切り分ける図画とはせず、図を斜めに重ねあわせながら細長く伸びる遺構群を覆っていく方式を採っています。
アマルナの南方に建つコム・エル=ナーナの姿が新たに明らかとなりましたから、改訂版を出したいという気持ちがあるかもしれません。

Amarna Projecthttp://www.amarnaproject.com)のページが用意されており、ここでも文献リストが充実しています。さらには模型が作成されていますが、この模型は秀逸で、古代エジプト人たちの生活を彷彿とさせるような工夫があちこちに凝らされています。
長い説明文の中には、「建物の高さがどのくらいであったかを判断するのが難しかった」なんていう記述も見られます。建築の復元をおこなう際には、この問題は必ずと言っていいほど大きな難点となりますけれど、その詳細については後継者のK. Spenceの考察に譲る、といった配慮もうかがわれます。

柱が無数に並び立つ痕跡を残していたSmenkhkare スメンクカーラーによる大きな列柱広間が、実はブドウ畑だったのではというTietzeの論が近年発表されて皆があっと驚きました。しかしこの施設はスメンクカーラーによる施設、すなわち後の増築ということなので、この模型の作成時には復元されませんでした。立体的な復原がかなり難しいという課題もあったように推測されます。
たった数年しか治世がないスメンクカーラーは謎に満ちた王です。アマルナに関して良く御存知の方々にとっては周知の事実。これは一体、誰なのか。いろいろな解釈がこれまで繰り返されてきました。

「スメンクカーラーのホール」があった場所を、ではKempはどのように復元しているかという点も、この模型の見どころのひとつだと感じます。「おお、そう来たか」と納得する人が多いのではないでしょうか。

こういう場合の的確な判断がなされている点についても、改めて監修者の力量が伝わってきます。
37枚の模型写真を、本と一緒に丁寧に眺めると大いに楽しめると思います。

2014年5月23日金曜日

Senigalliesi 1961


トリノ・エジプト博物館に収蔵されている古代エジプトのものさしを、厳密に測って報告している論文。古代エジプトのものさしを、たとえば"Egyptian cubit"といったキーワードを使ってインターネットで検索すると時々、参考文献リストの中で出会う論考です。

この論文の執筆者であるSenigalliesiはしかしエジプト学者ではなく、トリノの会社RIVに属する技術者で、要職を務めていたようです。この文章が掲載されている雑誌(rivista)もエジプト学の専門誌ではありません。
トリノで工業製品を生産する製造会社が出していた広報誌であるため、探して実見しようとすると、エジプト学に関連する書籍をたくさん集めているはずの図書館が収蔵していない場合が多く、大変な思いをします。

Dino Senigalliesi,
"Metrological Examination of Some Cubits Preserved in the Egyptian Museum of Turin,"
La Rivista RIV (1961),
pp. 23-54.

雑誌名に見られるRIVという会社名は、創業者の名のRoberto Incertiと、地名のVillar Perosaの略称に由来し、この会社はボールベアリングを製造していました。
RIVの設立にはイタリアの大企業である有名なフィアット(FIAT)を創り上げたジョヴァンニ・アニェッリ(もしくはジョバンニ・アニエッリ、Giovannni Agnelli)が大きく関わっています。Villar Perosaはアニェッリ(アニエッリ)が生まれた地でもあり、アニェッリ一族が本拠としていた重要な場所でした。トリノから南西方向に、35キロほど離れた山あいにある街。
会社の設立の経緯について短い説明をしているベアリングメーカーのSKFのイタリア語サイトでは、RIVアニェッリFIATとの関わりがうまく説明されています。

http://www.skf.com/it/our-company/skf-italia/cenni-storici-sulla-skf-in-italia/index.html

"FIAT"という会社名はFabblica Italiana di Automobili Torino、つまり「イタリア・トリノの自動車工場」といったほどの意味の略になりますが、同時にラテン語の"fiat"との連関が考えられており、機知に富んだ命名法をそこにうかがうことができます。
聖書を読んだことのある人ならば、旧約聖書の最初の「創世記」、そのまた冒頭の天地創造のくだりで

光あれ

という語が出てくることを御存知のはず。ラテン語では、これが"Fiat lux"(フィアット・ルクス)となります。光がラテン語では「ルクス」で、これは照度の単位になっているから建築業界の人にとっては非常に覚えやすい。

しかしこのラテン語は奇妙で、明らかに命令法なのですけれども、本来、命令文というのは一人称から二人称に向かって放たれる言葉です。
人間が二人いた時に、話し手が一人称で、聞き手が二人称。三人称は、このふたりの間で交わされる会話の中で取り上げられる者の謂であり、この三人称に対する命令法というのは基本的に存在しません。

自分に向かっての命令文(一人称に対する命令法)もあるように思えますが、これは例えば、だらしなく感じる自分に向かって「もっとしっかりしろ!」と激励する場合、架空の自分を自分自身とは別に仕立てて、その二人称に向かって呼びかけているわけで、基本的な構図の中に収まる用法です。

でも「光あれ」という言葉は、未だ存在していない光というものに対して「存在せよ」と三人称で表現しています。話者、と言うか、この場合は神なのですが、その目の前に無いというだけでなく、これまでこの世になかった非存在に対して命令する矛盾があってこうした表現になるのでしょうけれど、世界を歪ませる呪文と似ていなくもありません。
こういう不思議なニュアンスを含んだ言葉を社名として選ぶところに、アニェッリの才覚が感じられます。

自動車メーカーが自社名をラテン語と絡ませる傾向についてはどこかで読んだ記憶があるのですが、思い出すことができません。ドイツの自動車メーカーAudi「アウディ」は、創業者の名のHorchの意味をドイツ語からラテン語に直した結果であり、意味は「聞け」となります。「オーディオ」、「オーディション」、また「オーディトリアム」といった言葉と語源が同じ。「オーディトリアム」auditoriumの複数形ではauditoriumsの他に、格式ある綴り方としてauditoriaが存在するのも、このラテン語名詞が-umで終わる中性名詞であり、その場合には複数形が-aとなるためです。
スウェーデンのVolvo「ボルボ」もやはりボールベアリングとの強い関わりがあって、社名の意味はラテン語で「私は回る」。VolvoRIVとは、前述のベアリングメーカーのSKFを介し、少なからぬ関係が実際にあった点も面白いところです。

屋上に試験走行のためのコースを備えたFIATのトリノ・リンゴット工場の外観の写真はル・コルビュジェの「建築をめざして」の終わり近くに、あからさまな修正の痕を残したまま掲載されており、これも建築業界では良く知られた話。コルビュジェによる写真の修正の例は、挙げていったらきりがないと思います。
今、取り上げられることの多いSTAP細胞に関する論文での写真の扱いと比べるならば、建築における写真の扱いの特色がはっきりするかもしれません。
建築評論家のフランプトンは、コルビュジェが提示する写真で見受けられるシュルレアリスム的要素について、確か論文を書いていました。もう一度、読み直すと得るところがあるかとも思います。

古代エジプトのものさしについては、大キュービット(=52.5cm)と小キュービット(=45cm)の2種類があると語られることが多いようですが、これをそのまま信じると、長さが異なるふたつのものさしがエジプトの遺跡からたくさん出土しているのだろうという話になりがちです。
けれども小キュービットのものさしというのは基本的に発見されていないわけで、差し当たり幻想なのではないかと疑いの目を向けた方が良いかと思われます。
Dieter Arnoldは古代エジプトの建築に関する権威者ですが、彼はおそらくどの著作においても小キュービットについてまったく発言していません。だいたい古代エジプト建築に関わる者は、小キュービットについて何も語らないことが多いわけです。

だからBarry Kempがアマルナ型住居に関して小キュービットによる計画方法の分析を試みた(Amarna Reports VI, London, EES, 1995, p. 22)のは、「キュービットについてはもう一度考えた方が良くないかい?」という問いかけを暗に意味しており、この意見には賛成です。
Greaves 1646, Newton 1737, Jomard 1809, Lepsius 1865といった一連の論考を辿るならば、明瞭な小キュービットのものさしの例が出土していないにも関わらず、「小キュービットというものを考えざるを得ない」という幻想をエジプト学が紡ぎ出していく過程が見えてくるかと思われます。

Senigalliesiの論文は、第18王朝末期の建築家カーKha)の墓TT8から見つかった折り畳み式ものさしを何枚もの写真で紹介しており、貴重です。論文の中には数式が記されており、どれだけ誤差があるのかを調べています。
ただ各目盛りの実測値が報告されていないので、その点が批判を浴びることになります。

今で言う「折尺」が今から3400年ほど前に存在していたという点が驚きで、しかもこの折尺を収納するための細長い革袋も一緒に発見されました。携帯用だったのでしょう。
実寸大のレプリカが限定番号付きでトリノ・エジプト博物館のミュージアム・ショップから販売されています。もちろん本革の袋付きとなっており、古代エジプトのキュービット研究者は必携。

"MuseumShop", Museo Egizio di Torino:
http://www.museoegizio.it/pages/shop.jsp

2014年5月22日木曜日

Caramello 2013


古代エジプトの第18王朝末、複数の王に仕えた建築家カー(Kha)とその妻メリト(MeritもしくはMeryt)の墓TT8は、20世紀初頭にE. スキアパレッリにより未盗掘の状態で発見されました(cf. Schiaparelli 1927; Moiso (ed.) 2008; Vassilika 2010)。
現在、トリノのエジプト博物館で専用の部屋が用意されており、そこでカーとメリトの墓に収蔵されていた品々を見ることができます。

トリノのエジプト博物館は、収蔵点数で言えばカイロ・考古学博物館に次いで世界第二位と言われますが、現在は増床の工事が行われているため、収蔵品を丁寧に見たい方は、完成予定の2015年を迎えてから訪れるのが良いかもしれません。
カーとメリトの遺物はおびただしく(Russo 2012)、注目すべき家具類が多数含まれていますが、ここでは衣装箱などに記された文字のみに注目しています。
カーとメリトに的を絞った考察としては、おそらく最新の考察です。

Sara Caramello,
"Funny Inscriptions on Some Coffers of the Tomb of Kha,"
in Alessandro Mengozzi and Mauro Tosco (eds.),
Sounds and Words through the Ages: Afroasiatic Studies from Turin.
StudiUm DOST (Studi Umanistici, Department of Oriental Studies of the University of Turin) Critical Studies 14,
Alessandria, Edizioni dell'Orso, 2013,
pp. 283-292, including 4 photos.

出版社のあるアレッサンドリアという町は、トリノから30キロぐらい離れたところに位置します。
昔はイタリアで出版された專門書籍を入手するのが実に困難で、日本ではイタリア書房文流など、限られた店を通じておこなうしかありませんでした。近年、イタリアのアマゾンができたことでずいぶん変わりましたが、今、この本を Amazon.it で検索しても出てこないようです。

編著者のひとりがacademia.eduを用いて表紙と目次、及び前書きを公開していますので、目次をここでタイピングする代わりに、そのURLを提示することにします。

https://www.academia.edu/3608599/Sounds_and_Words_through_the_Ages_Afroasiatic_Studies_from_Turin

今、卒業論文の執筆において海外文献を扱うことを強いられている学生さんの中で、最先端の情報が欲しい場合は、とりあえずこのacademia.eduに登録することによってダウンロードできる論文があるかもしれません。
academia.eduというのは、学者たちが参加している内輪のSNSです。ここでは研究者たちが自分の書いた論文をPDFファイルにしてアップロードしている場合があり、読みたいものが見つかることもあります。

カーとメリトの墓からは大小を取り混ぜると数十の箱が見つかっていて、多くが衣装箱なのですが、奥さんのメリトが使っていた大型の化粧箱や、1メートル以上の高さを持つ稀有の鬘(かつら)箱といったものも混ざっています。

最大の木製の箱は、神殿のかたちをした棺です。身分が上の人になると、棺が入れ子状になっていて数がひとつではないんですが、小さな方は人型棺と呼ばれるかたちとなっており、箱とはちょっとみなし難い。
さて棺の場合、生きている時に使うことはあり得ません。だから墓から見つかった棺で良く問われるのは、「それが本当にその人のために用意されたのか、それとも最初は他人のために用意されたものを流用したのか」、ということです。ツタンカーメン王の遺品の中で、この点がしばしば討議されているのは有名。
最初はそういうことを疑うことをしなかったんですが、ひとのものを流用する例が知られてからというもの、エジプト学ではこういうことに対して敏感になりました。
棺というのは、墓への副葬品として新たに作られるものの部類に入ります。その他方で、棺以外に、亡くなった者を悼むために新しく作られる副葬品もありました。

カーとメリトの箱では、棺の場合とは異なり、もうひとつ質問が増えることとなっていて、「これらの箱のうち、実際に生活で使っていた箱はどれなのか、また副葬品として墓に納める際に、どのような装飾の変更をおこなったのか」ということが問われています。これを真正面から考えようとしたのはE. Vassilikaで、生活で使っていた衣装箱だと考える時、切妻型の蓋がある箱は積み重ねることができない欠点がある、などと面白い発想が書かれていますが、この「生者の箱」と「死者の箱」との見きわめがけっこう難しい。
その場合には、「開け閉めする部分がすり減っている」といったところに注目して考察を進めたりします。Égypte, Afrique & Orient 3 (1996)においてLoebenがそうした観察をしています。「眼力」、という言葉が改めて思い浮かぶ、熟練が必要とされる世界です。
下書き線や塗り直しの跡、もとは描かれていた画像を抹消した証拠などをエジプト学者たちはくまなく探すわけで、箱を見る面白さは、こういうところにも存在します。

もうひとつ手がかりがあるとするならば、箱が開かないようにする工夫で、紐で縛ったところに封泥を施すという方法もありましたが、もっと手の込んだ方法があって、閉めたら二度と開かないというカギを箱に仕込んでいる場合がうかがわれます。

「二度と開かない」というのは言い過ぎかもしれません。と言うのは、上下を逆さまにして強く揺り動かすことによって、箱を再び開けることができるからです。
けれども日常にあって、蓋を開ける際に毎回、そんな面倒なことが強いられるとは思えませんから、やはりこのカギは、墓へ副葬品として収められる際に付加されたものと考えるのが自然です。
ところがこのカギの形式がさまざまにあるわけで、副葬品を揃える段には、たぶん複数の木工職人に依頼されたのではないでしょうか。

Caramelloは新王国時代のヒエラティックを專門とする読み手というわけではなく、だから時として彼女の論考には引っかかる点もあるのですが、整理が初期の段階にあるということは本人も結論において述べています。
どうして副葬品に新しく加えられる文が統一されていないのか、ということが、近代人にとっては疑問となるかもしれません。けれどもここには遺品ごとに知恵を絞らなければならなかった事情があり、文字を記すべきそれぞれの箱では、空白の長さや幅も考慮しなければなりませんでした。それらの工夫の痕跡を細かく追うことが求められています。

テーベのデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)や王家の谷から出土した、石灰石片(オストラカ)にヒエラティックで記された文字史料は、新王国時代の経済活動や労働者組織の研究に大きな恩恵をもたらしていますが、これらの多くはラメセス時代と言われる第19〜20王朝に属しており、このうちでも最も統治が長かったはずのラメセス2世時代のオストラカが意外に少ないこと、また第18王朝末期の史料が未だ詳しく明らかにされていないことが指摘されています。
第18王朝末期時代と第19王朝時代以降とを分けて考えなければなりません。

テーベの労働者組織についてある程度解明されているとしても、同時代の上エジプトで同じ労働者組織があったかどうかも、ほとんど論議されていません。
古代エジプトにおける3000年間で詳しく分かっているのが下エジプトのテーベの例だけしかないので、これを参考としてピラミッド時代にまで労働者組織の話を援用するという方法も採られています。
この時に重視されているのは、「時代を問わずに共通する建造の手順」、ということになります。でもこの点は、建築の専門家によってまだ充分に吟味されていません。

文字史料でのこの断絶を架橋しようとしてTosi 1999Menu (ed.)  2010などで見られる論考がなされていると捉えることもできます。
第18王朝末期のカーとメリトの豊富な遺品に関する諸史料の記録に関し、さらなる充実が願われる所以です。

2014年5月15日木曜日

El Gabry 2014


早稲田大学の河合望さんから教えていただいた本。
ジョンズ・ホプキンズ大学に提出された博士論文をもとにして出版された書です。著者は現在、ヘルワン大学の准教授。
BARのシリーズについては以前、Lander 1984や、BAR (Breasted, Ancient Records) 1906-1907などで触れました。今年、BARは40周年記念とのことです。膨大な数の本が出版されています。

Dina El Gabry,
Chairs, Stools, and Footstools in the New Kingdom: Production, typology, and social analysis.
BAR (British Archaeological Reports) International Series 2593,
Oxford, Archaeopress, 2014.
xix, 243 p., including 247 figs.


Table of Contents:
List of Figures (iv)
Foreword (xix)
Introduction (p. 1)

Chapter I  Woodworking Process and Techniques in Manufacturing Chairs and Stools (p. 3)
I Tools (p. 4)
II Materials (p. 13)
III Woodworking Process (p. 21)

Chapter II  Description of the Chairs, Stools, and Other Related Pieces and Fragments Preserved in the Cairo Museum (p. 31)
I Collection Excavated by Bruyère at Deir el Medina (p. 31)
II Collection from the Tomb of Amenhotep II (p. 32)
III Pedestals from the Tomb of Thutmose IV (p. 34)
IV Collection from the Tomb of Yuya and Tuya (p. 34)
V Collection from Tell El-Amarna (p. 36)
VI Collection from the Tomb of Horemheb (p. 37)
VII Collection from the Tomb of Sennedjem (p. 37)
VIII Inscribed Collection (p. 41)
IX Collection with Known Provenance (p. 45)
X Collection with Unknown Provenance (p. 52)
XI Elbow Braces (p. 60)
XII Legs (p. 61)

Chapter III  Two-dimensional Scenes: Symbolism, Usage, and Comparison with Sculpture (p. 69)
I Elongated Chair and Symbolism (p. 69)
II Circumstances and Social Context of Using Chairs and Stools (p. 74)

Chapter IV  Lexicography and Typology (p. 80)
I A Lexicographical Discussion of Chairs, Stools and Footstools in the New Kingdom (p. 80)
II Typology of Chairs and Stools in the New Kingdom (p. 87)

Conclusions (p. 92)
List of Abbreviations (p. 94)
Bibliography (p. 96)
Figures (p. 117)

カイロのエジプト博物館にどのような家具が所蔵されているのかが初めて明らかとなっており、非常に興味深い内容となっています。

"Of the chairs and stools he (=Geoffrey Killen) discusses, those preserved in the Cairo Museum belong to the royal sphere, mainly Hetepheres (Dynasty 4) and Tutankhamun (Dynasty 18), and are not included in this book."
(p. 1)

と序章で述べている通り、ツタンカーメン(Tutankhamun)の家具については何も述べていません。
でもどのような家具の断片を有しているのかが分かり、また冒頭の謝辞でM. Eaton-Kraussの名が挙げられていることから、家具研究の最先端の状況がこの論考にはかなりの程度反映されていると考えられるわけです。
巻末には参考文献が400タイトル以上、挙げられています。

カイロ・エジプト博物館の各々の家具の図面がまったく掲載されていない点は惜しまれるところ。けれども家具が登場する壁画を集成している章は有用です。

家具に関する専門用語を述べた章では、情報が錯綜していた語、isbtisbwt)がやはり大きく取り上げられています。この語に関しては以前、Janssen 2009で触れました。Eaton-Kraussが議論に関わっていますから当然、話が詳しくなっています。もともと高貴な者だけが使うことが許された折り畳み椅子についてはWanscher 1980が基本文献となりますけれど、El Gabryの本でも「男が座るものなのだ」と明言されている(p. 82)のが面白い。

結論で言われている

"I hope that my study of the collections in the Cairo Museum will encourage other scholars to publish all the objects, and especially the fragments preserved in other museums. Our picture is still incomplete and we only know about the famous chairs and stools that are usually discussed in entries about furniture in general. (...) Complete pieces are useful in iconography and symbolism, in the case of royal specimens, but for technical information, we need the fragments."
(p. 93)

という部分は、家具研究家が共通して抱えている問題認識だと言えそうです。

2012年9月25日火曜日

Vogelsang-Eastwood 1999


歴史上からその名前が抹殺されていた少年王ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)の墓が、かつては細々と水彩画の模写をエジプトで続けたりしていたハワード・カーターによって発見されたのが1922年。今年は発見90周年ということになりますでしょうか。
ツタンカーメンの墓から出土した膨大な量の多様な遺物については、楽器、ゲーム盤、模型の船といったように、品目ごとに報告書がイギリス・オクスフォードのグリフィス研究所 Griffith Institute より少しずつ出版されていて、それらの本の総リストは

http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/5publ.html

のページにて見ることができます。Tutankhamun's Tomb Series (TTS)として良く知られているものの他に、グリフィス研究所からはツタンカーメン関連の報告書6冊がこれまで上梓されており、いずれも専門家の間ではしばしば引用されている刊行物。
H. Beinrich und M. Sarah, Corpus der hieroglyphischen Inschriften aus dem Grab des Tutanchamun(Oxford, 1989. ドイツ語の本なので「ツタンカーメン」の綴りが英語と異なります)はツタンカーメンの遺物に記されているヒエログリフのすべてを集成した本ですが、この墓から見つかったヒエラティックで書かれた文字資料については、Černý(cf. Černý 1973)が別の集成を出版(J. Černý, Hieratic Inscriptions from the Tomb of Tutankhamun, Oxford, 1965)。この2冊を持っていれば、ツタンカーメンの墓の遺物に書かれていた文字をとりあえずすべて網羅することになります。「とりあえず」、というのは他に記号の類があるからで、組み立て式の祠堂では部材のどことどことが接合されるのかが記号で示してありました。
ツタンカーメンの墓から見つかった遺物を対象としたグリフィス研究所による報告書の中での最新刊はEaton-Krauss 2008で、そこではツタンカーメンの玉座や腰掛けなどが扱われています。グリフィス研究所とは異なった出版社から2010年に刊行されたツタンカーメンの履物の報告書に関しては後述。

この墓に納められていた衣類に関しては、しかしながら未だ刊行がなされていません。従って、1999年から2011年にかけて欧米を巡回した下記の展覧会「ツタンカーメンの衣装 Tutankhamun's Wardrobe」展のカタログが重要になってくるわけです。薄いカタログですけれども、カラー写真や着衣の状態の復元図も納められており、貴重。衣服がたたまれて入っている衣装箱の様子を真上から撮影した写真も掲載されていますから、古代エジプトの家具を知りたい人間にとっても有用な本となります。

G. M. Vogelsang-Eastwood,
illustrations by Martin Hense and Kelvin Wilson,
[with contributions by J. Fletcher and W. Wendrich],
Tutankhamun's Wardrobe: Garments from the Tomb of Tutankhamun
(Barjesteh van Waalwijk van Doorn: Rotterdam, 1999)
[115] p.
http://www.tutankhamuns-wardrobe.com/

Table of contents:

Preface (p.4)

1. Tutankhamun (p.6)
2. Materials and decoration (p. 20)
3. Birds, beasts and plants on Tutankhamun's clothing (p.32)
4. Tutankhamun's Egyptian style garments (p.46)
5. Tutankhamun's foreign garments (p.78)
6. The king's wardrobe (p.92)

Bibliography (p.112)

この展覧会カタログの中では、J. Fletcherがツタンカーメンの鬘(かつら)箱について("The king's wig and wig box", pp.67-8)、またW. WendrichVogelsang-Eastwoodと共著で履物(サンダル)について("The king's footwear", pp.68-77)短く書いています。なおツタンカーメンの履物(サンダル)を報告したものはA. J. Veldmeijer(cf. Veldmeijer 2009)により、Tutankhamun's Footwear: Studies of Ancient Egyptian Footwearという題で2010年に出版されました。VeldmeijerAncient Egyptian Leatherwork and Footwearというページを運営していて、活発な研究成果をそこでつぶさに見ることができます。

Vogelsang-Eastwoodについては、Kemp and Vogelsang-Eastwood 2001で触れたことがありました。この人は今日において古代エジプトの衣服を詳しく知っているほとんど唯一の専門家と言って良く、

Gillian Vogelsang-Eastwood,
Pharaonic Egyptian Clothing.
Studies in Textile and Costume History II
(E. J. Brill: Leiden, 1993)
xxiii, 195 p., 44 plates.

という書籍を執筆しています。近年では類例が見られない書。古代エジプトではいったいどのような衣服が作られ、また当時の人々はどのような服装で着飾っていたのかを知る上で、第一に基本となる重要な本です。
古代エジプト学における服装の美術史学的な分析は進展しており、編年も確立されつつあるのですが、これは彫像や壁画などの資料に彫出あるいは描写された着衣の観察に基づく論考が主であって、実際に出土した衣類との整合性を検討する研究者はそれほど多くいないと思われます。J. J. Janssenによるラメセス時代のディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)における衣服の値段(価格)の考察については、Kemp and Vogelsang-Eastwood 2001にて記しました。

Tutankhamun's Wardrobeでは、通常の男性の体型とツタンカーメン王の体型とを比較した図(Fig.1:11, p. 19)なども載っていますから、人体と衣服との関連に興味のある方には役立つはず。
サッシュ(飾り帯)やチュニックの簡単な型紙も小さく紹介されていますので、器用な方はこれを見て、新王国時代の衣服を自分で作ることもできるかと思われます。「装飾」の項では、エジプト禿鷲の姿であらわされるネクベト女神像についても若干述べられています(pp.34-36)。
オランダにおける古代エジプト研究の長い歴史が改めて示唆される刊行物のひとつで、目立たない冊子でありながら、誰も手をつけていない分野がどのように開拓されるかを如実に示している好著。ツタンカーメンの衣服に関して詳しく述べている本は他にありません。

2012年9月4日火曜日

Russo 2012


古代エジプトの第18王朝に活躍した建築家カーは、いったい何者であったのかを詳細に調べ上げた論考です。
職長であり、建築家であったカー(Kha)は、アメンヘテプ2世からアメンヘテプ3世の時代を生きたディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の住人で、イタリアの偉大な考古学者エルネスト・スキアパレッリ(Ernesto Schiaparelli)によってカーとその妻メリトの未盗掘の墓が20世紀の初頭に発見されました。多数の副葬品はトリノ・エジプト博物館に収蔵されています。この博物館における主要展示品のひとつ。
ディール・アル=マディーナは第18王朝から第20王朝にかけて栄えた職人たちの集合住居で、彼らの仕事は王家の谷や女王の谷に岩窟墓を造営することでした。
オランダ・レイデン(ライデン)にある学術機関が非常に緻密な研究を進めていますが、第18王朝における公開資料は少なく、今後の進展が望まれるところ(cf. Tosi 1999)。

Barbara Russo,
Kha (TT8) and his Colleagues:
The Gifts in his Funerary Equipment and related Artefacts from Western Thebes.
GHP Egyptology 18
(Golden House Publications (GHP): London, 2012)
v, 98 p., 8 color pls.

Table of contents:

Introduction (p.1)

Chapter 1. The discovery (p.3)

Chapter 2: Analysis of the artefact (p.9)
  The "gifts": nature and documentation
  The gift cubit rod of Amenhotep II
  The senet-board and a walking stick of Neferhebef et Banermer(u)t
  The walking stick of Neferhebef
  The statue group A 57, Musée du Louvre, Paris
  The funerary scene of TT 8
  The "gold of favour"
  The scribal pallete of Amonmes
  Excursus: the title imy-r k3(w)t nbt nt nswt
  The bronze cup with cartouche of Amenhotep III
  The vase of Userhat
  The walking staff of Khaemuaset

Chapter 3: The artefacts found outside the tomb (p.49)
  Ostracon 5598, Hermitage Museum, St. Petersburg
  Ostracon SR 12204, Egyptian Museum, Cairo
  Graffiti nos. 1670 and 1850 from the Theban mountains
  Stela BM EA 1515, British Museum, London
  Jar-labels from Malqata

Chapter 4: Suppositions concerning the Great Place (p.64)
  The identity of Kha: datable elements
  Kha's family
  Kha's career
  Titles composed with st '3t
  ḥry (n) st-'3t
  imy-r k3(w)t n st-'3t
  sdm-'š n st-'3t
  sš nsw n st-'3t and sš n st-'3t

Conclusions (p.77)

Abbreviations (p.79)
Bibliography (p. 79)
Index (p.95)

目次の第2章のところでは僅かな編集上の誤記があるようで、上記の目次は本文に見られる項目名を尊重するように努め、転記をおこないました。
キュービット・ロッドに記されたヒエログリフを紹介している10ページでは、訂正の紙片が貼り付けてあって、これも校正が行き届かなかったことを示しています。でも、大した問題ではありません。

序文には「2006年に開催された会議 "Ernesto Schiaparelli e la tomba di Kha" で発表した内容をもとに展開した」と書かれており、以降も継続して入念な研究が進められた様子。巻末の参考文献では400タイトル近くの充実した文献がリストアップされており、その粘り強い努力のあとが示唆されます。
カーの墓から見つかった品々のうち、情報量が多くうかがわれるもの、特に王名が記された副葬物を中心に分析を始めており、次いで海外の博物館に収蔵されているカーに関連した遺物を検討。さらにはオストラカや、テーベの谷で見つかっているグラフィティ(Graffiti de la montagne thébaine 1969-1983)といった文字史料の中からカーに関する記述を探し出して考察を加えています。アメンヘテプ3世のマルカタ王宮から出土したジャー・ラベルにも言及しているのが注目されるところ。

最後近くでは、

"Judging by the value of some of Kha's objects it can be argued that he was of middle-high rank status."
(p.69)

と論じており、カーの社会的な地位が諸資料の吟味をもとに推測されています。
エジプト学のオーソドックスな方法を踏襲しながら、カーの肩書き(タイトル)の検討などを経て追究の成果が披瀝されており、好著となっています。

関連文献としては、Schiaparelli 1927Moiso 2008などでしょうか。
比較的最近に刊行が始まったGHPから出版されているエジプト学のモノグラフのシリーズをさらに面白くしている最新刊で、この領域に興味を持たれている方にはお薦めの本です。

2012年7月26日木曜日

Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993


「アメンヘテプ3世展」は1992年から1993年にかけて開催された巡回展。クリーヴランド美術館を始めとして、次にはルイス・カーンの設計で有名なフォートワースのキンベル美術館に会場が移され、最後はフランスへ飛び、パリのグラン・パレで締め括られました。
周到な準備が重ねられた企画で、その模様は直前に出されているBerman (ed.) 1990でうかがい知ることができ、この流れはまたその後の重要な専門書であるO'Connor and Cline (ed.) 1998の出版にも繋がっていきます。

アメリカとフランスでの巡回展ですから、カタログは英語(1992年)とフランス語(1993年)の両方が作成されています。目次を見ると当たり前のことながら、ほとんど同じ構成。
でもフランス語版では不思議なことにページ数が60ページ以上も少なくなっており、見比べるとレイアウトもかなり変えられている点が注意を惹きます。

英語版:
Aeielle P. Kozloff and Betsy M. Bryan,
with Lawrence M. Berman,
and an essay by Elisabeth Delange,
Egypt's Dazzling Sun: Amenhotep III and hid World
(Cleveland Museum of Art: Cleveland, 1992)
xxiv, 476 p.

フランス語版:
Arielle P. Kozloff, Betsy M. Bryan, Lawrence M. Berman, et Elisabeth Delange,
Aménophis III: le pharaon-soleil
(Réunion des musées nationaux: Paris, 1993)
xxiii, 411 p.

共著者が4名以上になる場合、普通はこうやってずらずらと挙げるものではないんですが、ここではネット検索の便宜を図るために各著者の名を逐一掲げることを優先したいと思います。海外の参考文献の引用の仕方については厚い専門書が出ています。"Chicago Style"などで調べてくだされば。

英語版よりも1年遅く出版されたフランス語版のカタログのページ数が少ないのは、アメリカからフランスへ会場が移った際に展示品数が減らされたからではないのかという疑念が浮かぶわけですが、しかしまったくの逆で、グラン・パレで開催された時の方が展示品は増えているらしく思われます。
展示品には番号が付されており、英語版でもフランス語版でも最後の品の番号は136で一緒。
一方、フランス語版のpp. 410−1には、どの展示品をどこの美術館から借り出したのかをリストアップしていますけれども、そこでは例えばただの"34"番の他に、別の"34 bis"、"34 ter"というものが見られ、こうした後付けの展示番号を抜き出せば以下の通り。

2 bis: Scarabée de Tiy ou scarabée du règne
22 bis: Fragment d'une statuette d'Aménophis III
34 bis: Déesse Sekhmet
34 ter: Déesse Sekhmet
51 bis: Portraits peints d'Aménophis III
67 bis: Ouchebti d'Aménophis III
75 bis: La tête d'une cuiller à la nageuse
113 bis: Boîte à parfum

これらの8点は、英語版のカタログには掲載されていないようです。
アメンヘテプ3世の横顔を描いた"51 bis"はこの王の墓から切り出された壁画の一部ですが、このようにパリでの展示は、ルーヴル美術館に収蔵されているものなどをいくつか新たに加えた展覧会であったことが分かります。

さて、他には英語版とフランス語版で大きく異なるところがあるのかどうか。
個人的には巻末の参考文献が大幅に変えられているという印象を受けます。リストアップされている文献の総数は双方とも300タイトル弱で、量としてあまり違いは見られません。しかし英語版では

R. A. Schwaller de Lubicz,
Les temples de Karnak, 2 vols.
(Paris, 1982. [English ed., London, 1999])

を挙げていますけれど、フランス語版では削除されており、他方で

C. C. van Siclen,
"The Accession Date of Amenhotep III and the Jubilee,"
JNES 32 (1973), pp. 290-300.

などはフランス語版だけに加えられています。これはほんの一例ですけれども、ここでうかがわれる変更の判断は妥当であるように思えます。
相当、参考文献の欄は手が入れられて整理されている感じが与えられ、もしどちらかを購入したいというのであれば、お勧めしたいのはページ数の少ないフランス語版の方。レイアウトを変えてページ数を減らしながらも、展示品数は8点ほど多く、カラー写真も英語版よりも多いはず。特に最後の宝飾品関係の品々の紹介で、フランス語版ではカラー図版が多く挿入されています。
複数の国々を巡回する大規模な展覧会では、しばしばこうしたカタログの違いが生じます。これは日本に回ってくる国際的な巡回展の場合でも同じ。展覧会のカタログは全部がそのまま翻訳されたもので、内容については同じだろうと考えていると間違えることがある、という教訓。

コズロフはダーラム大学のオリエント博物館に収蔵されているペルパウティ Perpawty(ペルパウト、ペルポー、あるいはパペルパ)とその妻であるアディ Ady の木製の家型木箱について解説を書いています(英語版:pp. 285-7、フランス語版:pp. 250-2)が、この中でボローニャの考古学博物館所蔵のペルパウティの同型の家型木箱との比較もしており、美術様式から見るとボローニャの方が時代は早いのではと記しています。布を納めるための家具の木箱の外側に施された彩色のモティーフが良く似ているので、ペルパウティが年を経た後に、今はボローニャが収蔵している最初に造られた箱を職人に見せ、同じ物を作れと命じてダーラム所蔵の木箱ができたのではないかという推測を述べており、非常に興味深い考察。3000年以上も前の人間の、同じように見える所有物なのに、時代の新旧が分かるという点が面白い。コズロフが目利きであることが、これで了解されるわけです。
以前にも書きましたが、ペルパウティの遺品についてはイタリアの研究者による論考があり、コズロフとはお互いに研究成果を引用していないから併読が必要。

Patrizia Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monograpfie di SEAP, Series Minor, 2
(Giardini: Pisa, 1991)
pp. 105-130.

ペルパウティについては、Roehrig et al. (eds.) 2005も参照のこと。コズロフとピアチェンティーニの両方を引用しています。

2012年7月23日月曜日

Schiff Giorgini, Soleb [5 vols.] (1965-2003)


ツタンカーメン王の祖父に当たる新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世は古代エジプトの黄金時代であったと言って良く、特にこの王は大規模な記念建造物を各地にたくさん建てました。第19王朝のラメセス2世は「建築王」としばしば呼ばれましたが、アメンヘテプ3世による派手な活動の真似をしていたらしく、新王国時代において本当の「建築王」の名に値するのはアメンヘテプ3世であるように感じられます。
アブー・シンベルの正面に並ぶ4体の巨像を発想した源は、アメンヘテプ3世の葬祭殿の前に置かれていた一対のメムノンの巨像。この葬祭殿は、カルナック神殿を凌ぐ最大規模を誇っていただけでなく、ナイル川の増水によって水浸しになる場所へ故意に建立されていた点がアメンヘテプ3世の建築の見どころです。ここでは古代エジプトの神話で語られる「原初の丘」を、とてつもない大きさでいきなり現世に実現させるという荒業がおこなわれました。

A. P. Kozloffが最近、この王に関する本を出しました(Amenhotep III: Egypt's Radiant Pharaoh, Cambridge 2012)けれども、註の振り方を見るだけですぐに了解される通り、これは一般向けの書。この種の先駆けは以前にも触れた通り、

Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press: Norman, 1964)
xi, 212 p.

となります。今から見ると不備が目立つかもしれませんが、テーベを舞台として纏められた佳作。A. P. コズロフはこの王に関する知識を膨大に有している研究者で、先行研究に対する意識は高いはずですから、このRiefstahl 1964の他、Fletcher 2000Cabrol 2000に対し、制限された紙幅の中でどう書いているかが眼目になるかと思います。
20世紀の終わりからアメンヘテプ3世について包括的に述べた展覧会のカタログや研究書は矢継ぎ早に出されており、その代表的なものはBerman (ed.) 1990Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993O'Connor and Cline 1998、そして500ページを費やしている前述のCabrol 2000などでしょうか。

あまりにもたくさんのアメンヘテプ3世による建物があるために、報告書の刊行は全体として遅れていますけれど、全5巻によるソレブ神殿の報告書の刊行が21世紀の初頭に完結し、スーダンに残るこの遺構の全貌をようやく知ることができるようになりました。
全部で1500ページを超える量です。

Soleb [5 vols.] (1965-2003)

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb I: 1813-1963
(Sansoni: Firenze, 1965)
viii, 161 p., plan.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb II: Les nécropoles
(Sansoni: Firenze, 1971)
vii, 407 p., 17 planches.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb III: Le temple. Description.
IF 892, Bibliothèque générale (BiGen) 23
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2002)
vi, 446 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb IV: Le temple. Plans et photographies.
IF 910, Bibliothèque générale (BiGen) 25
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2003)
vi, 264 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb V: Le temple. Bas-reliefs et inscriptions.
IF 807, Bibliothèque générale (BiGen) 19
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 1998)
xviii, 335 planches, 21 p.

途中で出版社がフィレンツェからカイロ、というよりもIFAOへと変わっている点に注意。この経緯はエジプト学者たちのメーリングリストである Egyptologists' Electronic Forum (EEF) にて報告されたりもしました。
最初の第1巻と第2巻がフィレンツェから刊行の後、30年近く経ってから壁画を報告する第5巻が出ています。建築関連の第3巻と第4巻はさらに遅れて刊行。このように幾冊にもわたる報告書の出版社が途中で変わることは時折見られ、D. B. RedfordによるAkhenaten Temple Projectのシリーズもそのひとつ。
建築に関わる人間にとって最も知りたかった建造過程の変遷は、2003年に正式に明らかにされています。概要はしかし、海外での巡回展「アメンヘテプ3世」のカタログにより先んじて、一般にもすでに公開されていました。
他の建物と同じく、ソレブ神殿もかなり計画が変更された痕跡がうかがわれ、拡張の度合は尋常ではありません。アメンヘテプ3世が「メガロマニア(誇大妄想狂)」と言われる所以です。

国立情報学研究所によるGeNii(ジーニイ)Webcatのページで、読みたい海外書籍を日本のどの研究機関が所蔵しているかどうか、検索することをもっぱら続けている方がいらっしゃるかもしれない。
今、この"Soleb"の報告書をGeNiiのサイトで検索すると該当するものがなく、その結果からこの本が日本には無いと判断されがちです。しかし例えば早稲田大学図書館のページで検索すると、5冊ともちゃんと所蔵されていることが分かります。
国立の研究所が率先して構築しているデータベースだからといって、それを丸ごと信じてはいけません。研究者たちはそういう漏れがあることをあらかじめ織り込み済みでこの種のデータベースを用いています。データベースには出てこなくても、国内で持っているところが必ずあるはずだという心当たりがある場合、専門家に聞くべきです。こういうことは、卒業論文などを纏めようと志す者にとって重要な点になるかもしれません。
いかに身近の専門家を捕まえて、根掘り葉掘り聞くことができるかが大切かと思われます。

2012年7月9日月曜日

Caminos 1954 (Caminos LEM)


リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。

カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。

ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、

Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.

を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。

このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに

"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)

とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。

Gardiner LEMCaminos LEMは、たとえば

Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)

などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。

Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.

Contents:

Preface (vii)

I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)

Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)

Additions and Corrections (p. 512)

Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)

屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、

「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」

が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。

「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)

という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。

しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、

Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.

に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。

あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。

別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。

2012年4月2日月曜日

Tosi 1999


古代エジプトにおける貴族墓に収められた数々の副葬品の量と質によって、彼らが当時占めていた社会的な地位の高さが推し量れるのではないかという論議は昔からありましたけれども、それを数理学的に扱えないかという問いがあって、その土台を構築したのがJ. Janssenの主著。
Janssen 1975については、すでに別の項にて触れたことがありました(Janssen 2009)。ここで再び挙げておきます。
Janssenは惜しくも近年亡くなりましたが、J. Cernyによる研究のモティーフを正しく継承し、「メディーナ学」とも言うべき分野を新しく打ち立てた人。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)と呼ばれるこの小さな村落の様態を対象として、古代エジプト人の生活の解明に人生を捧げた研究者でした。
CernyJanssenの両名が成し遂げた仕事の重要性は、これから後、さらに深く討議されることとなるように思われます。

Jac. J. Janssen,
Commodity Prices from the Ramessid Period:
An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes

(E. J. Brill, Leiden, 1975)
xxvi, 601 p.

例えばテーベの新王国時代の貴族墓において、家具や「死者の書」のパピルスが収められていたならば、それは社会的に、より地位が高かった証拠とみなされています。これは特定の物品の有無、あるいはそれらの個数によっての判断。
一方でラメセス時代を主としたテーベにおける物品の相対的な「価値」というものが上述したJanssenの著書によって判明していますので、これに基づいて墓に収められた一切の副葬品の、おおよその「価値」を求めることが可能となります。石灰岩片に記された多数の文字資料(オストラカ)の読解によって、このことが明らかになりました。

ここで注意すべきは、「デベン deben」として示される価値が新王国時代末期のテーベ、もっと正確に言うと、ディール・アル=マディーナという狭い村の中でのみでしか認められないという制約がある点で、これを他の時代、あるいは同時代の他地域に拡張し、ものごとを言うことは困難です。
「貨幣の成立」という、世界史における大きな問題に対し、この事象がどこまで関わるのかについては、B. J. Kempによる主著の初版が刊行された際にJanssenが書評で要点を述べているはず。
ここには当時良く読まれたポランニーなどの考え方も関わっており、今後も検討が重ねられるかと思います。

Janssenの考えを受け、当時の副葬品の価値を「数値」として換算し、墓内における品々全部の価値を導こうとした論文が後代に出ること自体は不思議ではありませんでしたが、M. TosiL. Meskellの二人が、ほとんど同じ時期に建築家カーとその妻メリトの墓(TT 8)の副葬品の総価値について発表をおこなっているというのがとても面白い。またその副葬品の、細かい扱いが異なっているのが注目されるべきところ。
何故、カーとメリトという夫妻の墓が選ばれているのか、こういった点にもこの墓の重要性があらわれています。

Mario Tosi,
"Il valore in "denaro" di un corredo sepolcrale dell'antico Egitto",
Aegyptus: Rivista italiana di egittologia e di papyrologia 79 (1999),
pp. 19-29.

Lynn Meskell,
"Intimate archaeologies: the case of Kha and Merit",
World Archaeology 29:3 (1998),
pp. 363-379.

M. Tosiの方がTT 8の副葬品に関する「デベン」の換算をより詳しく表にして記しているので、ここでは彼の論考を当ブログの主題として掲げましたが、二人とも同時期に執筆している論文であるため、当然のことながら参考文献の欄ではお互いの論考をリストアップしていません。これをすれ違っていると見るか、それとも同じモティーフを同時期、知らずに追っていたと見るべきか。
Meskellが書いた本に関しては、前に述べたことがありました(Meskell 2002)。

Menu (2010)のところで挙げたように、第18王朝末におけるオストラカに関しては未だ資料の公開が充分におこなわれていないという難点が指摘されています。近年のDemaréeの論考が重要で、第18王朝末を生きたカーとメリトの副葬品のデベンへの換算に慎重さが必要である所以。
つまり第18王朝末期と第19・20王朝とでは様相が異なる、という含意がうかがわれます。

Robert J. Demarée,
"The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina:
A Preliminary Update,"
in B. Menu ed., L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie:
Colloque AIDEA, Nice 4-5 octobre 2004
(Le Caire, Institut Français d'Archéologie Orientale, 2010),
pp. 185-192.

カー(Kha)とその妻メリト(Merit, or Meryt)の墓における木製遺品の中で、大きなものとしては橇に載せられた木棺や寝台、また墓の入口の扉などがまず挙げられるでしょうか。
その次にはメリトの鬘(かつら)箱といった、非常に特殊でとても大きな木製の箱が注目されるはず。
「デベン」に換算するならば、この特別な鬘箱が一体どのくらいの価値になるのかどうか。こういった問題は、しかし二人とも回避しているように思われます。その点に興味がつのります。

メリトの鬘箱に関する実測調査の結果については以下を参照。

西本直子
「メリトの鬘箱(Inv.S.8493、トリノ博物館蔵)について」、
武蔵野大学環境研究所紀要 No. 1 (2012) [ISSN 2186-6422],

2012年3月5日月曜日

Rammant-Peeters 1983


OLAのシリーズの中の知られた一冊。
新王国時代の神殿型貴族墓(tomb chapel:トゥーム・チャペル)の背後には、せいぜい高さが数メートルの、小さな規模のピラミッドが造られました。かつてピラミッドは王の墓であったわけですが、新王国時代に至るとその伝統が途絶え、代わりに貴族たちが真似して小さなものを建て始めます。
情報が錯綜しがちなのは、小さなピラミッドのかたちを「ピラミディオン」と言う点で、古王国時代の大きなピラミッドで最後に設置される四角錐の頂上石をこう呼ぶとともに、新王国時代の小さなピラミッドの全体もまた「ピラミディオン」と記されたりします。さらには、新王国時代のこの小さなピラミッドに置かれる頂上石も専門家によって「ピラミディオン」と名付けられており、混乱を招きやすい状態です。
ここで扱われるのは、新王国時代に建造された小さなピラミッドの頂上に置かれた四角錐の建材で、銘文や図像が記されているため、古代エジプトの葬制に関わる重要な史料となるわけです。

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Departement Oriéntalistiek, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

Table des matières

Introduction (ix)
Bibliographie et liste des abréviations (xiii)

Première partie. Inventaire des documents (p. 1)
I. Pièces conservées dans les musées. Doc. 1-72 (p. 3)
II. Pièces et fragments conservés à Deir el-Médina. Doc. 73-92 (p. 80)
III. Pièces dont le lieu de conservation est inconnu. Doc. 93-107 (p. 92)
IV. Mentions à ne pas retenir (p. 101)

Deuxième partie. Étude des documents (p. 103)
Chapitre I. Technique (p. 105)
Chapitre II. Provenance (p. 113)
Chapitre III. Décoration (p. 121)
Chapitre IV. Évolution chronologique (p. 133)
Chapitre V. Inscriptions (p. 139)
Chapitre VI. Fonction architecturale (p. 165)
Chapitre VII. Signification religieuse (p. 176)
Chapitre VIII. Orientation (p. 192)

Appendice: La documentation de Deir el-Médina (p. 202)
Index (p. 211)
Planches (p. 217)

出版されたのはもう30年ほど前となり、この後にいくつものピラミディオンが発見されているので改訂が望まれます。
建築の見地からは、最後の図46と図47が何を意味するかが貴重。
史料ではピラミディオンの4つの底辺を掲げており、長さが正確に同じでないことが明らか。正面から見た長さの方が、奥行よりも長い場合があって、いい加減といえばいい加減です。ピラミディオンの底辺の長さの1/2と高さとの比を挙げたのが図47になりますけれども、これはリンド数学パピルスで見られるセケド(skd; or sqd)を勘案して考察をおこなった結果で、さらなる研究が必要となるでしょう。
しかしピラミディオンの4つの斜面は曲面であることも多く、角度に関する判断は難しい。具体的な数値が記されていますが、これらの情報のさばき方が建築に携わる者にとって大きな問題となります。

2011年12月31日土曜日

Shoukry 2010


マルカタ王宮に関する最新の論考。
「マルカタ」の綴りは、この論文では"Malqatta"となっており、ここにはアラビア語の表音についての普遍的な難しい問題と、地名の意味をあらわす努力、及びマルカタが位置するルクソールの現地での方言の表記の問題が同時にあらわれ出ています。
マルカタ王宮については前にも何回か書きましたけれど、"Malkata"、"Malqata"、"Malgata"、"Malgatta"、"Malqatta"などのヴァリエーションが多数あることが注意されます。

Nermine M. Shoukry,
"Malqatta, une résidence royale d'Amenhotep III à Thèbes-Ouest",
Memnonia, Cahier supplémentaire 2.
Colloque international: Les temples de millions d'années et le pouvoir royal à Thèbes au Nouvel Empire,
sciences et nouvelles technologies appliquées à l'archéologie - Louqsor, 3-5 Janvier 2010.
(Le Caire 2010), pp. 209-227.

この書の目次は、次のサイトで見ることができます。

http://www.mafto.fr/publications/cahiers-supplementaires-des-memnonia/

Memnoniaは比較的若い専門誌で、1990年の創刊。もともとラメセウム(ラメセス2世葬祭殿の通称)の救済を目的として刊行された雑誌でした。緑色の鮮やかな表紙が印象的。その別巻にて国際会議の記録が出版されました。
ここで発表されているShoukryの論考は、ヘルワン大学で執筆されたという博士論文の概要に該当するらしく、このドクター論文が刊行されることを望みます。
マルカタ王宮に関する書誌を、もし手軽にネットで調べるということであるならば、

iMalqata:
http://imalqata.wordpress.com/

のサイトにおける「レポート」の項や、

UCLA Encyclopedia of Egyptology:
http://uee.ucla.edu/index.htm
http://escholarship.org/uc/nelc_uee

における「マルカタ」の項、あるいは

Theban Mapping Project:
http://www.tmpbibliography.com/resources/bibliography_6_other_areas_wb_malqata.html

のページなどがお勧めです。
しかしこうした場合には一次資料をまず提示することが優先されますので、いずれの文献リストにもO'Connor and Cline 1998の中のR. Johnsonによる論考やD. O'Connorの考察、またZiegler (ed.) 2002の中のDorothea Arnoldが書いている論文といったものが紹介されておらず、とても残念。
マルカタ王宮の全体構成を把握するには、本当はこれらの近年の論考から目を通す方が手っ取り早く、また基本的な問題を把握する上で重要だと思われます。
KellerShortlandによる科学分析を主とした論考も、近年は引用される度合いが増えてきました。これらの論文はメトロポリタン美術館による工房の発掘によって出土した遺物に基づいて書かれていますが、実際の工房に関する考古学からの具体的な報告は非常に乏しく、20世紀初期のBMMAの短報、あるいはHayesによるJNESの連続論文による断片的な報告のみが残されているだけで、部分的な再発掘をおこなったKemp and O'Connor 1974との併読が必要です(Site Jに関する記述を参照)。
水中考古学の専門誌に掲載されたこの論文はしかし、国内では入手しづらくて、苦労する文献。iMalqataのサイトでは現在、この論文をダウンロードできる状況にありますが、著作権を考慮せずにアップしていると思われ、いつまで閲覧できるかは不明。

Shoukryの論文でも、挙げられている文献はきわめて限定されています。この国際学会では考古学への最新の科学技術の適用をテーマとしているため、これにあわせて唐突に顔料の化学記号が出てきたりして戸惑いますけれども、この点は仕方ありません。王宮都市の紹介は施設ごとに丁寧な記述がなされています。非西欧の研究者によるマルカタ王宮の考察が進められているという点は、非常に喜ばしい。
マルカタ都市王宮内に建てられた諸施設の建造の順番にも考察が及んだらもっと良かったでしょうが、このトピックは今後、討議されるべき事項。

アマルナ王宮との比較、特に似ているところや共通点を考えることもおこなわれるべきですが、当該分野の権威であるバリー・ケンプが「ふたつの王宮はだいぶ違う」ということをすでに言ってしまっている(Kemp and Weatherhead 2000)ので、本格的に取り組む人はしばらく出てこないかもしれない。
臆することなく、ふたつの王宮を見比べて共通点を指摘するような人が、新しくこれから出てくることを期待しています。

2011年9月24日土曜日

Hayes 1935


William Hayesの博士論文です。
新王国時代の第18王朝に属する王たちの石館に刻まれている碑文が、古王国時代のピラミッド・テキスト、中王国時代のコフィン・テキスト、またパピルスに記された「死者の書」などと密接な繋がりがあり、長い歴史を引き継いでいることを伝えています。

William Christopher Hayes,
Royal Sarcophagi of the XVIII Dynasty.
Princeton Monograph Series in Art and Archaeology: Quarto Series XIX
(Princeton University Press, Princeton, 1935)
xii, 211 p., XXV plates.

Contents:
Chapter I: Introduction (p. 1)
Chapter II: The Sarcophagi (p. 31)
Chapter III: The Decoration of the Sarcophagi (p. 61)
Chapter VI: The Royal Sarcophagi in Relation to the History of the XVIII Dynasty; General Conclusions (p. 138)

Appendix I: Catalogue of the Sarcophagi (p. 155)
Appendix II: The XVIII Dynasty Sarcophagus Texts: Parallels from the Pyramid Texts, from Middle Kingdom Coffin Inscriptions, and from the Book of the Dead (p. 172)

Selective Bibliography (p. 177)
Text Sheets (p. 183)
Index (p. 205)
Plates (I-XXV)

ドイツに留学中の安岡君に手配してもらい、コピーを入手することができました。
アメリカのメトロポリタン美術館に属していたことで知られるWilliam C. Hayesは、現場での作業を通じ、またA. Gardinerからヒエログリフの読み方を直接に教えてもらうなどして文字の読み方を習得した人です。Hayes 1937を参照。
彼の経歴を知る上では、Bierbrier 1995 (3rd ed.)が有用です。

この本の謝辞を読むと、古代エジプト建築についての書を刊行したボールドウィン・スミス(cf. Baldwin Smith 1938; Baldwin Smith 1950)の助力に言及しており、交流のあったことが確認されます。それぞれ、主著の執筆中であった時期ではなかったでしょうか。専門分野は異なりますが、有能なエジプト学者たちが触れ合っていた点がここでも確認され、面白い。

Raven 2005を読むと、第19王朝に属するRaiaの石棺であるにも関わらず、そこに記された文に関する研究に際しては、依然として未だHayesのこの本が有効であることが分かります。

"Most spells are taken from the well-known corpus dealt with by Hayes in his Royal Sarcophagi, although they have occasionally been shortened and simplified."
(Raven 2005, p. 63)

Hayesによる論考では、必ず一歩先に考察を進めるというやり方が顕著で、この本の場合では第18王朝のインスクリプションの祖型を探り、資料化している点が見るべきところ。これによって、書かれた内容の寿命が延長されるわけです。
Hayesの論文、

"A Selection of Tuthmoside Ostraca from Der el-Bahri",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 46 (1960), pp. 29-52.

などでも同じで、題名は意図的に派手にしていませんが、各々のオストラカを読んだ上で、最後には時系列の順に並べ、建物が造られていく過程に触れるという立体的な考え方を示しています。これができるかどうかが分かれ目。

2011年9月21日水曜日

Graffiti de la montagne thébaine (1969-1983)


テーベ西岸の懸崖などにうかがわれる新王国時代のグラフィティ(落書き)を集成したもの。
エジプトのドキュメンテーション・センター、Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE)の刊行物はルーズリーフ形式で、綴じていないからバラバラにすることができ、図版の比較が可能でとても便利です。
しかしこれが短所となり、せっかく古書店で買い求めても大事なページが抜けていたりという有様で、結局、当方は全部のページを揃えることができませんでした。

ラメセス時代に王墓の造営に関わった労働者たちの村、ディール・アル=マディーナ(デル・エル・メディーナ:しばしばDeMと略称)の研究に際しては基本文献のひとつ。
Jaroslav Cernyが強力に推し進めた研究分野です。彼が執筆した他の著作はあまりにも多く、ここでは触れません。以前に記したCerny 1973などを参照してくだされば。
以下のリストでは、欧文特殊記号を時折省きます。

Graffiti de la montagne thébaine.
Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE), Collection Scientifique
(CEDAE, Le Caire, 1969-1983).
23 vols.

J. Cerny, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, (1): Cartographie et étude topographique illustrée
(1969-1970)
xxii, 61 p., CXXIX plates.

J. Cerny, R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, 2: La Vallée de l'Ouest; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1971)
Frontispiece, xiv, 1-55 p. CXXX-CLXXXVII plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de M. Said, E. A. Zagloul et M. Nelson,
Vol. I, 3: Compléments aux secteurs A et C frange du Sahara thébain; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1972)
Frontispiece, vii, 1-62 p., CLXXXVIII-CCXXXIX plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de Ch. Leblanc, M. Maher, M. Nelson, M. Said et E. A. Zagloul,
Vol. I, 4: Cartographie, topographie, geomorphologie, préhistoire
(1973)
Frontispiece, 1-91 p., CCXLI-CCLXXXVI plates.

J. Félix et M. Kurz,
Vol. II, 1: Plans de position
(1970)
Frontispiece, vi, 1-6 p., 1-84 plans.

L. Aubriot et M. Kurz,
Vol. II, 2: Plans de position
(1971)
iv, 8-11 p., 85-123 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 3: Plans de position
(1972)
v, 12-18 p., 124-139 plans, 52 bis-62 bis plans.

M. Kurz,
Vol. II, 4: Plans de position
(1973)
Frontispiece, xiv, 1-55 p., CXXX-CLXXXVII plans.

M. Kurz,
Vol. II, 5: Plans de position
(1974)
26-32 p., 166-197 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 6: Plans de position
(1977)
33-40 p., 198-215 plans.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 1: Fac-similés [nos. 1578-1980]
(1970)
8 p., I-L plates.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. J. Cerny,
Vol. III, 2: Fac-similés [nos. 1981-2566]
(1970)
LI-CXXVIII plates.

J. Cerny et A. F. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, A. Chérif, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 3: Fac-similés [2567-2928]
(1971)
i, 9-11 p., CXXIX-CLXXIV plates.

A. F. Sadek,
avec collaboration de A. Chérif, M. Shimy et H. el-Achiery,
Vol. III, 4: Fac-similés [nos. 2929-3265]
(1972)
11, 12-14 p., CLXXV-CCXX plates.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 5: Fac-similés [nos. 3266-3579]
(1973)
Frontispiece, CCXX-CCLVIII plates, 15-17 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 6: Fac-similés [nos. 3580-3834]
(1974)
CCLIX-CCXCII plates, 18-20 p.

M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. III, 7: Fac-similés [nos. 3839-3973]
(1977)
CCXCIII-CCCVIII plates, 21-23 p.

J. Cerny et A. A. Sadek,
Vol. IV, (1): Transcriptions et indices [nos. 1578-2566]
(1970)
i, 108 p.

J. Cerny et A. 太字A. Sadek,
Vol. IV, 2: Transcriptions et indices [nos. 2567-2928]
(1971)
i, 109-148 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 3: Transcriptions et indices [nos. 2929-3277]
(1972)
iv, 149-184 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 4: Transcriptions et indices [nos. 3278-3661]
(1973)
185-220 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 5: Transcriptions et indices [nos. 3662-3838]
(1974)
222-241 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. IV, 6: Transcriptions et indices
CEDAE Collection Scientifique 25
(1983)
242-263 p.

レイデン(ライデン)の研究者たちが作り上げたDeMの労働者集団の村に関するページでは、

A Systematic Bibliography on Deir el-Medina
(R. J. Demarée, B. J. J. Haring, W. Hovestreydt and L. M. J. Zonhoven eds.), in
Deir el-Medina Database:
http://www.leidenuniv.nl/nino/dmd/dmd.html

が掲げられていて、これは改訂版であるということなのですけれども、該当する書籍リストを見ると、どうもページ数が合わない部分も見られます。Vol. IV, 6 (1983) が彼らのリストには見当たらないのも不思議。
なおH. el-Achieryは、H. el-Achirieという綴りも用いています。迷いましたが、ここでは"A Systematic Bibliography on Deir el-Medina"にうかがわれる表記に倣いました。
原著に当たって今すぐ確認ができる状態ではないため、取りあえず手元の記録と照合しつつ、矛盾を少なくし、またできるだけ情報を増やしたかたちで書いています。間違いがあると思いますので御教示ください。
古代ローマ時代以降のビザンツからイスラーム時代の前までの間に関するグラフィティについては、IFAO(フランス・オリエント考古学研究所)のページ、

Montagne thébaine:

を参照のこと。

J. J. Janssenの訃報に接しました。
個人的に強い親近感を抱いたエジプト学者のひとりでした。残念で悲しく思います。

2011年5月21日土曜日

Tylor 1898


小さな建物であっても、何年も経ってから、やはり重要だと改めて認識されるものは少なくありません。
エル・カブにあるアメンヘテプ3世の小神殿も、そのひとつ。観光客は至って少なく、レストハウスも一応作られていますけれども、開店している時があるのかどうか不明。
古代エジプト建築の本には、この小さな建物の側面で見られる石の積み方が変わっていると言うことで、図版が載せられています。その写真を撮るためにだけ出かけるというのも、考えてみれば愚か者のすることですが。

タイラーはエル・カブの記念建造物を記録に残す仕事に携わった人で、室内にたった4本の柱しか立っていないアメンヘテプ3世の小神殿を扱ったこの本は薄いけれども非常に大きく、エレファント・フォリオと呼ばれる部類に入ります。
僕は少なくとも20年間、古書店のカタログでこの本に言及した例を見た覚えはありません。市場にはほとんど出ていない稀覯本だと思います。
ブルックリン美術館のウィルボー・エジプト学図書館で見かけたきりでした。

John Joseph Tylor,
Wall Drawings and Monuments of El Kab:
The Temple of Amenhetep III
,
with plans, elevations and notes by Somers Clarke
(London: Bernard Quaritch, 1898)
http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchresult.cfm?parent_id=1016778&word=

今ではデジタル化されているようで、久しぶりに目にしました。
大きい本だし、海外に複写を依頼しても断られることが多い書籍だったので助かります。
彼はこのシリーズで4冊を出しており、いずれも日本で見ることは未だ難しいかも。

The Wall Drawings and Monuments of El Kab
(London: Bernard Quaritch)

Vol. I: The Tomb of Paheri (1895)
Vol. II: The Tomb of Sebeknekht (1896)
Vol. III: The Temple of Amenhetep III (1898)
Vol. IV: The Tomb of Renni (1900)

キベル、そしてソマーズ・クラークと一緒に、タイラーは「エル・カブ」という簡素な本も出しています。

J. E. Quibell, S. Clarke, and J. J. Tylor,
El Kab
(London: B. Quaritch, 1898)

大英博物館が出している電子ジャーナルのBMSAESでは、ベルギー隊によるエル・カブ調査の近年の動向が報告されていますので、エル・カブの様子を知るにはこの論考から見ると良いかもしれません。
エジプトの遺構を網羅しているはずのポーター・モスでも、中部エジプトを扱っている巻は改訂版が永らく出ていませんので、こうした論文の類における参考文献の欄が頼りとなります。

Luc Limme,
"Elkab, 1937-2007: seventy years of Belgian archaeological research,"
BMSAES 9 (2008), pp. 15-50.
http://www.britishmuseum.org/pdf/Limme.pdf

半分以上のページが図版。
ページ数が多いので、ダウンロードにかなり時間がかかったりします。

2010年11月30日火曜日

Vassilika 2010


トリノのエジプト博物館へ2年ぶりに行ってみたら、建築家カーとその奥さんのメリトの墓(TT 8)から出土した遺品の展示室が、何倍も大きい別の広間へと移動していました。この夫妻、新王国時代の第18王朝末を生きた上流階級の者たちです。たくさんの家具類が見つかったことで、古代家具史の世界では有名な存在。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)に残る墓では、地上に立てられたピラミディオンを見ることができ、塞がれた戸口上部を金網越しに覗き込むと、ピラミディオン内に造られた小さな部屋のヴォールト天井の彩色も見られるはず。
新しい展示室のパノラマ写真は、トリノ・エジプト博物館のHP、

http://www.museoegizio.it/pages/hp_en.jsp

にて見ることができます。
Flickr-Photo Sharingなどで"Tomb of Kha"等を検索するならばいろいろ出てくるとは思いますが、説明がきわめて不正確であるため、具体的に引用しません。

カーとメリトに関する遺物展示の模様替えについてはすでに、2008年におこなわれた第10回国際エジプト学者大会(ICE)の発表で予告されていましたけれども、これほど大がかりなものとは予想していませんでした。トリノ・エジプト博物館がカーとメリトの遺物を、非常に重要なものとして位置づけていることが分かります。館長が交代し、新しい展示方法が積極的に模索されています。
木製の扉の裏面が、しかしここでもやはり、きわめて見にくい点は建築関係者として残念。
なお、第10回のICEにおける予稿集は自由に見ることができます。

http://www.rhodes.aegean.gr/tms/XICE%20Abstract%20book.pdf

これに合わせて、一般向けに書かれたカーの本も刊行。英語版の他に、イタリア語版、フランス語版も同時に出ています。綺麗なカラー写真が豊富に収録されており、代表的な遺物を紹介。
ミュージアム・ショップでは、カーの折り畳みキュービット尺(ものさし)の木製レプリカが販売されていました。オリジナル通り、革袋つきで販売されている点は、少数の専門家に感涙を流させます。

Eleni Vassilika,
The Tomb of Kha: The Architect
(Fondazione Museo delle Antichità Egizie, Torino / Scala group, Firenze, 2010)
111 p.

Contents:

Introduction (p. 7)
CATALOGUE (p. 29)
Stele of Kha (p. 31)
Outer Coffin of Merit (p. 33)
Inner Coffin of Merit (p. 35)
Funerary Mask of Merit (p. 41)
Merit's Beauty Case (p. 45)
Merit's Wig and Wig Box (p. 51)
Merit's Bed (p. 54)
Kha's High-backed Chair (p. 58)
The Coffins of Kha (p. 64)
The Book of the Dead (p. 70)
Kha's Personal Effects (p. 78)
Decorated Coffer (p. 89)
Imitation Cane Table (p. 94)
Senet Board Game (p. 96)
Stools (p. 100)
Folding Camp Stool (p. 103)
Bronze Jug and Basin and other Metalware (p. 106)
Two-Handled Wedjat-eye Vessel (p. 109)

Essential bibliography (p. 111)

分かりやすさが徹底的に考えられており、ともすれば僅かな同類のみを読者として想定しつつ文を書きがちな研究者たちの傾向に、反省を促す内容を含んでいます。切妻型の蓋を有する衣装箱に関して、

"Unlike the other flat-topped coffers, these pedimental shaped chests could not be stacked easily, taking up more space, and consequently were regarded of higher status value." (p. 92)

と指摘してみせたり、あるいは彩色土器の説明で、

"There were distinctive shapes for pottery and their stone counterparts in every period, and this was probably related to the contents. Thus, today we distinguish a coffee pot from a teapot, by means of shape, so that form follows function." (p. 109)

という文で始めたりしているのは、そのあらわれ。
スキアパレッリによる発掘報告書の英訳(Schiaparelli 1927 (reprint and translated, 2007-2008))が近年出ていますから、画像がカラーで鮮明なこの本を脇に置き、併読すると面白そうです。

2010年10月30日土曜日

Kákosy et al. 2004


ハンガリー隊による、テーベの私人墓ジェフティメス(TT 32:ラメセス2世時代)に関する2巻本の報告書。
ハンガリーによる古代エジプト調査の歴史は100年を超えており、その過程はたとえば、Vörös 2007が個人史と重ねあわせながら示しています。
Studia Aegyptiacaのシリーズは、ハンガリーのブダペストから出されているエジプト学関連の刊行書の名前で、創刊は1974年。早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されているはず。シリーズを新しく改めて、その最初の巻として刊行。

László Kákosy, Tamás A. Bács, Zoltán Bartos, Zoltán I. Fábián, Ernö Gaál;
Stereo-photogrammetry, György Csáki and Annamária Csáki.
The Mortuary Monument of Djehutymes (TT 32), 2 vols (Text and Plates).
Studia Aegyptiaca, Series Major I
(Archaeolingua Alapítvány, Budapest, 2004)
xi, 372 p. + xi, 115 Plates.

Table of Contents:

List of Plates (vii)
Foreword (p. 1)
Editorial Remarks (p. 5)
Situation, Type and Architecture (p. 9)
Decoration Programme in TT 32 (p. 29)
The Owner of TT 32 (p. 355)
Abbreviations and Bibliography (p. 361)

なお、出土遺物については後年、第2巻として出版されているようですが、当方は未見です。

Gábor Schreiber,
The Mortuary Monument of Djehutymes II:
Finds from the New Kingdom to the Twenty-sixth Dynasty.
Studia Aegyptiaca, Series Major II
(Archaeolingua, Budapest, 2008)
224 p.

隊長であったLászló Kákosyが亡くなっているため、この書ではZ. I. Fábiánによって書かれている章が目立ちます。
壁画の報告に多くが費やされていることが、目次からも分かります。一方、建築に関しては、冒頭に20ページほどを記しているだけです。エジプト学における報告書ではこのように、建築に関する情報はいつも短めですが、専門家の数が少ないのだから仕方ありません。
以下、例によって建築の観点からのみ、気がついた点を記します。

この墓には個人的な興味があって、曲がりながら一周して下っている、狭くて長い廊下にヒエラティック・インスクリプションが何箇所かに残っているため、これを手がかりとして一日当たりの掘削量を求めたりしたことがあります。時折、こうした断片的な文字史料が掘削墓には見受けられるのですけれども、分析に耐えうるような、複数の文字がセットとして残っている例はきわめて稀。
工人たちが少しずつ掘り進めながら日付と長さを記録していったという前提のもとに、いくつかの読み方に関してはハンガリー隊の仮報告で見られるものとは異なる解釈を提案したのですが、どうやら半分ほどは受け入れられたらしい模様。

部屋の大きさに関しては一応のキュービット換算をおこなっていますが、あまり立ち入った考察はなされていません。
地上の斜面に、わずかに残存していたピラミディオンについては、1ページしか記していませんけれども、

"The width of the pyramid at the basis was 14.55 m (the platform on which it was built 15.1 m). The rear (upper) edge measured 9.4 m, thus the ground plan took the form of a trapezium with a height of about 11 m. The angle of inclination (69-72°) may indicate that the height of the building may have been 13-15 m which seems, however, hardly conceivable because of the character of the terrain. If one assumes a change in the inclination, it may have been considerably lower. It was built, like all the other private pyramids, of mud bricks. (Size of the bricks: 34×16.5-17×9.5 cm)."
(p. 27)

と面白い情報が併記してあって、足下で確認されたらしい勾配を尊重する一方、斜面上に立てられたために台形状に残った痕跡からピラミディオンの高さを求めているようです。これはピラミディオンの水平断面のかたちが常に正方形となるという特徴を利用して算出しているわけですが、詳しい計算方法が示されても良かったかも。
というのは、図版編のPlate CXVを見ると、ピラミディオンの最下端における標高は+99.81メートルであり、他方、これより高い位置に残存する北辺の高さが+102.35メートル。つまり、テキストを信じる限り、約2メートル上がったらピラミディオンの一辺が14.55メートルから9.4メートルへと短くなったことを意味するはずですから、その一辺の差は5メートルほど。だから、1メートル高くなると2.5メートル分、一辺の長さが短くなるという勾配であったとみなされます。
これを踏まえると、復原されるピラミディオンはそれほど高くなりません。その疑問が、意識されながらも曖昧なまま提示されている状況です。ピラミディオンの勾配を気にしている割には、セケドの話は出てこないし、また

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Peeters Press, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

が引用されていない点も不思議なところ。
おそらくは

E. Dziobek,
"Eine Grabpyramide des frühen NR in Theben",
in MDAIK 45 (1989), pp. 109-132.

でうかがわれる内容との整合性を優先したのかと思われますが、詳細を知りたい点ではあります。

壁画の説明に際しては、Fábiánを軸に4人ほどが手分けして書いたりしていて、欧米に留学した経験をお持ちの日本の若手の方々にとっては「おいおい大丈夫か」と思われる報告書かもしれません。しかし個人的には、親近感を抱く刊行物。ここには日本と似た状況がハンガリーにおいても存在することが、充分に暗示されています。Vörös 2007もそうした目で改めて読むと、得るところが少なくない書。
この厄介な状況を脱して日本人であることをやめ、能力を活かして海外で活躍し続けるか。それとも日本に戻り、さまざまに気配りしながらやっていくのか。かつて吉本隆明が昔にどこかで書いていたことでもあります。中途半端な報告書だと断ずるのはたやすいのですけれど、日本人の研究者がこの報告書を吟味するという中には、重いわだかまりが再度、姿をあらわすはずです。

2010年7月10日土曜日

Roehrig et al. (eds.) 2005


エジプトの最も華やかな時代において強大な権力を握った女王のひとり、ハトシェプストに関する展覧会のカタログです。
展覧会はサンフランシスコ美術館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館(以下、MMA)、フォートワース・キンベル美術館の3箇所にて開催されました。いずれもアメリカ国内です。
ルイス・カーンの設計によるキンベル美術館は、建築の分野では非常によく知られた建物で、おそらくは米国の美術館における最高傑作10作品の中に入る名作とみなされますが、ここでは触れません。

Edited by Catharine H. Roehrig,
with Renee Dreyfus and Cathleen A. Keller,
Hatshepsut: From Queen to Pharaoh
(The Metropolitan Museum of Art (MMA), New York, 2005)
xv, 339 p.

キャサリン・レーリグが単名の編集者として前面に推し出されていることにまず気づきます。MMAのアーノルド夫妻ももちろん執筆陣に加わっていますが、表には出てきていません。
ハトシェプスト女王の記念神殿、通称「ディール・アル=バフリー(デル・エル=バハリ)」はイギリス隊の他、MMAもまた長年発掘をおこなった場所で、アーノルドも近くで再調査をしていますから、資料としては充分所蔵しているはずです。ですがそれにとどまらずに、できるだけ話題を膨らまそうとしている意図が興味深い点。
例えばトトメス3世の増築神殿を調べたハンガリー隊の人にも執筆させたり、「エジプトとエーゲ」という題でM. ビータックに書かせたりしているのは、その努力のあらわれかと感じられます。

バフリーの壁画では当時のエジプト国外の情報が間接的に描写されていますから、"Egypt's Contacts with Neighboring Cultures"という項目が設けられているのは分かりやすい。
「エジプトとヌビア」の章はイギリスのヴィヴィアン・デーヴィスが執筆しており、この人は博覧強記で知られている人で、”Egypt and Africa"も出していました(Davies (ed.) 1991)。
一方、「エジプトと近東」と名付けられた章では、MMAのリリーキストが書いています。古代エジプトにおける「鏡」の専門家として知られている人ですが、かなりの高齢であるはずにも関わらず、健在ぶりを誇示。
リリーキストの近著は、

Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.

で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
しかし文字読みの専門家ということであるならば、今は職場を移ったけれど、MMAにはJ. P. アレンがいたじゃあないか、何で他国の人に依頼する必要があったのかという素朴で陰鬱な疑問が、まったくの部外者の見方からは生じたりもするところ。

ハトシェプスト女王に仕えた建築家センムトについてはドーマンが記しています。彼の専門領域。すでに2冊を単著で出版しています。

Peter F. Dorman,
The Monument of Senenmut:
Problems in Historical Methodology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London and New York, 1988)
xvi, 248 p., 22 plates.

Peter F. Dorman,
The Tombs of Senenmut:
The Architecture and Decoration of Tombs 71 and 353.
Publications of the Metropolitan Museum of Art,
Egyptian Expedition Vol. XXIV
(MMA, New York, 1991)
181 p., 96 plates.

計測のためのロープの束を抱えているセンムトの彫刻像をカラーで紹介しているのは、建築学的には注目される点。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。

ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
残念なことに図版はすべてモノクロですが、数々の家具を写真で紹介しつつ、Figs. 1, 2ではそこに記された文字列を報告しています。

P. Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.

他にアメリカの研究者も、違ったアプローチから考えてペルパウトはアメ3時代の人間であったろうと判断しており、これは面白い結論。

257-259ページで紹介されている大英博物館収蔵の寝台の断片については、P. ラコヴァラがJSSEA 33 (2006), pp. 125-128にて文を寄せています。これは永らくハトシェプストの玉座と考えられてきたものですが、今日ではケルマの特徴的な寝台との関連性が指摘されています。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。

ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。

2010年7月4日日曜日

Kemp and O'Connor 1974


水中考古学の専門誌に掲載された、アメンヘテプ3世のマルカタ王宮調査に関する重要な調査報告。マルカタ王宮に関する報告の数は、それほど多くはありません。アクエンアテン(アケナテン)によるアマルナ王宮とは大きく異なる点となります。

アマルナ王宮調査は最初にピートリが手がけ、その後にドイツ隊も居住区を発掘し、イギリス隊が引き継いで大規模な調査をしていますから、報告書の冊数はかなりのものとなります。
一方、マルカタ王宮の場合はダレッシー、及びタイトゥスによる報告の後、メトロポリタン美術館による1910〜1920年の調査の短報が続き、JNESに掲載された1950年代の報告のあと、次いで1970年前半におけるアメリカ隊の調査がなされますが、そのアメリカ隊による概報がこの論文。
他にはペンシルヴァニア大学博物館の紀要にもオコーナーによって書かれましたけれども、僅か2ページの内容で、あまり参考にはなりません。

従って、マルカタ王宮の既往研究のうち、第一次資料を知ろうとした場合には、ダレッシーのフランス語を6ページ、タイトゥスの英語を20ページほど、メトロポリタン美術館による短報、それから1950年代に執筆された出土文字資料の分析をおこなったJNESの英語報告を60ページほど、それにこの文を読めば、だいたい足りることになるかと思います。
最近、アメリカの連中たちによって設けられたマルカタ王宮に関するサイト、

iMalqata
http://imalqata.wordpress.com/

の"Reports"のページでは現在、上記のだいたいが「不法に」PDFファイルにて一般に公開されており、ダウンロードすることができます(!)。
こういうこと、本当にやってもいいんですか。JSTORからダウンロードしたファイルをそのまま一般公開するなど、とっても大胆。

マルカタについては、ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズに載せられたスミスの文章(Smith 1998 (3rd ed.))も見る必要があるかもしれませんが、これもそんなに長くありません。
エジプト学において王宮はそれほど研究は進んでなくて、というよりも、古代中近東の王宮・宮殿の研究というのは穴ばかりなのであって、その点は今まで指摘してきた通り。
「王宮」と呼ばれるものも、"religious palace"か、それとも"residential palace"なのかがずっと論議されてきている、なあんていうことを初めて知る方は多いはず。で、古代中近東において、"residential palace"と仮に呼ばれているものは、実は残っていないに等しいのです。
先日、西アジア考古学会に出席し、講演にてシュメールにおける宮殿建築の新たな解釈について興味深く拝聴させていただきましたけれども、半ば予想されたことかとも思われました。ここでは、Hitchcock 2000にてうかがわれた問題提起を再度、思い起こすべき。
すでに、Hägg and Marinatos (eds.) 1987, The Functions of Minoan Palacesでも同様のモティーフは指摘されていました。王が実際に居住した痕跡というのは、どの遺構でも考古学的にはほとんど検出できていない状況であるはずです。

Barry Kemp and David O'Connor,
"An Ancient Nile Harbour: University Museum Excavations at the 'Birket Habu'",
in The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration (1974), 3:1,
pp. 101-136, 182.

この雑誌名は今では、International Journal of Nautical Archaeology (IJNA)というふうに、短く縮められたようです。
全体はふたつに分かれ、最初にオコーナーが7ページ、交通路として使われたナイル川の重要性とナイルの港湾施設について述べています。これを引き継ぎ、ケンプが調査の目的とその成果を記すという構成です。

マルカタ王宮の中心地はメトロポリタン美術館によってほぼ完掘がなされていますから、それより対象を広げ、特に人工的に造られた近傍の湖「ビルケット・ハブ」に焦点が当てられた調査。
エジプト人は湖を造営するために矩形をなす湖の輪郭に沿って、掘削した土砂を捨て、山が連なるかたちに仕上げました。これは景観を考慮しているのではないか、また土砂の運搬経路を勘案した結果ではないかと書いている点などに、ケンプの才覚が感じられます。世界最初のランドアートではないかとも述べており、人工湖の用途としては日乾煉瓦のための採掘地・祭祀施設・娯楽施設と、3つ挙げています。

サイトKと呼ばれる場所はその小山の一角に当たり、ここから彩画片と煉瓦スタンプ、「セド祭のためのワイン」と記された土器片が見つかっています。セド祭のための小建築が壊されて、ここに廃棄されたと考えられており、非常に重要な発見。それまで同じセド祭のための施設であったと思われてきた「魚の丘」建築を、ではどう考えるかという疑問に繋がります。
サイトKで見つかった建物の残骸は、もしかしたら「魚の丘」建築のものではないかという話は、未だ突き詰められていません。煉瓦スタンプから考えて、別のものだという感触が与えられますが、しかし双方の彩画片は未だ詳しく比較されていない状況にあります。
なお、サイトKから出土した彩画片の特徴については、すでにギリシアの研究家が英語とギリシア語で短く発表済み。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。マルカタではそれがまだうまく整理されていません。その点が興味深いところです。
このページでは、マルカタ王宮については結構多く触れてきました。
「マルカタ」、「Malkata」、「Malqata」などを検索していただければ。

2010年6月27日日曜日

Bleiberg and Freed (eds.) 1991


ラメセス2世に関する国際シンポジウムの記録。本の題名は、イギリスの代表的な詩人シェリーの、非常に有名な詩の一節から採られています。

Edward Bleiberg and Rita Freed eds.,
Fragments of a Shattered Visage:
The Proceedings of the International Symposium of Ramesses the Great
.
Monographs of the Institute of Egyptian Art and Archaeology, 1.
Series editor: William J. Murnane
(Memphis State University, Memphis, 1991).
v, 269 p.

さてこの薄ピンク色のペーパーバック、錚々たる顔ぶれが論考を寄せているため、新王国時代後期に興味を持っている人なら必ず見たいと思わせる書籍。
外見は安っぽいんですけれども、中身はきわめて重要です。16編の論考が掲載されていますが、建築関連ならばケラー、キッチン、オコーナー、そしてシュタデルマンの4本の論文は必読。

一番長い分量を書いているのはフランスの大御所ノーブルクールですが、2番目に長い文を寄稿しているケラーの内容は、壁画を専門とする人間にとって欠くことができない内容を伝えています。

C. A. Keller,
"Royal Painters: Deir el-Medina in Dynasty XIX"
pp. 50-86.

NARCE 115 (1981)に書かれたモティーフが、10年を経てこういうかたちに展開されるのかという思い。何しろ3200年前の画工の個人を特定しようという恐るべき試みであるわけで、絵画に対する情熱を持っていないと論旨についていけません。
この論文が何故、建築に関わりがあるかと言うならば、それは岩窟墓の造営作業に関わった労働者集団組織の編成をどう考えるかという問題と繋がるからです。王家の谷の岩窟墓は「右班」と「左班」とによって掘削され、仕上げが施されました。この時の「右班」と「左班」は、実際に墓の右と左をそれぞれ担当したのであろうとチェルニーが書いています。ただしガーディナーは右と左について、墓の奥から見た場合の右と左であることを言及していますので、留意されるべき。墓の入口から見た左右ではありません。
このチェルニーの見方への反論であるわけですが、建造作業の場合は、また別の見方が必要であろうと思われます。

Kenneth A. Kitchen,
"Towards a Reconstruction of Ramesside Memphis",
pp. 87-104.

キッチンは汚い絵を数枚掲載していますが、その殴り書きに近いメンフィスの全体見取り図が、少なくともこれから長く引用され続けるであろうということをはっきりと意識しています。意図的に乱暴な描き方をすることで、考え方の骨格だけを正確に伝えるという見事な表現。図面は綺麗に描くほど価値があると考えている凡庸な研究者たちに、根本的な批判を与える図と言っていい。単に多忙だから汚い絵を出していると思っていると大きく間違えます。

David O'Connor,
"Mirror of the Cosmos: The Palace of Merenptah",
pp. 167-198.

オコーナーに対しては、ちょっと厳しい見方をすべきだと僕は考えています。メルエンプタハの宮殿を発掘したのはペンシルヴェニア大学の博物館で、壮大なことを書く前に、後継者はもう少し細かい情報を出して欲しかった。
エジプトの王宮について調べようと思ったら、しかし彼のこの論考は疑いもなく、最重要の部類に入ります。事実、多く引用されている論文。

Rainer Stadelmann,
"The Mortuary Temple of Seti I at Gurna: Excavation and Restoration",
pp. 251-269.

MDAIKで発掘調査の経過を追っている人は、読む必要がないかもしれない。
シュタデルマンによるセティ1世葬祭殿の建築報告書は、たぶんもう出版されないのではないかと個人的に思っていますが。彼による論考もまた、王宮建築の研究者にとっては重要。

活躍していたWilliam J. Murnaneが亡くなってしまいました。これが非常に残念です。ここではシリーズ・エディターとして登場。