ラベル 日本建築、明治時代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日本建築、明治時代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年5月18日日曜日

富永 1893


小さな冊子「紀伊和歌浦図」(cf. 塩崎 1893)を前に取り上げましたが、この題にただひとつの文字が加わっただけの「紀伊和歌浦図」という一枚刷りの刊行物もあります。和歌の浦に関してこれから調べようと志している初心者にとっては非常に紛らわしく、最初の関門となる瞬間です。
びっくりしますが、出版年も同じ明治26(1893)年です。

「紀伊和歌浦図」には、全体を筒状に包んだ紙がもともと備えられていました。
ところが、その表書きには一字だけ「」という字が付けられ、「紀伊和歌浦図」となっていて、こういう時には扱いをどうするのか、大いに迷う事態となります。包み紙と、その中身として収められた本体の冊子の表紙において、ちょっとだけとは言え、刊行物の題名そのものが異なるわけですから。
さらに、収蔵品の登録方法というのは各研究機関の方式によって微妙に異っています。これが情報収集の作業を阻んでいます。

OPACというものがありますが、図書館主体のこのシステムには、博物館に収蔵されている書籍は含まれていないようです。OPACは非常に便利な反面、欠点もあるわけで、詳しいところが具体的に明らかとなっていない気がします。Webcatの後継も、またCiNiiについても、これらのサイトで日本中、また世界中の文献を横断して検索できると思い違いしている人がいるのでは。
情報網が劇的に進展したにも関わらず、世界中の文献を横断して検索できるシステムが構築されていないということを、理由を挙げて説明してくれる公的なサイトがあるといいんですけれども。

岡田 1909のところで扱ったのは「紀伊和歌浦明細新地図」で、ここでも題名は似ています。重要な基本文献として挙げた和歌山市立博物館編「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年を見るならば、他にも似た名前の史料が、もうたくさんあることを知ることができます。
さらに各資料において初版と改訂版などによる細かな異同が見られ、新しく研究を始めようとする者にとっては非常に厄介です。

さてここで新しく取り上げたいのは、和歌山県立博物館が収蔵している「紀伊和歌浦之図」という先述した史料です。

富永正太郎「紀伊和歌浦之図」、
富永正太郎、
明治26(1893)年、多色一枚刷り。

墨版の単色だけが刷られたものが2014年にネットオークションで出回っていましたので、博捜するならば他にも見つかるかもしれないと推測しています。画面の上方には十数行の文が記され、そこには「割烹店には芦辺やあり」と書かれているとともに、もうひとつの老舗旅館であった「米栄(こめえい)」の店名もうかがわれます。

全体の描法は塩崎毛兵衛による「紀伊和歌浦図」と似ているようにも見受けられます。もしかしたら、この一枚刷りの発行に「あしべ屋」の当時の店主、薮清一郎が関わっていたのかもしれません。
明治時代において発展し、また技術の急転も重ねたメディアの利用方法について、彼は天才的な才能を発揮したと推察されますので。

しかしこの図で「あしべ屋」本館は木造3階建ての姿であらわされており、これは「紀伊和歌浦図」と同じなのですけれども、玄関と思しき上に高く掲げられた切妻は描かれず、また二階から直接地上階へと降りることのできる正面中央の特徴的な階段も見られません。
「あしべ屋」には正面中央に幅の広い階段が備えられていた時期と、それが撤去されて切妻屋根が中央に高く設けられた時期があったことが知られています。でもそれがいつ改変されたのかを正確に示す史料がなく、「紀伊和歌浦之図」は今後も検討すべき事項を含む、見逃せない画像資料となっています。
似た建物が実際にあれば参考になるのですけれども。

明治期に属する木造3階建て、あるいは4階建ての旅館は、決して珍しくありませんでした。当時、大流行となった絵葉書ではその建物の姿が活写されています。ですが、時代を経てあっけなく取り壊されることが重なり、日本全国で夥しい数の建物が失われました。
現存する和歌山県内の例としては、高野口町の葛城館がまず挙げられるのではないでしょうか。伝統的な木造建築に基づきながら、なおかつガラスのファサードを高く立ち上げているさまに感動します。

さらに条件を絞り、二階から地上に降りることができる階段を備えている明治時代の木造の旅館で、現存している3階建て以上のものを探すとなると、どうしても対象は限られ、和歌山県外にも目を向けるしかありません。

稀有な類例として、地域としてはいささか離れてしまいますが、群馬県四万温泉の旅館である積善館ということになるでしょうか。ここは宮﨑駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」の舞台設定の際に参考にされたとも言われる人気の高い宿です。
本館は江戸時代の木造2階建ての上に、さらに明治時代、3階部分の建て増しがなされた例としても専門家の間では知られています。
積善館の本館は現在、湯治客のために使用されているようです。多少の不便が強いられる代わりに宿泊料も格安ですから、近世の木造高層建築や明治時代の増改築に関する技法に興味のある建築史関係者にとって必見の宿。

本館の建立は元禄4年と伝わっているようですので、学生さんたちとともに本館に宿泊し、建築のどこをどう見るか、長期逗留ゼミをおこなうのも楽しみでしょう。元禄の江戸時代前期から始まって明治・大正・昭和までの増改築の正しい見定めとなると、教員の眼識も逆に厳しく問われます。
ここには「資料室」も備えられていますので、当時の史料に記された、くずし字の読解をおこなう現場としても有用かと思われます。

明治村にも、もともと2階建てだったところに3階部分を建て増しした明治期の木造建築があります。建物の最上階にある部屋も見ることができ、しかもガイドさんによる丁寧な解説付きで、木造高層建築の構造に興味を持つ一般の方々がこれからも増えることを願っています。

「あしべ屋」に似た比較的大きな木造3階建てで、しかも2階から地上階へ降りることができた建物を探すということになると、つい先日に文化審議会から重要文化財指定の答申がなされたことでニュースとなった、同じ和歌山県内の広川町の東濱口家邸宅、特に「御風楼」と呼ばれた東濱口家住宅の迎賓施設(明治42 [1909] 年)が挙げられます。
この建物では木製の直通階段を構えず、石積みの塊をこしらえ、階段として昇り降りできるものを廊下の傍らに構築することで2階と地上階との連絡を実現しており、庭園全体の見栄えを配慮した意匠が見せ場となっています。

この貴重な建物では、3階の雨戸を収めた戸袋全体が、驚くべきことにエレベーターとして下階へ降ろすことができるという工夫が最も興味深い点です。こうしたとんでもない仕組みを考えていたということが、もっとさまざまなかたちのニュースで触れられ、世界共通の建築の面白さが喧伝されると良いのですが。
眺望に恵まれた「御風楼」の3階部分は、座敷の三方を巡る柱間装置、つまり障子や雨戸を開け放すことができるように設計されていましたけれども、雨戸を収納するための、木の板材でできた戸袋だけはどうしても残されてしまい、この部分が視界の広がりを遮ることとなります。
その欠点をなくすため、何枚もの雨戸を戸袋に収めた後に、戸袋そのものを下階へ降ろすという大胆な創案です。

近代建築の巨匠のひとりとして崇められ、また今日の超高層ビルの先駆けをいくつも建てたミース・ファン・デル・ローエMies van der Rohe:要するに「ミース村出身のローエ」という名前)は、チューゲンハット(トゥーゲントハット)邸を1930年に完成させました。
斜面を見下ろす眺めの良い居間の大きなガラス面に対し、電動による窓の自動開閉を考え、しかも通常の横方向にではなくて、ガラス窓を垂直に、床面下へ引き落とすという装置を家に組み込み、世界中の建築関係者をあっと言わせた男です。
チューゲンハット邸は今日、世界遺産に指定されています。

鉄とガラスでできたチューゲンハット邸と同様の工夫が、東濱口家の「御風楼」ではチューゲンハット邸よりも20年も前に、3階建ての木造建築で試みられています。ただし、電動ではなくて手動なのですが。手段は異なりますけれども、目的が同一という点が注目されます。
建物において眺望が優先された時に、どのような驚くべき設計上の方策を探ることができるのか。近代における最先端の建築表現の試みを、ここに見ることができます。

「紀伊和歌浦之図」では、妹背山の小さな入母屋造りの平屋にはっきりと「塩湯」と記されており、この点も銘記されるべきです。
明治時代、海水浴は娯楽ではなく、療養の一環として日本に導入されました。東京の都市計画家として知られている後藤新平が、まだ一介の医者として活動していた頃に発表した「海水功用論」(明治15年)が先駆けかと思われます。詳しい経緯に関しては小口千明の論文、「日本における海水浴の受容と明治期の海水浴」人文地理37:3(1985年)、pp. 215-229が有用です。
この動向を受け、和歌浦でも海水浴を広告に全面に掲げ、また海水を沸かした「塩湯(汐湯もしくは潮湯)」を宣伝したと考えられます。

同志社大学の創設者である新島襄が療養のために和歌浦を訪れたのはしかし、後藤新平の著作が出るよりも少し前の明治10年であって、この頃は和歌山、まして和歌浦へ行くには鉄道もまだ敷設されておらず、大変であったはずです。小口千明の論文でも和歌浦は触れられていないわけで、とても辺鄙な場所であったはずなのですが。
療養の場として、どうしてこの地が選ばれたのか、興味が惹かれます。新島襄とその妻の八重は、和歌浦の漁師の家を借りたらしい。英文の手紙が残っています。

なお、「紀伊和歌浦之図」では妹背山に見られる木造平屋の建物の入側面の様子が「紀伊和歌浦図」とは異なるようです。妹背別荘の往時の姿を探る際、さらなる検討が求められるわけで、「紀伊和歌浦之図」は改めて見直す必要のある史料となっています。

2014年5月17日土曜日

近代築城遺跡研究会(編) 2012


近代築城遺跡研究会の角田誠さんから貴重な論文集をお送りいただきました。
ありがとうございました。

土木請負業を営む西本組を率いた初代の西本健次郎は、国内外の鉄道敷設関連工事に携わったことが知られています。「三井建設社史」(1993年)や「日本鉄道請負業史 明治編 中」(1944年)の南海鉄道を述べた部分などに彼の名が繰り返し出てきますが、後年に貴族院議員も務めた時期があり、国立国会図書館の「帝国議会会議録検索システム」で名前を検索すると、29件を確認することができます。

他方、西本組は軍事建築の造営にも関わりました。由良要塞友ヶ島砲台群のうち、「第一砲台」の建築工事を西本組が手掛けた記録が残っています(pp. 131-132)。ただ情報が機密事項を含んでいたためか、西本組には図面類が一切残っていない点が残念です。

さて、和歌浦で老舗の会席旅館であった「あしべ屋」は、移ろい行く観光業界の趨勢に逆らうことができず、大正時代の末期には廃業を余儀なくされましたが、その際に妹背山の「あしべ屋妹背別荘」が西本健次郎に売却され、彼はそれをしばらく別荘として用いました。折々には貸し出しもおこなっていたようです。
あしべ屋の関連施設はたくさんありましたけれど、今なお残存しているのは妹背別荘とその脇に建てられたビリヤード場だけです。このビリヤード場は妹背山から近くの場所へと移築され、本館や玉津島別荘(北の別荘)などはすべて取り壊されました。

こうして和歌山市に点在しながら残る3つの建物、つまりレンガ造の堅固な「由良要塞 友ヶ島第一砲台」(明治23年)と木造平屋建の「あしべ屋妹背別荘」(明治時代中期~大正初期)、そして初期コンクリート造の登録有形文化財「旧西本組本社ビル」(大正14年)とが関連性をもって結びつくことになります。第二次世界大戦の終わりを迎えて友ヶ島第一砲台は放棄されたものの、第二砲台のように爆破破壊されることは免れたようです
西本組本社ビルは1945年の和歌山大空襲によって甚大な被害を受けましたが、2階の空中廊下で繋がっていた隣接の木造住居部分のように焼失や倒壊することはなかったので改修が施され、その後も使われ続けました。妹背別荘は幸いにも戦火を受けなかったため、西本家の疎開先として用いられました。
それぞれ固有の歴史を辿りながら、偶然残ることになった3つの例と言っていいのかもしれません。

定本義広編「由良要塞 III:京阪神地区防衛の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2012年、
(v)、187 p.

目次
角田誠「明治初年における大阪湾の防備状況」(p. 1)
原田修一「生石山弾薬本庫跡発掘調査報告書」(p. 21)
原田修一「コラム:由良要塞砲兵連隊及び由良要塞司令部の写真について」(p. 25)
原田修一「コラム:門崎砲台の写真について」(p. 28)
原田修一「コラム:斯加式九糎速射砲薬莢箱について」(p. 30)
臼井敦「東京湾要塞 伊勢山崎水雷砲台(2):男良谷水雷砲台を考えるうえで」(p. 31)
森崎順臣「御坊市野口地区の砲台について」(p. 58)
久保晋作「本土決戦における旧式砲の使用についての考察」(p. 71)
久保晋作「淡路島における砲台遺構の破壊についての考察」(p. 87)
豊島邦彦「赤松山堡塁遭難記」(p. 106)
溝端佳則「絵葉書写真に見る重砲兵第三連隊〜野戦重砲兵第三連隊」(p. 111)
宮田逸民「三木飛行場ノート」(p. 123)
中川章寛「姫路海軍航空基地の防空施設について」(p. 153)
定本義広「○○(マルマル)、陸軍由良飛行場について」(p. 176)
編集後記(p. 185)

友ヶ島は近年、映画「天空の城ラピュタ」の中で展開する光景に酷似しているということで訪れる若者たちが増え、賑わっているようです。ですが、本当は地味な記録作業がもっと重要であろうと感じます。
今年、久しぶりに訪れましたけれども、虎島の岸壁までは回ることはできませんでした。観光地だと侮っていると思わぬ怪我をする可能性があり、この島では天候と潮位を常に注意して行動することが望まれると思います。

既刊としては、次の3冊がすでに刊行されています。

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 I:大阪湾防御の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2009年、
175 p.

近代築城遺跡研究会編「由良要塞 II:紀淡海峡の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2010年、
160 p.

近代築城遺跡研究会編「舞鶴要塞 I:舞鶴港湾と山陰の近代築城遺跡」、
近代築城遺跡研究会、2011年、
190 p.

2013年5月4日土曜日

岡田 1909


「紀伊和歌浦明細新地図」も、経緯がよく分からない出版物です。多色刷(墨色、山吹色、淡藍色)の地図で、和歌山県立図書館の他、和歌山市立博物館などが初版を収蔵。

岡田久楠
「紀伊和歌浦明細新地図」
岡田久楠
明治42(1909)年11月
54×39 cm

和歌山市立博物館「'05秋季特別展:和歌浦(わかのうら)、その景とうつりかわり」、和歌山市立博物館、平成17(2005)年、96 p. は額田雅裕・太田宏一・寺西貞弘各氏による労作で、貴重な図版が多数収められており、研究者必携の書。この本の52ページに図51として「紀伊和歌浦明細新地図」はカラーで掲載されています(解説文は90ページ)。「あしべ屋本店」の他に、「あしべ屋別荘」が2箇所に記されている点が重要(cf. 塩崎 1893濱口 1919)。
この地図は何としても個人的に入手したいと思い、願いは叶ったのですが、ただ「和歌浦、その景とうつりかわり」に載っているものとはいくらか違いが認められ、若干手直しがなされたものも初版として頒布されていたようです。

島津俊之
「経験とファンタジーのなかの和歌の浦:田山花袋『月夜の和歌の浦』を読む」
空間・社会・地理思想14(2011年)
pp. 41-67
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space14/14_41shimadu.pdf

の論文の最後にも、「紀伊和歌浦明細新地図」の部分拡大図は掲載されています。この「紀伊和歌浦明細新地図」は和歌山市立博物館に所蔵されているもの。和歌山市立博物館蔵の裏面には、「遊覧記念 和歌浦 明光台」という丸いスタンプが押印されているのが面白い。このエレベーターに乗り込んだ時の記念として地図は用いられたんでしょう。しかしこの初版には、明光台が描かれていないわけです。

明治43(1910)年7月には再版が出ているらしく、香川県立ミュージアムが鎌田家資料の中のひとつとして収蔵しています。その紹介写真を見ると、望海楼が立てた東洋一のエレベーター「明光台」が描き込まれているようです。このエレベーターの築造は明治43(1910)年ですから、ただちに地図の修正が施されたと推定されます。

香川県立ミュージアム所蔵「和歌浦明細新地図」、再版
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kanzouhinkensaku/index.php/rekishi/detail/500415

さて、岡田久楠はこの地図とは別の、変更を加えて題名を変えたものも後に刊行しました。これが

岡田久楠
「名所旅館案内和歌浦地図」
岡田久楠
明治45(1912)年6月

で、高低差はケバによってより細かく表現され、海深も等高線で示されるなど、「和歌浦明細新地図」の再版と全体の構成は酷似しているんですけれども、改変が施されています。多色刷ではなく、墨刷の版に旅館(赤色)や名所(青色)を手塗りによって簡単に彩色したもの。つまり、香川県立ミュージアムが持っている「紀伊和歌浦明細新地図」の再版ととても良く似ているのが特徴です。香川県立ミュージアム収蔵のものは、同様に墨版の単色刷りに赤色で手彩色が施されていると思われ、青色の手塗りはうかがわれない様子。
なお、

田中修司
「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」
日本建築学会計画系論文集第74巻第635号(2009年)
pp.291-97

の294ページと297ページで「紀伊和歌浦明細新地図」と「名所旅館案内和歌浦地図」が言及され、すでに両者の関連は簡単に指摘されています。なお、後者については日本古地図学会「古地図研究ニュース」第54号(2007年4月)の巻末に2枚に分けて掲載されており、p. 6には芳賀啓氏による解説も記されています。

この岡田久楠という人物はいったい何者かという話ですが、

金子郡平・高野隆之
「北海道人名辞書」第2版
北海道人名辞書編纂事務所
大正12(1923)年
660 p.+9 p.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734

の「札幌市を之部」、38-9ページに「旧姓は貴志。明治17年3月28日、和歌山県和歌山市小松通六丁目生まれ」の岡田久楠が掲載されています。明治42年は彼が20歳半ばの頃に相当しますけれど、北海道勤務ですから、普通なら和歌浦の詳しい地図を作ることはできなかったはず。しかし一方で、優秀な土木技師であったらしい彼の手にかかれば、こうした地図を短期間でこさえることは可能であったようにも思われます。

纏めますと、「紀伊和歌浦明細新地図」の初版には少なくとも2種類あること、「再版」と称する1年後の改訂版があり、そこには良くも悪くも評判となった「明光台」エレベーターの存在が反映されていること、さらには似た構成の「名所旅館案内和歌浦地図」が出されており、これが「紀伊和歌浦明細新地図」の第3版に相当するらしいこと、さらには著者の岡田久楠と同じ名を持つ和歌山市生まれの土木技師が北海道で同時代、活躍した記録が残っているが、関連性は今ひとつ確認できないこと、となります。
100年ほど前のことが、もう詳しく分からなくなっています。

2013年5月3日金曜日

濱口 1919


この本も近代の和歌浦を見る上で面白い冊子。やはり国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができます。
巻頭には折込で地図が挿入されており、表面も裏面も藍色と赤色の2色刷です。地図はこの頃すでに開通していた路面電車の路線図を兼ねており、路線と停留所、及び名所の地点が赤色で示されています。
目次を以下に書き写しましたが、旧字は改めました。ノンブルは38まで認められますけれど、実際はノンブルのない10ページ以上の広告がさらに追加されています。

濱口彌浜口弥 はまぐちわたる
「名所案内 新和歌浦と和歌浦(和歌浦と新和歌浦)」
枇榔助彌生堂、大正8(1919)年

参照:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961926

目次:
折込地図 表 和歌浦新和歌浦略図
同 裏 和歌山市街略図

和歌山城(写真) 2
和歌山より和歌浦口 3
高松根上り松(写真) 4
愛宕権現及貌口石 5
弥勒寺及亀遊石 5
新和歌浦全景(写真) 6
秋葉山と鶴立島 7
和歌浦口より新和歌浦 7
和歌浦汽船乗場(写真) 8
鷹の巣(写真) 10
新和歌浦の景趣 11
天神磯(写真) 12
望海楼 13
新和歌浦の怒涛(写真) 14
米栄別荘、支店 15
大島中の島双子島(写真) 16
仙集館 17
新和歌浦の勝地 17
東照権現(写真) 18
鷹之巣 19
玉津島神社(写真) 20
新和歌浦より和歌浦 21
東照権現 21
下り松(写真)
和歌浦口より和歌浦へ 23
あしべや及妹背別荘 23
不老橋と塩釜神社 24
不老橋より三断橋、妹背、旭橋を望む(写真) 26
望海楼址碑 27
観海閣と多宝塔(写真) 28
妹背山、題目石、観海閣 29
紀三井寺全景 30
多宝塔と鶴駕飛降碑 31
和歌浦より紀三井寺へ 32
紀三井寺 32
附近の名所古蹟 33
和水電車線路 34
城東館 35
著名なる物産土産物 36

和歌山城からまずは新和歌浦へと進んで行き、そこから和歌浦に戻り、さらに紀三井寺へ至るという旅程を念頭に記されています。新和歌浦が先に触れられますが、しかし本当に書きたかったのはむしろ和歌浦であったらしく思われる内容。
塩崎 1893のところで述べた論考でもこの本については引用しており、それは国会図書館の近代デジタルライブラリーを通じて読んだのですけれども、その後に比較的安価で入手することができたので、薮清一郎による広告の部分と妹背別荘の写真を実見しようと思い、届いた本を開いてみたら、該当部分にその広告がありませんでした(!)。
ショック。

もともと薮清一郎による「あしべ屋」の広告、特に妹背別荘の存在を強調したページにはノンブルがなく、24〜25ページの間に差し挟まれた格好です。しかしこの欠損がただの落丁ではないことは、巻頭の地図に加工がなされている痕跡より推察することができ、近代デジタルライブラリーで見られる地図に記載のある「あしべ屋」、「望海楼」、「仙集館」といった旅館の名称が、当方の入手した版ではことごとく削除されています。代わりに「米栄(こめえい)」の支店と別荘の名はひと回り大きい赤い文字で印刷されていました。14〜15ページの間の、ノンブルのない広告も大幅に入れ替わっており、「望海楼」と「仙集館」に関する案内が削除されています。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、表紙で「名所案内 和歌浦と新和歌浦」と印刷されているにも関わらず、一頁において「新和歌浦と和歌浦」という題で始められているせいか、「名所案内 新和歌浦と和歌浦」として公開されているという不思議なところがあります。そのため、近代デジタルライブラリーで「和歌浦」と「新和歌浦」の順番を入れ替えた「和歌浦と新和歌浦」を検索しても、該当するものが出てきません。
当方が所持するものの表紙の題名は「名所案内 新和歌浦と和歌浦」で、奥付は近代デジタルライブラリーにてうかがわれるものとまったく一緒です。また後表紙には「米栄別荘 米栄支店」の文字が。

従ってこの本については、「あしべ屋ヴァージョン」と「米栄ヴァージョン」とがあるということになるでしょう。でも、他にもヴァージョンがあるのではないか。その疑念は全部を見ないと拭えません。少なくとも国会図書館関西館と和歌山県立図書館が所蔵している模様。
しかし「あしべ屋」と「米栄」とが組んで2種類の本を作ったのであって、他の版はないのではと考えることもできそうです。というのは、「和歌の浦名勝拾貳景」という同じ題名を有する一枚ものの刷り物で、「あしべ屋」と「米栄」は内容の異なる写真を並べたものを別々に出したりしているからです。このふたつの老舗の旅館は、共同して和歌浦の繁栄を模索したのではないでしょうか。

教訓としては、和歌浦に関する明治・大正時代の出版物にヴァリアントがあって、うかつに引用はできないということでしょうか。少なくとも、どこが所蔵している本なのかを明記する必要が出てくると思います。
こういう経験は初めてで、ナポレオンの「エジプト誌」、Description 1809-1818にいくつかのヴァリアントがあるとは聞いていましたけれど、明治時代の刊行物に見られるとは思い至りませんでした。この場合は「エジプト誌」のような彩色の有無ではなく、内容の変更も伴っているわけですから、慎重な検討が望まれます。文献の探索が一層面倒なことになるわけで、どこから手をつけたらいいのか、呆然としています。「紀伊和歌浦明細新地図」岡田 1909)も同様。

160ページ以上にわたって記述された2010年の和歌山県教育委員会和歌の浦学術調査報告書は重要。PDFを無償でダウンロードすることができます。示されている和歌の浦に関する詳しい年表は、特に参考になります。「和歌山市史」の改訂簡略版に相当。

3ページでは執筆の担当を明記しており、「第2章第1節地質を吉松敏隆、第2節植生を高須英樹、第3節生物を古賀庸憲、第4節地理的環境と考古資料を和歌山市教育委員会前田敬彦、第4章第3節(2)を菅原正明、第4章第3節 4. 第4節近現代を米田頼司、その他は県教育委員会が作成した案の監修を、古代を村瀬憲夫、中世を柏原卓、近世を藤本清二郎、米田頼司、庭園に関しては高瀬要一が行い、総括を水田義一会長が行うこととした」とあって、錚々たる執筆陣です。

||||||||||||||||||||||||||||||

2013年12月6日追記:
その後、「あしべ屋ヴァージョン」や「米栄ヴァージョン」の他に、「望海楼ヴァージョン」も存在することを知りました。和歌浦の旅館の歴史を調べるに当たっては、こうした異本が数種類ある点を前提に研究を進めることが今後、求められるかと思われます。

2013年4月28日日曜日

塩崎 1893


最近、和歌浦の妹背山に残る平屋の木造家屋について共同執筆で書いたのですが、関連史料の探索を今も続けています(cf. 濱口 1919岡田 1909)。

西本直子・西本真一
「和歌浦『あしべ屋別荘』と夏目漱石」
武蔵野大学環境研究所紀要 第2号(2013)、武蔵野大学環境研究所
pp.77-93
http://issuu.com/naokonishimoto/docs/a_a_soseki

「あしべ屋」というのは当時非常に人気のあった料理旅館で、格式も高く、皇族が訪れた他、南方熊楠が孫文と再会を果たした場所もこの旅館。田山花袋が夜に偶然、この建物をちらっと見たという紀行文も発表されています。しかし夏目漱石が和歌山市へ来て講演をおこなった際、宿泊予定だった宿でもあって、こちらの方が有名(漱石の日記を参照)。この経緯に関しては、溝端佳則氏による多数の図版を交えた詳しい論考をお読みください(「和歌山県立文書館だより」第31号、平成23年7月)。

https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/kanko/tayori/tayori31.pdf

漱石が和歌山市を訪れた様子は多少かたちを変えながら、後期の代表的な長編小説「行人」に活写されました。漱石が和歌浦へ来た時期の旅館の宿泊料も分かっており、あしべ屋の宿代はこの地域において最も高額であったことが知られます。
「あしべ屋別荘」は、その中でも別格であったらしく、妹背山と呼ばれる小さな島に設けられ、静謐な雰囲気の中に建てられた平屋の宿でした。海水を沸かして入浴する「潮(汐)湯」の設備を謳っている広告が残っており、健康に良いと宣伝されています。当時の海水浴は娯楽と言うよりも、健康の維持や治療方法の一環として医学的な効能の喧伝が図られたようで、その様子を伝える以下の刊行本の引用が時折、なされています。

塩崎毛兵衛
「紀伊和歌浦図」
塩崎毛兵衛
明治26(1893)年
十二丁
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765544

一丁 和歌浦海水浴
二丁表 芦邊浦
二丁裏・三丁表 和歌浦全図
三丁裏 愛宕大権現ノ図
四丁表 秋葉大権現ノ図
四丁裏 五百羅漢寺ノ図
五丁表 東照宮ノ図
五丁裏・六丁表 旧四月十七日東照宮御祭禮
六丁裏 七丁表 (同)
七丁裏 南龍社ノ図
八丁表 天満宮ノ図
八丁裏・九丁表 出島濱及片男波ノ図
九丁裏 玉津島神社ノ図
十丁表 観海閣ノ図
十丁裏・十一丁表 芦辺屋ノ図
十一丁裏・十二丁表 芦辺屋ヨリ名草山望ノ図
十二丁裏(奥付)

塩崎毛兵衛の名を2回記しています。最初は執筆者、書名の後に続くのは発行者で、ここでは彼は両方の役割を果たしているため、こうなります。
墨版、薄墨版、肌色の版という合計3色がうかがわれますが、肌色の版は「旧四月十七日東照宮御祭禮」を示した合計4ページの見開きでしか見られません。4月17日というのは徳川家康の命日。
この小さな冊子はあしべ屋が出した旅館広告のパンフレットというべきもので、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている点は非常に便利です。国会図書館関西館に収蔵されている本をデジタル化したもの。しかしモノクロ表示ですし、解像度も高くないのが残念です。和歌山県立図書館も初版を1冊、収蔵しています。

問題なのは、明治26年の初版と明治29年の改訂版とがあることで、しかもこの点があまり知られていません。明治29年の改訂版には、あしべ屋の主人、薮清一郎による二丁の広告「料理業蘆邉屋廣告」が巻末に付されていますけれど、実は初版にこの広告が足されている冊子も存在します。
初版と改訂版との大きな違いは、上記した各ページの表題の字体が異なること、「和歌浦全図」において幾らかの異同があること、また「芦辺屋ノ図」の左下で船渡しの賃金が具体的に記されているかどうかといった点にあります。奥付の構成も両者では異なっており、こうした違いが興味深い。
今、諸研究機関に所蔵されている全部の「紀伊和歌浦図」を閲覧しようとしているところですけれども、たぶん初版も改訂版もそれぞれ2種類ある、そういうことだと思います。

全面改訂版、あるいは続編ともいうべきものがあって、それが塩崎毛兵衛「最新写真銅版 和歌の浦名所図」(明治42年)です。この冊子の冒頭の2ページの文章は「紀伊和歌浦図」の書き出し部分とほとんど一緒。ただ路面電車が当時開通したので、その利便性を付記しており、路線図もあわせて掲載しています。「最新写真銅版 和歌の浦名所図」の奥付には薮清一郎の名が出てきません。でも影で糸を引いていたことは確からしく思われます。たくさんの写真がこの「和歌の浦名所図」では並びますが、最初の写真は旅館あしべ屋本館の全景です。

この頃、和歌浦は観光地として急激に変化を遂げ、それに伴って自在に広告の媒体を駆使し、さまざまな版が矢継ぎ早に出されたのではないでしょうか。小冊子だけではなく、一枚の大きな版に刷られた写真集や、絵はがきも併行して大量に印刷されたようです。絵はがきは組写真としてパノラマが工夫され、同時にバラバラにして使えるようにもなっています。ガラス原版から鶏卵紙に焼き付けたもの、コロタイプ印刷によるもの、さらにオフセット平板によるものへと移る印刷技術の変容に応じながら、観光業に携わる者たちは旅館と和歌浦の姿を発信し続けました。
江戸時代末期から明治・大正時代にかけてのマルチメディアの展開と活用の例を見る上でも、この動きは注目されます。後発であった旅館、たとえば望海楼とのメディア(広告媒体)の使い方の違いも面白い。

あしべ屋は大正時代の末期に旅館を廃業しますが、しかし後年の昭和4年にあしべ屋の経営主は坪内逍遥の作によるあしべ踊り・音頭なるものを発表しているようです。地域全体の活性化を願ったあしべ屋による一連の動向は今一度、見直されるべき時期なのかもしれません。