ハンガリーによる古代エジプト調査の歴史は100年を超えており、その過程はたとえば、Vörös 2007が個人史と重ねあわせながら示しています。
Studia Aegyptiacaのシリーズは、ハンガリーのブダペストから出されているエジプト学関連の刊行書の名前で、創刊は1974年。早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されているはず。シリーズを新しく改めて、その最初の巻として刊行。
László Kákosy, Tamás A. Bács, Zoltán Bartos, Zoltán I. Fábián, Ernö Gaál;
Stereo-photogrammetry, György Csáki and Annamária Csáki.
The Mortuary Monument of Djehutymes (TT 32), 2 vols (Text and Plates).
Studia Aegyptiaca, Series Major I
(Archaeolingua Alapítvány, Budapest, 2004)
xi, 372 p. + xi, 115 Plates.
Table of Contents:
List of Plates (vii)
Foreword (p. 1)
Editorial Remarks (p. 5)
Situation, Type and Architecture (p. 9)
Decoration Programme in TT 32 (p. 29)
The Owner of TT 32 (p. 355)
Abbreviations and Bibliography (p. 361)
なお、出土遺物については後年、第2巻として出版されているようですが、当方は未見です。
Gábor Schreiber,
The Mortuary Monument of Djehutymes II:
Finds from the New Kingdom to the Twenty-sixth Dynasty.
Studia Aegyptiaca, Series Major II
(Archaeolingua, Budapest, 2008)
224 p.
隊長であったLászló Kákosyが亡くなっているため、この書ではZ. I. Fábiánによって書かれている章が目立ちます。
壁画の報告に多くが費やされていることが、目次からも分かります。一方、建築に関しては、冒頭に20ページほどを記しているだけです。エジプト学における報告書ではこのように、建築に関する情報はいつも短めですが、専門家の数が少ないのだから仕方ありません。
以下、例によって建築の観点からのみ、気がついた点を記します。
この墓には個人的な興味があって、曲がりながら一周して下っている、狭くて長い廊下にヒエラティック・インスクリプションが何箇所かに残っているため、これを手がかりとして一日当たりの掘削量を求めたりしたことがあります。時折、こうした断片的な文字史料が掘削墓には見受けられるのですけれども、分析に耐えうるような、複数の文字がセットとして残っている例はきわめて稀。
工人たちが少しずつ掘り進めながら日付と長さを記録していったという前提のもとに、いくつかの読み方に関してはハンガリー隊の仮報告で見られるものとは異なる解釈を提案したのですが、どうやら半分ほどは受け入れられたらしい模様。
部屋の大きさに関しては一応のキュービット換算をおこなっていますが、あまり立ち入った考察はなされていません。
地上の斜面に、わずかに残存していたピラミディオンについては、1ページしか記していませんけれども、
"The width of the pyramid at the basis was 14.55 m (the platform on which it was built 15.1 m). The rear (upper) edge measured 9.4 m, thus the ground plan took the form of a trapezium with a height of about 11 m. The angle of inclination (69-72°) may indicate that the height of the building may have been 13-15 m which seems, however, hardly conceivable because of the character of the terrain. If one assumes a change in the inclination, it may have been considerably lower. It was built, like all the other private pyramids, of mud bricks. (Size of the bricks: 34×16.5-17×9.5 cm)."
(p. 27)
と面白い情報が併記してあって、足下で確認されたらしい勾配を尊重する一方、斜面上に立てられたために台形状に残った痕跡からピラミディオンの高さを求めているようです。これはピラミディオンの水平断面のかたちが常に正方形となるという特徴を利用して算出しているわけですが、詳しい計算方法が示されても良かったかも。
というのは、図版編のPlate CXVを見ると、ピラミディオンの最下端における標高は+99.81メートルであり、他方、これより高い位置に残存する北辺の高さが+102.35メートル。つまり、テキストを信じる限り、約2メートル上がったらピラミディオンの一辺が14.55メートルから9.4メートルへと短くなったことを意味するはずですから、その一辺の差は5メートルほど。だから、1メートル高くなると2.5メートル分、一辺の長さが短くなるという勾配であったとみなされます。
これを踏まえると、復原されるピラミディオンはそれほど高くなりません。その疑問が、意識されながらも曖昧なまま提示されている状況です。ピラミディオンの勾配を気にしている割には、セケドの話は出てこないし、また
Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Peeters Press, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.
が引用されていない点も不思議なところ。
おそらくは
E. Dziobek,
"Eine Grabpyramide des frühen NR in Theben",
in MDAIK 45 (1989), pp. 109-132.
でうかがわれる内容との整合性を優先したのかと思われますが、詳細を知りたい点ではあります。
壁画の説明に際しては、Fábiánを軸に4人ほどが手分けして書いたりしていて、欧米に留学した経験をお持ちの日本の若手の方々にとっては「おいおい大丈夫か」と思われる報告書かもしれません。しかし個人的には、親近感を抱く刊行物。ここには日本と似た状況がハンガリーにおいても存在することが、充分に暗示されています。Vörös 2007もそうした目で改めて読むと、得るところが少なくない書。
この厄介な状況を脱して日本人であることをやめ、能力を活かして海外で活躍し続けるか。それとも日本に戻り、さまざまに気配りしながらやっていくのか。かつて吉本隆明が昔にどこかで書いていたことでもあります。中途半端な報告書だと断ずるのはたやすいのですけれど、日本人の研究者がこの報告書を吟味するという中には、重いわだかまりが再度、姿をあらわすはずです。