日本工業大学の
成田剛氏が授業中に倒れ、そのまま亡くなったという知らせが伝えられた後、ひと月があっという間に経ちました。
未だに信じられない思いが続いています。
カンボジア遺跡の修復事業を手がけた
JSA(
日本国政府アンコール遺跡救済チーム)の現地所長として彼がシェムリアプに長く赴任していた時期は、当方が同じくJSAの団員としてカンボジアに通った頃と重なっており、その際には細やかな便宜をたくさん図っていただきました。当節の感謝の言葉を伝える機会を永遠に失った意味を、改めて考えています。
成田剛氏とともに初めて海外の建築調査に出かけたのは、1984年の年末になされたインド・スリランカ建築調査で、
黒河内宏昌氏が調査隊長を務めたこの時の建築調査がとても面白かったので、翌年にエジプト建築調査に誘われた時も参加することを決め、以後もエジプト建築調査を続行したという個人的な経緯があります。
成田剛氏は、当方が建築調査を初めて体験した時の数少ない仲間のひとりでした。
「
史標 (Shihyo)」という小さな刊行誌の編集に僕は関わっていましたが、ここに
成田剛氏がいくつかの論考を寄せています。
史標("Shihyo": ISSN 1345-0522)
http://www.linkclub.or.jp/~nishimot/Shihyo-J.html
当冊子に投稿された
成田剛氏の論文をリストアップし、英語による書誌の案をここでは併記しました。
成田剛氏の業績を海外へ知らせることを念頭に置いていますけれども、ここに掲げた題名の英訳については当方が勝手に試訳したものですから、今後訂正すべき点が多々出てくるかと思います。あくまでも試案として提示しておきます。
Bruguier 1998-1999の著作に関しては以前、触れたことがありました。
Bruguierにこのような情報をメールで知らせるべきかどうか。知らせた方が良いとは思いますが、添付すべきレジュメなど、手続きを考えると迷うところです。
成田氏が「
史標」に投稿した論考のうち、カオ・プラ・ヴィハン(プレア・ヴィヘア / プレア・ヴィヒア [Preah Vihear])に触れたものは特に印象に残り、「その2」において何が書かれるはずであったのか、個人的には興味が惹かれます。
最後に投稿された論考のタイトルは「最近したこと考えたことから」でした。「史標」の創刊以降の連続投稿の努力と、その後に問題意識を拡げようとした格闘の様子が推察されます。
NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand: Rules for Asymmetry" (in Japanese),
Shihyo 1 (September 1, 1990), pp. 21-24.
成田 剛
「タイのクメール建築:アシンメトリーの法則」、
「史標」第1号(1990年9月9日)、pp. 21-24。
NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Laos: Reconnaissance Records for Three Days to Wat Phu" (in Japanese),
Shihyo 2 (December 12, 1990), pp. 23-28.
成田 剛
「ラオスのクメール建築:ワット・プーを訪ねた3泊2日の調査旅行記」、
「史標」第2号(1990年12月12日)、pp. 23-28。
NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 2: Prasat Mueang Sing, The Westernmost Khmer Monument" (in Japanese),
Shihyo 3 (March 3, 1991), pp. 27-30.
成田 剛
「タイのクメール建築 2:プラサート・ムアン・シン、最西端のクメール建築」、
「史標」第3号(1991年3月3日)、pp. 27-30。
NARITA, Tsuyoshi
"Temples and Shrines in Laos: Vientiane and Luang Phabang" (in Japanese),
Shihyo 4 (June 6, 1991), pp. 1-8.
成田 剛
「ラオスの社寺建築:ヴィエンチャンとルアン・パバーン」、
「史標」第4号(1991年6月6日)、pp. 1-8。
NARITA, Tsuyoshi
"The Pentagonal Monuments of Pagan" (in Japanese),
Shihyo 5 (September 9, 1991), pp. 19-26.
成田 剛
「The Pentagonal Monuments of Pagan」、
「史標」第5号(1991年9月9日)、pp. 19-26。
NARITA, Tsuyoshi
"Residential Architecture in Malaysia: Folk House Park, Mini Malaysia" (in Japanese),
Shihyo 6 (December 12, 1991), pp. 23-28.
成田 剛
「マレーシアの住宅建築:マレーシアの民家園、ミニ・マレーシア」、
「史標」第6号(1991年12月12日)、pp. 23-28。
NARITA, Tsuyoshi
"Khmer Architecture in Thailand 3: Khao Phra Viharn, Part 1" (in Japanese),
Shihyo 8 (June 6, 1992), pp. 23-26.
成田 剛
「タイのクメール建築 3:カオ・プラ・ヴィハン(その1)」、
「史標」第8号(1992年6月6日)、pp. 23-26。
NARITA, Tsuyoshi
"From the Recent Activity and thought" (in Japanese),
Shihyo 10 (December 12, 1992), pp. 5-8.
成田 剛
「最近したこと考えたことから」、
「史標」第10号(1992年12月12日)、pp. 5-8。
成田剛氏の命日となった2014年2月8日の土曜日、東京は記録的な大雪でした。その一週間前にはカンボジアのバプーオン遺跡の保存修復に力を尽くしていた
Pascal Royèreが病死したというメールの通知がフランス極東学院(
EFEO)から届いたばかりでした。
以前、パスカル氏の現場に「一緒に行きましょう」と成田氏の御厚意により連れて行ってもらい、視察したこともあったのですけれども、その2人とも亡くなってしまいました。
クメール建築に関わった日本の専門家と言えば、長年にわたり研究を進められてきた
片桐正夫先生が2012年に亡くなられ、またバンテアイ・クデイの建築に関し調査を続けられてフランス語で博士論文を執筆した
荒樋久雄氏も2004年に命を落とされています。
JSAの現地所長を務めた
桜田滋氏も2009年に急逝しました。JSA団員の
小榑哲央氏が2002年、交通事故によって亡くなったことも記憶に強く残っています。
いつも元気であった
成田剛氏が亡くなるとは、まったく思っていませんでした。
CiNiiで
成田剛氏が執筆した学術論文はネットで検索できますが、実は他にも2000年以降に書かれた、公にされていないレポート類がたくさん存在するように思われます。それらにも陽の光が当たる機会があったらと願っています。これまで撮り貯めて来た遺跡の写真類をすべてデジタル化した、とも言っていました。
昔、「ガーリック・チップス」の2階で共に良く飲みました。当時は溌剌としたサッカー青年でもありましたっけ。
去年の7月26日の夜、成田氏と黒河内氏、当方の3人で飲みました。それが彼と会った最後の機会となりました。残念です。
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015年2月8日、追悼文集が御両親の編集によって上梓されました。
成田十次郎・瑳智子編
「東南アジア仏教遺跡の保存修復にかける ―追憶 成田剛―」
文教社、2015年、177 p. + XXVII
0 件のコメント:
コメントを投稿