2009年2月28日土曜日

Dodge and Ward-Perkins (eds.) 1992


J. B. ワード=パーキンズは古代ローマ建築の研究で知られている存在。建築作品だけではなく、それを作り上げている石材にも強い関心を抱き、大理石の研究にも着手しました。
「いにしえの大理石」といったような意味の題名を有する論考集。

Hazel Dodge and Bryan Ward-Perkins (eds.),
Marble in Antiquity:
Collected Papers of J. B. Ward-Perkins.

Archaeological Monographs of the British School at Rome, No. 6
(British School at Rome, London, 1992)
xi, 2 colour plates, 180 p.

Contents:
Chapter One Introduction
Chapter Two John Bryan Ward-Perkins: An Appreciation
Chapter Three John Bryan Ward-Perkins: Bibliography of Published Works
Chapter Four Materials, Quarries and Transportation
Chapter Five The Roman System in Operation
Chapter Six The Trade in Sarcophagi
Chapter Seven Taste and Technology: the Baltimore Sarcophagi
Chapter Eight 'Africano' Marble and 'Lapis Sarcophagus'
Chapter Nine Nicomedia and the Marble Trade
Chapter Ten Columna Divi Antonini
Chapter Eleven Dalmatia and the Marble Trade
Chapter Twelve The Trade in Marble Sarcophagi between Greece and Northern Italy
Chapter Thirteen The Imported Sarcophagi of Roman Tyre
Appendix 1 Main Quarries and Decorative Stones of the Roman World
Appendix 2 Bibliography of Marble Studies

大理石は古代ギリシア以降、好んで用いられた石材。純白なものは特に重視されました。この傾向は今でも続いています。大理石は光を透過させる石でもありますから、薄く切ったものは窓に嵌め込み、明かり取りにも用いることができました。瓦が大理石で造られた場合のパルテノン神殿の室内の明るさに関する研究もなされています。
きめが細かくて柔らかい上に粘りがあり、精妙な加工に向いている石材であったことが人気の秘密であったように思われます。透過性も備え、「光を蓄える石」としか表現する方法がない性質を有していた点が「かなめ」。
この石材について、石切場の研究から加工の方法、運搬方法、交易など、およそ思いつかれることは基本的にすべて網羅されているのが良く了解される本。

カラー図版では色とりどりの大理石が紹介されており、巻末では主要な大理石や色つきの他の石材の石切場がまとめて地図とともに例示されています。
大理石研究についての文献リストが重要で、

A General Marble
B Identification and Analysis
C Quarries, Quarrying and Trade
D Shipwrecks and Transport
E Architectural Use of Marble
F Sarcophagi
G Sculptors, Sculpture and Statuary
H Carving and Tools
I Later Use, Spolia and Reuse
J Prices, and Diocletian's Edict of Maximum Prices AD 301
K Other Works Frequently Cited

と細かく分類され、有用。15年前の作成ですけれども、あとはJournal of Roman ArchaeologyのReview articleなどで補うことができます。

2009年2月27日金曜日

Clarke and Engelbach 1930


古代エジプト建築がどのように造られたかを扱う本で、建築家たちによる専門的な考察が含まれます。このように建築構法を考えた書としては、石造に限ったものとしてD. アーノルドの新しい本が現在ではすでに出ていますが、クラークとエンゲルバッハの本の言わば改訂版に相当する一冊。
クラークとエンゲルバッハの本については、複数の安価なレプリント版が広く出回っています。長く読み続けられている、重要な書。

Somers Clarke and R. Engelbach,
Ancient Egyptian Masonry:
The Building Craft
(Oxford University Press, London, 1930)
xvi, 242 p.

Contents:
I. The Earliest Egyptian Masonry
II. Quarrying: Soft Rocks
III. Quarrying: Hard Rocks
IV: Transport Barges
V. Preparations before Building
VI. Foundations
VII. Mortar
VIII. Handling the Blocks
IX. Dressing and Laying the Blocks
X. Pyramid Construction
XI. Pavements and Column Bases
XII. Columns
XIII. Architraves, Roofs, and Provision against Rain
XIV. Doors and Doorways
XV. Windows and Ventilation Openings
XVI. Stairs
XVII. Arches and Relieving Arches
XVIII. Facing, Sculpturing, and Painting the Masonry
XIX. Brickwork
XX. Egyptian Mathematics
Appendices

日乾煉瓦や、あるいは古代エジプトの数学の章も含められており、包括的に扱おうとしている様子がうかがえます。屋根のところでは神殿などで見られる周到な排水計画などについて触れています。ただ、世界最初の石造建築である階段ピラミッドの報告書の刊行は1936年で、そうした成果が充分盛り込まれていません。

29ページでは、アスワーンの未完成のオベリスクの近くで見つかった「労働者別の掘削進行表」が扱われています。これはエンゲルバッハの報告書でお馴染みのもの。3キュービットの計測棒が用いられた可能性も、再びここで記されています。
ただし、註が設けられており、この3キュービットの長さの棒の使用を思いついたのは自分たちではなく「ピートリ卿である」と新しく書き加えられていて、どうして何年も経ってからこういう事実が記されたのか、不思議なところ。

ケンプはさらに近年、3キュービットの棒ではなく、労働者自身の身長に基づいて計測がおこなわれたのではないかと考察しています。70年経って新たな解釈が提示されたわけで、少数の目利きたちによって建築に関する考察がこうしてゆっくりと進み、次第に深められていく様子が分かります。

2009年2月26日木曜日

CoA I-III, 4 Vols. (1923-1951)


「アケナテン(アクエンアテン)の都市 City of Akhenaten」というのはアマルナのことで、ピートリが19世紀末に中枢部を発掘した後、同じイギリス隊によって私人墓の調査がなされました。次にはドイツ隊が住居地域の発掘を始めましたが、第一次世界大戦により中断。
戦争終了後、イギリス隊は再びこの地で本格的な調査を開始します。その成果を纏めたもので、全3巻4冊からなる報告書。専門家は"CoA"としばしば省略して引用をおこないます。この発掘によってアマルナの全貌がほぼ明らかにされました。レプリントも出ていますが、それも入手が難しくなりつつあります。

T. Eric Peet and C. Leonard Woolley,
with chapters by Battiscombe Gunn and P. L. O. Guy,
drawings and plans by F. G. Newton,
The City of Akhenaten, Part I:
Excavations of 1921 and 1922 at El-'Amarneh.
38th Memoir of the Egypt Exploration Society (EES)
(EES, London, 1923)
vii, 176 p., LXIV plates.

H. Frankfort and J. D. S. Pendlebury,
with a chapter by H. W. Fairman,
The City of Akhenaten, Part II:
The North Suburb and the Desert Alters;
The Excavations at Tell El Amarna during the Seasons 1926-1932.
40th Memoir of EES
(EES, London, 1933)
ix, 122 p., LVIII plates.

J. D. S. Pendlebury,
with chapters and contributions by J. Cerny, H. W. Fairman, H. Frankfort, L. Murray Thriepland, Julia Samson,
The City of Akhenaten, Part III:
The Central City and the Official Quarters;
The Excavations at Tell El-Amarna during the Seasons 1926-1927 and 1931-1936.
2 Vols. (Text and Plates)
44th Memoir of EES
(EES, London, 1951)
xix, 261 p. + xii, CXII plates.

アマルナの綴りが第1巻では異なり、また執筆者も違う点に注意。T. E. ピートはこの同じ年にリンド数学パピルスの本を出していますから、相当忙しかったはず。C. L. ウーリーはこの後、エジプトを離れてウルの発掘の指揮に携わります。
調査に関わったJ. D. S. ペンドルベリーもJ. サムソンも、それぞれアマルナに関する一般向けの本を書いていますが、研究書ではまず触れられません。

広大なアマルナで誰がどこを掘って、それはどの報告書の何ページに載っているのか、こうして長い年月を重ねるとともに当然、情報は錯綜してくるわけですが、ケンプらは全体地図を作成し直した際に建物ごとの索引を付しており、きわめて便利。どのような情報が本当に必要とされているかを充分に知った人による本の作り方。

Barry J. Kemp and Salvatore Garfi,
A Survey of the Ancient City of El-'Amarna.
Occasional Publications 9
(EES, London, 1993)
112 p., 9 maps.

多色刷りの地図で、つなぎ合わせるとかなりの大きさとなります。もっとも詳しいアマルナ王都中心部の図面。

2009年2月25日水曜日

Klemm and Klemm 2008 (revised ed. of 1993)


古代エジプトの石切場を扱う唯一の本。ドイツ語で出版されたものが英訳されました。ドイツ語による初版に関し、Journal of Roman Archaeologyの書評論文(review article)で「索引がない」と注文がつけられたりしていた部分は改善されています。

Rosemarie Klemm and Dietrich D. Klemm,
Stones and Quarries in Ancient Egypt
(The British Museum Press, London, 2008.
Originally published as "Steine und Steinbrueche im alten Aegypten", (Springer-Verlag, Berlin, 1993), xv, 465 p.)
xiii, 354 p.

奥さんがエジプト学者で旦那が岩石学者という二人による著書。夫婦あるいは家族でエジプト学を進めている例はいくつか知られており、決して珍しくはありません。
Dieter Arnold、Dorothea Arnold、Felix Arnoldたちの言わば「聖家族」や、初期キリスト教建築研究のGrossmann夫妻(ドイツ人の夫とギリシア人の妻)、かつてのZivie夫妻、また最近ではフランスの双子のエジプト学者(!)、Marc GaboldeとLuc Gaboldeたちの活躍が有名です。

判型が大きくなって見やすくなった点は評価されます。本文には改訂が認められ、入れ替えた図もまた見られます。
アコリスの石切場に関しては、しかし川西宏幸先生と辻村純子先生によって継続されている調査の成果がまったく反映されていません。近隣のザヴィエト・スルタンの未完成巨像についても同様で、惜しまれます。

クレム夫妻はあちこちの石切場を調べて、鑿跡から時代が判定できるという見方をしています。でもこの見解はあまり説得力がなく、D. アーノルドも否定的な見解を述べており、支持する者はきわめて少数です。鑿跡に基づいた年代判定が、まだエジプト全土には通用しないということです。
未完成巨像に関し、「アメンヘテプ3世時代であろう」と記していますけれども、デモティックによる書きつけが多数発見されていて、これがプトレマイオス朝まで降るのは確かであると思われます。「新王国時代の鑿跡が見られる」とクレムたちは報告しており、彼らの判断基準はここでも疑わしい。

シーディ・ムーサの石切場についての記述も興味深い。石切場の天井に残るいくつもの数字について、「掘り出された石材の大きさであろう」と見解が述べられていますが、おそらくこの見方は誤りで、岩盤が掘削された量の記録と見た方が合理的です。シーディ・ムーサでは4つの数字が並んでおり、これが何を意味するか、また王朝時代の石切りの方法とどのような関連があるか、これからの詳しい考察が必要。

エジプトにおける石切場調査に関しては、アメリカの岩石学者J. ハーレルがいて、彼の意見が待たれます。特にアマルナ近辺の石切場に関する最終報告が楽しみ。
石切場の調査が本格的に開始されたのは最近で、調査者の目的も決して同じではなく、それらがどうエジプト学の蓄積に結びついていくかはこれからの問題です。

作業工程をつぶさに追うことはもはや、些末的な作業に属します。労働者集団の組織の問題や、さらには掘削に関わるもうひとつの謎の単位、「ネビィ nbj」とどう関わるかが重要です。
「ネビィ」については、長さの単位であるかどうかさえも今なお、はっきりしていません。新しい包括的な見方が望まれており、そこが楽しみなところ。

2009年2月24日火曜日

Petrie 1894


エジプトのアマルナ王宮に関する最初の発掘報告書で、最重要となる本。都市の中枢部が掘られ、王宮の大列柱室から見事な床面の彩色画が発見されました。現在、カイロのエジプト考古学博物館の一階の中央吹抜けホールに展示されているのがこれです。
もっとも、すごく大きな家型のガラスケースに覆われていて見にくく、また彩色画は復原して加筆がなされているために、新たに描き起こした部分だけを見て帰る人が多いのが残念。
もちろん色の鮮やかなところは、現代の職人が真似して描いた部分です。退色し、モティーフが良く分からなくなっている部分こそが3400年前の床絵。

W. M. Flinders Petrie,
Tell el Amarna
(Methuen & Co., London, 1894)
iv, 46 p., XLII plates.

アマルナ王宮が発掘された経緯は劇的です。通常、日乾煉瓦造の建物が折り重なる都市遺構は発掘調査が大変なので敬遠されがちだったのですが、ここから楔形文書の記されたタブレット(粘土板)が見つかって、急遽、イギリスの調査隊が編成されました。
きっかけは、或る農婦が田畑の肥料となる泥煉瓦を探すために遺跡を掘り返したこと。大英博物館のW. バッジのところへ、「こんなものが見つかったけど、買ってくれないか」とこのタブレットが持ち込まれました。アッカド語が読めた彼は資料の重要性にすぐさま気づいて、どこからこれが掘り出されたかを教えろと問い正します。
古代の外交文書として高名な「アマルナ文書」が、こうして世に知られることとなりました。

「アマルナ文書」の訳業に一生を賭したのはW. L. モランで、英訳も出ています。国家間の「よろしくお付き合いのほどを」という豪華な贈り物のリスト、「隣国からいじめられていて、もう大変です」という泣きの手紙、「王さまの歯が痛いんだけれども」という相談などが記されており、たいへん貴重。

William L. Moran (edited and translated),
The Amarna Letters
(The John Hopkins University Press, Baltimore, 1992.
Originally published as "Les Lettres d'El-Amarna",
Editions du Cerf, 1987)
xlvii, 393 p.

和訳は飯島紀先生の「古代の歴史ロマン11、エジプト・アマルナ王朝手紙集 :王への手紙 王からの手紙」(国際語学社、2007年)も出ているけれども、数十通の抄訳となるのが惜しい。
アマルナ王宮の華麗な壁画は、最初の発掘報告の35年後に大判の画集として出版されています。植物が繁茂し、鳥たちが飛び交う場面をあらわしている通称「グリーン・ルーム」の壁画は特に有名。

H. Frankfort ed.,
with contributions by N. de Garis Davies, H. Frankfort, S. R. K. Glanville, T. Whittemore;
Plates in colour by the late Francis G. Newton, Nina de G. Davies, N. de Garis Davies,
The Mural Paintings of El-'Amarneh.
F. G. Newton Memorial Volume
(The Egypt Exploration Society (EES), London, 1929)
xi, 74 p., XXI plates.

この「グリーン・ルーム」の壁面には小さな矩形の窪みがいくつも設けられており、鳥を飼うための巣箱を意図したものではないかとも言われていますが、詳細は不明です。ケンプはある程度、その可能性を認めています。

Kemp and Weatherhead 2000

の文献における、最後のディスカッションの項を参照のこと。

2009年2月23日月曜日

Kemp (ed.) 1995


11年間に渡って刊行され続けたアマルナ・レポートの厚い第6冊目。最近の発掘調査の成果を収めていますが、これ以降、アマルナ・レポートはしばらく刊行されていない模様。近年、成果はむしろモノグラフで出版されています。
もっとも、「次号のアマルナ・レポートで発表する予定」と158ページには記されており、続巻が期待されるところです。

Barry J. Kemp (ed.),
with contributions by A. Bomann, A. D. Boyce, J. A. Charles, B. J. Kemp, M. D. S. Mallinson, I. J. Mathieson, P. T. Nicholson, C. Powell, P. J. Rose, D. J. Samuel, and F. J. Weatherhead,
Amarna Reports VI.
Occasional Publications 10
(The Egypt Exploration Society (EES), London, 1995)
vii, 462 p.

以下に示す通り、最初はこのシリーズ、年報として出すことが目論まれたのではないかと思われるのですが、第5巻と第6巻との間には6年の開きがあります。そのためか、この号ではページが倍増しており、また読み応えもある一冊。

Barry J. Kemp (ed.),
Amarna Reports I.
Occasional Publications 1 (EES, London, 1984)
viii, 211 p.

Amarna Reports II.
Occasional Publications 2 (EES, London, 1985)
ix, 204 p.

Amarna Reports III.
Occasional Publications 4 (EES, London, 1986)
xii, 212 p.

Amarna Reports IV.
Occasional Publications 5 (EES, London, 1987)
vii, 167 p.

Amarna Reports V.
Occasional Publications 6 (EES, London, 1989)
viii, 290 p.

22ページではアマルナ型住居の部屋の大きさに小キュービット(=45cm)の完数が用いられた可能性が指摘されています。四角い外形が定められてから、内側に向かって部屋の寸法が測り取られて行ったという推測は重要で、検討する価値があります。つまり、最も重要と思われる中央列柱室の矩形の寸法は余った長さとなるわけで、興味深い計画方法。住居内の堆積物の量から2階の存在を探る考察もケンプらしい。

210~215ページにわたる図版はきわめて重要で、アマルナの中心部における建造過程と都市の軸線の設定のやり直しが図化されています。カルナック神殿の平面図を裏返しにしてアマルナ王宮の図と重ねて見せるという離れ業もこの中に含まれます。

正誤表が一枚、差し挟まれていますけれども、アマルナから見つかった種子の植物学的な同定に関する表の訂正で、比較の中には「アニス」「セロリ」「フェンネル」「クミン」「パセリ」「ディル」といった名前が並びます。結局、インドに由来する「アジョワン」であろうと判断されており、おそらくは香辛料あるいは薬用として古代から用いられていたのではないかと推察されているのがとても面白い。

2009年2月22日日曜日

Kemp and Weatherhead 2000


アマルナの壁画について,発掘調査隊長と彩色画復原の担当者が最新成果を述べた論文。テラ島(サントリーニ島)の壁画に関する国際シンポジウムにて発表されました。

Barry Kemp and Fran Weatherhead,
"Palace Decoration at Tell el-Amarna",
in S. Sherratt ed.,
The Wall Paintings of Thera:
Proceedings of the First International Symposium
.
Petros Nomikos Conference Centre, Thera, Hellas,
30 August - 4 September 1997, 2 vols.
Vol. I (Athens, 2000), pp. 491-523.

シンポジウムの報告書は全体が1000ページを超える分量で,これを2巻に分け、加えてカラー図版集が別の薄い冊子として付きます。函入りで,厚さが8cmもあります。

シンポジウム自体はエジプトとクノッソス、そしてテラにおける壁画の関連性を討論し、当時の地中海の交易状況、また文化が伝播する様子を明らかにしようという学際的な試みで、J. ショーN. マリナトスなど,ミノア文化研究の第一線で活躍する学者たちが多数参加。
エジプト学の側からは、もちろんM. ビータックもテル・エル=ダバァの彩画片を報告しています。

M. Bietak,
"Minoan Paintings in Avaris, Egypt",
ditto, pp. 33-42.

M. Bietak, N. Marinatos and C. Palyvou,
"The Maze Tableau from Tell el Dab'a",
ditto, pp. 77-90.

F. WeatherheadによるAmarna Palace Paintings (London, 2007)では,アマルナの住居から出土した彩画片についてはほとんど触れていませんでしたが、ここでは王宮との比較も少しだけ述べるなど、アマルナにおける彩画装飾の全貌を知るには欠かせない文献。
マルカタ王宮との相違点も述べられていて、見逃せません。アマルナの王都が廃棄された後に、かなりの人為的な破壊を被ったはずなのですが、数少ない資料を駆使しつつ、全体像を描き出そうとしています。古代エジプトにおける王宮の建築装飾を語る上で、必見の論考となります。

アマルナ王宮の中枢を占める遺構を立体的に描き出している図を新たに作成して挿入しており、これも見事です。分かりやすい工夫を常に心がけている人の発表で、建築の表現には見習うべき点が多々あります。ハッチングを重ね、陰影を巧みに施してモノクロによる立体感を高める方法がとられています。人物像を配してスケール感を出しているのもうまい。

発表の後にディスカッションもおこなわれており、ここで通称「グリーン・ルーム」の壁面に設けられている小さなアルコーヴをどう捉えるか、ケンプの見解が記されていますからとても重要。鳥が本当にここで飼われていたかという可能性について、まったくの否定はしていません。

この論文の和文抄訳を読みたいという向きには、「史標」にて以下の訳が発表されています。

佐藤桂,
「B. ケンプ/F. ウェザーヘッド『テル・エル=アマルナの王宮装飾』」、
史標47(2002)、pp. 5-20.

ただし適当に原文を端折っている部分が見られますので、原文に当たることを強くお勧めします。上述の通り、後続のディスカッションも重要なのですが、この和訳にはまったく含まれていません。

2009年2月21日土曜日

Schijns 2008


ダクラ・オアシスの煉瓦造建築を扱った本で、ダクラ・オアシス・プロジェクトにおける第10巻目の報告書。かなり前から刊行の予告が出ていた書で、ようやく出版の運びとなったようです。

Wolf Schijns,
with contributions from Olaf Kaper and Joris Kila,
Vernacular Mud Brick Architecture in the Dakhleh Oasis, Egypt, and the Design of the Dakhleh Oasis Training and Archaeological Conservation Centre.
Dakhleh Oasis Project: Monograph 10
(Oxbow Books, Oxford, 2008)
vii, 56 p.

Contents:
Chapter I: Introduction to the Project
Chapter II: Geographical and Historical Background
Chapter III: Description of the Mud Brick Architecture
of Dakhleh
Chapter IV: Case Studies of Houses
Chapter V: The D.O.T.A.C.P. Centre

日乾煉瓦の建物を主題とする本は、実はあんまり見ることができません。その意味でこの本は期待されていたのですが、案外と薄いペーパーバックの冊子で、残念でした。

序文には「1997年における踏査(field trip)に基づく報告」とありますけれども、全部で60ページ程度の報告がどうして出版に11年もかかったのか、謎です。写真図版も1997年に撮影されたものであるらしく、本のほぼ半分は図版等で用いられていますから、文章の分量は30ページほど。

特に第4章のケース・スタディでは3軒の家が紹介されていますが、ほとんどが図版と写真で、文章による説明があまりなされていません。2番目の"House 2 in Bashendi"に至っては、文章が11行だけです。

古代の泥煉瓦(日乾煉瓦)についてはスペンサーがカタログを作成し、ケンプが比較的長めの解説を書いたりしています。ラメセウム(ラメセス2世葬祭殿)の穀物倉庫に関しては、かなり詳細な煉瓦の積み方などを記した報告書が出ており、重要。「古代エジプト建築のヴォールト」と題する2巻本も参考になります。

Salah el-Naggar,
Les voutes dans l'architecture de l'Egypte ancienne,
2 vols.
Bibliotheque d'Etude (BdE) 128
(Institut Francais d'Archeologie Orientale (IFAO),
Le Caire, 1999)
ii, 466 p. + ii, 333 p.

煉瓦についてはしかし、まだ触れられていない点がいくつかあって、例えば煉瓦の表と裏が判別できることなど、まだ誰も書いていないように思われます。平滑で中央が凹みがちで、時折指跡やスタンプが残っているのが表面で、小石や砂、また土器片などが張り付き、比較的荒くて縁が張り出しているのが裏面です。
煉瓦の表と裏を識別することにどのような意味があるかと反問する向きもあるでしょうが、裏面では縁が突出するため、煉瓦を計測する時には大きめの値が導き出されてしまいます。泥煉瓦の大きさをもとに建物を比較して調べる際には、注意が必要。

2009年2月20日金曜日

Kemp and Vogelsang-Eastwood 2001


アマルナ王宮都市の外れ、砂漠の方へ入ったところにある労働者集合住居からは、布の断片などが多数見つかりました。約5000点にのぼるというそれらを対象とした分厚い研究報告書。この時代の衣服、また布の織り方を復原しています。

Barry J. Kemp and Gillian Vogelsang-Eastwood,
assisted by Andrew Boyce, Herbert G. Farbrother, Gwilym Owen and Pamela Rose,
The Ancient Textile Industry at Amarna.
68th Excavation Memoir
(Egypt Exploration Society, London, 2001)
(iv), 498 p.

この時代の衣服を探ると言うことになると、情報が限られます。建築家カーの墓などからまとまった量の衣服が箱に収められて見つかってはいるものの、壁画に描かれた絵画資料との対照が必要。
また文字資料にも記載されることがあって、特にヤンセンの大著、Commodity Prices from the Ramessid Period (Leiden, 1975)により、衣服の値段が判っています。
ヤンセンの衣服に関する新たな論考は昨年出版されたばかり。ただし、これは語彙を探った論考で図版はまったく掲載されていません。

Jac. J. Janssen,
Daily Dress at Deir el-Medina:
Words for Clothing
.
Golden House Publications Egyptology 8
(Golden House Publications, London, 2008)
vi, 112p.

さて、本書の著者の一人は古代エジプトの衣服の専門家で、

G. M. Vogelsang-Eastwood,
Pharaonic Egyptian Clothing.
Studies in Textile and Costume History 2
(Leiden, 1993)
220 p.

などを出している人。古代エジプトの衣服については現在、この人の本がほとんど唯一の詳しい書となります。
他にも厚い本、Riding Costume in Egypt (Leiden, 2003)など。

全体はふたつに分かれており、前半は労働者集合住居から出土した布片に関する報告、後半はアマルナにおける布の手工業生産を分析しています。
丸い布片がいくつか出土しているらしいのですが、これは長方形の布地の中央に首を通すために切り抜かれた丸穴に対応する布片と考えられており、一枚の布地から作られた簡単な衣服の展開図も紹介されています。

実際に紡績車や木製の機織り機の小さな断片なども出土しており、これらをもとにして機織り機そのものを復原することもおこなっているのが後半の特徴。しかしながら、この本を単なる技術報告に終わらせていないところが注目され、メディネット・グローブとの比較もなされていて、非常に層の厚い論考が提示されています。
第11章「アマルナにおけるテキスタイル・インダストリー」は全部、ケンプの執筆によるもの。分かりやすい図解もケンプによっています。複雑な機構の図示といったことが得意な人なのだと言うことが良く了解されます。

2009年2月19日木曜日

MMJ 42 (2007)


ニューヨークのメトロポリタン美術館が刊行している学術雑誌(ISSN 0077-8958)で、年一回発行。美術館の会員向けに年4回、配布されるThe Metropolitan Museum of Art Bulletin(ISSN 0026-1521)とは異なります。
この美術館も多くの部門を擁しており、ここに属するスタッフたちの研究成果などが掲載されるため、内容はきわめて多様です。

Metropolitan Museum Journal (MMJ), Vol. 42
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 2007)
184 p.

11本の論考を掲載し、主題の時代順に並べています。
一番最後に載っているのが、ハリー・バートンの写真家としての仕事を紹介している論文。デル・エル=バハリ(ディール・アル=バフリー)における発掘調査の様子を伝える写真が、同じくこの美術館に専属する写真家である筆者によって分析されています。

Bruce Schwarz,
"Harry Burton's Photographs of the Metropolitan's Excavations at Deir el-Bahri",
pp. 173-183.

バートンはツタンカーメンの王墓の発掘風景や遺物の写真を撮影したことで有名。発見によってとたんに忙しくなったハワード・カーターは急遽、助言に従ってアメリカ隊に救援を依頼し、撮影に関してはバートンが出向くことになりました。
ツタンカーメンの墓から発見された遺物の数々や発掘の模様を撮影した膨大な量の写真は、現在はイギリスのグリフィス研究所に収蔵されており、ネットにて通覧できる他、研究用や出版用に写真を有料で取り寄せることもできます。一日では全部を見ることができない量で、他にはハワード・カーターの残した野帳のコピーも公開されていて有用。J. マレク(cf. Málek 1986、またPorter & Moss)による壮大で重要なプロジェクト。

Griffith Institute, 
Tutankhamun: Anatomy of an Excavation
http://www.griffith.ox.ac.uk/tutankhamundiscovery.html

一見、さりげなく写されたかのように見えるバートン自身の作業風景も、計算尽くで撮影されたに違いないと述べられています。

"The cliffs at the upper left give the scene its grandeur. Hatshepsut's temple is visible in the background, but hardly the main interest, while the foreground is out of focus and unimportant. Except for the sphinx at the right, the horizontal row of statuary fragments is undistinguished. This image was made first thing in the morning, when the site was quiet and the air free from dust. In this harsh light, only the white shirts of the two figures glow." (p. 182)

プロの写真家が写真をどのように見ているかがここには書いてあって面白い。一枚の写真の中に写されているさまざまな対象物に序列をつけていくさまが看取され、「真っ白なシャツが輝く人物像」という言い方で視線を引き寄せる対象を指摘しています。

同じように、絵画をどのように見るかを示す論文が以下の論文。ターナーとカナレットとを対照的に扱った論考で、ヴェネツィアの風景を複数描いているふたりの画家の絵を対比させ、描写されている内容が異なっている点を論じています。

Katharine Baetjer,
"'Canaletti Painting': On Turner, Canaletto, and Venice",
pp. 163-172.

ターナーはヴェネツィアの人々にも旅行者たちにも関心がなかったし、建物の細部についてもどうでも良かった、という下りは興味を惹きます。「カナレットは水平に拡がるヴェネツィアの街を描くが、一方でターナーのそれは垂直にある」というような言い方をしており、対極的な扱いが見どころ。

2009年2月18日水曜日

Hoepfner und Schwandner 1994


ギリシア世界における街並みを問う研究書。註の数は700近くに及び、考古学者、文献学者、建築史学者たちが共同して研究を纏めた3巻本のシリーズの最初の本。
300点以上の図版を収めますが、多色刷りを用いて家屋を立体的に描写しており、分かりやすい都市の復原図が並びます。街路の幅や区画の大きさなどを当時の尺度に換算して遺構値を求め、最後の章では比較もおこなっています。
街を縦横に走る道で碁盤目のように覆う都市計画の方法は古代ギリシアに始まりますが、これを包括的に扱ったドイツ考古学研究所刊行の書。1985年が初版で、改訂がなされました。

Wolfram Hoepfner und Ernst-Ludwig Schwandner,
unter Mitarbeit von Sotiris Dakaris et al.,
mit Beitraegen von Joachim Boessneck et al.,
Haus und Stadt im klassischen Griechenland.
Wohnen in der klassischen Polis, Band I.
Deutsches Archaeologisches Institut Architekturreferat,
fuer Zusammenarbeit mit dem Seminar fuer Klassische Archaeologie der Freien Universitaet Berlin
(Deutscher Kunstverlag, Muenchen, 1994.
Zweite, stark ueberarbeitete Auflage)
xx, 356 p.

Inhalt:
I. Kolonien - Streifenstaedte
II. Fruehe demokratische Staedte
III. Hippodamos und das neue Bauten mit Typenhaeusern
IV. Olynth. Eine hochklassische Streifenstadt und ihr Wandel im 4. Jh. v.Chr.
V. Kassope. Bericht ueber die Ausgrabungen einer spaetklassischen Streifenstadt in Nordwestgriechenland
VI. Abdera. Eine hippodamische Stadt in Thrakien
VII. Priene. Eine hippodamische Stadtanlage als Gasamtkunstwerk
VIII. Halikarnassos. Die Hauptstadt des Maussollos
IX. Alexandria. Bebinn einer neuen Aera
X. Dura Europos. Griechen in Mesopotamien
XI. Delos. Die hellenistische Neustadt der Athener (166 bis 69 v.Chr.)
XII. Zusammenfassungen und Ergebnisse

家屋の模型まで作って見せたり、あるいは各都市の姿を1/10,000の図面で示すなど、各所に工夫が見られます。続巻は以下の通り。

Wolfgang Schuller, Wolfram Hoepfner, und E.-L. Schwandner,
Demokratie und Architektur: Der hippodamische Staedtebau und die Entstehung der Demokratie
Konstanzer Symposium vom 17. bis 19.7.1987.
Wohnen in der klassischen Polis, Band II
(1989)

Maureen Carroll-Spillecke,
KHPOS: Der antike griechische Garten.
Wohnen in der klassischen Polis, Band III
(1989)

2009年2月17日火曜日

Dominicus 2004


スイス隊によるテーベのメルエンプタハ王の葬祭殿に関する建築調査報告書のうち、第2巻目。壁画レリーフ片の集成で、葬祭殿の部屋ごと、場所ごとに報告をおこなっています。扱っているのは2000点ほどの断片。石造神殿のレリーフ片で大型片が多いため、1/10や1/20という縮尺の図面を駆使している労作です。
140枚の図版のうち、線描画が90枚、モノクロ写真が45枚、またカラー写真が5枚という構成。この他に本文中には59点の説明図が入ります。

Brigitte Dominicus,
mit einem Beitrag von Horst Jaritz,
Die Dekoration und Ausstattung des Tempels.
Untersuchungen im Totentempel des Merenptah in Theben, Band II.
Beitraege zur Aegyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeitraegeBf), Band 15
(Schweizerisches Institut fuer Aegyptische Bauforschung und Altertumskunde Kairo, Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2004)
173 p., 140 Tafeln.

メルエンプタハの葬祭殿は規模が比較的小さい一方で、新王国時代の典型的な形式を良くとどめている上に、アメンヘテプ3世の葬祭殿から石材を流用して建てたことで知られている遺構。このアメンヘテプ3世の葬祭殿というのがとんでもない幻の建物で、現在はほとんど跡形もなく消え失せていますが、古代エジプトでも最大規模を誇っていた宗教建築でした。もし現存するならば、規模としてはカルナックのアメン大神殿を上回ります。
今日、塔門の前にあった王の座像が残っており、メムノンの巨像として有名。ナイル川が増水した時には周囲が水浸しになるように意図的に計画された葬祭殿としても知られており、見渡す限りの水面に現れ出る「原初の丘」を現世に再現しようとした建物であったことが推定されます。

かつてのアメンヘテプ3世葬祭殿については、同じスイス隊が調査をおこなっており、報告書はすでに

Gerhard Haeny,
mit Beitraegen von Herbert Ricke und Labib Habachi,
Untersuchungen im Totentempel Amenophis' III.
Beitraege zur Aegyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeitraegeBf), Heft 11
(Franz Steiner, Wiesbaden, 1981)
xxv, 122 p., 42 Tafeln, 5 Falttafeln.

として刊行されています。メルエンプタハの葬祭殿の報告書の第1巻目も

Susanne Bickel,
mit Beitraegen von Horst Jaritz, Uwe Minuth, Raphael A. J. Wuest,
Tore und andere wiederverwendete Bauteile Amenophis' III.
Untersuchungen im Totentempel des Merenptah in Theben, Band III.
Beitraege zur Aegyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeitraegeBf), Band 16
(Schweizerisches Institut fuer Aegyptische Bauforschung und Altertumskunde Kairo, Franz Steiner, Stuttgart, 1997)
175 p., 95 Tafeln.

として既刊。Band IIIが先に出版されました。建築分析を記すBand Iの出版が遅れるのは良くある話。
神話の世界をこの世に実現させたアメンヘテプ3世の夢を追究する、長年にわたる試みの一環です。Astonによる土器に関する厚い報告Band IVも2008年に出ています。全7巻と予告されたこのシリーズも、若干構成が変えられた模様。
個人的にはここから出たヒエラティック・インスクリプションの内容が早く知りたいところです。

2009年2月16日月曜日

Phillips (ed.) 1997 [Festschrift M. R. Bell]


献呈論文集。ヴァン・シクレン出版社、実はエジプト学者がやっている出版社です。2巻本で、新王国時代に関する論考が集中しています。

Jacke Phillips,
with Lanny Bell, Bruce B. William,
and James Hoch and Ronald J. Leprohon (eds.),
Ancient Egypt, the Aegean, and the Near East:
Studies in Honour of Martha Rhoads Bell
.
2 vols.
(Van Siclen Books, San Antonio, 1997)
xi, pp. 1-248 + vii, pp. 249-506.

自動車事故によって突然亡くなったエーゲ文明の専門家を悼む書。故人が土器、特にミケーネに属する土器を扱っていた研究者であったために、

Janine Bourriau and Kathryn Erikson,
"A Late Minoan Sherd from an Early 18th Dynasty Context at Kom Rabi'a, Memphis"
(pp. 95-120)

Vronwy Hankey,
"Aegean Pottery at El-Amarna: Shapes and Decorative Motifs"
(pp. 193-218)

Colin Hope,
"Some Memphite Blue-painted Pottery of the Mid-18th Dynasty"
(pp. 249-286)

Christine Lilyquist,
"A Foreign Vase Representation from a New Theban Tomb (The Chapel for MMA 5A P2)"
(pp. 307-343)

といった土器分析関連の論考が並んでいるのが特徴。以上に挙げた中で上から3番目まではよく知られているトップクラスの土器の専門家たちです。
古代エジプトの土器については専門誌、

Cahiers de la Ceramique Egyptienne
(Institut Francais de l'Archeologie Orientale (IFAO), Cairo, 1987-)

が刊行されており、当該分野に興味を持っている者にとっては最重要の刊行物。

この献呈論文集はしかし、建築に関係する人間にとっても必須の本で、

Peter Lacovara,
"Gurob and the New Kingdom 'Harim' Palace"
(pp. 297-306)

David O'Connor,
"The Elite Houses of Kahun"
(pp. 389-400)

などが寄せられています。家具を扱う

Marianne Eaton-Krauss,
"Three Stools from the Tomb of Sennedjem, TT 1"
(pp. 179-192)

あるいは、

Stephen Quirke and Lesley Fitton,
"An Aegean Origin for Egyptian Spirals?"
(pp. 421-444)

なども重要。
最後の論文に関してはふたりの執筆者名が目次で誤記されており、引用に際しては注意が必要です。

2009年2月15日日曜日

BACE 18 (2007)


BACE
の18号についても記しておきます。
8本の論文が掲載されています。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology (BACE), Vol. 18 (2007)
159 p.

Contents:

Editorial Foreword
(pp. 5-6)

Magdy el Badry,
"Tombs of the Late Old Kingdom: West of the White Monastery (Sohag)"
(pp. 7-20)

Gillian E. Bowen, Wendy Dolling, Colin A. Hope, Paul Kucera,
"Brief Report on the 2007 Excavations at Ismant el-Kharab"
(pp. 21-52)

Jacobus van Dijk,
"A Late Middle Kingdom Parallel for the Incipit of Book of the Dead Chapter 22"
(pp. 53-58)

Linda Evans, "The Curious Case of the 'Mummified Pigeon'"
(pp. 59-64)

Beatrix Gessler-Loehr,
"Pre-Amarna Tomb Chapels in the Teti Cemetery North at Saqqara"
(Revised and updated version of "Grabkapellen der Vor-Amarnazeit im Bereich des Teti-Nordfriedhofs in Saqqara", presented in Cairo in 2000; Eighth International Congress of Egyptologies, Cairo, Abstracts of Papers, pp. 71-72)
(pp. 65-108)

Eve Guerry,
"Controlling Human Suffering: Terminology of Divine Mercy in Ancient Egypt and Ancient Israel"
(pp. 109-123)

Mahmoud El-Khadragy,
"Fishing, Fowling and Animal-handling in the Tomb of Djefaihapi I at Asyut"
(pp. 125-144)

Lesley J. Kinney,
"Dancing on a Time Line: Visually Communicating the Passage of Time in Ancient Egyptian Wall Art"
(pp. 145-159)

Beatrix Gessler-Loehrの論文は、新王国時代のトゥーム・チャペル(平地に立つ神殿型貴族墓)を調べる上で見ておくべきものかもしれません。

Lesley J. Kinneyの論文が個人的にはすごく面白いと思いました。
壁画において、動き、あるいは時間の経過を含めて説明する表現についての論文です。説話を壁画で長々と表現することは、東南アジアのボロブドゥールやアンコール・ワット、バイヨンなどのレリーフで典型的に知られていますけれども、時間と空間との錯綜から成り立っているこの複雑な内容を、2次元の世界である絵画によって、古代エジプトではどのように表現しているかを示しています。
以下、当該論文の冒頭と、最後の結論のみを書き記しておきます。

(Introduction) (p. 145)
"Communicating the passage of time and the sequence in which events unfold is an important consideration when representing complex visual narratives such as those attempted by ancient Egyptian artists. The emphasis in this paper is the investigation of notions of sequential time as represented in the wall art of the ancient Egyptians and the examination of the visual tools employed to create a sense of temporal sequence and consequentially a sense of the passage of time in the wall scenes."

Concluding Remarks (p. 156)
"The ability of Egyptian artists to convey the concept of time in the iconography, independently of text, enabled this abstract notion to be perceived even by illiterate audiences. Many of the conventions used to represent the passage of time, which are taken for granted by both artists and viewers today, were the invention and innovation of the ancient artists. Such was their sophistication and ingenuity, there does not appear to be one mechanism for the visual communication of the passage of time that was not already known to or invented by the ancient Egyptians."

2009年2月14日土曜日

BACE 19 (2008)


オーストラリアにおけるエジプト学の研究機関が年に一回出す紀要です。昨日届きました。A5版という小さな判型の若い雑誌。日本で所蔵している箇所は比較的少ないと思われますので、全目次とともに紹介。
The Australian Centre for Egyptologyのサイトは

http://www.egyptology.mq.edu.au


で、ここからは"The Rundle Foundation for Egyptian Archaeology Newsletter"も発行されています。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology (BACE), Vol. 19 (2008)
144 p.

Contents:
Editorial Foreword p. 5
The Church of Deir Abu Metta and a Christian Cemetery in Dakhleh Oasis:
a Brief Report (Gillian E. Bowen) p. 7
Guaranteeing the 'Pac Aegyptiaca'?: Re-assessing the Role of Elite Offspring a Wards and Hostages within the New Kingdom Egyptian Empire in the Levant (Paul J. Cowie) p. 17
Matalworking at Amarna: a Preliminary Report (Mark Eccleston) p. 29
The Excavations at Mut el-Kharab, Dakhleh Oasis in 2008 (C. A. Hope, G. E. Bowen, W. Dolling, E. Healey, O. E. Kaper, J. Milner) p. 49
The Use of Stone in Early Dynastic Egyptian Construction (Angela La Loggia) p. 73
Ceramics at Mut el-Kharab, Dakhleh Oasis: Evidence of a New Kingdom Temple (Richard J. Long) p. 95
The Naos of King Darius I (Heba Mahran) p. 111
New Tombs at el-Mo'alla and the Family of 'Ankhtify' (Yahia el-Masry) p. 119
Theban Tomb 147: its Owner and Erasures Revisited (Boyo G. Ockinga) p. 139

ここ数年、ページ数は一定しており、順調に運営がなされていることがうかがえます。
ダクラ・オアシスに関する研究発表が多いのは、オーストラリアのモナシュ大学にいるC. ホープがここの調査を手がけているためです。発表者をどのように振り分けているかを見るのも面白いところ。

アマルナにおける金属精製の話が掲載されており、これはおそらく速報で、本格的な報告が別に予告されています。ケンプと著者がファイアンスを試作する写真も載っていて面白い。

同じくらい長い論文が「初期王朝のエジプトの建造における石材の使用」で、この論考は最後に該当する遺構の総リストを提示していますから、ピラミッド時代以前における古代エジプトの初期の石造建築を知ろうとする者にとってはたいへん有益な資料となります。修士課程の最後に課された研究をもとにしているらしく、チェックリストとして有用。

2009年2月13日金曜日

Roehrig 1995


テーベにある「王家の谷」の墓の入口に木製の扉が備えつけられるようになった経緯を辿る、画期的な研究。
ツタンカーメンの墓のように、第18王朝では王の墓の入口は塞がれて隠されるのですが、やがて墓室内の装飾が墓内の玄室と付近の諸室だけではなく、入口のすぐ奥にある通廊の壁面や天井にまで及ぶようになり、これと並行して第19王朝では入口に木の扉が設けられることとなります。
どれもこれも似た印象のエジプトの諸王の墓も、丁寧に見ていくと少しずつ改変や工夫が重ねられていることが知られるという好例で、きわめて面白い展開を呈する論考。

本書は国際シンポジウムの報告で、日本からは近藤二郎先生が参加し、アメンヘテプ3世の墓に関して発表がおこなわれています。
C. H. レーリグの書いたものは、所収されているものの中では最も長い論文。図版を多数用い、分かりやすく述べられています。
題名の付け方も面白い。「地下世界への門」という、人を惹きつける謎めいたタイトルです。

Catharine H. Roehrig,
"Gates to the Underworld:
The Appearance of Wooden Doors in the Royal Tombs in the Valley of the Kings,"

in Richard H. Wilkinson (ed.),
Valley of the Sun Kings:
New Explorations in the Tombs of the Pharaohs.
Papers from The University of Arizona International Conference on the Valley of the Kings
(The University of Arizona Egyptian Expedition, Tucson, 1995),
pp. 82-107.

通常、王家の谷の墓を全部、時代順に見て廻るということはなかなかできませんし、また現在では新たに設置された保護のための床板や鉄扉枠などが邪魔して、入口の細部を観察することも困難な場合があります。そのため、彼女も「これは仮の報告だから」と断っていますけれども、しっかりとした構成を示した研究で、特にセティ1世、ラメセス2世、そしてメルエンプタハの3つの墓の入口の扉を並べて見せている図が非常に印象的。

訪れたことのある方だったらすぐにお分かりの通り、王家の谷の墓では、入口を入るとすぐに斜めに降る通廊が地下へと続きます。この入口に内開きの扉をつけることにしたら、天井も斜めに下がっているために、扉板を内側に向かって開こうとすると、天井にぶつかってしまいます。セティ1世の墓の入口はこの理由で低い扉をつけ、上部は板で覆う方法をとっていたようです。

これを改善したのがラメセス2世の墓で、入口のすぐ内側の天井部分を、扉が開けられるだけ、削り取りました。これで扉を開くことが可能となります。ただ、入口を入ってすぐの部分の両脇の壁画は、扉が開いた状態では扉板によって隠されて見えなくなってしまう欠点が生じてしまいます。

この欠点をさらにメルエンプタハの墓では工夫して改め、扉板が内側に開いた場合に隠されてしまう部分を空白として残しました。壁画は扉板の幅を持つ余白部分を入口のすぐ奥に挟み、その次から始められるわけで、こうした改変につぐ改変の痕跡が、古代エジプト人たちの建築の作り方を示唆していて鮮やか。

一歩一歩少しずつ、新たに改良を加えるという建造方法がここでも確認され、3000年の建築活動の営為について再考する必要を感じさせる内容です。実際に造ってみなければ不具合が判らないという、建築設計行為の根幹にも触れている論考。

2009年2月12日木曜日

Fischer 1996


文献学者による「エジプト論考」の3冊目。古代エジプトの家具についてもっとも詳しかったひとりでしたが、惜しくも亡くなりました。
Night and Light and the Half-light (Blacksburg, 1999)と題する80ページほどの詩集も晩年に出している才人です。

Henry George Fischer,
Varia Nova.
Egyptian Studies III
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1996)
xxxiii, 264 p.

「エジプト論考」の第1冊目は、ちょうどこの本より20年前に出されており、また2冊目は翌年にパート1が刊行されました。この2冊目はヒエログリフがどのような場合に向きが逆転するのかを記しており、非常に面白い研究で、続巻がとうとう出されなかったことが惜しまれます。
南から北へと流れるナイル川を唯一の川とみなしていたエジプト人が、外国へ遠征して北から南へと反対に流れる川に出会った時、船の文字を逆転させた表現をとるなど、興味深い話を展開させています。

Henry George Fischer,
Varia.
Egyptian Studies I
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1976)
xvi, 126 p.

Henry George Fischer,
The Orientation of Hieroglyphs, Part I: Reversals.
Egyptian Studies II
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1977)
xxiii, 147 p.

3冊目のこの書では、"Egyptian Doors, Inside and Out"(pp. 91-102)が印象的。古代エジプトの扉は外側から見るならば内開きで、表と裏があり、もちろん平滑な面が表面で、横桟を打ち付けてあるのが裏面です。内開きとなるのは防犯上、軸受けを隠す必要があるからで、従って扉を開かないようにするボルトは扉の裏面、すなわち横桟が打たれた面(室内側)に設けられます。
ところがナオスなどでは外側に扉の裏面を向ける表現が取られ、横桟とボルトが丸見えです。外から内に入って行く場所で、内から外へ出て行く時に見かける扉の様子が提示されるわけです。神殿の最奥部に置かれるナオスの扉の表現で、表と裏を逆転させるのはどうしてなのか。

"In turning the doors so conspicuously inside out the Egyptians evidently wished to emphasize a reversed point of view: these doors were not primarily a means of access to the naos, but rather a means of access from the naos to the temple or chapel within which it was placed." (p. 97)

およそ常識からは大きく逸脱した、仰天するようなことが平気で言われています。エジプトの神殿のナオスでは「内側は外側よりも大きい」ということが、はっきりと指摘されているからです。あるいは、エジプトの神殿では「部分と全体が一致する」という思想が展開されていると言うべきでしょうか。
こういうことを語るエジプト学者は他にいません。これを理解するかどうかがエジプトの建築表現を解く鍵であって、きわめて重要な考え方が披瀝されています。

"A Chair of the Early New Kingdom"(pp. 141-176)も貴重な論考。椅子に関する丁寧な思考過程が見られます。

2009年2月11日水曜日

Sliwa 1975


古代エジプトの手工芸、特に木工に関する研究書。家具だけではなく、船なども対象に含んでおり、このように包括的に扱うものはきわめて少なく、たいへん貴重です。古代エジプトにおける木工の仕口にも言及。
著者はポーランドの研究者。

Joachim Sliwa,
Studies in Ancient Egyptian Handicraft: Woodworking.
Universitas Iagellonica acta Scientiarum Litterarumque CCCCIV.
Schedae Archaeologicae, Fasciculus XXI:
Studia ad Archaeologiam Mediterraneam Pertinentia Vol. IV
(Nakladem Uniwersytetu Jagiellonskiego, Krakow, 1975)
83 p., 32 pls.

Contents:
Introduction (p. 5)
I. Application of Wood. Raw Materials (p. 9)
II. Tools. Workshop (p. 21)
III. Principal Working Techniques and Main Fields of Production (p. 45)
IV. Remarks Concerning the Organization of Labour and the Social Position of Craftsmen Engaged in Woodworking (p. 65)
V. Reliefs, Models and Paintings with Woodworking Scenes (p. 73)
VI. Selective Bibliography (p. 77)

出版から30年以上経って、この目次で見られるトピックをそれぞれ充実させた本が何冊か出ています。樹種を挙げている箇所をSliwaBeekmanの大著に多くを負っていますが、エジプトの樹木についての本はすでに数冊、他の著者によって出版がなされました。木工の工具についてはKillenArnold太字などが新たに論じています。また船に関する絵画資料集も、かなり詳しいものが出されました。

いくらか内容が部分的に古びたとは言え、しかし木材の加工技術を総合的に追うことは今なお、充分には突き詰められていないように感じます。その基本的なモティーフを早くから見つけ出していた論考。

出版元のヤギェウォ大学はポーランドで最も古い歴史を誇る大学として有名。創設は14世紀に遡り、コペルニクスなどを輩出したことで知られていて、たかだか100年ほどしか経っていない日本の大学などとは格が違います。イタリアのボローニャ大学はヨーロッパ最古の大学ですけれども、こうした歴史ある大学は相互の繋がりを図って「コインブラ・グループ」と呼ばれる連盟を形成しています。アメリカの大学制度に対する批判を含む動向。

なお、Sliwaの献呈論文集が出版されているようですが未見。

Les civilisations du bassin mediterraneen:
Hommages a Joachim Sliwa
(Universite Jagellone, Institut d'archeologie, Krakow, 2000)
457 p.

ポーランドやハンガリーなどにおけるエジプト学の動向を、日本から把握するのはなかなか難しく思われます。

2009年2月10日火曜日

Eaton-Krauss and Graefe 1985


ツタンカーメンの墓から出土した、小さな祠堂の模型に関する報告書。
たかだか50cmほどの高さの黄金厨子の模型ひとつの報告だけで、1冊の本が造られています。いくら全面に金箔が貼られているからとは言え、特別に扱われ過ぎですが、しかしこれがツタンカーメン王の墓から出土したものの特色。

M. Eaton-Krauss and E. Graefe,
The Small Golden Shrine from the Tomb of Tutankhamun
(Griffith Institute, Oxford, 1985)
xii, 43 p., XXIX Pls.

グリフィス研究所から何冊も出ているこれらツタンカーメン関連の遺物の刊行シリーズは、改めて詳細な調査がなされずに纏められているという点においても独特な位置を占めます。カーターの遺物カード、日誌、写真などから図を起こし、報告書が仕立てられているわけで、カイロ博物館に収蔵されている現物を再調査していません。手持ちの資料をもとに纏めるという方法が採られています。

P. 2の註12には、

"Since it did not prove feasible to examine the shrine with questions of technique in mind, a detailed description of its construction could not be incorporated in this study."

という、たいへん微妙に書かれた部分があり、さらっと書いてありますが、この壊れやすい木製の模型がどう造られているかに関しては、調べることが完全に放棄されているということです。「できなかった」と記されていますが、こういう書き方をそのまま鵜呑みにしてはいけないところ。

従って、主として装飾モティーフと文字の解読にもっぱら焦点が当てられているわけで、文献学と美術史学とがエジプト学の中で先行している現状にあっては致し方ない点です。
これまで「金細工の名品」と言われてきたものの、実際には手抜きが見られ、仕事は雑だという報告文の最後が面白い(p. 43)。王のものだからということで、何でも完璧に拵えられたとみなされがちです。

建築的には、このかたちが上エジプトの祠堂「ペル=ウェル」を意味するものではなく、一般的な神殿の形態をあらわすものだという指摘が重要かと思われます。
ガードの堅い報告書の書き方が良く分かる本。

2009年2月9日月曜日

Leahy 1978


マルカタ王宮の詳細な研究には必見の書。
「遺物を飛行機のトランジットでなくしちゃった」と1ページ目には記され、脱力系の報告書でもあります。巻末の対応表を見ると、20片以上なくしてしまったらしい。
王宮の再発掘に伴って出土した文字資料の報告書です。

M. A. Leahy,
The Inscriptions.
Exacavations at Malkata and the Birket Habu 1971-1974.
Egyptology Today, No. 2, Vol. IV
(Aris & Phillips Ltd., Warminster, 1978)
vi, 63 pp., 24 pls.

マルカタ王宮都市がDaressyによって最初に調査されたのは19世紀末で、ほとんどアマルナ王宮の最初の調査と同時期ですが、年報のASAEでその報告がなされたのは遅れて1903年のこと。この年、アメリカの裕福な青年Tytusによって、マルカタの再調査仮報告書も出版されています。

因みにTytusによる調査の時のエジプト側の視察官は、後にツタンカーメン王墓の大発見で世界的な著名人となるハワード・カーターで、「たいして重要なものは出土していない」ということを短く数行だけ、ぶっきらぼうに同じく1903年のASAEにて報告しており、両者の間で何か諍いがあったのかもしれません。
マルカタ王宮とツタンカーメン王墓との繋がりは約20年後にもあり、ふたつの遺跡の記録撮影は同じ写真家、メトロポリタン美術館のH. バートンがおこなっています。

1910年頃からメトロポリタン美術館による本格的な発掘がなされましたが、第一次世界大戦を挟み、1920年頃まで続くものの、正式な報告書が刊行されず、次いでペンシルヴェニア大学付属博物館による調査が1971年から1974年までおこなわれました。
メトロポリタン美術館による発掘で得られた文字資料の報告はHayesによって1950年代に発表され、この論文が現在のマルカタ王宮に関する位置づけに関し、最も大きな影響力を持っています。
反対の側から見るならば、考古学的資料は今でもほとんど詳しく発表されていません。

ペンシルヴェニア大学付属博物館による発掘隊の隊長は2人いて、D. オコーナーとB. ケンプです。
少なくとも6冊の発掘報告書が刊行予定でしたが、このうちの2冊のみが出版されただけに終わっており、今後、残りがどのように報告されるのかは不明です。

この報告書の重要性はしかし、"Site K"と呼ばれる発掘場所からもたらされた文字資料の報告がおこなわれたという点に尽きると思います。
建築学から見るならば、煉瓦スタンプの報告も重要で、主王宮と同じ型が発見されていることが見逃せません。マルカタ王宮の初期に属する建築がどこかに建てられて、それがすぐに解体され、"Site K"に捨てられたということです。
同時に、セド祭(王位更新祭)の29年あるいは30年の文字資料が複数出土していることが注目されます。早稲田隊が発見した「魚の丘」建築とどう関わるのか。こうした問題を検討する時には、本書を外すことができません。

2009年2月8日日曜日

Hulten 1968


ニューヨークの近代美術館で開催された「機械展」のカタログ。表紙がブリキでできている特殊な装釘で、本が広げられるように蝶番がついているのが大きな特色。

K. G. Pontus Hulten,
The Machine as Seen at the End of the Mechanical Age
(The Museum of Modern Art, New York, 1968)
216 p.

正確には「機械時代の終わりの機械」という名の展覧会。
20世紀の後半からは、はっきりと今までの機械とは異なる機械の存在が意識されるようになります。具体的にはコンピュータ。簡単な機械というものは古代からあったわけですが、19世紀の後半からは日常生活に画期的な機械が導入されて事情が一変します。この時期、新たな知覚を得たといっても過言ではありませんでした。
鉄道や自動車の普及による高速度の体験、気球や飛行船、あるいは飛行機による高位置の視点の獲得、写真や映画による視覚像の定着、そして電気というこれまで用いられなかった不思議なエネルギー。20世紀の初頭に、こうした驚きの感覚はすぐに未来派などによって表現されます。

このカタログはレオナルド・ダ・ヴィンチによる飛行機のスケッチから始められており、機械にまつわる美術を中心として集められています。「絵を描く機械」などのユーモラスかつペシミスティックな作品を作ったジャン・ティンゲリーなど、懐かしいものが並んでいますが、もちろん目玉はマルセル・デュシャンによる「大ガラス」。
これらの図版はすべてモノクロですけれども、「美術とテクノロジー」と題された最後の章の数ページだけ青刷りで、機械時代が終わり、再び世界観が変わったことが告げられています。

機械文明と美術・文学を結びつけて語ったミッシェル・カルージュのきわめて有名な著作「独身者の機械」が、ここで下敷きにされているのは言うまでもありません。この本、今では和訳されたものさえ高額で取引されています。20世紀前半の機能主義や機械美について語ろうとする際には基本となる、重要な評論。
「独身者の機械」という妙なタイトルは、デュシャンの「大ガラス」の正式な題名、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」に基づきます。

ミッシェル・カルージュ著、高山宏・森永徹訳
「独身者の機械」
(ありな書房、1991年)
原著:
Michel Carrouges,
Les Machines celibataires
(Arcanes, Paris, 1954)
245 p.

機械は実際に出てきませんが、この和訳と同じ年に出版された種村季弘による似た題名の本があって、大きく動いた20世紀という時代を1990年代に多くの人が振り返ろうとしたことを示唆しています。

種村季弘
「愚者の機械学」
(青土社、1991年)
292 p.

近代社会からはみ出した、とんでもなくおかしな芸術家や学者、詐欺師などを語った面白い書。

2009年2月7日土曜日

Delft and Botermans 1978


世界のパズルを集めた本で、1000以上のパズルが紹介されています。「自分でも作れます」と、表紙に印刷されているところが可笑しい。実際、木製の立方体組立パズルの造り方などが、設計図とともに掲載されていたりします。
かなり複雑なかたちに切り欠かれた細い棒をこさえる加工が何本も必要で、
「すべての角が直角かどうかチェックしてください;綺麗にサンドペーパーしないとうまく組めません」、
「非常に鋭利な刃物が必要です」、
などと注意があります。それはそうだろう。

魔方陣の作り方、なんていうのも紹介されています。紹介だけでなく、それらの作り方にまで踏み込んでいる点、半端ではありません。

Pieter van Delft and Jack Botermans,
Creative Puzzles of the World
(Harry N. Abrams, New York, 1978)
200 p.

Contents:
Introduction (p. 9)
Geometrical Problems (p. 11)
Moving-Piece-Puzzles (p. 11)
Dissection Puzzles (p. 28)
Polyforms (p. 40)
Matchstick Puzzles (p. 49)
Domino Puzzles (p. 57)
Construction Puzzles and Packing Problems (p. 66)
Magic Squares (p. 86)
Ring-String-Ball Puzzles (p. 97)
String Puzzles (p. 117)
Mazes and Labyrinths (p. 124)
Wire Puzzles (p. 143)
Number and Logic Puzzles (p. 159)
Positioning Puzzles (p. 166)
Crossing the Water Puzzles (p. 168)
Peg Solitaire (p. 170)
Shunting Problems (p. 176)
Puzzles with Checkers (p. 178)
Sliding Block Puzzles (p. 180)
Solutions to the Puzzles (p. 182)

目次から、内容が推測できるかと思います。182ページから最後の200ページまでは解答集で、目眩がします。
1500点以上も図版を収めており、どのページにも必ず複数の図や写真が入っているから、絵本と同じ。
参考文献の欄には、類書がさらに列挙されています。

いくらか古い本ですから、海外の古書店のサイトに当たる必要があります。こうした時に便利なのがAddALLのサイト。

AddALL:
http://used.addall.com/


各国のabebooksやAmazon、またAlibris、ILAB、ZVABなど、20以上の店をいっぺんに横断して索引することができます。ただしBarnes & Nobleなどは含まれていませんから、別に調べることが必要。

2009年2月6日金曜日

Morrison 2008


建築と数学の関連を探る学会があって、2年ごとに国際的な会議を開催していますが、その第7回目の会議録にソロモンの神殿の復原を検討する論文が掲載されています。

Tessa Morrison,
"Villalpando's Sacred Architecture in the Light of Issac Newton's Commentary,"
in Kim Williams ed.,
Nexus, Vol. VII: Relationship Between Architecture and Mathematics.
Seventh International, Interdisciplinary Conference,
23-25 June 2008, Point Loma Nazarene University,
San Diego, California, USA
(Kim William Books, Turin, 2008)
pp. 79-91.

この風変わりな学会については、

http://www.nexusjournal.com/


を参照のこと。次回はポルトガルのポルトにて2010年に会が開催される予定だそうです。
聖書の中のエゼキエル書で見られる記述に基づき、17世紀の初頭に復原されて初めて詳細に描かれた図面が扱われており、これにアイザック・ニュートンがコメントを残し、対案を示していたという内容。ラテン語による記述を訳しつつ、両者の復原案の違いを詳しく検討しています。

古い未刊行の手稿資料を用いた論考で、執筆者はオーストラリアに在住するポスドク。MSという単語が時折出てきますけれども、これは論文などで用いられる略号で"Manuscript"、すなわち手書き原稿のこと。その複数形はMSSとなります。

ニュートンの手書き原稿を見るためにはイギリスやアメリカへいちいち行かなければなりません。その研究をオーストラリアの学徒が進めているという点に興味が惹かれます。
聖書の断片的な記述から大規模な記念建造物を復原するという作業ですから、今から見てふたつの案が正しい正しくないという点は重要ではなく、むしろ建築を巡る思考回路そのものが主題となる研究。ここには面白い論点が含まれています。
J. リクワートの「アダムの家」が連想される論考。

Nexus 2008には16編の論文が収められていますが、内容は広範にわたっており、これらは5つのカテゴリーに分けられています。

Architecture and Digital Technology
Historical Analyses
Architecture and Astronomy
Non-Western Design Analyses
Western Design Analyses

これらを纏める編者の仕事も大変で、どういう人物なのかと知りたくなります。
どうやらトリノで出版まで手がけている人。

2009年2月5日木曜日

Janssen 2009


A5版の小さな本で「ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の家具」という題名を持ちます。ただし図版は一切ありません。
新王国時代のヒエラティックの読み手、ヤンセンによる最新の本。

Jac. J. Janssen,
Furniture at Deir el-Medina,
including Wooden Containers of the New Kingdom and Ostracon Varille 19.
Golden House Publications Egyptology 9
(Golden House Publications, London, 2009)
iv, 103 p.

Contents
Part I: Furniture (p. 3)
Part II: Wooden Containers in the New Kingdom (p. 26)
Ostracon Varille 19 (p. 57)
Abbreviations and Bibliography (p. 102)

オストラカ(文字が記された石灰岩片や土器片)あるいはパピルスに出てくる家具に関する資料を集成した本と言って良く、例えば「寝台」をあらわす言葉はディール・アル=マディーナ(DeM)の文字資料に少なくとも125回出てくる、などと書いてあります。構築されたデータベースの活用がなされていることがうかがわれます。Deir el-Medina Onlineは一見の価値があります。

Deir el-Medina Database:
http://www.leidenuniv.nl/nino/dmd/dmd.html


彼はすでに大著、

Jac. J. Janssen,
Commodity Prices from the Ramessid Period:
An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes
(E. J. Brill, Leiden, 1975)
xxvi, 601 p.

の中で家具の値段について調べていますが、今度は家具を詳しく分類する視点に立って文字資料の整理をおこなっています。未刊行のO.Varille 19に羅列されている長い物品リストについては後半で扱い、分かる範囲のことを書き出すという構成。

"Grandet translated the first indeed as....." (p. 4)

と最初の方のページで書かれていますけれども、Grandetについて註は特に振られていませんし、巻末の文献リストにも挙げられていません。GrandetがpHarrisに関する本を出版していることを既知とみなして話を進めています。
O.DeM, O.Cairo, O.Turinなどについても同様で、煩雑となる註が省かれるだけでなく、参考文献リストからも除かれていますから、手元に充分な関連資料を所有していることが前提となります。

「衣服」という意味を持つ言葉を扱っている80ページは面白い。
脈絡からJanssenはこの言葉が"underpants"の一種ではないかと疑い、Wenteも「下着」ではないかと訳している箇所もあるのを勘案しつつ、その長さが6キュービットという記述が別にあることを引用して、

"a surprising length for such an item of dress! Perhaps 'under' is not correct."

と考え直しています。
人の身長よりもかなり長い下着をだらだらと引きずるさまの連想を誘う記述で、こういうところに言及する点が、彼独特の注目すべき持ち味です。
この本の表紙に掲載されているヒエラティックの第一行目がこの単語。なお、彼のDaily Dress at Deir el-Medina: Words for Clothing (London, 2008) , pp. 42-45でも同様の趣旨をもう少し長く述べています。
Pp. 6-7における"isbwt"、「折り畳み椅子」という見解についてはしかし、

M.-C. Bruwier,
"Origine et usage du tabouret isbet," in
Ch. Cannuyer et J.-M. Kruchten eds.,
Individu, société et spiritualité dans l'Égypte pharaonique et Copte:
Mélanges égyptologiques offerts au Professor Aristide Théodoridès
(Bruxelles, 1993), pp. 29-57.

との併読が必要。
Bruwierのこの論文に対してはさらに、M. Eaton-Kraussが情報の不足を指摘しています。

M. Eaton-Krauss,
"Three Stools from the Tomb of Sennedjem, TT 1",
in Jacke Phillips ed.,
Ancient Egypt, the Aegean and the Near East: Studies in Honor of Martha Rhoads Bell. 2 vols.
(Van Siclen Books, San Antonio, 1997),
pp. 179-192.

2009年1月31日土曜日

藤原 2008


フランス極東学院によるカンボジアのクメール学研究史が興味深く語られます。幾人かの高名なフランス人研究者たちについては他の本でも紹介がなされており、また経歴を調べることも可能ですけれども、歴史背景を踏まえて大きな流れを辿ったものはきわめて稀。

藤原貞朗
「オリエンタリストの憂鬱:
植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学」
(めこん、2008年)
582 p.

註、及び参考文献も充実しており、厚い本となっています。
「考古学と政治との関係を探った」と書かれていて、確かに政治的な意図のもとにさまざまな学的な方向性が決定されることはあり、あるいはアンコール・ワットの部分原寸模型がマルセイユ博覧会などで立ち上げられた理由の裏にはフランスの国威を示す狙いがあったと記されれば、それはそういう側面もうかがわれるだろうなと思います。

面白いとは思ったんですが、どこかで「それで何?」と感じる向きもあるかもしれない。フランスの外交手法はつとに知られた剛腕。初めて聞く話ではありません。きわめて政治的な色彩を帯びながら、フランス極東学院は創設されたはずです。
中近東の調査現場に出かける人たちならば、学術分野の方向性が政治によってあっけなく左右されてしまうことを身にしみて知っています。イラク戦争が起こった時には、関連する研究者たちによる反対声明の署名運動がメールで世界中を回りました。たぶん効力がないと感じながら応じた人も少なくなかった。

つまりこのような論考が、例としてエジプト学などの領域であり得るかなと考えた時、あまり思い浮かべることができない原因がそこにあるように思われます。
少なくともエジプト学では、こうした論考にあまり重きを置かないのではないでしょうか。政治によって現実が反転される可能性を繰り込みながら常時、調査がおこなわれているわけで、格別取り上げて論じるような珍しいことではない。

だから論を立てるのであれば、もっとラディカルな見方が必要なのではないかと不満がいくらか残るわけです。たとえばブルーノ・ラトゥールの「科学が作られているとき:人類学的考察」(産業図書、1999年)が示す徹底した方法のように。
本書の最後近くでは、

「長い欧米列強と日本の帝国主義時代の中で、東洋の考古学・美術史はバラバラに分断された。繰り返すように、フランスはインドシナを、イギリスはインドを、オランダはインドネシアを、日本は韓半島などを独占的な調査の場とし、独自の(政治的な)美術史構想を育んでいった」(p. 484)

とありますけれども、本当の分断の原因を単に政治だけに求められるのかどうかは課題となるはずで、もっと根が深いように思われます。

しかしながら強く興味が惹かれたのは、この本に伊東忠太、岡倉覚三(天心)、関野貞、藤岡通夫、藤田嗣治といった者たちが登場するからであって、変なところで変な人がカンボジア研究史を横切ります。そこがとても面白い。
著者はリヨン第二大学への留学を経た茨城大学人文科学部准教授。

【追記】
本書は第31回サントリー学芸賞を受賞。
受賞のことばは、

http://www.suntory.co.jp/news/2009/10600-3.html

で見ることができます。
(2009.11.10)

Polidori, Di Vita, Di Vita-Evrard, and Bacchielli 1998


リビアにある古代ギリシア・ローマ時代の遺跡を紹介した本。ほとんど全ページにカラー写真が掲載されています。写真家による作品集という趣があるので、遺跡の姿を堪能できます。

Photographies de Robert Polidori,
textes de Antonino Di Vita, Ginette Di Vita-Evrard, et Lidiano Bacchielli,
La Libye antique:
Cites perdues de l'Empire romain

(Editions Menges, Paris, 1998)
255 p.

Table de matieres:
Premiere partie: La Tripolitaine
-Le territoire
-Apercu historique
-Lepcis Magna
-Sabratha

Deuxieme partie: La Cyrenaique
-L'histoire
-Cyrene
-Deux autres cites de la Pentapole
Annexes

遺跡の価値を認めている方にはリビアはお勧めの国だと思います。レプティス・マグナには特に圧倒されます。真夏に行った時には他に観光客がおらず、都市遺跡を堪能することができました。
外国人の行き先はその都度警察に告知する必要があったりと厄介で、これを委託するためのガイドとその他にドライバーを雇うことになりますから、旅費は他地域と比べて高額になります。ガイドの話によると、若い人はほとんど来ないとのこと。来るのは考古学者と建築家、リタイアして他の遺跡を見飽きた人、この3種類だと笑っていました。

5日間の旅行で地中海沿岸に位置する都市遺跡、レプティス・マグナ、サブラタ、キュレーネ(シレーネ)、アポロニア、プトレマイス、そしてトリポリの6つを見て、総計30万円弱ほど。これは現地のホテル代・食事代・車代などを含んでの費用です。ひとつの遺跡当たり、5万円見当。
ただし日本からトリポリまでの海外渡航費は別で、これを考慮するならばひとつの遺跡当たり、10万円ほどになります。この価格をどう見るかが分かれ目。
誰もいない古代ギリシアや古代ローマの広大な都市遺跡を、時間を気にせず散策でき、真っ青な地中海に面して建造された有名なレプティス・マグナの劇場の観客席に、貸し切り状態でひとり座ることもできます。

リビアの遺跡はイタリアによって発掘調査がなされており、報告書が数多く出ています。Monografie di Archeologia Libicaのシリーズが基本文献。出版元のHP、

http://www.lerma.it/


で全巻のタイトルを見ることができますが、すでに入手が困難になっているものもあります。日本国内で見るには非常な苦労が伴います。
なお、イタリアの考古学を紹介するページ、

http://www.archaeogate.org/


があって、登録するとエジプト学も含めた新刊紹介や催事の情報などを載せたニューズレターを送ってくれ、とても便利。

2009年1月30日金曜日

Guksch and Polz 1998 (eds.) [Festschrift R. Stadelmann]


R. シュタデルマンと言えば、ピラミッド研究の第一人者として良く知られています。その彼の65歳の誕生日を記念しての献呈論文集。名だたる研究者たちが論考を寄せており、古代エジプト建築に関わるものが少なくありません。
D. アーノルド、またW. K. シンプソンの献呈論文集などと並ぶ重要な刊行物。

Heike Guksch und Daniel Polz (Hrsg. von),
Stationen:
Beitraege zur Kulturgeschichte Aegyptens.
Rainer Stadelmann gewidmet
(Verlag Philipp von Zabern, Mainz, 1998)
xvii, 497 p., 28 Schwarzweisstafeln, 3 Beilagen (in Tasche)

Inhaltsverzeichnis:
Vorgeschichte, Fruhzeit und Altes Reich
Mittleres Reich und Zweite Zwischenzeit
Neues Reich
Dritte Zwischenzeit, Spaetzeit bis Koptische Zeit

全体で500ページを超える分量であるため、上記のように時代別に4つに大きく分けられています。執筆者は43人を数えます。

Z. ハワースがクフ王ピラミッドの建設に用いられた斜路を報告していたり、M. レーナーがクフ王ピラミッド内における木造架構の可能性を検討したり、D. アーノルドがアルマントの誕生殿をCGを用いて復原したり、P. グロスマンがエジプトの初期キリスト教建築でうかがわれる古代エジプトの建築要素を論じたりと、建築関連分野における大物たちによる研究論文が続々と発表されていて壮観。

シュタデルマンの書いたピラミッドの本は、I. E. S. エドワーズが著したものの改訂版という位置づけで、現在、改訂が施された第2版が参照されているはず。題名もエドワーズの本のドイツ語訳と同じです。初版における図面にはいくつか乱れが見られ、かなり出版を急いだようでしたが、訂正されました。

Rainer Stadelmann,
Die aegyptischen Pyramiden:
vom Ziegelbau zum Weltwunder.
Kulturgeschichite der antiken Welt, Band 30
(Verlag Philipp von Zabern, Mainz, 1991.
2. ueberarbeitete und erweitete Auflage.)
iv, 313 p.

この初版は1985年で296ページ。20ページ弱、加えられたことになりますが、改訂後18年が過ぎようとしており、さらに改訂された版の刊行が期待されます。

2009年1月29日木曜日

Simpson 1963-1986


中王国時代に属するパピルス(pReisner)の読解。全4巻からなり、建造計画が記されている部分もあるため、注目される資料です。序文にもありますが、似たような記述は新王国時代にはいくつかあっても、それより前の時代ではきわめて稀となります。

第4巻が出版されたのは、第1巻が出てから23年後で、非常に長い時間がかかっていますが、これでも出版計画を大幅に縮めた結果で、第2巻からは体裁を変え、記述を簡単にする方法へと改めました。ページ数が第2巻目以降、少なくなっているのはそのためです。

貴重な資料なので、著者であるシンプソンもじっくりと構えて入念な報告書を刊行したかったでしょう。念頭にはたぶん、ガーディナーによる記念碑的な大著、ウィルボー・パピルス(pWilbour)に関する全4巻の存在があったかと思われます。
ガーディナーのこの報告書の第1巻(1941年)は図版を扱い、高さが60cmもある大型本で、第二次世界大戦を挟み、やはり10年以上をかけてようやく完結した刊行物でした。

第1巻目を出して残りの仕事量を勘案した時、シンプソンは考えを改めたようです。
第2巻の序文では「迅速に出版するため、報告の方法を簡略化する」ということを読者に断っています。

William Kelly Simpson,
Papyrus Reisner I:
The Records of a Building Project in the Reign of Sesostris I
(Museum of Fine Arts, Boston, 1963)
142 p., 31 plates

Papyrus Reisner II:
Accounts of the Dockyard Workshop at This in the Reign of Sesostris I
(Boston, 1965)
60 p., 24 plates

Papyrus Reisner III:
The Records of a Building Project in the Early Twelfth Dynasty
(Boston, 1969)
45 p., 21 plates

Papyrus Reisner IV:
Personnel Accounts of the Early Twelfth Dynasty.
With Indices to Papyrus Reisner I-IV and Paleography to Papyrus Reisner IV, Sections F, G.
(Boston, 1986)
47 p., 33 plates

最も厚い第1巻目では、日付、石の大きさ、労働者名などがリストになっているぼろぼろのパピルスを対象としており、神殿の建造記録について触れている第5章が特に興味深い。
しかし分からないことだらけで、71ページのサマリーでぼやいていますけれども、扱われている数字が一体、建物のどこの寸法なのか、まず理解が不能です。

"In brief, the conclusions presented in this initial
presentation of these records are largely negative."

と書かれてあって、「結局、私には何のことだか全然分かりませんでした」という内容を、学術の世界で難しく表現するとこういう言い回しになるという典型。
そうか、"largely negative"という言い方があるのか、と大変勉強になります。

2009年1月28日水曜日

Koenigsberger 1936


古代エジプトにおける扉の研究。神殿などは石造で建てられましたが、出入り口の扉は木で造られました。この際には通常の開け閉めができて、なおかつ必要に応じ、開かなくなるような仕組みを考えなければなりません。扉は重いため、柔らかい青銅製の蝶番は役に立ちませんでした。当時は鉄が自由に作れなかった時代です。軸受けを用いた扉の支持が一般的となります。

たとえ頑丈なしんばり棒や閂、あるいは鍵などによって扉自体を開けないようにできても、軸を壊されたら扉の全体が取り外されてしまい、それで終わりです。
扉の設置で重要な点は、軸受けを建物の外側から見た場合に隠すことでした。こうして内開きの扉が正式となり、扉板そのものにも表と裏が発生します。

Otto Koenigsberger,
Die Konstruktion der aegyptischen Tuer.
Aegyptologische Forschungen, Heft 2
(Verlag J. J. Augustin, Glueckstadt und Hamburg, 1936)
x, 87 p., XV Tafeln.

古代エジプトでは石材の転用がよくおこなわれました。木材も貴重品であったため、持ち去られることは多くあったと推定されます。
おそらく扉も例外ではありませんでした。現存する扉は少数です。扉の形式はそれ故、石造建築の戸口に残る痕跡の観察結果をもとにして復原されることが圧倒的に多くなります。

扉にも格式があり、もっとも簡単な扉というものは、小さな石に凹んだ穴を穿ち、そこに扉の軸を落とし込む方式でした。ですが王宮ともなると、戸口の敷石を一材で造ってそこに軸穴を開けるということをおこないます。貴族たちの住宅でもこの方式が真似されて、石で立派な戸口を設けることは、階級が高いことのあらわれでした。

本書で「扉」と呼称されるものは木製のものに限られており、石製の落とし戸などは扱われていません。複数の落とし戸は古王国時代のピラミッドの内部などに設けられ、良く知られています。スネフェル王による屈折ピラミッドの中には斜めに落ちる石製の戸が造られていて、こうした仕組みを知ることができるのは建築学的には楽しみのひとつ。
この他にも、古代エジプトでは石製の大きな「引き戸」があったりして驚かされます。

本書は古代エジプトの木製の扉について纏められた唯一のモノグラフ。いささか古い刊行物ですが、未だ貴重な文献として挙げられます。
ただし、フランス隊のB. ブリュイエールによるデル・エル=メディーナの労働者集合住居での扉の研究成果が反映されていない点が残念なところ。出版時期がちょうど重なったため、当時の最新情報を組み入れることができませんでした。

20世紀の終わりにメトロポリタン美術館のフィッシャーが、扉の開き方が或る意図のもとに逆となる場合の考察を発表していて、非常に興味深い。
また王家の谷の墓の入口に設けられた両開きの扉に関する考察も、別の人によってほぼ同じ頃に研究されています。
古代エジプトにおける扉の研究と言えば、以上のこの3つが最重要。

2009年1月27日火曜日

JEA 94 (2008)


イギリスから刊行されている代表的なエジプト学の専門雑誌、Journal of Egyptian Archaeology (JEA)の最新号です。前号からカラー図版が掲載されるようになるなど、体裁がいくらか変更されました。新しい編集者たちによって、投稿しやすくした工夫もうかがわれます。
今号でも変更があって、これまで巻頭にあった"Editorial Foreword"がなくなっており、目次のあとにすぐ本文が続いています。
最新号の目次が、まだEESのHPに載っていないらしい点は惜しまれるところ。

The Journal of Egyptian Archaeology (JEA), Volume 94
(The Egypt Exploration Society, London, 2008)
(iv), 348 p., VIII plates.

バリー・ケンプがアマルナの2007年から2008年にかけての発掘調査報告を冒頭に67ページ書いており、これが最も長い論考となります。単純埋葬に関して比較的丁寧に報告しています。
報告内容は多岐にわたっており、3Dのレーザー・スキャンも始められた模様。
アマルナについての文献は、アマルナ・プロジェクト(Amarna Project)のページ:

http://www.amarnaproject.com/pages/publications/index.shtml

にて細かく広範に網羅されているので非常に便利です。このリストではForthcomingのものまで含めている点が有用。Barry J. Kemp (ed.), Amarna Reportsの目次も記載しています。
非常に精巧に作られたアマルナ王宮の模型の紹介も、大きな見どころとなっています。

今号には日本人が2人執筆しており、面白かった。
ひとりは古代エジプトにおける鹿の資料を網羅した研究。ハリネズミの研究をおこなった博士論文をかつて見たことがありましたが、エジプトにおける鹿というものを知らなかったので、楽しめました。

もうひとりは当方も良く知っている安岡義文君の発表。柱の再利用について触れています。
この雑誌に日本人の名前が執筆者として掲載されるのは、内田杉彦先生、高宮いづみ先生に次いで3番目と4番目だと思います。

Brief Communicationsで掲載されているもののうち、

Mark Depauw, 
"A 'Verlan' Scribe in Deir el-Bersha: Some Demotic Inscriptions on Quarry Ceilings"
(pp. 293-295)

は、ベルギー隊による中部エジプトの石切場調査の一端がうかがわれる内容で興味深い。何と、左から右に書かれている(!)デモティックのインスクリプションが紹介されています。鏡に映したかのような逆転した文字列が記されているわけで、同様の例がシディ・ムーサでも観察されるという点はきわめて刺激的です。
このふたつの石切場の天井には多数の文字が記されていますが、ようやく本格的な研究が開始されました。今後の研究の進展が楽しみなところ。

Stephen W. Cross, 
"The Hydrology of the Valley of the Kings" 
(pp. 303-310)

もかなり面白い内容です。洪水が起こり、土砂で王家の谷の墓が埋まってしまった経緯が考察されています。