2009年8月20日木曜日

Rousseau 2001


エジプトのピラミッドがどう計画されたかを問う書。著者は教職につきながら、技術者・建築家として活躍した人です。

Jean Rousseau,
Construire la Grande Pyramide
(L'Harmattan, Paris, 2001)
222 p.

Sommaire:
Introduction, p. 7

Premiere partie: Les tombes egyptiennes de la prehistoire a Cheops, p. 17
Chapitre 1, Les tombes prehistoriques et thinites, p. 19
Chapitre 2, Les pyramides a degres, p. 29
Chapitre 3, Les pyramides de Snefrou, premieres pyramides veritables, p. 41

Deuxieme partie: La Grande Pyramide, p. 51
Chapitre 4, Presentation du complexe de Cheops, p. 53
Chapitre 5, La structure de la Grande Pyramide, p. 69
Chapitre 6, Le projet. Le choix du site, p. 77
Chapitre 7, L'implantation de la pyramide, p. 89

Troisieme partie: La production et le transport des materiaux, p. 97
Chapitre 8, L'extraction des materiaux de construction, p. 99
Chapitre 9, Le transport des dalles et des moellons, p. 107

Quatrieme partie: La construction de la Grande Pyramide, p. 115
Chapitre 10, La taille et la pose du parement. p. 117
Chapitre 11, Les procedes de construction, p. 135
Chapitre 12, Le demarrage du chantier, p. 165

Cinquieme partie: La conception "coudique" de la Grande Pyramide, p. 183
Chapitre 13, Les "regles" de l'architecture egyptienne, p. 175
Chapitre 14, Les plans "coudiques" de la Grande Pyramide, p. 183

Conclusion, p. 205
Annexes, p. 209
Bibliographie, p. 217
Index, p. 221
Sources des illustrations, p. 223

ピラミッドの寸法をもとにして、細かい数字が出てくる本です。またこの数字に対して「聖数(聖なる数)」を考えており、独特。

-les uns, le couple 17 et 19, le premier nombre etant plutot connote aux tenebres, a la mort, a Osiris (?); le second, a la lumiere, a la vie, a Re. Ces nombres, souvent associes, on les retrouve avec une frequence tres anormale dans les expressions les plus diverses de la culture egyptienne tout au long de ses trois ou quatre millenaires.

-les autres, d'origine calendaires, correspondent a la duree en jours des cycles annuals, a savoir:
348 = 29×12 jours (annee lunaire coutre), 354 = 59×6 jours (annee lunaire longue) et 384 jours, annee lunaire extra-longue a 13 mois, toujours en usage dans le Proche Orient et, en particulier, en Israel.
365 jours (73×5), 366 jours (61×6), annee bissextile deja connue du roi Djoser (cf. p. 31).
29, 59, 73 et 61 sont les nombres premiers caracteristiques de ces cycles. (p. 14)

などという記述が最初の関門。
「聖数」の整数倍がピラミッドの計画では採用されたであろうと考えられていて、完数(半端な値を持たない数。基本的に10、20、30といったようなまとまりを持つ数だが、3や5の倍数なども含まれる)で設計されたというモティーフそれ自体は了解されますが、暦や天文学、あるいは神学と結びつけられて思考が巡らされており、独自の解釈がおこなわれています。
天体の動きと記念建造物とを結びつける考え方は根強く、確かにそうした遺構もあると思われるのですが、果たしてピラミッドでどの程度まで天体の運行との関連が意識され、象徴的な意味が込められたのか、未だ統一した見解が出ていません。
ピラミッドの向きが正確に東西南北を向いていることが、天体の動きとの関わりがあった根拠のひとつとされていますけれども、365日という数との関連など、ここは充分な吟味が必要だと思われます。
当時、用いられた古代の尺度の数値と、暦の日数とを関連させる論法は他にもいろいろとありますけれども、建築を専門とする学徒の間では、あまり信用されていない考え方。

2009年8月14日金曜日

Ziegler (ed.) 2002


イタリア・ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシにて2002年の9月から12月にかけて開催された「ファラオ」という名の展覧会のカタログ。275点にのぼる遺物によって構成された展覧会です。カラー図版多数。内容もぜいたくな造りの分厚い本。

Christiane Ziegler (ed.),
The Pharaohs
(Rizzoli International Publications, New York, 2002)
512 p.

豪華な執筆陣が特色で、イタリア・フランス・ドイツ・アメリカ・スイスなどの有名な研究者たちが各節を分担しています。それらを纏めているジーグラーは、ルーヴル美術館古代エジプト部門長。最初の100ページで王朝の歴史が記されています。

The Pharaohs and History:
"The Predynastic Period", by Günter Dreyer, Christiane Ziegler
"The Old Kingdom", by Alessandro Roccati
"The Middle Kingdom", by Sydney H. Aufrere
"The New Kingdom", by David P. Silverman
"The Third Intermediate Kingdom", by Mamduh el-Damaty, Isabelle Franco
"The Late Period", by Edda Bresciani

錚々たる権威者たちによる通史で、展覧会のカタログとしては稀有な例。
この他、征服者としての王についてはNicolas Grimalが、宗教に関してはClaude Trauneckerが、建設者としての王についてはRainer Stadelmannが、王墓に関してはErik Hornungが執筆しています。いずれも第一級の専門家ばかりです。
164ページにはカルナック神殿の平面図が、建造時期別に、つまり王別に色分けされて提示されています。いざ探そうと思うと、こういう図はなかなか見つかりません。

メトロポリタン美術館のDorothea Arnoldが王宮建築に関して執筆しており、マルカタ王宮とネチェリケト王の階段ピラミッド複合体におけるセド祭のための広庭とを比較しています。内容は画期的で、residential palaceではないことが強調されています。
第3王朝と第18王朝の建物を、しかも機能がまったく異なるもの同士を比べるのは本当は無茶というものですが、セド祭関連の建物については類例がきわめて限られているために、こうした方法がおこなわれるわけです。しかしこの指摘はとても重要。

カタログの説明文のうち、388-389ページの部分だけが異様に長く、変わっています。"introduction"まで用意されており、ここだけがエジプト学者による執筆ではなく、古代遺物を出品したコレクター自身が書いた文章。本の編集者と、一悶着がどうやらあったことらしいことがうかがわれる箇所です。

年表がpp. 496-497に掲載されていますが、前半はJ. BainesとJ. MalekによるCultural Atlas of Ancient Egypt、また後半はJ. von BeckerathのHandbuch der ägyptischen Koenigsnamenを使っていることを小さく注記として印字しています。
こういうのも珍しい。古代エジプトでは絶対年代が用いられますが、いくつかの説があり、一致していません。異なるものをつなぎ合わせて使う例は、あんまりないかと思われます。

2009年8月13日木曜日

Hodges 1989


テレビ番組にもなったピラミッドの建造方法に関する新説。著者は1980年に亡くなっており、別の人によって草稿が出版され、この本となったのは9年後。
斜路がここでも検討されています。建築の仕事に携わった人ですから、技術的な話が多いのが特徴。

Perter Hodges,
edited by Julian Keable,
How the Pyramids were Built
(Aris and Phillips, Warminster, 1989)
xiii, 154 p.

Contents:
Foreword (editor), ix

1. A new look at the pyramids, p. 1
2. Previous building theories, p. 10
3. Raising the stones at Giza, p. 19
4. The craftsmen and their skills, p. 33
5. Setting out a pyramid, p. 39
6. The anatomy of the pyramids, p. 53
7. Building stepped pyramids, p. 65
8. Building the Great Pyramid, p. 73
9. Casing the pyramids, p. 85
10. Further aspects, p. 100
Appendix, p. 107

Editor's additional material
Ramps, p. 119
Levers, p. 133

References, p. 145
Index, p. 151

斜路が問題になるのは、その長大となる規模と、必要になる土砂の量、またその構築によってピラミッド建造そのものが妨げられる可能性があるからです。
しかし見落としてならないのは、現実に斜路がいくつかのピラミッド調査地において見つかっていることで、またマスタバに取り付いた煉瓦造の斜路の図も、絵画資料として残されています。
従って、最大の規模を誇るクフ王のピラミッドでも、やはり同様の斜路が設けられたのか、また設けられたとしたらどのような形式だったのかを問題視する人がいる、ということであって、ピラミッドの建造用斜路の存在を完全に否定することはできません。

著者はてこを多用したのであろうという説を挙げ、実際に自分たちで試しています。
Hodgesは先の曲がったてこを用いていますが、この本の編集者のKeableは先細りのてこでもうまく使えると、付章で報告しています。
編集者のKeableはHodgesの遺稿を良く纏めていて、適宜、註を入れたりしています。自分の調べた知識を披瀝しようと思えば、もっと註を増やせたはず。そうした過剰な記述をやっていません。遺された原稿の出版に、最小限の最新の情報を組み入れようとした跡が良く了解され、好感を覚えます。

Keableの息子のローランドが、熟練の家具職人だそうです。ここでも親戚類縁の使い回し。ま、エジプト学では良くあることなんですが。
オーク材を用い、4本のてこを手作りして、

「1986年のクリスマスの日に、2トン半の石が調達できなかったので、私たちは1.7トンしかないSAAB(の車体)を持ち上げた。いくつかの点が了解された。[中略]
エジプトだったら、もっと楽しめただろうに - この日の朝は雨が降っていた。」(p. 134)

と、この人たちはどこまで真面目なのか、良く分からない。

2009年8月12日水曜日

Killen 1980


古代エジプトの家具研究を専門とするキレンの第1冊目の本。家具を網羅しようとする姿勢が目次からも容易に推察することができます。箱などを扱う続巻はすでに1994年に出版されました。
古代エジプト家具の基本文献。この時代における仕口について言及されています。
2002年に再版が出ています。

Geoffrey P. Killen,
Ancient Egyptian Furniture, Vol. I:
4000-1300 BC
(Aris & Phillips, Warminster, 1980)
ix, 99 p., 118 plates.

Contents:
Abbreviations, vi
Acknowledgements, viii
Chapter One: Furniture Materials, p. 1
Chapter Two: Tools, p. 12
Chapter Three: Beds, p. 23
Chapter Four: Stools, p. 37
Chapter Five: Chairs, p. 51
Chapter Six: Tables, p. 64
Chapter Seven: Vase Stands, p. 69
Catalogue of Museum Collections, p. 73
Plates

巻末の、各国の博物館に収蔵されている家具のリストは重宝です。ただし完全なリストではありません。アルファベット順の国別に掲載されていますが、イタリアではトリノ・エジプト博物館収蔵のものの抜粋しか挙げられず、またフィレンツェ考古学博物館やボローニャの博物館なども載っていません。
リストに家具の所有者、新王国時代第18王朝の建築家カーの名前が書き込まれなかったのは残念です。参考文献にはE. Schiaparelliによる報告書が見られるのですけれども。エジプト学で通常要請される、こうした配慮があまりなされていないために、この書籍の価値は相対的に低くなりがちです。

微妙な言い回しがなされている部分があって、家具がどのように発展していったかについて記されている箇所では、慎重な検討が必要です。H. G. Fischerが言っていることと矛盾する記述もうかがわれ、今後の研究の進展が待たれます。

M. Eaton-Kraussがトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の椅子に関する本を2008年に出版しているので、ほぼ30年ほど経って、どのくらい研究が進んでいるかを見ることができるのも興味深い点です。家具研究は、少人数の研究者によって進められている分野。
もっとも、立場が異なるわけで、キレンは家具職人としての視点から調査を持続しています。実在する椅子と、当時の家具の名称との関連の研究はJac. J. Janssenなどが調べており、値段もまた、彼によって言及されています。こうした成果も踏まえ、多様な姿で存在していた家具がどのように使い分けられたかが問われるところ。

彼はサイトも開設しているということを前にも書きました。ここで彼の著作のリストを見ることができます。

http://www.geocities.com/gpkillen/

Bibliographyの欄には、かつてはエジプト家具に関する文献を掲載していましたが、現在ではすべて削除されて、自分の著作のみを代わりに掲載。Shaw and Nicholson (eds.) 2000の家具に関連する項目でキレンが書いている参考文献リストの改訂版を、そろそろ見ることができたら良いのですけれども。

2009年8月11日火曜日

BAR (Breasted, Ancient Records) 1906-1907


エジプト学では"BAR"は飲みに行く店ではなく、Breasted, Ancient Recordsの略。
ただし、British Archaeological Reportsを略したBARというシリーズもあって、紛らわしい。
J. H. ブレステッド(1865-1935)はアメリカにおいてエジプト学を最初に手がけた偉大な人。エジプト語辞典であるA. Erman und H. Grapow (Hrsg.), Wörterbuch der ägyptischen Sprache (Akademie-Verlag, Berlin, 1926-1961), 12 Vols.の編纂に関わったり、エジプト語の文法書を出したりしたドイツのA. エルマンのもとで、初めて博士論文を執筆した米国人。
ブレステッドはシカゴ大学オリエント研究所(OIC)の創立当初、所長としてこの名高い組織を率いた人物でもありました。

James Henry Breasted,
Ancient Records of Egypt:
Historical Documents from the Earliest Times to the Persian Conquest
, 5 Vols.
(University of Chicago Press, Chicago, 1906-1907)

Volume I: The First to the Seventeenth Dynasties (1906)
Volume II: The Eighteenth Dynasty (1906)
Volume III: The Nineteenth Dynasty (1906)
Volume IV: The Twentieth to the Twenty-sixth Dynasties (1906)
Volume V: Indices (1907)

エジプトの第1王朝から26王朝までの長い期間にわたる主な歴史資料を、注釈付きで英語に訳しています。1〜4巻を1906年に出し、最後の5巻目になる索引だけを翌年に刊行。
この本はシカゴ大学出版局で1923年、1927年と版を重ねた後、さらにロンドンの出版社、Histories & Mysteries of Man Ltd.から1988年に、またシカゴのUniversity of Illinois Pressから2001年にリプリントが出されています。100年近く読み継がれている、驚くべき本。ブレステッドが亡くなる前の1927年出版のものが決定版とされ、2001年に出たものにはP. A. Piccioneによって新たに紹介文や文献などが書き足されました。

1906年は、これもまた恐るべき刊行物、Kurt Sethe, Urkunden der 18. Dynastie(Urk. IV)がベルリンから出た年でもあります。
手分けをしているかのような出版。一方は全般の網羅を、他方では花の第18王朝に関する全部の歴史資料の集成を試みています。
ただUrkundenのシリーズもまた、全部を包括することをめざしており、一足早く開始して出版。
Urkundenのシリーズの一覧は、Michael Tilgnerが纏めています。

http://www.geocities.com/TimesSquare/Alley/4482/EEFUrk.html

ほとんどの巻のダウンロードが可能。

同じ時期、エジプト学に愛想を尽かしたイギリスのピートリは、この年に

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by C. T. Currelly,
Researches in Sinai
(E. P. Dutton and Company, New York, 1906)
xxiii, 280 p.

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by J. Garrow Duncan,
Hyksos and Israelite Cities.
Egyptian Research Account, Twelfth Year (ERA XII)
(Egypt Exploration Fund, London, 1906)
viii, 76 p., LI plates.

を刊行し、イスラエルへと調査の足場を移そうとした傾向が濃厚。
それぞれの学者が当時の最先端で見ている仕事の内容の違いが分かって面白い。

2009年8月10日月曜日

Ashabranner 2002


巨大なオベリスクのかたちをしたワシントンの記念塔を紹介する一般向けの薄い本ですが、面白い指摘があって、見逃せません。発端はマーシュという外交官。

Brent Ashabranner,
photographs by Jennifer Ashabranner and historical photographs,
The Washington Monument:
A Beacon for America.

Great American Memorials
(Twenty-First Century Books, Connecticut, 2002)
64 p.

オベリスクを調べているうちに、アメリカのワシントン記念塔のかたちが気になって、その正確なかたちが知りたいと思っていたら、George Perkins Marsh(1801-1882)という人物に突き当たりました。この人、イタリアに滞在したアメリカ大使です。
彼は当時の首都であるトリノに住み、ローマにも行った人物で、本もたくさん書いています。ローマに立つオベリスクに興味を持って、いろいろ調べていたらしいのですが、この人はエジプト学ではまったく知られていないはず。

"Marsh's studies had shown that the height of an Egyptian obelisk was ten times the width of its base. Marsh's calculations also told him that the dimensions of the shaft should be reduces as it rose, the top of the obelisk varying from two thirds to three fourths of the length of the base." (p. 47)

"The shaft would taper 1/4 inch to the foot (.64 centimeters to the meter [sic !]) as it rose. The walls would attenuate (become thinner) from 15 feet (4.6 meters) at the base to 18 inches (45.7 centimeters) at the top of the shaft. The width at the base of the shaft was 55.5 feet (16.8 meters). The width at the top of the shaft would be 34.5 feet (10.5 meters)." (p. 50)

"At a height of 555 feet 5 1/8 inches (169.4 meters), the Washington Monument is the tallest freestanding all-masonry structure in the world." (p. 60)

石造建築としては確かに世界一高いものなのでしょうけれども、個人的にはシャフトの勾配の値の方に興味があり、1フィート当たり、1/4インチの勾配と書いてありますが、両側の傾きを併せると1フィート=12インチ当たり1/2インチ、すなわち24:1の傾きとなります。1キュービットに対する1ディジットは28:1。小キュービット、あるいはreformed cubitと呼ばれる末期王朝以降の尺度では24:1。
19世紀にこれだけのことが分かっていたという点は驚きで、特筆に値します。
たぶんこれからは、このマーシュという人が、オベリスク研究を切り開いた者として語られるようになるのでは。

この記念碑についてはしかし、

Thomas B. Allen,
foreword by Stephen E. Ambrose,
The Washington Monument:
It Stands for All

(Discovery Books, New York, 2000)
172 p.

の方が解説は丁寧です。

2009年8月8日土曜日

Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009


オベリスクが西欧の世界においてどのように受容されたかを述べたもの。社会学的な意味を持つ研究。ウィーンに留学中の安岡義文さんからの御教示。いろいろと本や論文を教えてくれる方々が周りにいて、当方としては非常に有難い。

Brian A. Curran, Anthony Grafton, Pamela O. Long, and Benjamin Weiss,
Obelisk: A History
(Burndy Library, Cambridge, Massachusetts, 2009)
383 p.

Contents:
Introduction, p. 7

1. The Sacred Obelisks of Ancient Egypt, p. 13
2. The Obelisks of Rome, p. 35
3. Survival, Revival, Transformations: Middle Ages to Renaissance, p. 61
4. The High Renaissance: Ancient Wisdom and Imperium, p. 85
5. Moving the Vatican Obelisk, p. 103
6. Changing the Stone: Egyptology, Antiquarianism, and Magic, p. 141
7. Baroque Readings: Athanasius Kircher and Obelisks, p. 161
8. Grandeur: Real and Delusional, p. 179
9. The Eighteenth Century: New Perspectives, p. 205
10. Napoleon, Champollion, and Egypt, p. 229
11. Cleopatra's Needles: London and New York, p. 257
12. The Twentieth Century and Beyond, p. 283

Acknowledgements, p. 297
Notes, p. 301
Bibliography, p. 339
Illustrations, p. 365
The Wandering Obelisks: A Check Sheet, p. 371
Index, p. 375

イヴァーセンは2冊のオベリスクの本を書いており(Iversen 1968-1972)、この2巻本(続巻も予定されていたんでしたが)についてはカバーの後ろ見返し部分に印刷されている書評でも"unrivalled work"と記されていますが、他にエジプトが西欧世界でどのように見られてきたかを書いた

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs:
In European Tradition

(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1961)
178 p.

も出していて、考え方は良く似ています。

Labib Habachi,
edited by Charles C. Van Siclen III,
The Obelisks of Egypt:
Skyscrapers of the Past

(Charles Scribner's Sons, New York, 1977)
xvi, 203 p.

邦訳:
ラビブ・ハバシュ著、吉村作治訳、
「エジプトのオベリスク」
(六興出版、1985年)
230 p.

が、エジプト学の視点から初めて本格的に記されたオベリスクの本だとするならば、4人による合作のこの本は、西洋史の中で扱われるオベリスクに焦点を当てた本。ヒエログリフを読もうとしたキルヒャーについては章を独立させて綴っています。
なお、参考文献には掲げられていませんが、オベリスクに関する怪しげな解釈もあって、厚い本である、

Peter Tompkins,
The Magic of Obelisks
(Harper & Row, New York, 1981)
viii, 470 p.

はその典型。これも別な意味で少しばかり興味深い。

2009年8月7日金曜日

Vanhove 1996


エーゲ海に浮かぶギリシアのエウボエア島を舞台とする調査で、複数の石切場と、それらを結ぶ運搬路が対象。Bessacによるフランスの石切場の報告書と同じ1996年に出されています(Bessac 1996)。比較して見ると面白い。

Doris Vanhove,
with contributions by A. De Wulf, P. De Paepe and L. Moens,
Roman Marble Quarries in Southern Euboea and the Associated Road Systems.
Monumenta Graeca et Romana (MGR), VIII
(E. J. Brill, Leiden, 1996)
x, 53 p., 128 illustrations, 2 maps.

Contents:
Foreword, vii
Introduction, ix
1. Topographical Survey (A. De Wulf), p. 1
2. Archaeological Description (Doris Vanhove), p. 16
A. Styra: Haghios Nikolaos and Krio Nero, p. 16
B. Pyrgari, p. 22
C. Styra and Pyrgari: General Conclusions, p. 33
3. Oxygen and Carbon Isotopic Data and Petrology of Cipolino from Styra and Karystos (Euboea, Greece) and their Archaeological Significance (L. Moens, P. De Paepe & K. Vandeputte), p. 45
List of Figures, p. 51

Korresによるペンテリコンの石切場に関する報告書が参考文献に挙げられており(Korres 1995)、この本が石切場を報告する者たちに大きな影響を与えていることが分かります。図版が多めに収められているのも、Korresの本(画集)をお手本にしているから。

全体の分量は、さほど多くはありません。
第1章は島の山中で地形測量をしなければならなかったあらましと、測量方法、精度などを報告しています。巻末に折り込みとして挿入されている2枚の図面が測量作業の成果。テクニカルな測量作業の話を長く書くのは異例だと思われます。
第2章が考古学的記述の部分で、各々の石切場と運搬路を詳述。
第3章は科学分析の報告に充てられており、主に産出される大理石の分析。同じ島内であるにも関わらず、場所によって性質が異なることが指摘されています。

モノクロの写真は不鮮明なものが含まれ、惜しまれるところ。
主執筆者の手による図もたどたどしい部分があって、もう少し詳しい平面図を見たかった。未完成の円柱など、技法の説明は主として写真に頼っています。
チポリーノ大理石の主たる産出場所であった島の調査報告で、運搬路も重要視されている点が見どころ。

2009年8月6日木曜日

Bessac 1996


古代の建造物を造るに際し、石材を調達するための石切場が重要となりますが、その研究については未だ、あまり進んでいないと考えていいと思います。現場に行っても、文字が残っていない場合がきわめて多いですし、石を切り出した痕跡が拡がるだけの場所を、どのように記録したらいいのかの目安もつきにくい。
古代ローマに関してはしかし、ワード・パーキンズが大理石の加工方法や運搬や交易など、話題を拡張して手本を見せ、以後は何人かが集中して研究をおこなっています。

Bessacのこの本は、古代から中世に渡って使われ続けたフランスの石切場の調査報告で、これだけ詳しいものも珍しい。
Korresによる古代ギリシアの石切場ペンテリコンの重要な報告書については、すでに触れました(Korres 1995)。それと並ぶ基本文献。

Jean-Claude Bessac,
avec la collaboration de M.-R. Aucher, A. Blanc, P. Blanc, J. Chevalier, R. Bonnaud, J. Desse, J.-L. Fiches, P. Rocheteau, L. Schneider et F. Souq,
La pierre en gaule narbonnaise et les carrieres du bois des Lens (Nimes):
histoire, archeologie, ethnographie et techniques
.
JRA Supplementary Series 16
(Journal of Roman Archaeology (JRA), Ann Arbor, 1996)
334 p.

200枚近くに及ぶ図版によって、丁寧に石材の加工方法、切り出し順序、運搬、単位寸法などの考察が説明されています。フランスでは良質の石材が産出し、その利点は、この国のあちこちに建立された大聖堂で見ることができます。イギリスでは、こうはいきません。
普通なら見落としがちな、石を切り離すための楔の方向などから、石を採取した順番を想定するなど、参考となる考え方が示されており、貴重。

図版はすべてモノクロです。スケッチと呼ぶべき、比較的簡単な図が並んでいますが、石に残っている加工の痕跡を観察し、道具の刃先を復原しているところなどはさすがです。発掘調査によって得られた出土遺物の報告は、飛ばして読んで構わないかと思います。自分の知識で及ばないところは専門家を呼んで書かせ、補っており、無理をしていません。石材の加工風景が豊富に掲載されていますけれども、多くは著者が別の人に描かせたもの。それでいいと思います。
Bessac編と紹介されている場合もあるようですが、これは間違いなく、Bessacの本です。考え方が統一しています。

石切場という、良くわからない場所を見て何を明らかにすべきか。どういう情報がそこから引き出せるのか。そうした点が明示されている本で、これからの石切場調査における指針が示されている報告書。
文字資料が見つかる石切場では、文字の読解に引きずられる場合が多々あって、気持ちは分かりますけれども、本来の仕事、すなわち、不定形のかたちが散らばるだけの場所で、何をどう見るかが一番、重要となります。そこが面白いところ。
巻末の参考文献も充実しています。

2009年8月5日水曜日

Korres 1995


パルテノン神殿の石切場、有名なペンテリコンを舞台とした絵本。61枚に及ぶ詳細な図が何といっても素晴らしい。著者は建築家・修復家で、絵は全部、著者による手書きです。
最初はミュンヘンでの展覧会で図が発表され、そのカタログが

Manolis Korres,
Vom Penteli zum Parthenon
(München, 1992)

として出版された模様。
この図の部分を第1部とし、図の説明を第2部としています。

Manolis Korres,
From Pentelicon to the Parthenon:
The ancient quarries and the story of a half-worked column capital of the first marble Parthenon

(Publishing House "Melissa", Athens, 1995)
128 p., 61 drawings, 3 photographs.

Contents:
Prologue, p. 7
Part I
Narrative and Pictorial Reconstruction, p. 9
Part II
Explanation of the Plates, p. 61

Appendix 1
Testimonies, p. 116
Appendix 2
The Quarry of the Nymphs on Paros, p. 120

Contents of Parts I and II and their Correlation, p. 122
List of Figures, p. 123
Select Bibliography, p. 124
Indexes, Glossary, Greek pronunciation, etc., p. 127

ペンテリコンの石切場がどういう順番で開拓されていったか、どのような方法で石がひとつひとつ切り出されていったのか、使われた工具の話、ペンテリコンからアクロポリスの丘までの石の運搬経路、巻き上げ機の使用、アクロポリスの丘の上でのクレーンを用いた組積方法、仕上げの方法など、丁寧に解説されています。
こうした建造作業全体の把握は、たぶん古代ギリシア人たちにもできていなかったかも。そう思わせるほどうまく纏められており、特に第2部は秀逸。

石造建築のうちで、石がどこから切り出されたかが分かっている有名な建物はいくつかありますけれども、これほど詳しく説明がなされている例は稀。石切場そのものの調査が、どこの国でもあまり進んでいないという問題点もあります。
著者のさまざまな力量が結晶した傑作で、以降の石切り場の報告書にも大きな影響を与えています。

2009年8月4日火曜日

Vartavan and Amorós 1997


古代エジプトで用いられた樹木に関する研究書。
古代の木に関しては、「すべての時代の木」という題を持つ、以下の6巻本(1949-1955)のうちの第1巻と第2巻が古典として知られていて、そのうちエジプトを扱った部分の

W. Boerhave Beekman,
"Hoofstuk 7: bossen, bomen en toegepast hout bij de Egyptenaren",
Ditto,
Hout in alle tijden, Deel I
(A. E. Kluwer, Deventer, 1949)
pp. 399-578

が引用されたりしますが、これはオランダ語で書かれたもの。
もう少し新しくて他に良く引用されるものとしては、

Russell Meiggs,
Trees and Timber in the Ancient Mediterranean World
(Oxford University Press at the Clarendon Press, Oxford, 1982)
xviii, 553 p., map, 16 plates.

が有名です。けれども世界を地中海近辺に絞っている点に注意。科学技術の進展で、情報が過多となり、すべてを網羅することがもう諦められています。
さて、

Christian de Vartavan and Victoria Asensi Amorós,
Codex of Ancient Egyptian Plant Remains.
Triade Exploration's Opus Magnum Series in the field of Egyptology (TOMS.E): 1
(Triade Exploration, London, 1997)
(v), 401 p.

は膨大な情報量のデータベースをそのまま打ち出したような書籍で、古代エジプトの草や木の用例が一冊に纏められたもの。読みにくいというか、調べにくい本なのですが、ツタンカーメンに話題を限った続巻とも言うべきものがあって、

Christian de Vartavan,
Hidden Fields of Tutankhamun:
From Identification to Interpretation of Newly Discovered Plant Material from the Pharaoh’s Grave
.
Triade Exploration's Opus Magnum Series. Egyptology (TOMS.E): 2
(Triade Exploration, London, 1999)
xi, 220 p., x plates, 57 plates.

ではイギリスの王立キュー・ガーデンが所蔵していたツタンカーメンの墓出土の木片サンプルなどを報告。

一方、キューガーデンからは一般向けに、

F. Nigel Hepper,
Pharaoh's Flowers:
The Botanical Treasures of Tutankhamun
.
Royal Botanic Gardens, Kew
(Her Majesty's Stationery Office (HMSO), London, 1990)
xii, 80 p.

が出ています。
キュー・ガーデンに勤めていたHepperの名は

Rowena Gale, Peter Gasson, Nigel Hepper,
"Wood (Botanical section)",
in Nicholson and Shaw (eds.) 2000,
pp. 334-352.

でも共同執筆のひとりとして見られますが、この"Wood"の項目のリファレンスのページ、pp. 385-389にはVartavanの本が出てこないし、逆にVartavanの本にもHepperの本が触れられていません。
双方とも古代エジプトの植物を専門とし、これもまた狭い世界であるはずなのですけれども、研究者間であまり交流がないなと感じさせる一例。
ツタンカーメンの墓から出土した木材については、

Renate Germer,
Die Pflanzenmaterialien aus dem Grab des Tutanchamun.
Hildesheimer ägyptologische Beiträge (HÄB) 28
(Garstenberg, Hildesheim, 1989)

でも記述があります。この人は

Renate Germer,
Flora des pharaonischen Ägypten.
Deutsches Archäologisches Institut Abteilung Kairo (DAIK), Sonderschrift, Band 14
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1985)

Sylvia Shoske, Barbara Kreißl, und Renate Germer,
"Anch" Blumen für das Leben:
Pflanzen im alten Ägypten.

Schriften aus der ägyptischen Sammlung (SÄS), Heft 6
(Staatliche Sammlung Ägyptischer Kunst, München, 1992)

も出しています。

2009年8月3日月曜日

Bülow-Jacobsen 2009


古代ギリシア・ローマ時代に属する石切場のひとつから見つかった石片には文字を記したものがあり、9000ほどのその中から石切り活動に関わる文字だけを選んで報告した書。
エジプトの石切場調査は最近、増えてきていますが、建築学的な知見がどれだけ増えているかというと、そうでもありません。建築技法についてはもちろん、いろいろ新しく見つかっても当然のことです。けれどもそれらは些末的な問題。ここを間違えている人が多くいます。
建築に関わって、なおかつ他の分野に繋げられるトピックが探し出されることこそ本当は重要なのですが、それがあまりおこなわれていない現状です。

Adam Bülow-Jacobsen,
Mons Claudianus:
Ostraca graeca et latina
IV.
The Quarry-Texts O. Claud. 632-896.
IF 995.
Documents de Fouilles (DFIFAO) 47
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2009)
xiii, 367 p.

Table of Contents:
http://www.ifao.egnet.net/uploads/publications/sommaires/IF995.pdf

O. Claud.というような省略した書き方が専門書ではなされており、要するにオストラカ Ostraca、という言葉が端折って記されるわけです。これはパピルスも同じ。

O. BM (あるいはoBM)=大英博物館(British Museum)収蔵のオストラカ
O. Cairo (あるいはoCairo)=カイロ博物館収蔵のオストラカ
O. Turin (あるいはoTurin)=トリノ・エジプト博物館収蔵のオストラカ
P. Anastasi I (あるいはpAnastasi I)=第1アナスタシ・パピルス

といった感じです。
そう言えばトリノ博物館の展覧会が始まりましたが、トリノ博物館はラメセス時代に属する多くのオストラカを収蔵しており、貴重。報告はJesus Lopezが4巻本でおこなっています。

ギリシアでは、アルファベットが数字としても代用されました。すなわち、

α(アルファ)=1
β(ベータ)=2
γ(ガンマ)=3
δ(デルタ)=4

などとなります。
従って、O. Claud. 841の35行目に出てくる簡単なアルファベットの3つの羅列、

ε δ α

は「5 × 4 × 1」と訳され(p. 170)、これは石材の長さと幅と高さの寸法。
ここにはふたつ重ねられた飛躍があります。3つ並ぶアルファベットが数字をあらわし、しかもそれがひとつの石材の大きさであるという認識が必要。何しろ石切り現場での書き付けですから、省略がいろいろあり、これを勘案しながら石切り作業の全体像を追っていくことが望まれます。
石切場を巡る研究というのは、こういうところが面白い。

石材の大きさがこのように文字資料として小さな石片に記録されることは、王朝時代にはしかしあまり例がなく、ラメセウムのオストラカとして知られているものぐらいしかありません。岩窟墓における掘削量を記録しているものなら、いくらかあるのですけれども。
石に直接、その大きさを記した王朝時代の例も極端に少なく、クフ王の船坑の蓋石に書かれたものがほとんど唯一の例と思われます。クフの第2の船の調査研究を担当されているサイバー大学の山下弘訓先生にこの6月、初めて蓋石の書き付けを見せていただきましたけれども、きわめて貴重。
王朝時代からグレコ・ローマ時代にかけての長い期間における石切りの様相を概括することは、建築に関わる人間の仕事だと思います。

この巻では3つの付章が重要です。
Appendix 1では石切り作業に関連する専門用語を所収しており、他の辞書ではほとんど見られない語ばかりが並びます。
Appendix 2は、「この石切場に何人いたか?」という章で、人名リストを挙げています。労働組織の規模に関わる論考。
Appendix 3は、巨大な石の運搬に関する論議がなされています。
とても大きな建材の運搬について考えるはずのところなのに、規模がえらく異なった実験を、住宅内の床の上にて自分で進めていることがすごくおかしい。コロの上に載せた、小型の段ボール箱の側面にデジタルキッチンスケール(台所用の計り)をテープで固定し、その計量皿の部分の中央を右のひとさし指で押しています。わざわざこれを写真で紹介しており(p. 271, App. 3, Figs. 2-3)、靴下を履いた足が背景に写っているのも御愛嬌。
註もつけてあって、

"I am grateful to my brother, Jan Bülow-Jacobsen, who provided the necessary floor-space and most of the materials for this experiment." (p. 271)

と、読者に向かってウインクしてみせる様子がうかがわれ、かなりユーモアに富んだ著者であることがこれで分かる。
本文におけるきわめて専門的な書き方との、大きな落差が笑えます。

2009年8月2日日曜日

Endruweit 1994


エジプトの「アマルナ型住居」と呼ばれるものは、住居の歴史で最初の方に出てくる有名なものになっていますが、それだけを取り上げて論じている専門書ということになると、世界でたった数冊しかありません。その中では、もっとも新しい本です。

Albrecht Endruweit,
Staedtischer Wohnbau im Aegypten:
Klimagerechte Lehmarchitektur in Amarna

(Gebr. Mann, Berlin, 1994)
220 p., 11 Tafeln

Inhaltsverzeichnis:
1. Die Aussenhuelle
2. Die Mittelhalle
3. Zur Schaffung eines behaglichen Innenklimas
4. Das Schlafzimmer
5. Der Garten
6. Zusammenfassung
7. Klimatische Faktoren und Wohnkultur

アマルナ型住居の研究と言えば、H. リッケによるモノグラフが基本となります。その後にボルヒャルトとリッケによる図面集が出版されたのは20世紀末で、これをもとにして詳しい分析がようやく始められるようになりました。

この本は、中部エジプトの砂漠に建てられたアマルナ型住居が、その土地の風土と気候にどのように適合しているかを詳述したものです。
エジプトは乾燥地帯で、砂混じりの北風が年間を通じて吹きつける場所ですから、住居の形態もこれに合うように工夫されていました。北風を受けるための北向きの高窓が造られたのはそのひとつです。寝室が必ず北向きに造られたのもこの理由によります。日乾煉瓦造による住居はこの地方にとって、過ごしやすい住環境を提供する重要な役割を演じていました。

砂漠の家の周囲に木を植えたり、人工的に池を造ったりすることは大変な苦労を必要としたはずなのですが、古代エジプト人たちは好んで庭園を造営しました。水面や緑を見て楽しむということもあったでしょうが、並んだ樹木は砂を含んだ風から泥造りの家が損傷を受けることを防ぐ防風林や防砂林の役目を果たし、水を湛えた人工湖もまた、気化熱によって気温を下げることに幾分は貢献したのではないかと言われています。
壁画には、家の中に水を撒いている光景を描写したものもあり、打ち水がおこなわれたと考えられています。

寝室の奥の天井の形式で、ヴォールト天井が架けられていたという復原は、おそらくは否定されるべきものです。根拠は、ここだけ両側の壁体が厚くなっているという点と、ピートリの報告による家型模型ですけれども、あまり説得力を感じません。ここには早稲田隊のマルカタ王宮の「王の寝室」も引用されていますが、曖昧な報告をしたことは反省すべき点。もしヴォールトが架かっていたとしたら、アマルナ型住居の通風窓が絵画史料で三角形に描かれることはなかったと思われます。

この本の書評を、アマルナ調査にも携わったK. SpenceがJESHO 39:1 (1996), pp. 50-52で書いており、そこで展開されている知恵比べも面白い。古い科学情報をもとにしているのではないかという疑義が出されたりしますけれども、最後の方では自分がエジプトの日乾煉瓦造の建物で日々を過ごした結果の快適さを個人的経験として述べていて、結局は泥で造られた建物の魅力を双方の研究者が伝える結果となっています。

2009年8月1日土曜日

Willems 2007


中部エジプトに位置するベルシャ(バルシャ)の発掘調査報告書の第1巻目。ディール(デル)はDeirではなくDayrなのかと訝る向きもあると思いますが、

"Arabic geographical names in this volume are abbreviated according to the system of the ’International Journal of Middle East Studies.’" (p. 1, note 1)

とあり、ケンブリッジから出ている雑誌のやり方に倣っていることが分かります。
観光旅行ではなかなか行く機会がない中部エジプトですが、ミニヤを拠点とするならばアマルナを初めとしてベニ・ハッサン(バニー・ハサン)、カウなど、見どころの多い場所。スペオス・アルテミドスもこの地域にあります。

Harco Willems,
with the collaboration of Lies op de Beeck, Troy Leiland Sagrillo, Stefanie Vereecken, and René van Walsem,
Dayr al-Barsha, Vol. I:
The Rock Tombs of Djehutinakht (No. 17K74/1), Khnumnakht (No. 17K74/2), and Iha (No. 17K74/3).
With an Essay on the History and Nature of Nomarchal Rule in the Early Middle Kingdom.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 155
(Peeters and Departement Oosterse Studies, Leuven/Leuvain, 2007)
xxiv, 126 p., LXI pls.

Contents:
Preface, v
Bibliography and Abbreviations, xi

Chapter 1: Introduction, p. 1
Chapter 2: The Spatial Context of the Tombs, p. 11
Chapter 3: Previous Research, p. 19
Chapter 4: The Tomb of Djehutinakht (17K74/1), p. 23
Chapter 5: The Tomb of Khnumnakht (17K74/2), p. 59
Chapter 6: The Tomb of Iha (17K74/3), p. 61
Chapter 7: An Essay on the History and Nature of Nomarchal Rule in the Early Middle Kingdom, p. 83

Indices, p. 115

焦点はこの地域における中王国時代の様相。
参考文献は非常に多く挙げられており、この中にはつくば大学の川西隊によるアコリス報告書も含まれていますが、近年刊行されている年次報告に関しては取り上げられていません。
ここでは3つの岩窟墓を報告し、7章で比較的長く、ジェフティナクトの墓で見られる自叙伝の重要性が述べられるとともに、派生する問題を検討しています。

石切場の調査も同時に着手しており、こちらとしてはその成果に注目したいところ。ですがこの巻では単に、多数残存するデモティックのインスクリプションの存在を伝えるだけ(p. 5)で、詳しくは踏み込んでおらず、むしろドイツの専門雑誌、MDAIKで発表している調査報告の方が役立ちます。建築学的観点からは、天井に多く残る赤い線などを、どのように理解するのかの記述が待たれます。

非常に広い敷地の範囲を研究対象としており、かなりの年数にわたる調査を予定しているらしく思われますけれども、最初に敷地を訪れて興味を抱いたのが1984年と序文にありますから、すでに20年以上が経過。第2巻目以降は厚くなりそうです。
ここからは未盗掘の墓が見つかり、世界的なニュースとなりました。中王国時代の直前となる第一中間期末期に属するヘヌゥ(Henu)の墓(紀元前約2050年)。サイトが用意されています。

http://www.arts.kuleuven.be/bersha/

しかしこのサイトを通じての調査自体の報告は滞っており、2002~2004年の分しか掲載されていません。
本はカラー図版を多用した立派な造りで、今後の調査の進展が楽しみです。周到な準備を重ねて編まれたことが良く分かる報告書の一例。
OLAのシリーズは良く知られており、例えば最近の、ウィーンで活躍するマンフレッド・ビータックへの献呈論文集(OLA 149、全3巻、2006年)や、第9回国際エジプト学者会議録(OLA 150、全2巻、2007年)もここから出版されています。

2009年7月31日金曜日

Crozat 1997


ピラミッドの組積に関わる原論を扱おうとした書。第1章で、ピラミッドに関連したこれまでの論を3つに大別し、建造技術に関わるものは第2章で、さらに3つに分類しています。こうした分け方が大胆。
ファルーク・ホスニによる序文つき。

Pierre Crozat,
Système constructif des pyramides
(Canevas, Frasne, 1997)
159 p., 1 tableau.

Table des matières:
Préface de Farouk Hosni, Ministre Égyptien de la Culture, p. 5
Introduction, p. 7

I L'état de la question, p. 15
A. Les théories mystiques, p. 16
B. Les théories pseudo-scientifiques, p. 21
C. Les théories constructivistes, p. 22

II Analyse critiques des théories constructivistes
A. Le système à rampes frontales, p. 25
B. Le système à rampes latérales ou enveloppantes, p. 36
C. Le système par accrétion et outils de levage, p. 40

III Esquisses d'une autre approche, p. 47
IV Notre raisonnement, p. 61
V Concept de construction, p. 83
VI Modélisation, p. 97
VII Rampe et Grande Galerie, p. 107
VIII Confrontation, p. 123
IX Hypothèse de l'exploitation de carrière, p. 137
X Conclusion, p. 147
XI Bibliographie sommaire, p. 151
Annexe: Tableau comparatif des assises de la Grande Pyramide, p. 153

J.-P. AdamJ. Keriselの考え方も紹介しており、珍しい。前者は古代ローマ建築を専門とする建築家・考古学者、また後者は地盤工学を専門とする研究者で、ピラミッドについて何冊も本を書いている人。筆者のCrozatは建築家・都市計画家で、だからこういう論考にも目を向ける余裕があるわけです。
考え方は独特で、まずはギリシア語で書かれたヘロドトスの「歴史」の抜粋から始め、

"Ainsi fut construite cette pyramide: quelques-uns appellent ce mode de faire les 'krossaï' et les 'bomides', une telle appellation [bomides] au début, après qu'ils construisent, une telle autre [krossaï]. Les pierres suivantes furent soulevées grâce à des machines faites de morceaux de bois court, en les enlevant de dessus le sol [pour les mettre] sur la première rangée de degrés..." (p. 48)

と、"krossaï", "bomides"の区別から出発。
その後、数式がいくらか出てきますので、覚悟が必要。
例えば68ページでは、

η Ση
1 - 1  1
2 - 3  1+2
3 - 6  1+2+3
4 - 10 1+2+3+4
5 - 15 1+2+3+4+5
6 - 21 1+2+3+4+5+6
7 - 28 1+2+3+4+5+6+7
8 - 36 1+2+3+4+5+6+7+8
9 - 45              +9
10 - 55               +10
etc.                   etc.

という階段状に並べられた数式があらわれます。これで驚いてはいけません。積み木を用い、実際にピラミッドの構築を縮尺1/50でやって見せています。

黄金比φや円周率πについて否定するために、足し算だけでピラミッドのかたちを正しく復原して見せている、そういう印象が与えられます。基本的な事項から考えるということが徹底され、目眩がする本。否定のために費やされている労力が尋常ではありません。
黄金比φや円周率πをピラミッド論の内に持ち込むことにはいびつさが感じられるわけですが、その反論にも同様のいびつさが押し出されている例。
しかしこうした論の、おおもとのモティーフは重要で、検討に値します。

ほぼ正方形の版型の、グレーの表紙のペーパーバック。
巻末に収められた大きな折り込みの図は、イタリア隊のMaraglioglio & Rinaldiによる図に加筆を施したもの。
クフ王のピラミッド内における諸室、あるいは上昇通廊でうかがわれる、いわゆる「ガードルストーン」の配置に、根拠を与えようとした考察も面白い。
ピラミッドを巡っての、こういった論が数年ごとに出てくるというところが、欧米の思考力の凄さです。
おそらく、この本の中で最も批判されているのはJ.-Ph. ロエール。エジプト学では高名ですが、論理としてはたいした解釈を提示できず、誤謬ばかりを撒き散らした張本人、という見解になるかと思われます。

Burchell 1991


古代家具の重要な本を出したHollis S. Bakerの家具会社の歩みを辿るとともに、それが同時に世界の家具史を語ることにもなっているという、風変わりな本です。
筆者は家具やインテリアを紹介する一般雑誌の編集を勤めた人。

Sam C. Burchell,
A History of Furniture:
Cerebrating Baker Furniture - 100 Years of Fine Reproductions

(Harry N. Abrams, New York, 1991)
176 p.

Contents:
Introduction, p. 6

The Long Pageant
Early Furniture, p. 18

The Golden Age
England, p. 34
France, p. 50
America, p. 64
The Industrial Revolution, p. 88
Modern Times, p. 108

The Art of Reproduction
The Baker Furniture Company, p. 128
Materials and Techniques, p. 146
The Factory Floor, p. 162
New Directions, p. 168

Bibliography, p. 172
Index, p. 174
Photograph Credits, p. 176

ほぼ各ページに1枚の図版が掲載されており、そのうちの75枚がカラー。
前近代の、機械の普及による手作業の駆逐と、これに抗う過去への憧憬、まったく新しい形態を生み出した近代の家具、並行して造られる様式を伴った家具の話などが、有名人たちを登場させながら語られていきます。

"Social life, clothing fashion, and many other aspects of everyday life are revealed in the decorative arts of any period of history, particularly in the furniture." (p. 14)

"He [=Italian cultural historian Mario Praz] goes on to suggest that "even more than painting or sculpture, perhaps even more than architecture itself, furniture reveals the spirit of an age." (p. 17)

といった表現の仕方が興味深く思われます。
ここでは家具というものの特殊なあり方が言いあらわされようとしており、文化に対する皮膚感覚のようなものが、とても大切に考えられていることが良く理解できます。
建築史と室内装飾史との分岐点であるのかもしれません。ベーカーの一生と、彼の思いを支えた時代背景がつぶさに描かれていて貴重。

2009年7月30日木曜日

Spencer 2009


大英博物館によるエジプトのナイル・デルタの都市に関する発掘調査の最終年次報告書。冊子体ではなく、電子版として配布する形式を取っています。カラー写真が豊富に使え、何よりも安く作成することが可能で、さらには世界中へ簡単に配布できるというのがポイント。
良いこと尽くめのようですが、まだ一般的な方法ではありません。長く残るかどうか、誰もが訝しく思っているところがあり、また改変も簡単にできるため、信頼性に欠けるという短所もあります。報告書では、基本的に改訂版を出すという発想がありません。
配信を考慮して容量を軽くしていますけれども、印刷して見たい向きには別途、連絡すれば送ってくれるようです。

A. J. Spencer,
with a contribution by Tomasz Herbich,
Excavations at Tell el-Balamun 2003-2008.
(2009)
109 p.

Contents:
http://www.britishmuseum.org/research/research_projects/excavation_in_egypt/reports_in_detail.aspx

調査の概要は、大英博物館のサイトで見ることができます。

http://www.britishmuseum.org/research/research_projects/excavation_in_egypt.aspx

欄外の註は設けず、すべて本文内で処理しています。レイアウトにあまり凝ってもしょうがないという考え方がなされており、いくらか詰め込んでいる印象。遺物の扱いも、無理して図化せずに、ただ写真を載せてキャプションに寸法を書き込むという方法をしばしば採っています。レリーフも、モティーフが分かりにくいものを除き、基本的に描き起こしの図を作成していません。
簡便な、分かりやすい纏め方。

32ページでは壁体の脇の砂層の中に置き去りにされた煉瓦が報告されていて、"Mud-brick axis-marker"と呼ばれています。たぶん、こういう出土遺物は普通の発掘調査では無視されることも少なくないと思われますが、検出された場所が建物の奥の長軸上に近い場所ですから、あえて脱落した煉瓦とみなさず、積極的な意味を与えています。建物の平面全体と、遺物の出土場所を考えて、なおかつ建物をどういう順番で作るかという点を勘案した際の発想。
煉瓦の本を出している人ですから、細かい注意を払っています。建築の素養の有無が、こうした点から知ることが可能。

71-72ページには、「扉の軸受け」が出てきますが、しかしこれは非常に大きく("The hollow in the top is 73cm across on the exterior of the rim, with a depth of 14cm. The rounded rim is damaged in places and is 12cm high.", p. 72)、別の用途に用いられたのではないかという疑いがあります。情報が少ないので詳細が不明ですが、写真を見る限り、軸を受けたような明瞭な擦痕は見受けられない模様。
では何に使われたのかというと、適当なものが思いつきません。著者も迷った挙げ句の記述です。

第11章で扱われている磁気探査(pp. 104-109)は、ここでも成果を挙げています。テル・エル=ダバァにおける成功例が、ここでも参照されています。何が写っているのかを見る作業は、しかし現地の事情を良く知っていないと、とうていできるものではありません。掘らずに土の中から土の建築を見つけるという、画期的な科学技術。

プロジェクトの開始が1991年で、2008年の終了時まで20年近く掘り続けられた遺構。調査報告の方法について大きな示唆を与える発表です。

2009年7月29日水曜日

Clark (ed.) 2007


カンボジアのシェムリアプに行くと、アンコール地域のクメール建築がたくさん見られますが、それらの中で、たぶん最も複雑怪奇な構成を呈しているバイヨン寺院に関する本格的な研究論文集です。数年前から予告されながら、なかなか出版されませんでした。

Joyce Clark ed.,
Bayon: New Perspectives
(River Books, Bangkok, 2007)
403 p.

執筆陣は非常に豪華で、

Joyce Clark
Ang Choulean
Olivier Cunin
Claude Jacques
T. S. Maxwell
Vittorio Rovera
Anne-Valerie Schweyer
Peter D. Sharrock
Michael Vickery
Hiram Woodward


といったメンバーが、各研究分野の立場から執筆をおこなっています。バイヨン研究にとっては必読の、きわめて重要な書です。
この中で一番長く書かれているOlivier Cuninによる論考、

"The Bayon: An Archaeological and Architectural Study"
(pp. 136-229)

は圧巻で、多数の図版や加工した写真を交えて、何回も増改築が繰り返されたバイヨン寺院の建設工事の模様を、立体的に図示することが試みられています。久々に面白い建築報告を読むことができました。壮大で非常に複雑な立体パズルだと言えるかも知れません。

イントロダクションでVickeryは、

"Readers will also note serious disagreement, especially between Jacques and Cunin, on the dating, both absolute and relative, of the phases of the Bayon's construction; and their views, presented here, differ from earlier proposals, for example by Parmentier and Dumarçay." (p. 18)

と、クニンとジャックの論が異なることを指摘しており、これは特に"16 courtyard passageways (structures A-P)"がいつ建てられたかに関しての見解の違いで顕著となっていますが、建築学からは、ジャックの論が成り立たない点はきわめて明瞭。
石のかたちや目地を見ることで、どちらの石が先に設置されたのかは分かります。立体的な造形の把握に疎いため、ジャックは致命的な間違いを犯しています。
砂岩における微弱な磁気の傾向(帯磁率)を検出することで、石材の切り出された場所が異なる点を指し示せるようになりましたが、その結果もクニンの説を支持しています。
Dumarcay 1967-1973にてクニンの博士論文がダウンロードできることはすでに記しましたが、この論考は非常に重要。

Olivier Cunin,
De Ta Prohm au Bayon, Analyse comparative de l'histoire architecturale des principaux monuments du style du Bayon, 4 vols.
(Nancy, 2004)

Tome I: Analyse comparative de l'histoire architecturale des principaux monuments du style du Bayon
(viii), 484 p.
Tome II: Contribution à l'histoire architecturale du temple du Bayon
(iii), 181 p.
Annexe I: Documents graphiques
(i), 313 p.
Annexe II: Documents photographiques
(i), 98 p.

http://tel.archives-ouvertes.fr/tel-00007699

Clark編集のこの本は比較的細かい字でびっしりと印刷された書籍で、通常通りの文字の大きさであったなら、きっと600ページを超える本になっていたでしょう。
サンスクリット語、ヴェトナム語・チャム語、クメール語の専門用語集が巻末に付されています。
註も充実しています。

Arnold 1987


ダハシュールに残るアメンエムハト3世のピラミッドに関する報告書。泥煉瓦の巨大な塊が残る遺構です。ドイツ考古学研究所カイロ支部(DAIK)からのシリーズの一冊。
「ダハシュール」の綴りは国によって異なったりするので、検索に際しては面倒なところがあります。ここではドイツ語ですからDahschurですが、英語ではDahshurもしくはDashur、フランスではDahchour、イタリア語でDahsciurなど。
なお、出土遺物を扱った第2巻、"Die Funde"はかなり遅れて2002年に出ています。

Dieter Arnold,
Der Pyramidenbezirk des Königs Amenemhet III. in Dahschur,
Band I: Die Pyramide.
Deutsches Archäologisches Institut Abteilung Kairo (DAIK),
Archäologische Veröffentlichungen 53
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1987)
105 p., 72 Tafeln, 3 Faltpläne.

Inhaltsverzeichnis:
Vorwort, p. 7
1. Baubeschreibung, p. 9
2. Einzelbetrachtungen zur Bautechnik, p. 73
3. Die Geschichte der Pyramide und ihrer Erforschung, p. 93
4. Die Stellung des Pyramidenbezirkes Amenemhet III. innerhalb der 12. Dynastie, p. 97
5. Bemerkungen zur Entwicklung der Innerräume der Gräber von Königinnen der 12. Dynastie, p. 99
6. Sachregister, p. 104
Abkürzungsverzeichnis, p. 105

彼が51歳の時の報告書で、1979年にはディール・アル=バフリーのメンチュヘテプの建物の報告書を出版。ダハシュールにおけるアメンエムヘト3世のピラミッドに関するこの本を出した翌年の1988年には、リシュトのセンウセルト1世のピラミッドの報告書の第1巻をメトロポリタン美術館から英語で出しています。むろん、同時並行に仕事を進めていたに違いないわけで、彼の旺盛な活躍はこの頃から顕著になります。

見どころの多い報告集。
Building in Egyptに転載されている図面が多くうかがわれます。玄室の笠石の組み方はもちろんのこと、古代エジプトではきわめて珍しい、部屋と部屋とのつながりを確認するための模型の紹介、また計画寸法の検討などが面白い。
p. 82, Abb. 40には、煉瓦に指でいろいろな印を付けているさまを15例ほど挙げており、注意を惹きます。A. J. SpencerによるBrick Architecture in Ancient Egyptが1979年の出版ですから、そこには反映されていません。煉瓦についてのこうした情報は、今一度、纏められておいて良いかと思われるところです。

2009年7月28日火曜日

Shaw and Nicholson (eds.) 2000


「大英博物館古代エジプト百科事典」で知られている二人組が纏めた「古代エジプト物質材料技術事典」。類書がほとんどありません。
古代技術の全般ということならR. J. Forbesの全9巻のものがありますが、すでに古く、レイデンのブリル社は現在改訂中。またシンガー、他の「技術の歴史」についても前に触れました。

「ビチューメン」とか「エレクトラ」とか「カルトナージュ」とか、文献の中で時折出くわす訳の良く分からない物体を詳しく調べたい時には、この本が必要になります。
「石」や「煉瓦」、あるいは「金属」、「顔料」といった項目もあり、基礎知識を得るには最良の書籍。権威ある本となっています。

Ian Shaw and Paul T. Nicholson,
Ancient Egyptian Materials and Technology
(Cambridge University Press, Cambridge, 2000)
xxii, 702 p.

700ページを超す分厚い本。
数多くの執筆者によって書かれていますけれども、この本はもともとA. ルーカスがたったひとりで著したものが出発点になります。

Alfred Lucas,
Ancient Egyptian Materials
(Edward Arnold & Co., London, 1926)
viii, 242 p.

彼は科学分析や修復に携わった人間です。ツタンカーメンの墓が発見されてから数年後に出版されている点も興味深い。
この本、後にはハリスが大幅な改訂をおこないました。それが「ルーカス&ハリス」の名で知られている刊行物です。初版と比べるならば、ページ数が倍増している点に注意。題名も少しだけ変更されています。手元にあるのは第4版のレプリント。

Alfred Lucas, revised by J. R. Harris,
Ancient Egyptian Materials and Industries
(Edward Arnold, London, 1962, reprint of 4th ed.)
xvi, 523 p.

この第4版は何度も増刷され、1989年にはヒストリーズ&ミステリーズ・オブ・マン社から、さらなるリプリントが出されました。多くの需要があったことをここから了解できます。

科学分析が発達し、"Archaeometry"などの専門誌が刊行されている現在、材料や技術に関する情報は増大する一方。もはや、たったひとりで書き切れるものではありません。

Lancaster 2005


ローマ時代にコンクリートのヴォールト天井がどのように造られたかを詳細に記した本。図版が豊富で、自分で撮影した写真に点線や矢印などを入れて説明をおこなっており、非常に分かりやすい。遺跡のどこをどう見ればいいのか、参考になります。
近代建築の巨匠である建築家ルイス・カーンの文を巻頭に引用しています。

Lynne C. Lancaster,
Concrete Vaulted Construction in Imperial Rome:
Innovations in Context

(Cambridge University Press, Cambridge, 2005)
xxii, 274 p.

Contents:
Preface, xix
1 Introduction, p. 1
2 Centering and Formwork, p. 22
3 Ingredients: Mortar and Caementa, p. 51
4 Amphoras in Vaults, p. 68
5 Vaulting Ribs, p. 86
6 Metal Clamps and Tie Bars, p. 113
7 Vault Behavior and Buttressing, p. 130
8 Structural Analysis: History and Case Studies, p. 149
9 Innovations in Context, p. 166

Appendix 1. Catalogue of Major Monuments, p. 183
Appendix 2. Catalogues of Building Techniques, p. 205
Appendix 3. Scoria Analysis, p. 222
Appendix 4. Thrust Line Analysis, p. 225

序文を読むと、ケンブリッジ大学のクールトンに指導を受けたと書いてあります。Coultonは古代ギリシア建築に関する碩学(Coulton 1977)。他に教えを受けたという学者たちも良く知られた人たちで、建築ゼミの様子など、充実した教育環境が良く了解されます。こういう世界は羨ましい。

基礎部分やヴォールト天井に埋め込まれた大きなアンフォラ壺に関してまとまった情報を提供しており、興味深い。荷重を軽減するため、あるいは地下の水に対する処置の工夫が記述されています。
構造に関しても、かなりの分量を割いて説明しており、建築家・考古学者としての知識を存分に発揮している書。同じように建築家・考古学者として活躍しているJ.-P. Adam(Adam 1984)やM. Wilson Jones(Wilson Jones 2000)の著作を意識して、誰がどこまで書いているかを念頭に、これまで書かれていない点を入念に論述しています。
ローマのヴォールトと言えば、その到達点となるのはパンテオン。そのパンテオンに至るまでのさまざまな技術が通覧されます。最後には社会的背景にも触れられます。

4つのアペンディックスを見ると、Wilson Jonesの本の影響を感じます。
Appendix 1は、主な遺構に関するコメントを付しており、どこが見どころなのかを説明。
建造技術を扱ったカタログのAppendix 2では、"personal observation"の欄が並んでおり、面白い。全部、自分で観察して特徴を見つけたリスト。
ペーパーバックの再版も出ており、良く読まれていることが知られます。
建築報告書として、見習うべき点が多い。

2009年7月27日月曜日

Gundlach and Taylor (eds.) 2009


王の住居に関する国際シンポジウムの報告書。王の家はほとんど全く残っていないので、皆がどう考えているかが興味深いところです。早稲田大学の河合望先生から教えていただいた書籍。
王権に関するシンポジウムの一環として開催され、こうした催しは4回目で、過去の記録はÄgypten und Altes Testament (ÄAT) 36:1-3 (1995-2001)に所収されています。

Rolf Gundlach and John H. Taylor,
Egyptian Royal Residences:
4. Symposium zur ägyptischen Königsideologie / 4th Symposium on Egyptian Royal Ideology,
London, June, 1st-5th 2004.
Königtum, Staat, und Gesellschaft früher Hochkulturen (KSG) 4,1
(Harrassowitz, Wiesbaden, 2009)
viii, 197 p.

Table of Contents:
Vorwort, vii
Preface, viii

Denise M. Doxey,
The Nomarch as Ruler: Provincial necropoleis of the Old and Middle Kingdoms, p. 1
Andrea M. Gnirs,
In the King's House: Audiences and receptions at court, p. 13
Rolf Gundlach,
'Horus in the Palace': The centre of state and culture in pharaonic Egypt, p. 45
Eileen Hirsch,
Residences in Texts of Senwosret I, p. 69
Peter Lacovara,
The Development of the New Kingdom Royal Palace, p. 83
Stephen Quirke,
The Residence in Relations between Places of Knowledge, Production and Power: Middle Kingdom evidence, p. 111
Christine Raedler,
Rank and Favour at the Early Ramesside Court, p. 131
Maarten J. Raven,
Aspects of the Memphite Residence as illustrated by the Saqqara New Kingdom necropolis, p. 153
Kate Spence,
The Palaces of el-Amarna: Towards an architectural analysis, p. 165

Lacovaraの論文内容は、しかし彼の博士論文である

Peter Lacovara,
The New Kingdom Royal City.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1997)
xiv, 202 p.

から進展なし。Spenceのものも、同じ年に出された彼女の博士論文、

Katherine Emma Spence,
Orientation in Ancient Egyptian Royal Architecture
(Dissertation, unpublished. University of Cambridge, September 1997)
vi, 248 p., 37 Figs.

の内容と代わり映えがありません。
むしろここではGnirsやQuirkeたちの論考が目を惹きます。
中王国時代の王宮を研究する際には非常に重要となる1冊です。

2009年7月26日日曜日

Gabolde (ed.) 2008 (Fs. J.-Cl. Goyon)


J.-Cl. Goyon
が70歳を迎えた記念の献呈論文集。双子のGabolde兄弟のうちのひとりが編集をおこなっています。
41人が執筆。目次はIFAOのウェブサイトにて公開されています。ザヒ・ハワースも古王国時代の彫像について文を寄せています。

Luc Gabolde (textes réunis et édités par),
Hommages à Jean-Claude Goyon offerts pour son 70e anniversaire.
IF 981. Bibliothèque d'Étude (BiÉtud) 143.
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2008)
(iv), 434 p.

Table des matières:
http://www.ifao.egnet.net/uploads/publications/sommaires/IF981.pdf


Goyonと共著の多いGolvinは、リビアの神殿に関して執筆しています。

Jean-Claude Golvin,
"Le temple no 8 de Sabratha: Iséum ou Sérapéum?
Restitution architecturale, identification, datation", pp. 225-239.

エジプトだけではなく、ギリシアやローマなどの遺構にも詳しい建築畑の人間ならではの考察。
このGolvinという人は、地中海世界の古代遺跡の復原図を見事な水彩画で描くことで非常に知られており、最近は画集を何冊も出しています。検索するならば、各国語に訳されているものが出てくるはず。
アレキサンドリアの復原図も数枚描いており、ポスターにもなっていました。

Claire Simon-Boidot,
"Encore une révision de l'ostracon BM 41228 et sa représentation de reposoir de barque !", pp. 361-373.

論文のタイトルに感嘆符を付けるというのは、きわめて異例です。小さな建物の平面が描かれ、寸法も入っている石灰岩片(オストラコン)が大英博物館に収蔵されているのですが、その再吟味。幅は従来、「27キュービット」と解釈されてきましたけれど、これを著者は「17キュービット」と読み、分析がなされています。
この人は「ネビィ」と呼ばれる単位に関する考察で知られていますが、異論も多い。この論文でも、JEA 79 (1993), pp. 157-177やCdÉ LXXV/149 (2000), pp. 66-79などに掲載された「ネビィ」に関する自分の論文を註で引用していますが、この長さの単位が広く認められているわけではありません。
「ネビィ」については

Elke Roik,
Das Längenmaßsystem im alten Ägypten
(Christian-Rosenkreutz-Verlag, Hamburg, 1993)
xiii, 404 p.

の出版後、論議が高まり、Göttinger Miszellen (GM)やDiscuttions in Egyptology (DE)などの雑誌に、関連する論考が掲載されています。

2009年7月25日土曜日

O'Connor 2009


1960年代からアビュドスの発掘調査に関わっている第一人者による、古代エジプトの聖地アビュドスについての非常に詳しい重要な書籍。エジプト学における最も権威ある「エジプト学事典」、Lexikon der Ägyptologie (LÄ)で「アビュドス」の項を執筆しているのもこの人でした。とてもお勧めしたい本です。
ただ7ページに"Aydos"と脱字があって、本の題でも用いられている大事な地名が間違って記されており、この書籍は本当に大丈夫なのかと思わせますが、ここは編集者による文章で、オコーナーが書いた部分ではありません。

David O'Connor,
Abydos:
Egypt's First Pharaohs and the Cult of Osiris

(Thames & Hudson, London, 2009)
216 p.

Contents:
General Editor's foreword, p. 7
Preface, p. 9
Introduction, p. 15

PART I Abydos and Osiris, p. 22
1 The Discovery of Abydos, p. 22
2 Osiris - Eternal Lord Who Presides in Abydos, p. 30
3 The Temple of Seti I, p. 42

PART II Life Cycle of a Sacred Landscape, p. 62
4 The Rediscovery of Abydos, p. 62
5 The Evolution of a Sacred Landscape, p. 70
6 The Expanding Landscape of the Middle Kingdom, p. 86
7 The Landscape Completed: Abydos in the New Kingdom, p. 104
8 The Climax of the Osiris Cult, p. 120

PART III Origins of the Abydos Landscape, p. 136
9 The Royal Tombs of Abydos, 136
10 The Mysterious Enclosures of Abydos, p. 158
11 Boat Graves and Pyramid Origins, p. 182
12 Abydos: Summing-up, p. 201

注目されるのは第3部で、G. ドライヤーが発掘したU-j墓の検討、そこから見つかった「世界最古」と言われる文字の読解、中が空っぽの葬祭周壁の解釈や、14隻並んで発見された木造船の正体、またこれらがピラミッドの歴史とどうつながるか、などという点にありますが、問題をそれぞれ分かりやすく説明しており、面白い。

DjerとQa'aの墓の復原については、ドライヤーの説に対し、祠堂も付設した自説を、立体図も交えて紹介しており(Fig. 85)、こういうところにオコーナーの考え方があらわれています。ただ、第3王朝の階段ピラミッドを、それまでのマウンド墓、祠堂、葬祭周壁によるセットのひとまとめにしたものと捉えようとして、時代を遡ったDjerとQa'aの墓にも祠堂を設けた復原を提示している感じも若干、与えます。
常に大きく構想しようとするこの人の姿勢が、時として強引さを与えかねないということ。

天に登るための階段をピラミッドは象徴しているのではという、専門家も良く言っている考え方を明確に否定しており(pp. 198-199)、この点は賛成。
ここ20年ほどで、ピラミッドがどのような過程で生まれたかに関する研究が進みました。アビュドスのマウンド墓や、マスタバの中に隠されたマウンド状の覆いの様相が詳しく分かってきたからです。その要点が語られています。

註の数は抑え気味にされて、読みやすさが第一に勘案されていることが分かります。カラーページもいくらか差し挟まれています。
5ページにわたるSelect Bibliographyが巻末に付され、細かい活字で数百の文献を紹介。

"The definitive account of one of Egypt's most important ancient sites, written by the world authority"

という宣伝文句は、嘘ではありません。

2009年7月24日金曜日

Eyre, Leahy and Leahy (eds.) 1994 (Fs. A. F. Shore)


献呈論文集のひとつ。題名の"Unbroken reed"、「壊れていないアシ」というのは日本ではちょっと訳が分かりにくい書き方ですが、旧約聖書の中の預言書である「イザヤ書」第42章3節には、

「また傷んだアシを折ることなく、ほの暗い燈火を消すこともなく、真理をもって道を示す」

という下りがあらわれ、同様の「マタイ伝」第12章20節なども踏まえた表現だとみなすことができます。アシという植物は古代エジプトで馴染みが深く、筆はアシ製でしたし、ヒエログリフにもなっていますし、エジプト学の先生を褒め讃えるにはなかなか良い文句です。
33人がこの本で執筆しています。聖書は66の書からなり、またイザヤ書も66章から構成され、その半分の数を示しますが、もちろんこれは偶然。


Christopher Eyre, Anthony Leahy, and Lisa Montagno Leahy eds.,
The Unbroken Reed:
Studies in the Culture and Heritage of Ancient Egypt in Honour of A. F. Shore.

Occasional Publications 11
(The Egypt Exploration Society, London, 1994)
vii, 401 p.

献呈論文集には重要な論文が収められることがしばしばあるのですが、しかし世界のあちこちで少数部だけ出版されるという性格の書籍のために、全部に目を通すことがなかなか難しい部類に入ります。イギリスのEESから出版されているため、それでもこれは入手しやすい本。
ピラミッドの本を書いているエドワーズが、ピラミッドの形式から第4王朝の王の順番を推測するという内容の論文を寄せていて、面白い。文字資料を重視する傾向の強い中にあって、建築のかたちから年代順が分かるのではないかという大胆な提案です。上部が失われたピラミッドを、玄室の位置や通廊の繋ぎ方で類別しています。ピラミッド時代のただ中にある第4王朝時代で、さまざまな試行錯誤が繰り返されたことが改めて了解される内容。

I. E. S. Edwards,
"Chephren's Place among the Kings of the Fourth Dynasty", pp. 97-105.

スペンサーは泥煉瓦を扱っていますが、壊れた状態の泥の塊がどのように地表にあらわれ出るのか、例をいくつか挙げて説明しています。これも泥煉瓦の遺跡を実際に見たことのある人なら納得のいく発表で、長い年月によって泥が溶け出し、地表を覆ってしまう変化によって、調査時に見誤りやすい点を指摘しています。

A. J. Spencer,
"Mud Brick: Its Decay and Detection in Upper and Lower Egypt", pp. 315-320.

エジプトの模型オタクとして広く知られるトーリーは、ゲベレイン出土の模型を扱っています。ここからはちょっと変わった様式のものが確かに出ているので、注意が必要。

Angela M. J. Tooley,
"Notes on Wooden Models and the 'Gebelein Style'", pp. 343-353.

2009年7月23日木曜日

Spencer 1979


古代エジプトの煉瓦造建築に関して取り纏めた珍しい本。さまざまな技法が図示されています。スペンサーは中部エジプトにあるアシュムネインの神域の発掘調査を手がけていた人。この本もアシュムネイン調査と関連しており、言わば自分が使うためのカタログを出版したとみなせなくもない。

A. J. Spencer,
Brick Architecture in Ancient Egypt
(Aris & Phillips, Warminster, 1979)
v, 159 p., 56 plates

建築調査は石造のものが優先的に対象とされたというのは理由があって、要するに煉瓦造の建物は壊れ方が甚だしく、その記録方法がきわめて面倒であるために、手をつけるのが億劫であったということに尽きます。修復方法も、未だ確立しているとは言えません。難題が折り重なっている建材だと言うことができます。昔のように、取り除けてしまうと非常に楽なのですが、そうも行かない。

こういう種類の本が今まで出ていなかったというのが不思議です。
ただ、これはカタログなので、最初から最後まで通して読むようなものでは決してない。必要な時に、該当部分を引いて読むものです。巻末の組積方法の分類はきわめて見にくく、立体的に表現するなど、工夫があっても良かったと思われます。ブケウムの報告書における分類に倣ったのでしょうが、惜しまれるところ。
この本が出版されてから、ケンプが煉瓦の項目を執筆したり、補足の情報がいくつかあるけれども、まだ煉瓦については書かれるべきことが残されているような気がします。

煉瓦の組成分析については、あまり進んでいないように感じられます。ナイル川が運んできた黒土に、砂やスサを混ぜる他に、何を加えるのかということがはっきりしていません。灰を混ぜたとか、動物の糞を混ぜた、という説がどこまで本当なのかが良く分かっていないということです。
アマルナを訪れると、使われている煉瓦の砂質成分が多いことに驚かされます。煉瓦と言っても質が均一ではないから、丁寧な報告ではいくつかに分類されたりしますが、アマルナの煉瓦の特質といったものがもっと強調されても良い。

煉瓦の大きさに関しては、時代に応じた変化がグラフ化されているけれども、一般化できるようなものではなく、例えば煉瓦の長辺を測ると時代が分かるようにはなっていません。古代エジプトに規格が無かったのかという主題はしかし、キュービット尺があれだけ長い期間にわたって固定化されていたことを勘案するならば、奇妙な話です。タラッタートの大きさは、建造作業において便利ではなかったのかなど、話題は拡がります。

他の近隣地域の煉瓦についてはMooreyなどが書いていますが、これも年代が経っており、改訂を求める声は多いはず。技法に関する写真も増やした新たなものが望まれています。

日本における焼成煉瓦の包括的な研究というと、

水野信太郎
「日本煉瓦史の研究」
法政大学出版局、1999年

がまず挙げられるはず。これ以外はciniiで論文などを検索するのが早道となります。

2009年7月22日水曜日

Houdin 2006


クフ王のピラミッドの建造過程に関する新説を披瀝した書。テレビでも番組が放映されています。特徴はピラミッド内に螺旋状のトンネルを構築し、内側から建造していったという、度肝を抜く発想。

Jean-Pierre Houdin,
Translated from the French by Dominique Krayenbühl,
Foreword by Zahi Hawass,
Khufu:
The Secrets behind the Building of the Great Pyramid

(Farid Atiya Press, Egypt, 2006)
160 p.

ミイラの紹介やツタンカーメンの死因についてベストセラーを書き、テレビにも多数出演しているBob Brierがこれに関わって、下記の共著を出しています。Brierも出演しているテレビ番組は、たぶんこちらの本の映像化と言っていい。

Bob Brier and Jean-Pierre Houdin,
The Secret of the Great Pyramid:
How One Man's Obsession Led to the Solution of Ancient Egypt's Greatest Mystery

(Smithsonian Books, Washington DC, 2008)
304 p.

権威あるスミソニアンから出版されている点に注意。出版社で本を選ぶのは危ないという好例。
BrierはHoudinの説を書き広めており、例えば旧版を改めて40ページばかりの文章を加え、昨年に出した書、

Bob Brier and Hoyt Hobbs,
Daily Life of the Ancient Egyptians
(Greenwood Press, Connecticut, 2008.
2nd ed. First published in 1999)
xvi, 311 p.

の221ページ以降でその記述を見ることができます。
この"Daily Life"はしかしひどい本で、"Architecture"の章(pp. 155-180)は読むに耐えません。特に宮殿の説明は最悪で、B. ケンプによるアマルナ王宮の解釈は完全に無視され、20世紀中葉に出されたA. バダウィの「カタログ本」全3巻のみに情報源を頼っています。マルカタ王宮の平面図(p. 164)はでたらめ。あとは推して知るべしです。

ピラミッドの内側にトンネルが巡らされており、これを搬路としているという無理が何故、拒まれていないのかというと、大きく理由はふたつあって、ひとつは重力計による科学的な測定により、1980年代の後半に、このピラミッドの内部が一様な密度を持たないことがはっきりしたからです。日本の早稲田隊も同様の調査をしていますが、ここでは触れません。
入れ子状に納めた枡を上から眺めたような様態を呈するその平面の解析図は、同じ建築家を職業とする者による詳細な考察が述べられた書、Dormion 2004でも最初のFig. 1に挙げられています。

"En ce qui concerne la Grande Pyramide elle-même, qui présente d'être intacte, des mesures de microgravimétrie réalisées en 1987 par EDF ont permis d'éclairer cette question en évaluant la densité du monument et ses variations. On a pu mettre en évidence des alternances de densité conformes à ce que produirait la présence d'une structure interne en gradins (fig. 1)."
(pp. 35-36)

解析図から、Dormionは内部に段状の構築("gradins")があると推測しており、ピラミッド研究に通じた者の通常の解釈は、だいたいこうなるかと思われます。
ただ、よく見ると確かに四角い螺旋状を呈するようにも見え、これが出発点。

もうひとつは、かねてより問題とされてきた基準の設定方法で、地上から空中に140メートル以上も上がった位置のピラミッドの先の仮想点に向かって、どうやって4つの稜線を合致させたのかという施工上の困難に関する推察。すでにふたりの建築家による、Clarke and Engelbach 1930の本の第10章で、詳しく指摘がなされている問題です。
常に複数の基準点を見通しながら建造を進めたと考えるならば、ピラミッドの周りには何も付加したくはありません。これがピラミッドの外周を取り巻く斜路を、短絡的に内部へ想定する根拠となっているようです。

以上の2点を勘案した結果として、斜路をピラミッド内に想定するというのは、しかしかなり飛躍があり、古代エジプト建築に関係する者で誰も支持しなかったから、建築には疎いけれども説明の上手なBrierが出てきたのではないかと思われるところ。

真っ直ぐ伸びた建造用の斜路があまりにも長くなるために、その存在が否定されるという論理は、説明になっていません。U. Hölscherの考察による、カルナック神殿の第1塔門の裏に残存している泥煉瓦造の斜路の復原のように、途中で折れ曲がっていれば問題が解消します。
四角い構造物の内部に通廊が巡らされている例として、ネウセルラーの太陽神殿の報告書の第1巻、

Ludwig Borchardt,
Das Re-Heiligtum des Königs Ne-Woser-Re,
Band I: Der Bau
(Verlag von Alexander Duncker, Berlin, 1905)
vii, 89 p., 62 Abb., 6 Blatt.

を引いてくるのも、どうかと思われます。ここでは巨大なオベリスクを台座の上に立てた姿が復原されており、台座の上に登るための通廊が設けられているのであって、用途が異なります。

古くはPetrie 1883(The Pyramids and Temples of Gizeh)で、クフ王のピラミッドの各石積みの層の高さが異なることが、巻末の折り込みページの棒グラフで明らかに示されており、そこでは地上の第1層から頂上に向かって、大まかには石は次第に小さくなる傾向がうかがわれるものの、途中で何回か、また大きくなったりし、各層の石材の高さが全体として段状に変化する点が示されているのが興味深い。
長年にわたって考えられてきた疑問点をまずは整理して考えるべき。ピラミッド内部に思いを巡らせるならば、ほぼ等間隔の距離で垂直に配された、上昇通廊に見られる4つの石版の意味も考えどころです。
組織的に石を積む順序が結果として、緩い勾配の斜めの線を外側に描くと言うことは充分にあり得ます。

いたずらに「科学的」という装いを過剰に纏っているものだから、Houdinの話はややこしくなっています。重力計の計測結果の図示が意味する答えは、ピラミッド内部の螺旋トンネルというひとつの説に限定されて収斂するわけではないと思われます。
ただこのウーダンによる論考に見るべき点があるとするならば、それはピラミッドの内部構造に焦点を当てたというところで、このことは評価されて良いかもしれません。
ピラミッド研究はGreaves 1646など、かなり前から開始されているので、この360年以上にわたる欧米の蓄積を、数日や数週間で手早く理解しようとするのは難しい。誤謬を辿ることも大事です。

2009年7月21日火曜日

Haring 2006


前にも触れたことがありますが、エジプト学でTTとは"Theban Tomb"のことで、その第1番がディール・アル=マディーナにあるセンネジェムの墓。2番はその隣の息子たちの墓となります。
センネジェムの墓に記された文字を集成したのがこの本。パレオグラフィーというのは「古文書学」と訳されたりしますけれども、フィロロジー「文献学」との区別が分かりにくい。手書きの文字のかたちなどを調べることによって地域による違いや年代差など、古い時代のことを研究する分野のことを指します。
他にもレキシコグラフィーとかプロソポグラフィー(プロソフォグラフィー)とか、何々グラフィーというのが複数あって、非常に紛らわしい。
ま、文字を専門にやろうと思わない人は、あまり気にしないことです。

Ben J. J. Haring,
The Tomb of Sennedjem (TT1) in Deir el-Medina:
Paleography.
IF 958.
Paléographie Hiéroglyphique (PalHiero) 2
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2006)
iv, 220 p.

フランスのオリエント考古学研究所(IFAO)からは、すでにパレオグラフィーのシリーズが3冊出ており、他にもエスナ神殿のアーキトレーヴに刻まれた文字や、アブー・シンベルの小神殿の文字などが既刊。

http://www.ifao.egnet.net/publications/catalogue/PalHiero/


にてリストを見ることが可能です。
10ページ目からは文字の向きが記してあって、H. G. Fischerが1977年に書いた本の影響がうかがわれる箇所。向きに規則があるわけですが、いわゆる"retrograde"がこの墓にもあって、その説明が11ページにあり、縦書きの文章が左から右に書かれているものの、通常とは異なって文字は右向きとなります。
人の足であらわされる文字の向きが、場合によって左向きにも右向きにもなるという話は、やはり面白い。墓室に「入る」あるいは「出る」という記述に合わせ、向きが逆転します。

13ページからは間違いの指摘が記されており、古代エジプト人による手書きの文章が、3200年ほど経ってから徹底的に添削されています。30ほどの書き誤りが見つかっており、列挙されていますけれども、「死者に鞭打つ」とはこのことを言います。

今日、労働者集合住居内にはもはや立ち入れない状態となっており、墓室内にも保護のためのガラスの衝立が巡らされているはず。時代の流れで見学しにくくなっていますが、他方でウェブサイトは充実しており、

http://www.osirisnet.net/tombes/artisans/sennedjem1/e_sennedjem1_01.htm


では3ページにわたってこの墓を丁寧に紹介しています。
近年、この墓を包括的に扱った論文にも触れておくべきでしょう。同じ2006年の執筆。カタロニア語で書かれています。

Marta Saura Sanjaume,
La Tomba de Sennedjem a Deir-El-Medina TT.1
(Thesis, University of Barcelona, 2006)
xi, 541 p.

http://tdx.cesca.es/TESIS_UB/AVAILABLE/TDX-0814106-114225/


全文をPDFでダウンロードできますが、12の章ごとに分かれているため、少々手間がかかります。遺物をカタログ化した労作。著者の名とセンネジェムとは、子音の並びが似ているところも面白い。著者はこれをきっかけに研究を進めたのかもしれません。

多色で描かれたヒエログリフを紹介した本は、そう言えばまだあんまり出ていません。
パピルスは伊東屋などで販売されていますから、日本画の顔料を膠で溶いてこれに描き、それを纏めるだけでも出版する価値があると思います。ヒエログリフは1000文字ほどありますが、全部を扱う必要がなく、良く用いられるものだけで充分。
文法を知る必要が一切ないというのが大きな利点です。卒業研究のテーマとしては最適と思われるのですが。

2009年7月13日月曜日

Martin 1987


サッカーラ(サッカラ)でツタンカーメンに仕えた時代の高官ホルエムヘブ(ホレムヘブ)や宝庫長マヤなどの墓を発見した、G. T. マーティンによる新王国時代のレリーフの報告書。ホルエムヘブは後に王となり、テーベの王家の谷に自分の墓を造営しています。
この本、第1巻のみが現在、刊行されています。

Geoffrey Thorndike Martin,
Corpus of Reliefs of the New Kingdom from the Memphite Necropolis and Lower Egypt, Vol. I
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1987)
xv, 63 p., 114 plates.

最終ページは63ページ。
けれども本文の途中にたくさんの図版が入っており、実際にはもっとページがあります。

画像の説明はきわめて簡単。
これまであまり知られていなかったりした画像資料をできるだけ広く認めてもらおうという意図のもとに集成し、刊行された本。続巻が強く望まれますが、新しい墓、特にラメセス時代のものが次々と見つかっている状況ですので、なかなか難しい。
謝辞の最後には1985年の9月という日付が見られ、かなり前から準備されていた本であることがうかがわれます。

インデックス(索引)が設けられており、各博物館に収蔵されている登録番号と、この本で紹介されている番号との対照リスト(コンコーダンス)、及びレリーフに記載されている個人名のリストが巻末に収められています。
本を新しく出す時には、長く使ってもらいたい、読んでもらいたいと思うのは誰もが強く願うことで、その時にこの巻末のインデックスがきわめて重要になります。
単に、知っていることを長々と書くだけでは駄目だというしるし。使う人の立場に立って、使いやすいように心がけられています。こういう配慮がないと、書評では正しく指摘されます。

マーティンは歴史学者であるとともに碑文学者。ですからこういう点は周到。
文献学者がレリーフの本を出すのかという反発がもちろんあるわけで、それを充分わきまえた刊行です。むしろ、美術史学者が何故、こうしたものを早く用意しないのかという批判もここには当然、隠されていると考えるべき。

この本からは、最低限、こういう報告をすべきだという示唆をさまざまに知ることができて、非常に役に立ちます。完全版下で原稿が用意されたと推測され、著者の苦労が忍ばれる本。
カイロの早稲田ハウスで今回、久しぶりに見て、改めてマーティンの考え方に接した様な気がしています。
マーティンが一般向けに書いた本としては、

Geoffrey T. Martin,
The Hidden Tombs of Memphis.
New Discoveries from the Time of Tutankhamun and Ramesside the Great
(Thames and Hudson, London, 1991)
216 p.

が知られています。巻末にはメンフィス地域で現在確認されていない新王国時代の高官たちの墓のリストが掲載されており、きわめて面白い。
なお、関係資料として

The New Kingdom Memphis Newsletter
(Leiden and London, 1988-. ca. 20 p)

No. 1 (October 1988)
No. 2 (September 1989)
No. 3 (October 1995)

があり、これは関係者たちのみで刊行されている冊子。メンフィスにおけるトゥーム・チャペルを研究する者にはおそらく必読の刊行物。
こういうふうに、アクセスが難しい少部数刊行の出版物がある点が厄介です。続巻があるのかどうか、当方も把握していません。

アマルナの王墓の報告書だったか、マーティンが現場まで歩いていくという記述が序文にあって、驚きました。アマルナを訪れたことのある人であったら、それがどれ程の長い距離なのか、分かるかと思います。
この人の書いた報告書の序文はすごく興味深い。間違いだらけの、印刷技術が始まったばかりの時の本からの引用があります。
何が正確で何が正確でないか。また何が伝わって後世に残り、何が伝わらないのか。
そうした経緯を知っている書き方がなされています。

2009年6月15日月曜日

KMT 20:2 (Summer 2009)


20周年を迎えたアメリカの雑誌の最新号。古代エジプトに関する一般向けの情報誌で、年に4回発行。海外からの購読料は年に47ドル。
カラー写真を多く掲載した体裁によって人気があります。
誌名のkmt 「ケメト」とは、古代エジプト語で『エジプト』のこと。黒い土地という意味に由来します。赤い砂漠の土地はデシェレトと呼ばれ、対照的な表現。赤と黒の配色は、エジプトの国旗にも反映されています。
Kemiという誌名を持つエジプト学の専門誌も別にあるので注意。

KMT: A Modern Journal of Ancient Egypt,
Volume 20, Number 2 (Summer 2009)
88 p.

Contents:
Editor's Report (p. 2)
Nile Currents (p. 5)
For the Record (p. 10)
Nefertiti's Final Secret (p. 18)
Meresamun: Life of a Temple Singer (p. 29)
A Permanent Exhibition of Ancient Egyptian Life, Death & Eternity (p. 37)
A Unique "Bed" with Lion-Headed Terminals: A KV63 Report (p. 44)
The Oases of Egypt's Western Desert: A Photo Essay, Part 2 (p. 49)
The Ancient Egyptian Museum, Shibuya, Tokyo (p. 61)
Book Preview: Intimate Egypt (p. 70)
Luxor Update: A Pictorial (p. 76)
Books & Briefs (p. 84)
Where is it? (p. 88)

王家の谷の63号墓における調査で見つかった特殊な「寝台」に関する最新のレポートを掲載しています。棺を載せるための台として作られたようで、非常に奇妙。端部にはライオンの頭部の彫刻が付加されますが、脚部などは端折った形式。
ライオンの頭部の飾りが付いているとは言え、個人的にはこういう粗末なものを「ベッド」とは呼びたくはないんですが。

東京の渋谷で新たに開館した古代エジプトの個人美術館の紹介がとても面白い。
目次では66ページから始まる記事となっていますが、これは誤りで、61ページから9ページを費やして紹介されています。
菊川氏が創設した私的なこの美術館に関しては、すでにいろいろと情報が知られており、

http://www.egyptian.jp


という公式サイトのURLも当誌において掲載されていますけれども、そこでは登録会員番号の入力が求められます。来館に際しては電話予約が必要。
エジプト学者の仕事場を模した展示方法が目を惹きます。

近藤二郎・大城道則・菊川匡
「古代エジプトへの扉:菊川コレクションを通して」
文芸社、2004年
197 p.

も参照のこと。