2009年12月8日火曜日

Raven 2005


20世紀の後半、ツタンカーメン王に仕えていた大物クラスの者たちの墓がメンフィス地域で並んで見つかり、この発見が新王国時代の貴族たちの墓の研究を一挙に推し進めました。
このうち、将軍ホルエムヘブは後に王となって、ツタンカーメンの名前を歴史から抹殺した極悪人。王となる前にメンフィスの地で墓を造り始め、次第に規模を大きく増築させたことが分かっていますが、結局、王位を継ぐと自分の墓をテーベの「王家の谷」にも改めて設けています(KV57)。

歴史から消されたはずのツタンカーメンについて、3000年以上も経ってから次第に詳細が分かってくるというのはちょっと信じられないことなのですけれども、何事も大らかにことを運んだ古代エジプト人たちですから、「抹殺せよ」と上層部から言いつけられても、けっこういい加減にこの命令をこなしたらしい。
ツタンカーメンの墓が発見された当時は、「若くして死んだ王がいた」ということ以外に、ほとんど詳しいことが分からない状態だったのですが、完全にはツタンカーメンの存在が抹消されなかったため、また記録捏造の辻褄合わせが杜撰でもあったため、今日、いろいろ知られる点があるということになります。
エジプト学の魅力のひとつは、あるいはこうした一面だらしないとも思われる、人間味溢れる痕跡に触れることが多い、という印象の内に潜んでいるのかもしれません。
「しょうがない連中だなー」という共感です。

Maarten J. Raven,
with the collaboration of Barbara G. Aston, Georges Bonani, Jacobus van Dijk, Geoffrey T. Martin, Eugen Strouhal and Willy Woelfli.
Photographs by Peter Jan Bomhof and Elisabeth van Dorp, and a plan by Kenneth J. Frazer.
The Tomb of Pay and Raia at Saqqara.
74th Excavation Memoir
(National Museum of Antiquities Leiden and Egypt Exploration Society, Leiden and London, 2005)
xxiv, 171 p., 160 pls. (157-160 in color)

発掘調査の費用の捻出はどこでも困難をきわめる状況にありますけれども、イギリスのEESはオランダと組んでメンフィス地域の研究をおこなうことを選びました。この本でも、出版費の助成をオランダの財団から受けています。
本書はホルエムヘブの墓の南東に残る、パイとその息子のライアの墓に関する報告書。パイはアメンヘテプ3世時代の人物であると判断されています。ライアの石棺片も見つかりました。
つまり、小さな遺構ですが、活気溢れた時代の、かなり位の高い貴族の墓だということ。

一冊の本の中に考古・建築・人類学などの観点からの報告を纏めていて、クロス・リファレンスも充実。どの部屋から何が出土したかをまとめた巻末の"Spatial Distribution of Objects"(p. 167)を設けた点は、見習うべきかと感じます。

著者はレイデンのRMOにいる考古学者ですが、建築にまつわる報告への配慮も怠っていません。新王国時代第18王朝の末期以降、高位の貴族たちは石棺を造りましたが、その多くは報告されずに終わっている点を受け、ライアの壊された石棺を接合する面倒な立体パズルをおこなった後、図を交えながらこれを論じています。
日本隊がダハシュールの墓域で見つけたメスの石棺についても未報告の石棺リストの中に並んでいて(p. 57)、これは「英語でもっと詳しく報告しろ」という催促。

65ページの、石棺をどのように地下の玄室へと導き入れたかを示す図8は、D. アーノルドの"Building in Egypt"の影響を強く受けて描かれた図だとしか思われない。シャフト墓の内部の狭い各寸法を念頭に置いて、どのような手順で一番下の部屋へ石棺が運び込まれたかを図示していますが、"sarcophagus case"と"sarcophagus lid"とが「別々に運び込まれた」と考察している点は注目されるべきところ。
運び入れる作業の途中で石棺に傷がつき、これを地下で直したらしい点を述べ、またいくらか色塗りもこの地下室でなされたであろうとみなしている指摘も面白い。

建築学的には、平面を分析した16ページの"Metrology"が貴重です。キュービット尺の完数を用いて計画がなされたことを説明していますが、

"All these proportions refer to the bare brickwork only; the application of limestone wall revetment changed the overall effect. Because so many of the limestone architectural elements are now missing, it is very difficult to assess whether these, too, observed fixed rules of proportion."

とあって、壁体の芯の部分をなす泥煉瓦造の壁の位置が完数による基準格子に乗ることを示唆しており、石版を煉瓦壁に張って壁厚が増えている仕上げの状態を想定しつつ建物が計画されたわけではないであろうという微妙な点に触れています。
彼が発表している

Marten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002),
pp. 53-69.

が題名もなしに註として付されていますが、JEOLのこの論考は検討を要します。
平面の分析については大きな異論がありませんけれども、シャフトの深さまでキュービット尺の完数で計画されたのではないかという考えは、建築の人間としては少々、受け入れ難い。
本書における、

"The total depth of Shaft i is 7.70 m (almost 15 cubits)."
(p. 17)

といった記述も気になります。

地下の部屋をどの深さで造り始めるかという問題は、シャフト墓が密集した墓域での全体の断面図を勘案して考えるべきで、これはたぶん、テーベの「王家の谷」においても当て嵌まります。建築に関わる者であったら、たぶん「掘りやすい地層を見計らって掘るだろう」という結論になるはずです。
平面にキュービット尺の完数を適用するのは、建築の専門家や熟練工が少ない中、その方が建造の工程として合理的になるからであって、一方、シャフトの深さにまでキュービットの完数を当て嵌めることは、掘削作業の実際を蔑ろにすることへ繋がりかねません。
要するに、古代エジプトの建造作業においてなぜ完数が用いられるのかが、未だ考古学者に深く理解されていないと言うことになります。
これは地質学者にも協力してもらって、説得力に富んだ説が展開されることを期待したいトピック。

上部が緩い円弧となっているステラの断片(図77、Stela [72])では、ヒエログリフが円弧に沿って外周に刻まれていますが、頂部から左方へと続く横書きの文字列が、だんだんと傾いていくために途中で向きを90度変え、縦書きに変更されています。
矩形のステラの外周で、上辺の中央から始まって、振り分けで左右に文字列が続き、隅部で横書きから縦書きに変わることは良く見られますが、上部が丸いステラでもこれがおこなわれると、このようになるという興味深い作例。

図157〜160では、泥プラスターの上に描かれた壁画がカラー写真で掲載されています。陽の下に晒される地上部の壁画に対し、どのように保存を図ったのか、これも個人的に聞きたい点ではあります。

前書きを1ページだけ、Geoffrey T. Martinが記していて、「王家の谷の仕事に最近は追われ、長年携わってきたメンフィスの実りある調査から離れることに胸が裂かれる」といったことを述べています。
Honorary Directorという肩書きをもらっているけれども、現場の人であることを最後まで続けようとしている碩学の言葉。

2009年12月7日月曜日

Hobson 2009


何と、古代ローマにおけるトイレの専門書です。巻末に地名の索引が用意されているように、西はイギリスから東はシリアまで、また北アフリカのチュニジア・リビアにおける都市遺跡のトイレの類例も集めています。大理石の便座が用意され、下には水を流すための溝が設けられている公衆便所の有様、また簡単に作られた一人用のトイレの様子が良く分かります。
最も数多く資料が集められているのはしかし、やはりポンペイで、豊富な写真によって紹介がおこなわれています。

Barry Hobson,
Latrinae et Foricae:
Toilets in the Roman World

(Duckworth, London, 2009)
x, 190 p., 142 text figures.

Contents:
Acknowledgements (vii)
Preface (ix)

1. Toilets in the Roman world: an introduction (p. 1)
2. Roman Britain (p. 33)
3. Pompeii (p. 45)
4. Chronology of toilets (p. 61)
5. Upstairs toilets (p. 71)
6. Privacy (p. 79)
7. Rubbish and its disposal (p. 89)
8. Dirt, smell and culture (p. 105)
9. Water supply, usage and disposal (p. 117)
10. Who used these toilets? (p. 133)
11. Motions, maladies and medicine (p. 147)
12. Who cares about latrines? (p. 155)
13. Future research? (p. 165)

Glossary (p. 173)
Bibliography (p. 177)
Index of Places (p. 187)

序文は、

"Why, you may ask, a book on Roman toilets?"

という書き出しから始められており、また最終章の題は「これからの研究?」と疑問符付きです。どうも変な研究対象であるという点は、著者自身が最も良く承知しているということ。
集められた写真は著者自身が各国の遺跡を回って撮りためたもので、例えばリビアのレプティス・マグナで見られる男女別のトイレについては、

"The huge bath house, dedicated to the Emperor Hadrian, has two large latrines (Figs. 39 & 40), one allegedly for women which is slightly smaller than the one for the men. Each has a central peristyle with a colonnade, within which are seats in rows down three of the four sides. The side opposite the entrances in the men's latrine is 16 m long and the other two sides are over 13 m, giving a seating capacity of about forty-eight persons. The diameter of each hole is only 15.5 cm and they are between 60 and 65 cm apart. The seating is marble, 8 cm thick." (pp. 26-28)

と、観察が非常に細かい。間仕切りもないところに、ほとんど隣の人と触れ合う距離で座ったのでは。
著者が自分で実際に現場を見に行って、あちこち測ったことは明らかです。誰もまだこのように詳しく書いたことがないので、この部分の記述については一切の註がありません。イタリア隊がこの大規模な都市遺跡レプティス・マグナを発掘したわけですが、これを指揮したGiacomo Caputoなどによる文献は巻末の参考文献にまったく掲載されていません。オランダの研究者Gemma C. M. Jansenの論考、ローマ都市における水を扱った2002年の博士論文などを核として、対象を各地にまで拡げたように思われます。

「この主題を述べるに当たって、差し障りがあるかもしれない用語を避けることは難しい」などと、序文で前もって書いています。トイレを扱う以上、これは仕方のないこと。特に、

"Scatological words occur occasionally, mostly when quoting other authors' translations" (p. ix)

とあって、これはラテン語による文献や落書きを引用した本書の後半部分が相当します。実地調査とともに、文献調査ももちろんおこなっているわけで、ここが大変重要。
読んで一番面白いのはここであるといっても良く、ポンペイで発見されている注意書き、

Stercorari ad murum progredere si pre(n)sus fueris poena(m) patiare neces(s)e est, cave

If you shit against the walls and we catch you, you will be punished (CIL IV.7038)
(p. 144)

などは、今の日本でもたぶん見られるはず。いつになっても事情は変わらないし、不埒な者はどこにでもいるようです。
別の書きつけ、

Quodam quisem testis eris quid senserim ubi cacatuiero veniam cacatum

Someday indeed you will learn how I feel. When you begin to shit I will shit on you (CIL IV.5242)
(p. 145)

では、注意書きを記した人の、わなわなと震えている怒りのほどが伝わってきて、この人に同情したくなります。
古代エジプトでも便座と言われているものが遺物として残されており、機会があったら実測してみようか、と思ったりしました。
20世紀末からトイレ研究は進展を見せているようです。「トイレ考古学」、あるいは「環境考古学」をキーワードとして検索されると良いのでは。

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2014年7月4日、追加:

Hobsonは500ページ以上のポンペイのトイレ写真集も出版しています。BARのシリーズ。

Barry Hobson,
Pompeii, Latrines and Down Pipes: A General Discussion and Photographic Record of Toilet Facilities in Pompeii.
BAR International Series 2041.
Oxford, Archaeopress, 2009.

2009年11月16日月曜日

ボルヘス 1975 (Japanese ed. 1980)


『本の形式を問いかける本』ということであれば、ボルヘスの短編「バベルの図書館」に出てくる無限の本棚がまず思い起こされますけれども、この短編集のタイトルにもなっている「砂の本」もまたその変奏。
常軌を逸した本をついに手に入れるものの、後にはそれを図書館へ「捨てに行く」奇妙な話。本についての高度な専門知識が交錯する、良くわけの分からない売買交渉も読むことができます。
全部で13の短編を収めた小説集。原書の題で"arena"という単語を用いています。武道館などでのコンサートで、「アリーナ」席が設けられることの、もともとの古い意味。流れた血を吸わせるため、闘技場に撒かれた「砂」に原意を持つと言われます。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、篠田一士
「砂の本」
現代の世界文学
(集英社、1980年)
169 p.

原著:
Jorge Luis Borges,
El libro de arena
(Emece editores, Buenos Aires, 1975)

目次:
他者(p. 7)
ウルリーケ(p. 23)
会議(p. 31)
人智の思い及ばぬところ(p. 63)
三十派(p. 75)
恵みの夜(p. 81)
鏡と仮面(p. 91)
ウンドル(p. 99)
疲れた男のユートピア(p. 109)
贈賄(p. 123)
アベリーノ・アレドンド(p. 135)
円盤(p. 145)
砂の本(p. 151)
後書き(p. 161)

アメリカの作家ラヴクラフトに捧げられた「人智の思い及ばぬこと」は、この世の生き物でない怪物の正体を最後まで具体的に明かさないままに終わる恐怖の小説。例えばラヴクラフトの代表作「ダンウィッチの怪」を彷彿とさせます。
周知の通り、ラヴクラフトの小説の中にはクトゥルフ神話にまつわる「何とかホテプ」という人名も出てきて、古代エジプトからヒントを得たようです。「ヘテプ」というのは古代エジプト語で「満足する」、というほどの意味でしたね。ラヴクラフトはヨーロッパの画家H. R. ギーガーにも影響を与えました。ハリウッド映画「エイリアン」を導いた、画集「ネクロノミコン」の作者。エジプト学の残響が、こうしてアメリカとヨーロッパの大陸間を往復したことになります。

個人的にもっとも惹かれるのは「円盤」と題された、5ページしかない短い掌編。王と名乗る年取った男が、片側しか持たない円盤というものを握って登場します。
「贈賄」も、研究者にとっては面白いはず。ひとつの論文を巡っての学者同士の、<客観的な判断>を巡る争いです。
現世の世界の逸脱を巡って文章を一心に書き続けたラテンアメリカの作家による、目眩を引き起こす短編集。

フーコーの「言葉と物」の冒頭に示されたボルヘスの作品の引用で分かるように、この人の短編は考え方が捻れている、奇妙なものばかり。
考えの水準がもともと異なることを、意図的にねじ曲げて相互を接触させようとした作家で、図書館に勤務していた時にいったい何をやっていたのか、想像するとそれだけで楽しい文学者。

エコ 1977 (Japanese ed. 1991)


「フーコーの振り子」、また映画化された「薔薇の名前」など、広く読まれた小説の作者でもあるこのイタリアの記号論の学徒は、「論文の書き方」という本も出版しています。いかにもウンベルト・エコ(ウンベルト・エーコ)によって記されたらしい書物で、入門書であると同時に、面白い読み物としても成立させています。
基本的な問題がほとんどすべて記してあるという点が魅力的。すでに十数ヶ国語に訳されている大人気の書です。今でも入手は可能。

ウンベルト・エコ著、谷口勇訳、
「論文作法:調査・研究・執筆の技術と手順」
教養諸学シリーズ1
(而立書房、1991年)
xv, 276 p.

原書:
Umberto Eco,
Come si fa una tesi di laurea: le materie umanistiche
(Bompiani, Milano, 1977)
249 p.

目次:
第I章 卒業(博士)論文とは何か。何に役立つか
第II章 テーマの選び方
第III章 資料調査
第IV章 作業計画とカード整理
第V章 原稿作成
第VI章 決定稿の作成
第VII章 むすび

論文という形式のさまざまなあり方に触れており、それは「モノグラフ的論文か、パノラマ的論文か」、「古典的テーマか、現代的テーマか」、あるいは「科学的論文か、政治的論文か」といった節を用意していることからも明らかです。発表という出口の方法に知悉している人だから、広範なやり方が開陳されています。
凡庸な教授なら、普通は「客観的な書き方をしなさい」などというだけで終わるところ。

「指導教員に利用されるのを回避するには」という項目もある点がとても可笑しい。許される剽窃の限度までもが紹介されていて、「訳者あとがき」に述べられているように、本当はある程度、論文を書いた経験を有する者に向けて書かれていることが、こうして了解されます。

「外国語を知る必要があるか」の項も興味深い。「自分が知らず、また学ぶ気もない言語についての知識を要しないような論文を選ぶべし」(p. 29)と書いています。こういう具体的な(?)指導は珍しい。教員にとって、とっても参考になります。手抜きの方法をはっきり伝えているわけです。
「引用の仕方」(p. 187)、また「脚注のつけ方」(p. 202)は詳細に語られています。
例としてアメリカの4コマ漫画であるチャーリー・ブラウンの心理を問いかける論文を書く場合の、笑える目次案というものも掲げてあって、この著者のただならぬサーヴィス精神を知ることができます。

彼はHPを持っており、

http://www.umbertoeco.com/

ではビブリオグラフィーを見ることができます。クリックするとすぐにAmazonのページに飛ぶようにリンクを設けているところは御愛嬌。
エコは映画化されている「007」のシリーズのジェームズ・ボンド研究でも知られており、1982年には「ボンド・ガール」に関する論考が雑誌「海」に掲載され、当時は評判になりました。興味のある方は探し出してみてください。

そう言えば、特定の読者に向かって論文が執筆され、これを巡って2人の学者による丁々発止の対決を描いたボルヘスの短編もありましたっけ。

Hitchcock 2000


ミノア建築について論考を重ねているL. A. ヒッチコックの博士論文。副題に出てくる「コンテキスト」というのは美術を解説する時の用語で、20世紀後半から使われるようになりました。
建築の場合には「文脈主義」というように無理して訳され、具体的な敷地の状態から要請されるさまざまな意匠上の明示、というほどの意味で用いられることが多いと思います。簡単に言えば、周りとそぐわない建物を建てても良いの? という反省から起こった流れです。もともとは現代哲学における考え方に由来しています。これを「添い寝主義」と悪口を叩いた人もいました。

この本では、これまでの考古学の成果を疑うことから出発していますので、ああそうなんだ、疑わしいんだ、と面白く感じる部分が少なくありません。序文の7行目では、

"I did not understand why a "Palace" was a palace"

なあんていう衝撃的なことを平気で書いていますし、これは古代エジプトの場合にも当て嵌まるはず。つまり、クノッソス宮殿とかファイストス宮殿とか、これまで良く知られていた宮殿は、「宮殿」ではないかもしれない、ということが記されているわけです。
高名な研究者たちが言ったという、「ミノアの宮殿群は、発掘によって失われた」、「ミノア考古学には『事実』というものがなく、考古学者にできることは、彼らが望んでいることをしゃべることだけだ」、という見解にも驚かされます。
すでに固定されているかのように思われる既往の成果に対し、違う見方ができないかと問いかけること。それが大きなモティーフとなっている本です。

Louise A. Hitchcock,
Minoan Architecture:
A Contextual Analysis.

Studies in Mediterranean Archaeology and Literature,
Pocket-book 155
(Paul Astroms Forlag, Jonsered, 2000)
267 p., including 33 illustrations

第1章の「エーゲ海考古学の考古学に向かって」が最も重要で、考古学のあり方を問い直す試み。ミシェル・フーコーが「知の考古学」を書いたことを踏まえたもの。あとの章は「広庭、拝礼、入口」(第2章)、「倉庫と作業場」(第3章)、「ミノアの建物における広間」(第4章)と、部屋ごとに検討がなされます。
本文の一番最後ではジャック・デリダのへのインタビューに言及して終わっているように、現代の思考におけるいびつな面を意識した上で書かれていますから、時として話が難しくなります。ウンベルト・エーコ(エコ)などの著作も参考文献リストに挙げられていますので、いろいろと読み拡げなければなりません。

スウェーデンに本拠を置くPaul Astroms Forlagという出版社は、考古学者のP. アストレム教授が20世紀の中頃に創立したもので、古代地中海考古学、特にギリシア付近の地域に関しては非常にたくさんの本を刊行しています。
ヒッチコックは共著で

D. Preziosi and Louise A. Hitchcock,
Aegean Art and Architecture.
Oxford History of Art
(Oxford University Press, New York, 1999)
262 p.

も書いていて、カラー図版を多く収めた見やすい本。ペーパーバックも今は刊行され、比較的安価にて入手できるはずです。

Meskell 2002


古代エジプト人の生活を追った本というのは、もう何冊もあるけれども、エジプト学におけるイギリスの重鎮、J. ベインズのもとに居ただけのことはあって、文字資料としてはっきり残されていない生活の像、それをどのように把握するのかということ自体が大きなテーマのひとつとなっています。こういうテーマはとても珍しい。
図版はだから、モノクロで60枚ほどしかありません。エジプト学の中で、さまざまな情報がどのように組み立てられ、解釈されているのかを念入りに見直す作業がおこなわれています。意図的に難しい話題が選択されていると考えられます。分かりやすい題名とは相反し、この分野の専門家に向けて反駁している本と言っていい。

Lynn Meskell,
Private Life in New Kingdom Egypt
(Princeton University Press, Princeton, 2002)
xvii, 238 p.

冒頭には人類学者のマリノウスキーや、哲学者フーコーの著作からの引用が並んでいます。Hitchcock 2000のミノア建築に関する本でも、ミシェル・フーコーの「知の考古学」が引用されていました。こうしたところは注意しておきたい点です。
第1章の題は"The Interpretative Framework"で、private life,「私生活」とはそもそも一体何かということから話が始まります。特に、古代エジプトにおける私生活、ということが再度問われており、ここからも、たいへん意欲的な内容であることが了解されます。
だから、例えばストロウハルの本、これは和訳が出ていますが、

エヴジェン・ストロウハル著、内田杉彦
「図説 古代エジプト生活誌(上・下巻)」、原書房、1996年

と、ある意味で対極的な位置にある本といって良い。
中心となるのはやはりデル・エル=メディーナで、オストラカに記されていることが資料として、しばしば引用されているのが特徴。

いわゆる「寝室」というものがこの村落の家々の奥にはあるんだけれども、その部屋にベッドが置かれていた痕跡は一切見つかっておらず、逆に外の通りからベッドが出土している点がとても奇妙。寝るためだけの部屋ではなく、もっと別の機能もあったらしいと言われている点が改めて指摘されています。

この建築遺構、細い路地からすぐ入った第一の部屋からは、動物の糞や藁くずが家の中から発見されているので、動物と一緒に暮らしていたことは明らかであるとみなされています。床が一段低くなっているこの部屋にはまた、「造り付け寝台」のようなものがあることも知られていますが、人が寝るためのものではなく、むしろ宗教に関わることがおこなわれたのではないかと考えられています。これは考古遺物からの判断。
出産用のベッドではないかという説については、この時代の出産ではむしろ椅子を使っていると思われる絵画資料があるので退けられるものの、女性のためのしつらいが目立つ点は強調されています。
こうしたことはすでに分かっていた事項なんですが、著者はさらに一歩進め、第一の部屋は女性のためのもの、またそのすぐ奥の第二の狭苦しい部屋は、男性のためのものではないかと推定しています。

この家の男たちは、いくらか離れたところにある王墓の造営に関わった石工・彫工、また画工であったので、毎日家には帰ってこなかったと考えられてきました。どうも王家の谷へ行く途中の仮小屋に寝泊まりし、10日に1日か2日しか帰らなかったらしい。本来の住居の内部は、女性たちの手によって勝手に都合良くしつらえられたようです。
3200年前の昔から、何とかは「元気で留守がいい」と考えられていたことが、ここからも容易に推察されます。やれやれです。

工人たちが構成していた労働者集団の動向については、また別の研究分野となりますので、この本では触れられていません。
建築の分野では、しかしこういう分け隔てることをしないことが重要。
彼女は後に、雑誌JMAにも2004年に論文を寄せています。Ä&L 17 (2007)を参照。

Ä&L (Ägypten und Levante) 17 (2007)


Ä&LはオーストリアのM. ビータックが編集をしている雑誌で、彼が発掘調査を続けている下エジプトのテル・エル=ダバァと密接な関連がうかがえます。18本の論考のうち、半分ぐらいがダバァ関連。2007年度の発掘調査の仮報告も、もちろん載っています。

Ägypten und Levante:
Internationale Zeitschrift für ägyptische Archäologie und deren Nachbargebiete
(Egypt and Levant:
International Journal of Egyptian Archaeology and related Disciplines
)
17 (Wien, 2007)
321 p.

エジプトとその近隣諸国との関連性に重点を置いた雑誌で、地中海の全体を扱っている、例えば

Journal of Mediterranean Archaeology (JMA):
hhttp://www.equinoxjournals.com/ojs/index.php/JMA

のような雑誌とも違うし、またエーゲ海に関わる地域を主として扱う

Aegaeum:
http://www2.ulg.ac.be/archgrec/publications.html

などのような雑誌とも異なります。
JMAは数年前に判型を変え、大きくしました。この雑誌に古代エジプトのことは滅多に載らないんですが、その中では

L. Meskell,
"Deir el-Medina in Hyperreality:
Seeking the People of Pharaonic Egypt",
in JMA 7:2 (1994), pp. 193-216.

の論考は見る価値があり、当方の知る限り、ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の屋根が繋がっていて、屋上のネットワークが存在したはずだという点を明記している稀な論文。細い道が集合住居址の中を縦断している平面図だけ眺めていては、思いつかない考察。イスラームの住居を考えている人たちには、屋上が例えば女性たちの空間として知られていたりするわけですが。
Meskellは2002年にも注目すべき本を書いています。

Ä&Lはエジプトに軸足を置いていることを常に忘れていない雑誌であると表現すれば良いんでしょうか。良くも悪くもビータックという研究者に多くを負っているところがあり、背表紙にもちゃんとBietak (Hrsg.)と印刷されています。雑誌の背表紙に編集者の名が掲載されるのは珍しい。

もっとも長い論文は、

Ezra S. Marcus,
"Amenemhet II and the Sea: Maritime Aspects of the Mit Rahina (Memphis) Inscription",
pp. 137-190.

で、これが一番興味深かった。メンフィスで花崗岩に記された文字列が見つかっており、第12王朝の初期のものですが、エジプトとレヴァントとの間の航海の様子をさまざまに考察しています。
いろいろな船荷がリストとして石に記されているわけですが、それら全部を足した重さや量を推測して計算したり、またそれに基づいて船の大きさを推理したりもしている。
「アジア人、一人当たり40kg」なんていう体重の推測が考察の中の表に記されていて面白い。

最後のページには、テル・エル=ダバァの報告書の第16巻から20巻までの刊行が予告されています。この遺跡の報告書、まだまだ完結しそうにありません。エレファンティネの報告書と双璧。

2009年11月14日土曜日

Fitchen 1961


ゴシックの大聖堂がどのように建造されたかを、豊富に図版を交え、説明している本。非常に有名な本で、しばしば教科書などでも取り上げられています。

John Fitchen,
The Construction of Gothic Cathedrals:
A Study of Medieval Vault Erection

(Chicago, 1961)
xix, 344 p.

因みにアーチ、ヴォールト、ドームというのは、かたちに対してつけられている名称ではなく、本当は構造的な解釈を交えた命名であって、戸口の上部が半円形に仕上げられていればアーチかというと、間違えます。真正アーチとにせアーチとが峻別されているのはこのためです。
平たいアーチ、これはフラット・アーチとかリンテル・アーチとも言われますが、そういうものも存在します。フラット・ヴォールト(平たいヴォールト)の具体的な姿についてはRabasa Diaz 2000を参照。

副題に記されている「ヴォールト」とは、耳慣れない言葉。でも建築学科の学生でも、知らない者はいっぱいいますから、気にする必要はありません。要するに曲がった面を持つ天井の便宜的な総称です。かまぼこ型の天井を多く指し、時にはシャンパン・グラスを逆さまにしたような、ドームに似た縦長の形状の天井(ドーミカル・ヴォールト)や、あるいは中華蒸し器の蓋のように浅く球状に盛り上がっている天井もこれに含まれます。ドームは重要な部屋に架けられるヴォールト天井の呼び方。
これがアーチと組み合わせられたり、あるいはヴォールト同士が交差したりする時、少々面倒なことになってきます。基本は半円を描くかたちが用いられるのですが、アーチやヴォールト、またドームというものを石や煉瓦で作る時にはどうしても木の型枠が必要で、この型枠の製作を単純にしようとする結果、作図しやすい半円が選ばれる傾向にあります。
ところが、正方形平面の各辺に半円アーチを架け渡した交差ヴォールトを想定した際、対角線の長さは一辺よりも約1.414倍の長さとなりますから、この対角線のアーチは平たくつぶれた楕円形のかたちとなってしまい、半円にはなりません。

対角線方向のアーチに半円形を採用した時には、事情が異なります。正方形の各辺は、今度は背の高い放物線となるはず。少なくとも、幾何学的に厳密な立体図を作図しようと思えば、そうなります。この作図にはしかし手間がかかり、あんまり実用的ではありませんでした。
時代や地域を問わず、建造作業にはつきものなのですが、端折って計画することがだんだんと試みられます。曲面の端部の形状、及び膨らんでいる部分の高さを決定し、後は「なりゆき」で埋めるというやり方。

天井を構造的に安定した曲面で覆い、なおかつ複雑ではない造り方を目指した時に、頂部が尖ったアーチが出現します。そのありさまをうまく解説しており、またさまざまな木製の型枠を紹介しています。この型枠はまたヴォールトやアーチが完成後、容易に分解して取り外さないといけませんから、別の工夫が考案されます。

中世の建築を素材として、建築の基本設計が実際に立ち上げられる時の矛盾や不都合の発見と、それに対する的確な対処の仕方の模索という、建築を造る際にはどこでも見られる普遍的な問題点が討議されており、曲線あるいは曲面の重なりがこれに話題として加わるわけですので、本当は模型を用意して説明しないとなかなか説得できないところ。たくさんの立体図を描いて、それを補っています。
望むことができるのであれば、著者は、読む者に鉛筆を持たせて実際に簡単な作図をさせ、問題点を確認させたかったに違いない、読み進んでいくとそう思わせます。

16もの付章が巻末に収められています。構法上のトピックを取り上げたもの。用語集も10ページあります。
再版を重ねており、これを超える本はなかなか出てきません。
彼は

John Fitchen,
Building Construction before Mechanization
(MIT Press, Cambridge, 1986)
xvii, 326 p.

なども著しており、ここにはピラミッド建造の話も最後に出てきます。
「建築を造る」ということの全般について、格別の興味をいつも失わなかった人の著作。

Hope 1978


マルカタ王宮の再発掘を試みたイギリスのB. J. ケンプとアメリカのD. オコーナーによる、1970年代初期における共同発掘の調査報告書のうちの一冊。
前にも触れたように、アマルナ王宮とマルカタ王宮はほとんど同じ時期に発見されましたが、以後の経緯は大きく異なります。アマルナ王宮では楔形文字が記された粘土板(アマルナ文書)が偶然に見つかり、これらの中にアクエンアテンの名前を読み取ったウォーリス・バッジはすぐさま粘土板を購入してイギリス本国へ伝えました。これによってF. ピートリの調査隊が組織され、発掘が迅速に開始されます。

一方、マルカタの場合にはフランスのダレッシーがごく一部分、調査しましたけれども、短いその報告は遅れて数年後となりました。裕福なアメリカ人青年タイトゥスによる短期間の発掘を挟み、その後はメトロポリタン美術館が10年間、発掘をおこないます。第一次世界大戦のただ中であったということもあり、結局、最終報告書は出版されていません。
この報告書も、ワイン壺に関して述べるだけのものです。1970年代のこの調査については、他にLeahy 1978があるのみ。

この調査報告書のシリーズの広告で、少なくとも6冊が出版されるであろうと推測される文面が裏表紙に印刷されたため、後年、誤解を受けることになりました。そのうちの4冊については執筆者と題名、及び出版年を記していますから、すでにそれらは全部刊行されたであろうというように、専門家の中でも誤解している人がいます。

Colin Hope,
Jar Sealings and Amphorae.
Egyptology Today, No. 2;
Malkata and the Birket Habu, Vol. 5
(Aris & Phillips, Warminster, 1978)
vi, 80 p.

ワインを入れて保存するために、壺の口には植物で編んだ丸い蓋を置いて塞ぎ、さらに泥がその上に厚く盛られて保護されます。これを「ジャー・シーリング」と言っているわけで、専門用語。
「アンフォラ」という言葉も特別な用語で、用途によってさまざまな器が作られますが、それらには各々、別の名前がつけられていました。ここでは両側にふたつの取っ手を持つ首長の、また底が尖っている壺を指します。
Amphoraの複数形が-sではなく-eであるのは、ラテン語の女性形であるためです。石碑という意味のstela; stelaeと同じ。エジプト学では、他にもostracon、graffito、naos、necropolis、sarcophagusといった、複数形が通常の英語のようにsをつければいいわけではない言葉が良く用いられます。面倒ですが、慣れが必要です。

泥のタイプを6種類に分けたりと、考察は厳密です。しかし、ここまで細かく分けるのはしんどいという気がしなくもない。
再利用の可能性を探ったり、あるいは付章で墓の壁画で見られるジャー・シーリングの例を列挙したりしているのは、書き手の能力の高さを示しています。外国からもたらされたと思われる要素を最後に挙げているのも重要。
つまりマルカタ王宮の研究で、どのようなことが注意されているのかがこれで分かります。長く続いたエジプト文明において最大の版図を築いたアメンヘテプ3世の時代、シリアやパレスティナ、あるいはミケーネといった諸外国と、どのような交流があったのかを念頭に置いており、きわめて限られた情報をもとにして、どこまで言うことができるかを模索しています。

著者は新王国時代の土器研究に関しては知られた人。でもマルカタで新しく出土したものは小さな破片ばかりなので、器自体の分析ができるわけではありません。本来の活躍が充分できない場で、可能な限りの考察を巡らせたいと工夫し、書かれた書です。
安く出版するために全ページが完全版下で用意されており、大きな労力が強いられたであろうと想像される一冊。

2009年10月19日月曜日

Zenihiro 2009


日本人の若手研究者が、修士論文を英語で出版した本。
柔らかい藁色のペーパーバックで、表紙では著者名が省かれており、それは序文にも記されていないから、この本を誰が執筆したのかは最後の奥付を見るまではっきりと分かりません。欧米の本と日本の書籍とでは、書誌の印刷されるページが異なるので、面倒なことを嫌う外国の学者によっては、戸惑う部分かもしれない。
にも関わらず、Thames & Hudson社の刊行書を念頭に置いたその攻撃的なタイトルの意味するところは明瞭で、言わば学界への殴り込みに相当します。

Kento Zenihiro,
The Complete Funerary Cones
(Privately published, Maruzen, Tokyo, 2009)
(iv), 307 p.

関連サイト:
http://www.funerarycones.com/

Contents:
Abbreviations (p. 1)
0. Introduction (p. 3)
1. Brief overview and reasons for the use of cones (p. 5)
2. Funerary cones (p. 10)
3. Comparison of titles based on dates (p. 27)
4. Conclusion (p. 36)

References (p. 37)

Appendices
1. A catalogue of all known cones (p. 48)
Index for Appendix 1 (p. 241)
2. All titles of the deceased who appears in the present work (p. 265)
Index for Appendix 2 (p. 284)
3. A table designating the date and the origin of each cone (p. 293)
4. Assignments by each scholar (p. 295)

Acknowledgements (p. 307)

若い日本人による、こういう大胆不敵な企ては当方の知る限り、これまでなかったと思われるので非常に痛快。
葬祭に関連したコーン(Funerary Cone)がほとんどテーベからしか発見されないという点は、López 1978-1984 (O. Turin)の本の紹介の欄で前に触れました。石灰岩片の上に書かれたヒエラティック・オストラカも同じ。テーベという土地の独自性を示すひとつの指標。
エジプト学においては出土場所も出土点数も限られる特異な遺物であり、編年もこれまであまり考察されなかった状況でしたが、近年、イギリスで纏められた博士論文、

M. Al-Thibi,
Aspects of Egyptian Funerary Cones
(Ph.D. thesis submitted to the University of Liverpool, 2005)

が出たそうで、これに対するひっくり返しが試みられています。
コーンは建築学的にも、軒飾りの一形態として考察されるべき遺物。

第51回日本オリエント学会大会(2009年、京都)での著者による発表で明らかなように、ここではリヴァプール大学の博士論文に対し、日本の修士論文によって「そりゃ違う」という間違いの指摘が本格的に開始されているわけで、これが面白くないはずはありません。リヴァプールの側では、いったい誰が博士論文を審査したのかも同時に問われることになります。

英文によるサイトも併行して開設し、限定しながらも情報を公開しつつ、幅広く意見を求めている点も注目されます。本のタイトルを勘案した方法を採用しており、評価されるべき。
まずはできるだけ品格が上位のエジプト学の専門誌に概要を投稿して・・・などという、従来の因襲的で迂遠な回路を無視し、いきなり英語で単著の出版に及んでいる点が目覚ましい。これに続く人たちが次々と出てくればいいのですが。
カラーページも含んでおり、説明図に工夫がなされています。

スケール・バーをセンチ表示ではなく、古代エジプトのディジット単位だけにしている点は、ちょっと思い切った方法です。センチメートルの単位による実寸の併記がないのは、いささか気になるところ。
11ページには長さが"52.5 cm (= 1 cubit)"のコーンが存在すると書かれていて、ここに振られた註を見るとD. Arnoldからの引用であることが分かり、なるほどそうであるならば、未だエジプト学者たちの間では広く定着していると思われない、

1.875 cm×28 ディジット=7.5 cm(4ディジット)×7 パーム=1 王尺(キュービット)=52.5 cm

という、建築の専門家アーノルドによる遺構の報告書において必ず用いられている換算の値が、この著作では珍しく前提にされているのだな、おお建築関係者にとってはとても喜ばしいことだと感心するのですが、でも他方でその同じページの数行下には、これと矛盾して建築に関わる学徒の期待を完全に裏切る"1 digit=1.6 cm"、という表記が見られます(!)。同じ換算値は略号表における"d."の項の説明(p. 1)にもうかがわれ、縮尺が1:2と明記してある図中の各々のスケール・バーも、測ってみれば1ディジットが全部1.6 cmの長さを表示。
因みに1.6 cmを28倍すると約45cmで、これは小キュービットの長さと同一となり、王尺として知られるキュービットの長さである52.5 cmには届きません。

1ディジット当たりの違いで見れば、ほんの僅かな数ミリです。
けれどもこれですと、基本となるキュービット尺の長さをこの研究者は一体どのように考えているかが反問されかねず、注意が必要。1.6 cmという値は1.9 cmの単純な誤植なのか、ミスにミスを重ねた計算間違いなのか、それとも小キュービットが適用されるのではという重要な考えを示唆しようとして、錯誤も交えながら言葉足らずに終わっている部分なのか。
それは出土しているコーンの直径がすべてほとんど一緒であるという事実と、どこでどう交差するのか。新王国時代の煉瓦の標準サイズ、特にその厚さと果たして深く関わる問題なのかどうか。
いろいろと混乱を招く箇所かと思われます。

新たに加えられた資料には、著者自身の名が付されています(pp. 233-240)。この著者の意気込みが感じられ、今後の研究の進展が大いに期待されます。
サイトを通じての申し込みによって、購入が可能。煉瓦などに押印されるスタンプに興味を抱いている人であるならば、手元に置く価値がある貴重な一冊で、お勧めです。煉瓦スタンプと思われる若干の例が、先行研究を尊重してそのまま掲載されていますし、もともと王名と私人名との双方に関するスタンプの集成はJ. Spencerによる煉瓦の本(Spencer 1979)などでしか見られず、稀です。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月16日金曜日

Nishi and Hozumi 1985


日本の伝統建築を英語で紹介している絵本。日本建築について書いている英語の本は案外と少なくて、探すのに苦労します。
西和夫は建築史家。穂積和夫はイラストレーター。ともに知られたベテラン。

Kazuo Nishi and Kazuo Hozumi,
Translated, adapted, and with an introduction by H. Mack Horton,
What is Japanese Architecture?
(Kodansha International, Tokyo, 1985.
Originally published under the title
"Nihon kenchiku no katachi:Seikatsu to kenchiku-zokei no rekishi"
by Shokokusha Publishing Co. Ltd., Tokyo, 1983)
144 p.

全体は4つに分かれ、社寺建築、住居と都市、城郭、数寄屋建築の順に説明。けっこう欲張りです。

WORSHIP: The Architecture of Buddhist Temples
and Shinto Shrines

DAILY LIFE: Residential and Urban Architecture

BATTLE: Castles and Castle Towns

ENTERTAINMENT: Architecture in the Sukiya Spirit

工具から仕口の話、伊勢、出雲、奈良や京都の諸遺構、茶室、城下町まで扱っており、それらを英語で何と表現するかを調べる時に便利です。非常に厚い建築学事典というのも出版はされているのですが、こちらは何と言っても、図から探し出すことができるという大きな利点があります。

茶室の下地窓をどう表現するかを調べていて、ここで"wattle"が用いられているのを見て思わず膝を打ちました。イェーツの「イニスフリーの湖島」で出てくる小屋の説明に、これが出てきます。
茶室の簡単な起こし絵まで折り込みで用意されており、魅力的な本。

2009年10月15日木曜日

太田・飯田・鈴木 1966


住宅とは何か、改めて考えると迷宮へと踏み込むことになります。この種のことは、事典で引いて確かめるのが一番。ちょっと古い百科事典を繙くならば、

太田博太郎・飯田喜四郎・鈴木成文
「住宅」、
『世界大百科事典』第11巻
(平凡社、1966年)
pp. 28-40.

が以下の文を記しています。
御存知の通り、各々の先生方は建築学の各分野において、きわめて有名な専門家。
疑う方は、ネットを駆使してみてください。

「住宅は人間生活をいれる容器とも考えられる。あらゆる建築は程度の差はあれ人間の住に対する要求を実現するためにつくられたものではあるが、そのなかでも最も直接的・基本的な要求にこたえるものが住宅であるとも考えられ、とくに家族生活のいとなまれるものをさすことが多い。原始時代における建築の種類は住宅だけで、人間生活は戸外労働等をのぞいてすべて住宅内で行われた。しかし、時代が進み生活が複雑になるにつれて、しだいに各種の用途をもった建築が現われてくる。これを住宅の側からみれば、戸内における人間の生活全部をいれる容器であった住宅から、いろいろの機能が外に分化していったとみることができる。たとえば、古代における倉庫・宗教建築、近世における学校・娯楽機関・旅館、近代における工場・公共建築などの発生がそれである。(中略)こうして住宅の目的は家族の日常生活のためだけにとどまるようになり、その主たる機能は家族の休養にあるということができる。住宅の機能は、このように、そこに住む人の属する土地・社会・時代によって異なっているから、その形態も各人の生活に応じてさまざまな形をとる。しかしまた、逆に現実の住宅の形が、そこに住む人の生活を空間的に強く規制していることも考えなければならない。」(p. 28)

ここでは約10000年の建築史の流れを十数行で描きあらわしていて、非常に見事。
最初、建築は住居だけしかなくて、時代が降るにつれ、死人のための住居である墳墓、また神のための家である神殿などが造形されたという過程を鮮やかに示しています。
19世紀における構造力学の急速な発展も、あるいは「何でも建てられる」というような近年の構造に関するめざましい展開も、ここでは単に、この「機能の外化」を多種多様に促す働きを担うに過ぎないとみなされます。かたちを捨象した極限の考え方。
一室の空間からなっていた原初の建築が、時代とともに部屋数を増し、無数のヴァリエーションを生み出したという図式が明らか。

「外へ分化した」という言い方が秀逸。
近代に至って、住宅が「安らぎ」を目的とする場となり、ここだけが唯一、人間が自分自身を取り戻せる場所へと変貌した経緯もまた示唆されています。自宅から毎朝、働きに出かけるのはいやいやの行為で、家の外で労働力を売り、へとへとになって帰宅し、ようやく自分を取り戻すという構図。
機能の分化が極端にまで進み、住宅には残された「安らぎ」だけが割り当てられている状況です。

現代の都市部ではさらに多様化を極めており、すでに住宅に関する単一の像は薄らぎ始めていて、外食産業の興隆により、家での食事はもちろんのこと、マンガ喫茶がありますから就寝もとっくのとうに「外化」されており、今の世で住宅に残されている特別な機能というのは、一体何なのか、誰も答えられないような有様。

というか、思いつく住宅固有の機能というものがすぐさま、次々と商業化され、外化されていくわけで、こういう世界では新たな住宅を創造しようと試みる建築家は必然的に劣勢の側へと立たされることになります。
けれどもこれは、今までの経緯をゆっくり振り返ってみる良い機会でもあり、100年前の近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトが何を本当に果たしたのかなど、考察する時間を得たとみなすべき。
同じ百科事典では、高名な考古学者が「住宅」と「住居」との違いについて述べています。これも吟味しながら読むべき記述。

八幡一郎
「住居」、
『世界大百科事典』第10巻
(平凡社、1965年)
pp. 755-758.

「<住所>が住む場所を、<住宅>が住むための建物をさすのに対して、<住居>という語には一定の土地に定住して生活を営むための構え方が総合的に含まれている。すなわち、住宅とこれをとりまく庭および住宅内部の家具・器物・装飾品なども含まれる。
人間が一定の土地に生活を営む方式が決定づけられるのは、食物を得るための生産関係、家族および社会の中における人間関係、地形・気候などの自然関係とのからみ合いからである。人間関係としては、休息や睡眠を安静にとる願い、所有している財貨を安全に保持する願いなどがあり、自然関係としては、風雨・寒暑を防ぎ、水や食物をうるのに容易な場所を求める願いなどがある。」(p. 755)

独立して存在するかのようにうかがわれる家と、それを取り巻く諸環境を含めての家という存在にまなざしを送る場合とは、見方が違うのだという判断。

2009年10月14日水曜日

Cadogan, Hatzaki and Vasilakis (eds.) 2004


2000年に開催されたクノッソス宮殿に関する国際会議の報告書。この年はアーサー・エヴァンスがクノッソスの発掘調査を開始した1900年のちょうど100年後に当たり、記念行事として英語とギリシア語の2ヶ国語を使用言語に定め、開かれました。
刊行までに4年かかっていますが、編者たちにとって両言語における綴りや表音の違いが大きく、思わぬ時間を要したと冒頭に書いてあります。

Gerald Cadogan, Eleni Hatzaki and Adonis Vasilakis eds.,
Knossos: Palace, City, State.
Proceedings of the Conference in Herakleion organised by the British School at Athens and the 23rd Ephoreia of Prehistoric and Classical Antiquities of Herakleion, in November 2000, for the Centenary of Sir Arthur Evans's Excavations at Knossos.
British School at Athens Studies 12.
(British School at Athens, London, 2004)
630 p. including CD-ROM.

厚い本で、もし一部分をCD-ROMに回さなかったら、もっと重たい書物になっていたはずです。CD-ROMを添付する出版形態は近年見られるようになりましたが、一般的ではありません。冊子体と電子化された発行物にはそれぞれ短所と長所があり、どちらかが圧倒的に優れているというわけではない。
長く残すことを優先するのであれば、CD-ROMで配布することはもちろん躊躇されます。

全体は54編で、これが13のトピックに分かれます。

From Neolithic to Prepalatial Knossos
Knossos: Palace, city and cemeteries
Politeia
Architecture, arts and crafts
Administration and economy
Religion
Ports of Knossos
Knossos overseas
Greek and Roman Knossos
Knossos: Past and present
Lectures at the Herakleion Museum on 23 March 2000
Contributions to the excavation history of Knossos

クノッソスの宮殿建築に関連する下記の論考、

C. Palyvou, "Outdoor space in Minoan architecture: 'community and privacy'"
(pp. 207-17).

D. J. I. Begg, "An interpretation of mason's marks at Knossos"
(pp. 219-23).

L. Goodison, "From tholos to Throne Room: some considerations of dawn light and directionality in Minoan buildings"
(pp. 339-50).

などもありますが、これらの他に、発掘者エヴァンスについての発表もいくつかあって、こちらの方がどちらかといえば面白い内容を伝えています。どういう経緯でクノッソスの土地を買い集めたのかとか、若い頃は何をやっていたのかとか。
エヴァンスと言えば、自分で解読しようと線文字の資料を独り占めしたり、宮殿の修復方法などで良くないイメージを持たれていますが、改めて公平に彼の人生全体を見直そうという試み。

2009年10月13日火曜日

Stocks 2003


この著者がカイロのファラオニック・ヴィレッジの技術コンサルタントをやっているなんて、初めて知りました。適任かと思われます。
古代エジプトの石材加工について述べている本で、類書と大きく異なっているのは、著者が自分で工具を作り、実際に試して造ってみていることで、この姿勢が徹底しています。
在野の研究者による成果としては、すでにIsler 2001を挙げました。

Denys Allen Stocks,
Experiments in Egyptian Archaeology:
Stoneworking technology in Ancient Egypt

(Routledge, London, 2003)
xxxi, 263 p.

花崗岩を昔の方法で削ったりということを、労力を厭わずやっています。花崗岩を削る時には長い時間がかかり、その時には「つんとする臭いがする」なんて報告してありますが、こんなことは他の本で書いていません。

本人はもちろん大まじめで取り組んでいるわけですけれども、ユーモラスな印象が残るのは、一生懸命に古代のやり方で逐一、石を切ったり削ったり、また道具まで作っているからです。制作途中の、著者が写っている写真も面白い。1941年生まれだから、今年、68歳です。

幻の筒状ドリルも、復原して使ってみています。これは未だにどこからも発見されていない工具で、残存する加工痕より、かなり早くからこういう形状のものが用いられたであろうと、例えばピートリが19世紀末に論考を発表している代物。花崗岩製の棺の内部を刳り貫くためなどに使われたと考えられているものです。

ピラミッド内に残るクフの石棺については詳しい分析を試みており、この時代は柔らかい銅製の工具しかありませんから、この硬い花崗岩製の棺を加工する過程で、1日当たり1キログラムの銅が工具から磨り減ってなくなったであろう、などと詳細な計算もしています。

本を出しているラウトレッジは有名な出版社。エジプト学関連の多くの本も刊行しています。

2009年10月12日月曜日

Kerisel 1987


もう最近亡くなってしまいましたが、非常に見識の広かった土木工学者による書。「基礎の過去と現在:建造者による見えない技芸」というその題名が、著者の意図を良くあらわしています。地域・時代を問わず、人間が造った建造物と、それを支えた地盤の研究に一生を捧げた人物です。Crozat 1997でこの人の著作が引用されている、そう書いたこともありました。

Jean Kerisel,
Down to Earth.
Foundations Past and Present:
The Invisible Art of the Builder
(A. A. Balkema, Rotterdam, 1991)
ix, 149 p.

何冊も本を書いていますけれども、この本が一番特色を打ち出しているかもしれません。
扱う対象は恐竜の足跡から始まって、メソポタミアのジッグラト、エジプトのピラミッド、ギリシア・ローマの遺構、古代の中国、インドネシアのボロブドゥール、ピサの斜塔から各種の橋梁やダム、パナマ運河、エッフェル塔などに至るまで、本当に多種多様です。
地球上に築かれた構築物であり、建造される前に基礎工事がなされたというこのただ一点だけの共通点で、これらは結ばれています。

安定しているように見える地面も、実を言えばそうではなく、地球は動いているものなのだというプレート・テクトニクスも紹介されています。もちろん、建物を支える地盤とはスケールの違う話であるのですが、例えば王家の谷の岩窟墓の崩壊過程を示しているように、地球のゆっくりとした動きから眺めるならば、いずれはどの構築物も消えて無くなるのだというような徹底的に醒めた視点がどこかに感じられ、それがたぶん、この本の特色になっています。

ピラミッドの勾配に関しても独自の見解を有していたように見受けられ、この点でも注目されます。きわめてユニークな人物による本で、死去が惜しまれます。

2009年10月9日金曜日

Iversen 1968-1972


オベリスクがヨーロッパに多数渡った顛末を述べた2巻本。
縦長の変型版が採用されており、強い印象を与える刊行物です。1巻目と2巻目との間に4年間の開きがありますが、どうやらイスタンブールのオベリスクを調べていくうちに記述が増えて、当初の出版予定に大きな変更が強いられたらしい。第2巻目の序文には、「第3巻目でフランス、ドイツ、イタリア、アメリカのオベリスクを扱いたい」と記していますけれども、もはや続巻を望むのは無理なようです。

建築関連で、このように中途で刊行が挫折しているシリーズがいくつもあって、バダウィによる「古代エジプト建築史」の4冊目が結局は出なかったのを初めとして、ペンシルヴェニア大学隊によるマルカタ王宮の報告書シリーズ(2冊のみが既刊)、イタリア隊による全ピラミッド調査報告書のシリーズ(2〜8巻だけが既刊)など、基本的な部分で問題が多いこと、この上ありません。

Erik Iversen,
Obelisks in Exile, 2 vols.
(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1968-1972)

Vol. I: The Obelisks of Rome (1968)
206 p.

Vol. II: The Obelisks of Istanbul and England (1972)
168 p.

イヴァーセンという研究者はとても面白い人で、壁画にうかがわれる下書きの格子線とキュービット尺との関連を述べた研究が一番知られているかと思います。 この考察に対しては数学者を夫に持っていたアメリカの学者ロビンスが反論を発表し、今ではこちらの方が支持されている傾向にありますが、反対意見も見られることは記憶にとどめておいていい。Robins 1994を参照。在野の研究者レゴンの意見も、読むべき価値があると思います。

イヴァーセンのやってきたことはバラバラではないかとも一見、感じられます。よく知られた"Canon and Proportions in Egyptian Art"の初版が発表されたのと同じ年の1955年に、赤や青、緑や黄色といった顔料がどのような名前を有し、記されているのかを考察しており、数例だけ残っている「色(顔料)のリスト」を調べ上げました。
古代エジプトにおいて、色というものがどのように考えられたのかを知りたい人にとっては、基本の文献。

Erik Iversen,
Some Ancient Egyptian Paints and Pigments:
A Lexicographical Study.

Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab;
Historisk-filologisske Meddelelser, bind 34, nr. 4
(Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab, Kobenhavn, 1955)
42 p.

エジプト学で見つかるさまざまな穴を、上手に探ることのできる人と言っていい。
1992年には献呈論文集も出されました。

Jürgen Osing and Erland Kolding Nielsen (eds.),
The Heritage of Ancient Egypt:
Studies in Honour of Erik Iversen.

CNI Publications 13
(The Carsten Niebuhr Institute (CNI) of Ancient Near Eastern Studies, University of Copenhagen / Museum Tusculanum Press, Copenhagen, 1992)
123 p.

編者はオージング・他で、他にアスマン、エデル、エドワーズ、ヘルク、ルクランといった大御所たちが目次に名を連ねています。

北欧の代表的な研究者のひとりとして数え上げることができ、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアなどと比べれば傍流に属する環境の内にあって、エジプト学に対し、何ができるのかを絶えず考え続けた人だということが伝わってきます。
日本も何となくやって行けるのではないかと、勇気を与えてくれる学者。

2009年10月8日木曜日

Stadelmann 1991 (2., überarb. und erw. Aufl.)


ピラミッドの通史についてエジプト学者が本腰を入れて書いた専門的な刊行物。現在、関連する研究論文においては、もっとも引用される回数が多い本かと思われます。
初版は1985年で、第2版が出回っています。

Rainer Stadelmann,
Die ägyptischen Pyramiden vom Ziegelbau zum Weltwunder.
Kulturgeschichte der antiken Welt, Band 30
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991.
2., überarbeitete und erweiterte Auflage)
313 p.

ピラミッドに関して、おそらく一般の人が読む機会が多いのは、

Mark Lehner,
The Complete Pyramids
(Thames and Hudson, London, 1997)
256 p.

で、これは下記のように和訳も出ており、

マーク・レーナー著、内田杉彦訳、
「図説 ピラミッド大百科」
(東洋書林、2000年)
256 p.

広く馴染みがあるだろうと推測されますが、著者のレーナーは格別、ピラミッドの歴史全体についてこれまで注目される論文を書いている研究者であるわけでもなく、彼が発表している論考の内容はだいたい、自身が関わっているギザにおける調査区域の成果の記述から一歩も出るものではありません。
ピラミッドの通史については画期的な内容を含んでいないことを勘案すべき。建築学的観点からは、これは言わば、カタログに該当します。

Mark Lehner,
"The Tomb Survey",
in Geoffrey T. Martin,
The Royal Tomb at el-'Amarna II.
Archaeological Survey of Egypt (ASE) 35
(EES, London, 1989)
pp. 5-9.

では、アマルナに残るアクエンアテンの墓の断面において、黄金比に従った計画が推測されると記しており、その見方をC. ロッシ(Rossi 2004)によって根本的に手厳しく批判されています。あんまり建築学的な素養がない人だと言うことが、これだけでうかがわれます。

ピラミッド全体を見渡そうとした本で、専門家が書いたものとしてはまず、大御所のJean Philippe Lauerの執筆した書が掲げられますけれども、ロエールの著作に関しては、現在ではかなりの訂正が必要。
ネチェリケト王によるサッカーラの最初のピラミッド(階段ピラミッド)の調査と復原に長く携わった建築家でしたが、彼の論考が今後、どのように評価されるかは注目すべきです。

年代順としては、次いでエドワーズの本、

I. E. S. Edwards,
The Pyramids of Egypt
(Viking Penguin Inc., New York, 1986, revised edition. First published in 1947)
xxii, 328 p.

が挙げられるかと思います。この本は多くの読者を獲得しました。和訳もやはり刊行されています。
近年に刊行されたヴェルナーによるピラミッドの本も和訳されていて、これはいろいろな逸話も交えており、面白い本です。チェコスロヴァキアの研究者で、もちろんエジプト学におけるチェコの立場を高めようと目論まれた書。

Miroslav Verner,
Deutsch von Kathrin Liedtke,
Die Pyramiden
(Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1998. Die tschechische Originalausgabe erschien 1997 unter dem Titel bei Academia Prag)
540 p.

Kurt MendelssohnによるThe Riddle of Pyramids (London, 1974)を含め、日本語でこれらの主要な書が逐一翻訳されている点は、活用されるべき。

シュタデルマンによるこの本の評価は、これからです。
中王国時代の、テーベにおけるメンチュヘテプの神殿の新たな復原は、かなりの程度、喧伝されました。ウィンロックによるピラミッドを載せた復原案がこれまで知られていましたが、文献学上の記述を重視したこの案に対し、建築家ディーター・アーノルドがこれに異を唱え、史料として残る建物の記述の方法にはピラミッドのかたちの文字を決定詞として記す例が他にあることを示し、構造的な見地からも、上部にはピラミッドがなかったはずだと判断しています。
これを受け、シュタデルマンは「原初の丘」を思わせる盛り土と、その上に生えた木々の姿を見せる復原案を発表。復原を巡る可能性の掛け金が外されたのであれば、それをもっとも遠くにまで引き延ばした場合にはどうなるのかという提案です。
こういうところにシュタデルマンの本領があらわれるように思われます。

古代エジプトの王宮についても数多く発言しており、思い切ったことも書く人です。
ピラミッドを調べようと志したら、必ず突き当たる重要な本。

2009年10月7日水曜日

Lawrence 1983 (5th ed.)


古代ギリシア建築に関する解説書で、良く取り上げられる本。現在流通しているのは第5版で、1957年の初版から、細かくほぼ5年おきに改訂がなされ、1973年の第4版が出た10年後、さらに改訂が重ねられました。ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの一冊。

Arnold Walter Lawrence,
revised by R. A. Tomlinson,
Greek Architecture.
Yale University Press Pelican History of Art (founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1983.
5th edition. First published in 1957, Penguin Books, Harmondsworth, in series: Pelican History of Art)
xv, 243 p.

著者は城塞の専門家でもあり、そのために軍事建築の歴史を辿る本でも、彼の名前を見ることがしばしばです。城塞に関連する本に関してはMcNicoll 1997、またLander 1984で触れました。特に、

A. W. Lawrence,
Greek Aims in Fortification
(Oxford, 1979)

は、良く引用される書。
エジプトの南シナイ・ラーヤ遺跡には珊瑚ブロック造の大規模な城塞が残っており、ここからはイスラーム時代の遺物が出土していますが、ビザンティン時代にまで建造年代が遡ります。

Mutsuo Kawatoko and Yoko Shindo (eds.),
Artifacts of the Islamic Period Excavated in the Raya/al-Tur Area, South Sinai, Egypt:
Ceramics / Glass / Painted Plaster

(Joint Usage / Research Center for Islamic Area Studies, Waseda University, Tokyo, 2009)
(v), 32 color pls., 79 p.

"A fort constructed in the Byzantine period was found in the excavations at the Raya site, and we discovered a large quantity of glassware and earthenware that is an immediate successor to the Byzantine culture, luster-painted pottery, pale green or purple painted pottery closely related to Iraq, earthenware associated with the Syrian and Palestinian cultural zone, together with gold coins and glass weights which had been minted and made in Egypt."
(pp. 2-3)

という記述を参照。
時代が異なっても、こういう遺構を調べる時にはLawrenceの著作が重要。

目次がかなりたくさんの章に分けられています。全体を、"Part One: Pre-Hellenic Building"と、"Part Two: Hellenic Architecture"のふたつに大きく分けていて、比重のかけ方の違いを題名でもページ数でも表明。

前半の1/3で新石器時代と青銅器時代を扱い、クノッソスなどのクレタ島の王宮群もここで述べられています。ミノア時代が解説された後にミケーネを説明(pp. 43-55)。
後半の第2部では神殿の祖型を述べ、オーダーを紹介し、アテネのアクロポリスに触れるのが第14章。次いでヘレニズムの建築については第19章で語り、最後近くでは劇場に言及。
各章に詳細な註が設けられていますが、参考文献も章ごとに紹介されているのはちょっと使いづらいところ。
非常に評価の高い著作。

2009年10月6日火曜日

Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972


非常に広範囲にわたった、集落や都市に関する国際的学会の会議録。全部で1000ページを超えます。錚々たる顔ぶれが揃い、発表がおこなわれています。会議が開催されたのは1970年12月。
時代も地域も異なる集落、また都市というものを、今一度見直そうという試み。これだけ大規模な催しは珍しい。編者のひとりであるUckoは、比較考古学の中心的な役割を担った人物。

Peter John Ucko, Ruth Tringham and G. W. Dimbleby (eds.),
Man, Settlement and Urbanism.
Proceedings of a Meeting of the Research Seminar in Archaeology and Related Subjects held at the Institute of Archaeology, London University.
(Schenkman Publishing Co., Cambridge, Massachusetts, 1972)
xxviii, 979 p.

Contents:
Preface (ix)
List of participants (xv)
Introduction (xix)

Part One: Non-urban settlement
Section One: Concepts, in theory and practice (p. 3)
Section Two: The influence of mobility on non-urban settlement (p. 115)
Section Three: The influence of ecology and agriculture on non-urban settlement (p. 211)

Part Two: Factors influencing both non-urban and urban settlement
Section One: Population, disease and demography (p. 345)
Section Two: Territoriality and the demarcation of Land (p. 427)
Section Three: Techniques, planning and cultural change (p. 487)

Part Three: Urban settlement
Section One: Development and characteristics of urbanism (p. 559)
Section Two: Regional and local evidence for urban settlement
Subsection A: The Nile Valley (p. 639)
Subsection B: Western Asia and the Aegean (p. 735)
Subsection C: Western Europe (p. 843)
Subsection D: Sub-Saharan Africa (p. 883)
Subsection E: Central and South America (p. 903)
Conclusion (p. 947)

General index (p. 955)
Index of sites and localities (p. 961)
Index of authors (p. 967)

あまりにも話題が多岐にわたるため、索引には地名や著者名が検索できるように工夫されています。

第3部のAがナイル川を扱っており、B. J. ケンプが"Fortified towns in Nubia"や"Temple and town in ancient Egypt"を書いている他、D. オコーナーが"The geography of settlement in ancient Egypt"と題した論考を寄稿。ケンプがこの時、すでにセセビについて言及しているのは興味深い。H. S. スミスは"Society and settlement in ancient Egypt"を、また続いてE. アップヒルの"The concept of the Egyptian palace as a ruling machine"が掲載されています。
これは王宮建築に関する論考として、しばしば引用されていた論文。西洋と東洋の「宮殿」の違いがまず指摘されており、次いでラメセス3世葬祭殿(メディネット・ハブ)の宮殿部分を説明していますが、新たな情報が提示されている今、より包括的な論考が求められるところ。

2009年10月5日月曜日

Hayes 1937


断片的に出土した彩色陶板を報告し、復原考察をおこなったもの。ラメセス2世の宮殿があった場所から見つかった絵付きの飾り板を、そのモティーフや形状によってタイプ別に分け、次いでどこで使われていたかを探っています。
きわめて少ない情報から建築を想像して組み立てていくパズルをやっており、絵画史料を駆使して復原を進めている典型的な論考。わずか数十ページからなる薄い冊子で、最終ページには500部発行ということが明記してあります。報告書の発行部数としてはこの数字が最小限度であるはずで、カラー図版もなく、安く作られたと思われる報告書。
この頃は、第二次世界大戦が始まろうとしている不穏な時代でもありました。
カンティールを含め、第2中間期〜新王国時代における下エジプトの都市に関する総合的な研究は、この後にマンフレッド・ビータックによる大規模な発掘調査へと引き継がれます。
キーワードはアヴァリスやテル・エル・ダバァ。

William C. Hayes,
Glazed Tiles from a Palace of Ramesses II at Kantir.
The Metropolitan Museum of Art Papers, No. 3
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1937)
46 p., 13 plates

著者はニューヨークのメトロポリタン美術館に勤め、収蔵品に関する公開に貢献しました。実地の訓練で古代エジプト語を覚えた人です。ヒエラティックの読み手としても知られ、建築に関わる重要な考察も残しました。JNESに4回に渡って連載したマルカタ王宮出土の文字資料の報告は絶対に欠かすことのできないものだし、またハトシェプスト女王に仕えて寵愛された建築家センムトの墓出土の、石灰岩片のヒエラティック・インスクリプションの読解がなされた

William C. Hayes,
Ostraka and Name Stones from the Tomb of Sen-mut (No. 71) at Thebes.
Publication of the Metropolitan Museum of Art, Egyptian Expedition Vol. XV
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1942)
viii, 57 p., 33 plates

は、「ネビィ」という尺度を考える上で必ず触れられる研究。トトメス時代のオストラカをいくつも読んで建築工事の進展の様子を述べた面白い論文をJEAに書いたりもしています。
代表的な著作はしかし、おそらくは

William C. Hayes,
The Scepter of Egypt:
A Background for the Study of the Egyptian Antiquities in The Metropolitan Museum of Art,

2 vols.
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1953)
xviii, 421 p. + xv, 526 p.

で、メトロポリタン美術館に収蔵されている遺物を紹介することを目的とした通史。載せる図版が先に決まっていて書かれた2巻本で、良くできています。これを見ればこの美術館に収められている名品がひと通り解説されるという、うまい仕組みになっており、重版が出されている理由も分かります。

Smith 1998 (3rd ed.)


50年以上も前の出版ながら、古代エジプトの美術と建築を語る上では今なお基本の書籍。W. K. シンプソンによって改訂がなされました。
最新の版ではカラー写真も掲載されると同時に判型もA4版へと大きく変更され、見やすくなっています。ペーパーバックが出ていますので、美術と建築の双方を手早く知りたいという方には、まずこの本がお勧め。定評あるペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズの中の一冊。最初の監修者は、高名な建築史家ペヴスナーです。
同シリーズのMcKenzie 2007は、この欄で一番最初に取り上げました。

William Stevenson Smith,
revised with additions by W. K. Simpson,
The Art and Architecture of Ancient Egypt.
Yale University Press Pelican History of Art (Founding editor: Nikolaus Pevsner)
(Yale University Press, New Haven and London, 1998, 3rd ed. First published in 1958 by Penguin Books)
xii, 296 p.

エジプト美術については以前にGay Robins, The Art of Ancient Egypt (London, 1997)を挙げましたが、建築を彼女は扱っていません。「美術と建築」のふたつを本格的に扱おうとした本は、実は数が少ないという事情があります。当方が知る限り、おそらくは最後の試み。

エジプト学に関わっている建築の専門家は、美術の領域にまで立ち入る余力をもはや持っていません。美術史家による鑑別の眼力が一方で、なかなか他の分野の研究者によって支持されないという問題に関しては、例えばBerman (ed.) 1990で触れました。すでに学問の細分化が極端にまで進んでいます。
美術と建築の分野で対話が困難な状況ですから、考古と科学分析との橋渡しは、さらに難渋を極めます。今日、他分野の読者へ向けての論理力がますます必要になっている所以です。

スミスは美術史家で、博士論文はエジプトの彫刻を扱っており、執筆したのは第二次世界大戦の直前でした。ジョージ・ライスナーの精緻な考古発掘の仕事を助け、第二次世界大戦中に亡くなったライスナーに代わって、彼のギザ発掘調査を推し進めました。
ライスナーが従来の発掘方法をどのように変えたのかは、今さらここで紹介することもないでしょう。美術史家がその発掘調査を引き継ぐのですから、かなりの負担であったことは容易に推察されます。

スミスがどれだけの論文を専門雑誌に書いているか、調べようと思ったら、ほとんど徒労に終わるのでは。この人の功績は、数少ない著作で見るしかない。
スミスの代表作を挙げろと言うことでしたら、まずは彼の専門に関わる内容の

William Stevenson Smith,
A History of Egyptian Sculpture and Painting in the Old Kingdom
(published on behalf of the Museum of Fine Arts, Boston, by the Oxford University Press, Oxford, 1946)
xv, 422 p., 60 pls., 2 color pls.

が注目され、戦争直後に出されている点に注意。
エジプトの彫刻に関してはVandier 1952-1978という包括的な労作のうちの注目すべき第3巻があり、これはスミスによる本書と同じ年に出た厚い解説書。図版編も合わせるならば900ページに及ぼうとする大著です。彼はどのような思いでこれを見たでしょうか。
ライスナーの遺した仕事を纏める作業は、

George Andrew Reisner,
completed and revised by W. S. Smith,
A History of the Giza Necropolis II:
The Tomb of Hetep-heres the Mother of Cheops.
A Study of Egyptian Civilization in the Old Kingdom
(Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1955)
xxv, 107 p., 148 figs, 55 pls.

として出版されており、クフ王の母親であるヘテプヘレスの墓の報告書を編纂するという重大な責務を果たしました。エジプト学にとって、この墓がどれだけの意味を有するのかを充分わきまえた仕事。この墓からは古王国時代のきわめて重要な家具が出土しており、復原がカイロ美術館に展示されています。組み立て式の天蓋は特に貴重。有名なこのA History of the Giza Necropolisは、John William Pye Booksから20世紀の終わりに再版も出ています。
古代エジプトの美術と建築の総論を書くという、驚くべき仕事(本書)の後には、

William Stevenson Smith,
Interconnections in the Ancient Near East:
A Study of the Relationships between the Arts of Egypt, the Aegean, and Western Asia

(Yale University Press, New Haven and London, 1965)
xxxii, 202 p., 221 figs.

を出しています。エジプト学の側から、これだけ明瞭に近隣諸国との美術史学的な関連を探ることを題名に打ち出している論考も珍しい。
出版は彼の死の数年前の、意欲作です。当時のエジプト学に欠けている視点を補おうとした書。

ここで取り上げるThe Art and Architecture of Ancient Egyptは、古代エジプトにおける王宮建築の研究を飛躍的に前進させたという点で画期的です。調査がなされながらも、本報告書が出ていなかったディール・アル・バラスやマルカタ王宮の調査資料を丹念に調べて概要を伝えており、専門外の仕事であったにも関わらず、その後のアマルナ王宮へ向けての建築の流れをうまく描いています。
ここにはたぶん、当時、エジプト建築史の本を刊行していたA. バダウィの著作、Badawy 1954-1968への不満もあったのではと憶測がなされます。ここでも、「どのような情報が不足しているのか」についての配慮がなされており、とても有能な人であったことが良く分かります。60歳ほどで亡くなったのが本当に惜しまれます。
ボストン美術館の古代エジプト部門を牽引してきた人間の系譜、すなわちG. ライスナー、W. S. スミス、W. K. シンプソン、E. ブロヴァルスキー、R. フリード、P. D. マニュエリアンたちのさまざまな著作を踏まえながら、各々が果たしている役割に考えを巡らせると感慨深い。
ボストン博物館によるギザに関する史料集成のページ、

http://www.gizapyramids.org/code/emuseum.asp?newpage=authors_list

からは、スミスの著作の多くのダウンロードが可能。

2009年10月3日土曜日

Arnold 2003


古代エジプト建築事典。もともとはドイツ語で出されたものですが、改訂され、また編集者も加わりましたので、別の本として扱った方が良いように思われます。

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick.
The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture
(I. B. Tauris, London, 2003)
vii, 274 p.

Original:
Dieter Arnold,
Lexikon der ägyptischen Baukunst
(Artemis und Winkler Verlag, Zürich, 1994)
303 p.

中近東建築事典などというものもあるのですけれども、古代エジプト建築に絞って編纂された事典です。
ドイツ語版に増補がなされたと冒頭に書かれています。多くの図版がアーノルドのBuilding in Egyptから流用されていますが、新たに描き起こされたものも少なくありません。
巻末に用語集(Glossary)が1ページ付されており、事典という性格上、用語集がつけられるのはとても珍しい。この場合は古代エジプトの専門用語に限られています。

最後にはSelected Bibliographyが3ページ、加えられています。一番冊数が多いのはボルヒャルトで、レプシウスはたった1冊。この選び方も面白い。

補記:
版を小さくし、題名を変えたペーパーバックが2009年に出ています。(2009.12.11)

Dieter Arnold,
translated by Sabine H. Gardiner and Helen Strudwick,
edited by Nigel and Helen Strudwick,
The Monuments of Egypt:
An A-Z Companion to Ancient Egyptian Architecture

(I. B. Tauris, London and New York, 2009. First published in German in 1994 as Lexikon der ägyptischen Baukunst by Artemis & Winkler Verlag, and in English as The Encyclopaedia of Ancient Egyptian Architecture by I. B. Tauris, 2003)
vii, 274 p.

2009年10月2日金曜日

Crouch and Johnson 2001


世界の建築史を学ぼうとする大学の新入生を対象にした本で、副題で良くあらわされている通り、非欧米圏の建築に光が当てられています。アメリカの研究者たちが、それまで情報の欠けていた地域を積極的に取り上げ、また既成の建築史観をも乗り越えようとした企画。

Dora P. Crouch and June G. Johnson,
Traditions in Architecture:
Africa, America, Asia, and Oceania
(Oxford University Press, New York, 2001)
xiii, 433 p.

イントロダクションの最初では、「建築とは何か?」と反問しています。

"Like history, the term architecture has both broad and strict meanings. In the widest sense, architecture is everything built or constructed or dug out for human occupation or use. A more restricted definition would emphasize the artistic and aesthetic aspects of construction. A third, and still more limited, definition would say that architecture is what specially trained architects do or make."(p. 1)

最も広い意味においては、建築は人間が用いたり占有するために構築された、また掘られたもののすべてを指すと述べられ、動物の営巣にまで近づけられている点が明瞭。また最も狭義の意味では「経験を積んだ建築家が作るもの」と言われており、ここで何が指し示されているかが意味深い。
続いて、

"In this book, architecture include three categories of built elements: professionally designed and built monuments; the houses and other structures erected by traditional building tradesmen; and structures, either fixed or movable, that ordinary people build for their own use, some of which attain the level of memorable art. We define architecture as "buildings that have been carefully thought through before they were made." We have broadened the concept of architecture to include residential spaces, such as houseboats, and natural objects that people use culturally, such as certain mountains."(pp. 1-2)

と書いており、注目されます。
「造られる前に入念に考慮された建物」という言い回しに注意。美学に関する積極的な言及を払拭。とても上手な言い方で、感心します。
さらに、「ここで包括的な建築理論を差し出そうとするつもりはないが」と断りながらも、その検討が必要だと説き、

"The old Euro-American lens for architectural history, with its emphasis on the relations of form and content, is inadequate to the study of traditional architecture of the rest of the world."(p. 3)

という文が、「新しい建築史に向かって」と題された小節の下には記されています。

冒頭の謝辞にはたくさんの建築史学者の名前が並んでいますが、日本人の名がひとつだけうかがわれ、それが渡辺保忠先生。マルカタの「魚の丘」建築を復原された方で、僕はこの先生のマルカタ王宮調査のお手伝いから古代エジプト建築に触れることになりました。
参考文献の欄には先生の「伊勢と出雲」が掲載されています。

現代美術のジェームズ・タレルの作品に触れられたりと、雑多な印象が生じるのは、何もかも非西欧的な要素を扱おうとしたためで、仕方がなかったかと思われます。アメリカで建築史を教える職業の人の多数に「こういう本が欲しかった」と言われたとありますから、まあ、出版自体は喜ばしいこと。

日本の建築史は海外においてほとんど詳しく紹介されていない、という点は銘記されるべきです。古代エジプト建築との関連を考える上で、しかしそれは悪いことではないのかもしれない。先入観がないので、最初から説明ができるわけですから。
200点以上の図版が掲載されており、それを見るだけでも楽しめます。

アメリカ人が共同で「良く知らなかった建物」という本を、反省しつつ著したのですが、その中には日本の建築はもちろん、アジアの建築、またアフリカの建築なども含まれているということ。そういう複眼的な見方で眺めるならば、また違った面白い点が発見できる書です。

2009年9月30日水曜日

Fleming, Honour, and Pevsner 1998 (5th ed.)


建築の事典と言えばいくつかがあって、すでに数冊についてはこの欄にて触れましたが、個人が自分の責任で編纂したものは、やはり面白い。
N. ペヴスナーは近代建築に関する目覚ましい著作を刊行した他、英国の歴史的建造物に関する基本台帳46冊(Buildings of England, 1951-1974)を纏めた高名な学者で、彼が纏めた建築事典はペヴスナーの死後も引き続き改訂版が出ています。

John Fleming, Hugh Honour, and Nikolaus Pevsner,
The Penguin Dictionary of Architecture and Landscape Architecture.
Penguin Reference
(Penguin Books, London, 1998, 5th ed. First published in 1966, as a title of "A Dictionary of Architecture")
vii, 644 p.

旧版の和訳も、少し昔になりましたけれども出版されました。

邦訳(旧版):
ニコラウス・ペヴスナー著、鈴木博之監訳
世界建築事典
鹿島出版会、1984年

21-22ページにかけては"Architecture"と言う項目の説明があって、権威あるこの建築事典で、どのように「建築」が説明されているかを知るのはきわめて興味深い。
第1行目からは、

"The art and science of designing structures and their surroundings in keeping with aesthetic, functional or other criteria. The distinction made between architecture and building, e. g. by Ruskin, is no longer accepted. Architecture is now understood as encompassing the totality of the designed environment, including buildings, urban spaces and landscapes."

と記していて、この部分は、初版の題名を改訂版で変更した理由にもなっていると感じられます。
一方で、ラスキンの「建築の七燈」を本格的に改めて吟味しないと駄目なのではないかという点も、同時に知られるところ。
かつては岩波文庫の訳が頼りでしたが、10年ほど前に新訳が出ました。

ジョン・ラスキン著、杉山真紀子
建築の七燈
鹿島出版会、1997年
334 p.

しかし驚かされるのは、

"The aesthetics of architecture cannot be readily distinguished from those of the other arts (poetry, music, sculpture, painting), and many questions remains to preoccupy architects: what does architecture express? what does it represent? and with what means (symbolic or otherwise) can it do this?"

という文にて項目の説明が終わる点で、要するに「建築というのは、結局は良く分からないよねえ」と、この事典は本の中の要になるはずの項目の解説において、信じ難いことを平然と綴っています(!)。

同じ英国から出ているJ. S. Curlによる建築事典では、もっと極端。

James Stevens Curl,
with line-drawings by the author and John Sambrook,
A Dictionary of Architecture.
Oxford Paperback Reference
(Oxford University Press, New York, 1999)
xi, 833 p.

この人による事典には、ペヴスナーの本では掲載されていない、もはや死語となった"parti"に関する項目(p. 484, left)があったりと、いろいろ目配りのなされていることが示唆されます。
著者については、Curl 1991、またHarris (ed.) 2006 (4th ed.)で以前に記しました。

日本語表記の「パルティー」もしくは「パルチー」は、設計行為の本質を考える上で19世紀のフランス・アカデミーの重要な用語であったはず。設計意図・設計思想、また基本設計や、設計上の工夫、たとえば今で言う「コンセプト」と同等な意味での「構想」、もしくは「芸術的霊感・インスピレーション」という、揺れ動く意味の中で使われ続けたのではないかと、この方面の権威である横浜国立大学の吉田鋼市先生は考察しています。
手書きの原稿だから、PDFになっても原稿内容は検索に引っかかりません。こういう重要な論考のテキスト化を、誰か進めてくれないかと前から思っているのですが。
この梗概集の該当箇所は、ネットにおけるCiNiiのページにて簡単にプリントアウトすることができます。

吉田鋼市
「"parti"の意味について -クロケ、ガデ、グロモールの使用例による一考察-」
日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)9126、1989年10月、
pp. 903-904.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004224845/

Curlの本では32-33ページで"Architecture"の項目を説明していて、最後には建築家フィリップ・ジョンソンの言葉、

"architecture is the art of how to waste space."

を挙げ、締めくくっています。
しかし、こういう危ないことを、建築の初学者にそのまま伝えるというのは大きな勇気が必要。
「建築というのは、空間をどのように無駄に使うかを問う芸術である」、という大意になりますでしょうか。

多人数の分担執筆による大事典、たとえばブリタニカとかラルースなどの場合では、とうてい許されないであろう書き方が、これらの事典では羽目を外してなされているかと思われます。

建築を真面目に考えようとする時、しかしこうした場所こそがおそらく本当の突破口。

2009年9月29日火曜日

Vassilika 2009


閉幕間際の上野のトリノ博物館展に再び行って、今年出版された英語版のガイドブックを購入。薄手の本ですが、良く見たらいろいろと載っています。
近年、館長に就任したE. ヴァシリカによる、トリノ博物館の活性化の一環による刊行物と思われます。

Eleni Vassilika,
photographs by Giacomo Lovera, edited by Silvia Cosi, layout by Francesca Lunardi,
Masterpieces of the Museo Egizio in Turin:
Official Guide

(Fondazione Museo delle Antichità Egizie di Torino, Scala Group, Firenze, 2009)
127 p.

あくまでも遺物のカタログではなく、一般向けのガイドブックとしています。このため、ビブリオグラフィーは一切なし。ただしインヴェントリー番号は付記されています。トリノ博物館のスタッフへの謝辞の他に、G. T. マーティンへの感謝の言葉が最終ページで見られる点も書いておきます。

ほとんどのページをカラーで印刷し、縦長の造本で、ペーパーバック。しゃれた構成です。収蔵品は古いものから順番に並べており、ヴァシリカによる序文が掲載されている他は、あってもいいと思われる目次や博物館の平面図などが省かれています。トリノ博物館は大規模な展示替えが予定されているので、妥当な選択なのでしょう。昨年、開催された第10回国際エジプト学者会議(The 10th International Congress of Egyptologists: ICE)におけるトリノ博物館の館員による発表で、博物館の改装の件は伝えられていたような記憶があります。
ヴァシリカによる他の博物館関連の刊行物としては、

Eleni Vassilika,
with contributions from Janine Bourriau, photography by Bridget Taylor and Andrew Morris,
Egyptian Art.
Fitzwilliam Museum Handbooks
(Cambridge University Press, Cambridge, 1993)
viii, 139 p.

があって、これも見やすい小型の出版物でした。

トリノ博物館と言えば、文字史料だったら王名表を記したパピルス、ワーディ・ハンママートの地図を描いたパピルス、王家の谷の王墓平面図を示したパピルスなどがまず思い浮かびますが、これらをカラー写真で掲載。とても便利です。
写真が小さいのは残念ですけれども、綺麗に印刷されており、特にワーディ・ハンママートの地図はありがたい(p. 102)。ラメセス4世の王墓の平面図のカラー写真(p. 104)も貴重。探そうと思うと結構、面倒でした。
ここら辺の話は、JEA 4, Parts II-III (1917)や、Leospo 2001、またLópez 1978-1984 (O. Turin)などの項でも触れています。

永井正勝先生がすでにこの展覧会における見どころを、内覧会に出席された後にブログで紹介。

http://mntcabe.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/index.html#entry-59226268

非常に些末的な話で恐縮ですが、個人的には、女性や子供の守護神として知られているカバの化身であるタウェレト(タウレト:他にもタ・ウレト、タ・ウェレトなど。あるいはトゥエリス、トエリス)女神像の紹介が興味深かった(p. 82)。
この女神が何色に塗られていたのか、もし調べようと思ったら、時間がかかります。アンクの文字の上に片手を置いたタウェレト女神の姿が、確かパピルスのひとつにうかがわれたと思いますが、その他の例となると色が塗られていない場合が多く、困惑していたところです。
赤地に白の斑点というのは面白い。ひょっとして、カバの汗が赤いということと関係あるんでしょうか。

2009年9月26日土曜日

Greenlaw 1976 (reprint 1995)


紅海に面したスーダンの交易港スアキン(サワーキン)における、珊瑚ブロック造のイスラーム建築を扱った報告書。KPI社から出版される20年ほど前の1976年に、私家本という形式ですでに発表されていたとの注記が見られます。長い年月をかけて粘り強く建築調査が進められた成果の結実。
サンゴ造建築に関する、非常に有名な先駆けの書。しかしGarlakeの著作などへの言及はありません。

Jean-Pierre Greenlaw,
foreword by Mansour Khalid,
The Coral Buildings of Suakin:
Islamic Architecture, Planning, Design and Domestic Arrangements in a Red Sea Port

(Kegan Paul International, London and New York, 1995.
First published privately in 1976)
132 p.

Contents:
Preface, p. 6
Chapter One: The Town of Suakin, p. 8
Chapter Two: The Story of Suakin, p. 13
Chapter Three: Domestic Life in Suakin, p. 17
Chapter Four: Roshans; Casement Windows, p. 21
Chapter Five: Earlier and Larger Turkish Houses, p. 22
Chapter Six: Smaller Turkish Houses, p. 38
Chapter Seven: Zawias and Mosques, p. 62
Chapter Eight: Egyptian Style Buildings, p. 72
Chapter Nine: Military Buildings, p. 85
Chapter Ten: Building Methods, p. 87
Chapter Eleven: Woodwork, p. 103
Postscript, p. 132

建物の剛性を高めるために、壁体へ木材を積み入れて補強するというのが一番の特徴。壁体の厚さも地上階から上へ行くに従って順次、減じられます。高層の建物も実現されているというのが見どころ。
サンゴは切石を用いており、かなり質の高いものが使用されたことがうかがわれます。

近海の海にてなされたサンゴの調達は、石材と比べてどのような利点があったのかが面白い。石や木と同様に、割れやすい方向性を有する素材であったはずで、しかも内部に多数の細かな空孔を含んだ建材だから、断熱性も有利で、重量も比較的軽かったと思われます。
一方、もろいのが欠点で、たぶん細かな彫刻には向きませんでした。

日本でも、南島には同じ建築方法が見られます。まだ比較考察がなされていない分野。
キルワなどの西アフリカから、紅海を経てインド半島沿岸、そして日本に至る、活発な海上交通を前提として作られた建物群と言うことができます。しかし作り方は一様ではなく、地方色が豊か。
木材を組積造に補強として積み入れる方法はミノア時代から確認されているわけで、こうした世界を通覧する楽しみが今後、開けていくかもしれません。
「石切場」としての珊瑚礁にもこれから注目がなされるかと思われますが、これは水中考古学の領域でもあります。

2009年9月25日金曜日

Siliotti 2000


エジプトのシナイについての、縦長の薄いガイドブック。たった48ページしかないのですが、かなり意欲的にさまざまな内容を盛り込んでおり、これまでたくさんの入門書を手がけてきたA. シリオッティの力量のほどが良く了解される構成となっています。
全ページがカラー。
30エジプトポンドですから、600円ほど。

Alberto Siliotti (text and photographs),
Stephania Cossu (drawings), Richard Pierce (English translation), Yvonne Marzoni (general editing),
Sinai: Egypt Pocket Guide
(American University in Cairo Press, Cairo/Elias Modern Publishing House, Cairo/Geodia, Verona, 2000)
48 p.

表紙の裏を折り込みとし、ここにシナイ半島の地図を掲載。裏表紙ではラース(ラス)・モハメッドの鳥瞰図を示しています。
最初にシナイ半島の概要に触れており、プレート・テクトニクスの観点からシナイ半島や紅海はどのような動きを見せているのかがまず説明されます。シナイ半島全体の断面図を挙げているのも、うまい方法。地質と気候について次に見開きで紹介し、その後には動植物に関する多彩な言及。渡り鳥の足取りを示した図の挿入も上手。

"Natural Environments"と題した14ページからは、珊瑚礁とそこに生息する生物たちの紹介で、魚介類とサンゴが扱われます。マングローブについてもまた見開きで説明をおこなっており、こういうところは神経が行き届いた感じがあって、見事。
さらに砂漠、オアシスについて述べた後に、新石器時代の石造建造物である「ナワミース」を取り上げ、その後は古代エジプトの王朝時代におけるシナイを概観。名だたる遺跡セラビト・カディムの平面図はここで示されます。

28ページの題名は"From the Nabataeans to the Ottomans"で、おそろしく時代をすっ飛ばした内容ですが、「科学的調査」、「現代歴史」がこの後に続き、遊牧民の紹介、またいくつかの見どころの解説が後半の内容となっています。
トゥール、ラス・モハメッド、シャルム・シェイク、ダハブ、ヌワイバ(ヌウェイバ)、ターバといった紅海沿岸の、珊瑚礁を巡るリゾート地、また聖カトリーヌ修道院などが扱われており、盛り沢山。

シナイは交易で栄えた地で、また複数の宗教が交錯する地域でもあります。山脈が中央に高く聳え立ち、ワーディ(涸れ沢)が鋭く切れ込んで、この下の水脈を頼りに陸内の交易が進められた一方、沿岸を伝った船によるアジアとヨーロッパとの交通路が結ばれました。
かなりの昔から、人々が山奥まで分け入って鉱物を採掘した場所としても有名。日本人には単に、荒れ果てた土地と見やすい場所の複雑な様相の場面が、多くの図版を重ねつつ提示されており、小さな本ながら扱う情報量はかなり高く、170点以上の写真や地図、挿絵が含まれていると書かれてあります。

多角的な視点からシナイ半島を追った佳作。これだけページ数が限定されている中で、シナイ半島の魅力というものを、さまざまな学問の成果をあれこれと援用しながら提示しています。個人的な好みから言えば、5ページの図版は他のページのものと調子を揃えた方が良いような気もしますが、それは些末的な指摘に過ぎません。
むしろ、次から次へと繰り出される、乱暴と言えるほどまでに刻まれた多種多様な知識の断片が光を放つように感じられ、逆にこの小さな冊子の魅力となっています。

2009年9月24日木曜日

Warner 2005


カイロの古い街並みで見られるイスラームの歴史的建造物の平面を逐一、大きな地図上に示した労作です。副題では"A Map"となっているけれども、掲載されているのは大版の折り込み地図が31枚。分割されて所収がおこなわれています。
ゲジラ島とローダ島の東方に位置するナイル川岸辺の当該地域の地図の縮尺は1/1250。小さな住宅についても、かろうじて平面が分かる大きさです。
大判の本で、すべて手書きの大図面が何と言っても素晴らしい。
ARCE Conservation Seriesの第1冊目。

Nicholas Warner,
The Monuments of Historic Cairo:
A Map and Descriptive Catalogue.

American Research Center in Egypt (ARCE) Conservation Series 1.
American Research Center in Egypt (ARCE) Edition
(American University in Cairo (AUC) Press, Cairo, 2005)
xvi, 250 p., 31 maps.

Contents:
Foreword by J. L. Bacharach and R. K. Vincent, Jr. (vii)
Acknowledgments (ix)
Preface (xii)
Introduction: Cartography, Architecture, and Urbanism in Cairo, AD 1500-2000 (p. 1)
Note on Sources, Cartography, and Architectural Drawings (p. 82)
Descriptive Catalogue (p. 87)
Glossary (p. 192)
Abbreviations (p. 194)
References (p. 195)
Index of Buildings by Number (p. 202)
Index of Buildings by Name (p. 220)
Index of Buildings by Date (p. 243)
Maps (251)

著者のWarnerは、ARCE Conservation Series 2に当たるクセイルの砦のプロジェクト(Le Quesne 2007)にも参加している建築研究者。
序文では、

"The twentieth-century English poet W.H. Auden wrote that 'poetry makes nothing happen: it survives in the valley of its saying.' Like poetry, 'The Monuments of Historic Cairo' is in a sense nothing more than a record, documenting a moment of a city.(中略)The poetry of these maps lies in making Cairo's memory survive, and it is their 'saying' that constitutes Nicholas Warner's achievement."

と、詩人オーデンの句を引きながら、この本の価値が強調されています。
252ページ目の"Map Key"を見るならば、かつてあったけれども、もうなくなってしまったイスラーム建築の位置なども示されていることが了解され、建物の上階から飛び出ている部分の輪郭を点線で示すなど、細かく丁寧に描き分けた工夫の跡も良く分かります。
文章による建物の簡潔な説明も充実しています。シタデルやアイユーブ朝の城壁、またイブン・トゥールーン・モスクに関する記述などが最も長く、それぞれ1ページほどの分量。
索引では建物番号、建造物名、建造年代から調べることができます。

この本はAmerican University in Cairo Pressから出版されているので、タハリール広場の脇の大学キャンパス近くまで行った折に購入する方法もありますけれども、カイロの書店案内というものが日本語で出ており、サイトでも情報が公開されていますので、どこで売っていそうだという目安がつき、カイロで長居をする時にはこれが非常に便利です。

日本学術振興会カイロ研究連絡センター、
平井文子、原山隆広、橋爪烈、勝沼聡、竹村和朗、亀谷学

カイロ書店案内 2004
日本学術振興会カイロ研究連絡センター、カイロ、2004年
(iii)+ii, 123 p., 28 maps.
http://asj.ioc.u-tokyo.ac.jp/html/guide/cairo/c_s_f.html

Les Livres de Franceの閉店状態をサイト版では伝えるなど、改訂がなされていますが、一方で旧ナイル・ヒルトン・ホテルのショッピング・モールの地下にあったL’Orientale (旧L’Orientaliste)の動向については最新情報が反映されておらず、残念。
もちろんこれは贅沢を言っているわけで、歩いて本屋さんをくまなく調べるという、この貴重な情報誌を作成する上でおそらく大変であったろう労力に改めて敬意を表します。
ありがたく使わせていただいている次第。特に調査に関わる者にとっては、冊子体の方にエジプトの地図屋さん(p. 102, L-7: ドッキ、ミサーハ広場周辺)が明記されている点が重宝しており、何回も助けてもらっています。