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2010年6月27日日曜日

Bleiberg and Freed (eds.) 1991


ラメセス2世に関する国際シンポジウムの記録。本の題名は、イギリスの代表的な詩人シェリーの、非常に有名な詩の一節から採られています。

Edward Bleiberg and Rita Freed eds.,
Fragments of a Shattered Visage:
The Proceedings of the International Symposium of Ramesses the Great
.
Monographs of the Institute of Egyptian Art and Archaeology, 1.
Series editor: William J. Murnane
(Memphis State University, Memphis, 1991).
v, 269 p.

さてこの薄ピンク色のペーパーバック、錚々たる顔ぶれが論考を寄せているため、新王国時代後期に興味を持っている人なら必ず見たいと思わせる書籍。
外見は安っぽいんですけれども、中身はきわめて重要です。16編の論考が掲載されていますが、建築関連ならばケラー、キッチン、オコーナー、そしてシュタデルマンの4本の論文は必読。

一番長い分量を書いているのはフランスの大御所ノーブルクールですが、2番目に長い文を寄稿しているケラーの内容は、壁画を専門とする人間にとって欠くことができない内容を伝えています。

C. A. Keller,
"Royal Painters: Deir el-Medina in Dynasty XIX"
pp. 50-86.

NARCE 115 (1981)に書かれたモティーフが、10年を経てこういうかたちに展開されるのかという思い。何しろ3200年前の画工の個人を特定しようという恐るべき試みであるわけで、絵画に対する情熱を持っていないと論旨についていけません。
この論文が何故、建築に関わりがあるかと言うならば、それは岩窟墓の造営作業に関わった労働者集団組織の編成をどう考えるかという問題と繋がるからです。王家の谷の岩窟墓は「右班」と「左班」とによって掘削され、仕上げが施されました。この時の「右班」と「左班」は、実際に墓の右と左をそれぞれ担当したのであろうとチェルニーが書いています。ただしガーディナーは右と左について、墓の奥から見た場合の右と左であることを言及していますので、留意されるべき。墓の入口から見た左右ではありません。
このチェルニーの見方への反論であるわけですが、建造作業の場合は、また別の見方が必要であろうと思われます。

Kenneth A. Kitchen,
"Towards a Reconstruction of Ramesside Memphis",
pp. 87-104.

キッチンは汚い絵を数枚掲載していますが、その殴り書きに近いメンフィスの全体見取り図が、少なくともこれから長く引用され続けるであろうということをはっきりと意識しています。意図的に乱暴な描き方をすることで、考え方の骨格だけを正確に伝えるという見事な表現。図面は綺麗に描くほど価値があると考えている凡庸な研究者たちに、根本的な批判を与える図と言っていい。単に多忙だから汚い絵を出していると思っていると大きく間違えます。

David O'Connor,
"Mirror of the Cosmos: The Palace of Merenptah",
pp. 167-198.

オコーナーに対しては、ちょっと厳しい見方をすべきだと僕は考えています。メルエンプタハの宮殿を発掘したのはペンシルヴェニア大学の博物館で、壮大なことを書く前に、後継者はもう少し細かい情報を出して欲しかった。
エジプトの王宮について調べようと思ったら、しかし彼のこの論考は疑いもなく、最重要の部類に入ります。事実、多く引用されている論文。

Rainer Stadelmann,
"The Mortuary Temple of Seti I at Gurna: Excavation and Restoration",
pp. 251-269.

MDAIKで発掘調査の経過を追っている人は、読む必要がないかもしれない。
シュタデルマンによるセティ1世葬祭殿の建築報告書は、たぶんもう出版されないのではないかと個人的に思っていますが。彼による論考もまた、王宮建築の研究者にとっては重要。

活躍していたWilliam J. Murnaneが亡くなってしまいました。これが非常に残念です。ここではシリーズ・エディターとして登場。

2010年6月25日金曜日

Jomard 1809


「エジプト誌」の全巻が、今ではネットで見られることについて、すでにDescription 1809-1818にて述べました。ナポレオンによる「エジプト誌」にはテキスト編も含まれており、ジョマールはここに論考を複数、載せています。
欧州に留学中の安岡義文氏による情報。彼にはこれまでも、いろいろ貴重な最新の文献案内を送ってもらっており、多謝。BiOrの書評などを執筆していますから、興味ある方は御覧ください。

「エジプト誌」が誰にでも公開されているということは、すごいこと。逆に言うと、ここで触れられている内容を知らなければ「素人」とほとんど変わりないと判断されるわけで、辛い立場ともなります。

ここで取り上げる文章は全8章から構成され、古代エジプトの尺度に関して述べたもので、ニュートンによる52センチメートルという説を冒頭で一蹴し、これに代わる46センチメートルという値を主張して論理を展開している大論文。300ページ以上を費やしています。
ナポレオンの調査隊によってもたらされた数々の実測値をもとにした換算のリストだけでなく、古代ギリシア・ローマ、そしてアラブ世界の著述家たちによる「ジラー」を主とする長さの記述もくまなく参照しており、膨大な資料を駆使したその論述内容は、19世紀の博物学的方法の最後を飾るにふさわしい。オベリスクの寸法についても分析をおこなっています。

しかしこの頃に始まるさまざまな盗掘によって、長さ52センチメートルのものさしが実際に次々と発見されるようになります。この成果を受けてレプシウスが登場し、尺度の問題にはある程度のけりをつけました。Lepsius 1865 (English ed. 2000)を参照。
「ある程度の」というのは、実はレプシウスはジョマールの考え方を「小キュービット」として一部、残したからで、ここに混乱のもとがあると言えないこともない。レプシウスによるこのジョマール説の「救済」の方法に関しては、もっと議論があって然るべきだと思われます。G. ロビンスも、そこまで踏み込んではいません。

Edme Francois Jomard,
"Memoire sur le systeme metrique des anciens egyptiens, contenant des recherches sur leurs connoissances geometriques et sur les mesures des autres peuples de l'antiquite",
Description de l'Egypte, ou recueil des observations et des recherches qui ont ete faites en Egypte pendant l'expedition de l'armee francaise, publie par les ordres de Sa Majeste l'Empereur Napoleon le Grand.
Antiquites, Memoires, tome I
(Paris, 1809)
pp. 495-797.

すでに忘れ去られようとされているジョマールですが、ニュートンが前提とした「古代人は基準尺の倍数を構築物の主要寸法に充てた」という考えにおかしいところがあると指摘しており、これについては当たっている部分がなくもない。ニュートンはクフ王のピラミッドの計測値のうち、完数による値のみを偶然、目にしたという幸運に恵まれたと個人的には思います。澁澤龍彦(渋沢龍彦)の言い方を借りるならば、ここには建築の「死体解剖」があっても、「生体解剖」がありませんでした。
アイザック・ニュートンの論考についてはNewton 1737で紹介済み。これはまた、Greaves 1646の論考に刺激を受けての考察でもあります。
実際に古代エジプトの遺構では、いくつかの寸法でジョマールが分析したように、46センチメートル内外の長さで割り切れる場合があるわけで、この矛盾を斟酌し、できるだけ多くの報告を拾い上げようとしたレプシウスの功績は称えられるべきでしょう。
しかし結果として、キュービットは52.5cmであったというのが現段階における結論です。ニュートンの勝利でした。

まず大キュービットと小キュービットには、7:6という関係があるわけだから、大キュービットにおける6の長さは小キュービットの7の長さと一致します。この時、双方とも42パーム。この場合を除き、小キュービットで割り切れる長さがどれくらい遺構で見られるのかが問題を解く鍵となります。
ですが、こうした研究はほとんど進んでいません。小キュービットに関する建築遺構への適用は、近年ケンプがアマルナの独立住居における平面図で少し試してみている程度。
ジョマールまで再び戻って考え直さなければならない理由がここにあり、古代エジプトの基準尺に関しては、大きな陥穽があると言わざるを得ません。

古代エジプト建築の権威であるアーノルドの本には、小キュービットについての記述は一切ありません。建築の世界では、それでこと足りるからです。でもそれは美術史学の世界で論議されている尺度の問題とずいぶん、隔たりがあります。「おかしいのでは」という疑念があって然るべき。
こういう点が、今のエジプト学では論議されていません。

シャンポリオンがヒエログリフを読解する前に、ジョマールは数字だけは正確に読めたようです。中国語との類推から、「エジプト誌」のテキスト編には「百」とか「千」という漢字が載っています。ジョマールによる別の論文を参照のこと。
こういう事実はあまり知られていません。シャンポリオンもヒエログリフを読み解くために、中国語を勉強していました。新しい語学を学ぶことは、単に自分の道具を増やすことと同じだという割り切り方がここにはあって、これが日本人にとって難しい点となります。
絶望的であれ、泥縄式にでもいいから、とにかく数多く読み進めていくこと、その作業にどれだけ長年耐えられるかの競争であること、それが我々にとって唯一の早道だという指標がここでも示されています。

2010年6月15日火曜日

Sorek 2010


古代エジプトのオベリスクに関してはすでに、たくさんの本が出版されています。この欄で触れたものだけでも9冊。
しかしこの他にも多くの論考があって、ピラミッドについての書籍と比べれば数は少ないものの、特に20世紀の後半からは良書が増えています。
「エジプト誌」にもオベリスクの設計基準寸法を探る試みが記されていたりしますから、探せばかなりの量となるはず。
これまでに紹介したものは、以下の通り。

Gorringe 1882
Engelbach 1922
Engelbach 1923
Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)
Iversen 1968-1972
Habachi 1977
Tompkins 1981
Barns 2004
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009

こうした中にあって、新たに出版されたオベリスクの本。
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009は本格的な論考で、ヨーロッパへ与えたオベリスクの影響を考察しており、これとどうしても比較せざるを得ません。Sorekの本は一般書と専門書との間に位置する内容となります。

Susan Sorek,
The Emperors' Needles:
Egyptian Obelisks and Rome
(Bristol Phoenix Press, Exeter, 2010)
xxiv, 168 p.

Contents:
List of Illustrations (vii)
Preface (ix)
Standing Obelisks and their Present Locations (xiii)
Chronologies (xvii)

Introduction: The History of Pharaonic Egypt (p. 1)
1. The Cult of the Sun Stone: The Origins of the Obelisk (p. 9)
2. Created from Stone: How Egyptian Obelisks were Made (p. 17)
3. Contact with the West: Greece and Rome (p. 29)
4. Roman Annexation of Egypt (p. 33)
5. Egyptian Influences in Rome (p. 37)
6. Augustus and the First Egyptian Obelisks to Reach Rome (p. 45)
7. Other Augustan Obelisks (p. 53)
8. Augustus' Successors: Tiberius and Caligula (p. 59)
9. Claudius and Nero: The Last of Augustus' Dynasty (p. 71)
10. The Flavian Emperors and the Obelisks of Domitian (p. 75)
11. The Emperor Hadrian: A Memorial to Grief (p. 89)
12. Constantine and the New Rome (p. 101)
13. From Rome to Constantinople (p. 107)
14. An Obelisk in France (p. 115)
15. Obelisks in Britain (p. 123)
16. From the Old World to the New: An Obelisk in New York (p. 131)
17. The Obelisk Builders and the Standing Obelisks of Egypt (p. 147)

Appendix: Translations of Two Obelisk Inscriptions (p. 151)
Bibliography (p. 159)
Index (p. 161)

xiii-xxivで掲げられているリストや編年表には工夫が凝らされており、知られているものに番号が振られて、各々のオベリスクがいつ、どこへ運搬されたかを示した一覧表が作成されています。有用です。でも番号の表示なので、分かりづらい。「パリ」とか「ニューヨーク」といった略称の付記を考えても良かったかも。

一方、「立っているオベリスク」に限定していますから、「寝ているオベリスク」の代表格であるタニスのオベリスク群には言及されていません。他にもアレクサンドリアの海から引き揚げられたオベリスクの断片などもあって、本当は新しいオベリスクの一覧が望まれるところです。

KMTの最新号にはセティ1世のアスワーンに残るオベリスクの断片が紹介されていましたので、ついでに付記。

Michael R. Jenkins,
"The 'Other' Unfinished Obelisk",
in KMT 21:2 (Summer 2010),
pp. 54-61.

ローマのオベリスクを述べるのであれば、Ashabranner 2002で触れたように、19世紀の人物、George Perkins Marshについては扱って欲しかったと思います。
注目すべき古代ローマの建築の建立に関わったカリグラ(カリギュラ)やネロにも言及しており、図版を多く付加したら、オベリスクを中心とした古代建築の入門書ができるのかもしれない、そうした思いも抱かせる本です。

2010年6月14日月曜日

Barnes 2004


イギリスにあるオベリスクを集めた本。オベリスクがローマに立っていることに影響を受け、イギリスでは16世紀からエジプトのオベリスクを模して立てるようになります。エドウィン・ラッチェンスやジョン・ソーンなど、有名な建築家たちの名も挙げられており、彼らが建築や庭園へオベリスクを積極的に用いる様子が綴られています。

Richard Barnes,
The Obelisk:
A Monumental Feature in Britain

(Frontier Publishing, Kirstead, 2004)
192 p.

巻末に収められたオベリスクの数はおよそ1300で、これでも一部だけが集められた結果の数。その多くは20世紀の戦没者記念のために立てられたものです。他に2000ほど、墓地に立つものが存在する模様。

Contents:
I The Sixteenth & Seventeenth Centuries
II The Eighteenth Century
III Nineteenth Century
IV John Bell's Lecture: The Definite Proportions of the Obelisk and Entasis, or the Compensatory Curve
V Obelisks in Cemeteries and the Rise of Polished Granite
VI The Twentieth Century
VII The Purpose of Obelisks: Theories

第4章で紹介がなされている、19世紀を生きた彫刻家のJ. ベルによるオベリスクの分析が見どころとなります。特に94ページ以降の記述は重要で、検討の余地がある。オベリスクの各部と全体との関連を構造的に探っているからで、これがどこまで合っており、どこが間違っているかが突き止められれば、オベリスクの計画方法は解けることになります。

「第一にピラミディオン底面の対角線、第二にオベリスクの底辺、そして第三にはピラミディオンの高さはすべて同一の長さである」(p. 94)

「オベリスクの底面の対角線の7倍が、正確にオベリスクの全高となる」(p. 95)

ピラミディオンの底面の対角線、あるいはオベリスクの底面の対角線が基準になったとはとうてい思われないのですが、計算をしてみると、例えば「底辺の10倍がオベリスクの全高に相当する」という言い方とほとんど矛盾がないことに気づきます。

1.414×7=9.898

であるからです。
この点は重要で、見逃せません。課題は、彫刻家と建築家のものの見方の違いがどこにあるかということになるかと思われます。

2010年1月4日月曜日

Aufrère, Golvin et Goyon 1994-1997


「復原されたエジプト」というタイトルを持つ3巻本。多数の図版を収めており、きわめて有用。フランスの研究者たちが、非常にたくさんのエジプトの建築遺構に関し、復原された姿を提示しています。この本を際立たせているのは、多数掲載されているカラーの水彩画。ゴルヴァンによる作品です。
第1巻は上エジプトを、第2巻はカルガ、ダクラ、バハリア、シーワなどの砂漠のオアシスを、第3巻は中・下エジプトを扱っています。

Sydney Aufrère, Jean-Claude Golvin, Jean-Claude Goyon,
L'Égypte restituée, 3 vols.
(Editions Errance, Paris, 1994-1997)

Tome I: Sites et temples de Haute Égypte.
De l'apogée de la civilisation pharaonique à l'époque gréco-romaine
(Paris, 1ère éd. 1994; 2e éd. 1997), 270 p.

Tome 2: Sites et temples des déserts.
De la naissance de la civilisation pharaonique à l'époque gréco-romaine
(Paris, 1994), 278 p.

Tome 3: Sites, temples et pyramides de Moyenne et Basse Égypte.
De la naissance de la civilisation pharaonique à l'époque gréco-romaine
(Paris, 1997), 363 p.

ゴルヴァンはチュニジアのカルタゴや、リビアのレプティス・マグナなどの復原図も精力的に描いており、絵の達者な研究者。第1巻のみが版を重ねているのは、この巻が人気の高い観光地であるルクソールを含んでいるからだと思われます。
カルナック神殿については延々と詳しくその増築過程を説明しており、複雑な構成を見せるこの建物の変遷を見やすく提示。
カルナック神殿に関しては、

Jean-Claude Golvin et Jean-Claude Goyon,
Les bâtisseurs de Karnak
(CNRS, Paris, 1987)
141 p.

が重要。同じ著者たちがもっと詳細に解説していて、この本のドイツ語版もすでに出版されています。
上エジプトとは風景が異なって、ナイル川がいくつもの支流に分かれるために土地が島状に点在する下エジプトの様子を、例えばアヴァリスの復原図はうまく伝えています。

建物の復原図を描く場合に問題となるのは、複数の復原案がある時にどうするのかということですが、ここでは取捨選択がおこなわれており、案を並列させるということをしていません。
ディール・アル=バフリーのメンチュヘテプ2世の記念神殿の場合はアーノルドの復原案が採用されており、ピラミッドを上に載せたウィンロックの案、あるいは人工的に造られた丘に木を生やしたシュタデルマンの案は不採用。

アスワーンやアレキサンドリアなどに触れられていないのは残念なところ。しかし綺麗な復原図の魅力が3巻にわたって生かされており、ポスターとして復原図が別売りされている理由も良く分かります。

2010年1月1日金曜日

Butler 1998


ピラミッドに関してはここ10年ほどで多くの本が出版されており、たいへんな興隆を見せています。アビュドスの初期王朝の王墓U-jの発掘報告書がドイツ隊によって刊行されたりした(1998年)のもひとつの要因。また、塚を含み持つようなマスタバの存在が再認識され、階段ピラミッドのかたちが出現した経緯が語られるようになりました。こうした近年におけるピラミッド学の前進はしかし、日本ではあまり紹介されていないのが残念です。

この本は第4王朝に光を当てて、その遺構群に幾何学的な分析を試みています。
ベンベン出版社はカナダの研究グループと繋がりをもっており、かつては縮尺を揃えたエジプト建築の図面集の刊行を予告したりしていましたが、最近は目にしないところを見ると断念された様子。メソポタミア建築ではこうした図面集がすでに出ており、非常に有用ですから、この種の企画は是非、実現してもらいたいところ。


Hadyn R. Butler,
Egyptian Pyramid Geometry:
Architectural and Mathematical Patterning in Dynasty IV Egyptian Pyramid Complexes

(Benben Publications, Mississauga, 1998)
xvii, 242 p.

ちょっと荒い図ですが、100枚以上の分析図を収めており、キュービット尺による完数が多く示されています。古代エジプトの数学についても紹介を2章にわたっておこなっており、丁寧です。第7章の、ギザ台地の高さ関係についての分析は珍しく、面白いところ。第4王朝のピラミッドだけではなく、第11章では続く第5王朝、第6王朝に属するものについても言及しています。

ただ、ひとつの考えに収斂を見せないのが弱く感じられ、どこまで行っても完数計画の実例を延々と並べ立てているような印象がなくもない。四角い建物の平面の完数を探るのは比較的簡単で、問題は少ないと思えます。
これがピラミッドとなると、平面は正方形になるけれども、角度にもまた簡単な決め方が求められ、それは高さの完数計画にも決定的な影響を与えるから、さまざまなヴァリエーションが生み出されます。特に、高さの計測はものさしを当てて測れるようなものでないから、平面の一辺を定める時とは違う精度が求められたはずです。

著者は在野の地質学者であるらしく、苦労がしのばれますが、ここでも建物がどのように計画され、また造られるのかという実際上の問題がまったく触れられていません。これがいつでも課題となり、多くの混乱を招き寄せているように思われます。

2009年12月23日水曜日

Jéquier 1911


新王国時代のテーベにおける私人墓の天井画を集めた画集。フリーズ文様も扱っています。
高さが40cmほどの本で、カラー図版を印刷したルーズリーフ形式をとり、バラバラにして見比べることができます。
古くはオーウェン・ジョーンズによる名高い「装飾の文法」(Owen Jones, The Grammar of Ornament. Messrs Day and Son, London, 1856)でも、古代エジプトの天井画とおぼしき文様がカラーで見られますが、ここではもう少し詳しく紹介がなされているのが特色。
お墓の天井画を集めようとしている本というのはなかなかなくて、この他にはElke Roik, Das altägyptische Wohnhaus und seine Darstellung im Flachbild, 2 Bände(Peter Lang, Frankfurt am Main, 1988)などがあるのみですけれども、Roikのこの本には残念ながらカラー図版が掲載されていません。

Gustave Jéquier,
L'art décoratif dans l'antiquité décoration égyptienne:
Plafonds et frises végétales du Nouvel Empire thébain (1400 à 1000 avant J.-C.)

(Librairie centrale d'art et architecture, Paris, 1911)
16 p., XL planches.

G. ジェキエと言えば、マスタバ・ファラオンやペピ2世の葬祭建築を扱った報告書が知られています。建築と装飾に関する資料の収集を心がけた学徒としても有名で、以下の3冊による写真集は50cmを超える高さを有し、20世紀の中葉には良く参照されました。
これもまたルーズリーフ形式で、研究者の便宜を図っていることが分かります。ただ図版はモノクロ。最近ではカラー図版を豊富に載せている本が多数出版されているので、古写真を集めた本として逆に価値が高まっているかもしれません。

Gustave Jéquier,
L'architecture et la décoration dans l'ancienne Égypte (3 tomes)
(Albert Moranc, Paris, 1920-1924).

Les temples memphites et thébains des origines a la XVIIIe dynastie
(1920)
v, 16 p., 80 planches.

Les temples ramessides et saïtes de la XIXe a la XXXe dynastie
(1922)
v, 11 p., 80 planches.

Les temples ptolémaïques et romains
(1924)
iii, 10 p., 80 planches.

主著はおそらく、以下の書。
日本建築史でいうならば、天沼俊一博士を彷彿とさせるエジプト学者でした。

Gustave Jéquier,
Manuel d'archéologie égyptienne:
Les éléments de l'architecture

(Picard, Paris, 1924)
xiv, 401 p.

2009年12月22日火曜日

Frankfort (ed.) 1929


フランクフォートによるアマルナの壁画集。王宮だけではなく、住居の壁画も掲載しています。
F. G. ニュートンを追悼した刊行物。模写を担当したニュートンのカラー作品の他、デーヴィス夫妻によるものも載っています。
現在では入手の困難な書籍のひとつ。もし今、市場に出たとしても、おそらく10万円ほどは覚悟しなければなりません。

Henri Frankfort (ed.),
with contributions by N. de Garis Davies, H. Frankfort, S. R. K. Glanville, T. Whittemore,
plates in colour by the late Francis G. Newton, Nina de G. Davies, N. de Garis Davies,
The Mural Painting of El-'Amarneh.
F. G. Newton Memorial Volume
(Egypt Exploration Society, London, 1929)
xi, 74 p. XXI plates.

Contents:

Francis Giesler Newton. A biographical note by Thomas Whittemore (vii)
Note (ix)
List of Plates (xi)
I. Francis Giesler Newton (Frontispiece)
II. "Green Room," East Wall
III. The Doves (Detail from Plate II). In colour
IV. "Green Room," West Wall
V. Pigeons and Shrike (Detail from Plate IV). In colour
VI. Kingfisher (Detail from Plate IV). In colour
VII. Three fragments of border designs: A and C, Details from Plate II; B, From east half of south wall of North-eastern Court. In colour
VIII. Kingfisher and Dove (Details from Plates II and IV)
IX. Shrike (Detail from Plate II); Vine-leaves and Olive (unplaced fragments). In colour
X. Geese and Cranes, from West Rooms of North-eastern Court of Northern Palace
XI. Goose (Detail from Plate X). In colour
XII. Various Fragments from the Northern Palace
XIII. Paintings from the Palace of Amenhotep III near Thebes
XIV. Plan of the Northern Palace
XV. Detail of flowers and fruit in Fayence and Wall-paintings
XVI. Garland designs on Mummy Cases
XVII. Ducks from House V.37.1. In colour
XVIII. Mural Designs from Houses
A. A Garland Fragment, House V.37.1
B. Frieze, Official Residence of Pnehsy
C. Garland, House R.44.2
XIX. Garland and Ducks, House V.37.1. In colour
XX. Garland and Ducks, House of Ra'nûfer
XXI. False Window Frieze, House V.37.1

Chapter I. The Affinities of the Mural Paintings of El-'Amarneh, by H. Frankfort (p. 1)
Chapter II. The Decoration of the Houses, by S. R. K. Glanville (p. 31)
Chapter III. The Paintings of the Northern Palace, by N. de Garis Davies (p. 58)

Index (p. 73)

50cmに迫る高さの本で、大判。
「グリーン・ルーム」という名で知られている部屋の壁画の詳細を見ることができます。
アマルナ型住居の彩色に関しても、この本を見ることが必要。第2章にその解説があります。関連書としてはまず、Wheatherhead 2007が重要で、この他にKemp and Weatherhead 2000Weatherhead and Kemp 2007もあります。

最後に掲げられている「疑似窓」の図版は資料として貴重。実際には外光を取り入れない、室内から見上げた時に窓のかたちに見えるように造られたニセの窓。扉だけではなく、部屋の対称位置にまがい物の窓も造られたようです。
ドイツ隊による報告書でも、カラー図版による巻頭の復原図の中で、このニセの窓の存在を確認することができます。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft (WVDOG) 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, 7 site plans, 112 plans.

とっくのとうに亡くなっているボルヒャルトの名前が著者として出されているものとしては最新刊です。アマルナ型住居に関する、もっとも詳しい図面集。

2009年12月21日月曜日

Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)


"CG"は一般にコンピュータ・グラフィックスを指しますが、Catalogue Generalの略称、つまり博物館に収蔵されている遺物の目録を意味する場合が時としてあります。特にエジプト学において、"CGC"とはカイロ・エジプト博物館から出ている収蔵遺物カタログを指し、これは100年以上も前からすでに数十冊出ていますけれども、今もなお刊行が継続している膨大なシリーズ。しかし既刊分をすべて揃えている研究機関というのは、日本では皆無かもしれない。
そのうちの、オベリスクを扱ったもの。

Charles Kuentz,
Obélisques.
Catalogue Général des antiquités égyptiennes du musée du Caire (CGC), nos. 1308-1315 et 17001-17036
(Institut Francais d'Archéologie Orientale, Le Caire, 1932)
viii, 81 p., 16 planches.

博物館に収めることのできる程度のものの報告ですから、あんまり大きいオベリスクは扱われていません。報告は丁寧で、本来は各辺が等しくなるように造られるべきだったんでしょうが、実際はかなりの誤差があり、ここでは各辺の実測値が挙げられています。勾配も記されていますけれども、片側だけを測った値で、エンゲルバッハの考え方はまったく反映されていない点が興味を惹かれるところです。

CGCのうち、古いもののいくつかは今日、ウェブで見ることができます。もう入手することが困難なものも多く、古本屋ではかなりの高額で扱われていますので、こういう基本的な図書が簡単に見られるというのは非常にありがたい。下記のCGCリストはEEFの有志によって纏められているもの。

http://www.egyptologyforum.org/EEFCG.html

このCGCとは別に、20世紀の半ばに、"CAA"という出版企画も立てられました。このシリーズも、すでに数十冊の刊行がなされています。

Corpus Antiquitatum Aegyptiacarum (CAA)

というのは、世界の博物館が収蔵しているエジプトの遺物を、一定の記述項目の定めに従って順次出版しようという壮大な試みで、考えは素晴らしい。特色は各ページを綴じず、ばらばらにして読むことができることで、ルーズリーフ形式を採用しています。各遺物を見比べられるという大きな利点がここにはあります。
ただ、出版の進捗状況は思わしくなく、多くの人が見たいと考えているはずの新王国時代のレリーフや壁画片などはなかなか刊行されず、後回しにされている状況です。

もっと問題なのは、このシリーズを図書館が購入した場合、ページがなくなることを恐れて製本してしまう場合が多いことで、こうなるとルーズリーフで出版される意味がありません。不特定多数の人に公開する際に生じる盗難や攪乱などの問題の回避のため、不便な方法が選択されるという点が、ここでもうかがわれます。

2009年12月19日土曜日

Arnold 1991


古代エジプトの建築技術に関する、最も権威ある書。出版されてから20年ほど経ちますが、内容はさほど古びていません。

Dieter Arnold,
Building in Egypt:
Pharaonic Stone Masonry

(Oxford University Press, New York, 1991)
ix, 316 p.

序文を読むと、いろいろと考えていることが分かります。古代エジプトにおいては巨石文化が見当たらず、いきなり精巧な石造を始めたような印象があるという指摘がまずひとつ。この点は重要です。
また、他地域における建造技術についての出版物に注意を払っていることがうかがわれます。古代エジプト建築に関する本なのに、註にはミノア建築やインカ建築、また中世の建築の書籍にも触れられています。時代や地域に関わらず、石造建築の共通性を見ようとしている姿勢が示唆されています。
ただ本文においては、そうした意識はきわめて希薄。欲張りな願いですけれども、本当はクールトンの本などに言及が欲しかったところ。

中王国時代の建築は遺構例が限られることもあって、情報が比較的少ないのですが、この時代の専門家であるだけに、独壇場と言った感じ。これほど中王国時代の建築に詳しい人は今、世界にいません。
でもそれが逆に、他の時代についての記述との落差を生んでいる部分があって、この人が例えばフランス人と組んで本を出したりしたら、完璧なのにと思ったりします。フランス隊はエジプトと共同でカルナック神殿調査を永らく担当しており、その情報量は膨大です。
この本に対し、フランス側の威信をかけて出された本が

Jean-Claude Goyon, Jean-Claude Golvin, Claire Simon-Boidot, Gilles Martinet,
La construction pharaonique du Moyen Empire à l'époque gréco-romaine:
Contexte et principes technologiques
(Picard, Paris, 2004)
456 p.

で、比較すると面白い。

アーノルドのこの本の書評はいくつもすでに出ていて、それぞれベタ褒めです。しかし問題点はいくつかあるように思われます。そのひとつは建築計画について述べている章で、あまり深く立ち入って考察しているとは思われない。反論を試みようとするならば、ここら辺が問題になるかと感じられます。

註は充実しており、この本1冊を丹念に見るならば、ほとんど網羅されているので非常に有用です。ここ20年の情報は、自分で補わなくてはなりませんが。

2009年12月18日金曜日

Badawy 1965


「古代エジプト建築のデザイン」というタイトルが付けられた書。著者は古代エジプトの建築研究の分野では有名な人で、先王朝時代・古王国時代から新王国時代までにわたる、三巻に及ぶ通史を書いています(Badawy 1954-1968)。本格的な古代エジプト建築の通史を書いた、最後の研究者。
予定されていた四巻目、これは末期時代以降の建築が扱われる予定でしたが、結局は刊行されませんでした。この仕事はArnold 1999にて実現されます。
晩年に下記の本を出したのですけれども、出版から40年以上が経ち、現在はその評価を巡って意見が分かれるところです。

Alexander Badawy,
Ancient Egyptian Architectural Design:
A Study of the Harmonic System
.
University of California Publications, Near Eastern Studies Volume 4
(University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1965)
xii, 195 p., 1 sheet of "harmonic triangle".

黄緑色のペーパーバックで、前半は副題にも明示されている「ハーモニック・システム」を論理的に考証し、後半の図面集にて検討と分析をおこなうというもの。
「ハーモニック・システム」とは何を意味するかと言うことですが、建築を建てる前にはその平面を地面に描く作業が必要となり、その時にはどのようにして正確に直角を定めることができたかが問題となります。古代から用いられてきたのは、各辺3:4:5の長さに縄で直角三角形を構成するという作図方法で、ここまでは疑念がないと最近まで思われてきました。
これに疑問を呈したのがRobson and Stedall (eds.) 2009に論考を書いているA. Imhausen です。

この直角三角形を2つ並べ、8:5という比例を重視して、黄金比である1:1.618との近似を指摘する当たりから、だんだんと見解が分かれることになります。19世紀にはこうした当て嵌めが流行しました。
けれども、精度をより重視した姿勢、また実際の建造工程を含んだ考察方法が今では主流になっており、平面図の上で幾何学的に作図した線が合致するというような簡単な説明で説得力を得ることはできなくなっています。

本の後半に収められている多数の建築の平面分析を示す図には、でもさまざまな教唆が秘められているように思われます。
まず第一に古代エジプト建築の主要な建築図面が揃っていない今日、未だこうした図面資料の類が貴重となります。図面の縮尺を当時の尺度であるキュービットをもとにしている点も、建築計画に関して知識があった人ならではの工夫です。

透明の小さなシートに8:5の直角三角形を印刷し、それを巻末のポケットに入れています。建築の図面に直接当てて確認してください、という趣向。
ここには不特定多数の人間に、古代エジプト建築にできるだけ触れて欲しいという願いが込められていると見るべきであって、彼の元から直接には傑出した弟子が特に輩出することのなかったことを考え合わせると、また別の感慨を感じることになります。

アメリカのボルティモアにあるジョンズ・ホプキンズ大学には「アレクサンダー・バダウィ教授職」という、彼の名を冠した地位があり、これは彼の業績を記念して創設されています。バダウィは後年、アメリカに渡って研究と教育を続けました。
現在はベッツィ・ブライアン教授(Bryan 1993を参照)がその役職に就任。

2009年12月17日木曜日

Raven 2003


エジプトのトゥーム・チャペル(神殿型貴族墓)の計画方法を述べている論考で、メンフィス地域の平地に建つ新王国時代の貴族墓の平面図を分析しています。エジプト学者に対するA. Badawyの本の影響力が知られる論文。
バダウィはAncient Egyptian Architectural Design: A Study of the Harmonic System (Universty of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1965)という本を書いていて、近年はこの考え方に対する反論が出ている状況です。バダウィの他の本については、Badawy 1954-1968などを参照。彼はArchitecture in Ancient Egypt and the Near East (MIT Press, Cambridge, 1966)なども出しています。


Maarten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002) (2003),
pp. 53-69.

1. Introduction
2. The tomb of Maya and Meryt
2.1. Reconstruction of the modular grid
2.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
2.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
3. The tomb of Horemheb
3.1. Reconstruction of the modular grid
3.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
3.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
4. The tomb of Pay and Raia
4.1. Reconstruction of the modular grid
4.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
4.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
5. The tomb of Tia and Tia
5.1. Reconstruction of the modular grid
5.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
5.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
6. Conclusions

4つの墓を対象としており、例えばティアの墓は平行四辺形に歪んでいるのですが、これを長方形に直して計画格子線を推定している点など、問題の在処を良く理解して考察を進めています。基本的に外壁の内々寸法をキュービット尺の完数で押さえているという計画方法を、うまく導き出しているところが眼目。他方で、マヤの墓では第一中庭が外々寸法で計画されたと考える点を併記しており、面白い。

5:8の比例が本当に用いられたかは、今後、検討されるべき問題。本当は実測値を逐一示して、キュービットの完数値とどれだけの誤差があるのかを示す方が望ましいのですけれども、本文中に主な計寸の値を出すだけで、他の研究者が詳しく確認できない状態にあるところは残念です。
しかし、歪んで見える平面も、正しく計画格子線の上に載るようだということを説得力を持って主張しており、これは大きな成果。

最後の註には、早稲田大学の小岩正樹さんによる論考が引用されています。ダハシュールにおけるパシェドゥの墓の平面分析が参照されているわけで、この方面の研究の進展が期待されます。

2009年12月13日日曜日

Lepsius 1865 (English ed. 2000)


古代エジプトで使われた尺度について述べられた、きわめて重要な本。にも関わらず、本当は誰も詳しく読んでいなかったという奇妙な経緯があります。
初めての英語訳です。編者が最初に、「世界で初版が9冊だけ確認されている」と書いています。再版も出ていましたが、この英訳が出たおかげでレプシウスの考えが広く知られることになりました。

Richard Lepsius,
The Ancient Egyptian Cubit and its Subdivision 1865.
Including a Reprint of the Complete Original Text with Two Appendices and Five Half Scale Plates.
Translated by J. Degreef, with expanded bibliographical notes on the works cited by Lepsius and brief biographical notes on their authors.
Compiled by Bruce Friedman and Michael Tilgner.
Edited by Michael St. John.
(The Museum Bookshop Ltd., London, 2000)
67 p. + 67 p., 5 Tafeln, xx.

Original:
Richard Lepsius,
Die alt-aegyptische Elle und ihre Eintheilung.
Abhandlungen der philosophisch- historischen Klasse der königl. Akademie der Wissenschaften zu Berlin
(Königlichen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1865. Reprint, LTR-Verlag, Bad Honnef, 1982)
(ii), 63 p., 5 folded figures.

大科学者アイザック・ニュートンの名がここで見られるのは面白い(Newton 1737)。ナポレオンによる「エジプト誌」の文章編にたくさん書いているジョマールの論考にも言及しています。
200年以上にわたってエジプトの尺度が考え続けられ、今なお結論が出ていないことを伝える不思議な書。

1997年に出たマーク・レーナーの"Complete Pyramids"では、アイザック・ニュートンに言及していなかったはず。
2007年のジョン・ローマーによる"The Great Pyramid: Ancient Egypt Revisited"(Romer 2007)ではしかし、ニュートンの業績について触れられています。最近でもMDAIKの発掘調査報告でニュートンの果たした役割について見かけましたが、編者のM. セント・ジョンの功績を称えるべきだと思います。
この人はポルトガル在住で、エジプトの物差しに興味を持っている方。新王国時代の物差しについての薄い本を出版しています。

Michael St. John,
Three Cubits Compared
(Estoi, Portugal, 2000)
i, 39 p.

長さ52.5cmの王尺(ロイヤル・キュービット)の他に、エジプトでは長さ45cmの小キュービットも用いられていた、という記述はあちこちで見受けられますが、その根拠が実はあやふやであることが、このレプシウスを読むと良く分かります。「王尺は建物に、そして小キュービット尺は家具などに用いられた」などという巷の説を、そのまま信じるべきではありません。建築と美術史とでは見方が異なる点にも注意。
エジプトの尺度について述べている文章で、この本に触れていないものは皆無であると言っていいと思います。あらゆる論考がこの本に戻ってきています。
でもその内容は入り組んでおり、今後も詳しく討議されるべき。

2009年12月12日土曜日

La Loggia 2009


大英博物館の古代エジプト・スーダン部局が出している電子ジャーナル、BMSAESの最新号(第13号)には、2008年に開催された先王朝・初期王朝に関する国際会議の議録が掲載されています。無料で配信されている、不定期刊行の専門雑誌。

http://www.britishmuseum.org/research/online_journals/bmsaes/issue_13.aspx

この号には、同僚でもある早稲田大学の馬場匡浩さんによる論考も載っていて注目されるのですが、建築とはあんまし縁のない、ナカーダ2期の土器の製造についての論文でもあることだし、ここではちょっと飛ばして建物に関わる別の論文を紹介。

Angela La Loggia,
"Egyptian Engineering in the Early Dynastic Period:
The Sites of Saqqara and Helwan",
BMSAES 13 (2009), pp. 175-196.
http://www.britishmuseum.org/research/online_journals/bmsaes/issue_13/laloggia.aspx

「柱廊」という意味の名前を持っているこの人の論文については以前、BACE 19 (2008)にて触れたことがあります。題名にも明らかなように、古代エジプトの初期における建築技術に関して述べられており、特に石と木の天井が構造力学的に妥当な寸法を有していたかを考察。数式を並べる論考ではないので、読みやすい。
グラフにも工夫が凝らされていて、壁体の実際の高さと厚さ、また計算された強度との関係を一枚の中に表現しようとしています。一方、図6の、木の梁の撓みを示した曲線は、建築の人間だったらこういうふうには描かなかったはず。
計算が大ざっぱではないかという見方もあるかもしれませんが、でも結論としてはどちらにせよ、「現代から見ても建材の用い方が理にかなっている」、そういうことになるかと思います。5000年前の遺構に、現代の構造計算を当てはめようとする試みで、意欲は買うべきかと思われます。

Walter B. Emeryの素晴らしい図版が何枚か、転載されています。巨大な建物なのに、煉瓦の目地も全部描き入れ、なおかつ屋根を一部分取り除いて内部の構成を見せるという、カットアウトが施された詳細なアクソノメトリック・ドローイング。
出版されてから50年以上経つのに、未だ引用され続けている有名な図版で、こういう図が描けるかどうかは勝負のしどころ。

2009年12月8日火曜日

Dormion 2004


建築家が書いた「クフの部屋:建築学的分析」という本。ドリルでクフ王ピラミッドの内部通路に穴を開ける調査をおこない、以前、大きな騒動を引き起こした2人の張本人のうちの片割れです。
その後20年近く粘り強い考察を進めてきたようで、いわゆる「王妃の間」の下に、別の部屋があるのではないかという示唆をおこなっています。

Gilles Dormion,
La chambre de Chéops: Analyse architecturale.
Études d'Égyptologie 5
(Librairie Arthème Fayard, 2004)
311 p.

Table des matières:

Préface par Nicholas Grimal (p. 7)

chapitre I La construction des pyramides (p. 29)
chapitre II Les demeures d'éternité (p. 45)
chapitre III Les pyramides de Snéfrou (p. 54)
chapitre IV Le problème de la Grande Pyramide (p. 68)
chapitre V L'appartement souterrain (p. 76)
chapitre VI Le couloir ascendant (p. 87)
chapitre VII Le prolongement du puits (p. 106)
chapitre VIII Le couloir horizontal (p. 114)
chapitre IX La chambre dite (p. 134)
chapitre X La grande galerie (p. 156)
chapitre XI La chambre des herses (p. 183)
chapitre XII La chambre dite (p. 201)
chapitre XIII Le dilemme (p. 224)
chapitre XIV La chambre du second projet (p. 228)
chapitre XV La chambre de Chéops (p. 263)
chapitre XVI Synthèse (p. 270)

Plans (p. 274)
Les rois de la IVe dynastie et leurs pyramides (p. 300)
Bibliographie (p. 301)
Remerciements (p. 303)
Table des figures (p. 304)

前書に当たる2冊を、ここで掲げておかなくてはなりません。発端を語っているのが以下の2冊。

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Khéops: Nouvelle enquête;
Propositions préliminaires

(Éditions Recherche sur les Civilisations, Paris, 1986)
110 p., plan.

Gilles Dormion et Jean-Patrice Goidin,
Les nouveaux mystères de la Grande Pyramide
(Édition Albin Michel, Paris, 1987)
249 p.

「王妃の間」の床に、訳の分からない痕跡が多数あることは、すでに19世紀の終わりに詳細な調査をおこなったピートリの報告によって指摘されていました。
この建築家はその痕跡を克明に追い、また床に電磁探査をかけたりして、この部屋の下に想定される落とし戸のある通路や、その先に続くべき秘密の部屋の実像を突き止めようとしています。
非常に大胆なことを示していて面白い。

石材の目地の不規則さ、また石に残っているわずかな削り跡や穴の痕を、どのように解釈し、総体としてまとめ上げられるかが述べられていて、驚嘆します。
王の間に残る石棺の痕跡から、蓋の形状を復元し、この蓋が単に上から載せられる形式のものではなくて、石棺の長手方向の真横から溝に沿って辷り込ませるものであること、また3つのダボを用いて、いったん閉めると二度と開かなくなる仕組みについて、明快に図示しています(202ページ、図45)。この種の図解は最近、しばしば見られるようになりましたが、その先駆け。

巻末に収められた何枚ものピラミッドの詳細図は素晴らしい。初めて見る図面が少なくありません。観察眼が鋭く、良く細部を見ていることに感心させられます。
特に「王妃の間」の図面は、これまで刊行されたどの図面よりも詳細で、イタリア隊の図面、Maragioglio e Rinaldi 1963-1975の第4巻よりもはるかに詳しい。比べて見るならば、すぐに分かります。

彼の説がどれだけ受け入れられるかどうか、危うく思われるし、これを確かめるにはかなりの量の石を取り外さないといけないこともあり、その調査が実現できるかも難しいところ。
しかしクフ王のピラミッドの内部に、未知の部屋があるらしいことをこれだけ具体的に示した本は稀有です。
痕跡の解釈に関しては、恐るべき才覚を備えた人物であって、見習うべきところが多い。

本には前書き以外、註が一切、振られていません。参考文献もたったの2ページ。普通の研究者ならば、頭を傾げるところです。この欠点を上回るのが圧倒的な痕跡の解釈であって、後年、彼の説の全部ではないにしても、再評価されることを期待します。

序文をコレージュ・ド・フランスの教授、N. グリマルが書いています。フランスにおけるエジプト学の最高権威のひとり。

Raven 2005


20世紀の後半、ツタンカーメン王に仕えていた大物クラスの者たちの墓がメンフィス地域で並んで見つかり、この発見が新王国時代の貴族たちの墓の研究を一挙に推し進めました。
このうち、将軍ホルエムヘブは後に王となって、ツタンカーメンの名前を歴史から抹殺した極悪人。王となる前にメンフィスの地で墓を造り始め、次第に規模を大きく増築させたことが分かっていますが、結局、王位を継ぐと自分の墓をテーベの「王家の谷」にも改めて設けています(KV57)。

歴史から消されたはずのツタンカーメンについて、3000年以上も経ってから次第に詳細が分かってくるというのはちょっと信じられないことなのですけれども、何事も大らかにことを運んだ古代エジプト人たちですから、「抹殺せよ」と上層部から言いつけられても、けっこういい加減にこの命令をこなしたらしい。
ツタンカーメンの墓が発見された当時は、「若くして死んだ王がいた」ということ以外に、ほとんど詳しいことが分からない状態だったのですが、完全にはツタンカーメンの存在が抹消されなかったため、また記録捏造の辻褄合わせが杜撰でもあったため、今日、いろいろ知られる点があるということになります。
エジプト学の魅力のひとつは、あるいはこうした一面だらしないとも思われる、人間味溢れる痕跡に触れることが多い、という印象の内に潜んでいるのかもしれません。
「しょうがない連中だなー」という共感です。

Maarten J. Raven,
with the collaboration of Barbara G. Aston, Georges Bonani, Jacobus van Dijk, Geoffrey T. Martin, Eugen Strouhal and Willy Woelfli.
Photographs by Peter Jan Bomhof and Elisabeth van Dorp, and a plan by Kenneth J. Frazer.
The Tomb of Pay and Raia at Saqqara.
74th Excavation Memoir
(National Museum of Antiquities Leiden and Egypt Exploration Society, Leiden and London, 2005)
xxiv, 171 p., 160 pls. (157-160 in color)

発掘調査の費用の捻出はどこでも困難をきわめる状況にありますけれども、イギリスのEESはオランダと組んでメンフィス地域の研究をおこなうことを選びました。この本でも、出版費の助成をオランダの財団から受けています。
本書はホルエムヘブの墓の南東に残る、パイとその息子のライアの墓に関する報告書。パイはアメンヘテプ3世時代の人物であると判断されています。ライアの石棺片も見つかりました。
つまり、小さな遺構ですが、活気溢れた時代の、かなり位の高い貴族の墓だということ。

一冊の本の中に考古・建築・人類学などの観点からの報告を纏めていて、クロス・リファレンスも充実。どの部屋から何が出土したかをまとめた巻末の"Spatial Distribution of Objects"(p. 167)を設けた点は、見習うべきかと感じます。

著者はレイデンのRMOにいる考古学者ですが、建築にまつわる報告への配慮も怠っていません。新王国時代第18王朝の末期以降、高位の貴族たちは石棺を造りましたが、その多くは報告されずに終わっている点を受け、ライアの壊された石棺を接合する面倒な立体パズルをおこなった後、図を交えながらこれを論じています。
日本隊がダハシュールの墓域で見つけたメスの石棺についても未報告の石棺リストの中に並んでいて(p. 57)、これは「英語でもっと詳しく報告しろ」という催促。

65ページの、石棺をどのように地下の玄室へと導き入れたかを示す図8は、D. アーノルドの"Building in Egypt"の影響を強く受けて描かれた図だとしか思われない。シャフト墓の内部の狭い各寸法を念頭に置いて、どのような手順で一番下の部屋へ石棺が運び込まれたかを図示していますが、"sarcophagus case"と"sarcophagus lid"とが「別々に運び込まれた」と考察している点は注目されるべきところ。
運び入れる作業の途中で石棺に傷がつき、これを地下で直したらしい点を述べ、またいくらか色塗りもこの地下室でなされたであろうとみなしている指摘も面白い。

建築学的には、平面を分析した16ページの"Metrology"が貴重です。キュービット尺の完数を用いて計画がなされたことを説明していますが、

"All these proportions refer to the bare brickwork only; the application of limestone wall revetment changed the overall effect. Because so many of the limestone architectural elements are now missing, it is very difficult to assess whether these, too, observed fixed rules of proportion."

とあって、壁体の芯の部分をなす泥煉瓦造の壁の位置が完数による基準格子に乗ることを示唆しており、石版を煉瓦壁に張って壁厚が増えている仕上げの状態を想定しつつ建物が計画されたわけではないであろうという微妙な点に触れています。
彼が発表している

Marten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002),
pp. 53-69.

が題名もなしに註として付されていますが、JEOLのこの論考は検討を要します。
平面の分析については大きな異論がありませんけれども、シャフトの深さまでキュービット尺の完数で計画されたのではないかという考えは、建築の人間としては少々、受け入れ難い。
本書における、

"The total depth of Shaft i is 7.70 m (almost 15 cubits)."
(p. 17)

といった記述も気になります。

地下の部屋をどの深さで造り始めるかという問題は、シャフト墓が密集した墓域での全体の断面図を勘案して考えるべきで、これはたぶん、テーベの「王家の谷」においても当て嵌まります。建築に関わる者であったら、たぶん「掘りやすい地層を見計らって掘るだろう」という結論になるはずです。
平面にキュービット尺の完数を適用するのは、建築の専門家や熟練工が少ない中、その方が建造の工程として合理的になるからであって、一方、シャフトの深さにまでキュービットの完数を当て嵌めることは、掘削作業の実際を蔑ろにすることへ繋がりかねません。
要するに、古代エジプトの建造作業においてなぜ完数が用いられるのかが、未だ考古学者に深く理解されていないと言うことになります。
これは地質学者にも協力してもらって、説得力に富んだ説が展開されることを期待したいトピック。

上部が緩い円弧となっているステラの断片(図77、Stela [72])では、ヒエログリフが円弧に沿って外周に刻まれていますが、頂部から左方へと続く横書きの文字列が、だんだんと傾いていくために途中で向きを90度変え、縦書きに変更されています。
矩形のステラの外周で、上辺の中央から始まって、振り分けで左右に文字列が続き、隅部で横書きから縦書きに変わることは良く見られますが、上部が丸いステラでもこれがおこなわれると、このようになるという興味深い作例。

図157〜160では、泥プラスターの上に描かれた壁画がカラー写真で掲載されています。陽の下に晒される地上部の壁画に対し、どのように保存を図ったのか、これも個人的に聞きたい点ではあります。

前書きを1ページだけ、Geoffrey T. Martinが記していて、「王家の谷の仕事に最近は追われ、長年携わってきたメンフィスの実りある調査から離れることに胸が裂かれる」といったことを述べています。
Honorary Directorという肩書きをもらっているけれども、現場の人であることを最後まで続けようとしている碩学の言葉。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月13日火曜日

Stocks 2003


この著者がカイロのファラオニック・ヴィレッジの技術コンサルタントをやっているなんて、初めて知りました。適任かと思われます。
古代エジプトの石材加工について述べている本で、類書と大きく異なっているのは、著者が自分で工具を作り、実際に試して造ってみていることで、この姿勢が徹底しています。
在野の研究者による成果としては、すでにIsler 2001を挙げました。

Denys Allen Stocks,
Experiments in Egyptian Archaeology:
Stoneworking technology in Ancient Egypt

(Routledge, London, 2003)
xxxi, 263 p.

花崗岩を昔の方法で削ったりということを、労力を厭わずやっています。花崗岩を削る時には長い時間がかかり、その時には「つんとする臭いがする」なんて報告してありますが、こんなことは他の本で書いていません。

本人はもちろん大まじめで取り組んでいるわけですけれども、ユーモラスな印象が残るのは、一生懸命に古代のやり方で逐一、石を切ったり削ったり、また道具まで作っているからです。制作途中の、著者が写っている写真も面白い。1941年生まれだから、今年、68歳です。

幻の筒状ドリルも、復原して使ってみています。これは未だにどこからも発見されていない工具で、残存する加工痕より、かなり早くからこういう形状のものが用いられたであろうと、例えばピートリが19世紀末に論考を発表している代物。花崗岩製の棺の内部を刳り貫くためなどに使われたと考えられているものです。

ピラミッド内に残るクフの石棺については詳しい分析を試みており、この時代は柔らかい銅製の工具しかありませんから、この硬い花崗岩製の棺を加工する過程で、1日当たり1キログラムの銅が工具から磨り減ってなくなったであろう、などと詳細な計算もしています。

本を出しているラウトレッジは有名な出版社。エジプト学関連の多くの本も刊行しています。

2009年10月9日金曜日

Iversen 1968-1972


オベリスクがヨーロッパに多数渡った顛末を述べた2巻本。
縦長の変型版が採用されており、強い印象を与える刊行物です。1巻目と2巻目との間に4年間の開きがありますが、どうやらイスタンブールのオベリスクを調べていくうちに記述が増えて、当初の出版予定に大きな変更が強いられたらしい。第2巻目の序文には、「第3巻目でフランス、ドイツ、イタリア、アメリカのオベリスクを扱いたい」と記していますけれども、もはや続巻を望むのは無理なようです。

建築関連で、このように中途で刊行が挫折しているシリーズがいくつもあって、バダウィによる「古代エジプト建築史」の4冊目が結局は出なかったのを初めとして、ペンシルヴェニア大学隊によるマルカタ王宮の報告書シリーズ(2冊のみが既刊)、イタリア隊による全ピラミッド調査報告書のシリーズ(2〜8巻だけが既刊)など、基本的な部分で問題が多いこと、この上ありません。

Erik Iversen,
Obelisks in Exile, 2 vols.
(G.E.C. Gad Publishers, Copenhagen, 1968-1972)

Vol. I: The Obelisks of Rome (1968)
206 p.

Vol. II: The Obelisks of Istanbul and England (1972)
168 p.

イヴァーセンという研究者はとても面白い人で、壁画にうかがわれる下書きの格子線とキュービット尺との関連を述べた研究が一番知られているかと思います。 この考察に対しては数学者を夫に持っていたアメリカの学者ロビンスが反論を発表し、今ではこちらの方が支持されている傾向にありますが、反対意見も見られることは記憶にとどめておいていい。Robins 1994を参照。在野の研究者レゴンの意見も、読むべき価値があると思います。

イヴァーセンのやってきたことはバラバラではないかとも一見、感じられます。よく知られた"Canon and Proportions in Egyptian Art"の初版が発表されたのと同じ年の1955年に、赤や青、緑や黄色といった顔料がどのような名前を有し、記されているのかを考察しており、数例だけ残っている「色(顔料)のリスト」を調べ上げました。
古代エジプトにおいて、色というものがどのように考えられたのかを知りたい人にとっては、基本の文献。

Erik Iversen,
Some Ancient Egyptian Paints and Pigments:
A Lexicographical Study.

Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab;
Historisk-filologisske Meddelelser, bind 34, nr. 4
(Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskab, Kobenhavn, 1955)
42 p.

エジプト学で見つかるさまざまな穴を、上手に探ることのできる人と言っていい。
1992年には献呈論文集も出されました。

Jürgen Osing and Erland Kolding Nielsen (eds.),
The Heritage of Ancient Egypt:
Studies in Honour of Erik Iversen.

CNI Publications 13
(The Carsten Niebuhr Institute (CNI) of Ancient Near Eastern Studies, University of Copenhagen / Museum Tusculanum Press, Copenhagen, 1992)
123 p.

編者はオージング・他で、他にアスマン、エデル、エドワーズ、ヘルク、ルクランといった大御所たちが目次に名を連ねています。

北欧の代表的な研究者のひとりとして数え上げることができ、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアなどと比べれば傍流に属する環境の内にあって、エジプト学に対し、何ができるのかを絶えず考え続けた人だということが伝わってきます。
日本も何となくやって行けるのではないかと、勇気を与えてくれる学者。