「ヘーベル - 家の友」や「芸術作品のはじまり」などは理想社のハイデッガー選集で訳を読むことができましたが、この「建てる・住まう・考える」は本邦初訳で、建築論の専門家により、圧倒的で膨大な注釈が加えられています。
著者は日本における代表的な建築論の研究者。京都大学は建築論研究を深める長い歴史を有していますが、この著者もまたそこで考察を始めた学徒のひとりです。京大の裾野の広さを改めて感じさせる、価値ある一冊。
中村貴志訳・編、
「ハイデッガーの建築論:建てる・住まう・考える」
(中央公論美術出版、2008年)
(vi), 313 p.
原書:
Martin Heidegger,
"Bauen Wohnen Denken",
Vortraege und Aufsaetze, Teil II
(Verlag Guenther Neske Pfullingen, Tuebingen, 1954. 3 Aufl., 1967)
S. 19-36.
ハイデッガーはおそらく20世紀における最大の哲学者と目される人物ですが、彼による著作「存在と時間」(Sein und Zeit)は、とても奇妙な書です。第一にこれは未完の本であって、全部が出版されていません。これは上巻しか書かれていないのです。
にも関わらず、そこで展開された問題意識が世界を震撼させたという、天下の奇書。思想の世界だけにとどまらず、文学や美術の領域にも大きな影響を与えました。
「存在と時間」は岩波文庫で読むことができます。どのような内容なのか、立ち読みでもちょっと見てみる価値はあります。日本語ではない日本語で書かれていることに、まず驚かれるかと思います。
「存在」という、何と不思議なこと、という疑問から出発しています。何でそれが人間に、また人間だけに知られるのか。その後、「存在」ということがずっとこれまで、哲学では大切に考えられてきたのだ、という点が述べられていきます。人にとって、存在は「いさおし」としか考えられない、という重要な考え方が記されます。
世界の全部をくまなく考える上で、西欧での考え方の展開の中には重大な欠陥があるようだということを最後には言おうとしたらしいのですが、また「時間」という概念がそれを説明する際には鍵となることを察知したらしいのですけれども、書きあらわすべき際にその言葉自体が西欧にはないことで立ち止まらずを得なかった未完の書。
解説している本には、たぶんそう書かれているはずです。
「建てる・住まう・考える」は、ハイデッガーが講演した、建築に直接触れる内容の短い講演の記録で、建築を学ぶ人間にとっては良く知られている文章です。
しかし「その最初の訳業から20年、初稿が出てから10年かかった」と後書きには記されており、そのような読み方をしている者が他にいるとはとうてい思われません。著者の並々ならぬ熱意が感じられます。数十ページばかりの文の和訳に30年が費やされ、しかも本編の分量を大幅に凌ぐ300ページ以上の注釈と詳細な索引が加わっています。もととなる短い文章の位置づけが完全に転倒され、主となるのは解説の方に移っており、ここには建築の領域を解き明かす鍵を与えてくれる、豊饒で巨大な迷路の眩暈を見る思いがします。
ハイデッガーとは誰で、何をした人であったのかは、木田元による著作を強くお勧めします。分かりやすく書かれた新書などを含め、何冊も出ています。この方も、ハイデッガーを読み解くことに人生を賭した偉大な先生。一冊の本に出会うことによる転機が本当にあるのだということに心を打たれます。
建築をこれほどまでに難しく考える必要があるのか、そういう不思議な思いにとらわれるに違いない人は多いのではないかと個人的には感じます。しかし人が建築の壮大な迷宮に踏み込んでいくのは、人間が建築を造る時、この人工物に人間が抱えている基本的な矛盾までもが投影されるからで、そこがもっとも面白いところ。
建築が美の結晶であるかのように捉える人は多いと思いますが、それとは異なった部分も多いことを見据える姿勢が大切であるように思われます。
似たような内容に触れた本として、
四日谷敬子
「建築の哲学 -身体と空間の探求-」
世界思想ゼミナール
(世界思想社、2004年)
154 p. + iii
などがあり、ここでは珍しいヘーゲルの建築理論の研究、そしてハイデッガーが扱われていますけれども、中村貴志は少なくとも参考文献には挙げていません。目を通してはいるけれども、無言で斥けているらしいという厳しさが伝わります。
------- 追記 -------
「ハイデガー:生誕120年、危機の時代の思索者」、KAWADE道の手帖(河出書房新社、2009年)、(iv), 191 p.が出ました。ここにも大宮勘一郎訳の「建てる 住む 思考する」が掲載されています。磯崎新が「なぜ、ハイデガーは建築を語らないのか。」を書いています(2009.03.19)。
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