2008年12月31日水曜日

Gardiner 1957 (3rd ed.)


ここ20年ほどの間に、何冊も古代エジプト語、つまりヒエログリフの文法書が海外で出版されています。HochやAllenの書いた文法書は、アメリカの大学で教科書として扱われているのではないでしょうか。吉成薫先生、秋山慎一先生、永井正勝先生といった方々により、日本でも本格的な文法書が数冊刊行されている点は非常にありがたい。
でも下記のガーディナーの本は時々振り返るべきもの、ということになるかと思います。

Sir Alan H. Gardiner,
Egyptian Grammar: Being an Introduction to the Study of Hieroglyphs
(Griffith Institute, Oxford, 1959. 3rd ed., revised. first published in 1927)
xxxvi, 646 p.

C. H. ゴードンは有名な「古代文字の謎:オリエント諸語の解読」(津村俊夫訳、現代教養文庫988、社会思想社、1979年)の中で、ガーディナーのこの本に言及しており、

「標準的なテキスト・ブックとしては、アラン・ガーディナーの『エジプト語文法』があるが、この本は多くの点で驚くべき本である。初級者向けの本として、エジプト語より英語へ、英語よりエジプト語へ、と累進的に練習問題をのせている。そして、それは、文法のトピックごとに各課にわけられており、全分野の文学作品からの抜粋を豊富に扱って、例をあげつつ説明をしている。その語彙集は大切なものであるが、注釈付きの徹底的な記号表はさらに不可欠なものである。初歩的なテキスト・ブックとして書かれたものが、ついにはエジプト学のバイブルになったのである。ガーディナーの『文法』を学ぶことは、エジプト語に習熟するための基礎である。どんな学者も、いかに上級にまで進んだとしても、この本を不要とするようになることはない」(p. 61)

と、最大級の賛辞を寄せています。
ガーディナーのこの本の読みにくさや、練習問題に解答欄が設けられていない不便な点については吉成薫先生が書いておられました。しかしゴードンが書いているように、記号表はきわめて有用。ガーディナーのサイン・リストについては秋山慎一先生が拡張版を出されていますが、原点はやはりこの本と言うことになります。

説明の仕方がもう古い、という批判があるかもしれません。海外で近年、文法書が複数出ているのはそのためですが、でも永井正勝先生にとっては、それらの最新刊でさえ、欧米の限定された考え方に囚われている、不都合な点がいっぱいある説明のしかたなのだ、ということになるかと思います。

永井正勝
「必携 入門ヒエログリフ -基礎から学ぶ古代エジプト語-」
(アケト、2002年)、(iv), 118 p.

が出ていますので御参照ください。
永井先生が開設されているブログ、

http://mntcabe.cocolog-nifty.com/blog/

でもエジプト語に関する情報が参考文献とともに多数紹介されており、貴重。

日本人がエジプト学をやる利点を発揮できる分野は、少なくとも3つあるのではないかと心ひそかに考えています。碑文学、宗教学、建築学の3つです。欧米の発想と違った考え方が提示できる可能性が、そこにはあるように思われます。

Moiso (ed.) 2008


イタリアのエジプト学で活躍したE. スキアパレッリに関する書。
たくさんの人が原稿を寄せていますが、S. Donadoni, S. Curto, M. C. Guidotti, A. Rocatti, A. M. Donadoni Roveri, S. Einaudiなど、いずれもこの国で知られている人ばかりです。
この国のエジプト学は女性が牽引している側面があり、上記のグイドッティはフィレンツェ考古学博物館の館長、アンナ・マリア・ドナドーニ・ロヴェリは前トリノ・エジプト博物館の館長。トリノ博の現館長であるエレーニ・ヴァシリカ、またピサ大学のエジプト学を率いているエッダ・ブレスキアーニも女性です。グイドッティのところには小さな子供を連れて調査に行ったり無謀なことをした時も、親切に受け入れてくれたりしました。

Beppe Moiso (a cura di),
Ernesto Schiaparelli e la tomba di Kha
(Adarte, Torino, 2008)
330 p.

「エルネスト・スキアパレッリとカーの墓」という題の本で、学者たちを輩出した彼の家系図が掲載されていたり、発掘途中のデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)の写真、また発見されたカーの墓内に遺物が並んでいる写真など、貴重な資料が豊富です。Schiaparelli 1927のところで書きましたが、一族の中では天文学者ジョヴァンニ(ジョバンニ)・スキアパレッリが有名。ファッション・デザイナーで一世を風靡したエルザ・スキアパレッリも親戚。

1902年から1920年までの間の、彼が率いたイタリア隊による発掘調査の経緯も纏められていて、ここの部分があるいは最も重要かもしれません。
1905年から1906年にかけてはアシュート、デル・エル=メディーナ、女王の谷、カウ・エル=ケビール、アシュムネイン(ヘルモポリス)、ヘリオポリスなど、多数の地域を手がけていたことなどが分かり、この点は知りませんでした。彼の野帳も掲載されています。

「スキアパレッリの仲間たち」というページも設けられており、興味深いのですが、参考文献の欄にはイタリアで刊行された関連論文が並んでいるなど、これもまた重要です。もちろん、スキアパレッリの経歴も充分に紹介されています。

イタリアにおけるエジプト学の様子を垣間見ることのできる本です。
イギリスでピートリーに関し、こういう本が出ているかというと、伝記が近年出たばかりであるはず。例えば、フランスにおけるシャンポリオンの位置づけと同じなのだと考えると、理解がしやすいのかもしれません。本国で大切に考えられている研究者なのだということが良く了解されます。

トリノ・エジプト博物館がこれまで刊行しているカタログがリストとして挙げられている(p. 310)のも便利。これはカイロのエジプト博物館から出されている"CGC"と似た名称の、"CGT"として知られているシリーズですが、現在では入手するのが非常に苦労するものもいくつかあります。

ローリング 2007


ハリー・ポッター・シリーズの最終巻です。面白かった。
実は他の書評をまだ読んでません。7月下旬のエジプトへの出国日がちょうど刊行日で、成田空港で2冊を買ったものの、帰国後にようやく読了。

J. K. ローリング作、松岡祐子訳
「ハリー・ポッターと死の秘宝」、上下巻
(静山社、2008年)
565 + 565 p.

原著:
J. K. Rowling,
Harry Potter and the Deathly Hallows, 2 vols.
(Bloomsbury Publishing, London, 2007)

シリーズの第1巻が出た時からこの作品にはそれまでのファンタジーの読み手からの異論が強く、3大ファンタジーである「指輪物語」、「ナルニア国ものがたり」、「ゲド戦記」と比較されたりで、厳しい意見も出ていたように感じられます。でもこの作者の高い力量は一目瞭然で、長い期間を通じ、しかも映画化が同時に進行するというとてつもないストレスを受けつつ、良く書き通せたなという思いがします。
どんでん返しに次ぐどんでん返しを、普通は7回にもわたって完遂できるものではありません。並の才能ではない。ルイスによるナルニア最終巻「さいごの戦い」を彷彿とさせるこのシリーズの最終巻でも、終章近くのヴォルデモートとの一騎打ちの前に、死んだはずのダンブルドアとの対話を挿んだりと、構成がしっかり考えられていて感心します。「分霊箱」、あるいは魔法の杖は本当は誰に仕えるのかというプロットも素晴らしい。

少年少女向けの本に色恋沙汰、あるいは性的な場面を交えるのはいかがなものか、という誰もが何となく思っていた点についてはル・グウィンの「ゲド戦記」の4巻目で、嵐のような論議が巻き起こされました。しかし、それももう古い話です。この巻の最後のポッターの落ち着き先に文句を言う人がいるでしょうけれども、こうした終わり方は悪くない。というか、どんでん返しを最後まで繰り返した結果、このような落ち着いた終章「十九年後」を選び取るしかなかったのではないかと推測されます。

このシリーズではヴォルデモートが饒舌であることに失望した人も少なくないかと思います。確かに大作の「指輪物語」では、サウロンがしゃべるのはあの非常に長い物語の中で、たったの二言三言しかありません。それだけ悪と言う存在の描き方が巨大であったわけです。
「叩き上げの悪人」という親近感がある点は、しかしヴォルデモートの魅力にも繋がります。この悪人も、けっこう苦労してるんだと思わせるところがすごく面白い。映画の「スター・ウォーズ」に登場する皇帝と同じ側面がある。
太字や斜体字、感嘆符など、活字上の目障りな効果の多用に辟易し、離れていった読者もいるかと推察されますが、でもこれらは単に、今日の文学表現における些末的な工夫と見ればいいかと感じます。

3大ファンタジーにこの長編を加え、では4つの中ではどれが一番なのかと聞かれたら、「指輪物語」にも「ナルニア国ものがたり」にもそれぞれ愛着がありますが、個人的にはやはり「ゲド戦記」でしょうか。
前にも記した通り、学校の解体というモティーフが含まれていて、僕はル・グウィンの作品を高く買っています。長年にわたり書き続けてきた内容を壊すというモティーフ、その創作の意図に興味を惹かれます。

Eaton-Krauss 2008


イートン・クラウスによるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の玉座や椅子などの報告書。1980年代から予告されていた本が、ようやく出版されました。
全体は3つに分かれており、最初に玉座、次に椅子と腰掛け、最後に足置き台が扱われます。ただ文章量は均等ではなく、最初の4つの玉座を記した部分だけで、本文の半分以上を費やしています。
カラー図版が一枚もない点は残念。その代わりに、日本で開催されたトゥトアンクアメンの展覧会のカタログのカラー図版まで紹介されており(p. 63, note 9)、この学者が万遍なく目を光らせていることがうかがわれます。

M. Eaton-Krauss,
incorporating the records made by Walter Segal,
The Thrones, Chairs, Stools, and Footstools from the Tomb of Tutankhamun
(Griffith Institute, Oxford, 2008)
224 p.

建築家が実測して残した図面を報告の中に組み入れているのが特色です。このために各部の実寸値が分かり、例えば黄金の玉座の場合には全高が 104.0 cm、幅が53.0 cm、座の高さが51.7 cmであることが了解されます。古代エジプトで用いられた王尺の52.5 cmを意識して造られたことが一目瞭然で、35ページにはキュービット尺との関連が確かに書いてある。
でも深くは立ち入っていません。家具とキュービット尺との関わりの問題には、もう少しデリケートな議論が必要で、それを熟知しての対処。今後の詳しい検討が望まれるトピックです。

報告書を書き慣れた人の本だから、いろいろな目配りがされていることに気づかされます。たった30ぐらいの遺物しか紹介していない本なのに、コンコーダンス(遺物番号対照表)が4つも掲載されていますが、これはカイロ博物館での展示番号とJE登録番号、及びH. カーターによって振られた遺物番号がばらばらであるための処置。丁寧と言えば丁寧ですけれども、形式にとらわれ過ぎたやり方と見ることもできる箇所かもしれません。
ページネーションについては冒頭から図版掲載ページまでを通しで振ったり、見やすくする工夫がなされています。これは近年の出版形態に合わせたやり方ですが、一方でプレート番号に関しては相変わらずLXXXIV、などと記しています。

家具に白く塗料を施すことの説明に一節を設けるなど、家具をよく見ている人だという印象が残ります。詳細な註が付されており、玉座に触れている章だけでその数は150を超えます。河合望先生の論文が引用されている点にも触れておきましょう。
Svarthという人が古代エジプト家具を模型で造って紹介している綺麗な本があるのですが、不正確な点を挙げています。でもSvarthの本は、もともとそういう厳密なことをめざした本ではないし、この指摘はちょっと可哀想。

最後に扱われている箱が、はたして本当に足置き台かどうかは疑問なしとしません。運搬用と言われる取っ手が両脇についており、何に使われたのか、想像するのが楽しい遺物です。
古代エジプトの家具を扱った専門書の中で、重要な位置を占める重厚な内容の報告書。

EA (Egyptian Archaeology) 33 (2008)

EAの最新号。イギリスのEgypt Exploration Society(EES)が年に2回、発行している紀要です。カラー写真がふんだんに掲載されており、たいへん見やすく造られている薄手の雑誌。

Egyptian Archaeology (EA): Bulletin of the Egypt Exploration Society,
No. 33 (London, Autumn 2008)
44 p.

商業雑誌ではなく、学術団体がこのようにカラーページを豊富に用いる紀要を出しているというのはエジプト学では珍しい。ウェブサイトの拡充にも努め、また電子メールでニューズレターを送るようにもしました、と冒頭で触れています。EESの正規の年会費は57ボンドですから、10000円を超えますが、学割もあります。数年前から会費をクレジット・ カードで決済できるようになりました。

ロードス島で開催された第10回目のInternational Congress of Egyptologists(ICEと略記されます)の報告がまずあって、これはエジプト学者が数年に一回、世界中から集まってくる特別な祭典なので、1ページ半を充てています。

次に掲載されているのはアマルナ王宮のコム・エル=ナーナについての論考で、アメリカの大学の博士課程の学生が執筆しています。たいへん微妙な書き方をしていますが、現地におけるごく一部分の精査をおこなうことによって、この施設の名前を解明する文字資料を見つけ出しており、ケンプの推量が正しかったことが証明されています。発掘をおこなう調査隊長ではなく、成果を学生が単名で発表しているわけで、見えないところでのケンプやEESの後推しが感じられる内容。
書かれていることにはことさら新しい情報はないのですが、発表形式が面白かった。つまりケンブリッジ大学を退任したケンプやEESが、これからアマルナの発掘をどうやっていくつもりなのかが、ここでは暗示されているように思われます。

Notes and Newsの欄の最後では、世界のエジプト学者たちの異動をさらっと知らせており、こんなコーナーが設けてあるのも興味深い。イギリス人のウィットなのかもしれません。エジプト学の講座は狭くなりつつあって、数少ない研究教育機関の席を世界中の学者が、もう国籍などは関係なく、奪い合う状況なのだと言うことが良く了解されます。

フランス隊によるタポシリス・マグナの発掘報告では、図面表現の美しさに目を奪われました。錯綜する地表面の遺構、そして地下の諸室の様子をどのように描き分けるかが工夫されています。影を落として立体感を出しているのもうまい方法。
カスル・イブリムから出土したサンダルなどの提示も、非常に上手で感心しました。片方の足は足裏を地面につけていますが、もう一方の足はつま先立ちにしており、これによって履き物の裏面の状態も明瞭に見せ、復原された履き物の様子が良く了解されます。

書評の欄ではケイト・スペンスがローマーの"The Great Pyramid"を評しています。ローマーの提案しているクフ王のピラミッドの断面計画案には異論を呈しており、この評者は建築的な問題点をやはり良く分かっている人だという印象を受けました。僕も基本的にこの考え方に賛同します。
スペンスはセセビにおける調査を試みている研究者。セセビはアクエンアテンによる遺構があることで知られています。
彼女の博士論文は古代エジプト建築の向きについて纏めたもので、数年前にはピラミッドに関する論文をNatureに投稿し、注目を浴びました。

2008年12月30日火曜日

Dodson and Ikram 2008


古代エジプトの墓を包括的に扱った初めての新刊書。数千年にわたる歴史の中で、墓の造り方がどのように変わっていったのか、また身分の違いでどの程度、墓の形式が異なるのかを通覧しています。

Aidan Dodson and Salima Ikram,
The Tomb in Ancient Egypt:
Royal and Private Sepulchres from the Early Dynastic Period to the Romans
(Thames & Hudson Ltd, London, 2008)
368 p., with 402 illustrations, 28 in color

序文でも触れられている通り、これまでは墓のタイプや時代ごとに述べられることが多く、全部を通じて語る試みはありませんでした。この意味では確かに画期的です。

死後の世界を重視した古代エジプトでは、墓というものはたぶん特別で、まず支配者によって凝った造りがなされました。その後に展開を遂げ、出土例も増加し、形式も数多くて豊かであったから、エジプト学ではおそらく最初から形式や時代によって別々に研究が開始されたと思われます。
これは、ピラミッドをやる人はピラミッドを調べるだけで精一杯だし、新王国時代の王墓の研究者は王家の谷に専念し、また私人墓をやる人はそれにかかり切りになるということを意味します。

この枠組は今日でも相当に強固で、それを乗り越えようと試みた本なのだと言えないこともない。テムズ&ハドソン社からは、すでに「コンプリート」シリーズが何冊も出ていますから、その延長上の企画という位置づけもあります。
ここでは時代として初期王朝からグレコ・ローマン時代まで、また形式としてはマスタバから始まって、ピラミッド、サフ墓を含む岩窟墓、空墓(セノタフ)、シャフト墓、神殿型貴族墓(トゥーム・チャペル)、その他一切合切の墓がヌビア地域をも含め、全部まとめて出てきます。

欲を言うならば、雑駁な印象がどうしても拭い難い。相互の連関が強く打ち出されていないからであるように感じられます。
新しいことが書かれていない、という不満を感じる向きが多いのでは。古代エジプトにおける墓の平面図が全部見たかったという期待も裏切られます。

しかし古代エジプト建築で葬祭建築を扱うとなると、これまで見つかっている遺跡の半分以上に言及せざるを得ないわけで、その線引きと、基本的な構成案との双方に難があったのではないかと疑われます。膨大な情報量の既往研究に、溺れかかっているようにも思われます。
入門書として活用されるべき図書。
書評がEgyptian Archaeology 34 (Spring 2009), p. 41に出ました。

糸井(編) 2007


アーシュラ・ル=グウィンによるファンタジーの代表作「ゲド戦記」へ誘うために作られた小さな冊子。無料で配布されました。
直接には「広告としての役割」を負った本で、良く考えるとこの書籍(?)は奇妙な存在です。

糸井重里(プロデューサー)
中沢新一、宮崎駿、河合隼雄、清水真砂子、上橋菜穂子、中村うさぎ、佐藤忠男、宮崎吾朗
「ゲドを読む。」
(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
 ブエナ ビスタ ホーム エンターティメント,2007年)
非売品。206 p.

中沢新一による解説「『ゲド戦記』の愉しみ方」(pp. 13-59)がとても良い。特に「ゲド戦記」の第4巻の扱いが非常に上手で、秀逸です。
長い間隔を置いて発表されたこの4巻目に対しては、「がっかりした」、というような感想が寄せられることが多いかもしれないのですが、そうした反発は実は大したことではないのだという見方がなされており,作者ル=グウィンが本当にやろうとしたと思われるモティーフが見据えられています。

3冊が刊行された後、20年近くの歳月を隔てて書かれたこの4巻目と,さらに10年以上を経て出版された5巻目がなかったら、この作品は凡庸なものに終わっていたに違いないという解釈が,文章でははっきりと書かれていないのですが、ここではなされていると思います。
自分の書き継いで来た世界を、4巻目と5巻目は壊そうともくろんでおり、そのためにだけ2冊が後に書き加えられたといった見方には興味が惹かれます。
表現というものの本質がここでは問われている、そう考えて良いかもしれません。
レヴィ=ストロースではないけれども、「女性とは何か」、そういうこともこの4巻目と5巻目における読解では問われています。大地と結びついた女性と、そこへ降り立った名うての魔術師が魔法の能力の一切を奪われる、という対比の鮮やかさ。

最終の第5巻では、魔法学校であるローク学院の存在意義が疑われる格好になって終わっており、個人的にはここも面白かった。「学校の解体」に鋭く反応してしまうのは,ただの職業病。
6巻目の「外伝」にも,佳作が集められています。小さな断片がいくつも散らされて、本編との間に無数のものがたりが展開していることを想像させます。

映画を見に来る人たちを増やすことだけを狙ったのではない、巧みな導入を図った小冊子です。

2008年12月29日月曜日

Goddio 2007


ヒルティ財団から研究資金を得てなされたエジプト・カノープスにおける水中考古学調査の報告書。ロゼッタ・ストーンが見つかったことで知られているロゼッタと古都アレキサンドリアとの中間地点にカノープスは位置しています。
この町についてはストラボンによる記述の中にうかがわれ、そこではヘラクレスを祀った神殿「ヘラクレイオン」にも言及されています。

フランク・ゴディオが率いるアレキサンドリアの海中調査に関しては、すでに広く知られているところ。このカノープス地域における調査も大がかりで、対象となる海域が 約110平方キロメートル、と記しています。1990年代の初頭から予備調査が始められ、長い年月にわたる調査ですけれども、もちろんこのような広さの海底全部を潜って精査できるはずもなく、最新の探査機器やGPSなどが駆使されています。
2009年の6月、ゴディオ隊による調査の成果は横浜において「海のエジプト展」として公開され、そこでは多様な遺物とともに大画面に映し出される映像も見ることができるとのことですが、おそらくはここに記された内容が中心のひとつとなるはず。

Franck Goddio,
Underwater Archaeology in the Canopic Region in Egypt:
The Topography and Excavation of Heracleion-Thonis and East Canopus (1996-2006).
Oxford Centre for Maritime Archaeology (OCMA): Monograph 1
(Institute of Archaeology, University of Oxford, Oxford, 2007)
xvi, 136 p.

Contents:
Chapter 1: Introduction: The Canopic region - presentation of the project
Chapter 2: The ancient topography of the Canopic region - East Canopus
Chapter 3: Heracleion

朝日新聞社による「海のエジプト展」の 公式ページは、

http://www.asahi.com/egypt/?ref=recc


となります。
カラー図版がふんだんに盛り込まれた贅沢な作りの報告書で、ほとんど全ページにカラー図版が挿入されているといっても過言ではありません。海底における等高線が作成され、そこに遺物が書き込まれるという基本的なシステムが組まれています。

かつては陸地であったカノープスの町は、その後、海の底に沈んでしまいました。その復元をこの巻ではおこなっています。
注目される遺物は鉛などで造られた船のアンカーで、これが深い場所から相当数、見つかっています。この情報を元に、昔は船が行き来していた運河や水路の領域が大まかに特定され、等高線と重ね合わせて考えるならば、どこに往時の海抜があったのかを推定することができます。沈んでしまった陸の輪郭を描き出す作業がおこなわれたら、石材が散らばる建物址も見つけ出されていますから、島に建っていた神殿の位置も割り出すことができるという過程を踏んでいます。
「海のエジプト展」において提示されるこの都市の復原では、こうした考察の流れを経て復原されているのだと考えると判りやすい。

ヘラクレイオンの建材、石碑(ステラ)、彫刻像、その他の出土遺物が多数のカラー写真とともに紹介されていますし、報告書としては非常に分かりやすい書き方がなされています。
研究資金面で協力しているヒルティは小国リヒテンシュタインの会社で、土木建設業を主とし、現在では世界中に支社を構えています。民間から資金を得、学術的にはオクスフォード大学からの強力なバックアップを背景に出版された本。

Janosi (ed.) [Festschrift D. Arnold] 2005


古代エジプト建築研究の碩学、D. アーノルドへ向けた実質的な献呈論文集。でも体裁は風変わりで、書名にはそのことが副題にもまったく明記されていません。
歪んだ部分を含む本と言えないこともない、いろいろな意味で興味深い書です。

Peter Janosi (ed.),
Structure and Significance: Thoughts on Ancient Egyptian Architecture.

Osterreichische Akademie der Wissenschaften,
Denkschriften der Gesamtakademie, Band XXXIII.
Untersuchungen der Zweigstelle Kairo des Osterreichischen Archaologischen Institutes;
Herausgegeben in Verbindung mit der Kommission fur Agypten und Levante der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften von Manfred Bietak, Band XXV
(Verlag der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien, 2005)
xviii, 555 p.

本当は、この本を紹介するタイトルには単に、

(Festschrift D. Arnold) 2005

とか宛てればいいのかも知れないとか迷いましたが、それを逡巡させる何かがこの厚い本の構成の中にはあります。編集者のP. ヤノシの名を書誌として挙げたのはそのためです。
上記の書誌がとても長くなっているのは、ドイツ語系の刊行物でしばしば良くある話。ここではオーストリアにおける研究機関による刊行のシリーズ名が重なっているためです。

献呈論文集、あるいは記念論文集(Festschrift)とはそもそも何か、ということがあります。
普通は、これまでその先生にお世話になり、指導を受けてきた門下の研究者たちが本の企画をおこなって、各自の論考を新たに執筆し、それらを集成して取り纏めるという経緯を辿ります。
しかしこの本の場合は奇妙で、どういう訳か、アーノルドの奥さんによる最初の論文が一番長い。何と、70ページも書いてます。
本の目次の順番は幸か不幸か、姓のアルファベット順なので、アーノルドの奥さんの次にはアーノルドの息子フェリックスの論考が並んでいます。この両者による論文だけで100ページを超える。

まあ、普通は姓名の順であることが多いので、仕方がないところはあるかもしれない。
しかし僕はこれまでの中において、「フェストシュリフト」で家族による執筆論文が本の冒頭を飾り、しかもその分量が全体の1/5を占めるという本を、この20数年の間で初めて目にしました。たぶん、前代未聞だと思います。

で、アーノルド本人のbibliography、すなわち彼がこれまで何をやってきたのかという研究業績の紹介というものもまた、この本には一切、掲載されていません。

「皆さん、よく御存知でしょうから」

などと、編者のヤノシは序文にて、さらっと書いてます(!)。
こういう事態も献呈論文集としては、すごく珍しい。結局は、古代エジプト建築に知悉するごく少数の人間同士が読む本なんだから、ということを考えた末なんでしょうか。
個人的な興味としてビータックとカルロッティの論文には、大いに惹かれました。とても面白い。

編者のP. ヤノシは近年、盛んに重要な出版物を重ねている人物です。古王国時代の建築、特にピラミッドを詳しく知りたいという人ならば、この研究者の本に目を通すことが欠かせません。
本書は古代エジプト建築に関して興味を持っている人にとって、10年に一度出るか出ないかという貴重な刊行物。

2008年12月28日日曜日

Weatherhead 2007


アマルナ王宮に描かれた壁画類の資料を集めた労作です。早稲田隊によるマルカタ王宮関連の調査結果との比較も随所でなされていますが、本格的な検討はこれから進められることになるかと思われます。
数年前から出版が予告されていましたけれども、ようやく上梓されました。H. フランクフォートによるアマルナ王宮の壁画の図集と並ぶ重要な書。

Fran J. Weatherhead,
Amarna Palace Paintings.
Seventy-eighth Excavation Memoir
(Egypt Exploration Society, London, 2007)
386 p.

ピートリーがアマルナ王宮を発掘し始めてから100年以上経ってついに実現されたカタログで、第一級の資料です。
カラー図版が少ないのは惜しまれますが、5つの色彩と白と黒との区別を施した線描による図版は、丁寧に仕上げられています。

アマルナ王宮は意図的に破壊されていますから、彩画断片はマルカタ王宮と比べて小さくなる場合が少なくありません。ほんの小さな1センチ四方の断片も対象に含めているのを見ると、作業は大変であったことが良く分かります。
だいたいモノクロ写真しか残っていない資料もあるわけで、その中で、できるだけ原資料を忠実に報告するにとどめ、個人の復原案を排除しようとしたことが了解されます。

203-204ページの部分では、昔の調査員たちによって異なる記述が残されている壁画の記録をどう紹介するか、おそらくは煩悶があったに違いないのですけれども、しかしその図版に描き込まれているスケールバーの長さはおそらく5cmではあり得ず、結果として、さらに輪をかけて読者を混乱させることになっています。

こうした些細な間違いはあるものの、古代エジプトの王宮建築を考える上では必読書と言わざるを得ません。散らばって世界各国の美術館に収蔵されている彩画片の情報を集成し、一冊に纏めた功績は賞賛に値します。
ギリシアの国際会議においてケンプとの連名で発表されたアマルナ王宮の壁画に関する共同執筆論文との併読が必要。

20世紀の後半は、古代エジプトの王宮建築に関する刊行物が多く出された時期であり、ケンプによるアマルナ王宮、ビータックによるテル・エル=ダバァの王宮やラコヴァラによるデル・エル=バラス(ディール・アル=バラス)の王宮発掘報告書などの刊行の他、オーストリアのビータックによる国際シンポジウムも開催されました。ミノアの王宮との比較研究も進められています。

2008年12月27日土曜日

Description 1809-1818


ナポレオンの「エジプト誌」をインターネット上で見ることができます。DVDでも購入が可能となりました。
19世紀初期の出版ですから、もう相当に古いんですけれども、今でも時折引用される、重要な位置づけにある書籍で、エジプト学における初期の基本文献の筆頭をなすもののひとつ。
ヒエログリフの部分が無視されたり、あるいは筆写がいい加減であったりもするのですが、すでに失われてしまった建築遺構の姿を伝えていたり、また200年近く前の建物の残存状況が詳しく図示されているため、現在でも有用な本となっています。

http://descegy.bibalex.org/index1.html

日本にわずかな数しか輸入されていませんでしたし、実際にこれらを見ることが一昔前までは困難でした。でも縮刷版がリプリントされて出回るようになり、今では事情が改善されています。荒俣宏もこの本については著作を刊行。

端折って、ただの"Description"と呼ばれていますけれども、正式な題名は非常に長いものです。

Description de l'Egypte, ou Recueil des observations et des recherches qui ont ete faites en Egypte pendent l'expedition de l'armee francaise, publie par les ordres de sa Majeste l'Empereur Napoleon le Grand.
9 vols. de texte, 11 vols. de planches et atlas
(Paris, 1809-1818. 2e ed., 1821-1829)

説明文を記した本が9冊と、これとは別に,大きい図版集が11冊、またさらに大きな地図帳が用意されています。
恐るべき書籍で、特に図版集は素晴らしい。ナポレオンの威光のために造られた本です。到底、一人では自由に扱えない大きさと重さを有しており、必要なページを開くのに苦労して格闘しなければならない、とってもおぞましい厄介な本でもあります。非常に大きな地図帳では、クフ王のピラミッドの頂上が標準点として選ばれていたり、当時の面白い解釈に基づく遺跡名など、改めて見直すと発見が多々あります。
テキスト編における、ジョマールによるキュービット尺の論考は、現在では結果として間違っているとしか思われないものの、論旨の進め方は建築の見地からは重要とみなされます。
漢数字が「エジプト誌」に掲載されているのは面白い。シャンポリオンによる解読の前の時代ですが、数字だけは読めたようです。

同様に「エレファント・フォリオ」の範疇に含まれる巨大な判のレプシウスによる報告書もまた、幸運にも現在ではウェブサイトで閲覧することができます。
「デンクメーラー」と呼ばれたり、もっと縮めて、単に"LD"と記される場合が少なくありません。"Lepsius, Denkmaeler"の略。

http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/start.html

正式のタイトルは、

Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
12 Tafelbaende, 5 Textbaende
(Berlin, Leipzig, 1849-1913)

古代エジプト建築研究者にとっては必見の書。12冊の図版集と5冊の説明書の、合計17冊。建築遺構に関する図集として、今なお引用が続いています。縮刷版が出ている他、リプリントもあります。縮刷版ではしかし、実測値を読むことができません。

2008年12月26日金曜日

Mols 1999


ヘラクレネウムで見つかった家具の報告書ですが、古代エジプトの木工家具にも言及している文献。
家具史に関わるエジプト学者は、実は世界で数名いるに過ぎません。H. S. Baker ベーカーによる古代の家具に関する重要な著作(Baker 1966)が出された後、G. Killen キレンは何冊かの本を出しています(Killen 1980; Killen 2003; Herrmann ed. 1996)が、既往研究を充分に引用していないなどの不手際のため、エジプト学者の間ではあまり信用されていない傾向が見られます。ベーカーもキレンもともに家具職人であって、作り手から見た家具の研究をおこなっています。
一方、エジプト学者の中で家具に興味を抱いている人間としてはH. G. Fischer フィッシャー(cf. Égypte, Afrique & Orient 3 [1996])やM. Eaton-Krauss イートン=クラウスたちが挙げられます(cf. Eaton-Krauss 2008)。フィッシャーは惜しくも数年前に亡くなりました。アメリカのメトロポリタン美術館に所属していた、風変わりな文献学者で、面白い内容の著作をいくつも書きました。建物の扉に関して述べている論文なども残しています。晩年に詩集を出している才人。

Stephan T. A. M. Mols,
Wooden Furniture in Herculaneum: Form, Technique and Function.
Circumvesviana, vol. 2
(J. C. Gieben Publisher, Amsterdam, 1999)
321 p., 201 pls.

古代ローマの家具を扱うこの本が何故注目されるかと言えば、文献への目配りを充分におこない、古代エジプト家具についての素晴らしい短い要約が書かれているからです。W. Helck and E. Otto (eds.), Lexikon der Ägyptologie(cf. LÄ 1975-1992)における「家具」の項目における記述に負けていません。
図版20も注目されます。ものすごく古い報告書、

W. M. Flinders Petrie and Ernest MacKay,
Heliopolis, Kafr Ammar and Shurafa
(London, 1915)

のpls. 24-25を参照したと注記してありますが、実際に両者を見比べたら、まったく違うことに驚かされます。この図版は木工における仕口の図解なのですが、改変して立体的に描写されており、古代の家具に関し、エジプト、ギリシア、そしてローマ時代を通底して、木材加工の変遷を見据えようとする著者の努力が明瞭に伺われます。

家具史の教科書というのは古代エジプトから語り始められますけれども、実は他の地域では出土例が少ないわけで、エジプトはこの点、独壇場です。たくさんの家具が出土しており、また王の家具から労働者の家具まで見つかっているという点で、古代世界においては他に例を見ません。家具の形式を見るならば、その持ち主の社会的な地位を推定することができるほど、エジプト学では家具の出土例が多く見受けられます。
でもそれ故に、客観視できない部分があるのではないかと、本書を読む時には反省を強いられます。

エレファンティネの報告書で明らかなように、第3王朝における建物の天井の梁材を復原する考察もありますが、古代エジプトにおいて、木材がどのように加工されて用いられたのか、その全体像を見ようとするエジプト学の研究者は、未だあらわれていないように見受けられます。
他方、建築から家具に至る分野の横断と、新たな領域の開拓はもしかしたら、日本人にしかできないかも、と期待される部分があります。エジプト学はすでに分野が細分化されており、一方で日本の木材加工の歴史に関する資料は近年、増えているからです。

古代ローマ時代の家具については、新刊が出されています。

Ernesto De Carolis,
Il mobile a Pompei ed Ercolano: Letti tavoli sedie e armadi.
Studia Archaeologica 151
(L'Erma di Bretschneider, Roma, 2007)
260 p.

巻末の30ページにわたる家具の復原図版はCGを用い、モノクロながら興味が惹かれます。

2008年12月25日木曜日

Janssen 1980


土器片や石灰岩片に文字や絵が記されたものをオストラコンと呼びますが、大英博物館には特別に大きなものが一点収蔵されており、O.BM 5634として知られています。それだけを取り上げて詳細に論じた考察で、デル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)に関してヤンセンの書いた論文の中でも、最も面白いもののうちのひとつ。

Jac J. Janssen,
"Absence from Work by the Necropolis Workmen of Thebes,"
Studien zur Altaegyptischen Kultur (SAK) 8 (1980), pp. 127-153.

O.BM 5634は王家の谷で王墓の造営に関わった労働者たちの欠勤簿で、たくさんの人名と日付、また休んだ理由が黒と朱のインクでこと細かに書いてあります。石片に文字を刻んでいるわけではありません。このような記録が残っていることそのものが驚きなのですが、休んだ理由がまた興味深い。ヤンセンが片目をつぶってみせながら書いている様子が良く伝わってくる論考。

このオストラコンは両面に文字が記されていて、こういうのは珍しくはないのですけれども、まず挙げられている労働者の人名と記され方を検討し、このオストラコンには表と裏があることが指摘されます。王家の谷の労働者たちは、「右班」と「左班」のふたつの班構成で作業をおこなっていました。この点を明らかにしたのはJ. チェルニーで、これを踏まえ、「右班」の人名が挙げられているのが表の面である可能性を考察しています。

書かれた年代。冒頭には、王の名前は記されていません。しかし40年以上にわたる治世年を有するのは、新王国時代の王の中ではラメセス2世だけです。このオストラコンの場合がまさしくそうで、書かれている治世年だけで王が特定できる典型例。ラメセス2世時代に属するとはっきり判断されているオストラカはしかし、全体としてみるとあまり多くは遺されていません。

作業を休んだ理由で多いのは「目の病気」。眼鏡のない時代ですから、岩窟墓の掘削に当たっては、飛び散る岩石片で目を痛める者が多く出たに違いないと思われます。蛇に咬まれた、という休日の理由もここでは記録されています。
労働者たちによって崇められたのが『メルト・セゲル』、「沈黙を愛する女神」でした。

研究者たちを悩ませているのが「個人のお祝いの日」で、これが何を意味するのか、良く分かっていません。王墓の造営ですから、鞭打たれながら強制的に働かされていたような印象が拭えませんが、これがまったく違うことを明らかにしたのはW. ヘルクで、驚くべきことに年間では相当の日数の休日があったらしいことが指摘されています。

Wolfgang Helck,
"Feiertage und Arbeitstage in der Ramessidenzeit",
Journal of Economic and Social History of the Orient (JESHO) 7 (1964), pp. 136-166.

記録に残る欠勤日が調べ上げられた結果、その記録で触れられない日が特定の日に集中することに気づき、当時の一週間は10日間で、ラメセス時代にはこの週末に当たる第9-10日、第19-20日、また第29-30日が休日であったという考察も導かれました。働くべき日を休んだことを列挙する記録ですから、当然休んで良いはずの休日については、この欠勤簿では触れられないという逆説。

O.BM 5634で注目されるのは、妻や娘のために休んだ記録が書かれている点です。出産に関わる休みではないかとあれこれ可能性を考えているのですけれども、「男には分からないことがあるし」と言うことで、密かに女性のエジプト学者に聞いてみた、と述べられている下りがとても可笑しい。詳細は読んでみてください。

極めつけは、「飲み会の準備」で仕事を休んだという記録です。これがしばしば記されていて、どうも「お祝いの日」には深酒を伴う盛大な飲み会が開催されたように推定されています。
ある研究者はこうした研究結果を受け、

"Frequently also men were absent 'brewing' for a day or two before a festival. The ideal feature of festivals at Deir el Medina seems to have been a general drunkenness."

と記しています。
酔いどれ人夫たちの管理をおこなった班長たちの仕事は、おそらく大変であったに違いありません。半ば同情しつつ、しかしその班長たちもまた一緒に、かなり飲んでいたのではないかとも疑われるところです。

2008年12月24日水曜日

Herz-Fischler 2000


クフ王のピラミッドのかたちはどのように決められたのか。10以上ある諸説を数学者が根底から再吟味をおこない,妥当性を検証した書。
こういう本は珍しい。いくつかの説を紹介する本はあっても、実測値とどれだけの誤差があるか,また当時の数学の知識を踏まえての仮定は正しいのか、充分に考察を重ねたものは少ないからです。

Roger Herz-Fischler,
The Shape of the Great Pyramid
(Wilfrid Laurier University Press, Waterloo, Ontario, 2000)
xii+293 pp.

この本はエジプト学者にほとんど引用されていないけれども,問題点を整理している点で,とても重要だと思われます。結果として,いくつかの論には説得力があるものの、どれも完全には承服できない,と書かれているところが面白い。
ホームページをこの著者は開設していて、建築と数学に関する他の論考もそこで読むことができます。

http://herz-fischler.ca/index.html

筆者がこぼしているように(p. 164)、ピラミッドと絡めてよく語られる「セケド」 "sqd" (=seqed)という勾配の決め方は、当時の尺度など複雑な問題が絡み合っているため、エジプト学の専門分野内でもっぱら論議されることが多く,一般の人には縁遠くなっているのは事実だと思われます。
こういう指摘は重要で,「セケド」と呼ばれるものが専門家たちの間でのみ抱え込まれてしまい、情報が広がっていないという点が言われているわけです。

実はこの「セケド」は,日本の伝統的な木造建築を知る者にとっては単純な話で、1キュービットという基準の長さに対し,それに直交して別の長さを指定して傾きを与えるやり方に違いありません。酷似した方法は日本建築の屋根勾配の定め方でも出てきます。「4寸勾配」といったら、水平に1尺=10寸を取り,垂直に4寸下がった傾きのことで、大工さんなら誰でも知っている方法です。
「セケド」という方法がリンド数学パピルスにしか見当たらないものですから、エジプト学研究者は概念をきわめて限定して扱っているのですけれども、本当は非常に単純で、また普遍的な方法だと考えていいと思われます。

「セケド」の概念が、もっと一般的な方法であったのではないかということは近年,気づかれつつあります。
「セケド」については現在,下記の文献がおそらく最良です。

Annette Imhausen,
Agyptische Algorithmen: Eine Untersuchung zu den mittelagyptischen mathematischen Aufgabentexten.
Agyptologische Abhandlungen 65
(Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, 2003),
pp. 162-168, "sqd-Aufgaben."

この執筆者もホームページを開設しており、そちらも興味深い。

2008年12月23日火曜日

Wendrich 1991


植物の繊維を編んで紐や綱を作り、これらをさらに編んで籠などを作ること(cordage, basketry)を扱った書。
本のタイトルは、演劇界で大ヒットしてその後に映画化もなされた作品「ヴァージニア・ウルフなんか怖くない」を踏襲しています。Edward Albeeの記した文が冒頭に引用されているのはそのためです。

Willemina Wendrich,
Who is Afraid of Basketry: A Guide to Recording Basketry and Cordage for Archaeologists and Ethnographers.
CNWS Publications No. 6
(Centre for Non-Western Studies, Leiden, 1991)
vi, 156 p.

著者はベレニケにおける発掘調査の隊長を務めたことでも知られています。
オランダのレイデンにあるCNWSは面白い本を出すところで、この「非西洋研究センター」という奇妙な名前の付け方も興味深く思われます。大航海時代にアジアにまで進出し、オランダがいっぱい植民地を有していた時のなごりで、インドネシア研究などもここでおこなわれています。

序文で、1986年にバスケトリーの研究を始めたと書いており、5年でこのようなガイドブックを纏め、出版したことになります。どこでも籠細工が目に入ったとたんに釘付けとなり、その詳細を探ることに熱中したとありますから、相当熱心に勉強を重ねたに違いありません。
「友達の家や気安いレストラン、農業博物館を訪れた時はいつでも」、籠製品を目で探していたと序文で書いています。かなりの変人としか言いようがない。

表紙の絵が斬新で、植物繊維によるさまざまな編み方が全部一緒くたにされて提示されています。こういうところは、著者の独壇場。
籠製品の調査に必要な道具の解説から始まり、どこをどう計測し、記録すればいいのかを延々と語っているのが可笑しい。素人にとっては、綱が右巻きであろうが左巻きであろうが、たいしたことではないと思われるのですが、著者は真剣です。一本の綱の記録方法として、zS2{Z}3、なんていう表記がうかがわれ、これは逆時計回りに撚って作った紐を2本、今度は時計回りに撚って太い紐を作り、それをさらに3本合わせて逆時計回りに撚った一本の綱の様子をあらわしたもの。

丁寧に書かれた図版は豊富で、高い図化能力が素晴らしい。立体物の把握に長けた人であることが了解されます。
籐を編む趣味を持つ人たちにとっては、おそらく必携の書です。専門用語解説も巻末に付されており、最後の6ページ分は入念に作成された調査シートで、そこに挙げられた項目を埋めていけば、籠製品の記録としては望ましいことになるようです。
この人はアマルナから出土した縄や籠細工の仮報告も執筆していますし、後年、さらに本格的な本も出しています。

Willemina Wendrich,
The World According to Basketry: An Ethno-Archaeological Interpretation of Basketry Production in Egypt
(CNWS, Leiden, 1999)
492 p., 60 min. video

60分のビデオ解説付きという、エジプト学の専門書の中では珍しい刊行物。

2008年12月22日月曜日

Roller 1998


ヘロデ大王は、生まれたばかりのキリストの命を絶つために、2歳以下の男の子を全員殺すように謀った残虐なユダヤの王として聖書に登場し、有名ですが、この人はまた、建築をたくさん建てたことでも広く知られています。古代エジプトの建築王がアメンヘテプ3世や、その真似をしたラメセス2世だとするならば、 この人は古代ユダヤの建築王。
エルサレム神殿の大規模な増改築や、マサダの要塞、ヘロディオンなどが代表作となりますけれども、その業績を通覧しようとした労作。

Duane W. Roller,
The Building Program of Herod the Great
(University of California Press, Berkeley, 1998)
xvii, 351 p.

Contents:
Chapter 1. Herod's First Trip to Rome (p. 10)
Chapter 2. What Herod Saw in Rome (p. 33)
Chapter 3. Herod and Marcus Agrippa (p. 43)
Chapter 4. The Herodian Intellectual Circle (p. 54)
Chapter 5. Herod's Second and Third Trips to Rome (p. 66)
Chapter 6. Early Roman Building in the Southern Levant (p. 76)
Chapter 7. The Building Program of Herod the Great (p. 85)
Chapter 8. Caralogue of Herod's Building Program (p. 125)
Chapter 9. The Buildings of Herod's Descendants (p. 239)
Chapter 10. The Legacy of Herod (p. 254)

非常に巧みな構成を取っており、ヘロデ大王が若い時に、その時代における世界の中心ローマで何を見たのかをまず最初に描き、彼を囲むさまざまな人々、特に親密な交友関係を結んでいたと思われるアグリッパや、ギリシア・ローマの文化を彼に示した他の知識人たちを紹介しています。レヴァントにおける初期のロー マ建築に関して、その次に様相を伝え、ここまでが前提として述べられた部分。各章は平均して10ページほどに纏められており、比較的短い記述が続きます。

しかし第7章と第8章では、かなり長い説明がなされていて、これらふたつで150ページを超えます。章の長さが極端に異なり、ここが中心となるので、ここから読み始めても良いかもしれません。残りは、こうした建物がその後、どのような変遷を辿ったか、またヘロデ王の伝説がいかにして生まれたかを扱っていま す。

序文では、「1970年代の末にヘロデ大王に興味を抱き始めたが、建築王としての彼の達成を誰もまだ書いていないように思われるので、ヘロデ大王の没後2000年(註:ヘロデ王は紀元前4年に没)を記念して本を出した」(!)といったことが述べられています。
考古学的資料の他、アウグストゥス、キケロ、ホメロス、ヨセフス、プルターク、ストラボン、また聖書など、多数の古典著作やその他の文字資料で断片的に記される内容をもとにして組み立てられた、大変な本。引用文献リストは7ページにわたって続き、この他に参考文献リストが30ページ、付されています。
図版はすべてモノクロですが、遺跡の写真はほとんど著者が東地中海を廻って撮り貯めたもの。

2008年12月21日日曜日

中村 2008


マルティン・ハイデッガーの講演記録のひとつに関する訳とその解説。
「ヘーベル - 家の友」や「芸術作品のはじまり」などは理想社のハイデッガー選集で訳を読むことができましたが、この「建てる・住まう・考える」は本邦初訳で、建築論の専門家により、圧倒的で膨大な注釈が加えられています。
著者は日本における代表的な建築論の研究者。京都大学は建築論研究を深める長い歴史を有していますが、この著者もまたそこで考察を始めた学徒のひとりです。京大の裾野の広さを改めて感じさせる、価値ある一冊。

中村貴志訳・編、
「ハイデッガーの建築論:建てる・住まう・考える」
(中央公論美術出版、2008年)
(vi), 313 p.

原書:
Martin Heidegger, 
"Bauen Wohnen Denken", 
Vortraege und Aufsaetze, Teil II
(Verlag Guenther Neske Pfullingen, Tuebingen, 1954. 3 Aufl., 1967)
S. 19-36.

ハイデッガーはおそらく20世紀における最大の哲学者と目される人物ですが、彼による著作「存在と時間」(Sein und Zeit)は、とても奇妙な書です。第一にこれは未完の本であって、全部が出版されていません。これは上巻しか書かれていないのです。
にも関わらず、そこで展開された問題意識が世界を震撼させたという、天下の奇書。思想の世界だけにとどまらず、文学や美術の領域にも大きな影響を与えました。

「存在と時間」は岩波文庫で読むことができます。どのような内容なのか、立ち読みでもちょっと見てみる価値はあります。日本語ではない日本語で書かれていることに、まず驚かれるかと思います。
「存在」という、何と不思議なこと、という疑問から出発しています。何でそれが人間に、また人間だけに知られるのか。その後、「存在」ということがずっとこれまで、哲学では大切に考えられてきたのだ、という点が述べられていきます。人にとって、存在は「いさおし」としか考えられない、という重要な考え方が記されます。

世界の全部をくまなく考える上で、西欧での考え方の展開の中には重大な欠陥があるようだということを最後には言おうとしたらしいのですが、また「時間」という概念がそれを説明する際には鍵となることを察知したらしいのですけれども、書きあらわすべき際にその言葉自体が西欧にはないことで立ち止まらずを得なかった未完の書。
解説している本には、たぶんそう書かれているはずです。

「建てる・住まう・考える」は、ハイデッガーが講演した、建築に直接触れる内容の短い講演の記録で、建築を学ぶ人間にとっては良く知られている文章です。
しかし「その最初の訳業から20年、初稿が出てから10年かかった」と後書きには記されており、そのような読み方をしている者が他にいるとはとうてい思われません。著者の並々ならぬ熱意が感じられます。数十ページばかりの文の和訳に30年が費やされ、しかも本編の分量を大幅に凌ぐ300ページ以上の注釈と詳細な索引が加わっています。もととなる短い文章の位置づけが完全に転倒され、主となるのは解説の方に移っており、ここには建築の領域を解き明かす鍵を与えてくれる、豊饒で巨大な迷路の眩暈を見る思いがします。

ハイデッガーとは誰で、何をした人であったのかは、木田元による著作を強くお勧めします。分かりやすく書かれた新書などを含め、何冊も出ています。この方も、ハイデッガーを読み解くことに人生を賭した偉大な先生。一冊の本に出会うことによる転機が本当にあるのだということに心を打たれます。

建築をこれほどまでに難しく考える必要があるのか、そういう不思議な思いにとらわれるに違いない人は多いのではないかと個人的には感じます。しかし人が建築の壮大な迷宮に踏み込んでいくのは、人間が建築を造る時、この人工物に人間が抱えている基本的な矛盾までもが投影されるからで、そこがもっとも面白いところ。
建築が美の結晶であるかのように捉える人は多いと思いますが、それとは異なった部分も多いことを見据える姿勢が大切であるように思われます。

似たような内容に触れた本として、

四日谷敬子
「建築の哲学 -身体と空間の探求-」
世界思想ゼミナール
(世界思想社、2004年)
154 p. + iii

などがあり、ここでは珍しいヘーゲルの建築理論の研究、そしてハイデッガーが扱われていますけれども、中村貴志は少なくとも参考文献には挙げていません。目を通してはいるけれども、無言で斥けているらしいという厳しさが伝わります。

------- 追記 -------

「ハイデガー:生誕120年、危機の時代の思索者」、KAWADE道の手帖(河出書房新社、2009年)、(iv), 191 p.が出ました。ここにも大宮勘一郎訳の「建てる 住む 思考する」が掲載されています。磯崎新が「なぜ、ハイデガーは建築を語らないのか。」を書いています(2009.03.19)。

2008年12月20日土曜日

DeLaine 1997


カラカラ帝の共同浴場は、よく紹介されているように、これは大規模な娯楽施設とみなすことができます。円形闘技場のコロッセウムと双璧をなす古代ローマの建築遺構で、当時の建物の特質が顕著にうかがわれる名作。こういう公共施設は、それまでの世界のどこにもありませんでした。

題名で浴場が"Baths"と複数形になっているのは、浴室がたくさん並んでいたからで、男女別に分かれ、それぞれに熱浴(カルダリウム)・温浴(テピダリウム)・冷浴(フリギダリウム)のための場が用意されていました。復原図が研究者によっていくつか作成されていますけれども、風呂と言うよりは、そのありさまは屋内の温室プールとほとんど一緒。各地に建つ今日のスパリゾートの原型でもあります。図書館や店舗などが付設され、隣には広大な運動場も作られていました。

Janet DeLaine
The Baths of Caracalla: A Study in the Design, Construction, and Economics of Large-scale Building Projects in Imperial Rome.
Journal of Roman Archaeology Supplementary Series Number 25
(Journal of Roman Archaeology, Portsmouth, Rhode Island, 1997)
271 p., 4 folded plans

この建物がどのように造営されたかを丁寧に探っていく書です。冒頭を占めている平面計画の分析や、どのような装飾が施されていたのかを推定する考察などは珍しくありません。
けれども、多量の建材を世界中のどこから集めてきたのかを問う85ページ当たりから、この本の特徴が出てきます。石材に関しては今で言うトルコ・ギリシア・エジプト・アルジェリアなどから輸入してきたもので、他には土、縄、木材についてもどこから工面したかを尋ねています。

この壮大な建物に、どれだけの量の煉瓦が使われたかを考え、それにとどまらず、煉瓦を焼くための燃料の調達、人手の推量、煉瓦を焼くための窯の大きさ、土を練って型抜きした煉瓦は何日乾燥させるのか、一回焼くと煉瓦がどれだけできるのか、何日間冷却するのか、運搬に当たっての人手の数、煉瓦を積む際のモルタルの総量、足場に使う木材の量など、およそ考えつく限りの事柄を全部調べ上げています。驚くべき本です。あんまり類例がありません。

第9章では、この建物を建てるに当たり、一体いくらかかったかを積算しています。
細かい数字が並んだ表がたくさん収められている書ですから、これだけで敬遠する人も多いかと思われますが、人間ひとりが一日にどれだけの量の石を切り出せるのか、あるいは土を一日当たり、ひとりがどれだけ運べるのかといった問題に触れる際には、必ず参考となる論考。

著者の博士論文で、1981年に研究を始めたと序文に書いてありますから、16年かかってこの本を出版したことになります。
「調べていくうちに話題がどんどん拡がってしまって・・・」と記してありますけれども、そりゃあそうでしょう。古代ローマを代表する大きな複合建築であるカラカラ帝の共同浴場をケース・スタディの対象として選んだ時から、それは見えていたはず。エジプトのカルナック神殿を論文のテーマに選択するような無謀さがあります。

ちなみに彼女のこの博士論文を指導した主査がF. Sear(Sear 2006)で、古代ローマ時代の劇場の集成を出版した学者。師匠の方法論が色濃く反映された本格的な本です。

2008年12月19日金曜日

Verner et al. 2006


ピラミッドに関する最新の報告書ということであれば、エジプトのアブシールを発掘中のチェコスロヴァキア隊による、このラーネフェルエフのピラミッドを扱った刊行物になるかと思われます。

Miroslav Verner et al.,
The Pyramid Complex of Raneferef: The archaeology.
Abusir IX, Excavations of the Czech Institute of Egyptology
(Czech Institute of Egyptology, Faculty of Arts, Charles University in Prague; Akademia, Publishing House of the Academy of Sciences of the Czech Republic, Prague, 2006)
xxiv, 521 p.

大規模な複合施設の調査報告書を纏める作業は大変で、ここでも序文で続巻があることを記しています。500ページ以上を費やしながら、触れることができなかった点がまだたくさんあるということです。ピラミッドに付設された葬祭殿は後に増築されているため、さらに輪をかけて話は複雑となります。

内容はまず考古学的発掘調査の報告と、出土遺物に関する報告とのふたつに分かれており、後半の出土遺物の方が約2/3を占めています。
前半部を締めくくる章、「古王国時代のピラミッドのかたちと意味」(pp. 172-184)は、重要な話をしていて詳細にわたる検討が必要なので、ここには意見を書きません。ただラーネフェルエフの墓は、最初はピラミッドとして建造が開始されたにも関わらず、結局は四角の平たいマスタバ状の構築物に変えられたらしく、この点はネチェリケト王の階段ピラミッドと順序が逆です。興味が惹かれるところです。

最後の章は王のミイラ片の分析(pp. 513-518)で、ピラミッドから実際に王の遺体が発見されている例がきわめて稀であるため、ピラミッド学では今後、おそらく注目がなされる部分。

全体の目次立てから見るならば、まずは良く纏められた報告書であるという印象が伝えられる一方で、しかし急いで出版されたらしく、充分な校正がおこなわれなかったらしい痕跡が散見される点は残念です。
「序文」では、19世紀の先行研究であるペリングやレプシウスによる図版を紹介していますけれども、これらは別の章を立てて「既往の研究」として扱うべきだったのではとも感じます。記述内容が少なかったので、こうした対処が選ばれたのでしょうか。
184ページの、ピラミッド複合体に関する主構造物の寸法表が抜け落ちたために、別刷の訂正紙が添付されている点は致命的です。前述した「古王国時代のピラミッドのかたちと意味」の章そのものが、あとから急遽、書き加えられたのではないかという疑念を招くからです。当然、読み手としてはその点を含みながら読み進めることになります。

また188ページの下方においては、"see also pl. 00"という意味不明の記述も見られ、たぶんカラー図版への言及を意図したのでしょうが、校正が間に合わなかったようです。328〜329ページの間に挿入されたこのカラー図版に対しては、ページが振られていないから、これを探すのに不便きわまりありません。まとめて巻頭あるいは巻末へ回すべきでした。

520ページには、"Index od Selected Names"と書かれています。インデックスは最後に作られる部分であり、目が行き届かなかったということだと思います。
細かい配慮が不足しているのではと、いくつか気になる点がある書物でした。面白いピラミッドであるだけに惜しまれます。
なお書評がMichel Valloggia, JEA 94 (2008), pp. 327-29で掲載されました。

2008年12月18日木曜日

Bietak, Marinatos and Palivou 2007


牛が跳躍する姿をモティーフとする特徴的な壁画はクノッソス宮殿で見られる他、エジプトのマルカタ王宮やテル・エル=ダバァの王宮などでも見つかっています。マルカタの方はニコラカキ・ケントロウが継続して研究中。一方、テル・エル=ダバァの方は発見された後にいろいろと報告が重ねられてきましたが、その集大成が出版されました。

Manfred Bietak, Nanno Marinatos and Clairy Palivou
with a contribution by Ann Brysbaert
Taureador Scenes in Tell el-Dab'a (Avaris) and Knossos
Oesterreichische Akademie der Wissenshaften; 
Denkschriften der Gesamtakademie, Band XLIII.
Untersuchungen der zweigstelle Kairo des oesterreichischen archaeologischen Instituts, Band XXVII
(Verlag der Oesterreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien, 2007)
173 p.

横長の大判で、カラー図版が非常に豊富です。コンピュータ処理を施した彩画片の図版を組み合わせて全体復原図などを作成しており、彩色片の報告例として今後、多く参照されるようになるに違いないと思われます。かなり退色した断片も、コンピュータによって復原され、いちいちオリジナルを撮影した写真と並列して見せるということをやっており、こうした試みは報告書としては初めて見ました。
アーサー・エヴァンスによって報告されたものも逐一、カラーで同じようにカタログ化して見せており、ここにこの本の重要性があるかと思います。

しかし全体として扱われる彩画片の数は、それほど多くはありません。縮尺も実寸、あるいは1/2が多く、小さな破片が圧倒的であることが分かります。点数が多い場合にはどうするのかということを考えさせる報告書。
全体は3つに分かれており、最初はビータックがアヴァリスから出土したものについて100ページほど報告しています。第2番目の章ではクノッソスから出土した類例に関し、マリナトスたちが考察を記しています。3番目は科学分析の結果などを収めた短い章。

エジプトとミノアとの美術様式の関連を絵画表現から追究する第一級の専門書で、ゆったりとしたレイアウトを採用しているために見やすく、註も430を超える量です。オーストリアとギリシアの専門家たちがチームを組んで出版した本として、後世に残る労作と評価しても良い。

表紙に用いられているカラーの全体復原図は、幅が2メートルほどの壁画部分です。広い面積の壁画片を組み合わせるパズルの結果をどのように学術的に発表すべきなのか、本文には書かれなかったいくつもの問題点が本当はあることが推察され、その点でも面白い本。言わば、パズルについてのパズルという問いかけが無言のうちになされています。

2008年12月17日水曜日

Sear 2006


古代ローマの劇場についての情報をまとめた建築資料集成。イタリア国内はもちろん、トルコ・ギリシア・シリア・チュニジア・リビアなどに残る400以上の劇場の遺構を扱っています。

Frank Sear
Roman Theatres: An Architectural Study
Oxford Monographs on Classical Archaeology 
(Oxford University Press, New York, 2006)
xxxix, 465 p., 7 maps, 34 figs., 144 pls.

図版を入れれば500ページ以上に及ぶ大作です。すべての劇場の平面図を掲載し、比較がきわめて容易です。
建築学的分析を扱う書であるため、設計過程の考察からデザインの相違、建造費は一体いくらであったのかなどを最初の100ページほどでまとめており、これからの劇場建築研究の基礎となる資料を示しています。
カタログ編では古代ローマの中心であるイタリアから始め、徐々に対象を周辺諸国へと拡げていきますが、地中海を基本的に逆時計回りに巡ります。

Contents:

1. Theatre and Audience (p. 1)
2. Finance and Building (p. 11)
3. Roman Theatre Design (p. 24)
4. Theatres and Related Buildings (p. 37)
5. Republican Theatres in Italy (p. 48)
6. The Theatres of Rome (p. 54)
7. The Cavea and Orchestra (p. 68)
8. The scene Building (p. 83)
9. Provincial Theatres (p. 96)

Catalogue
Italy (p. 119)
Britain, Gaul, and Germany (p. 196)
The Balkans (p. 255)
Spain (p. 260)
North Africa (p. 271)
The Levant (p. 302)
Asia Minor (p. 325)
Greece (p. 385)

古代ローマの劇場は、闘技場と並んで人気のあった娯楽施設でした。今で言うアミューズメント・パークに近い公共建造物であったように思われます。日常の生活とは異なる体験ができた場であったわけです。
このため、ラテン語でいろいろと書き残されており、キケロやプリニウスなどが当時の劇場について何を記しているのか、そのリストアップも巻末に所収されています。
この種の本の先行研究については、カプートによる論考があります(Caputo 1959)。北アフリカにおける古代ローマの劇場を述べた貴重な研究。今日、入手はかなり難しく思われます。

Oxford Monographs on Classical Archaeologyは、J. J. クールトンやR. R. R. スミスなど、古典建築の研究家たちも編集委員に加わっているモノグラフのシリーズで、建築に関わるものとしてはコンスタンチノープルにおける煉瓦スタンプの集成の2巻本がすでに刊行されています。

2008年12月16日火曜日

Gorringe 1882


オベリスクを扱った本の中で、良く知られているものの中の一冊。必ずと言っていいほど引用されている基本文献です。アレキサンドリアからニューヨークまで、オベリスクを船で運ぶ仕事を請け負った人が自分で出版した本。

Henry H. Gorringe,
Egyptian Obelisks
(Published by the author, New York, 1882)
x, 187 p.

大判の図面や写真が何枚も掲載されており、いかにオベリスクの運搬が大変な行程であったかが分かります。天候が急変して大波にもみくちゃにされただの、クランクシャフトが折れて前進することができなくなっただの、死に損なった話をあれこれ書いていますが、一方でそれらを楽しんでいる様子。傑人による著作です。
ニューヨークのどこに立てたら良いか、他に候補地があったというのも面白い。この時代、すでに摩天楼が建ち並ぶ場所でしたから、そこに並べて置くと、せっかくのオベリスクが低く見えてしまうという理由で、セントラル・パークが選定されました。メトロポリタン美術館はもう存在しており、馴染みがいいであろうという判断も働いたようです。

第1ページ目はアレキサンドリアに立っていたオベリスクの当時の状況を書くことから始められていますが、誰もそのオベリスクを重要なものと認識しておらず、周囲にはゴミが堆積していて、2人の男がオベリスクの隅部や浮彫彫刻を割り砕き、宝探しにやってくる者たちへ売る商売をしている、などということを記録しています。
「悪臭がたちこめ、バクシーシを叫ぶ者たちがいて、部外者はオベリスクをほとんど数秒たりとも観察しようとしないまま、足早に去って行く」と、場面を彷彿とさせる描写をしており、本を著したこのアメリカ海軍の軍人は、文章を書くことも非常に上手でした。

56ページには運搬経費として全体でいくらかかったのかを書き残していて、

「うまくことが運ぶように、また邪魔されないように、もういろいろと違った人にバクシーシが必要で・・・」

と正直です。この点はかなり恨みに思ったらしく、巻末の索引には"backsheesh ....... 1, 56"と、「バクシーシ」の語が他の学術用語と混ざって、ちゃんと掲載されているのも笑えます。

ルクソール神殿のオベリスクがパリにまで運ばれた時の模様、またロンドンへとオベリスクが移送された経緯などについても、続く章において解説しています。第5章はヴァティカンのオベリスクを扱っています。第6章はその他の代表的なオベリスクに関する説明。

重要なのは61ページで、オベリスクのプロポーションについていくらか述べています。145ページには40本ほどのオベリスクの寸法を比較したリストがあって、これはきわめて有用ですが、ただしオベリスク頂部のピラミディオンの大きさには触れられていません。「初期のオベリスクは全般的に、後期のオベリスクよりもほっそりとしている」、などという指摘もなされており、注目されます。

最後の第8章では石材と金属の科学分析の結果を記しており、この時代の本においては稀有な例です。100年以上も前の出版物ですが、今なお価値を失っていない書。

Hobby-Aegyptologen der Gruppe Rott 1994-1997


118個目のピラミッドがエジプトで新たに発見されたというニュースが今年の11月上旬にありましたが、これは南サッカーラのテティ王(第6王朝)の母親であったセシェシェトのものであるとのこと。一辺が22メートル、高さについては今では5メートルしか残っていないけれども、もともとは14メートルに及んだらしいという情報も伝わってきました。

この一辺を2で割ると11メートルで、もとの高さとの比は11:14になります。一辺を2で割ると言うことは、ピラミッドの一辺の中央から正方形の底面の中心(対角線の交点)、つまりピラミッドの中心までの長さを求めるということ。ですからこの長さと高さとの比を考えるということは、ピラミッドの斜面の勾配を考えることと同じになります。
この比はまた、7を基準とする時の値に着目するならば、両方の値をさらに2で割って、11:14=5 1/2:7。何故、7を基準とする値を考えるかと言いますと、当時の古代尺であるキュービット尺が、1キュービット=7パームという制度であったからです。斜めの勾配については、パームで指定する方法「セケド」がありました。リンド数学パピルスで読むことができる内容です。
大きな値が7の時に、小さな数の方はセケドで 5 1/2になりますから、第4王朝のクフ王のピラミッドなどと同一の勾配をめざしたピラミッドであったのではないかという推測が、断片的なニュースの内容から知ることができるわけです。クフ王のピラミッドの勾配(セケド)が5 1/2であるという点は、良く知られている事項。
第6王朝に属するこのピラミッドは、復古的な意味合いを有するものであったのかもしれませんが、大ざっぱな寸法の伝聞をもとにした仮定ですから、詳しくは専門家による報告を待たなければなりません。

ピラミッドに関する数多くの本のうち、ドイツ語で書かれた以下の2巻本は、海外の同好の士たちの水準が高いことを充分に伝える興味深い出版物。「エジプト趣味の同好会」が出しています。

Hobby-Aegyptologen der Gruppe Rott, 
Aegyptische Pyramiden: Von den Lehmziegel-Mastabas der 1. Dynastie bis zu den Pyramiden der 13. Dynastie >300-1750 v. Chr.<

Band 1, Katalog zur Ausstellung
(Laufen Druck GmbH, Aachen, 1994)
255 p.

Band 2
(Hobby-Aegyptologen e. V., Rott, 1997)
143 p.

手助けしてくれた研究者たちの名前も記載されているものの、あちこちから図面を集めてきて、かなり詳しい図示をおこなっており、初期王朝のマスタバから中王国時代のピラミッドまでを包括的に扱っています。縮尺を揃えて多数のピラミッドを並べて見せてくれている点は有用です。
図各面の縮尺をある程度、揃えているところなども非常に使いやすい工夫ですけれども、1/333という縮尺はしかし、他の本ではあまり見られません。1/1000の、そのまた1/3という大きさです。
巻末には年表がついています。

2008年12月15日月曜日

Schiaparelli 1927 (reprint and translated, 2007-2008)


ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)にある建築家カーの墓の報告書。なかなか実物を見る機会が難しい本でしたが、2007年にレプリントが80年ぶりに出版されました。さらには本文だけを英訳したものが今年になって同じ出版社から出され、その2冊がひとつの函に収められて今ではセットで販売されています。
エルネスト・スキアパレッリは盗掘のされていなかったこのカーの墓の他、ラメセス2世の妃であるネフェルタリの調査で有名です。スキアパレッリの一族は学者揃いで名高く、特に火星の観察をおこなってこの星の地図を作成したジョヴァンニ・スキアパレッリの逸話が知られています。火星に縞状の模様が見られることから、これをイタリア語で「溝」と報告したのですが、英訳された際には"canal"、「運河」と発表されて、火星人が本当にいるのかと騒ぎを引き起こした人でした。

Ernesto Schiaparelli, translated in English by Barbara Fisher,
Vol. 1: La tomba intatta dell'architetto Kha nella necropoli di Tebe.
Vol. 2: The Intact Tomb of the Architect Kha in the Necropolis of Thebes.
Relazione sui lavori della missione archeologica italiana in Egitto (anni 1903-1920), vol. 2
(AdArte, Torino, 2007-2008. First published in 1927 and reprinted in 2007; English translation in 2008)
ix, 193 p. + 61 p.

大判の本で、1巻目には再版を出す意義を述べたイタリアのエジプト学者A. Roccatiによる序文が加えられています。
カーの墓からは、カー自身の棺の他に奥さんのメリトの棺、またベッドや椅子、衣装箱、かつら箱、化粧道具箱といった家具の一式、ゲーム盤など、さまざまなものが出土しており、建築家という職業に因む折り畳み式のものさしや天秤もありますから、考古学上の意味は大きいとみなされています。
ただ、スキアパレッリはあまり詳しい報告書を出さなかったものですから、これが後年、問題となっています。

建築の立場から見れば、位の高い建築家の墓ですから、見るべきものがたくさん含まれています。あまり一般には知られていないものに、地下の部屋の入口で見つかった錠前付きの木製の扉があって、一見、丸穴が開いているだけのただの扉。これに対応する、「鍵」であろうと言われている遺物は、紐が通された中空の筒で、見かけ上は小さな筒にしか見えませんから、スキアパレッリは「かつらの毛をくるくる巻いてくせをつけるのに女の人が使ったのかも」、などと記しています。
紐を通した閂を用い、扉を開かないようにできる仕掛けを施した扉の機構については、ものすごく面倒な説明が必要となりますからここでは触れませんが、かつらの毛を巻くものではなく、扉の鍵ではないかという異論があることを認め、クレンカーが「そういう変な鍵を見たことがある」と言っている、とスキアパレッリは一方で述べています。

名前を本文ではKrencherと間違って綴っていますけれども、巻末の参考文献リストではDaniel Krenckerと正しく挙げられており、この人は古代ローマ建築研究を専門とした有名な目利き。バールベックの報告書を執筆している他、シリアの石造神殿の調査報告書も共著で書いています。イタリア語で書かれた古代エジプトの建築家の墓の報告書に、ドイツ隊に属するローマ建築の専門家クレンカーの名が出てくるというのも面白い。ここには理由があって、古代エジプト美術の研究者シェーファーが、クレンカーとともにZAeSという学術雑誌に共同執筆論文を書いているので、スキアパレッリの目に留まったわけです。
昔に造られた奇妙なひとつの遺物があり、それにどう解釈がなされるのかが示されていて、皆で知恵を絞り、情報が結びつけられていく過程がうかがわれます。

2008年12月14日日曜日

McKenzie 2007


20年に1冊出るか出ないかという意味合いを持つ、重要な本です。
およそ3000年にわたる古代エジプト建築の歴史に関する書籍はすでに何冊も出ており、またエジプトのイスラーム建築についても、たくさんの本が言及しています。都市アレクサンドリアを述べたものも多く出ている状況。
しかしこの出版物は、そのように分断された書かれ方の空白を埋めることを明確な目的としておそらくは著されたものであって、とても素晴らしい。
この本の登場によって、エジプト建築の5000年間にわたる歴史の通覧がはじめて可能になったとみなすことができるかもしれません。

Judith McKenzie,
The Architecture of Alexandria and Egypt, 300 BC - AD 700.
Pelican History of Art
(Yale University Press, New Heaven and London, 2007).
xx, 458 p.

本の題名の後半には"300 BC - AD 700"としか書かれていません。でも単なる年代を記しているだけに見えるこの記述は、事情を知る者にとっては、エジプトのプトレマイオス王朝からイスラーム時代直前までのビザンティン建築を扱った本であるという点がすぐに了解されます。

エジプトにおけるこの時期の約1000年間の建築について何故、今まで研究が遅れていたかと言えば、複数の異なる言葉や文化・宗教・美術などに知悉していなければならないという大きな制約があったからです。それが乗り越えられ、成果が達成されている書。
「話が込み入ってますし、分かりにくいでしょうから」と、冒頭で本の粗筋が紹介されているのは面白い点です。最も短い第13章では、建築の作図方法について触れられており、有用。

カラー図版も多く交え、もちろん既往研究の情報が緻密に網羅されています。
Pelican History of Artのシリーズに対しては、昔から高い評価が寄せられていました。数年前から判型を大きくし、またカラー写真を多数加える改変を経て、さらに評価は高まっているように思われます。
著者はペトラの建築についての報告書も出していることで有名。
書評がEgyptian Archaeology 34 (Spring 2009), p. 42に出ました。