さまざまな国家論は特にヘーゲル以降、19世紀で問題となりました。弊害をもたらす国家の解体への関心、またインディアンなど国家を持たなかった共同体のあり方への注目などの、長い思想的・社会学的な経緯を暗黙の内に踏まえ、エジプト学においても国家形成論が展開されているとみなすことができるかと思われます。
特にケンプがこの石を紹介している意味合いは、その傾向が強い(Kemp 2006 (2nd ed.)を参照)。国家の成立は自然に発展して進んだように見えますが、社会共同体のあり方として、それが唯一の道ではないということです。
パレルモ・ストーンは第5王朝までの王の名と、治世年における主な行事、またその年のナイル川の水位を簡明に記したもの。歴代の王名が書かれた歴史史料としては、トリノ・エジプト博物館所蔵の王名リストが見られるパピルス、またアビュドスのセティ1世葬祭殿における最奥部の廊下の壁面に見られるリスト、カルナック神殿の奥の方の壁面にあったリストなどが知られていますが、それらの中では最も古いものであり、貴重です。
ウィルキンソンという名前を持つエジプト学者は、物故者も含めて何人もいるのですけれども、その中では最も若手。
Toby A. H. Wilkinson,
Royal Annals of Ancient Egypt:
The Palermo Stone and its associated fragments.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 2000)
287 p., 11 figs.
7つの断片のうち、最も大きいものがイタリアに属するシチリア島のパレルモにあって、そのために「パレルモ・ストーン」と呼ばれているわけですが、これは高さが43.5cm、幅が25cmしかなく、カイロとロンドンにある残りの6つの断片はこれより小さい。
にも関わらず、例えばShaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)を引くと、「もともとは2.1mの長さ、0.6mの幅」なんてことが書いてあります(1995年の初版や、内田杉彦先生によるその和訳本には、ウィルキンソンの本書はもちろん参考文献として挙げられていないので注意)。
たった7つの断片しか残されていなくて、圧倒的にパズルのピースの数が足りないはずなのに、何故、そんな具体的なもともとの大きさが分かるのか。この理由が詳しく書いてあって、きわめて面白い。
表計算ソフトのエクセルの使い方を知っている人なら、復元の過程が良く了解されるはずです。王名は、横方向に長く続いている縦書の各治世年における特記事項のリストの上に、セルが結合されて、しかも横書きの「中央揃い」で配置されていたに違いない、といったような推測から、この具体的な復元寸法が提示されているからです。
他にも、「丸い記号がひとつおきにあらわれている」といった観察結果が重要な役割を果たしており、たくさんの人が知恵を絞って、この石の全体像の復元に成功している様子が示されています。
建築学的にこの石が重要なのは、カーセケムウィ Khasekhemwy の第13年の記述に、
"appearance of the dual king: building in stone (the building) 'the goddess endures'"
(p. 132)
が見られるからであって、最初の石造建築についての言明です。これがどの遺構を指すのか、著者はコメントを付しています。
この本が出る前年には、やはりパレルモ・ストーンを扱い、CGで復元している
Michael St. John,
Palermo Stone: An Arithmetical View;
together with a computer graphics enhancement of the recto of the Palermo fragment
(Museum Bookshop, London, 1999)
60 p.
が出版されていますけれども、ウィルキンソンの本の巻末の参考文献には含まれていません。
St. Johnという人については、Lepsius 1865(English ed. 2000)で触れました。エジプト学で情報の欠けている場所を上手に見つけ、ゲリラ的に本を出してしまう人、という印象です。
287 p., 11 figs.
7つの断片のうち、最も大きいものがイタリアに属するシチリア島のパレルモにあって、そのために「パレルモ・ストーン」と呼ばれているわけですが、これは高さが43.5cm、幅が25cmしかなく、カイロとロンドンにある残りの6つの断片はこれより小さい。
にも関わらず、例えばShaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)を引くと、「もともとは2.1mの長さ、0.6mの幅」なんてことが書いてあります(1995年の初版や、内田杉彦先生によるその和訳本には、ウィルキンソンの本書はもちろん参考文献として挙げられていないので注意)。
たった7つの断片しか残されていなくて、圧倒的にパズルのピースの数が足りないはずなのに、何故、そんな具体的なもともとの大きさが分かるのか。この理由が詳しく書いてあって、きわめて面白い。
表計算ソフトのエクセルの使い方を知っている人なら、復元の過程が良く了解されるはずです。王名は、横方向に長く続いている縦書の各治世年における特記事項のリストの上に、セルが結合されて、しかも横書きの「中央揃い」で配置されていたに違いない、といったような推測から、この具体的な復元寸法が提示されているからです。
他にも、「丸い記号がひとつおきにあらわれている」といった観察結果が重要な役割を果たしており、たくさんの人が知恵を絞って、この石の全体像の復元に成功している様子が示されています。
建築学的にこの石が重要なのは、カーセケムウィ Khasekhemwy の第13年の記述に、
"appearance of the dual king: building in stone (the building) 'the goddess endures'"
(p. 132)
が見られるからであって、最初の石造建築についての言明です。これがどの遺構を指すのか、著者はコメントを付しています。
この本が出る前年には、やはりパレルモ・ストーンを扱い、CGで復元している
Michael St. John,
Palermo Stone: An Arithmetical View;
together with a computer graphics enhancement of the recto of the Palermo fragment
(Museum Bookshop, London, 1999)
60 p.
が出版されていますけれども、ウィルキンソンの本の巻末の参考文献には含まれていません。
St. Johnという人については、Lepsius 1865(English ed. 2000)で触れました。エジプト学で情報の欠けている場所を上手に見つけ、ゲリラ的に本を出してしまう人、という印象です。
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