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2010年6月15日火曜日

Sorek 2010


古代エジプトのオベリスクに関してはすでに、たくさんの本が出版されています。この欄で触れたものだけでも9冊。
しかしこの他にも多くの論考があって、ピラミッドについての書籍と比べれば数は少ないものの、特に20世紀の後半からは良書が増えています。
「エジプト誌」にもオベリスクの設計基準寸法を探る試みが記されていたりしますから、探せばかなりの量となるはず。
これまでに紹介したものは、以下の通り。

Gorringe 1882
Engelbach 1922
Engelbach 1923
Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)
Iversen 1968-1972
Habachi 1977
Tompkins 1981
Barns 2004
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009

こうした中にあって、新たに出版されたオベリスクの本。
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009は本格的な論考で、ヨーロッパへ与えたオベリスクの影響を考察しており、これとどうしても比較せざるを得ません。Sorekの本は一般書と専門書との間に位置する内容となります。

Susan Sorek,
The Emperors' Needles:
Egyptian Obelisks and Rome
(Bristol Phoenix Press, Exeter, 2010)
xxiv, 168 p.

Contents:
List of Illustrations (vii)
Preface (ix)
Standing Obelisks and their Present Locations (xiii)
Chronologies (xvii)

Introduction: The History of Pharaonic Egypt (p. 1)
1. The Cult of the Sun Stone: The Origins of the Obelisk (p. 9)
2. Created from Stone: How Egyptian Obelisks were Made (p. 17)
3. Contact with the West: Greece and Rome (p. 29)
4. Roman Annexation of Egypt (p. 33)
5. Egyptian Influences in Rome (p. 37)
6. Augustus and the First Egyptian Obelisks to Reach Rome (p. 45)
7. Other Augustan Obelisks (p. 53)
8. Augustus' Successors: Tiberius and Caligula (p. 59)
9. Claudius and Nero: The Last of Augustus' Dynasty (p. 71)
10. The Flavian Emperors and the Obelisks of Domitian (p. 75)
11. The Emperor Hadrian: A Memorial to Grief (p. 89)
12. Constantine and the New Rome (p. 101)
13. From Rome to Constantinople (p. 107)
14. An Obelisk in France (p. 115)
15. Obelisks in Britain (p. 123)
16. From the Old World to the New: An Obelisk in New York (p. 131)
17. The Obelisk Builders and the Standing Obelisks of Egypt (p. 147)

Appendix: Translations of Two Obelisk Inscriptions (p. 151)
Bibliography (p. 159)
Index (p. 161)

xiii-xxivで掲げられているリストや編年表には工夫が凝らされており、知られているものに番号が振られて、各々のオベリスクがいつ、どこへ運搬されたかを示した一覧表が作成されています。有用です。でも番号の表示なので、分かりづらい。「パリ」とか「ニューヨーク」といった略称の付記を考えても良かったかも。

一方、「立っているオベリスク」に限定していますから、「寝ているオベリスク」の代表格であるタニスのオベリスク群には言及されていません。他にもアレクサンドリアの海から引き揚げられたオベリスクの断片などもあって、本当は新しいオベリスクの一覧が望まれるところです。

KMTの最新号にはセティ1世のアスワーンに残るオベリスクの断片が紹介されていましたので、ついでに付記。

Michael R. Jenkins,
"The 'Other' Unfinished Obelisk",
in KMT 21:2 (Summer 2010),
pp. 54-61.

ローマのオベリスクを述べるのであれば、Ashabranner 2002で触れたように、19世紀の人物、George Perkins Marshについては扱って欲しかったと思います。
注目すべき古代ローマの建築の建立に関わったカリグラ(カリギュラ)やネロにも言及しており、図版を多く付加したら、オベリスクを中心とした古代建築の入門書ができるのかもしれない、そうした思いも抱かせる本です。

2010年6月9日水曜日

Tietze (Hrsg.) 2008


題名はずばり、「アマルナ」という本。アクエンアテンとアマルナに関する展覧会がケルンで開催され、そのカタログが出ています。
300点以上の図版を収め、そのほとんどがカラー図版で分かりやすい。

Christian Tietze (Herausgegeben von),
mit Beiträgen von Erik Hornung, Hermann A. Schlögl, Barry J. Kemp, Wafaa el-Saddik, Bernd U. Schipper, Christian E. Loeben, Martin Fitzenreiter, Angelika Lohwasser, Ptera Vomberg, Anne Koch, Christine Kral, Manuela Gander, Marc Loth.
Amarna:
Lebensräume - Lebensbilder - Weltbilder

(Arcus-Verlag, Potsdam, 2008)
290 p.

すごい人たちが執筆者に入っており、驚きます。この企画者であり、またカタログの編者の熱意が伝わってくるところ。ポツダム大学で教えている編者Tietzeは、アマルナ型住居の研究で良く引用される研究者。ZÄSにおける2本の連続論文で一躍、知られるようになりました。

ドイツ隊による20世紀初頭のアマルナ発掘調査では、多数のアマルナ型住居が掘り出されましたが、それらの成果は雑誌Mitteilungen der Deutschen Orient-Gesellschaft zu BerlinMDOG)の他に、まずリッケの論文によってまとまって発表されました。リッケの学位論文。

Herbert Ricke,
Der Grundriss des Amarna-Wohnhauses.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 56.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna, 4
(Leipzig, 1932)
viii, 75 p., 26 Tafeln.

リッケという人は、古代エジプト建築研究できわめて重要な役割を果たした人。
それから50年ほど経った20世紀の終わり近くには、厚い図面集として最終報告書が出版され、これが後の人々にとって第一級の資料となります。すでにボルヒャルトもリッケも死んでいた時期だったので、この立派な図面集が出た時には大変な驚きがありました。
ボルヒャルトが亡くなったのは1938年で、リッケの没年は1976年。ボルヒャルトやリッケの名が冠された著作物のうち、たぶんもっとも新しく、また最後となる本です。
また、"Mitarbeit"に挙げられている人々の表記方法も、とても特異。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Unter Mitarbeit von Abel, Breith, Dubois, Hollander,
W. Honroth, Kirmse, Marcks, Mark, Rösch, einem Anhang von Stephan Seidlmayer.
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, VII site plans, 112 plans.

さて、Tietzeはこの本の図面に収録されている平面図に片っ端から当たり、数百の住居を全部で8つのカテゴリーに分けました。
アマルナ型住居に関する本格的な論考で、これに比肩できる20世紀における著作は、Endruweit 1994ぐらいしかありません。その知見がここでも披瀝されています。

アマルナ型住居の上層がどうなっていたかについては、Spenceが論文を近年書いています。

Kate Spence,
"The Three Dimensional Form of the Amarna House",
in Journal of Egyptian Archaeology 90 (2004),
pp. 123-152.

彼女は長年アマルナの発掘に携わったバリー・ケンプの愛弟子。
この論考によってTietzeによる見解が異なることになるのか、それが興味深い点です。

Ian Shaw,
"Ideal Homes in Ancient Egypt:
the Archaeology of Social Aspiration",
in Cambridge Archaeological Journal 2:2 (1992),
pp. 147-166.

も目を通しておくべき論文。

2010年1月20日水曜日

Wilkinson 1983


メトロポリタン美術館のエジプト部門には模写を集めた部屋があって、天井の高い広間の壁面にぎっしりと壁画の写しが展示されています。
「ファクシミリ」は模写のこと。絵の具を使い、壁画を実物通りに描くことを意味します。透明フイルムを壁画の上にかけて、油性マジックで輪郭をなぞる作業は「トレーシング」、また凸凹のある浮彫の上に紙を乗せて刷り取る拓本を作成する方は、「スキージ」と言ったりするようです。

ここでは特に、カラー写真がまだなかった時代に盛んに制作された壁画の模写を集めています。ハワード・カーターも、ツタンカーメンの墓を見つける前には、こうした模写を手がけていたことがありました。メトロポリタン美術館長であったトマス・ホーヴィングのベスト・セラー「ツタンカーメン秘話」にも出てきますので、御存知の方も多いのでは。
ここで文章を執筆しているウィルキンソンは、20世紀の初めに模写を担当した人。

Charles Kyrle Wilkinson (text),
compiled by Marsha Hill,
Egyptian Wall Paintings:
The Metropolitan Museum of Art's Collection of Facsimiles

(The Metropolitan Museum, New York, 1983)
165 p.

(Contents:)

Foreword (p. 7)
by Christine Lilyquist
Egyptian Wall Paintings: The Metropolitan Museum's Collection of Facsimiles (p. 8)
by Charles K. Wilkinson
Catalogue of the Facsimiles (p. 65)

Index of Theban Tomb Owners (p. 163)
Index of Theban Tomb Numbers (p. 164)
Index of Monuments Other Than Theban Tombs (p. 165)

全部、カラー写真で紹介したかったのでしょうが、途中からはモノクロのカタログとなります。しかし、貴重な壁画も含まれていて、たとえばこの本でしか紹介されていないマルカタ王宮の壁画の模写などが見られます。
壁画の複写で高名なものは、ニーナ・デーヴィスの本。
エジプト学者である旦那の仕事の手伝いをしているうちに、その模写の仕事がいつの間にかうまくなって、しまいには3巻からなる大型本を碩学A. H. ガーディナーとともに出版しました。Davies and Gardiner 1936として紹介済み。

テーベの墓に関する豪華な報告書と言うことであれば、メトロポリタン美術館から出版された大判のタイトゥス・シリーズが挙げられます。これもまた見ておいて損がない本。

Norman de Garis Davies,
The Metropolitan Museum of Art, Robb de Peyster Tytus Memorial Series
(New York, 1917-1927)

Vol. I: The Tomb of Nakht at Thebes
(1917)

Vols. II-III: The Tomb of Puyemrê at Thebes
(1922-1923)

Vol. IV: The Tomb of Two Sculptors at Thebes
(1925)

Vol. V: Two Ramesside Tombs at Thebes
(1927)

2010年1月2日土曜日

Davies 1999


古代エジプトの新王国時代末期に栄えたディール・アル=マディーナと呼ばれる村にはどのような人が住んでいたのか、その人名録。こういう特殊な字引が造られるというのが面白い。オランダのレイデンを根城としている、ディール・アル=マディーナ研究シリーズのうちの一冊。およそ3200年前の村にいた人たちの調書でもあります。
J. チェルニーが創始し、J. J. ヤンセンが拡張したディール・アル=マディーナ学とも言うべき分野が、堅実に継承されていることを示す本。

Benedict G. Davies,
Who's Who at Deir el-Medina:
A Prosogographic Study of the Royal Workmen's Community.

Egyptologische Uitgaven XIII
(Nederlands Instituut voor het Nabije Oosten te Leiden, Leiden, 1999)
xxiv, 317 p., 47 charts.

ディール・アル=マディーナについてはサイトも開設されており、重要。
イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・ロシアなどにもこの村を調べている研究者たちがいて、オランダ語やイタリア語による既往の研究もあり、これらを辿ろうと志す初学者には試練となります。ヒエラティックで記されたオストラカは総数で一万点以上あるはずで、全部が出版されていない状態。グリフィス研究所にあるチェルニーのたくさんのノートにも全部は記されていなくて、未刊行資料をどれだけ知っているかがカギとなる世界。
著者は第19王朝の厖大な文字史料を概観する本も出しています。KRIの簡略版。

Benedict G. Davies,
Egyptian Historical Inscriptions of the Nineteenth Dynasty.
Documenta Mundi: Aegyptiaca 2
(Paul Åströms Förlag, Jonsered, 1997)
x, 363 p.

その前には、第18王朝の史料を訳してもいます。Urkunden IVの、ヘルクがやった仕事の英訳。

Benedict G. Davies,
Egyptian Historical Records of the Later Eighteenth Dynasty, Fascicles IV-VI
(Aris & Phillips, Warminster, 1992-1995. Translation from the original hieroglyphic text as published in Wolfgang Helck, "Urkunden der 18. Dynastie", Hefte 20-22).

Fascicle IV (1992)
xv, 78 p.

Fascicle V (1994)
xx, 103 p.

Fascicle VI (1995)
xxvi, 129 p.

2009年12月24日木曜日

Davies and Gardiner 1936


古代エジプトの絵画に関して網羅を図った代表的な著作で、第1巻と第2巻は高さが60cm以上もある大判の書籍。それぞれ50枚以上のきれいな図版を収めています。これもまたルーズリーフ形式で、各図版をバラバラにして見ることができます。全部で104枚の画集。第3巻は文章にて解説。
ニーナ・デーヴィスはエジプト学者の奥さんで、旦那と一緒にエジプトへ行くようになってから壁画の模写の仕事を覚え、有名な模写担当となりました。共同執筆者の相方は、優れた文字読みの研究者。

Nina M. Davies and Alan H. Gardiner,
Ancient Egyptian Paintings, 3 vols.
(The University of Chicago Press, Chicago, 1936)

Vol. I: I-LII Plates.
Vol. II: LIII-CIV plates.
Vol. III: Descriptive Text. xlviii, 209 p.

フランス語版も出ており、

Nina M. Davies, avec la collaboration de Alan H. Gardiner,
préface et adaptation de Albert Champdor,
La peinture égyptienne, 5 tomes.
Art et Archéologie
(Albert Guillot, Paris, 1953-1954)

はしかし、本の大きさも半分ぐらいに減じられているし、各々の巻に10枚ずつの図しか収めていません。
この2人による刊行物は他にもあって、ツタンカーメンに関するものでは

Nina M. Davies,
with explanatory text by Alan H. Gardiner,
Tutankhamun's Painted Box
(Oxford University Press for the Griffith Institute, Oxford, 1962)
22 p., 5 looseleaves.

を挙げることができ、これは長さ62cmほどの薄い木箱に入っている本。エジプト学に関する刊行物の中でも、こうした体裁はとても珍しい。
テーベの墓、アメンエムハト(TT82)についての本も彼らによるものです。夫やガーディナーたちに支えられて出版されていることが明瞭。

Nina de Garis Davies and Alan H. Gardiner,
The Tomb of Amenemhet (No. 82).
The Theban Tombs Series: Edited by Norman de Garis Davies and Alan H. Gardiner.
First and Introductory Memoir
(Egypt Exploration Fund, London, 1915)
vii, 132 p., XLVI plates.

彼女は単独で、テーベの墓の壁画についての抜粋も出しています。

Nina de Garis Davies,
Private Tombs at Thebes IV:
Scenes from Some Theban Tombs (Nos. 38, 66, 162, with excerpts from 81)
(Griffith Institute, Oxford, 1963)
xi, XXIV plates.

「エジプトの絵画」という、薄くて小さな本も1954年に執筆していますが、これはもう顧みられることが極めて少ない刊行物。

2009年12月23日水曜日

Jéquier 1911


新王国時代のテーベにおける私人墓の天井画を集めた画集。フリーズ文様も扱っています。
高さが40cmほどの本で、カラー図版を印刷したルーズリーフ形式をとり、バラバラにして見比べることができます。
古くはオーウェン・ジョーンズによる名高い「装飾の文法」(Owen Jones, The Grammar of Ornament. Messrs Day and Son, London, 1856)でも、古代エジプトの天井画とおぼしき文様がカラーで見られますが、ここではもう少し詳しく紹介がなされているのが特色。
お墓の天井画を集めようとしている本というのはなかなかなくて、この他にはElke Roik, Das altägyptische Wohnhaus und seine Darstellung im Flachbild, 2 Bände(Peter Lang, Frankfurt am Main, 1988)などがあるのみですけれども、Roikのこの本には残念ながらカラー図版が掲載されていません。

Gustave Jéquier,
L'art décoratif dans l'antiquité décoration égyptienne:
Plafonds et frises végétales du Nouvel Empire thébain (1400 à 1000 avant J.-C.)

(Librairie centrale d'art et architecture, Paris, 1911)
16 p., XL planches.

G. ジェキエと言えば、マスタバ・ファラオンやペピ2世の葬祭建築を扱った報告書が知られています。建築と装飾に関する資料の収集を心がけた学徒としても有名で、以下の3冊による写真集は50cmを超える高さを有し、20世紀の中葉には良く参照されました。
これもまたルーズリーフ形式で、研究者の便宜を図っていることが分かります。ただ図版はモノクロ。最近ではカラー図版を豊富に載せている本が多数出版されているので、古写真を集めた本として逆に価値が高まっているかもしれません。

Gustave Jéquier,
L'architecture et la décoration dans l'ancienne Égypte (3 tomes)
(Albert Moranc, Paris, 1920-1924).

Les temples memphites et thébains des origines a la XVIIIe dynastie
(1920)
v, 16 p., 80 planches.

Les temples ramessides et saïtes de la XIXe a la XXXe dynastie
(1922)
v, 11 p., 80 planches.

Les temples ptolémaïques et romains
(1924)
iii, 10 p., 80 planches.

主著はおそらく、以下の書。
日本建築史でいうならば、天沼俊一博士を彷彿とさせるエジプト学者でした。

Gustave Jéquier,
Manuel d'archéologie égyptienne:
Les éléments de l'architecture

(Picard, Paris, 1924)
xiv, 401 p.

2009年12月22日火曜日

Frankfort (ed.) 1929


フランクフォートによるアマルナの壁画集。王宮だけではなく、住居の壁画も掲載しています。
F. G. ニュートンを追悼した刊行物。模写を担当したニュートンのカラー作品の他、デーヴィス夫妻によるものも載っています。
現在では入手の困難な書籍のひとつ。もし今、市場に出たとしても、おそらく10万円ほどは覚悟しなければなりません。

Henri Frankfort (ed.),
with contributions by N. de Garis Davies, H. Frankfort, S. R. K. Glanville, T. Whittemore,
plates in colour by the late Francis G. Newton, Nina de G. Davies, N. de Garis Davies,
The Mural Painting of El-'Amarneh.
F. G. Newton Memorial Volume
(Egypt Exploration Society, London, 1929)
xi, 74 p. XXI plates.

Contents:

Francis Giesler Newton. A biographical note by Thomas Whittemore (vii)
Note (ix)
List of Plates (xi)
I. Francis Giesler Newton (Frontispiece)
II. "Green Room," East Wall
III. The Doves (Detail from Plate II). In colour
IV. "Green Room," West Wall
V. Pigeons and Shrike (Detail from Plate IV). In colour
VI. Kingfisher (Detail from Plate IV). In colour
VII. Three fragments of border designs: A and C, Details from Plate II; B, From east half of south wall of North-eastern Court. In colour
VIII. Kingfisher and Dove (Details from Plates II and IV)
IX. Shrike (Detail from Plate II); Vine-leaves and Olive (unplaced fragments). In colour
X. Geese and Cranes, from West Rooms of North-eastern Court of Northern Palace
XI. Goose (Detail from Plate X). In colour
XII. Various Fragments from the Northern Palace
XIII. Paintings from the Palace of Amenhotep III near Thebes
XIV. Plan of the Northern Palace
XV. Detail of flowers and fruit in Fayence and Wall-paintings
XVI. Garland designs on Mummy Cases
XVII. Ducks from House V.37.1. In colour
XVIII. Mural Designs from Houses
A. A Garland Fragment, House V.37.1
B. Frieze, Official Residence of Pnehsy
C. Garland, House R.44.2
XIX. Garland and Ducks, House V.37.1. In colour
XX. Garland and Ducks, House of Ra'nûfer
XXI. False Window Frieze, House V.37.1

Chapter I. The Affinities of the Mural Paintings of El-'Amarneh, by H. Frankfort (p. 1)
Chapter II. The Decoration of the Houses, by S. R. K. Glanville (p. 31)
Chapter III. The Paintings of the Northern Palace, by N. de Garis Davies (p. 58)

Index (p. 73)

50cmに迫る高さの本で、大判。
「グリーン・ルーム」という名で知られている部屋の壁画の詳細を見ることができます。
アマルナ型住居の彩色に関しても、この本を見ることが必要。第2章にその解説があります。関連書としてはまず、Wheatherhead 2007が重要で、この他にKemp and Weatherhead 2000Weatherhead and Kemp 2007もあります。

最後に掲げられている「疑似窓」の図版は資料として貴重。実際には外光を取り入れない、室内から見上げた時に窓のかたちに見えるように造られたニセの窓。扉だけではなく、部屋の対称位置にまがい物の窓も造られたようです。
ドイツ隊による報告書でも、カラー図版による巻頭の復原図の中で、このニセの窓の存在を確認することができます。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft (WVDOG) 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, 7 site plans, 112 plans.

とっくのとうに亡くなっているボルヒャルトの名前が著者として出されているものとしては最新刊です。アマルナ型住居に関する、もっとも詳しい図面集。

2009年12月21日月曜日

Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)


"CG"は一般にコンピュータ・グラフィックスを指しますが、Catalogue Generalの略称、つまり博物館に収蔵されている遺物の目録を意味する場合が時としてあります。特にエジプト学において、"CGC"とはカイロ・エジプト博物館から出ている収蔵遺物カタログを指し、これは100年以上も前からすでに数十冊出ていますけれども、今もなお刊行が継続している膨大なシリーズ。しかし既刊分をすべて揃えている研究機関というのは、日本では皆無かもしれない。
そのうちの、オベリスクを扱ったもの。

Charles Kuentz,
Obélisques.
Catalogue Général des antiquités égyptiennes du musée du Caire (CGC), nos. 1308-1315 et 17001-17036
(Institut Francais d'Archéologie Orientale, Le Caire, 1932)
viii, 81 p., 16 planches.

博物館に収めることのできる程度のものの報告ですから、あんまり大きいオベリスクは扱われていません。報告は丁寧で、本来は各辺が等しくなるように造られるべきだったんでしょうが、実際はかなりの誤差があり、ここでは各辺の実測値が挙げられています。勾配も記されていますけれども、片側だけを測った値で、エンゲルバッハの考え方はまったく反映されていない点が興味を惹かれるところです。

CGCのうち、古いもののいくつかは今日、ウェブで見ることができます。もう入手することが困難なものも多く、古本屋ではかなりの高額で扱われていますので、こういう基本的な図書が簡単に見られるというのは非常にありがたい。下記のCGCリストはEEFの有志によって纏められているもの。

http://www.egyptologyforum.org/EEFCG.html

このCGCとは別に、20世紀の半ばに、"CAA"という出版企画も立てられました。このシリーズも、すでに数十冊の刊行がなされています。

Corpus Antiquitatum Aegyptiacarum (CAA)

というのは、世界の博物館が収蔵しているエジプトの遺物を、一定の記述項目の定めに従って順次出版しようという壮大な試みで、考えは素晴らしい。特色は各ページを綴じず、ばらばらにして読むことができることで、ルーズリーフ形式を採用しています。各遺物を見比べられるという大きな利点がここにはあります。
ただ、出版の進捗状況は思わしくなく、多くの人が見たいと考えているはずの新王国時代のレリーフや壁画片などはなかなか刊行されず、後回しにされている状況です。

もっと問題なのは、このシリーズを図書館が購入した場合、ページがなくなることを恐れて製本してしまう場合が多いことで、こうなるとルーズリーフで出版される意味がありません。不特定多数の人に公開する際に生じる盗難や攪乱などの問題の回避のため、不便な方法が選択されるという点が、ここでもうかがわれます。

2009年12月17日木曜日

Raven 2003


エジプトのトゥーム・チャペル(神殿型貴族墓)の計画方法を述べている論考で、メンフィス地域の平地に建つ新王国時代の貴族墓の平面図を分析しています。エジプト学者に対するA. Badawyの本の影響力が知られる論文。
バダウィはAncient Egyptian Architectural Design: A Study of the Harmonic System (Universty of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1965)という本を書いていて、近年はこの考え方に対する反論が出ている状況です。バダウィの他の本については、Badawy 1954-1968などを参照。彼はArchitecture in Ancient Egypt and the Near East (MIT Press, Cambridge, 1966)なども出しています。


Maarten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002) (2003),
pp. 53-69.

1. Introduction
2. The tomb of Maya and Meryt
2.1. Reconstruction of the modular grid
2.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
2.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
3. The tomb of Horemheb
3.1. Reconstruction of the modular grid
3.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
3.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
4. The tomb of Pay and Raia
4.1. Reconstruction of the modular grid
4.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
4.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
5. The tomb of Tia and Tia
5.1. Reconstruction of the modular grid
5.2. Dimensions of the tomb as multiples of the cubit
5.3. Analysis of the tomb as a harmonic design
6. Conclusions

4つの墓を対象としており、例えばティアの墓は平行四辺形に歪んでいるのですが、これを長方形に直して計画格子線を推定している点など、問題の在処を良く理解して考察を進めています。基本的に外壁の内々寸法をキュービット尺の完数で押さえているという計画方法を、うまく導き出しているところが眼目。他方で、マヤの墓では第一中庭が外々寸法で計画されたと考える点を併記しており、面白い。

5:8の比例が本当に用いられたかは、今後、検討されるべき問題。本当は実測値を逐一示して、キュービットの完数値とどれだけの誤差があるのかを示す方が望ましいのですけれども、本文中に主な計寸の値を出すだけで、他の研究者が詳しく確認できない状態にあるところは残念です。
しかし、歪んで見える平面も、正しく計画格子線の上に載るようだということを説得力を持って主張しており、これは大きな成果。

最後の註には、早稲田大学の小岩正樹さんによる論考が引用されています。ダハシュールにおけるパシェドゥの墓の平面分析が参照されているわけで、この方面の研究の進展が期待されます。

2009年12月8日火曜日

Raven 2005


20世紀の後半、ツタンカーメン王に仕えていた大物クラスの者たちの墓がメンフィス地域で並んで見つかり、この発見が新王国時代の貴族たちの墓の研究を一挙に推し進めました。
このうち、将軍ホルエムヘブは後に王となって、ツタンカーメンの名前を歴史から抹殺した極悪人。王となる前にメンフィスの地で墓を造り始め、次第に規模を大きく増築させたことが分かっていますが、結局、王位を継ぐと自分の墓をテーベの「王家の谷」にも改めて設けています(KV57)。

歴史から消されたはずのツタンカーメンについて、3000年以上も経ってから次第に詳細が分かってくるというのはちょっと信じられないことなのですけれども、何事も大らかにことを運んだ古代エジプト人たちですから、「抹殺せよ」と上層部から言いつけられても、けっこういい加減にこの命令をこなしたらしい。
ツタンカーメンの墓が発見された当時は、「若くして死んだ王がいた」ということ以外に、ほとんど詳しいことが分からない状態だったのですが、完全にはツタンカーメンの存在が抹消されなかったため、また記録捏造の辻褄合わせが杜撰でもあったため、今日、いろいろ知られる点があるということになります。
エジプト学の魅力のひとつは、あるいはこうした一面だらしないとも思われる、人間味溢れる痕跡に触れることが多い、という印象の内に潜んでいるのかもしれません。
「しょうがない連中だなー」という共感です。

Maarten J. Raven,
with the collaboration of Barbara G. Aston, Georges Bonani, Jacobus van Dijk, Geoffrey T. Martin, Eugen Strouhal and Willy Woelfli.
Photographs by Peter Jan Bomhof and Elisabeth van Dorp, and a plan by Kenneth J. Frazer.
The Tomb of Pay and Raia at Saqqara.
74th Excavation Memoir
(National Museum of Antiquities Leiden and Egypt Exploration Society, Leiden and London, 2005)
xxiv, 171 p., 160 pls. (157-160 in color)

発掘調査の費用の捻出はどこでも困難をきわめる状況にありますけれども、イギリスのEESはオランダと組んでメンフィス地域の研究をおこなうことを選びました。この本でも、出版費の助成をオランダの財団から受けています。
本書はホルエムヘブの墓の南東に残る、パイとその息子のライアの墓に関する報告書。パイはアメンヘテプ3世時代の人物であると判断されています。ライアの石棺片も見つかりました。
つまり、小さな遺構ですが、活気溢れた時代の、かなり位の高い貴族の墓だということ。

一冊の本の中に考古・建築・人類学などの観点からの報告を纏めていて、クロス・リファレンスも充実。どの部屋から何が出土したかをまとめた巻末の"Spatial Distribution of Objects"(p. 167)を設けた点は、見習うべきかと感じます。

著者はレイデンのRMOにいる考古学者ですが、建築にまつわる報告への配慮も怠っていません。新王国時代第18王朝の末期以降、高位の貴族たちは石棺を造りましたが、その多くは報告されずに終わっている点を受け、ライアの壊された石棺を接合する面倒な立体パズルをおこなった後、図を交えながらこれを論じています。
日本隊がダハシュールの墓域で見つけたメスの石棺についても未報告の石棺リストの中に並んでいて(p. 57)、これは「英語でもっと詳しく報告しろ」という催促。

65ページの、石棺をどのように地下の玄室へと導き入れたかを示す図8は、D. アーノルドの"Building in Egypt"の影響を強く受けて描かれた図だとしか思われない。シャフト墓の内部の狭い各寸法を念頭に置いて、どのような手順で一番下の部屋へ石棺が運び込まれたかを図示していますが、"sarcophagus case"と"sarcophagus lid"とが「別々に運び込まれた」と考察している点は注目されるべきところ。
運び入れる作業の途中で石棺に傷がつき、これを地下で直したらしい点を述べ、またいくらか色塗りもこの地下室でなされたであろうとみなしている指摘も面白い。

建築学的には、平面を分析した16ページの"Metrology"が貴重です。キュービット尺の完数を用いて計画がなされたことを説明していますが、

"All these proportions refer to the bare brickwork only; the application of limestone wall revetment changed the overall effect. Because so many of the limestone architectural elements are now missing, it is very difficult to assess whether these, too, observed fixed rules of proportion."

とあって、壁体の芯の部分をなす泥煉瓦造の壁の位置が完数による基準格子に乗ることを示唆しており、石版を煉瓦壁に張って壁厚が増えている仕上げの状態を想定しつつ建物が計画されたわけではないであろうという微妙な点に触れています。
彼が発表している

Marten J. Raven,
"The Modular Design of New Kingdom Tombs at Saqqara",
Jaarbericht Ex Oriente Lux (JEOL) 37 (2001-2002),
pp. 53-69.

が題名もなしに註として付されていますが、JEOLのこの論考は検討を要します。
平面の分析については大きな異論がありませんけれども、シャフトの深さまでキュービット尺の完数で計画されたのではないかという考えは、建築の人間としては少々、受け入れ難い。
本書における、

"The total depth of Shaft i is 7.70 m (almost 15 cubits)."
(p. 17)

といった記述も気になります。

地下の部屋をどの深さで造り始めるかという問題は、シャフト墓が密集した墓域での全体の断面図を勘案して考えるべきで、これはたぶん、テーベの「王家の谷」においても当て嵌まります。建築に関わる者であったら、たぶん「掘りやすい地層を見計らって掘るだろう」という結論になるはずです。
平面にキュービット尺の完数を適用するのは、建築の専門家や熟練工が少ない中、その方が建造の工程として合理的になるからであって、一方、シャフトの深さにまでキュービットの完数を当て嵌めることは、掘削作業の実際を蔑ろにすることへ繋がりかねません。
要するに、古代エジプトの建造作業においてなぜ完数が用いられるのかが、未だ考古学者に深く理解されていないと言うことになります。
これは地質学者にも協力してもらって、説得力に富んだ説が展開されることを期待したいトピック。

上部が緩い円弧となっているステラの断片(図77、Stela [72])では、ヒエログリフが円弧に沿って外周に刻まれていますが、頂部から左方へと続く横書きの文字列が、だんだんと傾いていくために途中で向きを90度変え、縦書きに変更されています。
矩形のステラの外周で、上辺の中央から始まって、振り分けで左右に文字列が続き、隅部で横書きから縦書きに変わることは良く見られますが、上部が丸いステラでもこれがおこなわれると、このようになるという興味深い作例。

図157〜160では、泥プラスターの上に描かれた壁画がカラー写真で掲載されています。陽の下に晒される地上部の壁画に対し、どのように保存を図ったのか、これも個人的に聞きたい点ではあります。

前書きを1ページだけ、Geoffrey T. Martinが記していて、「王家の谷の仕事に最近は追われ、長年携わってきたメンフィスの実りある調査から離れることに胸が裂かれる」といったことを述べています。
Honorary Directorという肩書きをもらっているけれども、現場の人であることを最後まで続けようとしている碩学の言葉。

2009年11月16日月曜日

Meskell 2002


古代エジプト人の生活を追った本というのは、もう何冊もあるけれども、エジプト学におけるイギリスの重鎮、J. ベインズのもとに居ただけのことはあって、文字資料としてはっきり残されていない生活の像、それをどのように把握するのかということ自体が大きなテーマのひとつとなっています。こういうテーマはとても珍しい。
図版はだから、モノクロで60枚ほどしかありません。エジプト学の中で、さまざまな情報がどのように組み立てられ、解釈されているのかを念入りに見直す作業がおこなわれています。意図的に難しい話題が選択されていると考えられます。分かりやすい題名とは相反し、この分野の専門家に向けて反駁している本と言っていい。

Lynn Meskell,
Private Life in New Kingdom Egypt
(Princeton University Press, Princeton, 2002)
xvii, 238 p.

冒頭には人類学者のマリノウスキーや、哲学者フーコーの著作からの引用が並んでいます。Hitchcock 2000のミノア建築に関する本でも、ミシェル・フーコーの「知の考古学」が引用されていました。こうしたところは注意しておきたい点です。
第1章の題は"The Interpretative Framework"で、private life,「私生活」とはそもそも一体何かということから話が始まります。特に、古代エジプトにおける私生活、ということが再度問われており、ここからも、たいへん意欲的な内容であることが了解されます。
だから、例えばストロウハルの本、これは和訳が出ていますが、

エヴジェン・ストロウハル著、内田杉彦
「図説 古代エジプト生活誌(上・下巻)」、原書房、1996年

と、ある意味で対極的な位置にある本といって良い。
中心となるのはやはりデル・エル=メディーナで、オストラカに記されていることが資料として、しばしば引用されているのが特徴。

いわゆる「寝室」というものがこの村落の家々の奥にはあるんだけれども、その部屋にベッドが置かれていた痕跡は一切見つかっておらず、逆に外の通りからベッドが出土している点がとても奇妙。寝るためだけの部屋ではなく、もっと別の機能もあったらしいと言われている点が改めて指摘されています。

この建築遺構、細い路地からすぐ入った第一の部屋からは、動物の糞や藁くずが家の中から発見されているので、動物と一緒に暮らしていたことは明らかであるとみなされています。床が一段低くなっているこの部屋にはまた、「造り付け寝台」のようなものがあることも知られていますが、人が寝るためのものではなく、むしろ宗教に関わることがおこなわれたのではないかと考えられています。これは考古遺物からの判断。
出産用のベッドではないかという説については、この時代の出産ではむしろ椅子を使っていると思われる絵画資料があるので退けられるものの、女性のためのしつらいが目立つ点は強調されています。
こうしたことはすでに分かっていた事項なんですが、著者はさらに一歩進め、第一の部屋は女性のためのもの、またそのすぐ奥の第二の狭苦しい部屋は、男性のためのものではないかと推定しています。

この家の男たちは、いくらか離れたところにある王墓の造営に関わった石工・彫工、また画工であったので、毎日家には帰ってこなかったと考えられてきました。どうも王家の谷へ行く途中の仮小屋に寝泊まりし、10日に1日か2日しか帰らなかったらしい。本来の住居の内部は、女性たちの手によって勝手に都合良くしつらえられたようです。
3200年前の昔から、何とかは「元気で留守がいい」と考えられていたことが、ここからも容易に推察されます。やれやれです。

工人たちが構成していた労働者集団の動向については、また別の研究分野となりますので、この本では触れられていません。
建築の分野では、しかしこういう分け隔てることをしないことが重要。
彼女は後に、雑誌JMAにも2004年に論文を寄せています。Ä&L 17 (2007)を参照。

2009年11月14日土曜日

Hope 1978


マルカタ王宮の再発掘を試みたイギリスのB. J. ケンプとアメリカのD. オコーナーによる、1970年代初期における共同発掘の調査報告書のうちの一冊。
前にも触れたように、アマルナ王宮とマルカタ王宮はほとんど同じ時期に発見されましたが、以後の経緯は大きく異なります。アマルナ王宮では楔形文字が記された粘土板(アマルナ文書)が偶然に見つかり、これらの中にアクエンアテンの名前を読み取ったウォーリス・バッジはすぐさま粘土板を購入してイギリス本国へ伝えました。これによってF. ピートリの調査隊が組織され、発掘が迅速に開始されます。

一方、マルカタの場合にはフランスのダレッシーがごく一部分、調査しましたけれども、短いその報告は遅れて数年後となりました。裕福なアメリカ人青年タイトゥスによる短期間の発掘を挟み、その後はメトロポリタン美術館が10年間、発掘をおこないます。第一次世界大戦のただ中であったということもあり、結局、最終報告書は出版されていません。
この報告書も、ワイン壺に関して述べるだけのものです。1970年代のこの調査については、他にLeahy 1978があるのみ。

この調査報告書のシリーズの広告で、少なくとも6冊が出版されるであろうと推測される文面が裏表紙に印刷されたため、後年、誤解を受けることになりました。そのうちの4冊については執筆者と題名、及び出版年を記していますから、すでにそれらは全部刊行されたであろうというように、専門家の中でも誤解している人がいます。

Colin Hope,
Jar Sealings and Amphorae.
Egyptology Today, No. 2;
Malkata and the Birket Habu, Vol. 5
(Aris & Phillips, Warminster, 1978)
vi, 80 p.

ワインを入れて保存するために、壺の口には植物で編んだ丸い蓋を置いて塞ぎ、さらに泥がその上に厚く盛られて保護されます。これを「ジャー・シーリング」と言っているわけで、専門用語。
「アンフォラ」という言葉も特別な用語で、用途によってさまざまな器が作られますが、それらには各々、別の名前がつけられていました。ここでは両側にふたつの取っ手を持つ首長の、また底が尖っている壺を指します。
Amphoraの複数形が-sではなく-eであるのは、ラテン語の女性形であるためです。石碑という意味のstela; stelaeと同じ。エジプト学では、他にもostracon、graffito、naos、necropolis、sarcophagusといった、複数形が通常の英語のようにsをつければいいわけではない言葉が良く用いられます。面倒ですが、慣れが必要です。

泥のタイプを6種類に分けたりと、考察は厳密です。しかし、ここまで細かく分けるのはしんどいという気がしなくもない。
再利用の可能性を探ったり、あるいは付章で墓の壁画で見られるジャー・シーリングの例を列挙したりしているのは、書き手の能力の高さを示しています。外国からもたらされたと思われる要素を最後に挙げているのも重要。
つまりマルカタ王宮の研究で、どのようなことが注意されているのかがこれで分かります。長く続いたエジプト文明において最大の版図を築いたアメンヘテプ3世の時代、シリアやパレスティナ、あるいはミケーネといった諸外国と、どのような交流があったのかを念頭に置いており、きわめて限られた情報をもとにして、どこまで言うことができるかを模索しています。

著者は新王国時代の土器研究に関しては知られた人。でもマルカタで新しく出土したものは小さな破片ばかりなので、器自体の分析ができるわけではありません。本来の活躍が充分できない場で、可能な限りの考察を巡らせたいと工夫し、書かれた書です。
安く出版するために全ページが完全版下で用意されており、大きな労力が強いられたであろうと想像される一冊。

2009年10月19日月曜日

Zenihiro 2009


日本人の若手研究者が、修士論文を英語で出版した本。
柔らかい藁色のペーパーバックで、表紙では著者名が省かれており、それは序文にも記されていないから、この本を誰が執筆したのかは最後の奥付を見るまではっきりと分かりません。欧米の本と日本の書籍とでは、書誌の印刷されるページが異なるので、面倒なことを嫌う外国の学者によっては、戸惑う部分かもしれない。
にも関わらず、Thames & Hudson社の刊行書を念頭に置いたその攻撃的なタイトルの意味するところは明瞭で、言わば学界への殴り込みに相当します。

Kento Zenihiro,
The Complete Funerary Cones
(Privately published, Maruzen, Tokyo, 2009)
(iv), 307 p.

関連サイト:
http://www.funerarycones.com/

Contents:
Abbreviations (p. 1)
0. Introduction (p. 3)
1. Brief overview and reasons for the use of cones (p. 5)
2. Funerary cones (p. 10)
3. Comparison of titles based on dates (p. 27)
4. Conclusion (p. 36)

References (p. 37)

Appendices
1. A catalogue of all known cones (p. 48)
Index for Appendix 1 (p. 241)
2. All titles of the deceased who appears in the present work (p. 265)
Index for Appendix 2 (p. 284)
3. A table designating the date and the origin of each cone (p. 293)
4. Assignments by each scholar (p. 295)

Acknowledgements (p. 307)

若い日本人による、こういう大胆不敵な企ては当方の知る限り、これまでなかったと思われるので非常に痛快。
葬祭に関連したコーン(Funerary Cone)がほとんどテーベからしか発見されないという点は、López 1978-1984 (O. Turin)の本の紹介の欄で前に触れました。石灰岩片の上に書かれたヒエラティック・オストラカも同じ。テーベという土地の独自性を示すひとつの指標。
エジプト学においては出土場所も出土点数も限られる特異な遺物であり、編年もこれまであまり考察されなかった状況でしたが、近年、イギリスで纏められた博士論文、

M. Al-Thibi,
Aspects of Egyptian Funerary Cones
(Ph.D. thesis submitted to the University of Liverpool, 2005)

が出たそうで、これに対するひっくり返しが試みられています。
コーンは建築学的にも、軒飾りの一形態として考察されるべき遺物。

第51回日本オリエント学会大会(2009年、京都)での著者による発表で明らかなように、ここではリヴァプール大学の博士論文に対し、日本の修士論文によって「そりゃ違う」という間違いの指摘が本格的に開始されているわけで、これが面白くないはずはありません。リヴァプールの側では、いったい誰が博士論文を審査したのかも同時に問われることになります。

英文によるサイトも併行して開設し、限定しながらも情報を公開しつつ、幅広く意見を求めている点も注目されます。本のタイトルを勘案した方法を採用しており、評価されるべき。
まずはできるだけ品格が上位のエジプト学の専門誌に概要を投稿して・・・などという、従来の因襲的で迂遠な回路を無視し、いきなり英語で単著の出版に及んでいる点が目覚ましい。これに続く人たちが次々と出てくればいいのですが。
カラーページも含んでおり、説明図に工夫がなされています。

スケール・バーをセンチ表示ではなく、古代エジプトのディジット単位だけにしている点は、ちょっと思い切った方法です。センチメートルの単位による実寸の併記がないのは、いささか気になるところ。
11ページには長さが"52.5 cm (= 1 cubit)"のコーンが存在すると書かれていて、ここに振られた註を見るとD. Arnoldからの引用であることが分かり、なるほどそうであるならば、未だエジプト学者たちの間では広く定着していると思われない、

1.875 cm×28 ディジット=7.5 cm(4ディジット)×7 パーム=1 王尺(キュービット)=52.5 cm

という、建築の専門家アーノルドによる遺構の報告書において必ず用いられている換算の値が、この著作では珍しく前提にされているのだな、おお建築関係者にとってはとても喜ばしいことだと感心するのですが、でも他方でその同じページの数行下には、これと矛盾して建築に関わる学徒の期待を完全に裏切る"1 digit=1.6 cm"、という表記が見られます(!)。同じ換算値は略号表における"d."の項の説明(p. 1)にもうかがわれ、縮尺が1:2と明記してある図中の各々のスケール・バーも、測ってみれば1ディジットが全部1.6 cmの長さを表示。
因みに1.6 cmを28倍すると約45cmで、これは小キュービットの長さと同一となり、王尺として知られるキュービットの長さである52.5 cmには届きません。

1ディジット当たりの違いで見れば、ほんの僅かな数ミリです。
けれどもこれですと、基本となるキュービット尺の長さをこの研究者は一体どのように考えているかが反問されかねず、注意が必要。1.6 cmという値は1.9 cmの単純な誤植なのか、ミスにミスを重ねた計算間違いなのか、それとも小キュービットが適用されるのではという重要な考えを示唆しようとして、錯誤も交えながら言葉足らずに終わっている部分なのか。
それは出土しているコーンの直径がすべてほとんど一緒であるという事実と、どこでどう交差するのか。新王国時代の煉瓦の標準サイズ、特にその厚さと果たして深く関わる問題なのかどうか。
いろいろと混乱を招く箇所かと思われます。

新たに加えられた資料には、著者自身の名が付されています(pp. 233-240)。この著者の意気込みが感じられ、今後の研究の進展が大いに期待されます。
サイトを通じての申し込みによって、購入が可能。煉瓦などに押印されるスタンプに興味を抱いている人であるならば、手元に置く価値がある貴重な一冊で、お勧めです。煉瓦スタンプと思われる若干の例が、先行研究を尊重してそのまま掲載されていますし、もともと王名と私人名との双方に関するスタンプの集成はJ. Spencerによる煉瓦の本(Spencer 1979)などでしか見られず、稀です。

2009年10月18日日曜日

Engelbach 1923


アスワーンの未完成のオベリスクに関する報告書を纏めた後、エンゲルバッハは今度は翌年に一般向けの本をニューヨークで出版しています。印刷はしかし、イギリスでなされた模様。
がらりと体裁を変えており、また細かいところでは2冊の本に矛盾する部分もあって、そこが見どころです。

R. Engelbach,
The Problem of the Obelisks:
From a Study of the Unfinished Obelisk at Aswan

(George H. Doran Company, New York, 1923)
134 p.

内容をかなり改めて、広範な読者層に対応できるよう、心を砕いています。前年に出版した報告書ではメートル法にて各寸法を記していますが、この本ではフィート・インチに換算して数値を改めました。
報告書では、後半にオベリスクに関する資料をまとめて箇条書きに記していくという方法を採っていましたが、ここではそれらを各章に振り分けています。報告書には掲載したが、一般にはあまり受けないであろうという箇所は思い切って削除されています。

オベリスクをどうやって立てたのか、わざわざ模型まで作ってその写真を載せています。立体物を扱う際には2次元の図面よりもやはり3次元の表現の方が分かりやすいからで、また同時に、ここにはGorringeの本の図版が大きく影響していると思われます。

目次のところには小さな正誤表が差し挟まれており、

Page 70, lines 15 and 17, for 1/1000 read 1/100.

なんて書いてある。正誤表を英語で書くのはけっこう大変で、というのはなかなかいい参考例を見つけることができないからですが、こういう簡単な書き方をするんだと勉強になります。
でも実はこの正誤表に載っていない間違いが他にもあるわけで、例えばオベリスクの表の傾斜を記した数値のいくつかには、訂正すべきものが含まれています。結局、計算は読者が自分でやり直さないといけません。

エンゲルバッハによるオベリスクの一覧表、といっても代表的なものしか載せていないのですが、第一級の資料であるにも関わらず、これを引用しようとするならば、いろいろと直さなければならない事項があって面倒な作業を強いられます。Rutherfordという人は1988年にこの表を作り直していますけれども、傾斜の値を2で割ってしまい、オベリスクの片側の傾きを示している点が残念。
Habachiが後にオベリスクの良い解説書を書いています。でもそこには建築的な洞察は多く見られないため、オベリスクの形状について考えを巡らせる際には、エンゲルバッハの出した2冊にまで戻らねばなりません。

図版が小さく、書き込まれた文字が読めない場合もあります。最初に出された報告書の大判の図面を無理矢理に小さく載せているからで、ここでも2冊の併読が必要となります。

2009年10月17日土曜日

Engelbach 1922


薄い大判の本ですが、オベリスク研究に際しては絶対に欠かすことができない書。1922年はトゥトアンクアメンの墓が見つかった年でもあります。著者のエンゲルバッハは建築家であり、考古学者でもあった人。

R. Engelbach,
The Aswan Obelisk:
With Some Remarks on the Ancient Engineering

(Service des Antiquites de l'Egypte, Le Caire, 1922)
vi, 57 p., 8 pls.

アスワーンで見ることのできる、未完成の巨大なオベリスクの報告書です。アスワーンは花崗岩が採石されることで有名で、古王国時代からずっと石が切り出されてきました。古代ローマ時代でも採掘が続けられ、シエネ Syeneの石として知られています。新王国時代にトゥーラなどの良質石灰岩を生む石切場が枯渇した事情とは対照的。

新王国時代の特に後半には従って、入手の難しくなった白く輝く石灰岩の代わりに砂岩を用いるようになります。ルクソールには多くの記念神殿が建ち並びますが、ほとんどが砂岩製で、石灰岩を用いて建てられた新王国時代の代表的な建物は、ディール・アル=バフリーにあるハトシェプスト女王の記念神殿ぐらいしか見当たりません。

しかし古代エジプト人たちは青銅の工具しか持っていなかったわけで、花崗岩を掘り抜くには同じように硬い丸石をぶつけて少しずつ削り取るという方法しかありませんでした。
エンゲルバッハはこの未完成のオベリスクを埋めていた土砂を取り除け、オベリスクの上面と側面に計画線が残っていたことを見出します。言わば原寸大の図面が残っていたわけで、オベリスクの研究史上、これが非常に重要になります。
この計画線はしかし、太陽が地表すれすれの位置にある早朝と夕刻の時にしか目に見えないらしく、本書がそれらを纏めた唯一の記録となります。

他のオベリスクの寸法との比較を、彼は表を用いて行っていますけれども、そこではオベリスクの胴部の傾きを記すと言うことを初めておこないました。この点が画期的です。
それまでは単に、一番太いところの寸法と全高とを並べるだけであったわけです。しかも彼の方法は独特で、片側の傾斜を測るのではなく、両側の傾斜を含めた書き方をしていて、オベリスクをどう計画するのかを建築的に勘案して採用した新たな方法でした。ここに建築家としての重大な視点があったわけですが、他の考古学者たちにはその理由が理解されず、結局、以後は誰もこの方式に従いませんでした。
9ページに掲げられている表には、10本ほどのオベリスクのリストしか見られませんが、本当は大きな意味を持っています。

オベリスクの計画方法を解く鍵が初めて記された書で、彼の視点はこれからも注目されるでしょうが、ただ残念なのは計算ミスがうかがわれる点。
読むべきページはたったの数枚にしか過ぎませんが、オベリスクの計画方法を語る上で必須の項目を含む報告書。

2009年10月5日月曜日

Hayes 1937


断片的に出土した彩色陶板を報告し、復原考察をおこなったもの。ラメセス2世の宮殿があった場所から見つかった絵付きの飾り板を、そのモティーフや形状によってタイプ別に分け、次いでどこで使われていたかを探っています。
きわめて少ない情報から建築を想像して組み立てていくパズルをやっており、絵画史料を駆使して復原を進めている典型的な論考。わずか数十ページからなる薄い冊子で、最終ページには500部発行ということが明記してあります。報告書の発行部数としてはこの数字が最小限度であるはずで、カラー図版もなく、安く作られたと思われる報告書。
この頃は、第二次世界大戦が始まろうとしている不穏な時代でもありました。
カンティールを含め、第2中間期〜新王国時代における下エジプトの都市に関する総合的な研究は、この後にマンフレッド・ビータックによる大規模な発掘調査へと引き継がれます。
キーワードはアヴァリスやテル・エル・ダバァ。

William C. Hayes,
Glazed Tiles from a Palace of Ramesses II at Kantir.
The Metropolitan Museum of Art Papers, No. 3
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1937)
46 p., 13 plates

著者はニューヨークのメトロポリタン美術館に勤め、収蔵品に関する公開に貢献しました。実地の訓練で古代エジプト語を覚えた人です。ヒエラティックの読み手としても知られ、建築に関わる重要な考察も残しました。JNESに4回に渡って連載したマルカタ王宮出土の文字資料の報告は絶対に欠かすことのできないものだし、またハトシェプスト女王に仕えて寵愛された建築家センムトの墓出土の、石灰岩片のヒエラティック・インスクリプションの読解がなされた

William C. Hayes,
Ostraka and Name Stones from the Tomb of Sen-mut (No. 71) at Thebes.
Publication of the Metropolitan Museum of Art, Egyptian Expedition Vol. XV
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1942)
viii, 57 p., 33 plates

は、「ネビィ」という尺度を考える上で必ず触れられる研究。トトメス時代のオストラカをいくつも読んで建築工事の進展の様子を述べた面白い論文をJEAに書いたりもしています。
代表的な著作はしかし、おそらくは

William C. Hayes,
The Scepter of Egypt:
A Background for the Study of the Egyptian Antiquities in The Metropolitan Museum of Art,

2 vols.
(The Metropolitan Museum of Art, New York, 1953)
xviii, 421 p. + xv, 526 p.

で、メトロポリタン美術館に収蔵されている遺物を紹介することを目的とした通史。載せる図版が先に決まっていて書かれた2巻本で、良くできています。これを見ればこの美術館に収められている名品がひと通り解説されるという、うまい仕組みになっており、重版が出されている理由も分かります。

2009年9月1日火曜日

Janssen 1961


オランダのライデン(レイデン)博物館とトリノ・エジプト博物館が所蔵するパピルスを述べた研究。「古代エジプトのふたつの航海日誌」という、魅惑的な題名です。J. J. ヤンセンの博士論文。
新王国時代後期のラメセス時代におけるヒエラティック(神官文字)の専門家で、特にディール・アル=マディーナに関しては世界中で最も知識の豊富な学者とみなされます。

Jac J. Janssen,
Two Ancient Egyptian Ship's Logs:
Papyrus Leiden I 350 verso and Papyrus Turin 2008+2016
.
Supplement to Oudheidkundige Mededelingen uit het Rijksmuseum van Oudheden te Leiden (OMRO) 42 (1961)
(E. J. Brill, Leiden, 1961)
viii, 114 p., IV plates.

学術雑誌OMROの付巻として刊行されました。
OMROと略記されるこの雑誌名は、「レイデン王立古代博物館考古学通信」といったような意味合いを持ちます。OMROは国内ですと、大阪の国立民族学博物館などがバックナンバーを持っているはず。Two Ancient Egyptian Ship's Logsは、都内ではたとえば早大図書館が所蔵しています。

題名に出てくる"verso"は専門用語で「裏側の面」。反対語は"recto"で、「表面」。パピルスやオストラコンの他、本のページや貨幣でも用いられる語です。これらの省略形もしばしば見受けられます。

100ページ足らずの本ながら、おこなわれていることは多岐にわたり、まず通常のエジプト語の辞書には出てこない言葉が頻出するので、その意味を類推しなければなりません。外来語である可能性もあるわけです。
パピルスに書かれている文字列を、どのように報告するかが良く分かる一冊。註のつけ方も、一般の論文と比べるならばかなり複雑です。
航海日誌にはラメセス2世の第4王子であるカエムワセトの名が出てきており、こうした点も面白い。非常に長生きをしたラメセス2世の注目すべき広範な諸建築活動を支えた張本人です。

ラメセス2世の息子たちに関しては、カエムワセト王子にテーマを絞った

Farouk Gomaà,
Chaemwese:
Sohn Ramses' II. und Hoherpriester von Memphis.

Ägyptologische Abhandlungen (ÄA), Band 27
(Otto Harrassowitz, Wiesbaden, 1973)
xii, 137 p., VIII Tafeln.

が知られています。いわゆる「修復ラベル」にも言及。カエムワセトが最古の考古学者と言われる所以です。
息子たちの墓の概要を伝える発掘調査報告書、

Kent R. Weeks,
KV 5:
A Preliminary Prort on the Excavation of the Tomb of the Sons of Rameses II in the Valley of the Kings

(American University in Cairo Press, Cairo, 2000)
vi, 201 p.

は、ラメセス2世の子供たちをひとところに纏めて埋葬するための迷路のような施設のまとめ。王家の谷において最大規模を誇る墓です。今なお、どこまで深く続いているのか、まったく分かっていません。地下水が湧き出ているため、最深部の調査は困難を極めているようです。
むちゃくちゃ数が多かったラメセス2世の子供たちの墓をいちいち独立させて造っていては大変だと、手を抜いて小部屋を無数に並べて済ませた形式。サッカーラのセラペウムとの平面形式の類似が建築学的には焦点。古王国時代にも、こういう墓の形式の先例はあったことが指摘されます。
ウェブサイトでは、

Theban Mapping Project: KV 5
http://www.thebanmappingproject.com/sites/browse_tomb_819.html

にて図とともに説明が見られます。
うじゃうじゃといるラメ2(ラメセス2世を、こう短く呼ぶことが多い。欧米では"R2"もしくは"RII"、つまり「アール・ツー」。同様にTIII=トト3、AIII=アメ3)の子供たち全部を扱う

Marjorie M. Fisher,
The Sons of Ramesses II, 2 vols.
Ägypten und Altes Testament (ÄAT), Band 53
(Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, 2001)

Volume I: Text and Plates.
xxii, 287 p.
Volume II: Catalogue.
v, 232 p.

といったモノグラフも8年前に出版されました。
しかし、もし史料を全部見ようとするなら、KRIRITARITANCとともに雑誌の新しい号などを調べなければなりません。

古代エジプトにおける王族の家系一般の通覧なら、

Aidan Dodson and Dyan Hilton,
The Complete Royal Families of Ancient Egypt
(Thames and Hudson, London, 2004)
320 p.

が便利です。

2009年8月27日木曜日

Gourlay 1981


トリノ・エジプト博物館展で、手箒を見て思い出した本。植物繊維を用いて造った箒やサンダル、籠、ロープ、マット、網などの類が研究されています。出土はディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)で、ここは新王国時代の「王家の谷」の墓を造営した職人たち(画工・彫工・石工など)が居住していた村。
ディール・アル=マディーナはフランス隊が長く調査研究を続けてきていますが、もともとはイタリア隊が調査をおこなった場所で、センネジェムの墓(TT 1)や、建築家カーとその妻のメリトの墓(TT 8)などの遺物が多量にトリノ・エジプト博物館でうかがわれるのは、イタリア人考古学者のスキアパレッリたちの活躍に負うところが大きい。

Yvon J.-L. Gourlay,
Les sparteries de Deir el-Médineh:
XVIIIe-XXe Dynasties
, 2 vols.
Documents de Fouilles de l'Institut Français d'Archéologie Orientale (DFIFAO), tome XVII/1 et 2.
IF 567A et B
(Publications de l'Institut Français d'årchéologie Orientale, Le Caire, 1981)

Vol. I: Catalogue des techniques de sparterie.
viii, 94 p., XII planches.

Vol. II: Catalogue des objets de sparterie.
v, p. 170, XXII planches.

Table des matières:
Préface, v
Introduction, vii
I. Balais de ménage, p. 1
II. Brosses et Pinceaux, p. 7
III. Garnissage ou revêtement de meuble, p. 13
IV. Cordes et noeuds, p. 21
V. Postiches, p. 27
VI. Nattes, p. 33
VII. Sacs et résilles, p. 37
VIII. Sandales de cordes, p. 55
IX. Anneaux, p. 65
X. Vannerie, p. 69
Indices, p. 157

多種多様の品々が登場し、第1巻では特に技術を扱っているために、例えば上野のトリノ博物館展で展示されているような手箒の作り方が2〜4ページで紹介されています。漁網や、椅子の座に張られるマットも含まれ、豊富な図版によってそれらの作り方が紹介されている他、壁画で見られる籠類も図版に収められています。
W. Wendrichによる研究書のさきがけ。大英博物館が収蔵する縄や籠の類の報告は、また別に出版されています。

IFAOからたくさん出ているディール・アル=マディーナの報告書を全部揃えることは難しく、1930年代中葉までのものが特に品薄です。日本で一番多く持っているのはたぶん東海大学湘南キャンパスの図書館で、次に早稲田大学の本部図書館でしょうか。
B. Bruyèreが執筆した村に関する厚い報告書は、建築学的には非常に重要。時代が降るとともに村が拡張されていく過程が図示されています。

López 1978-1984 (O. Turin)


トリノ・エジプト博物館に収蔵されている遺物をすべて掲載している書物はまだ存在していません。歴史ある博物館では悩ましい共通した問題。図版を交えてそれらの抜粋が本でまとめて紹介されたのは1963年で、その英訳が2年後にニューヨークから出ています。

Ernesto Scamuzzi,
Museo Egizio di Torino
(Edizioni d'Arte Fratelli Pozzo, Torino, 1963)
CXIV tavole.

Ernesto Scamuzzi,
translated by Barbara Arnett Melchiori,
Egyptian Art: In the Egyptian Museum of Turin
(Harry N. Abrams, New York, 1965)

パピルスに描かれた王家の谷の墓の平面図がカラーで紹介されたりしており、建築学的には貴重な図集。ただ、これらはページが打たれていない本で、いささか使いづらい書です。
それでも、比較的詳しい記述がうかがわれ、きわめて有用。

Leospo 2001のところで述べた通り、Donadoni Roveri (ed.) 1988-1989の3巻本がその後に出ていますが、これはトリノ・エジプト博物館にある遺物を使ってエジプト文明をさらに詳しく系統的に解説しようとしたもので、遺物そのもののカタログではありません。博物館収蔵の遺物のカタログの刊行は別に、それと並行して当時、すでに始められています。
このカタログは、

Il Catalogo, Serie I - Monumenti e Testi
Il Catalogo, Serie II - Collezioni

のように、大きくふたつのシリーズに分かれています。
後者に属する代表的な例が、以下に示すオストラカ(石灰岩片や陶片に文字や絵を書いたもの)のカタログ。ヒエラティックの文字列が記されたものを扱い、4巻本です。

Jesús López,
Ostraca ieratici, 4 fascicoli.
Catalogo Generale del Museo Egizio di Torino (CGT):
Serie II (seconda) - Collezioni, Volume III, Fasc. 1-4.
(Istituto Editoriale Cisalpino, Milano, 1978-1984)

Fascicolo 1: Ostraca ieratici, n. 57001-57092 (1978)
54 p., tavole 1-50.

Fascicolo 2: Ostraca ieratici, n. 57093-57319 (1980)
82 p., tavole 51-100.

Fascicolo 3: Ostraca ieratici, n. 57320-57449 (1982)
54 p., tavole 101-150.

Fascicolo 4: Ostraca ieratici, n. 57450-57568 / Tabelle lignee, n. 58001-58007 (1984)
57 p., tavole 151-210.

2年おきに1冊ずつ刊行。図版を50葉ずつ出したことが良く分かります。黒と赤との2色刷を用い、実際のもので見られるインクの色の違いの様子を忠実に表現しようとしています。
ディール・アル=マディーナから出土してフランス隊が報告しているもの(O. DeM)、カイロ博物館にあるもの(O. Cairo)、大英博物館に収められているもの(O. BM)と並んで、重要な史料集。新王国時代の石灰岩のオストラカというのは主にテーベからしか出土しておらず、これらは基本的にディール・アル=マディーナ学ともいうべき特殊な領域の史料を構成しています。
オストラカの見つかり方には斑があって、例えばとても長生きしたラメセス2世時代に属するとはっきり判別されるものというのは、不思議なことに相対的には数がそれほど多くありません。J. Janssenの指摘。"Funerary cone"というのも、テーベからしか見つかっていませんでした。思えば不思議な地域です。

著者はカルナック神殿から見つかったタラタートの書きつけについても報告しており、10個にひとつの割合でチェックのために記されているのではないかという指摘が面白い。

Jesús López,
"Inscriptions hiératiques sur les talâtât provenant des temples d'Akhénaton à Karnak",
Cahiers de Karnak VIII (IFAO, Le Caire, 1978), pp. 245-270.
(Cf. Kramer 2009, col. 18)

この報告では、アマルナで見つかりながらも、読解が進められていなかったヒエラティックについても訳を提示しており、City of Akhenatenのシリーズ、つまり CoA I-III, 4 Vols. (1923-1951) の記述内容を一部補完しています。

追記
トリノ博物館の収蔵品をカラーで紹介しているハンディ・サイズのガイドブックとしては、Vassilika 2009が新しく出ています。(2009.10.18)

2009年8月24日月曜日

Assaad and Kolos 1979


ツタンカーメン王の墓で発見された遺物にうかがわれるヒエログリフの文字列を、分かりやすく読んでいくという薄い冊子。初めてエジプトへ行った時にはこの本がルクソール東岸のガッディス書店に並んでおり、ヒエログリフを自習する上で当時はたいへん役に立ちました。

Hany Assaad and Daniel Kolos,
The Name of the Dead:
Hieroglyphic Inscriptions of the Treasure of Tutankhamun Translated

(Benben Publications, Ontario, 1979)
129 p.

最初に、ヒエログリフが横書きでも縦書きでも、また右から左にも、その反対に左から右にも書けるさまが示され、24からなるアルファベット表がこれに続きます。
巻末には、用いられている象形文字の説明を所収。ガーディナーによるサイン・リストの簡略版です。

本文では20ほどのさまざまな遺物が選択されて、それらに記された文字を次々と示していきます。第1行目にはヒエログリフが、第2行目には文字の音価を示すトランスリテレーションが、第3行目には発音が、第4行目には文字通りの意味が、そして第5行目にはこなれた訳が並びます。
ここまで丁寧に説明してくれる本というものは、いろいろと入門書が著されている今日でも少ないかもしれません。
文字の抜けや、本来の文字の順番とは逆になっている部分については註で触れています。王のための副葬品であるにも関わらず、けっこう間違いがあると言う意外な事実もこれで分かります。

専門家向けにはその後、ツタンカーメンの墓から出た遺物に記されたヒエログリフによる文字資料のすべてが一冊に纏められ、出版されています。グリフィス研究所から出されている、ツタンカーメン・シリーズの中の一冊。

Horst Beinlich und Mohamed Saleh,
Corpus der hieroglyphischen Inschriften aus Grab des Tutanchamun
(Griffith Institute, Oxford, 1989)
xvi, 282 p.

この墓からは少数のヒエラティックによる文字資料も見つかっていますが、それらはまた別にチェルニーが報告しており、グリフィス研究所から刊行されています。主として土器の肩に記された文字列。

ベンベン出版社は、カナダにおけるエジプト学関連の書籍を扱うところとして有名。
8ページには近刊書として、

Ancient Egyptian Plans, 2 vols.

という広告が掲載されており、第1巻では都市、城塞、神殿の図面が、また第2巻では主要な墓とピラミッドの図面が集められて出版される予定であったらしいのですけれども、惜しいことにまだ刊行されていない模様です。