2012年9月12日水曜日

Moon 2005


世界遺産に指定されているタンザニアのキルワ島へ行く機会を得ました。東アフリカの沿岸に属し、島々が点在して珊瑚礁が発達しているこの場所は港湾の設営にも適しているため、古来から海外交易によって栄えた場所。
案内役を務めてくださったのは、このキルワ島について学位論文を執筆されている人類学者の中村亮先生(総合地球環境研究所)で、もしもたったひとりで行ったとしたら到底見ることができない遺跡をたくさん拝見することができました。予定されていた現地での御自身の研究もあったと思われますが、わざわざダル・エス・サラーム空港までお迎えいただいた後、キルワ島への移動と滞在で数日間行動をともにしていただき、貴重なお時間を割いてくださったこと、また遺跡にて詳しい専門的な御説明を逐一賜りました点について厚く御礼申し上げます。
もともとエジプト・シナイ半島南部に残存する珊瑚造建築の調査に関わっていたことを機縁とした比較調査です。古代エジプトの石造建築は非常に有名ですが、クセイルやシナイ半島南部のラーヤあるいはトゥールなどの沿岸部において珊瑚を用いた建物が残っていることは、あまり知られていません(cf. Le Quesne 2007)。
一方で、Greenlaw 1976の報告によりスーダンの交易港サワーキン(スアキン)における珊瑚造の建物群は有名で、建築構法としてどのような違いがあるのかどうかが気になるところです。

以下の本はキルワ島に残存する遺跡の様相を簡潔にまとめたもので、上空からのカラー写真も多く交えており、参考になります。キルワ島をこれから訪れようと考えている方々に役に立つことは間違いありません。各遺構の平面図もカラーで掲載されています。見やすい地図の他、CGによる復元図もいくつか紹介されており、往時の姿を知ることもできます。高さ20センチ、幅21センチのほぼ正方形の薄い判型で、持って歩くのにも便利。重宝します。

Karen Moon,
Kilwa Kisiwani: Ancient Port City of the East African Coast
(Ministry of Natural Resources and Tourism: Dar es Salaam, 2005)
68 p.

Contents:

Introduction (p.9)

Historic Sites (p.13)
Malindi Mosque and Cemetery (p.13)
Gereza (Kilwa's Fort) (p.15)
Makutani (p.18)
Tombs of the Kilwa Sultans (p.22)
Jangwani Mosque and House (p.23)
Small Domed Mosque (p.25)
The Great Mosque (p.27)
The Great House (p.32)
Husuni Kubwa (p.35)
Husuni Ndogo (p.40)
Ancient wells (p.42)

Village and Island (p.44)
Kisiwani village (p.44)
Cultural Practices and Traditions (p.48)
Further Historical Sites of Kilwa Kisiwani (p.52)
Nature Walks (p.55)

Kisiwani in Context (p.61)
Other Sites of Kilwa Bay (p.61)
Related Sites of the Swahili Coast (p.64)

Chronology of Events (p.66)
Further Reading (p.68)

ただ難点を述べるならば、あくまでも一般向けの薄い書籍なので、建築遺構のどこが面白い点なのかを具体的に知ることは難しいと思われます。
逆に、この本で触れられていない点を探し出して図を交え、説明することが、あるいは一般に対して建築史の全体の流れをより分かりやすく語ることができるのかもしれません。
特に柱を林立させ、各ベイ(格間:4本の柱によって囲まれた部分)の天井形式に変化を持たせている大モスクを見る時、そう感じます。
ここでは各辺の長さが微妙に異なる長方形平面の上に載せられた楕円形のドームとヴォールト vault の天井の併用が見られ、天井近くの壁体上部にはペンデンティブ、また柱間には半円アーチとポインテッド・アーチ、さらには外壁にリンテル・アーチ lintel arch(フラット・アーチ flat arch)なども多々観察されて、西洋の主要な建築構造の流れを説明するには最適。ひとつの遺構に、全部が集まっている状況です。
なお、平らなアーチすなわちフラット・アーチや、「平らなヴォールト屋根(!):フラット・ヴォールト」については、Fitchen 1961Rabasa Diaz 2000を参照。
東アフリカ沿岸に残る遺構としては画期的な巨大なドームが、この建物の一隅にかつては存在したという報告もなされています。

列柱廊におけるドームの建設についてはこの場合、小規模であり、おそらくは土砂を積み立てて仮設の土台を造ったのでは。ドームやアーチを架構する場合には足場が必要とされるわけですけれども、ひとつひとつの楕円形のドームのライズ(高さ)や曲率が異なるように見受けられ、同じ木製の型枠を使い回したとは考えにくいと推察されます。この点については今後の研究の進展が望まれます。

小モスクの片隅で見られる、井戸から汲み上げた水を建物内に導き入れるための水路も貴重。キルワ島の遺構全般に見られることですが、水に関する諸施設が良好に残存している点は特記されるべきだと思われます。水浴施設と便所が高度に整備されていたことを今日まで明瞭に伝えており、詳細な報告がおこなわれるならば注目を集めるのではないでしょうか。
この方面の研究はあまり進んでいない状態で、古代ローマ建築の包括的なトイレの研究に関してはHobson 2009がようやく近年初めて刊行されており、そこで見られる遺構例との類似点が面白いと感じられます。井戸に頼るしかない生活であったにも関わらず、衛生設備の付設がキルワ島では十全に図られたということを指し示しているように見受けられます。古代エジプトにしても、アマルナの住居遺構(Borchardt und Ricke 1980; cf. Tietze ed. 2008)や、メディネット・ハブ(マディーナト・ハブー)すなわちラメセス3世葬祭殿の附属小宮殿(cf. Hölscher 1934-1954)などにしか残っていません。

この島の建築ガイドブックをもし簡明に執筆する機会を得たとしたら、何を書くべきか。
さまざまな思いが去来します。面白く書くことは可能かもしれない。キルワ島に残る遺跡を通じ、西洋建築史の古代から中世までの流れを建物の構造という視点から描くこと。しかしそれはこの島にひっそりと平和に佇む遺構の何かを破壊する契機へと繋がるような気もします。
電気も水道もないこの地では、久しぶりに満天の星々を見ることができたのが印象に残りました。星など見えなくなっても一向に困らない生活を現代人は加速している、ということを改めて実感した数日の滞在でした。

2012年9月4日火曜日

Russo 2012


古代エジプトの第18王朝に活躍した建築家カーは、いったい何者であったのかを詳細に調べ上げた論考です。
職長であり、建築家であったカー(Kha)は、アメンヘテプ2世からアメンヘテプ3世の時代を生きたディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の住人で、イタリアの偉大な考古学者エルネスト・スキアパレッリ(Ernesto Schiaparelli)によってカーとその妻メリトの未盗掘の墓が20世紀の初頭に発見されました。多数の副葬品はトリノ・エジプト博物館に収蔵されています。この博物館における主要展示品のひとつ。
ディール・アル=マディーナは第18王朝から第20王朝にかけて栄えた職人たちの集合住居で、彼らの仕事は王家の谷や女王の谷に岩窟墓を造営することでした。
オランダ・レイデン(ライデン)にある学術機関が非常に緻密な研究を進めていますが、第18王朝における公開資料は少なく、今後の進展が望まれるところ(cf. Tosi 1999)。

Barbara Russo,
Kha (TT8) and his Colleagues:
The Gifts in his Funerary Equipment and related Artefacts from Western Thebes.
GHP Egyptology 18
(Golden House Publications (GHP): London, 2012)
v, 98 p., 8 color pls.

Table of contents:

Introduction (p.1)

Chapter 1. The discovery (p.3)

Chapter 2: Analysis of the artefact (p.9)
  The "gifts": nature and documentation
  The gift cubit rod of Amenhotep II
  The senet-board and a walking stick of Neferhebef et Banermer(u)t
  The walking stick of Neferhebef
  The statue group A 57, Musée du Louvre, Paris
  The funerary scene of TT 8
  The "gold of favour"
  The scribal pallete of Amonmes
  Excursus: the title imy-r k3(w)t nbt nt nswt
  The bronze cup with cartouche of Amenhotep III
  The vase of Userhat
  The walking staff of Khaemuaset

Chapter 3: The artefacts found outside the tomb (p.49)
  Ostracon 5598, Hermitage Museum, St. Petersburg
  Ostracon SR 12204, Egyptian Museum, Cairo
  Graffiti nos. 1670 and 1850 from the Theban mountains
  Stela BM EA 1515, British Museum, London
  Jar-labels from Malqata

Chapter 4: Suppositions concerning the Great Place (p.64)
  The identity of Kha: datable elements
  Kha's family
  Kha's career
  Titles composed with st '3t
  ḥry (n) st-'3t
  imy-r k3(w)t n st-'3t
  sdm-'š n st-'3t
  sš nsw n st-'3t and sš n st-'3t

Conclusions (p.77)

Abbreviations (p.79)
Bibliography (p. 79)
Index (p.95)

目次の第2章のところでは僅かな編集上の誤記があるようで、上記の目次は本文に見られる項目名を尊重するように努め、転記をおこないました。
キュービット・ロッドに記されたヒエログリフを紹介している10ページでは、訂正の紙片が貼り付けてあって、これも校正が行き届かなかったことを示しています。でも、大した問題ではありません。

序文には「2006年に開催された会議 "Ernesto Schiaparelli e la tomba di Kha" で発表した内容をもとに展開した」と書かれており、以降も継続して入念な研究が進められた様子。巻末の参考文献では400タイトル近くの充実した文献がリストアップされており、その粘り強い努力のあとが示唆されます。
カーの墓から見つかった品々のうち、情報量が多くうかがわれるもの、特に王名が記された副葬物を中心に分析を始めており、次いで海外の博物館に収蔵されているカーに関連した遺物を検討。さらにはオストラカや、テーベの谷で見つかっているグラフィティ(Graffiti de la montagne thébaine 1969-1983)といった文字史料の中からカーに関する記述を探し出して考察を加えています。アメンヘテプ3世のマルカタ王宮から出土したジャー・ラベルにも言及しているのが注目されるところ。

最後近くでは、

"Judging by the value of some of Kha's objects it can be argued that he was of middle-high rank status."
(p.69)

と論じており、カーの社会的な地位が諸資料の吟味をもとに推測されています。
エジプト学のオーソドックスな方法を踏襲しながら、カーの肩書き(タイトル)の検討などを経て追究の成果が披瀝されており、好著となっています。

関連文献としては、Schiaparelli 1927Moiso 2008などでしょうか。
比較的最近に刊行が始まったGHPから出版されているエジプト学のモノグラフのシリーズをさらに面白くしている最新刊で、この領域に興味を持たれている方にはお薦めの本です。

2012年7月26日木曜日

Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993


「アメンヘテプ3世展」は1992年から1993年にかけて開催された巡回展。クリーヴランド美術館を始めとして、次にはルイス・カーンの設計で有名なフォートワースのキンベル美術館に会場が移され、最後はフランスへ飛び、パリのグラン・パレで締め括られました。
周到な準備が重ねられた企画で、その模様は直前に出されているBerman (ed.) 1990でうかがい知ることができ、この流れはまたその後の重要な専門書であるO'Connor and Cline (ed.) 1998の出版にも繋がっていきます。

アメリカとフランスでの巡回展ですから、カタログは英語(1992年)とフランス語(1993年)の両方が作成されています。目次を見ると当たり前のことながら、ほとんど同じ構成。
でもフランス語版では不思議なことにページ数が60ページ以上も少なくなっており、見比べるとレイアウトもかなり変えられている点が注意を惹きます。

英語版:
Aeielle P. Kozloff and Betsy M. Bryan,
with Lawrence M. Berman,
and an essay by Elisabeth Delange,
Egypt's Dazzling Sun: Amenhotep III and hid World
(Cleveland Museum of Art: Cleveland, 1992)
xxiv, 476 p.

フランス語版:
Arielle P. Kozloff, Betsy M. Bryan, Lawrence M. Berman, et Elisabeth Delange,
Aménophis III: le pharaon-soleil
(Réunion des musées nationaux: Paris, 1993)
xxiii, 411 p.

共著者が4名以上になる場合、普通はこうやってずらずらと挙げるものではないんですが、ここではネット検索の便宜を図るために各著者の名を逐一掲げることを優先したいと思います。海外の参考文献の引用の仕方については厚い専門書が出ています。"Chicago Style"などで調べてくだされば。

英語版よりも1年遅く出版されたフランス語版のカタログのページ数が少ないのは、アメリカからフランスへ会場が移った際に展示品数が減らされたからではないのかという疑念が浮かぶわけですが、しかしまったくの逆で、グラン・パレで開催された時の方が展示品は増えているらしく思われます。
展示品には番号が付されており、英語版でもフランス語版でも最後の品の番号は136で一緒。
一方、フランス語版のpp. 410−1には、どの展示品をどこの美術館から借り出したのかをリストアップしていますけれども、そこでは例えばただの"34"番の他に、別の"34 bis"、"34 ter"というものが見られ、こうした後付けの展示番号を抜き出せば以下の通り。

2 bis: Scarabée de Tiy ou scarabée du règne
22 bis: Fragment d'une statuette d'Aménophis III
34 bis: Déesse Sekhmet
34 ter: Déesse Sekhmet
51 bis: Portraits peints d'Aménophis III
67 bis: Ouchebti d'Aménophis III
75 bis: La tête d'une cuiller à la nageuse
113 bis: Boîte à parfum

これらの8点は、英語版のカタログには掲載されていないようです。
アメンヘテプ3世の横顔を描いた"51 bis"はこの王の墓から切り出された壁画の一部ですが、このようにパリでの展示は、ルーヴル美術館に収蔵されているものなどをいくつか新たに加えた展覧会であったことが分かります。

さて、他には英語版とフランス語版で大きく異なるところがあるのかどうか。
個人的には巻末の参考文献が大幅に変えられているという印象を受けます。リストアップされている文献の総数は双方とも300タイトル弱で、量としてあまり違いは見られません。しかし英語版では

R. A. Schwaller de Lubicz,
Les temples de Karnak, 2 vols.
(Paris, 1982. [English ed., London, 1999])

を挙げていますけれど、フランス語版では削除されており、他方で

C. C. van Siclen,
"The Accession Date of Amenhotep III and the Jubilee,"
JNES 32 (1973), pp. 290-300.

などはフランス語版だけに加えられています。これはほんの一例ですけれども、ここでうかがわれる変更の判断は妥当であるように思えます。
相当、参考文献の欄は手が入れられて整理されている感じが与えられ、もしどちらかを購入したいというのであれば、お勧めしたいのはページ数の少ないフランス語版の方。レイアウトを変えてページ数を減らしながらも、展示品数は8点ほど多く、カラー写真も英語版よりも多いはず。特に最後の宝飾品関係の品々の紹介で、フランス語版ではカラー図版が多く挿入されています。
複数の国々を巡回する大規模な展覧会では、しばしばこうしたカタログの違いが生じます。これは日本に回ってくる国際的な巡回展の場合でも同じ。展覧会のカタログは全部がそのまま翻訳されたもので、内容については同じだろうと考えていると間違えることがある、という教訓。

コズロフはダーラム大学のオリエント博物館に収蔵されているペルパウティ Perpawty(ペルパウト、ペルポー、あるいはパペルパ)とその妻であるアディ Ady の木製の家型木箱について解説を書いています(英語版:pp. 285-7、フランス語版:pp. 250-2)が、この中でボローニャの考古学博物館所蔵のペルパウティの同型の家型木箱との比較もしており、美術様式から見るとボローニャの方が時代は早いのではと記しています。布を納めるための家具の木箱の外側に施された彩色のモティーフが良く似ているので、ペルパウティが年を経た後に、今はボローニャが収蔵している最初に造られた箱を職人に見せ、同じ物を作れと命じてダーラム所蔵の木箱ができたのではないかという推測を述べており、非常に興味深い考察。3000年以上も前の人間の、同じように見える所有物なのに、時代の新旧が分かるという点が面白い。コズロフが目利きであることが、これで了解されるわけです。
以前にも書きましたが、ペルパウティの遺品についてはイタリアの研究者による論考があり、コズロフとはお互いに研究成果を引用していないから併読が必要。

Patrizia Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monograpfie di SEAP, Series Minor, 2
(Giardini: Pisa, 1991)
pp. 105-130.

ペルパウティについては、Roehrig et al. (eds.) 2005も参照のこと。コズロフとピアチェンティーニの両方を引用しています。

2012年7月23日月曜日

Schiff Giorgini, Soleb [5 vols.] (1965-2003)


ツタンカーメン王の祖父に当たる新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世の治世は古代エジプトの黄金時代であったと言って良く、特にこの王は大規模な記念建造物を各地にたくさん建てました。第19王朝のラメセス2世は「建築王」としばしば呼ばれましたが、アメンヘテプ3世による派手な活動の真似をしていたらしく、新王国時代において本当の「建築王」の名に値するのはアメンヘテプ3世であるように感じられます。
アブー・シンベルの正面に並ぶ4体の巨像を発想した源は、アメンヘテプ3世の葬祭殿の前に置かれていた一対のメムノンの巨像。この葬祭殿は、カルナック神殿を凌ぐ最大規模を誇っていただけでなく、ナイル川の増水によって水浸しになる場所へ故意に建立されていた点がアメンヘテプ3世の建築の見どころです。ここでは古代エジプトの神話で語られる「原初の丘」を、とてつもない大きさでいきなり現世に実現させるという荒業がおこなわれました。

A. P. Kozloffが最近、この王に関する本を出しました(Amenhotep III: Egypt's Radiant Pharaoh, Cambridge 2012)けれども、註の振り方を見るだけですぐに了解される通り、これは一般向けの書。この種の先駆けは以前にも触れた通り、

Elizabeth Riefstahl,
Thebes: In the Time of Amunhotep III.
The Centers of Civilization Series
(University of Oklahoma Press: Norman, 1964)
xi, 212 p.

となります。今から見ると不備が目立つかもしれませんが、テーベを舞台として纏められた佳作。A. P. コズロフはこの王に関する知識を膨大に有している研究者で、先行研究に対する意識は高いはずですから、このRiefstahl 1964の他、Fletcher 2000Cabrol 2000に対し、制限された紙幅の中でどう書いているかが眼目になるかと思います。
20世紀の終わりからアメンヘテプ3世について包括的に述べた展覧会のカタログや研究書は矢継ぎ早に出されており、その代表的なものはBerman (ed.) 1990Kozloff, Bryan, Berman, et Delange 1993O'Connor and Cline 1998、そして500ページを費やしている前述のCabrol 2000などでしょうか。

あまりにもたくさんのアメンヘテプ3世による建物があるために、報告書の刊行は全体として遅れていますけれど、全5巻によるソレブ神殿の報告書の刊行が21世紀の初頭に完結し、スーダンに残るこの遺構の全貌をようやく知ることができるようになりました。
全部で1500ページを超える量です。

Soleb [5 vols.] (1965-2003)

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb I: 1813-1963
(Sansoni: Firenze, 1965)
viii, 161 p., plan.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant,
Soleb II: Les nécropoles
(Sansoni: Firenze, 1971)
vii, 407 p., 17 planches.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb III: Le temple. Description.
IF 892, Bibliothèque générale (BiGen) 23
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2002)
vi, 446 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb IV: Le temple. Plans et photographies.
IF 910, Bibliothèque générale (BiGen) 25
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2003)
vi, 264 p.

Michela Schiff Giorgini,
en collaboration avec Clément Robichon et Jean Leclant; préparé et édité par Nathalie Beaux,
Soleb V: Le temple. Bas-reliefs et inscriptions.
IF 807, Bibliothèque générale (BiGen) 19
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 1998)
xviii, 335 planches, 21 p.

途中で出版社がフィレンツェからカイロ、というよりもIFAOへと変わっている点に注意。この経緯はエジプト学者たちのメーリングリストである Egyptologists' Electronic Forum (EEF) にて報告されたりもしました。
最初の第1巻と第2巻がフィレンツェから刊行の後、30年近く経ってから壁画を報告する第5巻が出ています。建築関連の第3巻と第4巻はさらに遅れて刊行。このように幾冊にもわたる報告書の出版社が途中で変わることは時折見られ、D. B. RedfordによるAkhenaten Temple Projectのシリーズもそのひとつ。
建築に関わる人間にとって最も知りたかった建造過程の変遷は、2003年に正式に明らかにされています。概要はしかし、海外での巡回展「アメンヘテプ3世」のカタログにより先んじて、一般にもすでに公開されていました。
他の建物と同じく、ソレブ神殿もかなり計画が変更された痕跡がうかがわれ、拡張の度合は尋常ではありません。アメンヘテプ3世が「メガロマニア(誇大妄想狂)」と言われる所以です。

国立情報学研究所によるGeNii(ジーニイ)Webcatのページで、読みたい海外書籍を日本のどの研究機関が所蔵しているかどうか、検索することをもっぱら続けている方がいらっしゃるかもしれない。
今、この"Soleb"の報告書をGeNiiのサイトで検索すると該当するものがなく、その結果からこの本が日本には無いと判断されがちです。しかし例えば早稲田大学図書館のページで検索すると、5冊ともちゃんと所蔵されていることが分かります。
国立の研究所が率先して構築しているデータベースだからといって、それを丸ごと信じてはいけません。研究者たちはそういう漏れがあることをあらかじめ織り込み済みでこの種のデータベースを用いています。データベースには出てこなくても、国内で持っているところが必ずあるはずだという心当たりがある場合、専門家に聞くべきです。こういうことは、卒業論文などを纏めようと志す者にとって重要な点になるかもしれません。
いかに身近の専門家を捕まえて、根掘り葉掘り聞くことができるかが大切かと思われます。

2012年7月21日土曜日

Lee 1992


ツタンカーメンの王墓の発掘の際にハワード・カーターを助け、出土遺物の保存修復に力を注いだ人物の伝記。アーサー・メイスは「ツタンカーメン発掘記」全3巻本の発刊当時、カーターとの共著者でした(cf. Carter [and Mace] 1923-1933、またMace and Winlock 1916)。
メイスはエジプト学の創始者であるフリンダース・ピートリPetrie 1892Petrie 1894Petrie 1897)と遠縁の従兄弟という関係があって、それ故に1897年、ピートリの助手としてエジプトへ初めて出かけます。この頃はピートリがデンデラやアマルナで調査をする時期に相当しますから、大きな現場を次々にこなしていくことを強いられたと思われます。
最初は何も分からず、おたおたしていたらしいのですが、次第に実地でピートリ流の発掘方法を覚え、その後にG. A. ライスナーの手助けやメトロポリタン美術館のスタッフに加わるなどの活躍を見せ、ピートリのやり方がアメリカに伝わっていくわけです。
それにしても、ピートリの現場はかなり過酷であったらしい。調査中の粗食と空腹感に耐えることができなかったエピソードが伝えられています。

Christopher C. Lee,
...the grand piano came by camel:
Arthur C. Mace, the neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing: Edinburgh and London, 1992)
160 p.

Contents:

Preface (p. 11)

Foreword by Marsha Hill (p. 13)

Chapter One: A Country Childhood (p. 15)
Chapter Two: With 'the great man' (p. 31)
Chapter Three: 'The ideal excavator' (p. 57)
Chapter Four: 'It takes one's breath away' (p. 81)
Chapter Five: 'A beautiful wonderful party...' (p. 113)
Chapter Six: After Tutankhamun (p. 137)

References (p. 151)
Bibliography and Sources (p. 157)
Index (p. 159)

メトロポリタン美術館(MMA)のマーシャ・ヒルが前書きを書いており、メイスがMMAにていかに重要な存在であったかを簡潔に記しています。「メイスの仕事はさまざまな人に今、受け継がれています」と書いていて、

"Only today can we foresee that Mace's archaeological work will be completed - the Lisht North cemetery by Janine Bourriau, the pyramid itself by Dieter Arnold, and the village by Felix Arnold."
(p. 13)

と分担者の実名が出ている箇所があります。フェリックス・アーノルドの名をこの本の中で見るとは思いませんでした。彼は1990年にControl Notes and Team Marksを出版しており、この時20歳ぐらいであったように覚えています。

ピリオドの連続で始まる本のタイトルは稀有であり、また全部が小文字という記法も珍しい。こういうものを引用する際は、書誌の表現に迷います。アカデミックな本の題とは異なり、小さい私的な呟き(この場合にはメイスの長女による呟き)をそのまま題にしたかった、という意図なのでしょう。

「...グランドピアノを駱駝が運んできた」という変わった本の題は、一枚の写真から着想されており、それは本のカバーの裏表紙の他、62ページにも印刷されています。メイスの奥さんの持ち物であったベヒシュタインのグランドピアノを、1900年台の初頭にリシュトの調査宿舎まで駱駝で運んだという逸話があり、それを写した昔の写真を見てメイスの娘が懐かしく語り始める、という本の構成。
メイスはリシュトの発掘に長く携わった人間でした。厳しい環境下にある発掘現場に奥さんを同行し、また彼女の大きな所有物も構わず持ち込むという、今では考えられない調査方法を知ることができます。
この本はだから、メイスの長女がどう生きたのかを示すものでもあります。最後に彼女の写真が大きく掲載されているのはその証拠。

イギリスの片田舎で見つかったメイスの手紙と日記、また草稿などをもとにして展覧会が開かれ、その直後にまとめられた本。ほとんど同じ題でもっとページ数が少ない刊行物が1992年よりも前に出されていますが、この本は決定版という位置づけです。
アーサー・メイスの長女による父親像が多分に反映されていて、伝記といってもこの近親者からの聞き取りに負う部分が大きく、歪みが見られます。本の題名の"neglected"「無視された」というのは非常に強い言い方ですが、メイスの肉親にとってはそう思えるのでしょう。ハワード・カーターのみが注目されている、というように。それは世の中の人間のほとんどが抱くであろう、「無視されたまま」人生を終わるのではという不満を間接的に指し示しているのかもしれません。
本当はエジプト学をやりたかったんだけれども、F. Ll. グリフィスと会った際の試問で、メイスの長女はこの夢を断念したようです。「拒まれる」ことに遭遇したたくさんの人々が、失望にどのように対処するのか、それがこの本に通底する隠れた広いモティーフと言えないこともない。

そうした視点から見れば深く示唆されるところが多く、ツタンカーメン関連の撮影で高名な写真家ハリー・バートンの奥さんがいかにひどくて悪評ばかりであったことや、メイスがカーターに対して「こいつ、何も分かっていないのに人々の前で講演なんてできるのか」と思ったことを手紙に残している下り、またテーベの大規模な発掘だけを進めたがるメトロポリタン美術館の同僚のH. E. ウィンロックとの立場の違いなどがあられもなく記されていますけれども、そうした誰の間にでも生じる些細なすれ違いは時代を経て洗い流され、エジプト学にどのような貢献があったかという公平な評価だけが今は残されていることを改めて感じます。
エジプト学の大御所や有名人が次々に出てくるので、事情を知っている人には面白いはず。

メイスが結婚前に「エジプト学者などと一緒になるのか?」と相手側の両親から疑問が向けられていたこと、メイスの奥さんが完全主義で、どうやら連れて行った発掘現場でもいろいろな揉め事があったらしいこと、生まれた次女がダウン症であったこと、メイス自身が頑強な身体ではなかったこと。
これらに追い打ちをかけて「自分は使われる一方ではないのか」という疑念。これからの生活は一体どうなるのかという健康上あるいは経済上の不安を抱えながら仕事に赴くメイスの姿が活写されており、別の普遍的な問題が浮彫にされているようにも思えます。

メイスに関する最近の紹介は、以下を参照。続編を読むのが楽しみです。

http://www.egyptological.com/2012/05/arthur-cruttenden-mace-taking-his-rightful-place-8940

ハワード・カーターの醜聞については、邦訳されているトマス・ホーヴィング著、屋形禎亮・榊原豊治訳「ツタンカーメン秘話」がすでに知られています。版を重ねている著作。

リーの本が出た同じ1992年にはハワード・カーターの伝記が発表されており、今ではこちらも改訂版も出ています。亡くなってしまった大英博物館の重鎮、T. G. H. ジェームズの主著書のひとつ。彼はA. H. ガーディナーの伝記を晩年に執筆中であったと伝えられていますが、出版されないのは残念。

Thomas Garnet Henry James,
Howard Carter: The Path to Tutankhamun
(Kegan Paul International: London and New York, 1992)
xv, 443 p.

大学者ピートリの伝記は1985年に刊行されています。

Margaret S. Drower,
Flinders Petrie: A Life in Archaeology
(Victor Gollancz: London, 1985)
xxii, 500 p.

上記の2冊については、専門誌に書評が寄せられているはずです。
さてピートリとともに歩み、「魔女の研究」で注目を浴びたマーガレット・マレーの自伝も、度肝を抜く面白い題名を持ち、良く知られています。

Margaret Murray,
My First Hundred Years
(William Kimber: London, 1963. 2nd ed.)
208 p.

自伝につけられた「私の最初の百年」という題は、長生きしたこの研究者の業績にふさわしい。彼女は次の百年以降も、変わりなく生き続けるつもりだったんでしょう。恐るべき存在。マレーこそ正真正銘の「魔女」であったことが分かります。

2012年7月19日木曜日

Valloggia 2011


早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。

上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。

Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)

Texte: Table des matières

Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)

Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)

Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)

Conclusion (p. 87)

Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)

Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)

Bibliographie (p. 131)

Indices (p. 139)

Table des matières (p. 145)

上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。

意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば

「治世第1年、ペレト期第3月…」

というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では

"An III, 3e mois de per(et)..."

と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。

クフ王のピラミッドの脇に設けられた船坑(ボートピット)の蓋石にはラージェドエフ王の名前も以前見つかっていて、これはBeiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeiträgeBf:ただし本書ではBÄBAと略), Heft 12 (Franz Steiner: Wiesbaden, 1971)で発表された報告で注目されたところですけれども、そこから転載された文字列「治世11年、ペレト期第1月24日」が図版編のFig. 3にて紹介されています。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。

ピラミッド時代における代表的な遺構を残したクフ王とカフラー王との間を生きたジェドエフラー王のピラミッドですから、相互の詳しい比較が今後、進められるのでは。ピラミッドの地下に唯一設けられた玄室へと続く下降通路の勾配も、長さが2に対して高さが1という2:1の傾きで、注目されます。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。

Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm

Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century: 
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.

斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。

ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。

岩盤をある程度掘り下げて造られたピラミッドですから、掘り下げる前の初期の設計ではどうだったのか、追究する必要があるかもしれません。たった1.5メートルほどの違いなのですけれども、3次元の巨大な立体物をどのように計画したのかを考えようとする場合、その細部が気になります。

27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に触れられています。
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。

古代語による文字史料を直接読解することから論考を始めている数学者Imhausen(cf. Imhausen 2003、またImhausen 2007)は、古代エジプトにおいてこの「聖三角形」が本当に知られていたかについて懐疑的であり(Robson and Stedall [eds.] 2009)、こうした基本的な点について専門家の間でも未だ意見の一致を見ていないということは、声を大にして言っておかねばなりません。
古代エジプト建築研究に携わる人間でも、3-4-5の比例による三角形は地割にて直角を導くために古代エジプトでも用いられたであろうと安易に判断している研究者はけっこういるわけです。

"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)


つまりエジプト学者たちは、エジプトにおける実際の遺構で3:4:5となる実測値をかなり昔から複数見つけているにも関わらず、「それが後代のピタゴラスの定理と結びつくはずであり、建築に応用した先駆けは古代エジプトである」という見方に関し、非常に慎重な姿勢をずっと取り続けているということです。
この事態を、「考古学者たちに数学の美しさが分かるはずはない」という一言で片づけるのは簡単。しかし長い時間にわたってこだわり続けられているそのモティーフを丁寧に追うことなしに、問題の解決が図られるとは到底思えません。
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。

2012年7月17日火曜日

Iversen 1993 (First Published in 1961)


30年以上経ってから再版されたイヴァーセンの著作。イヴァーセンについてはIversen 1968-1972や、あるいはヨーロッパにおけるオベリスクの受容史を述べた分厚いCurran, Grafton, Long, and Weiss 2009、あるいはRobins 1994を参照のこと。

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs in European Tradition
(Princeton University Press: Princeton, 1993. First published in 1961, Gec Gad Publishers, Copenhagen)
178 p.

Contents:

Preface (1993) (p. 7)
Preface to the First Edition (p. 9)
I The System of Hieroglyphic Writing (p. 11)
II The Classical Tradition (p. 38)
III The Middle Ages and the Renaissance (p. 57)
IV The Seventeenth and Eighteenth Centuries (p. 88)
V The Decipherment (p. 124)

Notes (p. 147)
List of Illustrations (p. 169)
Index (p. 173)

本の裏には紹介文が面白く書かれており、

"This is the story of a creative misunderstanding: an erroneous interpretation of the traditions of ancient Egypt became a rich source of inspiration for Europeans from ancient times through the medieval and Renaissance periods to the Baroque era. The misguided notion that hieroglyphs were allegorical, and that they constituted a sacred writing of ideas, exerted a dynamic influence in almost all fields of intellectual and artistic endeavor, as did conceptions of Egypt as the venerable home of true wisdom and of occult and mystic knowledge."

と記してあって、"misunderstanding", "erroneous interpretation", "misguided notion"と続けざまにネガティブな言葉が並べられ、それらの試行錯誤がついにはヒエログリフの解読に繋がったという粗筋が明らかにされています。
自分の知っている見方を、異なった文化の人間に押し付けて解釈するのは良くあること。その過程が歴史の中で淘汰され、次第に両極端の見解が近づき、共通の理解へと収斂していくさまがテーマとなっています。エジプト学の歴史はナポレオンの「エジプト誌」によって始まるとは良く言われますが、それより以前の思考過程については、これから詳細が明らかにされていくのでは。

再版のための序文の中で、フランシス・イエイツ Frances Yates の著作に触れられている点は注目されます。
彼女の本は日本語訳もけっこう出ているから、ここでは述べません。しかしエジプト学者にとって重要なのは、文字の解読に関しては片づいたものの、ヘルメス学(主義)の源流を古代エジプト文明に遡らせるかどうかの判断であって、多くの者は慎重な態度を取っています。
「化学 chemistry」や、錬金術の「アルケミー alchemy」などの語については古代エジプト語の「ケメト "kmt"; kemet」に由来するということは率先して語りながら、直接的な関連についての論理的な防御がきわめて堅いのが特徴。Trigger 1993でも、「エジプト学者は古代エジプト文明を独自なものと思い込んでいる」という批判が見られました。

建築でいうと、ルービッツ R. A. Schwaller de Lubicz のような考え方に対し、どのような反駁が具体的にできるかということになります。黄金比(1:1.618...)や円周率(1:3.14...)が古代エジプト建築の計画方法において考慮されたという諸論は今日でも語られており、Kemp and Rose 1991のような回りくどい説明が必要になっている原因。論の差異と言うものが、明快に指摘されていません。Rossi 2004の欠点があるとするならば、そこにあるかとも思われます。
いくらかの年月が、まだかかるのかもしれません。

2012年7月9日月曜日

Caminos 1954 (Caminos LEM)


リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。

カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。

ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、

Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.

を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。

このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに

"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)

とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。

Gardiner LEMCaminos LEMは、たとえば

Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)

などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。

Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.

Contents:

Preface (vii)

I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)

Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)

Additions and Corrections (p. 512)

Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)

屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、

「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」

が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。

「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)

という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。

しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、

Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.

に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。

あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。

別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。

2012年7月8日日曜日

Uphill 1972


エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。

Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf

死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。

ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。

以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。

アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。

古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。

Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.

Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.

なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。

Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.

2012年6月18日月曜日

Yegül 1995


古代ローマの公共浴場については、20世紀末期に出版された包括的な専門の研究書が注目されます。
公共浴場を示すテルマエ thermae は古代ギリシャ語の「テルモス(温かい)」が語源で温浴場の意味。体温計を意味する英語のサーモメーター thermometer や温度を調節する器械であるサーモスタット thermostat などの他、日本の医療会社の名前「テルモ」のもととなっているようです。
テルマエ・ロマエ Thermae Romaeというように、thermaeは複数形をとるのが通例。この場合、女性名詞の地名Romaの地格が続き、それはこの語の単数属格と同じです。

共同浴場 thermae はひとつの大きな建物内に複数の男女別、またカルダリウム caldarium(高温浴場)、テピダリウム tepidarium(温浴場)、フリギダリウム frigidarium (冷浴場)を備え、温度が異なる3つの浴場を備えたという点が面白いところ。
frigidariumというラテン語の綴りから「冷蔵庫 refrigerator」の英語の綴りを直ちに思い出された方は鋭いと思います。日本語で「冷たい」という意味の語根を共通して持っています。

「公共浴場」という名称から思い起こされる範疇を超えて、ここには走り回るための陸上競技走路が設けられることもありました。フィットネス・ジムと、その後の疲れの癒しのため利用するスパが合体された豪華な施設、あるいは温泉健康ランドの原型が、はるか昔からあったというわけです。
Delaine 1997では、大規模なカラカラ浴場の建造過程と、これを建てるために必要な資材と労力を積算するという試みがおこなわれており、とても注目される著作。
なお、共同浴場の具体的な平面の設計方法についてはWilson Jones 2000にて分かりやすく図解されています。

しかし下記の労作も重要で、500ページを費やし、古代における共同浴場の全般を記しています。こういう本は長い間、待たれていました。

Fikret Yegül
Baths and Bathing in Classical Antiquity
(Architectural History Foundation and the Massachusetts Institute of Technology, New York, 1992)
ix, 501p.

個別の遺構の報告ということであるならば、近年の例として

Andrew Farrington
The Roman Baths of Lycia: An Architectural Study.
British Institute of Archaeology at Ankara, Monograph 20
(British Institute of Archaeology at Ankara, London, 1995)
xxv, 176p., 202 plates.

が挙げられると思います。

2012年6月2日土曜日

Lavin 1992


カトルメール・ド・カンシーに関する博士論文を刊行した書。カトルメール・ド・カンシー Quatremère de Quincy はエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts 国立高等美術学校)において有力者であった人ですが、古代エジプト建築に関し、早い時代に評論を書いたことでも名を残しています。ナポレオンの「エジプト誌」が刊行される前の18世紀末の話。

Lavinの博士論文の主査を務めたのはコロンビア大学のロビン・ミドルトン Robin Middleton で、高名な建築史の研究者。謝辞の中には建築評論家ケネス・フランプトン Kenneth Frampton の名もうかがわれます。Lavinの面白そうな近著も出ていますが、いずれまたの機会に。

Sylvia Lavin,
Quatremère de Quincy and the Invention of a Modern Language of Architecture
(MIT Press, Cambridge, Massachusetts and London 1992)
xvi, 334 p.

Contents:

Acknowledgments (viii)
Preface (x)

Introduction: Quatremère de Quincy and the Genesis of the Prix Caylus (p. 2)

I. Origins (p. 18)
II. Architectural Etymology (p. 62)
III. The Language of Imitation (p. 102)
IV. The Republic of the Arts (p. 148)

Conclusion: The Sociality of Modern Language of Architecture (p. 176)

Appendixes A-E (p. 186)
Notes (p. 200)
Bibliography (p. 292)
Index (p. 328)

古代エジプトの神殿の空間構成について、「奥へ行くに従って部屋が小さくなる。床面も徐々に上げられ、天井は少しずつ下げられる。同時に室内へ導かれる光も限定されていく」と説明するやり方は今でも良く見られ、もう通俗化していると言ってもいいと思われますが、これは19世紀末期にショワジーがすでに述べていること(Choisy 1899)。ここ100年以上、言い方が変わっていないわけです。

"Dans la plupart des temples, à mesure qu'on approche du sanctuaire, le sol s'élève et les plafonds s'abaissent, l'obscurité croît et le symbole sacré n'apparaît qu'environné d'une lueur crépusculaire."
(Choisy 1899: I, 60)

でも最初の頃は、かなり違った捉え方がなされていたらしく思われます。
カトルメール・ド・カンシーは1785年、古代エジプト建築に関する論文の公募に応じましたが、後にこの論文の改訂と増補をおこない、ページ数を倍増させて1803年に出版。両者の間ではかなりの内容の変更がうかがわれ、Lavinのこの本は彼の思想の劇的な変転とその後の展開に焦点を当てています。当初書かれたカトルメールの論文を読み解いて、古代エジプトの神殿に関し、Lavin

"Egyptian temples, according to Quatremère, were an assemblage of porticoes, courts, vestibules, galleries, and rooms, one linked to the next and the whole enclosed by a wall. This multiplicity of parts, while apparently an exception to the rule of uniformity, was in fact its product. He contends that this internal subdivision was created intentionally to counterbalance the lack of variety offered by the model of the original cave dwelling but that its effect was reduced by the absolute and repetitive regularity with which the separate units were distributed."
(Lavin 1992: 25-6)

と記しており、興味が惹かれます。ショワジーによる論述との差異は明らか。カトルメールの論文は、フリーメーソンに大きな影響を与えたことが建築史家カールによって指摘されています(Curl 1991)。
建築装置として、さまざまに異なったものが長軸上に並べられていたとするカトルメールの見方を、たとえば

A - B - C - D - ...

と表記することができるとするならば、ショワジーの観点は

A - A' - A'' - A''' - ...

とあらわすことができ、この違いがきわめて面白い。
出版されたカトルメールの論考は、ダウンロードして読むことが可能。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
De l'architecture égyptienne: considérée dans son origine, ses principes et son gôut, et comparée sous les mêmes rapports à l'architecture grecque.
Dissertation qui a rempotré, en 1785, le prix proposé par l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres
(Paris, 1803)
xii, 268 p., 18 planches.
http://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/quatremeredequincy1803

初稿に関しては、LavinがAppendix Bの中で言及。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
manuscript (Archives de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, Prix Caylus, 1785, MS D74)

なおLavinの本が出版された同じ年に、下記の論考が日本で刊行されています。

白井秀和
「カトルメール・ド・カンシーの建築論:小屋・自然・美をめぐって」
(ナカニシヤ出版、1992年)
171 p.

2012年4月2日月曜日

Tosi 1999


古代エジプトにおける貴族墓に収められた数々の副葬品の量と質によって、彼らが当時占めていた社会的な地位の高さが推し量れるのではないかという論議は昔からありましたけれども、それを数理学的に扱えないかという問いがあって、その土台を構築したのがJ. Janssenの主著。
Janssen 1975については、すでに別の項にて触れたことがありました(Janssen 2009)。ここで再び挙げておきます。
Janssenは惜しくも近年亡くなりましたが、J. Cernyによる研究のモティーフを正しく継承し、「メディーナ学」とも言うべき分野を新しく打ち立てた人。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)と呼ばれるこの小さな村落の様態を対象として、古代エジプト人の生活の解明に人生を捧げた研究者でした。
CernyJanssenの両名が成し遂げた仕事の重要性は、これから後、さらに深く討議されることとなるように思われます。

Jac. J. Janssen,
Commodity Prices from the Ramessid Period:
An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes

(E. J. Brill, Leiden, 1975)
xxvi, 601 p.

例えばテーベの新王国時代の貴族墓において、家具や「死者の書」のパピルスが収められていたならば、それは社会的に、より地位が高かった証拠とみなされています。これは特定の物品の有無、あるいはそれらの個数によっての判断。
一方でラメセス時代を主としたテーベにおける物品の相対的な「価値」というものが上述したJanssenの著書によって判明していますので、これに基づいて墓に収められた一切の副葬品の、おおよその「価値」を求めることが可能となります。石灰岩片に記された多数の文字資料(オストラカ)の読解によって、このことが明らかになりました。

ここで注意すべきは、「デベン deben」として示される価値が新王国時代末期のテーベ、もっと正確に言うと、ディール・アル=マディーナという狭い村の中でのみでしか認められないという制約がある点で、これを他の時代、あるいは同時代の他地域に拡張し、ものごとを言うことは困難です。
「貨幣の成立」という、世界史における大きな問題に対し、この事象がどこまで関わるのかについては、B. J. Kempによる主著の初版が刊行された際にJanssenが書評で要点を述べているはず。
ここには当時良く読まれたポランニーなどの考え方も関わっており、今後も検討が重ねられるかと思います。

Janssenの考えを受け、当時の副葬品の価値を「数値」として換算し、墓内における品々全部の価値を導こうとした論文が後代に出ること自体は不思議ではありませんでしたが、M. TosiL. Meskellの二人が、ほとんど同じ時期に建築家カーとその妻メリトの墓(TT 8)の副葬品の総価値について発表をおこなっているというのがとても面白い。またその副葬品の、細かい扱いが異なっているのが注目されるべきところ。
何故、カーとメリトという夫妻の墓が選ばれているのか、こういった点にもこの墓の重要性があらわれています。

Mario Tosi,
"Il valore in "denaro" di un corredo sepolcrale dell'antico Egitto",
Aegyptus: Rivista italiana di egittologia e di papyrologia 79 (1999),
pp. 19-29.

Lynn Meskell,
"Intimate archaeologies: the case of Kha and Merit",
World Archaeology 29:3 (1998),
pp. 363-379.

M. Tosiの方がTT 8の副葬品に関する「デベン」の換算をより詳しく表にして記しているので、ここでは彼の論考を当ブログの主題として掲げましたが、二人とも同時期に執筆している論文であるため、当然のことながら参考文献の欄ではお互いの論考をリストアップしていません。これをすれ違っていると見るか、それとも同じモティーフを同時期、知らずに追っていたと見るべきか。
Meskellが書いた本に関しては、前に述べたことがありました(Meskell 2002)。

Menu (2010)のところで挙げたように、第18王朝末におけるオストラカに関しては未だ資料の公開が充分におこなわれていないという難点が指摘されています。近年のDemaréeの論考が重要で、第18王朝末を生きたカーとメリトの副葬品のデベンへの換算に慎重さが必要である所以。
つまり第18王朝末期と第19・20王朝とでは様相が異なる、という含意がうかがわれます。

Robert J. Demarée,
"The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina:
A Preliminary Update,"
in B. Menu ed., L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie:
Colloque AIDEA, Nice 4-5 octobre 2004
(Le Caire, Institut Français d'Archéologie Orientale, 2010),
pp. 185-192.

カー(Kha)とその妻メリト(Merit, or Meryt)の墓における木製遺品の中で、大きなものとしては橇に載せられた木棺や寝台、また墓の入口の扉などがまず挙げられるでしょうか。
その次にはメリトの鬘(かつら)箱といった、非常に特殊でとても大きな木製の箱が注目されるはず。
「デベン」に換算するならば、この特別な鬘箱が一体どのくらいの価値になるのかどうか。こういった問題は、しかし二人とも回避しているように思われます。その点に興味がつのります。

メリトの鬘箱に関する実測調査の結果については以下を参照。

西本直子
「メリトの鬘箱(Inv.S.8493、トリノ博物館蔵)について」、
武蔵野大学環境研究所紀要 No. 1 (2012) [ISSN 2186-6422],

2012年3月30日金曜日

VA (Varia Aegyptiaca) 1985-


Varia Aegyptiaca (VA)は高さ20cmほどの、灰色の表紙を装丁とした魅力的な小冊子。基本的に年3回発行。たぶんエジプト学に関わる専門の定期刊行物の中で、もっとも書誌が良く分からなくなっているもののうちのひとつかと感じられます。
かなり昔のこととなりますけれども、Porter and Moss (PM)の編集をしているJ. Malekがエジプト学者たちのメーリングリストEEFEgyptologists' Electronic Forum)にて、「VAの最新号が何号まで出ているか知りませんか」といった内容を尋ねているのを見て、ああ最も知悉しているはずのこの人でも、やっぱり分からないんだと改めて思ったことがありました。

追跡がさらに難しかった、少数の内輪向けに回覧されたNew Kingdom Memphis Newsletter (1988-1995)などの冊子もありましたが、これらの号は今ではもう、Jacobus van DijkによってPDFで広く配信されています(http://www.jacobusvandijk.nl/NKMN.html)。
この種のものとはわけが違って、VAはれっきとした年3回の定期刊行物。にも関わらず、創刊の時から第1号と第2号との合併号ということになっているのが、どうにも不思議。
編集者はエジプト学者のCharles Cornell Van Siclen IIIで、Van Siclen Booksという出版局をSan Antonioに構え、そこから刊行されています。

Varia Aegyptiaca (ISSN 0887-9026):

Vol. 1, Nos. 1-2 (August 1985)
Vol. 1, No. 3 (December 1985)
Vol. 2, No. 1 (April 1986)
Vol. 2, No. 2 (August 1986)
Vol. 2, No. 3 (December 1986)
Vol. 3, No. 1 (April 1987)
Vol. 3, No. 2 (August 1987)
Vol. 3, No. 3 (December 1987)
Vol. 4, No. 1 (April 1988)
Vol. 4, No. 2 (August 1988)
Vol. 4, No. 3 (December 1988)
Vol. 5, No. 1 (March 1989)
Vol. 5, Nos. 2-3 (June-September 1989)
Vol. 5, No. 4 (December 1989)
Vol. 6, Nos. 1-2 (April-August 1990)
Vol. 6, No. 3 (December 1990)
Vol. 7, No. 1 (April 1991)
Vol. 7, Nos. 2-3 (August-December 1991)
Vol. 8, No. 1 (April 1992)
Vol. 8, No. 2 (August 1992)
Vol. 8, No. 3 [not yet published?]
Vol. 9, Nos. 1-2 (1993)
Vol. 9, No. 3 [not yet published?]
Vol. 10, No. 1 [not yet published?]
Vol. 10, Nos. 2-3 (August-December 1995 [1997])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part I
Vol. 11, No. 1 (April 1996 [1998])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part II

第5巻では第4号が出ています。え、年3回発行のはずなのに。
エジプト学に関するすべての文献の収集をめざしているはずのOnline Egyptological Bibliography (OEB)を検索しても、果たして第8巻第3号や第9巻第3号などが出ているのかどうか、今なお不明なままです。しかしこういう点こそが面白いわけで、ヴァン・シクレンが既成の由緒ある諸雑誌とは別に、もう少し小回りの利いた定期刊行物を独自に出そうとした大きな志が重要。それとともに、編集作業の先を見て号数を飛ばしたものの、結局は出版が遅れている号があるという変則的な雑誌刊行の捻れが興味深い。
個人的には、エジプト学の興隆を強く願っているところをまず見るべきだと思います。

本来は1995年に出されるべきものが1997年に刊行された、第10巻第2-3合併号所収のPeter Der Manuelianの論文などについてはPDFが出回っていますが、そこではこの時点で"8/3 and 9/3 are not yet available"と印刷された出版社による巻末の告知のページまでもが含まれていて、当該雑誌の書誌に関する貴重な情報が得られます。
VAに関する分かりやすい一覧はネットでうかがわれないようでしたので、急遽作成してみました。ここで欠号として挙げているものについて、海外の研究機関にて実見された方より、訂正事項を詳しく御教示いただけましたら有り難い。

Z. Hawassによるギザのピラミディオンの報告を調べていく過程で偶然、VAの欠号に気づいたのですけれども、こうした空隙が何を意味するのか、改めて考えたくなります。
学者によってすでに言及されている点を追うことはこの時代、ネットが急速に展開して以来は容易くなっているのですが、「彼らによって書かれていないこと」は、ではいったいどう見つけ出すのか。古くて新しい問題。もちろん研究というのは「誰もやってないことを見つけること」なのでしょうけれども、思わぬ陥穽があるようで。

VAは10年以上にわたって続けられた雑誌で、できれば十全な刊行を応援したいところ。
なお、別巻も刊行されています。

Supplement 1
Thierry Zimmer, Les grottes des crocodiles de Maabdah (Samoun): Un cas extrême d'analyse archéologique
(San Antonio, Van Siclen Books, 1987).

Supplement 2
Hans Goedicke, Studies in "The Instructions of King Amenemhet I for his Son", text and plates, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1988).

Supplement 3
Sheldon Lee Gosline, Bahariya Oasis Expedition, Season Report for 1988, Part I. Survey of Qarat Hilwah.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1990).

Supplement 4
Adel Farid, Die demotischen Inschriften der Strategen, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1993).

Supplement 5
Hans Goedicke, Comments on the "Famine Stela".
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

Supplement 6
Anthony J. Spalinger, Revolutions in time: Studies in Ancient Egyptian Calendrics.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

2012年3月5日月曜日

Rammant-Peeters 1983


OLAのシリーズの中の知られた一冊。
新王国時代の神殿型貴族墓(tomb chapel:トゥーム・チャペル)の背後には、せいぜい高さが数メートルの、小さな規模のピラミッドが造られました。かつてピラミッドは王の墓であったわけですが、新王国時代に至るとその伝統が途絶え、代わりに貴族たちが真似して小さなものを建て始めます。
情報が錯綜しがちなのは、小さなピラミッドのかたちを「ピラミディオン」と言う点で、古王国時代の大きなピラミッドで最後に設置される四角錐の頂上石をこう呼ぶとともに、新王国時代の小さなピラミッドの全体もまた「ピラミディオン」と記されたりします。さらには、新王国時代のこの小さなピラミッドに置かれる頂上石も専門家によって「ピラミディオン」と名付けられており、混乱を招きやすい状態です。
ここで扱われるのは、新王国時代に建造された小さなピラミッドの頂上に置かれた四角錐の建材で、銘文や図像が記されているため、古代エジプトの葬制に関わる重要な史料となるわけです。

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Departement Oriéntalistiek, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

Table des matières

Introduction (ix)
Bibliographie et liste des abréviations (xiii)

Première partie. Inventaire des documents (p. 1)
I. Pièces conservées dans les musées. Doc. 1-72 (p. 3)
II. Pièces et fragments conservés à Deir el-Médina. Doc. 73-92 (p. 80)
III. Pièces dont le lieu de conservation est inconnu. Doc. 93-107 (p. 92)
IV. Mentions à ne pas retenir (p. 101)

Deuxième partie. Étude des documents (p. 103)
Chapitre I. Technique (p. 105)
Chapitre II. Provenance (p. 113)
Chapitre III. Décoration (p. 121)
Chapitre IV. Évolution chronologique (p. 133)
Chapitre V. Inscriptions (p. 139)
Chapitre VI. Fonction architecturale (p. 165)
Chapitre VII. Signification religieuse (p. 176)
Chapitre VIII. Orientation (p. 192)

Appendice: La documentation de Deir el-Médina (p. 202)
Index (p. 211)
Planches (p. 217)

出版されたのはもう30年ほど前となり、この後にいくつものピラミディオンが発見されているので改訂が望まれます。
建築の見地からは、最後の図46と図47が何を意味するかが貴重。
史料ではピラミディオンの4つの底辺を掲げており、長さが正確に同じでないことが明らか。正面から見た長さの方が、奥行よりも長い場合があって、いい加減といえばいい加減です。ピラミディオンの底辺の長さの1/2と高さとの比を挙げたのが図47になりますけれども、これはリンド数学パピルスで見られるセケド(skd; or sqd)を勘案して考察をおこなった結果で、さらなる研究が必要となるでしょう。
しかしピラミディオンの4つの斜面は曲面であることも多く、角度に関する判断は難しい。具体的な数値が記されていますが、これらの情報のさばき方が建築に携わる者にとって大きな問題となります。

2012年1月31日火曜日

BACE 22 (2011)


The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology
(BACE), Vol. 22 (2011)が送られてきました。 背表紙に紙が貼ってあり、誤って2008年と印刷された発行年が2011年に訂正されています。珍しいミス。
なお、ACEのHPを見たら、1〜21号までの全目次が掲載されており、とても有用。

この雑誌、早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されていますが、webcatには反映されていないように思われます。
目次を記しておきます。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology, Vol. 22 (2011)
158 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian Bowen,
"The 2011 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

John Burn,
"The Pyramid Texts and Tomb Decoration in Dynasty Six:
The Tomb of Mehu at Saqqara" (p. 17)

Vivienne G. Callender,
"Notes on the Statuary from the Galarza Tomb in Giza" (p. 35)

Julien Cooper,
"The Geographic and Cosmographic Expression t3-nTr" (p. 47)

Jennifer Cromwell,
"A Case of Sibling Scribes in Coptic Thebes" (p. 67)

Arlette David,
"Devouring the Enemy:
Ancient Egyptian Metaphors of Domination" (p. 83)

Miral Lashien,
"Narrative in Old Kingdom Wall Scenes:
The Progress through Time and Space" (p. 101)

Silvia Lupo and Maria Beatriz Cremonte,
"Upper Egyptian Vessels at Tell el-Ghaba, North Sinai:
Local Elite Sumptuary Objects" (p. 115)

Samah Mahmood,
"Dating an Oil Lamp of Multicultural Design" (p. 129)

Anna-Latifa Mourad,
"Siege Scenes of the Old Kingdom" (p. 135)

最後の論文が面白かった。註が130以上も付されています。砦を包囲して攻略するため、はしごを高い城壁の外側からかけたりするのですが、このはしごの下には車輪がついており、移動が可能なように造られているのは明らか。「車」というものはこの時代、確かに知られていたわけです。
しかし古代エジプトにおいて、石材の運搬は車輪のついた台車に載せておこなわれたとは考えられていません。Arnold 1991の中で指摘されている通り。古代ギリシアの場合とは大きく違います。

車輪の有用性は知られていたのに、運搬用の台車や、重いものを引き上げるための滑車がなぜ活用されなかったのか。ここには堅い鉄という金属が、人間の歴史にとっていかに画期的であったかが関わってくると考えられています。古代エジプトでは銅や青銅をもっぱら用いる時代が長く続き、溶解させるに当たって非常な高温を必要とした鉄を扱うことが困難でした。
車軸や滑車の軸に青銅を用いても、荷重で簡単に曲ってしまい、役に立たなかったであろうという見方が支配的です。
しかし、古代エジプトだけは鉄の導入が遅れたとする解釈に対し、金属史の専門家からは「痕跡が見つかっていないだけではないのか」という反問が寄せられることもしばしば。

ただツタンカーメン王墓内の遺物やGuidotti (ed.) 2002でも見られるように、馬に引かせる戦車は新王国時代には類例がいくつか知られており、精緻な組み立てによる木製の車輪を見ることができるというのは興味深いところです。

2011年12月31日土曜日

Hartmann 1989


古都エルカブとネクベト女神に関する博士論文。
ドイツに留学中の安岡君が手配してくれ、マイクロフィッシュの形態にて頒布されていたこの論考にようやくアクセスすることができました。
註は1150を超え、初期王朝から神殿が造営されたエルカブの長い歴史を論述しています。 エルカブ(Elkab)、もしくはエル・カブ(El Kab)の表記も、さまざまなかたちがあって難しい。ここでも「ネケブ」は"Nekheb"ではなくてドイツ語表現の"Necheb"となり、ネクベトも"Nekhbet"ではなく、"Nechbet"と綴っています。ネットでの検索に時間がかかる原因。

Hartwig Hartmann,
Necheb und Nechbet: Untersuchungen zur Geschichte des Kultortes Elkab.
Deutsche Hochschulschrifften (DHS) 822
(Dissertation. Mainz 1993)
xx, 404 p., 38 Tafeln.

Inhalt

Abbildungsverzeichnis (vii)
Abkürzungsverzeichnis (ix)
Einleitung (xiii)

1. Das Delta des Wadi Hellal (1)
2. Die ältesten Quellen zur Geschichte Elkabs (14)
3. Der archäologische Befund im Fruchtland bis zum Ende des AR (39)
4. Die Tempelanlage im Fruchtland seit der 1. Zwischenzeit (78)
5. Die Tempelanlagen in der Wüste des AR und NR (129)
6. Die Götter in den Beamtengräbern von Elkab (220)
7. Beiträge zur Verwaltung und Prosopographie von Elkab (267)
8. Resümee und Ausblick (345)

Literaturverzeichnis (349)
Sachindex (377)

Abbildungen

手堅くまとめられたこの考察からはしかし、ネクベトにまつわる研究の広大な領域を改めて思い知らされます。
徹頭徹尾、ネクベト女神に関する図像学との関連を断ち切ることで成立しており、ベルギー隊によって長く調査が続けられているこの都市の歴史については、近年、大英博物館が発行している電子ジャーナルのBMSAESに掲載された論考(Limme 2008)などによっても知られますが、新王国時代以降に造営された多数の石造神殿や王墓といったモニュメントの天井に、両翼を広げたハゲワシの姿で描かれたネクベト画像がいかなる経緯によってあらわされるようになったのかについては不明。

アマルナの労働者集合住居の近くで発見された祠堂では、両翼を広げたネクベト画像が戸口のリンテル側面に描写されていました。その画像の復原がKempWeatherheadによっておこなわれています(Weatherhead and Kemp 2007)けれども、出土した画片が小さいために、全体像として参考にされているのはラメセス時代のものです。
彼らの意識の中では、描かれたネクベト像に格別、時代による様式の変化があったとは考えられていない点が明らか。どれも同じように見えるから当然です。しかし仔細に眺めると、時代が判別できるような相違が認められるように思われ、盲点があると感じられます。

天井画として同じように描写されるネクベトの様式に、実は差異があり、また向きにも法則性があるのではという点は、まだ誰も指摘していないはず。些細に思われることかもしれませんが、こういうところから世界をひっくり返す作業が始められるとも思われます。

Shoukry 2010


マルカタ王宮に関する最新の論考。
「マルカタ」の綴りは、この論文では"Malqatta"となっており、ここにはアラビア語の表音についての普遍的な難しい問題と、地名の意味をあらわす努力、及びマルカタが位置するルクソールの現地での方言の表記の問題が同時にあらわれ出ています。
マルカタ王宮については前にも何回か書きましたけれど、"Malkata"、"Malqata"、"Malgata"、"Malgatta"、"Malqatta"などのヴァリエーションが多数あることが注意されます。

Nermine M. Shoukry,
"Malqatta, une résidence royale d'Amenhotep III à Thèbes-Ouest",
Memnonia, Cahier supplémentaire 2.
Colloque international: Les temples de millions d'années et le pouvoir royal à Thèbes au Nouvel Empire,
sciences et nouvelles technologies appliquées à l'archéologie - Louqsor, 3-5 Janvier 2010.
(Le Caire 2010), pp. 209-227.

この書の目次は、次のサイトで見ることができます。

http://www.mafto.fr/publications/cahiers-supplementaires-des-memnonia/

Memnoniaは比較的若い専門誌で、1990年の創刊。もともとラメセウム(ラメセス2世葬祭殿の通称)の救済を目的として刊行された雑誌でした。緑色の鮮やかな表紙が印象的。その別巻にて国際会議の記録が出版されました。
ここで発表されているShoukryの論考は、ヘルワン大学で執筆されたという博士論文の概要に該当するらしく、このドクター論文が刊行されることを望みます。
マルカタ王宮に関する書誌を、もし手軽にネットで調べるということであるならば、

iMalqata:
http://imalqata.wordpress.com/

のサイトにおける「レポート」の項や、

UCLA Encyclopedia of Egyptology:
http://uee.ucla.edu/index.htm
http://escholarship.org/uc/nelc_uee

における「マルカタ」の項、あるいは

Theban Mapping Project:
http://www.tmpbibliography.com/resources/bibliography_6_other_areas_wb_malqata.html

のページなどがお勧めです。
しかしこうした場合には一次資料をまず提示することが優先されますので、いずれの文献リストにもO'Connor and Cline 1998の中のR. Johnsonによる論考やD. O'Connorの考察、またZiegler (ed.) 2002の中のDorothea Arnoldが書いている論文といったものが紹介されておらず、とても残念。
マルカタ王宮の全体構成を把握するには、本当はこれらの近年の論考から目を通す方が手っ取り早く、また基本的な問題を把握する上で重要だと思われます。
KellerShortlandによる科学分析を主とした論考も、近年は引用される度合いが増えてきました。これらの論文はメトロポリタン美術館による工房の発掘によって出土した遺物に基づいて書かれていますが、実際の工房に関する考古学からの具体的な報告は非常に乏しく、20世紀初期のBMMAの短報、あるいはHayesによるJNESの連続論文による断片的な報告のみが残されているだけで、部分的な再発掘をおこなったKemp and O'Connor 1974との併読が必要です(Site Jに関する記述を参照)。
水中考古学の専門誌に掲載されたこの論文はしかし、国内では入手しづらくて、苦労する文献。iMalqataのサイトでは現在、この論文をダウンロードできる状況にありますが、著作権を考慮せずにアップしていると思われ、いつまで閲覧できるかは不明。

Shoukryの論文でも、挙げられている文献はきわめて限定されています。この国際学会では考古学への最新の科学技術の適用をテーマとしているため、これにあわせて唐突に顔料の化学記号が出てきたりして戸惑いますけれども、この点は仕方ありません。王宮都市の紹介は施設ごとに丁寧な記述がなされています。非西欧の研究者によるマルカタ王宮の考察が進められているという点は、非常に喜ばしい。
マルカタ都市王宮内に建てられた諸施設の建造の順番にも考察が及んだらもっと良かったでしょうが、このトピックは今後、討議されるべき事項。

アマルナ王宮との比較、特に似ているところや共通点を考えることもおこなわれるべきですが、当該分野の権威であるバリー・ケンプが「ふたつの王宮はだいぶ違う」ということをすでに言ってしまっている(Kemp and Weatherhead 2000)ので、本格的に取り組む人はしばらく出てこないかもしれない。
臆することなく、ふたつの王宮を見比べて共通点を指摘するような人が、新しくこれから出てくることを期待しています。

2011年12月29日木曜日

Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]


クフ王のピラミッドに関する測量は、かなり古くからおこなわれていたようです。
でも外形ではなく、ピラミッド内部の計測となると、まったく別の話。

実測の結果に基づいて、オクスフォード大学の天文学者ジョン・グリーヴス(John Greaves: 1602-1652)は17世紀に「ピラミドグラフィア(Pyramidographia)」を著し、世界で初めて大ピラミッド(ギザ台地に立つクフ王のピラミッド)の断面図を公表しました(Greaves 1646)。この人は若い頃に接した計量学の先生の影響を受け、古代建築の基準長の分析に深い興味を抱いていた学徒でもあります。古代ローマの尺度を考えたりもしました。
またアラビア語文献にも通じており、中東への旅行中に、関連書籍の渉猟と収集に努めていたことが知られています。異文化に触れることに楽しみを覚える人だったのではないでしょうか。
こうした少数の者の努力によって、エジプト学の基本的な問題点が切り開かれていきます。

グリーヴスの研究業績をまとめた2巻本は彼の死後、およそ80年経ってからトーマス・バーチの編集によって出版されており、この書が今では無料でダウンロードできます。
編者であったバーチの偉いところは、本をまとめるに当たって関連文献も含めている点です。後世の読者への案内を充分に考えており、このことは貴重でした。グリーヴスの論考が後の人間たちに与えた影響をも具体的に示した結果、最終的にはフリンダース・ピートリというエジプト学の創設者を生み出す契機を促すこととなりました。

グリーヴスの考察に触発されたアイザック・ニュートンによって古代エジプトのキュービット尺の実長が突きとめられ(cf. Newton 1737)、もともとラテン語で書かれていたニュートンの手稿の英訳が、バーチによって本書の中に一緒に収められました。ニュートンはバビロニアの煉瓦を扱っているものの、古代建築の煉瓦の大きさが建物の設計寸法や、全体の煉瓦使用量の積算と関わりがあるのではと問いかけていて、建築学の見地からは重要です。
しかしニュートンのこの手稿は、生前には発表されなかった論文で、書誌はあまり明確ではありません。20世紀になってマイケル・セント・ジョン(Michael St. John)が編集したレプシウスの訳書であるLepsius 1865(English ed. 2000)の中で、ニュートンによるキュービットの論文を1737年としているのは、バーチ編集のこの本に基づいているらしく思われます。
この後、ピアッツィ・スミスによる本(1867)の中にも、ニュートンの論文の英訳は再録されました。

Thomas Birch (ed.),
Miscellaneous Works of Mr. John Greaves, Professor of Astronomy in the University of Oxford
(J. Hughs, London, 1737)

Vol. I:
http://books.google.co.jp/books/?id=Puk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

Vol. II:
http://books.google.co.jp/books?id=0uk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

ここでは目次を割愛します。
バーチというと、古代エジプトではまずサミュエル・バーチが思い起こされますが、直接の関連はない模様。

第1巻の最初でグリーヴスの生涯が語られており、50歳で惜しくも亡くなった波乱の人生が披瀝されていて、これが面白い。
主著「ピラミドグラフィア」の記述にはいくつか誤りがあって、その指摘が読者からすぐになされており、それに対するグリーヴスの応答や訂正の計算などが収録されているというのも興味深い点です。誤りも遺漏もある報告書であったということです。しかし、多大な影響を及ぼした本であったという点に疑いはありません。
誤りがいくらか存在する本であっても、学問として大きく進展させる書物というのはあり得ます。大きな指標が示されるのであるならば、このようなことが可能であるわけです。

グリーヴスによるクフ王のピラミッドの大回廊の断面図に関する報告にも欠陥があり、この書の成果を前提として考察がなされたニュートンの論文では「1キュービットは6パームから構成されるであろう」という誤謬も記されています。
Maragioglio e Rinaldi 1963-1975での図面と比べるならば、この間違いは一目瞭然。でもそれを今、指摘することに対して大きな意味があるとは思えません。大事なことは、正確な情報に基づく考察とは一体何なのかを考えることです。

オクスフォード大学はニュートンが書いたラテン語の手稿を公開し始めており、原典のテクストに基づく比較検討も可能なようになってきました。新たな時代の到来ということを改めて感じます。
ピラミッドの計画寸法を考える上で見逃せない書。同時に、古代エジプトにおけるキュービット尺の実長を探る過程を改めて追う上でも欠かせない本になっていると思います。

2011年10月12日水曜日

Lepsius 1849-1913


Description 1809-1818のところで述べたように、C. R. レプシウス(1810-1884)による通称「デンクメーラー」はナポレオンの「エジプト誌」と並び、エジプト学の中では今でも重用される書で、大判の図版を用いた記念碑的な著作。ヒエログリフの記録なども見逃せません。でも改めて書誌を調べようとすると、けっこう事情が分からなくなります。
試しにPorter and Moss (PM), 8 vols.のうち、まず第1巻第1分冊(第2版)に掲載されている文献リストを見ると、

L. D. = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols., 1849-59.
L. D. Text = As above, Text. 5 vols., 1897-1913.

と示されており、図版編12巻+テキスト編5巻からなる点が知られ、全部で17巻であるように了解されます。 しかしその一方で、このPMの第3巻第2分冊(第2版)を引くと、

L. D. and Text = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols. Berlin, 1849-59. Text, 5 vols. Leipzig, 1897-1913.
L. D. Ergänz. = LEPSIUS (R.), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. Ergänzungsband. Leipzig, 1913.

と書かれていて、どうしたわけか、一冊増える計算に(!)。
確認のため、LÄ (Lexikon der Ägyptologie) 1975-1992を調べるならば、

LD = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, 12 Bde u. Erg.bd, Berlin 1849-58, Leipzig 1913.
LD Text = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, Text. Hg. von Eduard Naville, 5 Bde, Leipzig 1897-1913.

と記されており、"u. Erg.bd"などという省略された記述を見落としがちになるのですが、図版編は結局、あわせて13巻になる様子。
実は一冊増えることになるこの図版編の本は、レプシウスの死後、彼の遺したノートをもとにまとめられたテキスト編(全5冊)の刊行とともに出版された大判の図版に起因しており、これを含めるか含めないかで全体の冊数が変わってきます。

「デンクメーラー」については、図版編とテキスト編との書誌を分けた方が良いかと思われます。
まずは図版編の、初版の書誌です。図版編は大きく6つに分割されました。
原書の表紙における主タイトルではドイツ語のウムラウト記号が用いられていないので、ここではこれを尊重して倣います。レプシウスの姓名の最初も"Karl"と表記される例がありますけれども、このページでは原書の表紙に従って"Carl"とします。"Architectur"という表記もそのまま。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien (Tafelbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
6 Abteilungen in 12 Bände.
(Nicolaische Buchhandlung, Berlin, 1849-1859)

Band I: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt I-LXVI.
Band II: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt LXVII-CXLV.
Band III: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt I-LXXXI.
Band IV: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt LXXII-CLIII.
Band V: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt I-XC.
Band VI: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt XCI-CLXXII.
Band VII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CLXXIII-CCXLII.
Band VIII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CCXLIII-CCCIV.
Band IX: Abtheilung IV. Denkmaeler aus der Zeit der griechischen und roemischen Herrschaft. Blatt I-XC.
Band X: Abtheilung V, Aethiopische Denkmaeler. Blatt I-LXXV.
Band XI: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt I-LXIX.
Band XII: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt LXX-CXXVII.

この12冊の各巻が、何年に刊行されたのかが明瞭ではありません。
さて、レプシウスが亡くなった後、レプシウスの遺したフィールド・ノートに基づいてE. ナヴィーユが編集をおこない、テキスト編の5巻とともに図版編の1冊が刊行されました。
出版社はベルリンからライプチヒへと移ります。ナヴィーユを中心とし、L. ボルヒャルト、K. ゼーテたちが関わりましたが、巻によって変更が見られます。
これら5巻のテキスト編に関しては、発行年が明瞭。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien, Text (Textbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
5 Bände.
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1897-1913)

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band I: Unteraegypten und Memphis
(1897)
238 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band II: Mittelaegypten mit dem Faijum
(1904)
261 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band III: Theben
(1900)
310 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band IV: Oberaegypten
(1901)
176 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Walter Wreszinski, mit einer konkordanz für alle Tafel und Textbände von Hermann Grapow.
Band V: Nubien, Hammamat, Sinai, Syrien und europäische Museen
(1913)
406 p.

この出版に関わった人物たちは錚々たる顔ぶれで、いずれもエジプト学では良く知られている学者ばかり。出版された順番も興味深く、古代エジプトの遺構のうちで、中エジプトを扱った第2巻の刊行は遅れています。
テキスト編の第5巻が刊行された時、一緒に出された大判の新たな図版編が以下の書。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Ergänzungsband
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1913)
(iv), 63 Tafeln.

時代が経って1970年代に至ると、これらのリプリントがようやく出回るようになります。
まずはテキスト編の再版とともに、大きな図版編を原版のサイズでリプリントしたものが出版されました。カラー図版もそのまま再現していますので、利用価値は大です。参考までに本の高さも下記の書誌には記しました。
出版地は、さらに転じてオスナブリュック。13巻の図版編は合冊して7巻に仕立てており、ここには1913年に刊行されたErgänzungsbandも含まれています。7冊全部をあわせ、厚さは20センチ弱程度であったかと記憶します。 テキスト編は3巻に合本。
ですがこの版は、もう入手が困難かもしれません。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
(Neudruck der Ausgabe 1849-1858. Biblio-Verlag, Osnabrück, 1970-1972)
Tafelband: 64 cm. Textband: 30 cm.

Tafelband I-II (1972)
Tafelband III-IV (1972)
Tafelband V-VI (1970)
Tafelband VII-VIII (1970)
Tafelband IX-X (1970)
Tafelband XI-XII (1970-72)
Ergänzungsband (1972)

Textband I-II (1970)
Textband III-IV (1970)
Textband V (1970)

この直後に、ジュネーヴからはモノクロの縮刷版が出版されました。
エジプト学の研究者の間では、オスナブリュックから再版されたものよりも、こちらの版の方が広く知られているかと思われます。まずは図版編の縮刷版が出版され、次いでテキスト編が上梓されました。図はすべてA4版に縮小されている版。
テキスト編は原本通りに全5巻で出版されましたが、図版編はオスナブリュックの版と同様、やはり合本されて7冊にまとめられています。
この版も入手は今、難しくなっているようです。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.

Collection publiée sous l'égide du Centre de Documentation du Monde Oriental
[Réduction photographique de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1972-73)
30 cm.

Abtheilung I. Vol. I et II (Pl. I-CXLV) (1972?)
Abtheilung II. Vol. III et IV (Pl. I-CLIII) (1972)
Abtheilung III. Vol. V et VI (Pl. I-CLXXII) (1972)
Abtheilung III. Vol. VII et VIII (Pl. CLXXIII-CCCIV) (1972)
Abtheilung IV. Vol. IX (Pl. I-XC) (1973)
Abtheilung V. Vol. X (Pl. I-LXXV) (1973)
Abtheilung VI. Vol. XI et XII (Pl. I-CXXVII) (1973)

Collection des Classique Égyptologiques
[Reprographie A4 de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1975)
30 cm.

Text, vol. I. x, 238 p.
Text, vol. II. (v), 261 p.
Text, vol. III. (iii), 310 p.
Text, vol. IV. (v), 176 p.
Text, vol. V. viii, 406 p.

インターネットにて「デンクメーラー」を見ることができると以前、書きましたけれど、そこでは解像度が落とされており、また表紙などもスキャンされていません。制限がやはりあるわけです。

C. R. Lepsius: Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien:
http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/start.html

こうした情報をどのように使うかが問われる点。
インターネット上ではごく最近、「デンクメーラー」のリプリントをまた見かけるようになりましたが、この偉大な書は古代エジプトにおける遺跡を十数巻にわたって紹介しているモニュメンタルな本ですので、図版編なのかテキスト編なのか、あるいはそのうちの何巻目を出版しているのか、ページ数や図版の枚数などがちゃんと揃っているのかなどを確認することが必要となってきます。
残念なことに、ネット上に公開されている文献資料をそのまま印刷に回して販売するという悪質な書籍の売り方をする者も出てきました。充分な注意が求められます。

2011年10月8日土曜日

Zignani 2010


デンデラのハトホル神殿に関する建築報告書。この遺構は古代エジプトにおけるグレコ・ローマ時代、すなわちプトレマイオス朝に建立された代表的な神殿です。
この神殿についてはすでに十数冊もの報告書がフランス・オリエント考古学研究所(Institut Français d'Archéologie Orientale: IFAO)からシリーズとして刊行されており、Émile ChassinatFrançois DaumasSylvie Cauvilleたちによるものが広く知られていますが、神殿の名前の綴りが"Dendera"ではなく、IFAOにおいて近年は"Dendara"に統一された様子。文献を検索する側にとっては、手間がまた増えた感じがあります。
第1巻から5巻までの古い本を一括してまとめたリプリントも出ているようで、それはそれで便利なのですけれども、同時にこの再版ではタイトルの神殿名も綴りが変更されているらしく、引用の際には注意が必要です。
この本を貸してくださった大橋さん、感謝申し上げます。

Pierre Zignani,
Le temple d'Hathor à Dendara:
Relevés et étude architecturale
,
2 tomes. (texte et planches)
IFAO, Bibliothèque d'Étude (BiEtud) 146/1 et 2.
IF 997
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO): Le Caire, 2010)
xii, 421 p., 2 plans de situation + 39 planches.

Sommaire:

Remerciements (p. xi)

Chapitre I. Liminaire (p. 1)
Chapitre II. L'environnement du sanctuaire d'Hathor (p. 31)
Chapitre III. Description du temple d'Hathor (p. 81)
Chapitre IV. La composition de l'espase (p. 151)
Chapitre V. L'usage de l'espase (p. 209)
Chapitre VI. La construction du temple (p. 311)
Chapitre VII. Conclusion (p. 385)

Bibliographie (p. 389)
Table des figures (p. 409)
Plans de situation (p. 423)

これまでデンデラ神殿の基本図(平面図・立面図・断面図)といえば、

Émile Chassinat,
Le temple de Dendera, tome 5
(IFAO, Le Caire, 1947)

に所収された図版編に頼るしかありませんでしたが、もう少し詳しい大判の図版が多数、付け足されています。

Zignaniは1990年代の後半からデンデラ神殿について論文を発表していますけれど、特に

Éric Aubourg et Pierre Zignani,
"Espaces, lumières et composition architecturale au temple d'Hathor à Dendara:
Résultats préliminaires,"
Bulletin de l'Institute Français d'Archéologie Orientale (BIFAO) 100 (2000), pp. 47-77.

は本書の要約となっており、比較すると面白い。30ページほどありますが、本書が出る10年前の短報。
以前にも記した通り、100冊以上に登るBIFAOのバックナンバーは近刊を除き、すべて無料で閲覧することができます。PDFのダウンロードに要する時間がかかるのが難点。

BIFAO:
http://www.ifao.egnet.net/bifao/

BIFAO 100 (2000)の論考( 以下、Aubourg & Zignani 2000と略記)では、註記の一番最初にル・コルビュジェ(Le Corbusier)の高名な著作、「建築をめざして Vers une architecture (Paris, 1923)」が引用されており、古代エジプト建築の報告文に、巨匠とされる近代建築家の名が挙げられるのは珍しいと思っていましたら、本書ではなんと、参照する建築家をすげ替えて、ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn)が代わりに冒頭で挙げられています(p. 7)。
この建築家は「沈黙と光」という題の本を出版していますから、確かにコルビュジェよりは、Zignaniの意向に沿っているように思われます。
コルビュジェの著作としては「モデュロール」の2巻本が参考文献リストに載っており、「建築をめざして」についてはもはや触れられていません。

参考文献リストにルイス・カーンの名前が出ている古代エジプトの建築報告書というものを初めて見ました。本書の第1巻(テキスト編)の巻末に見られる文献リストには、上記のAubourg & Zignani 2000が記されていないというのも面白い。 共同執筆論文とは言え、自分が関わって30ページほど書いた研究論文を、最終報告書の中で引用することをやめているわけです。
ちなみに、古代エジプト時代とその後のグレコ・ローマ時代の建築を分けつつ、資料が多く残る後者から情報を可能な限り汲み取ろうとするRossi 2004の参考文献リストでは、この人の研究業績のうち、[Aubourg &] Zignani 2000だけを掲載。Zignaniが厳密な測量をおこなった点を讃え、註記しています(pp. 171-2)。
共同執筆者の名前を省き、実質的に仕事をおこなった者の名だけを挙げるというやり方だと思われます。

「沈黙と光」という題の本を書いた近代建築家カーンの方が、コルビュジェよりもZignaniにとっては贔屓にしたい存在だったのではと書きましたが、これはAubourg & Zignani 2000ですでに顕著に見られる傾向から推測される点であって、その研究成果がこの報告書にも充分に反映されており、石造神殿の各所に設けられた小さな窓に関し、実に詳細な報告がなされています。
このように窓から建物の中に差し込む陽光(日光)について、また時間を追って移動する日射に関して細かく考察した例は、これまでなかったのでは。
年代が下り、成熟したかたちを示したエジプトの神殿建築の造り方に、さらにギリシアの考え方が流入して影響が与えられているものの、古代エジプト建築における建物内の光と影というテーマについて、初めて切り込んだ著書。

カーンはフォート・ウェインの劇場の設計において、バイオリンとそのケースという入れ子状の構成を考えましたが、デンデラ神殿における入れ子状の構成との関連性を探ってみることも面白い(cf. Hawass, Manuelian, and Hussein (eds.) 2010 [Fs. Edward Brovarski])。

2011年9月27日火曜日

Zoëga (Zoega) 1797


高さが45cmのフォリオ(大判の本)で、全部をあわせると700ページ近くもある大著です。
オベリスクを考える上で大切なこの18世紀の本が、$3,800にて購入できるというページを先ほど見つけました。今は円高ですから30万円ほど。
素直に考えると、安いと思います。・・・買いませんけれども。

イタリアに立つオベリスク、特にローマに残るオベリスクに関する徹底的な分析研究に際しては必携の書であることに間違いはありません。同時に、18世紀末のヨーロッパにおけるオベリスクの状況が良く知られる資料。オベリスクに関連した第一級の参考図書、貴重文献となっています。
古代世界で強大なローマ帝国を打ち立てた現在のイタリアには、エジプトから何本ものオベリスクが苦労して運び込まれました。その中でも、中枢の都ローマはオベリスクがもっとも集中して搬入された場所。この狭い都市内だけで今日、10本以上のオベリスクが聳えており、この本数は本国のエジプト全土に立ち残っている本数を凌ぎます。
ただその中には古代ローマ時代に、エジプトのオベリスクを真似て造られたらしいものも混じっており、その見きわめが必要です。

キルヒャーがラテン語で書いた本(Kircher 1650)の後に出版された、オベリスクに詳しく言及する貴重な著作のひとつ。ヘロドトスやプリニウスなどをはじめとして、古代ギリシアや古代ローマの著作家たちがオベリスクについて触れた記述の部分を逐一、引き写すことをおこなっていて、冒頭の章ではこれに数十ページを費やしています。

xlページの参考文献リストを見ると、ギザのピラミッドの実測値を報告したGreaves 1646の論文も、フランス語の訳を通してちゃんと読んでいる様子。一方、古代エジプトの尺度を正しく推測した偉大な科学者のアイザック・ニュートンによる論考(Newton 1737)は掲げられていません。大旅行家であったRichard Pocockeの著作はしかし、リストアップされていて、この頃のヨーロッパにおける情報の行き来がどのような状態にあったのかが逆に憶測されます。

近年に出された本、例えばローマのオベリスクについて概説を述べているSorek 2010や、Iversen 1968-1972のうちの第1巻を入門書として見ると理解が早いのでは。Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009も重要。
現在、ローマに立っているオベリスクを紹介しているインターネットのサイトは国内外に複数、存在しています。立っている位置も詳しい地図で明示されており、たぶん1週間もあれば、全部を見て回ることができるでしょう。他の者よりもオベリスクを詳しく専門的に知りたい人にとって、この本は必読の書。
このように意義のある本が、何故エジプト学者にもさほど知られていないのかと言えば、オベリスクに関する形状の研究が全体的になおざりにされているからです。エジプト学において、遺構の平面分析はしますが、立体的な、あるいは構造的な数値の把握がなされることは稀です。
ですが、ピラミッドの分析よりも、オベリスクの分析にこそ古代エジプト建築の計画方法を解くための大事な鍵が隠されているように思われます。

大英博物館からかつて刊行された以下の著作(2巻本)の第1巻における「オベリスク」の章、また「ローマのオベリスク」の章では、著者であるZoëgaの略歴や、この本の内容がある程度、英語で説明されており、とても有用でお勧めです。情報は古いのですが、Zoëgaの論考を受け、後の19世紀においてオベリスクがどのように考えられていたのかが良く理解できます。
Google Booksでアップされており、厚い2冊が無料でダウンロードできます。

George Long (ed.),
The British Museum, Egyptian Antiquities, 2 vols.
(London 1832-1836)

Vol. I (1832):
http://books.google.com/books?id=KNg-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=The+British+Museum+Egyptian+antiquities+1832&hl=ja&ei=7Dp2TvGDCaSbmQXF4eTVDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false

Vol. II (1836):
http://books.google.com/books?id=CGkoAAAAYAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

さて、Zoëgaのこの著作は、やはりGoogle Booksにてダウンロードが可能となっています。
ドイツに留学中の安岡さんから御教示いただきました。いつもありがとうございます!

Jørgen Zoëga [Georgio Zoega],
De origine et usu obeliscorum, ad Pium Sextum Pontificem Maximum
(Roma 1797)
xl, 655 p., plates.
http://books.google.com/books?id=xoxCAAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=de&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

Praefatio (v)
Testimonium (viii)
Index (xxix)
Series peregrinatorum in Aegypto et Abessinia, quorum libri passim adducuntur (xl)

Sectio I. Veterum de obeliscis et de stelis Aegyptiis testimonia (p. 1)
Caput I. De obeliscis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 2)
Caput II. De stelis Aegyptiis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 32)
Caput III. Vetera obeliscorum epigrammata (p. 51)
Caput IV. Monumenta in quibus expressi cernuntur obelisci (p. 56)

Sectio II. Enarratio obeliscorum Aegyptiorum, qui hodie vel integri, vel aliqua sui parte superstites offenduntur (p. 65)
Caput I. Obelisci veteres Romae exsistentes (p. 66)
Caput II. Obelisci in Europae provinciis extra Urbem superstites (p. 83)
Caput III. Obelisci hodie exstantes in Aegypto et in Aethiopia (p. 92)

Sectio III. De usu obeliscorum in Aegypto (p. 127)
Caput I. De nomine obeliski (p. 127)
Caput II. De figura obeliscorum (p. 132)
Caput III. De materie e qua facti obelisci (p. 140)
Caput IV. De magnitudine obeliscorum (p. 144)
Caput V. De situ obeliscorum (p. 151)
Caput VI. Quo fine erecti fuerint obelisci (p. 156)
Caput VII. De argumento scalpturarum in obeliscis (p. 175)
Caput VIII. De mechanica obeliscorum (p. 184)

Sectio IV. De origine obeliscorum (p. 193)
Caput I. De monumentorum instituto (p. 193)
Caput II. Litterarum apud Aegyptios usus et origo (p. 423)
Caput III. De stelis Aegyptiis atque de obeliscis originem trahentibus a stelis (p. 571)

Sectio V. De historia obeliscorum (p. 596)
Caput I. Prima obeliscorum epocha (p. 596)
Caput II. Secunda epocha obeliscorum (p. 606)
Caput III. Tertia obeliscorum epocha (p. 609)
Caput IV. Quarta obeliscorum epocha (p. 623)
Caput V. Synopsis chronologica obeliscorum (p. 639)

Corrigenda et addenda (p. 645)

デンマークの学者による、オベリスクに関する初めての包括的、かつ冷静で客観的な考察、ということができます。「オベリスクの起源と用途」といった意味の原題がつけられました。
ローマに立っているオベリスクを中心に、その寸法などの報告も含めて記しつつ、本格的な論考が進められています。Kircher 1650の中で書かれている"De proportione Obeliscorum"「オベリスクのプロポーションについて」はここでも取り上げられていて、第3編第2章の"De figura obeliscorum"「オベリスクの形状について」はそれ故、建築学的にはたいへん重要な、注目される部分となります。ただし、ウィトルウィウス Vitruviusの「建築書」の影響を被っているかも、という点を勘案しなければなりません。

これまでKircherZoëgaがオベリスクの形状について述べている内容が、専門家によって詳細に論じられたことはないのでは。アメリカのワシントンに立っているオベリスクのモニュメントの基本設計に関わった外交官、ジョージ・パーキンズ・マーシュ George Perkins Marshがどこまで文献を読んでいたのか、この点も興味深く思われます(cf. Ashabranner 2002)。

本文はラテン語で、ここに古代ギリシア語、コプト語、ヘブライ語などがしばしば入り混じるのが日本人にとって辛いところ。

*  *  *  *  *

2019年9月に早稲田大学高等研究所講師の安岡義文さんから、何とこの本をプレゼントされました。彼は日本建築学会奨励賞を2019年に受賞。

https://www.aij.or.jp/images/prize/2019/pdf/6_award_015.pdf

ありがとう。さらに勉強を重ねます。
なお、今では以下の書も刊行されており、第17章でオベリスクの書について語られています(Emanuele M. Ciampini)。

Karen Ascani, Paola Buzi, and Daniela Picchi (eds.),
The Forgotten Scholar: Georg Zoëga 1755-1809: 
At the Dawn of Egyptology and Coptic Studies.
Culture and History of the Ancient Near East, Volume 74
(Leiden: Brill, 2015), xii, 267 p.

2011年9月26日月曜日

Gerner 1995 (French ed. of 1992)


木造建築の構法に関して活発に著作を刊行している人の本。フランクフルトの歴史的な木造建築の修復に携わった建築家で、以後、ヒマラヤの木造建築についての書など、世界で見られる木造構法を盛んに研究しています。
Zwerger (English ed. 1997)のところで書名だけ挙げましたが、ヨーロッパにおける伝統的な木造建築の継手・仕口を考える場合には筆頭に挙げられる本です。

Manfred Gerner,
adapté de l'allemand par Marc Genevrier,
Les assemblages des ossatures et charpentes en bois: construction, entretien, restauration
(Eyrolles, Paris, 1995. Édition en langue française, "Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer", Deutsche Verlags-Anstalt (DVA), Stuttgart, 1992, 191 p.)
190 p.

Sommarie:
Avant-propos (p. 15)

1. Assemblages en bois (p. 17)

2. Les assemblages de charpente (p. 43)
Classification systématique (p. 43)
-1. Entabures (p. 44)
-1.1 Assemblages en long
-1.2 Assemblages d'angle
-1.3 Assemblages en T

-2. Assemblages à tenons (p. 55)
-2.1 Assemblages en long
-2.2 Assemblages d'angle
-2.3 Assemblages en T
-2.4 Assemblages croisés

-3. Entures (p. 78)
-3.1 Assemblages en long
-3.2 Assemblages d'angle
-3.3 Assemblages en T
-3.4 Assemblages croisés

-4. Entaillures (p. 123)
-4.1 Assemblages d'angle
-4.2 Assemblages en T
-4.3 Assemblages croisés

-5. Enfourchements (p. 137)
-5.1 Assemblages en T

-6. Embrèvements (p. 141)
-6.1 Assemblages d'angle
-6.2 Assemblages transversaux
-6.3 Assemblages croisés

-7. Encochures (p. 152)
-7.1 Assemblages en T
-7.2 Assemblages croisés

-8. Assemblages massifs (p. 156)
-8.1 Assemblages d'angle
-8.2 Assemblages en T

-9. Assemblages de planches et rondins-Assemblages en largeur (p. 167)
-9.1 Assemblages en largeur

-10. Assemblages de réparation (p. 174)
-10.1 Assemblages traditionnels utilisés en réparation
-10.2 Assemblages spéciaux pour réparations

3. Principes de base (p. 181)

4. Techniques d'ingénierie, prothèses (p. 187)

ドイツ語版が原本で、そのフランス語訳の版。1992年のドイツ語版の入手は難しくなっています。当方も原書は未見。図版番号は振られず、また参考文献リストもフランス語の訳本では見当たりませんが、原本でも同じなのか、分かりません。
Graubner 1992 (English ed. of 1986)の項で触れたように、ヨーロッパで見られる継手・仕口と日本での例との比較はすでになされていますけれども、本書ではさらに徹底した体系化が考えられているのが大きな特色で、注目されます。理念的にまとめられた継手・仕口の拡がりの世界の提示という仕事。角材の幅を1とした時の、ほぞ穴の大きさや深さが分数で示されるなど、おそらくは総数で500点近くにのぼる線描図と添付の写真には圧倒されます。
冒頭では先史時代からの木材の用法について簡単に触れ、19ページでは古代エジプト時代の箱の造り方と木棺足部の組み立て方を示す図を掲載。ネパール(pp. 28-30)、ブータン(pp. 31-3)、日本(p. 34)、中国(pp. 35-6)、チベット(pp. 37-8)の木造構法にも短く言及しています。最終章ではガラス繊維による補強方法にまで記しており、興味深い。

ドイツ語版に所収の図版については、下山眞司氏のブログに抜粋が掲載されていますので、とても参考になります。この方の木造建築に対する考え方は重要。他の充実したページも必見。

下山眞司「建築をめぐる話:つくることの原点を考える」
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/07238886f1009bb190a2b01477aca69f(2007年2月22日)
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cec982fdcd0f78488c6a7ce164e29cda(2009年4月13日)

2011年9月25日日曜日

Graubner 1992 (English ed. of 1986)



もともとドイツ語で書かれた本の英訳。木工の継手・仕口に関する海外の本では、たびたび引用される書です。日本の継手・仕口が本格的に紹介されています。Zwerger (English ed.) 1997のところでも触れました。
"Joinery in Japanese Buildings"の節は大河直躬による執筆(pp. 20-3)。また写真で紹介されている継手・仕口は大工棟梁の田中文男と学生たちの制作、と書いてあります。謝辞には清家清宮崎清の名が挙げてあり、日本の専門家たちが協力していることが知られます。
Graubnerの原本では、日本とヨーロッパにおける木工の対比が副題にて明確に挙げられていましたが、英語の訳版では省かれました。
ドイツ語の原本は、順調に版を重ねている様子。当方が所有しているのは1997年の第6版。イギリスから出ています。

Wolfram Graubner,
Woodworking Joints
(B. T. Batsford, London, 1992. Original title: "Holzverbindungen: Gegenüberstellungen japanischer und europäischer Lösungen", Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart, 1986, 175 p.)
(vii), 151 p.

Contents:
Introduction (p. 1)
Wood Joints vs. Metal Fasteners
Fire and Wooden Joinery
Wood Protection
The Development of Wood Construction
Traditional Roof Construction
Traditional Chinese Wood Construction
Joinery in Japanese Buildings

Joint Forms (p. 25)
1. Splicing Joints (p. 28)
2. Oblique Joints (p. 64)
3. Corner and Cross Joints (82)
4. Edge Joints (p. 124)

Appendix (p. 146)
Index (p. 150)

それほど厚い本ではありません。

なお、Encyclopedia of Wood Joints というタイトルでアメリカの他社からも出版されている模様。
図版はきわめて豊富で、それぞれの継手・仕口を英語で何と訳せばいいのか、知りたい人には非常に役立つのではないでしょうか。カラー図版は表紙だけというのが残念。近年は国内で、カラー写真と継手・仕口の立体組み立て図を同時に見せる本が増えてきたので、併読することが望まれます。
冒頭には、

"To understand the 600 or so wood joints known to us today, it is important to grasp a few basic principles."
(p. 1)

とあって、数百にのぼるほど多岐にわたると言われる継手・仕口を系統立てて纏めていることが知られ、これが大きな特徴。日本では源愛日児による試みが知られています。

内田祥哉
「在来構法の研究:木造の継手仕口について」
(住宅総合研究財団、1993年)

を参照。

文化財建造物保存技術協会
「文化財建造物伝統技法集成:継手及び仕口」(上下巻)
(1986年。再版、東洋書林、2000年)

においても継手・仕口の体系化がおこなわれており、重要です。

Graubnerの英訳本では、参考書がまったく挙げられていないのが実に惜しい点です。ドイツ語版では172ページに35冊ほどを挙げています。

これ以外にも、ドイツ語版と比べると10ページほどが割愛されている模様。主に図版が抜けており、例えばドイツ語版の42-3ページには見開きで「和漢三才図会」に掲載されている大工道具の紹介があるのですけれども、英語版にはそれがありません。
しかしAppendixのところでは、

"Classification of European Wood Joints

In Europe, joints are usually classified according to the position of the mating members:

1. Splicing joints
2. Corner joints between timbers of equal width
3. Lap joints in which the top surfaces of the crossed members are flush
4. Cogged joints, assembled on corners or as a cross, in which the top surfaces of the mating members are not flush
5. Oblique joints
6 Edge joints between boards or timbers


Classification of Japanese Wood Joints

The Japanese classify wood joints into two main categories:
1. Edge joints between flat boards (types A to D)
2. Joints between timbers that are square or approximately square in section (types E to H)

Type A
Hagia-wase (sic)
Parallel or corner joints for increasing the width of boards in the same plane; often glued

Type B
Hirauchi-tsugi
Right-angled carcase joints for furniture, often in the form of mortise-and-tenon joints

Type C
Hashi-bame-tsugi
End-grain edging to prevent warpage

Type D
Kumite-tsugi
Finger joints, corresponding to Western dovetail joints, for joining boards at any angle

Type E
Tome-tsugi
Corner joints between square timbers that are mitered to hide the end grain

Type F
Ai-gaki-tsugi
Right-angled half-lap joints

Type G
Hozo-tsugi
Right-angled mortise (hozoana) and tenon (hozo) joints

Type H
Tsugite
Splicing joints for lengthening timbers"
(pp. 146-9)

と記しており、大まかには継手・仕口がヨーロッパでは6つ、また日本では8つに大別されると述べ、その後のページではドイツ語版に倣って、ここでも手書きによる
継手・仕口の多くの名前を漢字表記で掲載しているのが注意を惹きます。
今日、こうした分類方法に異議があるかもしれませんが、アジアとヨーロッパにおける木造の構法の比較を、多数の図版を交えながらドイツで1980年代におこなっている点が重要。

2011年9月24日土曜日

Hayes 1935


William Hayesの博士論文です。
新王国時代の第18王朝に属する王たちの石館に刻まれている碑文が、古王国時代のピラミッド・テキスト、中王国時代のコフィン・テキスト、またパピルスに記された「死者の書」などと密接な繋がりがあり、長い歴史を引き継いでいることを伝えています。

William Christopher Hayes,
Royal Sarcophagi of the XVIII Dynasty.
Princeton Monograph Series in Art and Archaeology: Quarto Series XIX
(Princeton University Press, Princeton, 1935)
xii, 211 p., XXV plates.

Contents:
Chapter I: Introduction (p. 1)
Chapter II: The Sarcophagi (p. 31)
Chapter III: The Decoration of the Sarcophagi (p. 61)
Chapter VI: The Royal Sarcophagi in Relation to the History of the XVIII Dynasty; General Conclusions (p. 138)

Appendix I: Catalogue of the Sarcophagi (p. 155)
Appendix II: The XVIII Dynasty Sarcophagus Texts: Parallels from the Pyramid Texts, from Middle Kingdom Coffin Inscriptions, and from the Book of the Dead (p. 172)

Selective Bibliography (p. 177)
Text Sheets (p. 183)
Index (p. 205)
Plates (I-XXV)

ドイツに留学中の安岡君に手配してもらい、コピーを入手することができました。
アメリカのメトロポリタン美術館に属していたことで知られるWilliam C. Hayesは、現場での作業を通じ、またA. Gardinerからヒエログリフの読み方を直接に教えてもらうなどして文字の読み方を習得した人です。Hayes 1937を参照。
彼の経歴を知る上では、Bierbrier 1995 (3rd ed.)が有用です。

この本の謝辞を読むと、古代エジプト建築についての書を刊行したボールドウィン・スミス(cf. Baldwin Smith 1938; Baldwin Smith 1950)の助力に言及しており、交流のあったことが確認されます。それぞれ、主著の執筆中であった時期ではなかったでしょうか。専門分野は異なりますが、有能なエジプト学者たちが触れ合っていた点がここでも確認され、面白い。

Raven 2005を読むと、第19王朝に属するRaiaの石棺であるにも関わらず、そこに記された文に関する研究に際しては、依然として未だHayesのこの本が有効であることが分かります。

"Most spells are taken from the well-known corpus dealt with by Hayes in his Royal Sarcophagi, although they have occasionally been shortened and simplified."
(Raven 2005, p. 63)

Hayesによる論考では、必ず一歩先に考察を進めるというやり方が顕著で、この本の場合では第18王朝のインスクリプションの祖型を探り、資料化している点が見るべきところ。これによって、書かれた内容の寿命が延長されるわけです。
Hayesの論文、

"A Selection of Tuthmoside Ostraca from Der el-Bahri",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 46 (1960), pp. 29-52.

などでも同じで、題名は意図的に派手にしていませんが、各々のオストラカを読んだ上で、最後には時系列の順に並べ、建物が造られていく過程に触れるという立体的な考え方を示しています。これができるかどうかが分かれ目。

2011年9月23日金曜日

Fraser 1996


アレキサンダー大王は、アジア遠征の途中で次々と自分の名前をつけた都市を造ったばかりではなく、各都市間を結ぶ交通網の整備も勘案しました。アレキサンドリアという名の都市の数は数十にのぼったという逸話から、この本は語り始められています。

Peter Marshall Fraser,
Cities of Alexander the Great
(Oxford University Press, New York, 1996)
xi, 263 p.

ウンベルト・エコ(ウンベルト・エーコ)は、オクスフォード大学出版局による書籍の刊行元がオクスフォードにはなく、ニューヨークに置かれているのだということを強調し、著作の中でもわざわざ述べています(エコ 1977: Japanese ed. 1991)が、この本でも同じ。
出版地がオクスフォードなのか、それともニューヨークなのか。どちらでも構わないように思われますけれども、論文などで書籍を引用しようとした場合には、少なくとも当方の場合、困惑することがしばしばです。

フレーザーの主著としては、以下に掲げるエジプトのアレキサンドリアに関するものがまず挙げられるはず。
全部で3巻本。本文の第1巻よりも註記を収めた第2巻の方が厚く、第三巻目の索引の巻を含めるならば、総ページ数は2000ページを超えるという大書です。文献学者による論考ですから、過去におけるさまざまなテキストへの注釈やクロス・リファレンスが整備され、その積み重ねの網目として古代の代表的な都市がどのように浮かび上がってくるのかが眼目。
「アレキサンドリアの街並みを復元することは不可能だろう」と本文の冒頭近くには書いてあり、従って、ここでのアレキサンドリア研究というのは視覚的な復原を意味しません。

Peter Marshall Fraser,
Ptolemaic Alexandria, 3 vols.
(Oxford University Press, New York, 1972)

Vol. I: Text. xvi, 812 p.
Vol. II: Notes. xiii, 1116 p.
Vol. III: Indexes. iii, 157 p.

だとしたら、この欄で一番最初に紹介したMcKenzie 2007は、一体どのような位置づけなのかということになるかと思われます。
たぶん文献学者の側から考えるならば、雑駁な情報を詰め込んで、アレキサンドリアの平面を力技で復原したということになるのでは。マッケンジーが採用している方法は、近年の考古学的な発掘調査の結果や19世紀の絵画資料も含め、これまでの歴史の中で提示されてきた全ての情報を最大限に生かして組み合わせたらどうなるのかを問うています。

誤解を恐れずに言うならば、マッケンジーには古典古代の時代に生きた記録者たちによる文面をまず優先するという態度がありません。テキストであろうが図像資料であろうが、情報としてはすべて等価とみなして復原をおこなっています。美術史学者のマッケンジーにとって、視覚的な像に引き寄せることは暗黙の前提として考えられていて、フレーザーによる方法との違いの間には深淵が横たわっています。
議論がもっとも白熱するところ。正しいこととはいったい何なのかが同時に尋ねられています。

これはまた、建築報告書とは何かということを考えさせる点です。
建築作品の紹介ということを想起するならば、図面を載せ、写真を載せ、場合によってはウォーク・スルーの動画を載せ、文章でも説明するという方策が今では採られていますが、こうしたやり方は結局、建てられた実際の建築作品を中心に置きながら、その周囲においてさまざまなメディアを駆使して、逆に空洞となる中心を浮かび上がらせ、想像させるという方法に近くなっています。
解説の文章に多くの図版を付与するという斬新な方法はセバスティアーノ・セルリオ Sebastiano Serlio によって試みられましたけれども、彼によって編み出されたグラフィカルな手法とはまた違ってしまった、建築を表現しようとする奇妙な世界。
建築は実際に見に行かないと、良さは決して分からないなどという言い方がよくされますが、たぶん、この事情を敏感に察して語られていることなのでは。この種の言い方が古くからあったとはとうてい思われません。 訪れて視ることの豊穣さと、情報を熟知しないために見落とされる世界の大きさとの双方が言われ、それらの質的な違いも示唆されています。