2012年7月19日木曜日

Valloggia 2011


早大の研究所に出向き、また本を見せてもらいましたが、アブ・ラワシュ(もしくはアブー・ロワシュ)に残存するラージェドエフ(ジェドエフラー)王のピラミッドの報告書が面白かった。文章編・図版編の2巻本から構成されている2011年に出た書物です。

上部が大きく失われ、もはやピラミッドの基部しか残されていないピラミッドの残骸ですが、丹念に発掘調査を進めた結果、複数回にわたる建造過程を明らかにしており、とても面白い読み物になっています。
かなり損なわれている遺構なので、どこまで復原できるのか、調査者の力量が問われるところ。これに対して積極的に応えるべく、CGを駆使したカラー図版の復原図を交えながらさまざまな検討をおこなっています。
勾配はギザにあるクフ王のピラミッドと同じで52度。また四角錐を呈するピラミッドの外装は基本的に真っ白な石灰岩ですが、最下層の数段にだけ赤い花崗岩が仕上げ材として積まれた姿が復原されています。
これはカフラー王のピラミッドでも見られる目立った特徴。

Michel Valloggia,
avec des annexes de José Bernal et Christophe Higy,
Abou Rawash I: Le complexe funéraire royal de Rêdjedef.
Étude historique et architecturale, 2 vols (texte et planches)
Fouilles de l'IFAO 63.1 et 63.2
(Institut Français d'Archéologie Orientale [IFAO]: Le Caire, 2011)
Texte: xii, 148 p.
Planches: (iv), 212 p. (307 figs.)

Texte: Table des matières

Preface (vii)
Avant-propos (ix)
Introduction (p. 1)

Première partie: Le complexe funéraire royal
Chapitre I: Les éléments des superstructures (p. 25)
Chapitre II: La pyramide royale (p. 39)
Chapitre III: Les aménagements périphériques (p. 51)

Deuxième partie: Survivances et réoccupations du site
Chapitre IV: Survivance du toponyme et du culte funéraire royal (p. 81)
Chapitre V: Les installations postérieures à l'Ancien Empire (p. 83)

Conclusion (p. 87)

Annexes
I. Relevés topographiques du site archéologique d'Abou Rawash, par Christophe Higy (p. 91)
II. Étude des niveaux d'implantation et de construction, par José Bernal (p. 93)
III. Investigations géophysiques (p. 125)

Table de concordance entre l'inventaire IFAO et le Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte (p. 128)

Bibliographie (p. 131)

Indices (p. 139)

Table des matières (p. 145)

上記は文章編の目次を抜粋したものであり、細項目は適当に割愛しました。図版編の目次は挙げません。
「目次」の中に目次そのものが項目として含まれることはあまりないと思われるのですが、ここではそれが行なわれています。従来の書物を目にしてきた者からは、たいへん奇異に映ります。なお、これは仏語文献なので、目次は本の最後。
「本」というのは独自の構成によって成り立っており、特に「目次」は上位概念によってその本の全体をあらわそうという箇所ですから、英語・独語等の書籍では本文と切り離して前の場所に置かれ、同時に本文とは異なるページネーション(本文では1, 2, 3, 4, ...;その前の部分では、i, ii, iii, iv, ...。印刷方法が活字とは異なって、本文の後に置かれることが多い図版の番号ではI, II, III, IV, ...)が振られることになります。従って「目次」の中に目次を記すという、上位概念に下位の概念を混交する行為は通常なされてきませんでした。概念の水準に従った線引きがあったということです。

意欲的な本であることには間違いがないのですけれども、ああもしかしたらあまり報告書の類を書き慣れていないのではと思わせるところは他にもあって、たとえば

「治世第1年、ペレト期第3月…」

というグラフィートが発見されており、これは偉大なクフ王の後に王位を継承した第4王朝の権力者が、王になったとたん、ただちにピラミッドの建造に着手したことを明瞭に示すとても貴重な文字史料であるはずなのですが、これを報告している文章編のp. 48では

"An III, 3e mois de per(et)..."

と誤訳しており、図版編のFig. 178でうかがわれるインスクリプションの内容とは齟齬を呈します。一方でその前のページでもこのインスクリプションに簡単に触れているのですけれども、そこでは「治世3年」ではなく、正確に「治世1年」と記しており、重要な説明の場での誤記は残念。

クフ王のピラミッドの脇に設けられた船坑(ボートピット)の蓋石にはラージェドエフ王の名前も以前見つかっていて、これはBeiträge zur Ägyptischen Bauforschung und Altertumskunde (BeiträgeBf:ただし本書ではBÄBAと略), Heft 12 (Franz Steiner: Wiesbaden, 1971)で発表された報告で注目されたところですけれども、そこから転載された文字列「治世11年、ペレト期第1月24日」が図版編のFig. 3にて紹介されています。
図版編の中では、ちょっと唐突に感じられるトランスクリプションの引用。

ピラミッド時代における代表的な遺構を残したクフ王とカフラー王との間を生きたジェドエフラー王のピラミッドですから、相互の詳しい比較が今後、進められるのでは。ピラミッドの地下に唯一設けられた玄室へと続く下降通路の勾配も、長さが2に対して高さが1という2:1の傾きで、注目されます。
復原図で下降通路の上に断面が三角形の空隙が設けられているのも興味深い。この話題は2012年7月23日にEgyptologists' Electronic Forum (EEF) にて投稿された、メイドゥム(マイドゥーム)のピラミッドで見られる下降通路の上部の空隙と一緒です。

Gilles Dormion and Jean-Yves Verd'hurt,
"The Pyramid of Meidum, Architectural Study of the Inner Arrangement."
8th ICE, Cairo, 28th of March - 3rd April, 2000
http://www.egyptologues.net/archeologie/pyramides/meidum.htm

Cf. Jean-Yves Verd'hurt and Gilles Dormion,
"New Discoveries in the Pyramid of Meidum,"
in Zahi Hawass ed., in collaboration with Lyla Pinch Brock,
Egyptology at the Dawn of the Twenty-first Century: 
Proceedings of the Eighth International Congress of Egyptologists, Cairo, 2000. 3 vols.
(The American University in Cairo Press: Cairo, 2003),
Vol. I, pp. 541-6.

斜路の勾配の決定方法の考察はもっと進められるべきです。それはセケドの概念の拡張に繋がると思われますから。

ピラミッドの一辺が203キュービットで、また外周壁に穿たれた北門とピラミッドの北縁との距離が同じ203キュービットというのも注意を惹きます。なぜ完数の200キュービットちょうどではないのか。

岩盤をある程度掘り下げて造られたピラミッドですから、掘り下げる前の初期の設計ではどうだったのか、追究する必要があるかもしれません。たった1.5メートルほどの違いなのですけれども、3次元の巨大な立体物をどのように計画したのかを考えようとする場合、その細部が気になります。

27ページでは、3-4-5の比例を有する "triangle sacré" に触れられています。
ピタゴラスの定理によって定まる直角三角形のうち、これはもっとも有名な3:4:5の「聖三角形」で、「正三角形」ではないところが話題をどんどん混乱させていくわけですが、この三角形はなんと、ピラミッドの断面図へ適用されているものではなく、ピラミッド外周の付属施設に見られる3つの門を結ぶ直線と、南側の外周壁との平面図の位置関係の中で見出されています。壁が立ってしまえば3つの門の位置が見通せるわけでもなかった平面図における作図で、3:4:5の直角三角形が適用されていたとみなすには、もう少し詳細な検討が欲しかったと思われます。

古代語による文字史料を直接読解することから論考を始めている数学者Imhausen(cf. Imhausen 2003、またImhausen 2007)は、古代エジプトにおいてこの「聖三角形」が本当に知られていたかについて懐疑的であり(Robson and Stedall [eds.] 2009)、こうした基本的な点について専門家の間でも未だ意見の一致を見ていないということは、声を大にして言っておかねばなりません。
古代エジプト建築研究に携わる人間でも、3-4-5の比例による三角形は地割にて直角を導くために古代エジプトでも用いられたであろうと安易に判断している研究者はけっこういるわけです。

"Therefore, while it cannot be excluded that Egyptian mathematics and architecture might have used Pythagorean triplets, most notably 3-4-5, it must be kept in mind that our actual 'evidence' for this is based only on measurements of the remains of buildings, which --- as we have already seen --- may well be misleading."
(ibid., p. 793)


つまりエジプト学者たちは、エジプトにおける実際の遺構で3:4:5となる実測値をかなり昔から複数見つけているにも関わらず、「それが後代のピタゴラスの定理と結びつくはずであり、建築に応用した先駆けは古代エジプトである」という見方に関し、非常に慎重な姿勢をずっと取り続けているということです。
この事態を、「考古学者たちに数学の美しさが分かるはずはない」という一言で片づけるのは簡単。しかし長い時間にわたってこだわり続けられているそのモティーフを丁寧に追うことなしに、問題の解決が図られるとは到底思えません。
「自分が知っているようにしか、ものごとは見えない」という誤謬から引き起こされる異界のひとびとへの間違った解釈を避けるために、繰り返しますがエジプト学者たちはきわめて慎重です。それは知の発達というものが一体何を意味するのかという反問にも通じている、そういうことになるかと思われます。

2012年7月17日火曜日

Iversen 1993 (First Published in 1961)


30年以上経ってから再版されたイヴァーセンの著作。イヴァーセンについてはIversen 1968-1972や、あるいはヨーロッパにおけるオベリスクの受容史を述べた分厚いCurran, Grafton, Long, and Weiss 2009、あるいはRobins 1994を参照のこと。

Erik Iversen,
The Myth of Egypt and its Hieroglyphs in European Tradition
(Princeton University Press: Princeton, 1993. First published in 1961, Gec Gad Publishers, Copenhagen)
178 p.

Contents:

Preface (1993) (p. 7)
Preface to the First Edition (p. 9)
I The System of Hieroglyphic Writing (p. 11)
II The Classical Tradition (p. 38)
III The Middle Ages and the Renaissance (p. 57)
IV The Seventeenth and Eighteenth Centuries (p. 88)
V The Decipherment (p. 124)

Notes (p. 147)
List of Illustrations (p. 169)
Index (p. 173)

本の裏には紹介文が面白く書かれており、

"This is the story of a creative misunderstanding: an erroneous interpretation of the traditions of ancient Egypt became a rich source of inspiration for Europeans from ancient times through the medieval and Renaissance periods to the Baroque era. The misguided notion that hieroglyphs were allegorical, and that they constituted a sacred writing of ideas, exerted a dynamic influence in almost all fields of intellectual and artistic endeavor, as did conceptions of Egypt as the venerable home of true wisdom and of occult and mystic knowledge."

と記してあって、"misunderstanding", "erroneous interpretation", "misguided notion"と続けざまにネガティブな言葉が並べられ、それらの試行錯誤がついにはヒエログリフの解読に繋がったという粗筋が明らかにされています。
自分の知っている見方を、異なった文化の人間に押し付けて解釈するのは良くあること。その過程が歴史の中で淘汰され、次第に両極端の見解が近づき、共通の理解へと収斂していくさまがテーマとなっています。エジプト学の歴史はナポレオンの「エジプト誌」によって始まるとは良く言われますが、それより以前の思考過程については、これから詳細が明らかにされていくのでは。

再版のための序文の中で、フランシス・イエイツ Frances Yates の著作に触れられている点は注目されます。
彼女の本は日本語訳もけっこう出ているから、ここでは述べません。しかしエジプト学者にとって重要なのは、文字の解読に関しては片づいたものの、ヘルメス学(主義)の源流を古代エジプト文明に遡らせるかどうかの判断であって、多くの者は慎重な態度を取っています。
「化学 chemistry」や、錬金術の「アルケミー alchemy」などの語については古代エジプト語の「ケメト "kmt"; kemet」に由来するということは率先して語りながら、直接的な関連についての論理的な防御がきわめて堅いのが特徴。Trigger 1993でも、「エジプト学者は古代エジプト文明を独自なものと思い込んでいる」という批判が見られました。

建築でいうと、ルービッツ R. A. Schwaller de Lubicz のような考え方に対し、どのような反駁が具体的にできるかということになります。黄金比(1:1.618...)や円周率(1:3.14...)が古代エジプト建築の計画方法において考慮されたという諸論は今日でも語られており、Kemp and Rose 1991のような回りくどい説明が必要になっている原因。論の差異と言うものが、明快に指摘されていません。Rossi 2004の欠点があるとするならば、そこにあるかとも思われます。
いくらかの年月が、まだかかるのかもしれません。

2012年7月9日月曜日

Caminos 1954 (Caminos LEM)


リカルド・カミノスの博士論文。
日本でどこの研究機関が洋書を所蔵しているかを検索できるはずのwebcatで今、検索してもこの本は出てきません。しかし以前、筑波大学図書館で確かに読みました。サイバー大学図書室も持っています。ここから借り出して、久しぶりに目を通してみました。

カミノス Caminos という名前にはスペイン語で「道」という意味があり、綴りは多少変わりますけれども、ポルトガル語やイタリア語などでも同じ。フランス語でも"chemin"という似た綴りの同意語があります。世界遺産の「サンチャゴ・デ・コンポンステラの巡礼路」の場合、現地では「カミノ」という語が用いられるはず。
師匠である高名なアラン・ガーディナー(cf. Gardiner 1935;、またGardiner 1957 [3rd ed.])の志を引き継ぎ、カミノスは自分の名に従って文献学の研究を多方交通路へと開いたとみなすこともできるかもしれません。パピルスなどの注解に力を注いだだけでなく、各地の発掘調査にも参加しました。ゲベル・シルシラの石切り場に残る祠堂を報告したのもこの人。

ガーディナーはラメセス時代のパピルスを精力的に解読して、

Alan H. Gardiner
Late Egyptian Miscellanies.
Bibliotheca Aegyptiaca (BiAe) VII
(Fondation Égyptologique Reine Élisabeth: Bruxelles, 1937)
xxi, 142 p.+142a p.

を著しました。これはGardiner LEMなどと略されますが、カミノスが20歳ぐらいの時の刊行物です。基本的にはヒエラティックをヒエログリフへと転写した刊行物。出版当時、まだ若かったカミノスはブエノスアイレス大学にて勉強中で、この本のことをまったく知らなかったかもしれません。

このガーディナーの本に詳細な註と訳文をつけたのが本書。こちらはCaminos LEMと称されたりします。ガーディナーが書いたものと題名がほとんど一緒だからややこしい。
献辞はもちろん教えを受けた師匠のガーディナーに捧げられており、オクスフォード大学へ1952年に提出された論文の主査はガーディナー、また副査はチェルニー J. Cerny (cf. Cerny 1973、及びGraffiti de la montagne thébaine 1969-1983)と フェアマン H. W. Fairman でした(vii)。
この本は、だからとても珍しい経緯を辿って成立した本で、最初のページに

"It was at his (註:Gardinerのこと) suggestions that I undertook this piece of research for my doctoral thesis."
(viii)

とありますから、ガーディナーが弟子に対し、「私の書いた本に詳細な註と訳をつけるというのをテーマにして博士論文を書いたらどうか」と持ちかけ、ガーディナー自身が主査を務めたものらしく思われます。ガーディナーはこの時、かなりの年齢でした。
こういう博士論文の指導は、あんまりやらないと思われます。本当はガーディナーが自分で註釈を付けたかったんでしょうけれど、信頼できる弟子にもう託してしまおうと思い定めたのでは。

Gardiner LEMCaminos LEMは、たとえば

Leonard H. Lesko ed.
A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols.
(B. C. Scribe Publication: Berkeley, 1982-1990)

などで頻繁に引用されています。
Caminos LEMは600ページを超える分量。オクスフォード大学出版局で出されながら、アメリカのブラウン大学における「エジプト学叢書」の第1巻になっているのも注意を惹きます。

Ricardo Augusto Caminos
Late-Egyptian Miscellanies.
Brown Egyptological Studies I
(Oxford University Press: London, 1954)
xvi, 611 p.

Contents:

Preface (vii)

I. Pap. Bologna 1094 (p. 1)
II. Pap. Anastasi II (p. 35)
III. Pap. Anastasi III (p. 67)
IV. Pap. Anastasi III A (p. 115)
V. Pap. Anastasi IV (p. 123)
VI. Pap. Anastasi V (p. 223)
VII. Pap. Anastasi VI (p. 277)
VIII. Pap. Sallier I (p. 301)
IX. Pap. Sallier IV, verso (p. 331)
X. Pap. Lansing (p. 371)
XI. Pap. Koller (p. 429)
XII. Pap. Turin A (p. 447)
XIII. Pap. Turin B (p. 465)
XIV. Pap. Turin C (p. 475)
XV. Pap. Turon D (p. 481)
XVI. Pap. Leyden 348, verso (p. 487)
XVII. Pap. Rainer 53 (p. 503)

Appendix I: Text of Turin A, vs. 1,5-2,2 (p. 507)
Appendix II: Text of Turin A, vs. 4,1-5,11 (p. 508)

Additions and Corrections (p. 512)

Indexes (p. 515)
I. General (p. 515)
II. Egyptian (p. 520)
III. Coptic (p. 610)
IV. Greek (p. 611)
V. Hebrew (p. 611)

屋形禎亮先生の訳による「古代オリエント集:筑摩世界文学体系1」(筑摩書房、1978年)には、

「書記官が勉強嫌いの学童に与える忠告」

が記載されており、出来の悪い生徒にこんこんと小言が語られるくだりは当方も学生の時に人ごとではなかったものですから身に滲みます。年若いうちは勉学に励まないと駄目だ、書記にならないと辛く悲惨な人生が待っているぞという、半ば脅しの文句です。
和訳の原文はヒエラティックによるパピルスをヒエログリフの文に転写したGardiner LEM、また原訳は英語で書かれたCaminos LEM。そもそも、この本に目を通そうと思ったのはオベリスクの形状(比率)である10:1に関連しており、ドイツにいる安岡君から送られてきたpLansingに関する文献案内がきっかけです。深謝。

「おまえの心は完成され、積み出されるばかりになった高さ百尺、厚さ十尺の大きな碑(オベリスク)よりも重い。この碑は多くの艦隊を召し集め、人のことばを解したものだ。それは荷船に積まれ、エレファンティネから送られてテーベの立てられるべき場所へ運ばれていった。」
(「古代オリエント集」、p. 646)

という和訳の文面で見られるように、書記になることが古代エジプトの庶民にとって理想なのだけれども、なかなか勉強しようとしない学生の怠情の度合いが「高さ100キュービット、幅10キュービット」のオベリスクの重さに例えられている点が面白い。
書かれている数値はもちろん大げさに言われているものであって、こんなに大きなオベリスクが存在するはずもありませんでした。

しかしヒエラティックの原文では、ただ大きな記念物、「mnw メヌゥ」(Gardiner LEM, p. 101: pLansing 2,4)としか書いていなくて、

Aylward M. Blackman and T. Eric Peet
"Papyrus Lansing: A Translation with Notes",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 11:3-4 (1925),
pp. 284-298.

に見られる初期の英訳でも「記念物」としか記されていません。
ひとりだけ、カミノスがこのpLansingにおける「高さ100キュービット、幅10キュービット」という数値などをもとに、ここで言及されている記念物はオベリスクだと判断し、さらには現存するオベリスクの寸法との比較をおこなって註に記しています(Caminos LEM, pp. 377-9)。
この考察の結果が後のM. LichtheimによるAncient Egyptian Literature, 3 vols. (University of California Press; Berkeley and Los Angeles, 1973-1980)の第2巻で見られる訳文(p. 168)に、先行研究についての正確な但し書きを欠いたまま、反映されているということになります。

あり得ない大きさのオベリスクではありますが、高さと幅との比が10:1になっている点はきわめて面白いところです。古典古代時代の柱における1:10の比例についてはHahn 2001と、Wilson Jones 2000を参照。

別のところには、t3 st 'r'r.k、「タ・セト・アルアル=ク」という記述が見られ、"the place of improving (or supplying), (accomplishing) yourself"というふうに直訳がなされています(pTurin A, vs.1,10)。「自分自身を高める場所」というような意味合いとなり、訳語として「学校 school」となっています(p. 452)。
'r'r 「アルアル」という語はアメンヘテプ3世によるクルナの石切り場にもうかがわれた書きつけで、これも貴重。掘り抜かれた部屋の天井と壁が出会う部分に日付とともに記されていますので、ここでは「到達」というような意味になるかも。

2012年7月8日日曜日

Uphill 1972


エジプト学の創設者として名高いフリンダーズ・ピートリー(フリンダース・ペトリー)は90歳近くまで長生きしましたけれども、生涯に1000タイトル以上の著作を残したと、良く引用がなされています。ビアブライアー M. L. Bierbrierによる「エジプト学者総覧」(Bierbrier 1995 [3rd ed.])のさらなる改訂版がロンドンのEgypt Exploration Societyから出版されるということで、非常に楽しみですが、物故者だけを対象としたこの総覧の第3版にもそう書かれていたはず。
ピートリーによる著作の総リストをまとめているのはアップヒルで、今ではこれを無償でダウンロードすることができる模様。

Eric P. Uphill
"A Bibliography of Sir William Matthew Flinders Petrie (1853-1942),"
Journal of Near Eastern Studies (JNES) 31:4 (October 1972),
pp. 356-379.
http://www.yare.freeola.org/bibliographies/wmfpetrie.pdf

死後30年経って、誰もやっていなかったからアップヒルが書いているということになります。そういえばピートリーの伝記も、出版はかなり遅れました。ウォーリス・バッジの伝記は酒井傳六氏による日本語でしか出ていませんし、意外と穴があるなと思われます。

ピートリーによるすべての著作がまとめられているこのリストを見ると、Nature誌にたくさん寄稿していたことが改めて分かります。エジプト学の発見を、いち早く科学総合誌にて伝えようとしていたことが了解され、彼の広い視野に基づく姿勢を垣間見ることのできる文献リスト。たぶんエジプト学を他領域の学問へ密接に繋げようという強い意図があったのではないでしょうか。
でもピートリーは晩年、イスラエル考古学へと興味を移しました。エジプト学はもういいや、と思ったらしい点は明らか。

以前にも言及しましたがピートリーは建築学の素養があった人で、建物の計測結果の記し方からもその点は注目されます(Petrie 1892)。
古代エジプトの単位長や物差しについてNature誌に発表している点も面白い。高名なアイザック・ニュートンの画期的な見方(Newton 1737)にも触れています。
ニュートンは、ピラミッドの実測をおこなったイギリスの天文学者ジョン・グリーヴス(Greaves 1646; Birch (ed.) 1737)の著作から示唆を受けており、要するに建物の測り方によっては歴史上に百年単位で名を残す人が何名かいるのですが、大多数の他の者のやり方はまったく駄目だということ。それは計測の精度とまったく関係ありません。「数値をどう構造的に見るか」が問題で、これは建築に携わる者にとって大きな教訓となっています。
因みにグリーヴスの名前は、古代ローマ時代における基準単位長を突き止めた人としても良く知られており、古代建築に関し、この人の果たした役割は重要かと思います。古代ローマ尺における1フィート=296mm、という値の推定はグリーヴスの功績。この論考はBirch (ed.) 1737をダウンロードすることによって確認することができます。

アップヒルは他にも面白い本を出しており、ペル・ラメセス(ピラメッセ)における巨大な彫像の断片の大きさから全高を推定するなど、情報をどのように組み合わせて遺構の総体を得るかという問題に関して先鋭的な感覚を持っている人。
古代エジプトに造られた迷路として知られているアメンエムハト3世のハワラの遺構についても、大胆な復原図の作成を試みています。これはヘロドトスが記していることで有名な巨大な迷宮。

古代エジプトの王宮に関しても研究を進めている学徒で、Ucko, Tringham and Dimbleby (eds.) 1972という厚い本の中では、"The Concept of the Egyptian Palace as a Ruling Machine"という題の考察を発表しており、注目されました。
マルカタ王宮に関しても手稿が書かれています。メトロポリタン美術館に行った時、このことを知りました。
アップヒルの代表的な刊行物は次の通り。

Eric P. Uphill
The Temple of Per Ramesses
(Aris & Phillips: Warminster, 1984)
xiii, 254 p., 21 plates.

Eric P. Uphill
Pharaoh's Gateway to Eternity: The Hawara Labyrinth of King Amenemhat III.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International: London, 2000)
xiv, 103 p., 29 plates, 27 figures.

なお、古代エジプトの都市や集落についての簡単な入門書も出しています。

Eric P. Uphill
Egyptian Towns and Cities.
Shire Egyptology 8
(Shire Publications: Aylesbury, 1988)
72 p.

2012年6月18日月曜日

Yegül 1995


古代ローマの公共浴場については、20世紀末期に出版された包括的な専門の研究書が注目されます。
公共浴場を示すテルマエ thermae は古代ギリシャ語の「テルモス(温かい)」が語源で温浴場の意味。体温計を意味する英語のサーモメーター thermometer や温度を調節する器械であるサーモスタット thermostat などの他、日本の医療会社の名前「テルモ」のもととなっているようです。
テルマエ・ロマエ Thermae Romaeというように、thermaeは複数形をとるのが通例。この場合、女性名詞の地名Romaの地格が続き、それはこの語の単数属格と同じです。

共同浴場 thermae はひとつの大きな建物内に複数の男女別、またカルダリウム caldarium(高温浴場)、テピダリウム tepidarium(温浴場)、フリギダリウム frigidarium (冷浴場)を備え、温度が異なる3つの浴場を備えたという点が面白いところ。
frigidariumというラテン語の綴りから「冷蔵庫 refrigerator」の英語の綴りを直ちに思い出された方は鋭いと思います。日本語で「冷たい」という意味の語根を共通して持っています。

「公共浴場」という名称から思い起こされる範疇を超えて、ここには走り回るための陸上競技走路が設けられることもありました。フィットネス・ジムと、その後の疲れの癒しのため利用するスパが合体された豪華な施設、あるいは温泉健康ランドの原型が、はるか昔からあったというわけです。
Delaine 1997では、大規模なカラカラ浴場の建造過程と、これを建てるために必要な資材と労力を積算するという試みがおこなわれており、とても注目される著作。
なお、共同浴場の具体的な平面の設計方法についてはWilson Jones 2000にて分かりやすく図解されています。

しかし下記の労作も重要で、500ページを費やし、古代における共同浴場の全般を記しています。こういう本は長い間、待たれていました。

Fikret Yegül
Baths and Bathing in Classical Antiquity
(Architectural History Foundation and the Massachusetts Institute of Technology, New York, 1992)
ix, 501p.

個別の遺構の報告ということであるならば、近年の例として

Andrew Farrington
The Roman Baths of Lycia: An Architectural Study.
British Institute of Archaeology at Ankara, Monograph 20
(British Institute of Archaeology at Ankara, London, 1995)
xxv, 176p., 202 plates.

が挙げられると思います。

2012年6月2日土曜日

Lavin 1992


カトルメール・ド・カンシーに関する博士論文を刊行した書。カトルメール・ド・カンシー Quatremère de Quincy はエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts 国立高等美術学校)において有力者であった人ですが、古代エジプト建築に関し、早い時代に評論を書いたことでも名を残しています。ナポレオンの「エジプト誌」が刊行される前の18世紀末の話。

Lavinの博士論文の主査を務めたのはコロンビア大学のロビン・ミドルトン Robin Middleton で、高名な建築史の研究者。謝辞の中には建築評論家ケネス・フランプトン Kenneth Frampton の名もうかがわれます。Lavinの面白そうな近著も出ていますが、いずれまたの機会に。

Sylvia Lavin,
Quatremère de Quincy and the Invention of a Modern Language of Architecture
(MIT Press, Cambridge, Massachusetts and London 1992)
xvi, 334 p.

Contents:

Acknowledgments (viii)
Preface (x)

Introduction: Quatremère de Quincy and the Genesis of the Prix Caylus (p. 2)

I. Origins (p. 18)
II. Architectural Etymology (p. 62)
III. The Language of Imitation (p. 102)
IV. The Republic of the Arts (p. 148)

Conclusion: The Sociality of Modern Language of Architecture (p. 176)

Appendixes A-E (p. 186)
Notes (p. 200)
Bibliography (p. 292)
Index (p. 328)

古代エジプトの神殿の空間構成について、「奥へ行くに従って部屋が小さくなる。床面も徐々に上げられ、天井は少しずつ下げられる。同時に室内へ導かれる光も限定されていく」と説明するやり方は今でも良く見られ、もう通俗化していると言ってもいいと思われますが、これは19世紀末期にショワジーがすでに述べていること(Choisy 1899)。ここ100年以上、言い方が変わっていないわけです。

"Dans la plupart des temples, à mesure qu'on approche du sanctuaire, le sol s'élève et les plafonds s'abaissent, l'obscurité croît et le symbole sacré n'apparaît qu'environné d'une lueur crépusculaire."
(Choisy 1899: I, 60)

でも最初の頃は、かなり違った捉え方がなされていたらしく思われます。
カトルメール・ド・カンシーは1785年、古代エジプト建築に関する論文の公募に応じましたが、後にこの論文の改訂と増補をおこない、ページ数を倍増させて1803年に出版。両者の間ではかなりの内容の変更がうかがわれ、Lavinのこの本は彼の思想の劇的な変転とその後の展開に焦点を当てています。当初書かれたカトルメールの論文を読み解いて、古代エジプトの神殿に関し、Lavin

"Egyptian temples, according to Quatremère, were an assemblage of porticoes, courts, vestibules, galleries, and rooms, one linked to the next and the whole enclosed by a wall. This multiplicity of parts, while apparently an exception to the rule of uniformity, was in fact its product. He contends that this internal subdivision was created intentionally to counterbalance the lack of variety offered by the model of the original cave dwelling but that its effect was reduced by the absolute and repetitive regularity with which the separate units were distributed."
(Lavin 1992: 25-6)

と記しており、興味が惹かれます。ショワジーによる論述との差異は明らか。カトルメールの論文は、フリーメーソンに大きな影響を与えたことが建築史家カールによって指摘されています(Curl 1991)。
建築装置として、さまざまに異なったものが長軸上に並べられていたとするカトルメールの見方を、たとえば

A - B - C - D - ...

と表記することができるとするならば、ショワジーの観点は

A - A' - A'' - A''' - ...

とあらわすことができ、この違いがきわめて面白い。
出版されたカトルメールの論考は、ダウンロードして読むことが可能。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
De l'architecture égyptienne: considérée dans son origine, ses principes et son gôut, et comparée sous les mêmes rapports à l'architecture grecque.
Dissertation qui a rempotré, en 1785, le prix proposé par l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres
(Paris, 1803)
xii, 268 p., 18 planches.
http://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/quatremeredequincy1803

初稿に関しては、LavinがAppendix Bの中で言及。

Antoine-Chrysostome Quatremère de Quincy,
manuscript (Archives de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, Prix Caylus, 1785, MS D74)

なおLavinの本が出版された同じ年に、下記の論考が日本で刊行されています。

白井秀和
「カトルメール・ド・カンシーの建築論:小屋・自然・美をめぐって」
(ナカニシヤ出版、1992年)
171 p.

2012年4月2日月曜日

Tosi 1999


古代エジプトにおける貴族墓に収められた数々の副葬品の量と質によって、彼らが当時占めていた社会的な地位の高さが推し量れるのではないかという論議は昔からありましたけれども、それを数理学的に扱えないかという問いがあって、その土台を構築したのがJ. Janssenの主著。
Janssen 1975については、すでに別の項にて触れたことがありました(Janssen 2009)。ここで再び挙げておきます。
Janssenは惜しくも近年亡くなりましたが、J. Cernyによる研究のモティーフを正しく継承し、「メディーナ学」とも言うべき分野を新しく打ち立てた人。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)と呼ばれるこの小さな村落の様態を対象として、古代エジプト人の生活の解明に人生を捧げた研究者でした。
CernyJanssenの両名が成し遂げた仕事の重要性は、これから後、さらに深く討議されることとなるように思われます。

Jac. J. Janssen,
Commodity Prices from the Ramessid Period:
An Economic Study of the Village of Necropolis Workmen at Thebes

(E. J. Brill, Leiden, 1975)
xxvi, 601 p.

例えばテーベの新王国時代の貴族墓において、家具や「死者の書」のパピルスが収められていたならば、それは社会的に、より地位が高かった証拠とみなされています。これは特定の物品の有無、あるいはそれらの個数によっての判断。
一方でラメセス時代を主としたテーベにおける物品の相対的な「価値」というものが上述したJanssenの著書によって判明していますので、これに基づいて墓に収められた一切の副葬品の、おおよその「価値」を求めることが可能となります。石灰岩片に記された多数の文字資料(オストラカ)の読解によって、このことが明らかになりました。

ここで注意すべきは、「デベン deben」として示される価値が新王国時代末期のテーベ、もっと正確に言うと、ディール・アル=マディーナという狭い村の中でのみでしか認められないという制約がある点で、これを他の時代、あるいは同時代の他地域に拡張し、ものごとを言うことは困難です。
「貨幣の成立」という、世界史における大きな問題に対し、この事象がどこまで関わるのかについては、B. J. Kempによる主著の初版が刊行された際にJanssenが書評で要点を述べているはず。
ここには当時良く読まれたポランニーなどの考え方も関わっており、今後も検討が重ねられるかと思います。

Janssenの考えを受け、当時の副葬品の価値を「数値」として換算し、墓内における品々全部の価値を導こうとした論文が後代に出ること自体は不思議ではありませんでしたが、M. TosiL. Meskellの二人が、ほとんど同じ時期に建築家カーとその妻メリトの墓(TT 8)の副葬品の総価値について発表をおこなっているというのがとても面白い。またその副葬品の、細かい扱いが異なっているのが注目されるべきところ。
何故、カーとメリトという夫妻の墓が選ばれているのか、こういった点にもこの墓の重要性があらわれています。

Mario Tosi,
"Il valore in "denaro" di un corredo sepolcrale dell'antico Egitto",
Aegyptus: Rivista italiana di egittologia e di papyrologia 79 (1999),
pp. 19-29.

Lynn Meskell,
"Intimate archaeologies: the case of Kha and Merit",
World Archaeology 29:3 (1998),
pp. 363-379.

M. Tosiの方がTT 8の副葬品に関する「デベン」の換算をより詳しく表にして記しているので、ここでは彼の論考を当ブログの主題として掲げましたが、二人とも同時期に執筆している論文であるため、当然のことながら参考文献の欄ではお互いの論考をリストアップしていません。これをすれ違っていると見るか、それとも同じモティーフを同時期、知らずに追っていたと見るべきか。
Meskellが書いた本に関しては、前に述べたことがありました(Meskell 2002)。

Menu (2010)のところで挙げたように、第18王朝末におけるオストラカに関しては未だ資料の公開が充分におこなわれていないという難点が指摘されています。近年のDemaréeの論考が重要で、第18王朝末を生きたカーとメリトの副葬品のデベンへの換算に慎重さが必要である所以。
つまり第18王朝末期と第19・20王朝とでは様相が異なる、という含意がうかがわれます。

Robert J. Demarée,
"The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina:
A Preliminary Update,"
in B. Menu ed., L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie:
Colloque AIDEA, Nice 4-5 octobre 2004
(Le Caire, Institut Français d'Archéologie Orientale, 2010),
pp. 185-192.

カー(Kha)とその妻メリト(Merit, or Meryt)の墓における木製遺品の中で、大きなものとしては橇に載せられた木棺や寝台、また墓の入口の扉などがまず挙げられるでしょうか。
その次にはメリトの鬘(かつら)箱といった、非常に特殊でとても大きな木製の箱が注目されるはず。
「デベン」に換算するならば、この特別な鬘箱が一体どのくらいの価値になるのかどうか。こういった問題は、しかし二人とも回避しているように思われます。その点に興味がつのります。

メリトの鬘箱に関する実測調査の結果については以下を参照。

西本直子
「メリトの鬘箱(Inv.S.8493、トリノ博物館蔵)について」、
武蔵野大学環境研究所紀要 No. 1 (2012) [ISSN 2186-6422],

2012年3月30日金曜日

VA (Varia Aegyptiaca) 1985-


Varia Aegyptiaca (VA)は高さ20cmほどの、灰色の表紙を装丁とした魅力的な小冊子。基本的に年3回発行。たぶんエジプト学に関わる専門の定期刊行物の中で、もっとも書誌が良く分からなくなっているもののうちのひとつかと感じられます。
かなり昔のこととなりますけれども、Porter and Moss (PM)の編集をしているJ. Malekがエジプト学者たちのメーリングリストEEFEgyptologists' Electronic Forum)にて、「VAの最新号が何号まで出ているか知りませんか」といった内容を尋ねているのを見て、ああ最も知悉しているはずのこの人でも、やっぱり分からないんだと改めて思ったことがありました。

追跡がさらに難しかった、少数の内輪向けに回覧されたNew Kingdom Memphis Newsletter (1988-1995)などの冊子もありましたが、これらの号は今ではもう、Jacobus van DijkによってPDFで広く配信されています(http://www.jacobusvandijk.nl/NKMN.html)。
この種のものとはわけが違って、VAはれっきとした年3回の定期刊行物。にも関わらず、創刊の時から第1号と第2号との合併号ということになっているのが、どうにも不思議。
編集者はエジプト学者のCharles Cornell Van Siclen IIIで、Van Siclen Booksという出版局をSan Antonioに構え、そこから刊行されています。

Varia Aegyptiaca (ISSN 0887-9026):

Vol. 1, Nos. 1-2 (August 1985)
Vol. 1, No. 3 (December 1985)
Vol. 2, No. 1 (April 1986)
Vol. 2, No. 2 (August 1986)
Vol. 2, No. 3 (December 1986)
Vol. 3, No. 1 (April 1987)
Vol. 3, No. 2 (August 1987)
Vol. 3, No. 3 (December 1987)
Vol. 4, No. 1 (April 1988)
Vol. 4, No. 2 (August 1988)
Vol. 4, No. 3 (December 1988)
Vol. 5, No. 1 (March 1989)
Vol. 5, Nos. 2-3 (June-September 1989)
Vol. 5, No. 4 (December 1989)
Vol. 6, Nos. 1-2 (April-August 1990)
Vol. 6, No. 3 (December 1990)
Vol. 7, No. 1 (April 1991)
Vol. 7, Nos. 2-3 (August-December 1991)
Vol. 8, No. 1 (April 1992)
Vol. 8, No. 2 (August 1992)
Vol. 8, No. 3 [not yet published?]
Vol. 9, Nos. 1-2 (1993)
Vol. 9, No. 3 [not yet published?]
Vol. 10, No. 1 [not yet published?]
Vol. 10, Nos. 2-3 (August-December 1995 [1997])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part I
Vol. 11, No. 1 (April 1996 [1998])
Iubilate Conlegae: Studies in Memory of Abdel Aziz Sadek, Part II

第5巻では第4号が出ています。え、年3回発行のはずなのに。
エジプト学に関するすべての文献の収集をめざしているはずのOnline Egyptological Bibliography (OEB)を検索しても、果たして第8巻第3号や第9巻第3号などが出ているのかどうか、今なお不明なままです。しかしこういう点こそが面白いわけで、ヴァン・シクレンが既成の由緒ある諸雑誌とは別に、もう少し小回りの利いた定期刊行物を独自に出そうとした大きな志が重要。それとともに、編集作業の先を見て号数を飛ばしたものの、結局は出版が遅れている号があるという変則的な雑誌刊行の捻れが興味深い。
個人的には、エジプト学の興隆を強く願っているところをまず見るべきだと思います。

本来は1995年に出されるべきものが1997年に刊行された、第10巻第2-3合併号所収のPeter Der Manuelianの論文などについてはPDFが出回っていますが、そこではこの時点で"8/3 and 9/3 are not yet available"と印刷された出版社による巻末の告知のページまでもが含まれていて、当該雑誌の書誌に関する貴重な情報が得られます。
VAに関する分かりやすい一覧はネットでうかがわれないようでしたので、急遽作成してみました。ここで欠号として挙げているものについて、海外の研究機関にて実見された方より、訂正事項を詳しく御教示いただけましたら有り難い。

Z. Hawassによるギザのピラミディオンの報告を調べていく過程で偶然、VAの欠号に気づいたのですけれども、こうした空隙が何を意味するのか、改めて考えたくなります。
学者によってすでに言及されている点を追うことはこの時代、ネットが急速に展開して以来は容易くなっているのですが、「彼らによって書かれていないこと」は、ではいったいどう見つけ出すのか。古くて新しい問題。もちろん研究というのは「誰もやってないことを見つけること」なのでしょうけれども、思わぬ陥穽があるようで。

VAは10年以上にわたって続けられた雑誌で、できれば十全な刊行を応援したいところ。
なお、別巻も刊行されています。

Supplement 1
Thierry Zimmer, Les grottes des crocodiles de Maabdah (Samoun): Un cas extrême d'analyse archéologique
(San Antonio, Van Siclen Books, 1987).

Supplement 2
Hans Goedicke, Studies in "The Instructions of King Amenemhet I for his Son", text and plates, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1988).

Supplement 3
Sheldon Lee Gosline, Bahariya Oasis Expedition, Season Report for 1988, Part I. Survey of Qarat Hilwah.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1990).

Supplement 4
Adel Farid, Die demotischen Inschriften der Strategen, 2 vols.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1993).

Supplement 5
Hans Goedicke, Comments on the "Famine Stela".
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

Supplement 6
Anthony J. Spalinger, Revolutions in time: Studies in Ancient Egyptian Calendrics.
(San Antonio, Van Siclen Books, 1994).

2012年3月5日月曜日

Rammant-Peeters 1983


OLAのシリーズの中の知られた一冊。
新王国時代の神殿型貴族墓(tomb chapel:トゥーム・チャペル)の背後には、せいぜい高さが数メートルの、小さな規模のピラミッドが造られました。かつてピラミッドは王の墓であったわけですが、新王国時代に至るとその伝統が途絶え、代わりに貴族たちが真似して小さなものを建て始めます。
情報が錯綜しがちなのは、小さなピラミッドのかたちを「ピラミディオン」と言う点で、古王国時代の大きなピラミッドで最後に設置される四角錐の頂上石をこう呼ぶとともに、新王国時代の小さなピラミッドの全体もまた「ピラミディオン」と記されたりします。さらには、新王国時代のこの小さなピラミッドに置かれる頂上石も専門家によって「ピラミディオン」と名付けられており、混乱を招きやすい状態です。
ここで扱われるのは、新王国時代に建造された小さなピラミッドの頂上に置かれた四角錐の建材で、銘文や図像が記されているため、古代エジプトの葬制に関わる重要な史料となるわけです。

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Departement Oriéntalistiek, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

Table des matières

Introduction (ix)
Bibliographie et liste des abréviations (xiii)

Première partie. Inventaire des documents (p. 1)
I. Pièces conservées dans les musées. Doc. 1-72 (p. 3)
II. Pièces et fragments conservés à Deir el-Médina. Doc. 73-92 (p. 80)
III. Pièces dont le lieu de conservation est inconnu. Doc. 93-107 (p. 92)
IV. Mentions à ne pas retenir (p. 101)

Deuxième partie. Étude des documents (p. 103)
Chapitre I. Technique (p. 105)
Chapitre II. Provenance (p. 113)
Chapitre III. Décoration (p. 121)
Chapitre IV. Évolution chronologique (p. 133)
Chapitre V. Inscriptions (p. 139)
Chapitre VI. Fonction architecturale (p. 165)
Chapitre VII. Signification religieuse (p. 176)
Chapitre VIII. Orientation (p. 192)

Appendice: La documentation de Deir el-Médina (p. 202)
Index (p. 211)
Planches (p. 217)

出版されたのはもう30年ほど前となり、この後にいくつものピラミディオンが発見されているので改訂が望まれます。
建築の見地からは、最後の図46と図47が何を意味するかが貴重。
史料ではピラミディオンの4つの底辺を掲げており、長さが正確に同じでないことが明らか。正面から見た長さの方が、奥行よりも長い場合があって、いい加減といえばいい加減です。ピラミディオンの底辺の長さの1/2と高さとの比を挙げたのが図47になりますけれども、これはリンド数学パピルスで見られるセケド(skd; or sqd)を勘案して考察をおこなった結果で、さらなる研究が必要となるでしょう。
しかしピラミディオンの4つの斜面は曲面であることも多く、角度に関する判断は難しい。具体的な数値が記されていますが、これらの情報のさばき方が建築に携わる者にとって大きな問題となります。

2012年1月31日火曜日

BACE 22 (2011)


The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology
(BACE), Vol. 22 (2011)が送られてきました。 背表紙に紙が貼ってあり、誤って2008年と印刷された発行年が2011年に訂正されています。珍しいミス。
なお、ACEのHPを見たら、1〜21号までの全目次が掲載されており、とても有用。

この雑誌、早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されていますが、webcatには反映されていないように思われます。
目次を記しておきます。

The Bulletin of the Australian Centre for Egyptology, Vol. 22 (2011)
158 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian Bowen,
"The 2011 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

John Burn,
"The Pyramid Texts and Tomb Decoration in Dynasty Six:
The Tomb of Mehu at Saqqara" (p. 17)

Vivienne G. Callender,
"Notes on the Statuary from the Galarza Tomb in Giza" (p. 35)

Julien Cooper,
"The Geographic and Cosmographic Expression t3-nTr" (p. 47)

Jennifer Cromwell,
"A Case of Sibling Scribes in Coptic Thebes" (p. 67)

Arlette David,
"Devouring the Enemy:
Ancient Egyptian Metaphors of Domination" (p. 83)

Miral Lashien,
"Narrative in Old Kingdom Wall Scenes:
The Progress through Time and Space" (p. 101)

Silvia Lupo and Maria Beatriz Cremonte,
"Upper Egyptian Vessels at Tell el-Ghaba, North Sinai:
Local Elite Sumptuary Objects" (p. 115)

Samah Mahmood,
"Dating an Oil Lamp of Multicultural Design" (p. 129)

Anna-Latifa Mourad,
"Siege Scenes of the Old Kingdom" (p. 135)

最後の論文が面白かった。註が130以上も付されています。砦を包囲して攻略するため、はしごを高い城壁の外側からかけたりするのですが、このはしごの下には車輪がついており、移動が可能なように造られているのは明らか。「車」というものはこの時代、確かに知られていたわけです。
しかし古代エジプトにおいて、石材の運搬は車輪のついた台車に載せておこなわれたとは考えられていません。Arnold 1991の中で指摘されている通り。古代ギリシアの場合とは大きく違います。

車輪の有用性は知られていたのに、運搬用の台車や、重いものを引き上げるための滑車がなぜ活用されなかったのか。ここには堅い鉄という金属が、人間の歴史にとっていかに画期的であったかが関わってくると考えられています。古代エジプトでは銅や青銅をもっぱら用いる時代が長く続き、溶解させるに当たって非常な高温を必要とした鉄を扱うことが困難でした。
車軸や滑車の軸に青銅を用いても、荷重で簡単に曲ってしまい、役に立たなかったであろうという見方が支配的です。
しかし、古代エジプトだけは鉄の導入が遅れたとする解釈に対し、金属史の専門家からは「痕跡が見つかっていないだけではないのか」という反問が寄せられることもしばしば。

ただツタンカーメン王墓内の遺物やGuidotti (ed.) 2002でも見られるように、馬に引かせる戦車は新王国時代には類例がいくつか知られており、精緻な組み立てによる木製の車輪を見ることができるというのは興味深いところです。

2011年12月31日土曜日

Hartmann 1989


古都エルカブとネクベト女神に関する博士論文。
ドイツに留学中の安岡君が手配してくれ、マイクロフィッシュの形態にて頒布されていたこの論考にようやくアクセスすることができました。
註は1150を超え、初期王朝から神殿が造営されたエルカブの長い歴史を論述しています。 エルカブ(Elkab)、もしくはエル・カブ(El Kab)の表記も、さまざまなかたちがあって難しい。ここでも「ネケブ」は"Nekheb"ではなくてドイツ語表現の"Necheb"となり、ネクベトも"Nekhbet"ではなく、"Nechbet"と綴っています。ネットでの検索に時間がかかる原因。

Hartwig Hartmann,
Necheb und Nechbet: Untersuchungen zur Geschichte des Kultortes Elkab.
Deutsche Hochschulschrifften (DHS) 822
(Dissertation. Mainz 1993)
xx, 404 p., 38 Tafeln.

Inhalt

Abbildungsverzeichnis (vii)
Abkürzungsverzeichnis (ix)
Einleitung (xiii)

1. Das Delta des Wadi Hellal (1)
2. Die ältesten Quellen zur Geschichte Elkabs (14)
3. Der archäologische Befund im Fruchtland bis zum Ende des AR (39)
4. Die Tempelanlage im Fruchtland seit der 1. Zwischenzeit (78)
5. Die Tempelanlagen in der Wüste des AR und NR (129)
6. Die Götter in den Beamtengräbern von Elkab (220)
7. Beiträge zur Verwaltung und Prosopographie von Elkab (267)
8. Resümee und Ausblick (345)

Literaturverzeichnis (349)
Sachindex (377)

Abbildungen

手堅くまとめられたこの考察からはしかし、ネクベトにまつわる研究の広大な領域を改めて思い知らされます。
徹頭徹尾、ネクベト女神に関する図像学との関連を断ち切ることで成立しており、ベルギー隊によって長く調査が続けられているこの都市の歴史については、近年、大英博物館が発行している電子ジャーナルのBMSAESに掲載された論考(Limme 2008)などによっても知られますが、新王国時代以降に造営された多数の石造神殿や王墓といったモニュメントの天井に、両翼を広げたハゲワシの姿で描かれたネクベト画像がいかなる経緯によってあらわされるようになったのかについては不明。

アマルナの労働者集合住居の近くで発見された祠堂では、両翼を広げたネクベト画像が戸口のリンテル側面に描写されていました。その画像の復原がKempWeatherheadによっておこなわれています(Weatherhead and Kemp 2007)けれども、出土した画片が小さいために、全体像として参考にされているのはラメセス時代のものです。
彼らの意識の中では、描かれたネクベト像に格別、時代による様式の変化があったとは考えられていない点が明らか。どれも同じように見えるから当然です。しかし仔細に眺めると、時代が判別できるような相違が認められるように思われ、盲点があると感じられます。

天井画として同じように描写されるネクベトの様式に、実は差異があり、また向きにも法則性があるのではという点は、まだ誰も指摘していないはず。些細に思われることかもしれませんが、こういうところから世界をひっくり返す作業が始められるとも思われます。

Shoukry 2010


マルカタ王宮に関する最新の論考。
「マルカタ」の綴りは、この論文では"Malqatta"となっており、ここにはアラビア語の表音についての普遍的な難しい問題と、地名の意味をあらわす努力、及びマルカタが位置するルクソールの現地での方言の表記の問題が同時にあらわれ出ています。
マルカタ王宮については前にも何回か書きましたけれど、"Malkata"、"Malqata"、"Malgata"、"Malgatta"、"Malqatta"などのヴァリエーションが多数あることが注意されます。

Nermine M. Shoukry,
"Malqatta, une résidence royale d'Amenhotep III à Thèbes-Ouest",
Memnonia, Cahier supplémentaire 2.
Colloque international: Les temples de millions d'années et le pouvoir royal à Thèbes au Nouvel Empire,
sciences et nouvelles technologies appliquées à l'archéologie - Louqsor, 3-5 Janvier 2010.
(Le Caire 2010), pp. 209-227.

この書の目次は、次のサイトで見ることができます。

http://www.mafto.fr/publications/cahiers-supplementaires-des-memnonia/

Memnoniaは比較的若い専門誌で、1990年の創刊。もともとラメセウム(ラメセス2世葬祭殿の通称)の救済を目的として刊行された雑誌でした。緑色の鮮やかな表紙が印象的。その別巻にて国際会議の記録が出版されました。
ここで発表されているShoukryの論考は、ヘルワン大学で執筆されたという博士論文の概要に該当するらしく、このドクター論文が刊行されることを望みます。
マルカタ王宮に関する書誌を、もし手軽にネットで調べるということであるならば、

iMalqata:
http://imalqata.wordpress.com/

のサイトにおける「レポート」の項や、

UCLA Encyclopedia of Egyptology:
http://uee.ucla.edu/index.htm
http://escholarship.org/uc/nelc_uee

における「マルカタ」の項、あるいは

Theban Mapping Project:
http://www.tmpbibliography.com/resources/bibliography_6_other_areas_wb_malqata.html

のページなどがお勧めです。
しかしこうした場合には一次資料をまず提示することが優先されますので、いずれの文献リストにもO'Connor and Cline 1998の中のR. Johnsonによる論考やD. O'Connorの考察、またZiegler (ed.) 2002の中のDorothea Arnoldが書いている論文といったものが紹介されておらず、とても残念。
マルカタ王宮の全体構成を把握するには、本当はこれらの近年の論考から目を通す方が手っ取り早く、また基本的な問題を把握する上で重要だと思われます。
KellerShortlandによる科学分析を主とした論考も、近年は引用される度合いが増えてきました。これらの論文はメトロポリタン美術館による工房の発掘によって出土した遺物に基づいて書かれていますが、実際の工房に関する考古学からの具体的な報告は非常に乏しく、20世紀初期のBMMAの短報、あるいはHayesによるJNESの連続論文による断片的な報告のみが残されているだけで、部分的な再発掘をおこなったKemp and O'Connor 1974との併読が必要です(Site Jに関する記述を参照)。
水中考古学の専門誌に掲載されたこの論文はしかし、国内では入手しづらくて、苦労する文献。iMalqataのサイトでは現在、この論文をダウンロードできる状況にありますが、著作権を考慮せずにアップしていると思われ、いつまで閲覧できるかは不明。

Shoukryの論文でも、挙げられている文献はきわめて限定されています。この国際学会では考古学への最新の科学技術の適用をテーマとしているため、これにあわせて唐突に顔料の化学記号が出てきたりして戸惑いますけれども、この点は仕方ありません。王宮都市の紹介は施設ごとに丁寧な記述がなされています。非西欧の研究者によるマルカタ王宮の考察が進められているという点は、非常に喜ばしい。
マルカタ都市王宮内に建てられた諸施設の建造の順番にも考察が及んだらもっと良かったでしょうが、このトピックは今後、討議されるべき事項。

アマルナ王宮との比較、特に似ているところや共通点を考えることもおこなわれるべきですが、当該分野の権威であるバリー・ケンプが「ふたつの王宮はだいぶ違う」ということをすでに言ってしまっている(Kemp and Weatherhead 2000)ので、本格的に取り組む人はしばらく出てこないかもしれない。
臆することなく、ふたつの王宮を見比べて共通点を指摘するような人が、新しくこれから出てくることを期待しています。

2011年12月29日木曜日

Birch (ed.) 1737 [Works of John Greaves, 2 vols.]


クフ王のピラミッドに関する測量は、かなり古くからおこなわれていたようです。
でも外形ではなく、ピラミッド内部の計測となると、まったく別の話。

実測の結果に基づいて、オクスフォード大学の天文学者ジョン・グリーヴス(John Greaves: 1602-1652)は17世紀に「ピラミドグラフィア(Pyramidographia)」を著し、世界で初めて大ピラミッド(ギザ台地に立つクフ王のピラミッド)の断面図を公表しました(Greaves 1646)。この人は若い頃に接した計量学の先生の影響を受け、古代建築の基準長の分析に深い興味を抱いていた学徒でもあります。古代ローマの尺度を考えたりもしました。
またアラビア語文献にも通じており、中東への旅行中に、関連書籍の渉猟と収集に努めていたことが知られています。異文化に触れることに楽しみを覚える人だったのではないでしょうか。
こうした少数の者の努力によって、エジプト学の基本的な問題点が切り開かれていきます。

グリーヴスの研究業績をまとめた2巻本は彼の死後、およそ80年経ってからトーマス・バーチの編集によって出版されており、この書が今では無料でダウンロードできます。
編者であったバーチの偉いところは、本をまとめるに当たって関連文献も含めている点です。後世の読者への案内を充分に考えており、このことは貴重でした。グリーヴスの論考が後の人間たちに与えた影響をも具体的に示した結果、最終的にはフリンダース・ピートリというエジプト学の創設者を生み出す契機を促すこととなりました。

グリーヴスの考察に触発されたアイザック・ニュートンによって古代エジプトのキュービット尺の実長が突きとめられ(cf. Newton 1737)、もともとラテン語で書かれていたニュートンの手稿の英訳が、バーチによって本書の中に一緒に収められました。ニュートンはバビロニアの煉瓦を扱っているものの、古代建築の煉瓦の大きさが建物の設計寸法や、全体の煉瓦使用量の積算と関わりがあるのではと問いかけていて、建築学の見地からは重要です。
しかしニュートンのこの手稿は、生前には発表されなかった論文で、書誌はあまり明確ではありません。20世紀になってマイケル・セント・ジョン(Michael St. John)が編集したレプシウスの訳書であるLepsius 1865(English ed. 2000)の中で、ニュートンによるキュービットの論文を1737年としているのは、バーチ編集のこの本に基づいているらしく思われます。
この後、ピアッツィ・スミスによる本(1867)の中にも、ニュートンの論文の英訳は再録されました。

Thomas Birch (ed.),
Miscellaneous Works of Mr. John Greaves, Professor of Astronomy in the University of Oxford
(J. Hughs, London, 1737)

Vol. I:
http://books.google.co.jp/books/?id=Puk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

Vol. II:
http://books.google.co.jp/books?id=0uk0AAAAMAAJ&redir_esc=y

ここでは目次を割愛します。
バーチというと、古代エジプトではまずサミュエル・バーチが思い起こされますが、直接の関連はない模様。

第1巻の最初でグリーヴスの生涯が語られており、50歳で惜しくも亡くなった波乱の人生が披瀝されていて、これが面白い。
主著「ピラミドグラフィア」の記述にはいくつか誤りがあって、その指摘が読者からすぐになされており、それに対するグリーヴスの応答や訂正の計算などが収録されているというのも興味深い点です。誤りも遺漏もある報告書であったということです。しかし、多大な影響を及ぼした本であったという点に疑いはありません。
誤りがいくらか存在する本であっても、学問として大きく進展させる書物というのはあり得ます。大きな指標が示されるのであるならば、このようなことが可能であるわけです。

グリーヴスによるクフ王のピラミッドの大回廊の断面図に関する報告にも欠陥があり、この書の成果を前提として考察がなされたニュートンの論文では「1キュービットは6パームから構成されるであろう」という誤謬も記されています。
Maragioglio e Rinaldi 1963-1975での図面と比べるならば、この間違いは一目瞭然。でもそれを今、指摘することに対して大きな意味があるとは思えません。大事なことは、正確な情報に基づく考察とは一体何なのかを考えることです。

オクスフォード大学はニュートンが書いたラテン語の手稿を公開し始めており、原典のテクストに基づく比較検討も可能なようになってきました。新たな時代の到来ということを改めて感じます。
ピラミッドの計画寸法を考える上で見逃せない書。同時に、古代エジプトにおけるキュービット尺の実長を探る過程を改めて追う上でも欠かせない本になっていると思います。

2011年10月12日水曜日

Lepsius 1849-1913


Description 1809-1818のところで述べたように、C. R. レプシウス(1810-1884)による通称「デンクメーラー」はナポレオンの「エジプト誌」と並び、エジプト学の中では今でも重用される書で、大判の図版を用いた記念碑的な著作。ヒエログリフの記録なども見逃せません。でも改めて書誌を調べようとすると、けっこう事情が分からなくなります。
試しにPorter and Moss (PM), 8 vols.のうち、まず第1巻第1分冊(第2版)に掲載されている文献リストを見ると、

L. D. = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols., 1849-59.
L. D. Text = As above, Text. 5 vols., 1897-1913.

と示されており、図版編12巻+テキスト編5巻からなる点が知られ、全部で17巻であるように了解されます。 しかしその一方で、このPMの第3巻第2分冊(第2版)を引くと、

L. D. and Text = LEPSIUS (RICHARD), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. 12 vols. Berlin, 1849-59. Text, 5 vols. Leipzig, 1897-1913.
L. D. Ergänz. = LEPSIUS (R.), Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. Ergänzungsband. Leipzig, 1913.

と書かれていて、どうしたわけか、一冊増える計算に(!)。
確認のため、LÄ (Lexikon der Ägyptologie) 1975-1992を調べるならば、

LD = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, 12 Bde u. Erg.bd, Berlin 1849-58, Leipzig 1913.
LD Text = Karl Richard Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, Text. Hg. von Eduard Naville, 5 Bde, Leipzig 1897-1913.

と記されており、"u. Erg.bd"などという省略された記述を見落としがちになるのですが、図版編は結局、あわせて13巻になる様子。
実は一冊増えることになるこの図版編の本は、レプシウスの死後、彼の遺したノートをもとにまとめられたテキスト編(全5冊)の刊行とともに出版された大判の図版に起因しており、これを含めるか含めないかで全体の冊数が変わってきます。

「デンクメーラー」については、図版編とテキスト編との書誌を分けた方が良いかと思われます。
まずは図版編の、初版の書誌です。図版編は大きく6つに分割されました。
原書の表紙における主タイトルではドイツ語のウムラウト記号が用いられていないので、ここではこれを尊重して倣います。レプシウスの姓名の最初も"Karl"と表記される例がありますけれども、このページでは原書の表紙に従って"Carl"とします。"Architectur"という表記もそのまま。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien (Tafelbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
6 Abteilungen in 12 Bände.
(Nicolaische Buchhandlung, Berlin, 1849-1859)

Band I: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt I-LXVI.
Band II: Abtheilung I. Topographie und Architectur. Blatt LXVII-CXLV.
Band III: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt I-LXXXI.
Band IV: Abtheilung II. Denkmaeler des alten Reichs. Blatt LXXII-CLIII.
Band V: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt I-XC.
Band VI: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt XCI-CLXXII.
Band VII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CLXXIII-CCXLII.
Band VIII: Abtheilung III. Denkmaeler des neuen Reichs. Blatt CCXLIII-CCCIV.
Band IX: Abtheilung IV. Denkmaeler aus der Zeit der griechischen und roemischen Herrschaft. Blatt I-XC.
Band X: Abtheilung V, Aethiopische Denkmaeler. Blatt I-LXXV.
Band XI: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt I-LXIX.
Band XII: Abtheilung VI. Inschriften mit Ausschluss der hieroglyphischen. Blatt LXX-CXXVII.

この12冊の各巻が、何年に刊行されたのかが明瞭ではありません。
さて、レプシウスが亡くなった後、レプシウスの遺したフィールド・ノートに基づいてE. ナヴィーユが編集をおこない、テキスト編の5巻とともに図版編の1冊が刊行されました。
出版社はベルリンからライプチヒへと移ります。ナヴィーユを中心とし、L. ボルヒャルト、K. ゼーテたちが関わりましたが、巻によって変更が見られます。
これら5巻のテキスト編に関しては、発行年が明瞭。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien, Text (Textbände):
nach den Zeichnungen der von Seiner Majestät dem Koenige von Preussen Friedrich Wilhelm IV nach diesen Ländem gesendeten und in den Jahren 1842-1845 ausgeführten wissenschaftlichen Expedition.
5 Bände.
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1897-1913)

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band I: Unteraegypten und Memphis
(1897)
238 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band II: Mittelaegypten mit dem Faijum
(1904)
261 p.

Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band III: Theben
(1900)
310 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Band IV: Oberaegypten
(1901)
176 p.

Herausgegeben von Eduard Naville.
Bearbeitet von Walter Wreszinski, mit einer konkordanz für alle Tafel und Textbände von Hermann Grapow.
Band V: Nubien, Hammamat, Sinai, Syrien und europäische Museen
(1913)
406 p.

この出版に関わった人物たちは錚々たる顔ぶれで、いずれもエジプト学では良く知られている学者ばかり。出版された順番も興味深く、古代エジプトの遺構のうちで、中エジプトを扱った第2巻の刊行は遅れています。
テキスト編の第5巻が刊行された時、一緒に出された大判の新たな図版編が以下の書。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
Herausgegeben von Eduard Naville,
unter mitwirkung von Ludwig Borchardt.
Bearbeitet von Kurt Sethe.
Ergänzungsband
(J. C. Hinrichs'sche Buchhandlung, Leipzig, 1913)
(iv), 63 Tafeln.

時代が経って1970年代に至ると、これらのリプリントがようやく出回るようになります。
まずはテキスト編の再版とともに、大きな図版編を原版のサイズでリプリントしたものが出版されました。カラー図版もそのまま再現していますので、利用価値は大です。参考までに本の高さも下記の書誌には記しました。
出版地は、さらに転じてオスナブリュック。13巻の図版編は合冊して7巻に仕立てており、ここには1913年に刊行されたErgänzungsbandも含まれています。7冊全部をあわせ、厚さは20センチ弱程度であったかと記憶します。 テキスト編は3巻に合本。
ですがこの版は、もう入手が困難かもしれません。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.
(Neudruck der Ausgabe 1849-1858. Biblio-Verlag, Osnabrück, 1970-1972)
Tafelband: 64 cm. Textband: 30 cm.

Tafelband I-II (1972)
Tafelband III-IV (1972)
Tafelband V-VI (1970)
Tafelband VII-VIII (1970)
Tafelband IX-X (1970)
Tafelband XI-XII (1970-72)
Ergänzungsband (1972)

Textband I-II (1970)
Textband III-IV (1970)
Textband V (1970)

この直後に、ジュネーヴからはモノクロの縮刷版が出版されました。
エジプト学の研究者の間では、オスナブリュックから再版されたものよりも、こちらの版の方が広く知られているかと思われます。まずは図版編の縮刷版が出版され、次いでテキスト編が上梓されました。図はすべてA4版に縮小されている版。
テキスト編は原本通りに全5巻で出版されましたが、図版編はオスナブリュックの版と同様、やはり合本されて7冊にまとめられています。
この版も入手は今、難しくなっているようです。

Carl Richard Lepsius,
Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien.

Collection publiée sous l'égide du Centre de Documentation du Monde Oriental
[Réduction photographique de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1972-73)
30 cm.

Abtheilung I. Vol. I et II (Pl. I-CXLV) (1972?)
Abtheilung II. Vol. III et IV (Pl. I-CLIII) (1972)
Abtheilung III. Vol. V et VI (Pl. I-CLXXII) (1972)
Abtheilung III. Vol. VII et VIII (Pl. CLXXIII-CCCIV) (1972)
Abtheilung IV. Vol. IX (Pl. I-XC) (1973)
Abtheilung V. Vol. X (Pl. I-LXXV) (1973)
Abtheilung VI. Vol. XI et XII (Pl. I-CXXVII) (1973)

Collection des Classique Égyptologiques
[Reprographie A4 de l'édition originale]
(Éditions de Belles-lettres, Genève, 1975)
30 cm.

Text, vol. I. x, 238 p.
Text, vol. II. (v), 261 p.
Text, vol. III. (iii), 310 p.
Text, vol. IV. (v), 176 p.
Text, vol. V. viii, 406 p.

インターネットにて「デンクメーラー」を見ることができると以前、書きましたけれど、そこでは解像度が落とされており、また表紙などもスキャンされていません。制限がやはりあるわけです。

C. R. Lepsius: Denkmaeler aus Aegypten und Aethiopien:
http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/start.html

こうした情報をどのように使うかが問われる点。
インターネット上ではごく最近、「デンクメーラー」のリプリントをまた見かけるようになりましたが、この偉大な書は古代エジプトにおける遺跡を十数巻にわたって紹介しているモニュメンタルな本ですので、図版編なのかテキスト編なのか、あるいはそのうちの何巻目を出版しているのか、ページ数や図版の枚数などがちゃんと揃っているのかなどを確認することが必要となってきます。
残念なことに、ネット上に公開されている文献資料をそのまま印刷に回して販売するという悪質な書籍の売り方をする者も出てきました。充分な注意が求められます。

2011年10月8日土曜日

Zignani 2010


デンデラのハトホル神殿に関する建築報告書。この遺構は古代エジプトにおけるグレコ・ローマ時代、すなわちプトレマイオス朝に建立された代表的な神殿です。
この神殿についてはすでに十数冊もの報告書がフランス・オリエント考古学研究所(Institut Français d'Archéologie Orientale: IFAO)からシリーズとして刊行されており、Émile ChassinatFrançois DaumasSylvie Cauvilleたちによるものが広く知られていますが、神殿の名前の綴りが"Dendera"ではなく、IFAOにおいて近年は"Dendara"に統一された様子。文献を検索する側にとっては、手間がまた増えた感じがあります。
第1巻から5巻までの古い本を一括してまとめたリプリントも出ているようで、それはそれで便利なのですけれども、同時にこの再版ではタイトルの神殿名も綴りが変更されているらしく、引用の際には注意が必要です。
この本を貸してくださった大橋さん、感謝申し上げます。

Pierre Zignani,
Le temple d'Hathor à Dendara:
Relevés et étude architecturale
,
2 tomes. (texte et planches)
IFAO, Bibliothèque d'Étude (BiEtud) 146/1 et 2.
IF 997
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO): Le Caire, 2010)
xii, 421 p., 2 plans de situation + 39 planches.

Sommaire:

Remerciements (p. xi)

Chapitre I. Liminaire (p. 1)
Chapitre II. L'environnement du sanctuaire d'Hathor (p. 31)
Chapitre III. Description du temple d'Hathor (p. 81)
Chapitre IV. La composition de l'espase (p. 151)
Chapitre V. L'usage de l'espase (p. 209)
Chapitre VI. La construction du temple (p. 311)
Chapitre VII. Conclusion (p. 385)

Bibliographie (p. 389)
Table des figures (p. 409)
Plans de situation (p. 423)

これまでデンデラ神殿の基本図(平面図・立面図・断面図)といえば、

Émile Chassinat,
Le temple de Dendera, tome 5
(IFAO, Le Caire, 1947)

に所収された図版編に頼るしかありませんでしたが、もう少し詳しい大判の図版が多数、付け足されています。

Zignaniは1990年代の後半からデンデラ神殿について論文を発表していますけれど、特に

Éric Aubourg et Pierre Zignani,
"Espaces, lumières et composition architecturale au temple d'Hathor à Dendara:
Résultats préliminaires,"
Bulletin de l'Institute Français d'Archéologie Orientale (BIFAO) 100 (2000), pp. 47-77.

は本書の要約となっており、比較すると面白い。30ページほどありますが、本書が出る10年前の短報。
以前にも記した通り、100冊以上に登るBIFAOのバックナンバーは近刊を除き、すべて無料で閲覧することができます。PDFのダウンロードに要する時間がかかるのが難点。

BIFAO:
http://www.ifao.egnet.net/bifao/

BIFAO 100 (2000)の論考( 以下、Aubourg & Zignani 2000と略記)では、註記の一番最初にル・コルビュジェ(Le Corbusier)の高名な著作、「建築をめざして Vers une architecture (Paris, 1923)」が引用されており、古代エジプト建築の報告文に、巨匠とされる近代建築家の名が挙げられるのは珍しいと思っていましたら、本書ではなんと、参照する建築家をすげ替えて、ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn)が代わりに冒頭で挙げられています(p. 7)。
この建築家は「沈黙と光」という題の本を出版していますから、確かにコルビュジェよりは、Zignaniの意向に沿っているように思われます。
コルビュジェの著作としては「モデュロール」の2巻本が参考文献リストに載っており、「建築をめざして」についてはもはや触れられていません。

参考文献リストにルイス・カーンの名前が出ている古代エジプトの建築報告書というものを初めて見ました。本書の第1巻(テキスト編)の巻末に見られる文献リストには、上記のAubourg & Zignani 2000が記されていないというのも面白い。 共同執筆論文とは言え、自分が関わって30ページほど書いた研究論文を、最終報告書の中で引用することをやめているわけです。
ちなみに、古代エジプト時代とその後のグレコ・ローマ時代の建築を分けつつ、資料が多く残る後者から情報を可能な限り汲み取ろうとするRossi 2004の参考文献リストでは、この人の研究業績のうち、[Aubourg &] Zignani 2000だけを掲載。Zignaniが厳密な測量をおこなった点を讃え、註記しています(pp. 171-2)。
共同執筆者の名前を省き、実質的に仕事をおこなった者の名だけを挙げるというやり方だと思われます。

「沈黙と光」という題の本を書いた近代建築家カーンの方が、コルビュジェよりもZignaniにとっては贔屓にしたい存在だったのではと書きましたが、これはAubourg & Zignani 2000ですでに顕著に見られる傾向から推測される点であって、その研究成果がこの報告書にも充分に反映されており、石造神殿の各所に設けられた小さな窓に関し、実に詳細な報告がなされています。
このように窓から建物の中に差し込む陽光(日光)について、また時間を追って移動する日射に関して細かく考察した例は、これまでなかったのでは。
年代が下り、成熟したかたちを示したエジプトの神殿建築の造り方に、さらにギリシアの考え方が流入して影響が与えられているものの、古代エジプト建築における建物内の光と影というテーマについて、初めて切り込んだ著書。

カーンはフォート・ウェインの劇場の設計において、バイオリンとそのケースという入れ子状の構成を考えましたが、デンデラ神殿における入れ子状の構成との関連性を探ってみることも面白い(cf. Hawass, Manuelian, and Hussein (eds.) 2010 [Fs. Edward Brovarski])。

2011年9月27日火曜日

Zoëga (Zoega) 1797


高さが45cmのフォリオ(大判の本)で、全部をあわせると700ページ近くもある大著です。
オベリスクを考える上で大切なこの18世紀の本が、$3,800にて購入できるというページを先ほど見つけました。今は円高ですから30万円ほど。
素直に考えると、安いと思います。・・・買いませんけれども。

イタリアに立つオベリスク、特にローマに残るオベリスクに関する徹底的な分析研究に際しては必携の書であることに間違いはありません。同時に、18世紀末のヨーロッパにおけるオベリスクの状況が良く知られる資料。オベリスクに関連した第一級の参考図書、貴重文献となっています。
古代世界で強大なローマ帝国を打ち立てた現在のイタリアには、エジプトから何本ものオベリスクが苦労して運び込まれました。その中でも、中枢の都ローマはオベリスクがもっとも集中して搬入された場所。この狭い都市内だけで今日、10本以上のオベリスクが聳えており、この本数は本国のエジプト全土に立ち残っている本数を凌ぎます。
ただその中には古代ローマ時代に、エジプトのオベリスクを真似て造られたらしいものも混じっており、その見きわめが必要です。

キルヒャーがラテン語で書いた本(Kircher 1650)の後に出版された、オベリスクに詳しく言及する貴重な著作のひとつ。ヘロドトスやプリニウスなどをはじめとして、古代ギリシアや古代ローマの著作家たちがオベリスクについて触れた記述の部分を逐一、引き写すことをおこなっていて、冒頭の章ではこれに数十ページを費やしています。

xlページの参考文献リストを見ると、ギザのピラミッドの実測値を報告したGreaves 1646の論文も、フランス語の訳を通してちゃんと読んでいる様子。一方、古代エジプトの尺度を正しく推測した偉大な科学者のアイザック・ニュートンによる論考(Newton 1737)は掲げられていません。大旅行家であったRichard Pocockeの著作はしかし、リストアップされていて、この頃のヨーロッパにおける情報の行き来がどのような状態にあったのかが逆に憶測されます。

近年に出された本、例えばローマのオベリスクについて概説を述べているSorek 2010や、Iversen 1968-1972のうちの第1巻を入門書として見ると理解が早いのでは。Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009も重要。
現在、ローマに立っているオベリスクを紹介しているインターネットのサイトは国内外に複数、存在しています。立っている位置も詳しい地図で明示されており、たぶん1週間もあれば、全部を見て回ることができるでしょう。他の者よりもオベリスクを詳しく専門的に知りたい人にとって、この本は必読の書。
このように意義のある本が、何故エジプト学者にもさほど知られていないのかと言えば、オベリスクに関する形状の研究が全体的になおざりにされているからです。エジプト学において、遺構の平面分析はしますが、立体的な、あるいは構造的な数値の把握がなされることは稀です。
ですが、ピラミッドの分析よりも、オベリスクの分析にこそ古代エジプト建築の計画方法を解くための大事な鍵が隠されているように思われます。

大英博物館からかつて刊行された以下の著作(2巻本)の第1巻における「オベリスク」の章、また「ローマのオベリスク」の章では、著者であるZoëgaの略歴や、この本の内容がある程度、英語で説明されており、とても有用でお勧めです。情報は古いのですが、Zoëgaの論考を受け、後の19世紀においてオベリスクがどのように考えられていたのかが良く理解できます。
Google Booksでアップされており、厚い2冊が無料でダウンロードできます。

George Long (ed.),
The British Museum, Egyptian Antiquities, 2 vols.
(London 1832-1836)

Vol. I (1832):
http://books.google.com/books?id=KNg-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=The+British+Museum+Egyptian+antiquities+1832&hl=ja&ei=7Dp2TvGDCaSbmQXF4eTVDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false

Vol. II (1836):
http://books.google.com/books?id=CGkoAAAAYAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

さて、Zoëgaのこの著作は、やはりGoogle Booksにてダウンロードが可能となっています。
ドイツに留学中の安岡さんから御教示いただきました。いつもありがとうございます!

Jørgen Zoëga [Georgio Zoega],
De origine et usu obeliscorum, ad Pium Sextum Pontificem Maximum
(Roma 1797)
xl, 655 p., plates.
http://books.google.com/books?id=xoxCAAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=de&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

Praefatio (v)
Testimonium (viii)
Index (xxix)
Series peregrinatorum in Aegypto et Abessinia, quorum libri passim adducuntur (xl)

Sectio I. Veterum de obeliscis et de stelis Aegyptiis testimonia (p. 1)
Caput I. De obeliscis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 2)
Caput II. De stelis Aegyptiis ex auctoribus Graecis et Latinis (p. 32)
Caput III. Vetera obeliscorum epigrammata (p. 51)
Caput IV. Monumenta in quibus expressi cernuntur obelisci (p. 56)

Sectio II. Enarratio obeliscorum Aegyptiorum, qui hodie vel integri, vel aliqua sui parte superstites offenduntur (p. 65)
Caput I. Obelisci veteres Romae exsistentes (p. 66)
Caput II. Obelisci in Europae provinciis extra Urbem superstites (p. 83)
Caput III. Obelisci hodie exstantes in Aegypto et in Aethiopia (p. 92)

Sectio III. De usu obeliscorum in Aegypto (p. 127)
Caput I. De nomine obeliski (p. 127)
Caput II. De figura obeliscorum (p. 132)
Caput III. De materie e qua facti obelisci (p. 140)
Caput IV. De magnitudine obeliscorum (p. 144)
Caput V. De situ obeliscorum (p. 151)
Caput VI. Quo fine erecti fuerint obelisci (p. 156)
Caput VII. De argumento scalpturarum in obeliscis (p. 175)
Caput VIII. De mechanica obeliscorum (p. 184)

Sectio IV. De origine obeliscorum (p. 193)
Caput I. De monumentorum instituto (p. 193)
Caput II. Litterarum apud Aegyptios usus et origo (p. 423)
Caput III. De stelis Aegyptiis atque de obeliscis originem trahentibus a stelis (p. 571)

Sectio V. De historia obeliscorum (p. 596)
Caput I. Prima obeliscorum epocha (p. 596)
Caput II. Secunda epocha obeliscorum (p. 606)
Caput III. Tertia obeliscorum epocha (p. 609)
Caput IV. Quarta obeliscorum epocha (p. 623)
Caput V. Synopsis chronologica obeliscorum (p. 639)

Corrigenda et addenda (p. 645)

デンマークの学者による、オベリスクに関する初めての包括的、かつ冷静で客観的な考察、ということができます。「オベリスクの起源と用途」といった意味の原題がつけられました。
ローマに立っているオベリスクを中心に、その寸法などの報告も含めて記しつつ、本格的な論考が進められています。Kircher 1650の中で書かれている"De proportione Obeliscorum"「オベリスクのプロポーションについて」はここでも取り上げられていて、第3編第2章の"De figura obeliscorum"「オベリスクの形状について」はそれ故、建築学的にはたいへん重要な、注目される部分となります。ただし、ウィトルウィウス Vitruviusの「建築書」の影響を被っているかも、という点を勘案しなければなりません。

これまでKircherZoëgaがオベリスクの形状について述べている内容が、専門家によって詳細に論じられたことはないのでは。アメリカのワシントンに立っているオベリスクのモニュメントの基本設計に関わった外交官、ジョージ・パーキンズ・マーシュ George Perkins Marshがどこまで文献を読んでいたのか、この点も興味深く思われます(cf. Ashabranner 2002)。

本文はラテン語で、ここに古代ギリシア語、コプト語、ヘブライ語などがしばしば入り混じるのが日本人にとって辛いところ。

*  *  *  *  *

2019年9月に早稲田大学高等研究所講師の安岡義文さんから、何とこの本をプレゼントされました。彼は日本建築学会奨励賞を2019年に受賞。

https://www.aij.or.jp/images/prize/2019/pdf/6_award_015.pdf

ありがとう。さらに勉強を重ねます。
なお、今では以下の書も刊行されており、第17章でオベリスクの書について語られています(Emanuele M. Ciampini)。

Karen Ascani, Paola Buzi, and Daniela Picchi (eds.),
The Forgotten Scholar: Georg Zoëga 1755-1809: 
At the Dawn of Egyptology and Coptic Studies.
Culture and History of the Ancient Near East, Volume 74
(Leiden: Brill, 2015), xii, 267 p.

2011年9月26日月曜日

Gerner 1995 (French ed. of 1992)


木造建築の構法に関して活発に著作を刊行している人の本。フランクフルトの歴史的な木造建築の修復に携わった建築家で、以後、ヒマラヤの木造建築についての書など、世界で見られる木造構法を盛んに研究しています。
Zwerger (English ed. 1997)のところで書名だけ挙げましたが、ヨーロッパにおける伝統的な木造建築の継手・仕口を考える場合には筆頭に挙げられる本です。

Manfred Gerner,
adapté de l'allemand par Marc Genevrier,
Les assemblages des ossatures et charpentes en bois: construction, entretien, restauration
(Eyrolles, Paris, 1995. Édition en langue française, "Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer", Deutsche Verlags-Anstalt (DVA), Stuttgart, 1992, 191 p.)
190 p.

Sommarie:
Avant-propos (p. 15)

1. Assemblages en bois (p. 17)

2. Les assemblages de charpente (p. 43)
Classification systématique (p. 43)
-1. Entabures (p. 44)
-1.1 Assemblages en long
-1.2 Assemblages d'angle
-1.3 Assemblages en T

-2. Assemblages à tenons (p. 55)
-2.1 Assemblages en long
-2.2 Assemblages d'angle
-2.3 Assemblages en T
-2.4 Assemblages croisés

-3. Entures (p. 78)
-3.1 Assemblages en long
-3.2 Assemblages d'angle
-3.3 Assemblages en T
-3.4 Assemblages croisés

-4. Entaillures (p. 123)
-4.1 Assemblages d'angle
-4.2 Assemblages en T
-4.3 Assemblages croisés

-5. Enfourchements (p. 137)
-5.1 Assemblages en T

-6. Embrèvements (p. 141)
-6.1 Assemblages d'angle
-6.2 Assemblages transversaux
-6.3 Assemblages croisés

-7. Encochures (p. 152)
-7.1 Assemblages en T
-7.2 Assemblages croisés

-8. Assemblages massifs (p. 156)
-8.1 Assemblages d'angle
-8.2 Assemblages en T

-9. Assemblages de planches et rondins-Assemblages en largeur (p. 167)
-9.1 Assemblages en largeur

-10. Assemblages de réparation (p. 174)
-10.1 Assemblages traditionnels utilisés en réparation
-10.2 Assemblages spéciaux pour réparations

3. Principes de base (p. 181)

4. Techniques d'ingénierie, prothèses (p. 187)

ドイツ語版が原本で、そのフランス語訳の版。1992年のドイツ語版の入手は難しくなっています。当方も原書は未見。図版番号は振られず、また参考文献リストもフランス語の訳本では見当たりませんが、原本でも同じなのか、分かりません。
Graubner 1992 (English ed. of 1986)の項で触れたように、ヨーロッパで見られる継手・仕口と日本での例との比較はすでになされていますけれども、本書ではさらに徹底した体系化が考えられているのが大きな特色で、注目されます。理念的にまとめられた継手・仕口の拡がりの世界の提示という仕事。角材の幅を1とした時の、ほぞ穴の大きさや深さが分数で示されるなど、おそらくは総数で500点近くにのぼる線描図と添付の写真には圧倒されます。
冒頭では先史時代からの木材の用法について簡単に触れ、19ページでは古代エジプト時代の箱の造り方と木棺足部の組み立て方を示す図を掲載。ネパール(pp. 28-30)、ブータン(pp. 31-3)、日本(p. 34)、中国(pp. 35-6)、チベット(pp. 37-8)の木造構法にも短く言及しています。最終章ではガラス繊維による補強方法にまで記しており、興味深い。

ドイツ語版に所収の図版については、下山眞司氏のブログに抜粋が掲載されていますので、とても参考になります。この方の木造建築に対する考え方は重要。他の充実したページも必見。

下山眞司「建築をめぐる話:つくることの原点を考える」
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/07238886f1009bb190a2b01477aca69f(2007年2月22日)
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cec982fdcd0f78488c6a7ce164e29cda(2009年4月13日)

2011年9月25日日曜日

Graubner 1992 (English ed. of 1986)



もともとドイツ語で書かれた本の英訳。木工の継手・仕口に関する海外の本では、たびたび引用される書です。日本の継手・仕口が本格的に紹介されています。Zwerger (English ed.) 1997のところでも触れました。
"Joinery in Japanese Buildings"の節は大河直躬による執筆(pp. 20-3)。また写真で紹介されている継手・仕口は大工棟梁の田中文男と学生たちの制作、と書いてあります。謝辞には清家清宮崎清の名が挙げてあり、日本の専門家たちが協力していることが知られます。
Graubnerの原本では、日本とヨーロッパにおける木工の対比が副題にて明確に挙げられていましたが、英語の訳版では省かれました。
ドイツ語の原本は、順調に版を重ねている様子。当方が所有しているのは1997年の第6版。イギリスから出ています。

Wolfram Graubner,
Woodworking Joints
(B. T. Batsford, London, 1992. Original title: "Holzverbindungen: Gegenüberstellungen japanischer und europäischer Lösungen", Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart, 1986, 175 p.)
(vii), 151 p.

Contents:
Introduction (p. 1)
Wood Joints vs. Metal Fasteners
Fire and Wooden Joinery
Wood Protection
The Development of Wood Construction
Traditional Roof Construction
Traditional Chinese Wood Construction
Joinery in Japanese Buildings

Joint Forms (p. 25)
1. Splicing Joints (p. 28)
2. Oblique Joints (p. 64)
3. Corner and Cross Joints (82)
4. Edge Joints (p. 124)

Appendix (p. 146)
Index (p. 150)

それほど厚い本ではありません。

なお、Encyclopedia of Wood Joints というタイトルでアメリカの他社からも出版されている模様。
図版はきわめて豊富で、それぞれの継手・仕口を英語で何と訳せばいいのか、知りたい人には非常に役立つのではないでしょうか。カラー図版は表紙だけというのが残念。近年は国内で、カラー写真と継手・仕口の立体組み立て図を同時に見せる本が増えてきたので、併読することが望まれます。
冒頭には、

"To understand the 600 or so wood joints known to us today, it is important to grasp a few basic principles."
(p. 1)

とあって、数百にのぼるほど多岐にわたると言われる継手・仕口を系統立てて纏めていることが知られ、これが大きな特徴。日本では源愛日児による試みが知られています。

内田祥哉
「在来構法の研究:木造の継手仕口について」
(住宅総合研究財団、1993年)

を参照。

文化財建造物保存技術協会
「文化財建造物伝統技法集成:継手及び仕口」(上下巻)
(1986年。再版、東洋書林、2000年)

においても継手・仕口の体系化がおこなわれており、重要です。

Graubnerの英訳本では、参考書がまったく挙げられていないのが実に惜しい点です。ドイツ語版では172ページに35冊ほどを挙げています。

これ以外にも、ドイツ語版と比べると10ページほどが割愛されている模様。主に図版が抜けており、例えばドイツ語版の42-3ページには見開きで「和漢三才図会」に掲載されている大工道具の紹介があるのですけれども、英語版にはそれがありません。
しかしAppendixのところでは、

"Classification of European Wood Joints

In Europe, joints are usually classified according to the position of the mating members:

1. Splicing joints
2. Corner joints between timbers of equal width
3. Lap joints in which the top surfaces of the crossed members are flush
4. Cogged joints, assembled on corners or as a cross, in which the top surfaces of the mating members are not flush
5. Oblique joints
6 Edge joints between boards or timbers


Classification of Japanese Wood Joints

The Japanese classify wood joints into two main categories:
1. Edge joints between flat boards (types A to D)
2. Joints between timbers that are square or approximately square in section (types E to H)

Type A
Hagia-wase (sic)
Parallel or corner joints for increasing the width of boards in the same plane; often glued

Type B
Hirauchi-tsugi
Right-angled carcase joints for furniture, often in the form of mortise-and-tenon joints

Type C
Hashi-bame-tsugi
End-grain edging to prevent warpage

Type D
Kumite-tsugi
Finger joints, corresponding to Western dovetail joints, for joining boards at any angle

Type E
Tome-tsugi
Corner joints between square timbers that are mitered to hide the end grain

Type F
Ai-gaki-tsugi
Right-angled half-lap joints

Type G
Hozo-tsugi
Right-angled mortise (hozoana) and tenon (hozo) joints

Type H
Tsugite
Splicing joints for lengthening timbers"
(pp. 146-9)

と記しており、大まかには継手・仕口がヨーロッパでは6つ、また日本では8つに大別されると述べ、その後のページではドイツ語版に倣って、ここでも手書きによる
継手・仕口の多くの名前を漢字表記で掲載しているのが注意を惹きます。
今日、こうした分類方法に異議があるかもしれませんが、アジアとヨーロッパにおける木造の構法の比較を、多数の図版を交えながらドイツで1980年代におこなっている点が重要。

2011年9月24日土曜日

Hayes 1935


William Hayesの博士論文です。
新王国時代の第18王朝に属する王たちの石館に刻まれている碑文が、古王国時代のピラミッド・テキスト、中王国時代のコフィン・テキスト、またパピルスに記された「死者の書」などと密接な繋がりがあり、長い歴史を引き継いでいることを伝えています。

William Christopher Hayes,
Royal Sarcophagi of the XVIII Dynasty.
Princeton Monograph Series in Art and Archaeology: Quarto Series XIX
(Princeton University Press, Princeton, 1935)
xii, 211 p., XXV plates.

Contents:
Chapter I: Introduction (p. 1)
Chapter II: The Sarcophagi (p. 31)
Chapter III: The Decoration of the Sarcophagi (p. 61)
Chapter VI: The Royal Sarcophagi in Relation to the History of the XVIII Dynasty; General Conclusions (p. 138)

Appendix I: Catalogue of the Sarcophagi (p. 155)
Appendix II: The XVIII Dynasty Sarcophagus Texts: Parallels from the Pyramid Texts, from Middle Kingdom Coffin Inscriptions, and from the Book of the Dead (p. 172)

Selective Bibliography (p. 177)
Text Sheets (p. 183)
Index (p. 205)
Plates (I-XXV)

ドイツに留学中の安岡君に手配してもらい、コピーを入手することができました。
アメリカのメトロポリタン美術館に属していたことで知られるWilliam C. Hayesは、現場での作業を通じ、またA. Gardinerからヒエログリフの読み方を直接に教えてもらうなどして文字の読み方を習得した人です。Hayes 1937を参照。
彼の経歴を知る上では、Bierbrier 1995 (3rd ed.)が有用です。

この本の謝辞を読むと、古代エジプト建築についての書を刊行したボールドウィン・スミス(cf. Baldwin Smith 1938; Baldwin Smith 1950)の助力に言及しており、交流のあったことが確認されます。それぞれ、主著の執筆中であった時期ではなかったでしょうか。専門分野は異なりますが、有能なエジプト学者たちが触れ合っていた点がここでも確認され、面白い。

Raven 2005を読むと、第19王朝に属するRaiaの石棺であるにも関わらず、そこに記された文に関する研究に際しては、依然として未だHayesのこの本が有効であることが分かります。

"Most spells are taken from the well-known corpus dealt with by Hayes in his Royal Sarcophagi, although they have occasionally been shortened and simplified."
(Raven 2005, p. 63)

Hayesによる論考では、必ず一歩先に考察を進めるというやり方が顕著で、この本の場合では第18王朝のインスクリプションの祖型を探り、資料化している点が見るべきところ。これによって、書かれた内容の寿命が延長されるわけです。
Hayesの論文、

"A Selection of Tuthmoside Ostraca from Der el-Bahri",
Journal of Egyptian Archaeology (JEA) 46 (1960), pp. 29-52.

などでも同じで、題名は意図的に派手にしていませんが、各々のオストラカを読んだ上で、最後には時系列の順に並べ、建物が造られていく過程に触れるという立体的な考え方を示しています。これができるかどうかが分かれ目。

2011年9月23日金曜日

Fraser 1996


アレキサンダー大王は、アジア遠征の途中で次々と自分の名前をつけた都市を造ったばかりではなく、各都市間を結ぶ交通網の整備も勘案しました。アレキサンドリアという名の都市の数は数十にのぼったという逸話から、この本は語り始められています。

Peter Marshall Fraser,
Cities of Alexander the Great
(Oxford University Press, New York, 1996)
xi, 263 p.

ウンベルト・エコ(ウンベルト・エーコ)は、オクスフォード大学出版局による書籍の刊行元がオクスフォードにはなく、ニューヨークに置かれているのだということを強調し、著作の中でもわざわざ述べています(エコ 1977: Japanese ed. 1991)が、この本でも同じ。
出版地がオクスフォードなのか、それともニューヨークなのか。どちらでも構わないように思われますけれども、論文などで書籍を引用しようとした場合には、少なくとも当方の場合、困惑することがしばしばです。

フレーザーの主著としては、以下に掲げるエジプトのアレキサンドリアに関するものがまず挙げられるはず。
全部で3巻本。本文の第1巻よりも註記を収めた第2巻の方が厚く、第三巻目の索引の巻を含めるならば、総ページ数は2000ページを超えるという大書です。文献学者による論考ですから、過去におけるさまざまなテキストへの注釈やクロス・リファレンスが整備され、その積み重ねの網目として古代の代表的な都市がどのように浮かび上がってくるのかが眼目。
「アレキサンドリアの街並みを復元することは不可能だろう」と本文の冒頭近くには書いてあり、従って、ここでのアレキサンドリア研究というのは視覚的な復原を意味しません。

Peter Marshall Fraser,
Ptolemaic Alexandria, 3 vols.
(Oxford University Press, New York, 1972)

Vol. I: Text. xvi, 812 p.
Vol. II: Notes. xiii, 1116 p.
Vol. III: Indexes. iii, 157 p.

だとしたら、この欄で一番最初に紹介したMcKenzie 2007は、一体どのような位置づけなのかということになるかと思われます。
たぶん文献学者の側から考えるならば、雑駁な情報を詰め込んで、アレキサンドリアの平面を力技で復原したということになるのでは。マッケンジーが採用している方法は、近年の考古学的な発掘調査の結果や19世紀の絵画資料も含め、これまでの歴史の中で提示されてきた全ての情報を最大限に生かして組み合わせたらどうなるのかを問うています。

誤解を恐れずに言うならば、マッケンジーには古典古代の時代に生きた記録者たちによる文面をまず優先するという態度がありません。テキストであろうが図像資料であろうが、情報としてはすべて等価とみなして復原をおこなっています。美術史学者のマッケンジーにとって、視覚的な像に引き寄せることは暗黙の前提として考えられていて、フレーザーによる方法との違いの間には深淵が横たわっています。
議論がもっとも白熱するところ。正しいこととはいったい何なのかが同時に尋ねられています。

これはまた、建築報告書とは何かということを考えさせる点です。
建築作品の紹介ということを想起するならば、図面を載せ、写真を載せ、場合によってはウォーク・スルーの動画を載せ、文章でも説明するという方策が今では採られていますが、こうしたやり方は結局、建てられた実際の建築作品を中心に置きながら、その周囲においてさまざまなメディアを駆使して、逆に空洞となる中心を浮かび上がらせ、想像させるという方法に近くなっています。
解説の文章に多くの図版を付与するという斬新な方法はセバスティアーノ・セルリオ Sebastiano Serlio によって試みられましたけれども、彼によって編み出されたグラフィカルな手法とはまた違ってしまった、建築を表現しようとする奇妙な世界。
建築は実際に見に行かないと、良さは決して分からないなどという言い方がよくされますが、たぶん、この事情を敏感に察して語られていることなのでは。この種の言い方が古くからあったとはとうてい思われません。 訪れて視ることの豊穣さと、情報を熟知しないために見落とされる世界の大きさとの双方が言われ、それらの質的な違いも示唆されています。

2011年9月21日水曜日

Graffiti de la montagne thébaine (1969-1983)


テーベ西岸の懸崖などにうかがわれる新王国時代のグラフィティ(落書き)を集成したもの。
エジプトのドキュメンテーション・センター、Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE)の刊行物はルーズリーフ形式で、綴じていないからバラバラにすることができ、図版の比較が可能でとても便利です。
しかしこれが短所となり、せっかく古書店で買い求めても大事なページが抜けていたりという有様で、結局、当方は全部のページを揃えることができませんでした。

ラメセス時代に王墓の造営に関わった労働者たちの村、ディール・アル=マディーナ(デル・エル・メディーナ:しばしばDeMと略称)の研究に際しては基本文献のひとつ。
Jaroslav Cernyが強力に推し進めた研究分野です。彼が執筆した他の著作はあまりにも多く、ここでは触れません。以前に記したCerny 1973などを参照してくだされば。
以下のリストでは、欧文特殊記号を時折省きます。

Graffiti de la montagne thébaine.
Centre de Documentation et d'Études sur l'Ancienne Égypte (CEDAE), Collection Scientifique
(CEDAE, Le Caire, 1969-1983).
23 vols.

J. Cerny, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, (1): Cartographie et étude topographique illustrée
(1969-1970)
xxii, 61 p., CXXIX plates.

J. Cerny, R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz,
avec la collaboration de M. Dewachter et M. Nelson,
Vol. I, 2: La Vallée de l'Ouest; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1971)
Frontispiece, xiv, 1-55 p. CXXX-CLXXXVII plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de M. Said, E. A. Zagloul et M. Nelson,
Vol. I, 3: Compléments aux secteurs A et C frange du Sahara thébain; cartographie, topographie, géomorphologie, préhistoire
(1972)
Frontispiece, vii, 1-62 p., CLXXXVIII-CCXXXIX plates.

R. Coque, F. Debono, Ch. Desroches-Noblecourt, M. Kurz et R. Said,
avec la collaboration de Ch. Leblanc, M. Maher, M. Nelson, M. Said et E. A. Zagloul,
Vol. I, 4: Cartographie, topographie, geomorphologie, préhistoire
(1973)
Frontispiece, 1-91 p., CCXLI-CCLXXXVI plates.

J. Félix et M. Kurz,
Vol. II, 1: Plans de position
(1970)
Frontispiece, vi, 1-6 p., 1-84 plans.

L. Aubriot et M. Kurz,
Vol. II, 2: Plans de position
(1971)
iv, 8-11 p., 85-123 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 3: Plans de position
(1972)
v, 12-18 p., 124-139 plans, 52 bis-62 bis plans.

M. Kurz,
Vol. II, 4: Plans de position
(1973)
Frontispiece, xiv, 1-55 p., CXXX-CLXXXVII plans.

M. Kurz,
Vol. II, 5: Plans de position
(1974)
26-32 p., 166-197 plans.

M. Kurz,
Vol. II, 6: Plans de position
(1977)
33-40 p., 198-215 plans.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 1: Fac-similés [nos. 1578-1980]
(1970)
8 p., I-L plates.

J. Cerny et A. A. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, M. Shimy et M. J. Cerny,
Vol. III, 2: Fac-similés [nos. 1981-2566]
(1970)
LI-CXXVIII plates.

J. Cerny et A. F. Sadek,
avec la collaboration de H. el-Achiery, A. Chérif, M. Shimy et M. Cerny,
Vol. III, 3: Fac-similés [2567-2928]
(1971)
i, 9-11 p., CXXIX-CLXXIV plates.

A. F. Sadek,
avec collaboration de A. Chérif, M. Shimy et H. el-Achiery,
Vol. III, 4: Fac-similés [nos. 2929-3265]
(1972)
11, 12-14 p., CLXXV-CCXX plates.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 5: Fac-similés [nos. 3266-3579]
(1973)
Frontispiece, CCXX-CCLVIII plates, 15-17 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
Vol. III, 6: Fac-similés [nos. 3580-3834]
(1974)
CCLIX-CCXCII plates, 18-20 p.

M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. III, 7: Fac-similés [nos. 3839-3973]
(1977)
CCXCIII-CCCVIII plates, 21-23 p.

J. Cerny et A. A. Sadek,
Vol. IV, (1): Transcriptions et indices [nos. 1578-2566]
(1970)
i, 108 p.

J. Cerny et A. 太字A. Sadek,
Vol. IV, 2: Transcriptions et indices [nos. 2567-2928]
(1971)
i, 109-148 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 3: Transcriptions et indices [nos. 2929-3277]
(1972)
iv, 149-184 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 4: Transcriptions et indices [nos. 3278-3661]
(1973)
185-220 p.

A. F. Sadek,
Vol. IV, 5: Transcriptions et indices [nos. 3662-3838]
(1974)
222-241 p.

A. F. Sadek et M. Shimy,
avec la collaboration de S. J. Pierre du Bourguet,
Vol. IV, 6: Transcriptions et indices
CEDAE Collection Scientifique 25
(1983)
242-263 p.

レイデン(ライデン)の研究者たちが作り上げたDeMの労働者集団の村に関するページでは、

A Systematic Bibliography on Deir el-Medina
(R. J. Demarée, B. J. J. Haring, W. Hovestreydt and L. M. J. Zonhoven eds.), in
Deir el-Medina Database:
http://www.leidenuniv.nl/nino/dmd/dmd.html

が掲げられていて、これは改訂版であるということなのですけれども、該当する書籍リストを見ると、どうもページ数が合わない部分も見られます。Vol. IV, 6 (1983) が彼らのリストには見当たらないのも不思議。
なおH. el-Achieryは、H. el-Achirieという綴りも用いています。迷いましたが、ここでは"A Systematic Bibliography on Deir el-Medina"にうかがわれる表記に倣いました。
原著に当たって今すぐ確認ができる状態ではないため、取りあえず手元の記録と照合しつつ、矛盾を少なくし、またできるだけ情報を増やしたかたちで書いています。間違いがあると思いますので御教示ください。
古代ローマ時代以降のビザンツからイスラーム時代の前までの間に関するグラフィティについては、IFAO(フランス・オリエント考古学研究所)のページ、

Montagne thébaine:

を参照のこと。

J. J. Janssenの訃報に接しました。
個人的に強い親近感を抱いたエジプト学者のひとりでした。残念で悲しく思います。

2011年9月18日日曜日

Kircher 1650


17世紀の傑人アタナシウス・キルヒャーについては日本でも荒俣宏が紹介をしており、良く知られた研究者ですが、エジプト学の中ではもはや振り返って詳しく読み直そうとする学徒はほとんどいないのでは。
キルヒャーは古代ローマ時代以降、エジプト研究に関していち早く本を刊行している人ですけれども、ヒエログリフの解読について、今から考えるならばデタラメとしか言いようがない考察を残したせいで評価が貶められています。当時、最高の知識人と考えられていたキルヒャーによる誤った解釈のために、古代エジプト研究の進展が大幅に遅れたと非難している者もいるほど。

キルヒャーがラテン語で記した著作は他言語にあまり翻訳されておらず、彼による思考過程全体の理解が阻まれているのは残念。
ここで取り上げる本の中でもギリシア語、コプト語、ヘブライ語やアラビア語などの引用が混じっていますから、全部を読もうと思ったら相当の覚悟が必要です。

キルヒャーはしかし、たぶんオベリスクがどのように設計されたかという問題に真向から挑んだ最初の人で、建築学の領域からは重要な足跡を記していると判断されます。
ピラミッドに関する設計方法については何冊も本が出ているのに、オベリスクの寸法計画に関しては本格的な論考が何ひとつ出版されていないのは不思議だと思われるかもしれません。
けれどもここには理由があり、研究の前提となるオベリスクの正確な実測値がまず分からないという点がまずひとつ。さらに、実測値が知られていると言われているものもよく調べてみるならば、もともと正方形が意図されたと思われるオベリスクのシャフトの底面やピラミディオンの底辺がけっこう歪んでいる場合が多く、誤差が大きいということが分かったため、詳細な研究が控えられているといった事情が挙げられます。
いったん立てられたオベリスクを実測するのは大変です。アレキサンドリアに立つ「ポンペイの柱」も、実測に際してはアルピニストに頼る他ありませんでした。
今では3Dスキャナを用いた最新の計測方法があるという人がいるかもしれない。しかし、実測値をどう解釈するのかという基本的な問題は、依然として残されると思います。

ひとつの石から削り出されることが尊重されたオベリスクの切り出しの工程では、多大な困難に直面することが度々でした。岩盤は決して均質でないため、大きな塊を切り出そうとした場合、岩盤に観察される層の良し悪しを見極めたり、割れ目などを勘案しながら計画を進めざるを得ず、時には初期に決定された長さを縮めるといったような大きな計画変更をおこないながら掘り出されたとみなされています(Engelbach 1922; Engelbach 1923)。
オベリスクの計画寸法についての研究はそれ故、切り出しの工程を十分考慮しつつ、なおかつ実測値の誤差をどう考えるのかを範疇に含めなければなりません。立体物としてのオベリスクの形状の把握、また完数による設計計画を望んだらしい古代エジプト人たちの方法をどのように勘案すべきなのか、こうした諸点が突破口となるでしょう。
ピラミッドの計画寸法を探ることよりも、古代エジプトにおける設計方法がオベリスクに関する研究を通じて明らかになるのではという予測が指摘されます。

書籍のデジタル化によってインターネットで原書が見られることは非常に有難い。ここ数年の劇的な変化だと思います。かつては海外の図書館へ見に行く他、方法がありませんでしたから。
こうした古書の公開によって、たぶん古代エジプト建築研究はこれから少しずつ進むのでは。

Athanasius Kircher,
Obeliscus Phamphilius,
hoc est, interpretatio noua & hucusque intentata obelisci hieroglyphici quem non ita pridem ex Veteri Hippodromo Antonini Caracallae Caesaris, in Agonale Forum transtulit, integritati restituit, & in Urbis Aeternae ornamentum erexit Innocentius X, Pont. Max. in quo post varia Aegypticae, Chaldaicae, Hebraicae, Graecanicae antiquitatis, doctorinaeque quà Sacrae, quà Profanae monumenta, Veterum tandem Theologia, hieroglyphicis inuoluta symbolis, detecta e tenebris in lucem asseritur
(Roma 1650)

参考:Werke von Athanasius Kircher im Internet - Unversität Luzern
http://www.unilu.ch/deu/werke-von-athanasius-kircher-im-internet_269856.html

キルヒャーはオベリスクの碑文について1666年にも本を出しているから紛らわしい。
キルヒャーによる原文をラテン語で読もうと志す方のために、上記のサイトを挙げておきます。ネットからダウンロードできるキルヒャーの本のリストが示されていて便利。
1650年代には、エジプトに関する重要な著作を他にも刊行しており、また当時の知識を集大成することができる立場にあったため、中国についての最先端の研究も試みています。どこまでも多才の人ということになります。

1650年に出されたこの著作では、第1巻第6章の第2節(pp. 52-3)にうかがわれる"De proportione Obeliscorum"(「オベリスクのプロポーションについて」)が肝要。オベリスクのシャフトと、その上に乗るピラミディオンとの設計方法が別々に考えられている点が注目され、シャフト底辺の10倍がシャフトの高さとみなされているのが特徴です。同時に、シャフトの底辺がピラミディオンの断面における斜辺に当てられているのでは、という指摘も見逃せません。
でも、ここには主要寸法に当時の尺度における完数が用いられたのではという考えが完全に欠落しています。当時の尺度に基づいた完数による計画が指摘され始めたのは、18世紀なのではないでしょうか。

大科学者であったアイザック・ニュートンが、ここでも大事な役割を演じています(cf. Newton 1737)。おそらくニュートンはエジプトのギザに立つピラミッドを初めて詳細に実測した報告書、Greaves 1646を読んで大きな示唆を受けており、Greavesが引用したアラビア語文献での記述、「クフ王のピラミッドの一辺の長さは、古代のキュービットで100王尺」という文面を見てヒントを得たらしく思われます。
Greavesは古典語が読めた他、アラビア語も理解した天文学者。政変によってオクスフォード大学から追放されるなど、ひどい目に会っていますが、古代尺の追究に全力を注いだ人でもありました。その情熱の結果は、もはや学問の領域を超えています。

キルヒャーの本では、次の節に記されている4つの「オベリスクの問題」も検討されるべき(pp. 53-7)。
底辺の10倍がオベリスクの高さに近似するという指摘は19世紀以降、何人もの研究者が指摘しています。でも基準となるはずのシャフトの底辺にかなりの誤差があるということなので、この10倍の値が果たしてシャフトの高さなのか、あるいはピラミディオンを含めた全高となるのかが正確に決定できません。それで「底辺の9~11倍」という曖昧な表現がしばしば取られるわけです。

ですが、この時に課題となるのは頂上のピラミディオンの形状で、ピラミディオンの底辺と高さとが同じであったり、または高さの方が大きかったり、底辺の方が大きかったりとバラバラであることは気になるところ。このかたちの違いは大いに注目すべきで、設計意図を解きほぐす糸口になるかもしれません。
設計はおそらくシャフトの底辺を基準としておこなわれたはず。ですが、もしそうであるならば頂上のピラミディオンの形状を統御することは、微妙な傾斜がシャフトに与えられたりするので、大変難しかったのではないでしょうか。
キルヒャーによるオベリスクの論考は、結局は西洋古典建築のオーダーの基本的な問題に結びつくように考えられ、そこがきわめて面白い点です。

2011年9月12日月曜日

Zwerger (English ed.) 1997



古代ローマの木工に関する包括的な論考はUlrich 2007として纏められていますが、古代エジプトの木工についての集成となると、前にも記した通り、なかなか難しい。Sliwa 1975が刊行されていますけれども、これが出てからもう35年以上が経過しています。彼はパイオニアとして木工技術研究の最先端を開いたのですが、粗筋を書いたわけで、以後にたくさんの報告が細分化されたまま重ねられており、これらを再度纏める作業には大変な労力が必要とされる状況。
木工技術に関わるもののうち、近年で発表が目覚しいのは家具の分野と船舶の分野で、古代エジプトの継手と仕口に関する新しい知見が披瀝されています。しかし、この他にも木棺や木彫像、祭祀道具類、そして兵器の分野などが残されており、馬に引かせる戦闘用の馬車の図化はGuidotti (ed.) 2002などで看取されますが、あとはそれほど多くありません。
俗称「村長の像」と呼ばれている、古王国時代の神官カーアペル Ka-aper の木彫人物像で観察される仕口については、

M. Eldamaty and M. Trad (eds.), foreword by Z. Hawass,
Egyptian Museum Collections around the World:
Studies for the Centennial of the Egyptian Museum, Cairo

(Supreme Council of Antiquities, Cairo, 2002)

Vol. I: xiii, 1-701 p.
Vol. II: (iv), 703-1276 + Arabic section, (iv), 101 p.

における第2巻の最後の「アラビア語による論考」の77−87ページにD. Nadia laqamaによって記されており、とても貴重。この2巻本には家具研究で知られるGeoffrey Killenも論考を寄せている(Vol. I: pp. 645-656)他、Sakuji Yoshimura(Vol. II: pp. 1249-1257)、あるいはNozomu Kawai (Vol. I: pp. 637-644)といった日本の研究者たちの論文もうかがわれる点も申し添えておきます。
一方、木棺の組み立て方に関しては、

Andrzej Niwinski,
21st Dynasty Coffins from Thebes:
Chronological and Typological Studies
.
Theben, Band 5
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1988)
xxiv, 209 p., colour plate, 24 plates.

の58ページにある図21が取りあえず参考になりますが、欲を言うならば本当はもう少し細かい情報が描かれたならさらに良かったとも思われます。あるいは、

Jan Assmann,
Mit Beiträgen von Machmud Abd el-Raziq, Petra Barthelmeß, Beatrix Geßler-Löhr, Eva Hofmann, Ulrich Hofmann, T. G. H. James, Lise Manniche, Daniel Polz, Karl-Joachim Seyfried.
Photographien von Eva Hofmann; Zeichnungen von Aleida Assmann, Dina Faltings, Andrea Gnirs, Friederike Kampp, Claudia Maderna.
Vermessungen und Pläne von Günther Heindl.
Das Grab des Amenemope, TT 41.
Theben 3.
2 Bände: Text und Tafeln
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991)

での、出土木棺の報告(Text, pp. 244-273)で見られる丁寧な線描による図版も印象的。
木を大切に用い、丁寧に矧ぎ合わせて立体物を造ろうと思った時の工夫の仕方には地域や時代を超えて共通性があると思われ、注目されるのはその時の知恵の出し方です。力学的に必要と思われる補強の仕方とそれをあらわにしない手法、傷みやすい小口を保護し、包み隠すような仕上げ方、経年変化による変形を考慮した防止策、木目の活かし方、こうした一連の思考の痕跡を、加工された木材に見ることができるというのが面白い点となります。

日本建築の伝統構法に見られる継手や仕口についての著作は、たとえばアメリカで日本の構法を勘案した加工方法に倣って作業を続けるグループによるページ、

Daiku Dojo:
http://www.daikudojo.org/Archive/gallery_books/

でリスト化されているように、英語で書かれているものはけっこう見受けられます。
しかし「精妙」と言われる日本の伝統構法を相対化し、欧州における木造の構法と比較することを狙ったものは案外と少なくなるかもしれません。

Klaus Zwerger, translated by Gerd H. Söffker,
Wood and Wood Joints:
Building Traditions of Europe and Japan

(Birkhäuser, Basel, 1997. Original title: "Das Holz und seine Verbindungen", 1997)
278 p.

Contents:
Introduction (p. 7)
The Material (p. 10)
Working with Wood (p. 42)
Types and Functions of Wood Joints (p. 85)
Wood Joints and their Evolution (p. 112)
Wood Joints as an Expression of Aesthetic Values (p. 247)

Bibliography (p. 266)
Acknowledgements (p. 271)
Index of Persons and Buildings (p. 272)
Index of Places (p. 273)
Subject Index (p. 274)

は、東大に留学していた研究者が纏めた一冊で、自身が撮影した写真が豊富。ただし、暗い感じに印刷されているものもあるため、見にくい写真も混ざっている点が残念。仕口や継手を示した立体図は非常に分かりやすい。図は全部で600点近くにものぼります。ドイツ語版の英訳が同時に出された模様。
この研究書には先例があって、

Wolfram Graubner,
Holzverbindungen:
Gegenübersttelungen japanischer und europäischer Lösungen

(Stuttgart, 1986)

の内容を、さらに精緻に突き詰めたものとなります。
ヨーロッパの木造構法について何冊も本を出している人は他にもおり、

Manfred Gerner,
Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer
(Stuttgart, 1992)

も注目されるはず。ブータンの木造建築に関し、早くから注目した人でした。
こうして仔細に述べられている木造の継手や仕口は、東アジアや東南アジアにおける石造建築にも色濃く反映しており、興味が惹かれるところとなります。


2011年9月8日木曜日

Pliny the Elder (Gaius Plinius Secundus), Naturalis Historia, Liber XXXVI


プリニウスの「博物誌」は当時の百科事典という位置づけで、全部で37巻からなる記述のうち、第36巻では多様な石に関する知見が述べられ、古代エジプトのオベリスクについても具体的な寸法を交えながら触れられています。
ただし、古代ローマにおける尺度で書かれているために換算が必要。またこの採寸の値がどこまで正確なのか、分かりません。しかしエジプトから何本も運ばれてきた奇妙な一本石のモニュメントに、相当の興味が持たれていたことは確かなようです。
ここで挙げるのはLoebシリーズによる英訳。10冊の訳本にまとめられています。内容が多岐にわたるため、訳者も大変だったでしょう。苦労が忍ばれます。

Gaius Plinius Secundus (Pliny the Elder),
Naturalis Historia.
Translated by D. E. Eichholz,
Pliny, Natural History, Vol. X: Libri XXXVI-XXXVII.
Loeb Classical Library 419
(Harvard University Press, Massachusetts, 1962)
xviii, 344 p.

邦訳:
中野定雄・中野里美・中野美代
「プリニウスの博物誌」全3巻
(雄山閣、1986年)、
第3巻、pp. 1451-1495.

大プリニウス(Pliny the Elder)と小プリニウス(Pliny the Younger: Gaius Plinius Caecillius Secundus)の2人がいるのは、大プリニウスの甥に当たる人が、非常に貴重なラテン語の手紙類を残しているため。

この本が日本語で読めるというのは嬉しい限りです。この訳書が出版された時には評判になりました。ただ原典のラテン語からではなく、Loebのシリーズによる英訳本文をさらに日本語訳したもので、Loebのシリーズに見られる注釈は省略されていますから注意。
Loebのシリーズによるプリニウスの「博物誌」全10巻の書誌を挙げておきますと、

Pliny the Elder,
Natural History, 10 vols.
(1938-1962)

Vol. I: Books 1-2.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 330
(1938)

Vol. II: Books 3-8.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 352
(1942)

Vol. III: Books 8-11.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 353
(1940)

Vol. IV: Books 12-16.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 370
(1945)

Vol. V: Books 17-19.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 371
(1950)

Vol. VI: Books 20-23.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 392
(1951)

Vol. VII: Books 24-27.
Translated by W. H. S. Jones and A. C. Andrews.
Loeb Classical Library 393
(1956)

Vol. VIII: Books 28-32.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 418
(1963)

Vol. IX: Books 33-35.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 394
(1952)

Vol. X: Books 36-37.
Translated by D. E. Eichholz.
Loeb Classical Library 419
(1962)

最初の5巻と第9巻を訳した1868年生まれのHarris Rackhamは、Loebのシリーズにおいてキケロの訳の他、アリストテレスの著作の訳なども手がけており、こっちの方が本業。古代ギリシア語とラテン語を自在に使いこなすことができた学者であったことが良く分かります。
おそらく全10巻の訳をひとりで完遂したかったと思われますが、1944年に亡くなり、それ故にさまざまに訳者が入れ替わっています。

オベリスクの形状を考える上で「博物誌」の36巻に出てくる記述、

idem digressis inde ubi fuit Mnevidis regia posuit alium, longitudine quidem CXX cubitorum, sed prodigiosa crassitudine, undenis per latera cubitis.

"Ramses also erected another at the exit from the precinct where the palace of Mnevis once stood, and this is 120 cubits high, but abnormally thick, each side measuring 11 cubits."
(XXXVI, XIV: Eichholz, ibid., pp. 50-51)

「ラムセスはまた、かつてムネウィスの宮殿があった構内の出口のところにいま一本立てたが、これは120キュービットの高さがあった。しかし異常に太いもので、各面とも11キュービットもあった。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1466)

は重要。
なぜ「異常に太い」という言及がなされたのかが気になります。この時代、オベリスクの普通のかたちが認識されていたのかもしれません。この巻の訳者はわざわざこの部分に註を設け、

"The proportions are not abnormal. In general, the height of about ten times the maximum breadth, which is at the base."
(Eichholz, p. 50)

と述べています。「ちっとも異常ではないように思われるが」という対応。オベリスクの底辺の10倍が全高になるという見方がいつ生まれたのか、興味深いところです。

プリニウスはこのあとにピラミッドについても書いており、以下の文面はギリシアのヘロドトス、シケリアのディオドロス、ストラボンたちによるクフ王のピラミッドの寸法に関する最古の記述に次ぐもののひとつでしょうか。
すなわち、

amplissima septem iugera optinet soli. quattuor angulorum paribus intervallis DCCLXXXIII pedes singulorum laterum, altitudo a cacumine ad solum pedes DCCXXV colligit, ambitus cacuminis pedes XVIS.

"The largest pyramid covers an area of nearly 5 acres. Each of the four sides has an equal measurement from corner to corner of 783 feet; the height from ground-level to the pinnacle amounts to 725 feet, while the circumference of the pinnacle is 16 1/2 feet."
(XXXVI, XVII: Eichholz, pp. 62-63)

「最大のピラミッドは、7ユゲラの面積を塞いでいる。その四面の各々の隅から隅までの寸法は、等しく783フィート、地面から尖頂までの高さは725フィート、一方尖頂の周りは16フィート半である。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1469)

と言っているのですが、ここで言う「フィート」は古代ローマの尺度であり、ピラミッドの一辺が"DCCLXXXIII pedes"と書いていますけれども、ローマ尺の1フィート(ペデス)を29.5センチメートル(0.295メートル)と考えるならば、換算値で231メートル弱となり、これはかなり良い数値であるように思われます。
紀元後1世紀の記述で、今から2000年ほど前の文。何を汲み取ることができるのか、それが試されています。

2011年6月19日日曜日

Petrie 1892


ピートリによるメイドゥム地域の調査報告書。
ここには「崩れピラミッド」という通称で知られているものも残っており、彼が何をどう見たか、それが最も面白いところです。出版されてから100年以上が経過しており、情報が古くなっているのは当たり前。しかし何を気にしているのか、自分であったらそこまでできるかどうかをたえず問わないと、こうした古い報告書を改めて読むことの意味がありません。
この報告書に関しては、1994年にLTR-Verlagから再版も出ています。

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by F. Ll. Griffith, A. Wiedemann, W. J. Russell, and W. E. Crum,
Medum
(London: David Nutt 1892)
Color frontispiece, iv, 52 p., 36 plates.

同名の報告書が99年後にオーストラリア隊からも出版されていますので、掲げておく必要があります。
薄いペーパーバックですが、石材に記されていた日付を2色刷にて、たくさん報告していますので、古代の労働者組織を研究する者にとってはとても重要な資料。クリストファー・エア(Christopher Eyre)は確か、この記録を読んでピラミッド建設の季節について言及していたはず(Powell (ed.) 1987所収)。
記憶が間違っていたらごめんなさい。

Ali el-Khouli,
with contributions by Paule Posner-Kriéger, Milward Jones, Edwin C. Brock, Jan Borkowski and Grzegorz Majcherek,
Medum.
The Australian Centre for Egyptology (ACE), Reports 3
(Sydney: The Australian Centre for Egyptology, 1991)
51 p., 62 plates.

さて、ピートリによる建物への目配りはここでも発揮されており、たとえば最初の方で

"These tombs were rectangular masses of brickwork, or of earth coated with brick, with faces sloping at about 75°, the mastaba angle differing from the usual pyramid angle of 51°." (p. 5)

と書かれていたりします。
マスタバの壁体の傾斜については今日でも情報がきわめて限られており、そうした中では貴重。エジプト学に関わる者は一般に、建築壁面の角度が当時どう定められたかに関してはまったく注意を払っておらず、これをセケドに直すとどうなるかと言った研究が今後、進展することを望みます。せめて分数や比率によって勾配を表記をしてもらったら、古代エジプト建築研究は随分と進んでいたのでは。
建築学におけるメイドゥムのマスタバ17号の重要性は、ここで繰り返す必要はないと思います。図版8は、再三引用がなされているもの。
マスタバの四隅の外には煉瓦で「くの字」型平面の壁が立てられており、その内側には水平に1キュービットずつの線が引かれ、またマスタバの外壁の傾きも記されていました。

"The outer faces slope at the characteristic angle of mastaba, 76°, or an angle of 4 vertical on 1 horizontal." (p. 12)

などと、ピートリは記しています。このような記述を100年以上も前に残している点に、建築や測量に携わる人間は驚かなければなりません。建造当初の技術を勘案し、数値を構造的に把握しようとしているわけです。

"as the breadth is exactly 100, and the length 200, cubits." (p. 12)

と、完数を意識してキュービット尺へ換算しているのも彼の論考の素晴らしいところです。
あれ、最初に1キュービットずつの水平線を引いておくというのは良いとして、でもキュービット尺は7分割されているのだから、マスタバの壁面の勾配が1/4というのはおかしいのじゃないのか。1/4という目盛はキュービット尺において特別の意味を持っていたのか、といったように考えは進められていくべきです。
すでに発見されているキュービットの物差しによって与えられる解釈の硬直から、どれだけ逃れることができるのか。そこがいつも問題となっています。