2010年10月30日土曜日

Kákosy et al. 2004


ハンガリー隊による、テーベの私人墓ジェフティメス(TT 32:ラメセス2世時代)に関する2巻本の報告書。
ハンガリーによる古代エジプト調査の歴史は100年を超えており、その過程はたとえば、Vörös 2007が個人史と重ねあわせながら示しています。
Studia Aegyptiacaのシリーズは、ハンガリーのブダペストから出されているエジプト学関連の刊行書の名前で、創刊は1974年。早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されているはず。シリーズを新しく改めて、その最初の巻として刊行。

László Kákosy, Tamás A. Bács, Zoltán Bartos, Zoltán I. Fábián, Ernö Gaál;
Stereo-photogrammetry, György Csáki and Annamária Csáki.
The Mortuary Monument of Djehutymes (TT 32), 2 vols (Text and Plates).
Studia Aegyptiaca, Series Major I
(Archaeolingua Alapítvány, Budapest, 2004)
xi, 372 p. + xi, 115 Plates.

Table of Contents:

List of Plates (vii)
Foreword (p. 1)
Editorial Remarks (p. 5)
Situation, Type and Architecture (p. 9)
Decoration Programme in TT 32 (p. 29)
The Owner of TT 32 (p. 355)
Abbreviations and Bibliography (p. 361)

なお、出土遺物については後年、第2巻として出版されているようですが、当方は未見です。

Gábor Schreiber,
The Mortuary Monument of Djehutymes II:
Finds from the New Kingdom to the Twenty-sixth Dynasty.
Studia Aegyptiaca, Series Major II
(Archaeolingua, Budapest, 2008)
224 p.

隊長であったLászló Kákosyが亡くなっているため、この書ではZ. I. Fábiánによって書かれている章が目立ちます。
壁画の報告に多くが費やされていることが、目次からも分かります。一方、建築に関しては、冒頭に20ページほどを記しているだけです。エジプト学における報告書ではこのように、建築に関する情報はいつも短めですが、専門家の数が少ないのだから仕方ありません。
以下、例によって建築の観点からのみ、気がついた点を記します。

この墓には個人的な興味があって、曲がりながら一周して下っている、狭くて長い廊下にヒエラティック・インスクリプションが何箇所かに残っているため、これを手がかりとして一日当たりの掘削量を求めたりしたことがあります。時折、こうした断片的な文字史料が掘削墓には見受けられるのですけれども、分析に耐えうるような、複数の文字がセットとして残っている例はきわめて稀。
工人たちが少しずつ掘り進めながら日付と長さを記録していったという前提のもとに、いくつかの読み方に関してはハンガリー隊の仮報告で見られるものとは異なる解釈を提案したのですが、どうやら半分ほどは受け入れられたらしい模様。

部屋の大きさに関しては一応のキュービット換算をおこなっていますが、あまり立ち入った考察はなされていません。
地上の斜面に、わずかに残存していたピラミディオンについては、1ページしか記していませんけれども、

"The width of the pyramid at the basis was 14.55 m (the platform on which it was built 15.1 m). The rear (upper) edge measured 9.4 m, thus the ground plan took the form of a trapezium with a height of about 11 m. The angle of inclination (69-72°) may indicate that the height of the building may have been 13-15 m which seems, however, hardly conceivable because of the character of the terrain. If one assumes a change in the inclination, it may have been considerably lower. It was built, like all the other private pyramids, of mud bricks. (Size of the bricks: 34×16.5-17×9.5 cm)."
(p. 27)

と面白い情報が併記してあって、足下で確認されたらしい勾配を尊重する一方、斜面上に立てられたために台形状に残った痕跡からピラミディオンの高さを求めているようです。これはピラミディオンの水平断面のかたちが常に正方形となるという特徴を利用して算出しているわけですが、詳しい計算方法が示されても良かったかも。
というのは、図版編のPlate CXVを見ると、ピラミディオンの最下端における標高は+99.81メートルであり、他方、これより高い位置に残存する北辺の高さが+102.35メートル。つまり、テキストを信じる限り、約2メートル上がったらピラミディオンの一辺が14.55メートルから9.4メートルへと短くなったことを意味するはずですから、その一辺の差は5メートルほど。だから、1メートル高くなると2.5メートル分、一辺の長さが短くなるという勾配であったとみなされます。
これを踏まえると、復原されるピラミディオンはそれほど高くなりません。その疑問が、意識されながらも曖昧なまま提示されている状況です。ピラミディオンの勾配を気にしている割には、セケドの話は出てこないし、また

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Peeters Press, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

が引用されていない点も不思議なところ。
おそらくは

E. Dziobek,
"Eine Grabpyramide des frühen NR in Theben",
in MDAIK 45 (1989), pp. 109-132.

でうかがわれる内容との整合性を優先したのかと思われますが、詳細を知りたい点ではあります。

壁画の説明に際しては、Fábiánを軸に4人ほどが手分けして書いたりしていて、欧米に留学した経験をお持ちの日本の若手の方々にとっては「おいおい大丈夫か」と思われる報告書かもしれません。しかし個人的には、親近感を抱く刊行物。ここには日本と似た状況がハンガリーにおいても存在することが、充分に暗示されています。Vörös 2007もそうした目で改めて読むと、得るところが少なくない書。
この厄介な状況を脱して日本人であることをやめ、能力を活かして海外で活躍し続けるか。それとも日本に戻り、さまざまに気配りしながらやっていくのか。かつて吉本隆明が昔にどこかで書いていたことでもあります。中途半端な報告書だと断ずるのはたやすいのですけれど、日本人の研究者がこの報告書を吟味するという中には、重いわだかまりが再度、姿をあらわすはずです。

2010年10月28日木曜日

Menu (ed.) 2010


古代エジプトやメソポタミアにおける労働組織を問う国際会議の会議録です。
建造組織、あるいは労働組織を広く追究する分野にとっては、非常に重要な論集であるとみなされるPowell (ed.) 1987の刊行以降に著された注目すべき出版物で、2004年の会議開催から6年経って、ようやく上梓されました。
表紙にはベルシャのジェフティヘテプの墓で見られる有名な巨像の牽引風景を載せた、さほど厚くないペーパーバック。

IFAO(フランス・オリエント考古学研究所:通称「フラ研」)から刊行されているシリーズの中の一冊で、Bibliothèque d'Étudeは昔、BdEと略されていた覚えがあるのですが、今はBiEtudと表記するようです。
近年、ここから毎年一回出されている紀要であるBIFAOの大半に、ネットで簡単にアクセスすることが可能となりました。

http://www.ifao.egnet.net/bifao/

1901年の創刊ですから、100冊以上あって、通覧するのも大変ですが、自宅で飲みながら無料でゆっくり見ることができるというのは、たいへん素晴らしい。
大規模に研究論文を網羅する、いかにも便利そうなデータベース化をめざしながらも、お金はちゃんといただきますよというアメリカ主導によるJSTORのやり方なんかは完全に無視して、一方的にタダで公開する、というのもフランスらしい大胆な選択。
会議録の内容は多岐にわたっています。

Édité par Bernadette Menu,
L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie.
Colloque AIDEA (Association Internationale pour l'étude du Droit Égyptien Ancien) - Nice 4-5 octobre 2004.
IF 1005, Bibliothèque d'Étude (BiEtud) 151
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2010)
vi, 192 p.

Sommaire:

Laure Pantalacci,
Préface (p. 1)

INTRODUCTION

Bernadette Menu,
Présentation générale (p. 3)

Robert Carvais,
Pour une préhistoire du droit du travail avant la Révolution (p. 13)

I. LES MÉTIERS ET LE DROIT CONTRACTUEL DU TRAVAIL

Schafik Allam,
Les équipes dites meret spécialisées dans le filage-tissage en Égypte pharaonique (p. 41)

Sophie Démare-Lafont,
Travailler à la maison. Aspects de l'organisation du travail dans l'espace domestique (p. 65)

Francis Joannès,
Le travail des esclaves en Babylonie au premier millénaire av. J.-C. (p. 83)

Barbara Anagnostou-Canas,
Contrats de travail dans l'Égypte des Ptolémées et à l'époque augustéenne (p. 95)

Patrizia Piacentini,
Les scribes: trois mille ans de logistique et de gestion des ressources humaines dans l'Égypte ancienne (p. 107)

II. GESTION DU TRAVAIL ET ORGANISATION DES CHANTIERS

Christopher Eyre,
Who Built the Great Temples of Egypt? (p. 117)

Laure Pantalacci,
Organisation et contrôle du travail dans la province oasite à la fin de l'Ancien Empire.
Le cas des grands chantiers de construction à Balat (p. 139)

Katalin Anna Kóthay太字,
La notion de travail au Moyen Empire. Implications sociales (p. 155)

Bernadette Menu,
Quelques aspects du recrutement des travailleurs dans l'Égypte du deuxième millénaire av. J.-C. (p. 171)

Robert J. Demarée,
The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina.
A Preliminary Update (p. 185)

序文は、カール・マルクスの「資本論」第1巻の引用から始められており、労働組織への注視が古代社会の構造を解き明かす上で重要なトピックであることを改めて強調しています。新王国時代後期のデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)の資料はここでも尊重されていますけれども、この村の存在を普遍的に扱って、古代エジプトにおける他の時代へ適用することについてはより慎重な姿勢を示しており、一方、中王国時代に属するpReisner(cf. Simpson 1963-1986)などへの言及は、近年の研究成果が反映され、増加しています。

Demaréeによる最後の論文は、デル・エル=メディーナ研究の現在の水準と今後の課題を語っており、有用。メトロポリタン美術館や大英博物館で所蔵されている未刊行の第18王朝に属するオストラカについて、報告書の作成を控えめながら促しています。
新王国時代におけるヒエラティックの代表的な読み手として名をなすAllam、Eyre、Demaréeたちが今、何を考えているかを知りたい学徒たちにとっても貴重な本。


2010年10月27日水曜日

Mace and Winlock 1916


メトロポリタン美術館による、エジプト発掘調査報告書シリーズの記念すべき第1巻。リシュトで発見されたセネブティシの墓(中王国時代)に関する報告で、出土した宝飾品の解説も丁寧ですけれども、いったん蓋を閉じたら二度と開かなくなる工夫が施された人型木棺などの図解が注目されます。

Arthur C. Mace and Herbert E. Winlock,
The Tomb of Senebtisi at Lisht.
The Metropolitan Museum of Art Egyptian Expedition Publications, Vol. 1
(Metropolitan Museum of Art, New York, 1916)
xxii, 132 p., 35 plates.

Contents:

Preface (vii)
Table of Contents (xi)
List of Illustrations (xv)
Introduction (xxi)

Chapter I. The Site and the Tomb (p. 3)
Chapter II. The Clearing of the Tomb (p. 9)
Chapter III. The Coffins and Canopic Box (p. 23)
Chapter IV. The Jewelry (p. 57)
Chapter V. The Ceremonial Staves (p. 76)
Chapter VI. Miscellaneous Objects, including the Pottery (p. 104)
Chapter VII. Date of Tomb and Comparison with Tombs on other Sites (p. 114)

Appendix. Notes on the Mummy, by Dr. G. Elliot Smith (p. 119)
Index of Names of Objects from the Painted Coffins (p. 121)
Index of Authorities cited (p. 127)
General Index (p. 129)
Plates (p. 133)

1000部が出版され、初版は今、かなりの高値で取引されていますが、1974年にArno Pressから再版が出され、また近年ではさらにリプリントも発行されています。しかしカラー図版は再版ではモノクロに置き換わっており、復原された宝飾品などは初版の中でしか見られない模様。
序文を書いているのはアルバート・リスゴーで、

"Here, on the desert edge south of Medinet Habu, the remains of the palace erected by Amenhotep III have now been cleared for the greater part, ..."
(p. viii)

と、メトロポリタン美術館が当時、手がけていたマルカタ王宮の発掘について触れており、メトロポリタン美術館が手をつける前にニューベリーとともにマルカタを掘ったタイトゥスの名前もここで出てきます。
もともとオクスフォードにいたアーサー・メイスはこの頃にはもう、メトロポリタン美術館に所属していました。メイスの名が良く知られているのは、ハワード・カーターと一緒にツタンカーメン王墓の発掘記を書いているからです。メイスは1928年に50歳の半ばで亡くなってしまい、これは3巻本によるツタンカーメンの墓の発掘記(Carter (and Mace) 1923-1933)の刊行中の出来事。
メトロポリタンの仕事で1900年代の初頭、メイスはエジプトの発掘に携わっていましたが、1922年にツタンカーメン王の墓が見つかって、急に忙しくなったカーターが援助をアメリカ隊のウィンロックに求め、メトロポリタン美術館のスタッフがツタンカーメンの墓の調査に関わるきっかけが生じました。
カーター自身も、アメンヘテプ3世が建立したマルカタ王宮の発掘をアメリカ人青年のタイトゥスがおこなった時には、その仕事の監督官として参加しており(cf. Leahy 1978)、ここには不思議な関係の交錯が見られます。
メイスの生涯を扱った本が出ていて、風変わりなタイトルがつけられています。

Christopher C. Lee,
The Grand Piano came by Camel: Arthur C. Mace, the Neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing, Edinburgh, 1992)

カギのかかる木棺というのはしかし、珍しい。たいていは差し込んだ枘板に木栓を打って蓋を固定する方法がとられるわけで、蓋を閉めたら開かなくなる木棺や木箱の類例が註にいくつか挙げられています。
似た仕組みとして、カフラー王の石棺が言及されていますけれども(pp. 40-41)、実はクフ王の石棺も同じこと。ピラミッド内の玄室に今でも残っているクフ王の石棺のカギのかかる仕組みについては建築家による論考、Dormion 2004に掲載されている図が分かりやすく、またイタリアの建築家であるPietro Testaも似た図を描き起こしていたはず。テスタはまた、古王国時代の棺について最近、イタリア語で本も書いている男。

新王国時代における木箱では、このカギのかかる仕組みが多く採用されており、これについてはキレンが古代エジプトの家具について書いた本のうち、箱を扱った巻で紹介しています。
Killen 1980の続巻。

Geoffrey Killen,
Ancient Egyptian Furniture, Vol. II:
Boxes, Chests and Footstools
(Aris & Phillips, Warminster, 1994)
xii, 91 p., with catalogue of museum collections.

2010年10月26日火曜日

Hawass and Wegner (eds.) 2010 [Fs. David P. Silverman]


今夏の2010年7月中旬、ザマレックのSCAを訪れた時に出版関連の仕事に携わる方から見せてもらい、すぐに注文した本。シルバーマンへの、2巻本の献呈論文集です。
American University in Cairo Pressのサイトにて注文したけれど、そこではASAE Cahier 39というシリーズ名の方が優先的に表示されているので、ちょっと見つけづらい。
いささか長くなりますが、目次も併記。論文題名に含まれていたエジプト語の発音記号は、ネットにて用いられるものに変えてあります。

Zahi Hawass and Jennifer Houser Wegner eds.,
Millions of Jubilees: Studies in Honor of David P. Silverman.
Supplément aux Annales du Service des Antiquités de l'Égypte (ASAE), Cahier no. 39.
2 vols.
(Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2010)
xxiv, 455 p. + ix, 386 p.

Contents
Volume I:
Preface (vii)
Acknowledgments (xi)
David P. Silverman (xiii)

Matthew Douglas Adams,
"The Stela of Nakht, Son of Nemty: Contextualizing Object and Individual in the Funerary Landscape at Abydos" (p. 1)

James P. Allen,
"The Original Owner of Tutankhamun's Canopic Coffins" (p. 27)

Dieter Arnold,
"A Boat Ritual of King Mentuhotep Nebhetepetra" (p. 43)

Rachel Aronin,
"'Sitting among the Great Gods': Denoting Divinity in the Papyrus of Nu" (p. 49)

Nathalie Beaux,
"Arc-en-ciel, apparition et couronnement: À propos du signe N 28“ (p. 61)

Patricia A. Bochi,
"Figuring the Dead: The Ancestor Busts and the Embodied Transition" (p. 69)

Edda Bresciani,
"Un conteneur lithique en forme de navicella decoré avec lotus et motifs de la navigation celeste" (p. 81)

Edward Brovarski,
"The Date of Metjetji" (p. 85)

Denise Doxey,
"The Military Officer Pamerihu: An Unpublished Relief in the Museum of Fine Arts, Boston" (p. 141)

Paul John Frandsen,
"Durkheim's Dichotomy Sacred: Profane and the Egyptian Category bwt" (p. 149)

Ed Gyllenhall,
"From Parlor to Castle: The Egyptian Collection at Glencairn Museum" (p. 175)

Zahi Hawass,
"Five Old Kingdom Sphinxes Found at Saqqara" (p. 205)

Jane A. Hill,
"Window between Worlds: The ankh as a Dominant Theme in Five Middle Kingdom Mortuary Monuments" (p. 227)

Salima Ikram,
"A Plaster Head in Cairo" (p. 249)

Janice Kamrin, with Elina Nuutinen and Amina El Baroudi,
"Getting Tutankhamun's Number" (p. 253)

Arielle P. Kozloff,
"Chips off the Old Block: Amenhotep IV's Sandstone Colossi, Re-Cut from Statues of Amenhotep III" (p. 279)

Ronald J. Leprohon,
"Sinuhe's Speeches" (p. 295)

Barbara S. Lesko,
"Divine Interest in Humans in Ancient Egypt" (p. 305)

Kate Liszka,
"'Medjay' (no. 188) in the Onomasticon of Amenemope" (p. 315)

Ulrich Luft,
"Die Stele des Sn-nfr in Deir el-Bersha und ihr Verhältnis zur Chronologie des Neuen Reiches" (p. 333)

Dawn McCormack,
"Establishing the Legitimacy of Kings in Dynasty Thirteen" (p. 375)

Antonio J. Morales,
"Threats and Warnings to Future Kings: The Inscription of Seti I at Kanais (Wadi Mia)" (p. 387)

Ellen F. Morris,
"Opportunism in Contested Lands, B.C. and A.D.: Or How Abdi-Ashirta, Aziru, and Padsha Khan Zadran Got Away with Murder" (p. 413)

Brian Muhs,
"A Demotic Donation Contract from Early Ptolemaic Thebes (P. Louvre N. 3263)" (p. 439)


Volume II:
Tracy Musacchio,
"An Unpublished Stela from Dendera dating to the Eleventh Dynasty" (p. 1)

M. G. Nelson-Hurst,
"'...Who Causes his Name to Live': The Vivification Formula through the Second Intermediate Period" (p. 13)

Del Nord,
"Under the Chair: A Problem in Egyptian Perspective" (p. 33)

David O'Connor,
"The King's Palace at Malkata and the Purpose of the Royal Harem" (p. 55)

Stephen R. Phillips,
"The Splitting Headache: A Case of Interpersonal Violence in a Graeco-Roman Era Human Cranium from Meydûm, Egypt" (p. 81)

Nicholas S. Picardo,
"(Ad)dressing Washptah: Illness or Injury in the Vizier's Death, as Related in his Tomb Biography" (p. 93)

Mary-Ann Pouls Wegner,
"The Construction Accounts from the 'Portal Temple' of Ramesses II in North Abydos" (p. 105)

Donald B. Redford,
"The False-Door of Nefer-shu-ba from Mendes" (p. 123)

Janet Richards,
"Honoring the Ancestors at Abydos: The Middle Kingdom in the Middle Cemetery" (p. 137)

Robert K. Ritner,
"Two Third Intermediate Period Books of the Dead: P. Houston 31.72 and P. Brooklyn 37.1801E" (p. 167)

Joshua Aaron Roberson,
"Observations on the so-called 'sw sDm=f,' or Middle Egyptian Proclitic Pronoun Construction" (p. 185)

Gay Robins,
"The Small Golden Shrine of Tutankhamun: An Interpretation" (p. 207)

Carolyn Routledge,
"Akhenaten's Rejection of the Title nb irt-xt" (p. 233)

Cynthia May Sheikholeslami,
"An Intriguing Faience Fragment: UCL 38096" (p. 245)

JJ Shirley,
"One Tomb, Two Owners: Theban Tomb 122 - Re-Use or Planned Family Tomb?" (p. 271)

Emily Teeters,
"Egypt in Chicago: A Story of Three Collection" (p. 303)

Pascal Vernus,
"Du moyen égyptien au néo-égyptien, de m à m-jr: l'auxiliation de l'impératif à la dix-huitième dynastie" (p. 315)

Jennifer Houser Wegner,
"A Fragmentary Demotic Cosmology in the Penn Museum" (p. 337)

Josef W. Wegner,
"A Group of Miniature Royal Sarcophagi from South Abydos" (p. 351)

Christiane Ziegler,
"Note sur une peinture thébaine (TT 145)" (p. 379)


オコーナーがマルカタ王宮について書くのは久しぶりで、ここではドロシー・アーノルドが2002年にカタログに書いた文(cf. Ziegler (ed.) 2002)と、Vomberg 2004、すなわち「御臨の窓」(window of appearance)に関する本への反応が語られています。
彼の語り口にはしかし、いつも古代エジプトにおける理念の追究という側面が読み取られ、現場に携わる人は絶えず、こうした考えの「足を引っ張るような発見」に努めるべき。現場における細かな観察が、エジプト学の通念をひっくり返す可能性というのは、どこにでもあると感じられます。
Vombergの書誌です。

Petra Vomberg,
Das Erscheinungsfenster innerhalb der amarnazeitlichen Palastarchitektur: Herkunft - Entwicklung - Fortleben.
Philippika: Marburger altertumskundliche Abhandlungen 4
(Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, 2004)
xiii, 379 p., 4 Tafeln.

古代エジプトの「ハーレム」についてはドイツ語で書かれた博士論文、

E. Reiser, Der königliche Harim im alten ägypten und seine Verwaltung
(Wien, 1972)

と、ケンプによってJEAに書かれたその書評、またすぐその後でZÄSに掲載されたケンプの論文などが知られていますが、これらの他、さらにメディネット・ハブ(ラメセス3世葬祭殿)の入口塔の上階の話を含め、ハーレムを包括的に語ろうとしているのが特徴。
最近ではイアン・ショーが進めているプロジェクト、

Gurob Harem Palace Project:
http://www.gurob.org.uk/

があって、以上の資料に目を通せばハーレムの解釈については最新の情報が得られるはず。
ショーが指揮する調査チームの人員リストには、ソルボンヌのM. Yoyotteという、エジプト学に関わる者ならば「ん?」と感じるような名前もうかがわれ、イギリス人だけで固める隊にするのはやめようという意識が感じられて好ましく思われます。

2010年9月13日月曜日

Shaw 1973


エジプト学においてShawというと、イギリスの研究者であるイアン・ショーのことを誰しもが連想するかと思いますが、クノッソスやマリア、ファイストス、あるいはザクロスといった宮殿に代表される、クレタ島を中心として展開されたミノア文明に関わる研究者たちにとっては、まずジョセフ・ショーとマリア・ショーの夫妻の名が思い浮かぶかと思われます。
本書はミノア建築の建造方法に関して記している珍しい著作。海外の古書リストで見かけることも少なくなり、入手は非常に難しくなってきている状態。
グレーの目立たない表紙を持つソフトカバーの本。類書がほとんどありません。

Joseph W. Shaw,
Minoan Architecture: Materials and Technology.
Annuario della Scuola Archeologica di Atene e delle Missioni Italiane in Oriente, Vol. XLIX, nuova serie XXXIII
(Istituto Poligraphico dello Stato, Roma, 1973)
256 p.

ショー夫妻はクレタ島におけるコモスの発掘で有名。島の南側で発見された港湾都市で、5巻からなる報告書がすでに刊行されています。
記念建造物を扱う5巻目に至っては1200ページを超えており、真っ赤な装丁を施されたこの報告書の中でも特に際立っています。彩色壁画片が出土していて、その意味でも注目される巻。
前述の本の出版は1973年で、コモスの発掘によって得られた、新たな知見を反映している改訂版が出ることが望まれるところです。

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos I: The Kommos Region and Houses of the Minoan Town.
Part 1, The Kommos Region, Economy, and Minoan Industries
(Princeton University Press, Princeton, 1995)
xxxvii, 809 p.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos I: The Kommos Region and Houses of the Minoan Town.
Part 2, The Minoan Hilltop and Hillside Houses
(Princeton University Press, Princeton, 1996)
xxvii, 713 p., 10 fold-out plans.

Philip P. Betancourt, Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos II: The Final Neolithic through Middle Minoan III Pottery
(Princeton University Press, Princeton, 1990)
xv, 262 p., 70 figures, 104 plates.

Livingston Vance Watrous, Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos III: The Late Bronze Age Pottery
(Princeton University Press, Princeton, 1992)
xviii, 238 p., 76 figures, 58 plates.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos IV: The Greek Sanctuary.
Part 1, Text
(Princeton University Press, Princeton, 2000)
xvi, 813 p.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos IV: The Greek Sanctuary.
Part 2, Plates
(Princeton University Press, Princeton, 2000)
xix, 199+15+43+76+65+13+1+18 plates, 6 fold-out plans.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos V: The Monumental Minoan Buildings at Kommos
(Princeton University Press, Princeton, 2006)
xli, 1222 p., 5 fold-out plans.

第5巻目が出版された同じ年には、この都市の概要を分かりやすく紹介した本がアテネから出されているようですが、未見。

Joseph W. Shaw,
Kommos: A Minoan Harbour Town and Greek Sanctuary in Southern Crete
(American School of Classical Studies at Athens, Athens, 2006)
171 p., 77 illustrations.

古代エーゲの建物については、

Thomas Nörling,
Altägäische Architekturbilder.
Archaeologica Heidelbergergensia, Band 2
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1995)
xvii, 95 p., 18+VII Tafeln,

が出ています。
時代が降ったミケーネ文明における建物については、

Michael Küpper,
Mykenische Architektur:
Material, Bearbeitungstechnik, Konstruktion und Erscheinungsbild
, 2 Bände (Text und Beilagen).
Internationale Archäologie, Band 25
(Marie Leidorf, Espelkamp, 1996)
xi, 330 p. +28 Beilagen.

の2巻本が刊行されています。

--- 追記 ---:
Shaw 1973の改訂増補版はすでに2009年に出ていました。
書評は

http://bmcr.brynmawr.edu/2010/2010-08-48.html

で見ることができます。
(2010年12月31日)

2010年9月12日日曜日

Corinth XX (Williams II and Bookidis eds.) 2003


コリントス(コリント)は古くから栄えていたポリスのひとつで、古代ローマ時代の建物が多く残っているものの、その下を掘れば古代ギリシアの遺構に突き当たります。古代ギリシアにおいて最重要と考えられる都市遺跡のうちのひとつ。
アメリカ隊は19世紀の終わりからこの地を調査し始め、何冊もの報告書を刊行してきました。この事業はまだ続けられており、その最新号に当たるのが第20巻。調査が100年を迎えたことを記念する厚い一冊。
報告書全巻のリストは、

http://www.ascsa.edu.gr/index.php/publications/browse-by-series/corinth

にて閲覧できます。本書のp. iiにも提示。
日本のどこにこれらの本が所蔵されているかは、かつては見つけるのが非常に難しかったように思うのですが、電子化されてJSTORのCollection VIIに組み入れられ、事情が劇的に変わりました。サイバー大学の学生は自由にアクセスすることができるはずです。
建物に触れている第1巻は6分冊となっており、全部を一挙に読むのは大変ですけど、初期のギリシア神殿について言及されていますし、一度は見ておきたい報告書。
石材に溝を掘って綱を回したらしい珍しい痕跡は、こことイスミアで報告がなされています。

Charles Kaufman Williams and Nancy Bookidis eds.,
Corinth: Results of Excavations Conducted by the American School of Classical Studies at Athens, Volume XX.
Corinth, the Centenary 1896-1996
(The American School of Classical Studies at Athens, Princeton, N.J., 2003)
xxviii, 475 p.

これまでの40冊近くに及ぶ報告書のレジュメが掲載されているような内容。20ページ以上を割き、複数のインデックスも巻末に付されていますが、全巻を網羅するものではありません。
Bietak (Hrsg.) 2001の中で、「コリントスの石切場に関しては原稿が準備されている」という記述が書かれていますけれども、この本の第2章のことを指しており、

Chris L. Hayward,
"Geology of Corinth: The Study of a Basic Resource",
pp. 15-40.

において石切場が詳述されています。

調査の100周年を迎えての記念刊行物ということであれば、クノッソス宮殿について纏められたPanagiotaki 1999がそうだったし、これからもこの種の刊行が増えていくのでは。
報告書が営々と出版されていく例で、エジプト学の中でこれに匹敵するものを探すならば、エレファンティネにおける調査報告ぐらいしか思い当たらず、

Christian Ubertini,
Elephantine XXXIV:
Restitution architecturale à partir des blocs et fragments épars d'époque ptolémaique et romaine.
Archäologische Veröffentlichungen des Deutschen Archäologischen Instituts, Abteilung Kairo, Band 120
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2005)
87 p., 38 plates.

が近年、出ています。

2010年9月11日土曜日

Peschlow-Bindokat 1990


太宰治の名作「走れメロス」では親友の石工セリヌンティウスという者が登場し、最後にはメロスと音を立ててお互いに殴り合います。互いをどこまで深く信じていたのかについて決着をつける行為。
セリヌンティウスと呼ばれるこの男、

「今は此のシラクスの市で、石工をしている」

と小説の冒頭には説明があって、太宰の短編小説の舞台がイタリアのシチリア島(シシリー島)であることを改めて知るわけですが、その石工の名前(Selinuntius)は「セリヌント(セリヌンテ)の人」という意味。「シラクス」、「シラクーザ」あるいは「シラクサ」は、シチリア島における中心都市の名です。「セリヌント」はこの島の地方の名。

イタリア領の島のひとつであるシチリアには昔、古代ギリシア人たちの植民都市が築かれたので、古い形式の神殿が今でもいくつか残っています。石造建築に深い興味を抱く人ならば、シチリアに残るセジェステ(セジェスタ)の神殿が多くの専門書で繰り返し取り扱われていることを御存知のはず。古代ギリシア建築の構法を扱う代表的な教科書として挙げられるHellmann 2002では、カラー図版でそれが大写しで掲げられています。
シチリアの神殿は全般的に、残存状態はあまり良くなくて、観光目的で見に行くとがっかりする方もいらっしゃるかと思うのですが、なぜ古代建築の専門家たちが、セジェステに佇む壊れた神殿に注目するかと言えば、未完成であるために建物の造り方が詳しく分かるという利点があるからで、本来は完成時に削り落とすべき突起が、石材のあちこちに見受けられたりします。
特に基壇部分の突起は、非常に頻繁に引用されており、古代エジプトにおけるギザのメンカウラー王ピラミッド基部の花崗岩に残る突起などとともに、世界で有数の突起のうちのひとつ。

この島には神殿を建てるために切り開かれた多数の石切場も同じように残っていて、その中でも大きな円柱を切り出そうとしてそのまま残された光景は特筆され、とても有名。
本書はシチリアのセリヌントにある石切場の報告書。クーサ(Cusa)の石切場を主として扱っています。
前回で挙げたMalacrino 2010にも、クーサの石切場に残る切りかけの円柱群はもちろん34ページの図で紹介されており、それでこの本を思い出した次第。

Anneliese Peschlow-Bindokat,
mit einem Beitrag von Ulrich Friedrich Hein,
Die Steinbrüche von Selinunt:
Die Cave di Cusa und die Cave di Barone
.
Deutsches Archäologisches Institut (DAI)
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1990)
66 p., 30 Tafeln, 4 Beilagen.

Inhalt:

Presentazione (Vincenzo Tusa) (p. 7)
Vorwort (p. 8)

Die Steinbrüche von Selinunt (p. 9)
Steinbrüche und Bautätigkeit von Selinunt (p. 9)
Die Cave di Cusa (p. 14)
Die Cave di Cusa und der Tempel G (p. 33)
Die Cave di Cusa und die Marmorbrüche von Milet (p. 38)
Die Cave di Barone (p. 40)

Geologische und petrographische Merkmalsmuster antiker Baustoffe Selinunts und seiner Steinbrüche (Ulrich Friedrich Hein) (p. 45)
Einleitung (p. 45)
Der geologische Rahmen (p. 46)
Die antiken Steinbrüche (p. 49)
Zur Petrographie der antiken Baumaterialien (p. 56)
Zur Geochemie der antiken Baumaterialien (p. 62)
Bemerkungen zum lithologischen Inventar der Bauwerke (p. 63)
Anhang: Probenverzeichnis (p. 64)

Abbildungsnachweis (p. 66)

前半は技法に関する考察で占められ、後半では岩石学的な記述がおこなわれています。
上記の通り、目次ではドイツ語とイタリア語とが入り混じっており、こういうところは定冠詞というものが存在しない日本語をもっぱら用いている人間にとって、かなり衝撃的です。

建築学で建造過程を眺めようとする領域は、それはすなわち「段取りをどう見るか」の世界ですから、切り出した円柱のドラムをどのように効率的に岩盤から切り出すのか、どっちの方向へ運び出そうとしているのかを把握するのが焦点となります。円柱を切り出すために、1メートル弱の幅の狭い溝を円柱の周囲に沿って掘り下げていますけれども、掘削量を可能な限り削減しようとしたらしいことが、ここでもうかがわれます。
複数の石切場と、現地に残る数々の神殿との対応関係を探っているのは注目されます。考古学・建築学と、科学分析の成果とがうまく組み合わされた例。報告書においてある程度、最終の着地点が見える場合にはこうした共同作業ができて、幸せな邂逅が達成されます。
でも、いつもこうしたことができるとは限らない。

円柱を切り出そうとした痕跡が集中している石切場というのは世界的にも案外に少なくて、クーサの石切場などが注視される所以です。古代エジプトにおける一本柱の整形の仕方と、古代ギリシア・ローマでの一本柱の整形の方法がどのように異なるのかといった細かな検討も、まだおこなわれていないはず。
それは一見、専門技術に関わる話で、全体として些細な問題であるように思われながらも、時代の要請に応じ、何を優先して何を切り捨てたのかという文化の違いを示す話とも繋がっていきます。

かつて、古代エジプトを中心とした石切場の文献を集めたことがありました。類似したページは今でもあまりないようですので、御参考までに。

2010年9月8日水曜日

Malacrino 2010 (English ed.)


ほとんど全ページにカラー図版が用いられており、大変見やすく、限られた分量の中で古代ギリシアと古代ローマにおける建造技術をうまく纏めています。石造建築に限らず、土を用いた構法についても触れている点は重要。土木に関連した遺構についても、いくらかページを割いています。
西洋の古典古代建築に興味を持っている方が最初に購入する入門書としては、お勧めの一冊かもしれない。5000円ほどでしたから、決して高くはありません。内容は充実しています。

Carmelo G. Malacrino,
translation in English by Jay Hyams,
Constructing the Ancient World:
Architectural Techniques of the Greeks and Romans

(First published in Italy in 2009 by Arsenale-Editrice, Verona, "Ingegneria dei Greci e dei Romani".
English ed., The J. Paul Getty Museum, Los Angeles, 2010)
216 p.

Contents:

Introduction (p. 4)
Natural Building Materials: Stone and Marble (p. 7)
Clay and Terracotta (p. 41)
Lime, Mortar, and Plaster (p. 61)
Construction Techniques in the Greek World (p. 77)
Construction Techniques in the Roman World (p. 111)
Engineering and Techniques at the Work Site (p. 139)
Ancient Hydraulics: Between Technology and Engineering (p. 155)
Heating Systems and Baths (p. 175)
Roads, Bridges, and Tunnels (p. 187)

Glossary (p. 208)
Bibliography (p. 210)
Index (p. 213)

ただ専門家が重宝するかというと問題があって、この本に掲載されている図版では原典の引用がことごとく省かれています。イタリア語で書かれたという原著にはそれらが記載されているのかどうか、未見ですので詳細が分からないのですが、先行研究の図版をもとにして新たに描き直したらしきものが多々うかがわれ、OrlandosKorresAdamなどの著書をもとにしているなということが、一見して明瞭な描画が含まれます。
当方も経験があるけれど、図を描き直したら著作権に気を遣う必要はない、というのは大きな間違いで、原典はやはり明記すべきと思われます。こうした点の配慮は欲しかったところ。高名なゲッティから出ている本ですので、信用する人は多いはず。

紙幅がないことを勘案するならば、参考文献のリストはよく纏まっているように思われます。
ただKorresの名前が見当たらないようですが、同じゲッティから出ている本だし、まあいいや、ということなのかもしれません。Coultonについては著書が取り上げられず、論文がたった1本だけしか載っていなくて可哀想。Hellmann 2002, 2006は記載。Rockwell 1993も載っています。
リストにはWilson Jones 2000が体裁上、加えられているけれども、今回取り上げたこの本には古代の設計方法については一切述べておらず、それ故にCoultonの代表作も落ちているのかも。構法、つまり建物の造り方に限定して書かれているとみなすべきです。

ならば、建造前の、いろいろと問題が沸き上がって矛盾が錯綜し、それをどう整理するのかという、建築で一番面白くてわくわくする設計・計画に関するところが抜け落ちているのではないのか、という反問も当然ながら予想されるように感じるのですが。
こういうことを熱望するのはしかし、少数意見となり、残念な点です。

2010年7月13日火曜日

Panagiotaki 1999


ほぼ100年前にエヴァンスによってなされたクノッソス宮殿の発掘調査を、つぶさに眺めようという試みです。宮殿と言っても、王の居室部分が実際に見つかっているわけでもなく、神殿などの宗教建築とは趣が異なる複合建物をこう呼んでいるだけ。

古代世界の"palace"と言われているものには、実は良く分からないものが相当数、含まれています。「宮殿」あるいは「王宮」という言葉からは、「王が住んだ大規模な居宅」というイメージが浮かびますが、それが証明されている建物はほとんど存在しません。
これは古代エジプトのアマルナ王宮やマルカタ王宮、メンフィスにおけるメルエンプタハの王宮、テル・エル=ダバァ、あるいはデル・エル=バラスにおいても等しく言えることです。

クノッソス宮殿でも、王の寝室などが見つかっているわけではありません。今では大規模な祭祀施設のひとつとして捉えられることの方が多い気がします。こうした見直しの機運のもとに書かれた一冊となります。

Marina Panagiotaki,
The Central Palace Sanctuary at Knossos.
British School at Athens, Supplementary Volume No. 31
(British School at Athens, London, 1999)
xviii, 300 p., 45 plates, 2 folded plans.

エジプト文明に親しんでいる人が、他の古代中近東あるいは古代地中海文明の解説に出会ってまず戸惑うのは、年号が明瞭な数字として出てこないことで、エジプト研究では絶対年代が用いられるのに対し、他の地域では多くの場合、相対年代が用いられます。
人類の古い歴史は大きく石器時代、青銅器時代、鉄器時代などと分けられ、この青銅器時代 Bronze Age を、初期 Early、中期 Middle、後期 Late の3つに分けます。それぞれをまたI、II、IIIと分け、さらにまたそれぞれをA、B、などと細分化していきます。例えばMB II とは、それゆえ中期青銅器時代の第II期のこと。
この本ではLM IBとか、MM IIIAという別の言い方も頻出します。ミノア時代 Minoan の略号 M も同時に使っており、話がより複雑になるわけで、LM IBは後期ミノア時代の第I期Bのこと。

クノッソス宮殿の中枢部では改変が認められ、第1期と第2期とがあったことが分かっています。出土したさまざまなもの、土器だけではなく金属製品から動物の骨に至るまで、遺物の総リストが各章の最後に作成されており、全体の註の数も1000ほどあります。アシュモール博物館のクノッソス・アーカイヴ収蔵資料を駆使した労作。
でも結局、どの部屋が一番重要であったのかは不明であるという結論が導かれており、これが残念。
エヴァンスによる全4巻の報告書、

A. J. Evans,
The Palace of Minos at Knossos, 4 vols.
(London, 1921-1935)

などに戻って併読することが必要です。

2010年7月11日日曜日

Koltsida 2007


古代エジプトの住居に関する「渡辺篤史の建もの探訪」をやっている感じの研究書。BARシリーズの一冊です。British Archaeological ReportsBAR)には赤い表紙のInternational Seriesと青い表紙のBritish Seriesとの2種類があって、エジプト学の論考はもっぱら前者から刊行されています。
質の高い研究をとても安く供給するシリーズ。A4版のペーパーバックで、モノクロ印刷が基本です。国際学会の報告、博士論文や調査報告などの刊行が主に進められています。

すでにこのシリーズで2500タイトル以上が出版されており、そのすべてを揃えている図書館を日本国内で探すのは難しい。考古学関連書籍の収集に力を入れている早稻田大学でも全部持っていません。国士舘大学のイラク古代文化研究所、あるいは中近東文化センターの図書館などと併せて文献探索をおこなう必要があります。すぐに売り切れるので、新刊案内が届いた際には早く注文しなければならない、ちょっと面倒なシリーズ。
なお考古学関係では、他にBiblical Archaeology Reviewというものもあって、こちらも略称は同じBARなので注意が必要。

Aikaterini Koltsida,
Social Aspects of Ancient Egyptian Domestic Architecture.
British Archaeological Reports (BAR), International Series 1608
(Archaeopress, Oxford, 2007)
xv, 171 p., 88 plates.

社会学的な見地からの研究というのは近年の流行りです。20世紀の少なくとも前半までは、わざわざ本の題名に「社会的」なんていう言葉をことさらにつけたかどうか、記憶があまり定かではありません。歴史学に新風を巻き起こしたフランスのアナール派、また人類学の新たな展開など、近接分野の変化の影響が見られるのでは。

Contents:
Chapter 1: Sources of Evidence
Chapter 2: The Front Room
Chapter 3: The Living Room
Chapter 4: The Bedroom
Chapter 5: The Kitchen
Chapter 6: The Evidence for a Second Storey
Chapter 7: Discussion and Conclusions

残存する住居遺構の入口から、前室、居間、寝室、台所とくまなく回っていく様子が目次からも良く分かります。新王国時代後期のアマルナとディール・アル=マディーナが主として扱われますが、エジプトで資料が豊富な住居遺構と言ったらこれぐらいしかないので、仕方ありません。

第6章では、2階建て以上の日乾煉瓦造住居が王朝時代の都市部にあったか、それとも平屋建てしかなかったかが問われています。B. ケンプが投げかけた有名な問いかけ。大まかにはケンプ、またその弟子のスペンスの考えを追認する結果となっていますが、建築学の見地からは、また別の解釈が提唱できる余地を含んでいるかと思われます。

註が全部で軽く1000を超えますけれども、これはしかし、考察に該当するアマルナの住居番号をすべて書き出そうと無理をしたりするからで、見る方は苦痛です。
古代エジプトの住居研究には、でも欠かせぬ一冊。

2010年7月10日土曜日

Roehrig et al. (eds.) 2005


エジプトの最も華やかな時代において強大な権力を握った女王のひとり、ハトシェプストに関する展覧会のカタログです。
展覧会はサンフランシスコ美術館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館(以下、MMA)、フォートワース・キンベル美術館の3箇所にて開催されました。いずれもアメリカ国内です。
ルイス・カーンの設計によるキンベル美術館は、建築の分野では非常によく知られた建物で、おそらくは米国の美術館における最高傑作10作品の中に入る名作とみなされますが、ここでは触れません。

Edited by Catharine H. Roehrig,
with Renee Dreyfus and Cathleen A. Keller,
Hatshepsut: From Queen to Pharaoh
(The Metropolitan Museum of Art (MMA), New York, 2005)
xv, 339 p.

キャサリン・レーリグが単名の編集者として前面に推し出されていることにまず気づきます。MMAのアーノルド夫妻ももちろん執筆陣に加わっていますが、表には出てきていません。
ハトシェプスト女王の記念神殿、通称「ディール・アル=バフリー(デル・エル=バハリ)」はイギリス隊の他、MMAもまた長年発掘をおこなった場所で、アーノルドも近くで再調査をしていますから、資料としては充分所蔵しているはずです。ですがそれにとどまらずに、できるだけ話題を膨らまそうとしている意図が興味深い点。
例えばトトメス3世の増築神殿を調べたハンガリー隊の人にも執筆させたり、「エジプトとエーゲ」という題でM. ビータックに書かせたりしているのは、その努力のあらわれかと感じられます。

バフリーの壁画では当時のエジプト国外の情報が間接的に描写されていますから、"Egypt's Contacts with Neighboring Cultures"という項目が設けられているのは分かりやすい。
「エジプトとヌビア」の章はイギリスのヴィヴィアン・デーヴィスが執筆しており、この人は博覧強記で知られている人で、”Egypt and Africa"も出していました(Davies (ed.) 1991)。
一方、「エジプトと近東」と名付けられた章では、MMAのリリーキストが書いています。古代エジプトにおける「鏡」の専門家として知られている人ですが、かなりの高齢であるはずにも関わらず、健在ぶりを誇示。
リリーキストの近著は、

Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.

で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
しかし文字読みの専門家ということであるならば、今は職場を移ったけれど、MMAにはJ. P. アレンがいたじゃあないか、何で他国の人に依頼する必要があったのかという素朴で陰鬱な疑問が、まったくの部外者の見方からは生じたりもするところ。

ハトシェプスト女王に仕えた建築家センムトについてはドーマンが記しています。彼の専門領域。すでに2冊を単著で出版しています。

Peter F. Dorman,
The Monument of Senenmut:
Problems in Historical Methodology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London and New York, 1988)
xvi, 248 p., 22 plates.

Peter F. Dorman,
The Tombs of Senenmut:
The Architecture and Decoration of Tombs 71 and 353.
Publications of the Metropolitan Museum of Art,
Egyptian Expedition Vol. XXIV
(MMA, New York, 1991)
181 p., 96 plates.

計測のためのロープの束を抱えているセンムトの彫刻像をカラーで紹介しているのは、建築学的には注目される点。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。

ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
残念なことに図版はすべてモノクロですが、数々の家具を写真で紹介しつつ、Figs. 1, 2ではそこに記された文字列を報告しています。

P. Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.

他にアメリカの研究者も、違ったアプローチから考えてペルパウトはアメ3時代の人間であったろうと判断しており、これは面白い結論。

257-259ページで紹介されている大英博物館収蔵の寝台の断片については、P. ラコヴァラがJSSEA 33 (2006), pp. 125-128にて文を寄せています。これは永らくハトシェプストの玉座と考えられてきたものですが、今日ではケルマの特徴的な寝台との関連性が指摘されています。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。

ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。

2010年7月9日金曜日

Davies (ed.) 1991


大英博物館にエジプトとアフリカを紹介する新たなギャラリーができたことを記念して企画された本で、有名な研究者たちによる論考が30編、集められています。こういうことが実現できる点は、さすが大英博物館の力量。

註の振り方には2種類がうかがわれ、無理して全体の体裁を整えようとしていません。多くの執筆者たちから原稿を集める場合の本では、しばしば見られる形式ですが、特にこの本では豪華な顔ぶれが揃っており、文書の煩雑な手直しを避け、オリジナルの形式を尊重したと見ることができます。
抜刷の配布を考慮していないページネーションで、偶数ページから始まる論文も奇数ページから始まる論文も両方あります。

W. V. Davies ed.,
Egypt and Africa:
Nubia from Prehistory to Islam

(British Museum Press in association with the Egypt Exploration Society, 1991)
x, 320 p., 16 plates.

エジプトと地中海沿岸地域、あるいはエジプトと西アジアとの関連などはかねてより指摘され、古い時代から論じられてきましたが、ここではエジプトの南方に位置するスーダンとの関わりが注目されています。
現在ではスーダンに数十の外国調査隊が入っているらしく、これは今のエジプトが新たな発掘調査の申請を一切認めていなかったり、あるいは申請の継続が打ち切られていたりしている事情も、いくらか反映している様子。
スーダンの遺跡は近年、劇的にアクセスしやすくなっており、すぐそばまで舗装道路が整備されていると聞いています。

レプシウスの「デンクメーラー」(Lepsius 1849-1913; cf. Description 1809-1818)ではヌビア地域まで範疇に含めていましたが、エジプト学が深化するにつれ、ヌビア地域は次第に別扱いされるようになりました。
この地域を扱う専門雑誌としては、メロイティカなどが有名です。

Meroitica
http://www.meroitica.de/

さてこの本に掲載されている論考で興味を惹くものを挙げるならば、

F. Geus,
"Burial Custums in the Upper Main Nile: An Overview,"
pp. 57-73.

は、4千年紀からの埋葬方法の違いを概観したもので、多数の墓が図解され、参考になります。

B. Williams,
"A Prospectus for Exploring the Historical Essence of Ancient Nubia,"
pp. 74-91.

もまた、この地域における長い発掘の経験を生かし、墳墓形式の変遷を辿っています。

F. W. Hinkel,
"The Process of Planning in Meroitic Architecture,"
pp. 220-233.

は、主としてバダウィの理論をもとに建築平面を分析したもので、1キュービット=52.3cmをもとにした分割と8:5理論を展開していますが、より詳しい検討が待たれるところ。個人的には問題がある論考だという印象が強い。

T. Kendall,
"The Napatan Palace at Gebel Barkal: A First Look at B 1200,"
pp. 302-313.

は、オコーナーの考察に基づいて"Palace"を論じたもので、面白い考え方を展開しています。

最後にDaviesが大英博物館に収蔵されている関連の品を列挙しており、情報の公開に努めています。大英博物館ではエジプト部門が拡張され、エジプト・スーダン部門と名称が変更になりました。
エジプト学を少し拡げて考えようとする動きのあらわれと思われる一方、人文科学の分野にはもはや研究費が充分に回らなくなってきている背景も感じられます。

2010年7月6日火曜日

泉井 1978


「数」という存在に言語学から触れた書。この書籍をどういう経緯で入手したのか、もう忘れてしまいましたが、今でも時折読み返すことのある印象深い好著です。

日本語では単数と複数との区別があんまりはっきりとはしていません。でも、これを厳密におこなう言葉は多くあります。この傾向は、特に古代語においては顕著でした。
単数と複数の他に、双数(両数)という概念があり、これはサンスクリットや、また印欧語ではないけれども、古代エジプト語でも見られますし、現在でも例えばアラビア語ではっきりと区別がなされます。本来、2つが揃って然るべき存在に、単数とも複数とも異なるかたちが与えられるわけです。
本書はまず、そこを探ることから始まります。

大昔の人間は数をどう捉えていたか、その意識をどのように言語へ定着させたかが語られ、興味深い本です。

泉井久之助
「印欧語における数の現象」
(大修館書店、1978年)
x, 225 p.

目次:
第一部 複数・単数・複個数 ー顕点と潜点ー
第二部 双数について ーその機能と起源ー
補説  数詞の世界

複数形を明瞭に持たない日本人にとって、名詞の単複の使い分けというのは理解しがたい部分があるわけですけれども、著者はさらに、印欧語には「巨数」あるいは「漠数」という概念が潜在するのではないかと論じています(p. 47ff)。

さらに注意が惹かれる点は巻末の「数詞の進法」(p. 210ff)において述べられる内容です。
原共通印欧語では何故、5が「~と」という意味合いを有する語尾を持つのか、また8がどうして双数形をとるのか(!)を述べています。

フランス語で80のことを、「20が4つ」という言い方をするのは知られていますが、これと似たようなことが古い印欧語でうかがわれるという指摘がなされています。4をひとつのまとまりとして捉えるような感覚があったに違いない、という指摘はとても面白い。
4,8と至って、その次の9にはそれ故に、「新しい」という含意が認められ、ラテン語でもサンスクリットでも、数字の9は「新しい」という言葉と共通の語根を持つのだという指摘にも驚きます。
十進法とはまるで異なる世界が、そこでは開示されています。

現代人にとって、数字の記法とは単に量の増減があるだけの、限りなく平坦に展延されるだけの世界の話となりますが、かつてはそこに不思議な起伏があったことが指摘されています。
「だから何なの?」という疑問を持たれる方には不用の書。
しかし数をかぞえるという素朴な行為の中に、かつては異なった意識や観念の投影がさまざまにあったのだという点に興味を持たれる方にとっては、たぶん読んで失望しない著作です。

2010年7月4日日曜日

Herz and Waelkens (eds.) 1988


古代における大理石の用法を扱った国際学術会議の報告書。古代ローマの石切場、また石の輸出入に関する研究はワード・パーキンスによって本格的に開始されましたが、その遺志を継承しての国際会議。ワード・パーキンスについては、Dodge and Ward-Perkins (eds.) 1992などを参照。
岩石学、経済学、技術史学、考古学、建築学など、多岐にわたる学際的な内容です。

Norman Herz and Marc Waelkens (eds.),
Classical Marble:
Geochemistry, Technology, Trade.

Proceedings of the NATO Advanced Research Workshop on Marble in Ancient Greece and Rome:
Geology, Quarries, Commerce, Artifacts.
Il Ciocco, Lucca, Italy, May 9-13, 1988.
NATO Advanced Science Institutes (ASI), Series E
(Applied Science), Vol. 153
(Kluwer Academic Publishers, Dordrecht, 1988)
xvi, 482 p.

大理石は古代ローマや古代ギリシアにおいて好んで使われた石材で、これを専門的に研究する特殊な学会もあります。

ASMOSIA
(Association for the Study of Marble and Other Stones used In Antiquity)

というのがそれで、同じ石材を前にしながらも、立場が違うとこんなにも見るところが異なるのだという点が面白い。論考の多くは古代社会の経済に関わる研究と、採掘技法や労働組織についての注視、また科学分析を通じての時代・地域の同定、そういうことになります。
これらの論考をまとめて見据えようという難しいことをやっているのが共同編集者のHerzとWaelkensで、ふたりともこの分野では第一人者です。

このような本を手にすると、大理石という石の魅力が未だ強く放たれているという事実を思い知らされます。透過性があり、柔らかく、艶やかさを有するという独特の素材。
透き通る人間の肌と似た質感がある唯一の石と言ってよく、石膏製の模像と実物の大理石像との違いは大きい。

エジプト学が、ここにどういうかたちで関係するかはしかし、微妙です。もっと相互の論議がなされてもいい。

Kemp and O'Connor 1974


水中考古学の専門誌に掲載された、アメンヘテプ3世のマルカタ王宮調査に関する重要な調査報告。マルカタ王宮に関する報告の数は、それほど多くはありません。アクエンアテン(アケナテン)によるアマルナ王宮とは大きく異なる点となります。

アマルナ王宮調査は最初にピートリが手がけ、その後にドイツ隊も居住区を発掘し、イギリス隊が引き継いで大規模な調査をしていますから、報告書の冊数はかなりのものとなります。
一方、マルカタ王宮の場合はダレッシー、及びタイトゥスによる報告の後、メトロポリタン美術館による1910〜1920年の調査の短報が続き、JNESに掲載された1950年代の報告のあと、次いで1970年前半におけるアメリカ隊の調査がなされますが、そのアメリカ隊による概報がこの論文。
他にはペンシルヴァニア大学博物館の紀要にもオコーナーによって書かれましたけれども、僅か2ページの内容で、あまり参考にはなりません。

従って、マルカタ王宮の既往研究のうち、第一次資料を知ろうとした場合には、ダレッシーのフランス語を6ページ、タイトゥスの英語を20ページほど、メトロポリタン美術館による短報、それから1950年代に執筆された出土文字資料の分析をおこなったJNESの英語報告を60ページほど、それにこの文を読めば、だいたい足りることになるかと思います。
最近、アメリカの連中たちによって設けられたマルカタ王宮に関するサイト、

iMalqata
http://imalqata.wordpress.com/

の"Reports"のページでは現在、上記のだいたいが「不法に」PDFファイルにて一般に公開されており、ダウンロードすることができます(!)。
こういうこと、本当にやってもいいんですか。JSTORからダウンロードしたファイルをそのまま一般公開するなど、とっても大胆。

マルカタについては、ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズに載せられたスミスの文章(Smith 1998 (3rd ed.))も見る必要があるかもしれませんが、これもそんなに長くありません。
エジプト学において王宮はそれほど研究は進んでなくて、というよりも、古代中近東の王宮・宮殿の研究というのは穴ばかりなのであって、その点は今まで指摘してきた通り。
「王宮」と呼ばれるものも、"religious palace"か、それとも"residential palace"なのかがずっと論議されてきている、なあんていうことを初めて知る方は多いはず。で、古代中近東において、"residential palace"と仮に呼ばれているものは、実は残っていないに等しいのです。
先日、西アジア考古学会に出席し、講演にてシュメールにおける宮殿建築の新たな解釈について興味深く拝聴させていただきましたけれども、半ば予想されたことかとも思われました。ここでは、Hitchcock 2000にてうかがわれた問題提起を再度、思い起こすべき。
すでに、Hägg and Marinatos (eds.) 1987, The Functions of Minoan Palacesでも同様のモティーフは指摘されていました。王が実際に居住した痕跡というのは、どの遺構でも考古学的にはほとんど検出できていない状況であるはずです。

Barry Kemp and David O'Connor,
"An Ancient Nile Harbour: University Museum Excavations at the 'Birket Habu'",
in The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration (1974), 3:1,
pp. 101-136, 182.

この雑誌名は今では、International Journal of Nautical Archaeology (IJNA)というふうに、短く縮められたようです。
全体はふたつに分かれ、最初にオコーナーが7ページ、交通路として使われたナイル川の重要性とナイルの港湾施設について述べています。これを引き継ぎ、ケンプが調査の目的とその成果を記すという構成です。

マルカタ王宮の中心地はメトロポリタン美術館によってほぼ完掘がなされていますから、それより対象を広げ、特に人工的に造られた近傍の湖「ビルケット・ハブ」に焦点が当てられた調査。
エジプト人は湖を造営するために矩形をなす湖の輪郭に沿って、掘削した土砂を捨て、山が連なるかたちに仕上げました。これは景観を考慮しているのではないか、また土砂の運搬経路を勘案した結果ではないかと書いている点などに、ケンプの才覚が感じられます。世界最初のランドアートではないかとも述べており、人工湖の用途としては日乾煉瓦のための採掘地・祭祀施設・娯楽施設と、3つ挙げています。

サイトKと呼ばれる場所はその小山の一角に当たり、ここから彩画片と煉瓦スタンプ、「セド祭のためのワイン」と記された土器片が見つかっています。セド祭のための小建築が壊されて、ここに廃棄されたと考えられており、非常に重要な発見。それまで同じセド祭のための施設であったと思われてきた「魚の丘」建築を、ではどう考えるかという疑問に繋がります。
サイトKで見つかった建物の残骸は、もしかしたら「魚の丘」建築のものではないかという話は、未だ突き詰められていません。煉瓦スタンプから考えて、別のものだという感触が与えられますが、しかし双方の彩画片は未だ詳しく比較されていない状況にあります。
なお、サイトKから出土した彩画片の特徴については、すでにギリシアの研究家が英語とギリシア語で短く発表済み。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。マルカタではそれがまだうまく整理されていません。その点が興味深いところです。
このページでは、マルカタ王宮については結構多く触れてきました。
「マルカタ」、「Malkata」、「Malqata」などを検索していただければ。

2010年7月2日金曜日

Hawass and Richards (eds.) 2007 (Fs. David B. O'Connor)


D. B. オコーナーへの献呈論文集。オコーナーについてはアビュドスの重厚な本について触れました(O'Connor 2009)。ザヒ・ハワース・他が編集し、またSCAから出版された2巻本です。このふたりは共にアメリカのエジプト学者、オコーナーの教え子。

Zahi A. Hawass and Janet Richards eds.,
The Archaeology and Art of Ancient Egypt:
Essays in Honor of David B. O'Connor
. 2 Vols.
Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Cahier No. 36
(Publications du Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2007)
Vol. I: xxvi, 462 pp.
Vol. II: x, 476 pp.

2冊を合わせると1000ページ近くになるこの本には多数の者が論文を寄稿しており、エジプト学における献呈論文集としては珍しいことに全員が英語で執筆しています。
両巻ともページが1から始まるので、混同する恐れがあるかも。
例によって、建築に関わる論考だけを取り上げるならば、

Dieter Arnold,
"Buried in Two Tombs? Remarks on 'Cenotaphs' in the Middle Kingdom",
Vol. I, pp. 55-61.

「セノタフ Cenotaph(空墓)」というのは、エジプト学の専門用語。この語はしかし、Shaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)では項目立てされていなくて、一般には分かりにくい。アーノルドはすでに、Arnold 2003, p. 50で解説しています。

"Duplicates of tombs, or false tombs, were erected either at the burial sites of several kings (South Tomb in the Djoser precinct, Mentuhotep's temple with the Bab el-Hosan), or as separate structures at Abydos (Osiris tomb, Senwosret III). Private commemorative chapels without a tomb were also set up at Abydos in the Middle Kingdom. (.....) Conflicting interpretations exist concerning the concept of multiple burial places, for example places for statue burials, Osiris tomb, ka-tomb, the duality of Upper and Lower Egypt, tomb for the placenta of the king or Sokar tomb, as well as the survival of earlier, locally divergent burial practices."(抜粋)

単に遺体が収められていない見せかけの墓だけを指す言葉ではないため、面倒なことになっています。これに輪をかけて、錯綜する情報を提示。
61ページの参考文献の欄では、Der Tempel des Königs Mentuhotep von Deir el-Bahari I (Mainz 1974)が、H. アルテンミューラーによって書かれていることになっています(!)。こういう誤りは珍しい。
原稿の最終チェックは、ま、いいやという建築家らしいアバウトさ。

個人的には、B. J. Kempがアマルナにおける被葬者の向きなどを述べたものに興味が惹かれました。

Barry Kemp,
"The Orientation of Burials at Tell el-Amarna",
Vol. II, pp. 21-31.

ここには古代エジプト建築の向きに関するK. スペンスの博士論文が註として挙げられており、建築史関係者は注意を向けておく必要があります。
エジプト学の百科事典では「向き」について項目があるけれども、説明は簡単。A. バダウィは建築家でしたから、建物の向きについては専門家として気にしていました。3巻からなる彼の主著(Badawy 1954-1968)では、説明をある程度おこなっていますけれども、そのトピックを掘り下げた博士論文。

他には、M. LehnerF. Sadaranganiがギザの労働者集合住居における造り付けの寝台について書いているのが面白かった。

Mark Lehner and Freya Sadarangani,
"Beds for Bowabs in a Pyramid City",
Vol. II, pp. 59-81.

またG. Robinsは、ツタンカーメン王墓における装飾計画を比較的長めに説明しています。

Gay Robins,
"The Decorative Program in the Tomb of Tutankhamun (KV 62)",
Vol. II, pp. 321-342.

2010年6月27日日曜日

Bleiberg and Freed (eds.) 1991


ラメセス2世に関する国際シンポジウムの記録。本の題名は、イギリスの代表的な詩人シェリーの、非常に有名な詩の一節から採られています。

Edward Bleiberg and Rita Freed eds.,
Fragments of a Shattered Visage:
The Proceedings of the International Symposium of Ramesses the Great
.
Monographs of the Institute of Egyptian Art and Archaeology, 1.
Series editor: William J. Murnane
(Memphis State University, Memphis, 1991).
v, 269 p.

さてこの薄ピンク色のペーパーバック、錚々たる顔ぶれが論考を寄せているため、新王国時代後期に興味を持っている人なら必ず見たいと思わせる書籍。
外見は安っぽいんですけれども、中身はきわめて重要です。16編の論考が掲載されていますが、建築関連ならばケラー、キッチン、オコーナー、そしてシュタデルマンの4本の論文は必読。

一番長い分量を書いているのはフランスの大御所ノーブルクールですが、2番目に長い文を寄稿しているケラーの内容は、壁画を専門とする人間にとって欠くことができない内容を伝えています。

C. A. Keller,
"Royal Painters: Deir el-Medina in Dynasty XIX"
pp. 50-86.

NARCE 115 (1981)に書かれたモティーフが、10年を経てこういうかたちに展開されるのかという思い。何しろ3200年前の画工の個人を特定しようという恐るべき試みであるわけで、絵画に対する情熱を持っていないと論旨についていけません。
この論文が何故、建築に関わりがあるかと言うならば、それは岩窟墓の造営作業に関わった労働者集団組織の編成をどう考えるかという問題と繋がるからです。王家の谷の岩窟墓は「右班」と「左班」とによって掘削され、仕上げが施されました。この時の「右班」と「左班」は、実際に墓の右と左をそれぞれ担当したのであろうとチェルニーが書いています。ただしガーディナーは右と左について、墓の奥から見た場合の右と左であることを言及していますので、留意されるべき。墓の入口から見た左右ではありません。
このチェルニーの見方への反論であるわけですが、建造作業の場合は、また別の見方が必要であろうと思われます。

Kenneth A. Kitchen,
"Towards a Reconstruction of Ramesside Memphis",
pp. 87-104.

キッチンは汚い絵を数枚掲載していますが、その殴り書きに近いメンフィスの全体見取り図が、少なくともこれから長く引用され続けるであろうということをはっきりと意識しています。意図的に乱暴な描き方をすることで、考え方の骨格だけを正確に伝えるという見事な表現。図面は綺麗に描くほど価値があると考えている凡庸な研究者たちに、根本的な批判を与える図と言っていい。単に多忙だから汚い絵を出していると思っていると大きく間違えます。

David O'Connor,
"Mirror of the Cosmos: The Palace of Merenptah",
pp. 167-198.

オコーナーに対しては、ちょっと厳しい見方をすべきだと僕は考えています。メルエンプタハの宮殿を発掘したのはペンシルヴェニア大学の博物館で、壮大なことを書く前に、後継者はもう少し細かい情報を出して欲しかった。
エジプトの王宮について調べようと思ったら、しかし彼のこの論考は疑いもなく、最重要の部類に入ります。事実、多く引用されている論文。

Rainer Stadelmann,
"The Mortuary Temple of Seti I at Gurna: Excavation and Restoration",
pp. 251-269.

MDAIKで発掘調査の経過を追っている人は、読む必要がないかもしれない。
シュタデルマンによるセティ1世葬祭殿の建築報告書は、たぶんもう出版されないのではないかと個人的に思っていますが。彼による論考もまた、王宮建築の研究者にとっては重要。

活躍していたWilliam J. Murnaneが亡くなってしまいました。これが非常に残念です。ここではシリーズ・エディターとして登場。

2010年6月26日土曜日

Hinz 1955


イスラームでも時代や地域によって度量衡が変わり、特に長さについて調べることは建築の世界では重要な作業となります。しかし、これが案外と見つけ出しにくくて大変。
それらの情報をひとつにまとめた薄い冊子です。

Walther Hinz,
Islamische Masse und Gewichte umgerechnet ins metrische System.
Handbuch der Orientalistik:
Ergänzungsband 1, Heft 1
(Brill, Leiden, 1955)
(viii), 66 p.

長さについては54ページから記述が始まります。長さにも何種類もあって複雑ですが、たとえばカイロにおける1ディラー=58センチメートル、なんていうことが書いてあり、その後にダマスカス、アレッポ、トリポリ、エルサレム、イラク、イラン、インドの場合、というように説明が続きます。

イスラームのことを調べるのであったら、専門の研究者は自分のコンピュータにインストールしている「エンサイクロペディア」で索引をかけるのかもしれません。これはライデンのブリルから出ている権威ある事典。
CD-ROMも販売されるようになりました。

P. J. Bearman, Th. Bianquis, C. E. Bosworth, E. van Donzel and W. P. Heinrichs eds.,
The Encyclopaedia of Islam
CD-ROM
(Brill, Leiden, 2005)

15000項目以上もあり、冊子体では12巻で供給されます。第3版の刊行が始まっていて、これの完結にはまだまだ時間を要するはずですから、第2版を用いるのが現実的。
CD-ROMとは言え、10万円以上もします。ブリルの会員になると最新情報も含め、オンラインで見ることもできますけれども、こちらも高額で、個人では手が出にくいというのが現状。
簡略版もあって、

H. A. R. Gibb and J. H. Kramers eds.,
Shorter Encyclopaedia of Islam
(Brill, Leiden, 1997)
viii, 671 p., 2 plans, 7 plates

これだったら1万円ほどで購入ができるはず。古本では5000円以下で入手が可能です。イスラームに興味を抱く大学院生であったら、たいてい持っているのではと思われる本。これに匹敵する書籍が少ないものですから、人気の高い出版物。

ビザンティンからイスラームに変えられた遺構というものもあり、このためにビザンティンにおける長さの情報も見ることを強いられます。
ビザンティンの度量衡の決定版は、

Erich Schilbach,
Byzantinische Metrologie.
Handbuch der Altertumswissenschaft, XII, Teil 4
(Verlag C. H. Beck, Munchen, 1970)
xxix, 291 p.

で、pp. 13-55において長さに関する記述が見られます。
前時代における古代ローマの尺度ではなく、古代ギリシアの尺度に基づいて長さが決定されたのではないかという考察が重要。

2010年6月25日金曜日

Jomard 1809


「エジプト誌」の全巻が、今ではネットで見られることについて、すでにDescription 1809-1818にて述べました。ナポレオンによる「エジプト誌」にはテキスト編も含まれており、ジョマールはここに論考を複数、載せています。
欧州に留学中の安岡義文氏による情報。彼にはこれまでも、いろいろ貴重な最新の文献案内を送ってもらっており、多謝。BiOrの書評などを執筆していますから、興味ある方は御覧ください。

「エジプト誌」が誰にでも公開されているということは、すごいこと。逆に言うと、ここで触れられている内容を知らなければ「素人」とほとんど変わりないと判断されるわけで、辛い立場ともなります。

ここで取り上げる文章は全8章から構成され、古代エジプトの尺度に関して述べたもので、ニュートンによる52センチメートルという説を冒頭で一蹴し、これに代わる46センチメートルという値を主張して論理を展開している大論文。300ページ以上を費やしています。
ナポレオンの調査隊によってもたらされた数々の実測値をもとにした換算のリストだけでなく、古代ギリシア・ローマ、そしてアラブ世界の著述家たちによる「ジラー」を主とする長さの記述もくまなく参照しており、膨大な資料を駆使したその論述内容は、19世紀の博物学的方法の最後を飾るにふさわしい。オベリスクの寸法についても分析をおこなっています。

しかしこの頃に始まるさまざまな盗掘によって、長さ52センチメートルのものさしが実際に次々と発見されるようになります。この成果を受けてレプシウスが登場し、尺度の問題にはある程度のけりをつけました。Lepsius 1865 (English ed. 2000)を参照。
「ある程度の」というのは、実はレプシウスはジョマールの考え方を「小キュービット」として一部、残したからで、ここに混乱のもとがあると言えないこともない。レプシウスによるこのジョマール説の「救済」の方法に関しては、もっと議論があって然るべきだと思われます。G. ロビンスも、そこまで踏み込んではいません。

Edme Francois Jomard,
"Memoire sur le systeme metrique des anciens egyptiens, contenant des recherches sur leurs connoissances geometriques et sur les mesures des autres peuples de l'antiquite",
Description de l'Egypte, ou recueil des observations et des recherches qui ont ete faites en Egypte pendant l'expedition de l'armee francaise, publie par les ordres de Sa Majeste l'Empereur Napoleon le Grand.
Antiquites, Memoires, tome I
(Paris, 1809)
pp. 495-797.

すでに忘れ去られようとされているジョマールですが、ニュートンが前提とした「古代人は基準尺の倍数を構築物の主要寸法に充てた」という考えにおかしいところがあると指摘しており、これについては当たっている部分がなくもない。ニュートンはクフ王のピラミッドの計測値のうち、完数による値のみを偶然、目にしたという幸運に恵まれたと個人的には思います。澁澤龍彦(渋沢龍彦)の言い方を借りるならば、ここには建築の「死体解剖」があっても、「生体解剖」がありませんでした。
アイザック・ニュートンの論考についてはNewton 1737で紹介済み。これはまた、Greaves 1646の論考に刺激を受けての考察でもあります。
実際に古代エジプトの遺構では、いくつかの寸法でジョマールが分析したように、46センチメートル内外の長さで割り切れる場合があるわけで、この矛盾を斟酌し、できるだけ多くの報告を拾い上げようとしたレプシウスの功績は称えられるべきでしょう。
しかし結果として、キュービットは52.5cmであったというのが現段階における結論です。ニュートンの勝利でした。

まず大キュービットと小キュービットには、7:6という関係があるわけだから、大キュービットにおける6の長さは小キュービットの7の長さと一致します。この時、双方とも42パーム。この場合を除き、小キュービットで割り切れる長さがどれくらい遺構で見られるのかが問題を解く鍵となります。
ですが、こうした研究はほとんど進んでいません。小キュービットに関する建築遺構への適用は、近年ケンプがアマルナの独立住居における平面図で少し試してみている程度。
ジョマールまで再び戻って考え直さなければならない理由がここにあり、古代エジプトの基準尺に関しては、大きな陥穽があると言わざるを得ません。

古代エジプト建築の権威であるアーノルドの本には、小キュービットについての記述は一切ありません。建築の世界では、それでこと足りるからです。でもそれは美術史学の世界で論議されている尺度の問題とずいぶん、隔たりがあります。「おかしいのでは」という疑念があって然るべき。
こういう点が、今のエジプト学では論議されていません。

シャンポリオンがヒエログリフを読解する前に、ジョマールは数字だけは正確に読めたようです。中国語との類推から、「エジプト誌」のテキスト編には「百」とか「千」という漢字が載っています。ジョマールによる別の論文を参照のこと。
こういう事実はあまり知られていません。シャンポリオンもヒエログリフを読み解くために、中国語を勉強していました。新しい語学を学ぶことは、単に自分の道具を増やすことと同じだという割り切り方がここにはあって、これが日本人にとって難しい点となります。
絶望的であれ、泥縄式にでもいいから、とにかく数多く読み進めていくこと、その作業にどれだけ長年耐えられるかの競争であること、それが我々にとって唯一の早道だという指標がここでも示されています。

2010年6月16日水曜日

Wright 1962


「訳者あとがき」に記されているように、ベッドはもともと日本にはなかった代物ですので、"lit clos"(造り付けの箱型ベッド)だと言われても、すぐに具体的なかたちを思い起こせる人は少ないかと思われます。例えばディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)の集合住居の報告書ではこのような説明が出てくるわけですが、良く分からないので西洋のベッドの歴史を調べることが必要となります。
ベッドは、機能としては人が横になって寝ることができる家具ですが、さまざまな形式があり、これらを広く紹介しているのがライトの本。

Lawrence Wright,
Warm and Snug, the History of the Bed
(Routledge & Kegan Paul, London, 1962)

邦訳:
ローレンス・ライト著、
別宮貞徳三宅真砂子片柳佐智子八坂ありさ庵地紀子訳、
ベッドの文化史:
寝室・寝具の歴史から眠れぬ夜の過ごしかたまで

(八坂書房、2002年)
527 p., xiv.

一番最初に「クレオパトラのベッド」と題した章が書かれており、古代エジプトの家具についての簡潔な紹介がなされています。一般読者を引き込む書き方は非常に巧く、ベス神にディズニーのキャラクターであるグーフィーを並置してみせたりしていて、全体が読みやすい。
スーダンのベッド('angarib、あるいはangareeb)との類似にも言及しているところはさすがです。この点はエジプト学者のJ. E. Quibellがとても古い報告書の中で指摘をおこなっており、現在ではあまり語られないところ。ベッドを通じて文化史を語っている書で、広範な内容が展開され、魅力的。
この英国人は「風呂トイレ賛歌」(晶文社、1989年)や「暖炉の文化史:火を手なずける知恵と工夫」(八坂書房、2003年)も書いています。建築にまつわる文化史を書くことに能力を発揮した著述家でした。
1983年に亡くなっていますので、近年、「倒壊する巨塔:アルカイダと『9/11』への道」(上下巻、白水社、2009年)がピュリツアー賞と「ニューヨーク・タイムズ」年間最優秀図書を受賞して注目を浴びているローレンス・ライトとは全くの別人。
ベッドを扱う本は多数あって、

Hubert Juin,
Le lit
(Hachette, Paris, 1980)
123 p.

は、古今東西のベッドが出てくる名画や図版を集めている本。244点の図版を掲載。「ハムレット」などの典籍からの引用もあり、楽しめますが、見ようによっては高尚なエロ本だとみなした方が分かりやすい。もちろん、そこが狙われているわけです。
世界的に高名な家具デザイナー・他が出版した「ベッド」という本もあり、

Ole Wanscher, Hans Bendix, Egill Snorrason, Jørgen Kaysøe, Knud Poulsen, Albert Meritz, Grete Jalk,
Sengen / The Bed / Das Bett / Le lit
(Mobilia, Snekkersten, 1969)
(89 p.)

出版社は知られた家具メーカー。デンマーク語・英語・ドイツ語・フランス語の4ヶ国語を併記しています。ページ番号を振っていない本なので、引用が難しいのが困る点です。
エジプト学者の中で、最も初期に古代の家具を体系的に研究しようとしたひとりはおそらく、Caroline Louise Ransom Williams(1872-1952)で、

Caroline Louise Ransom,
Studies in Ancient Furniture:
Couches and Beds of the Greeks, Etruscans and Romans

(University of Chicago Press, Chicago, 1905)
128 p., 29 plates.

がツタンカーメン王の墓が発見される前に出されています。この本は著者の博士論文で、指導教授はブレステッドでした。彼女についてはアメリカにおける最初の本格的な女性エジプト学者として、バーバラ・S. レスコが紹介文を書いており、"Caroline Louise Ransom Williams"で検索すればすぐに出てくるはず。
これまで出版された本のなかで、墓の壁画を詳細に報告している最良の例としては、

Caroline Ransom Williams,
The Decoration of the Tomb of Per-neb:
The Technique and the Color Conventions.

The Metropolitan Museum of Art, Department of Egyptian Art Publications, III
(MMA, New York, 1932)
ix, 99 p., 20 plates.

を屋形禎亮先生が挙げておられましたけれども、今日でも事情は変わらないようです。結婚して姓が変わっていますが、同一人物による著作です。これほど細かく報告している例は稀。
今では無償でダウンロードすることができます。

ペルネブの本は日本のどこの研究機関が所蔵しているのか、今、Webcat Plusで検索すると、東京国立博物館しか出てきません。でも昔、当方が最初にこの本に触れたのは国会図書館で、事実、まだ所蔵されている様子。
また現在では早稲田大学に入っていることも、早大図書館のデータベースを検索すれば了解されます。

Webcatは完全ではないし、情報が最新ではありません。あまり信用せずに、地道に探すことが大切かもしれません。検索では出てこないけど実際には国内に所蔵されていた、なあんていう例はけっこうあります。

2010年6月15日火曜日

Sorek 2010


古代エジプトのオベリスクに関してはすでに、たくさんの本が出版されています。この欄で触れたものだけでも9冊。
しかしこの他にも多くの論考があって、ピラミッドについての書籍と比べれば数は少ないものの、特に20世紀の後半からは良書が増えています。
「エジプト誌」にもオベリスクの設計基準寸法を探る試みが記されていたりしますから、探せばかなりの量となるはず。
これまでに紹介したものは、以下の通り。

Gorringe 1882
Engelbach 1922
Engelbach 1923
Kuentz 1932 (CG 1308-1315, 17001-17036)
Iversen 1968-1972
Habachi 1977
Tompkins 1981
Barns 2004
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009

こうした中にあって、新たに出版されたオベリスクの本。
Curran, Grafton, Long, and Weiss 2009は本格的な論考で、ヨーロッパへ与えたオベリスクの影響を考察しており、これとどうしても比較せざるを得ません。Sorekの本は一般書と専門書との間に位置する内容となります。

Susan Sorek,
The Emperors' Needles:
Egyptian Obelisks and Rome
(Bristol Phoenix Press, Exeter, 2010)
xxiv, 168 p.

Contents:
List of Illustrations (vii)
Preface (ix)
Standing Obelisks and their Present Locations (xiii)
Chronologies (xvii)

Introduction: The History of Pharaonic Egypt (p. 1)
1. The Cult of the Sun Stone: The Origins of the Obelisk (p. 9)
2. Created from Stone: How Egyptian Obelisks were Made (p. 17)
3. Contact with the West: Greece and Rome (p. 29)
4. Roman Annexation of Egypt (p. 33)
5. Egyptian Influences in Rome (p. 37)
6. Augustus and the First Egyptian Obelisks to Reach Rome (p. 45)
7. Other Augustan Obelisks (p. 53)
8. Augustus' Successors: Tiberius and Caligula (p. 59)
9. Claudius and Nero: The Last of Augustus' Dynasty (p. 71)
10. The Flavian Emperors and the Obelisks of Domitian (p. 75)
11. The Emperor Hadrian: A Memorial to Grief (p. 89)
12. Constantine and the New Rome (p. 101)
13. From Rome to Constantinople (p. 107)
14. An Obelisk in France (p. 115)
15. Obelisks in Britain (p. 123)
16. From the Old World to the New: An Obelisk in New York (p. 131)
17. The Obelisk Builders and the Standing Obelisks of Egypt (p. 147)

Appendix: Translations of Two Obelisk Inscriptions (p. 151)
Bibliography (p. 159)
Index (p. 161)

xiii-xxivで掲げられているリストや編年表には工夫が凝らされており、知られているものに番号が振られて、各々のオベリスクがいつ、どこへ運搬されたかを示した一覧表が作成されています。有用です。でも番号の表示なので、分かりづらい。「パリ」とか「ニューヨーク」といった略称の付記を考えても良かったかも。

一方、「立っているオベリスク」に限定していますから、「寝ているオベリスク」の代表格であるタニスのオベリスク群には言及されていません。他にもアレクサンドリアの海から引き揚げられたオベリスクの断片などもあって、本当は新しいオベリスクの一覧が望まれるところです。

KMTの最新号にはセティ1世のアスワーンに残るオベリスクの断片が紹介されていましたので、ついでに付記。

Michael R. Jenkins,
"The 'Other' Unfinished Obelisk",
in KMT 21:2 (Summer 2010),
pp. 54-61.

ローマのオベリスクを述べるのであれば、Ashabranner 2002で触れたように、19世紀の人物、George Perkins Marshについては扱って欲しかったと思います。
注目すべき古代ローマの建築の建立に関わったカリグラ(カリギュラ)やネロにも言及しており、図版を多く付加したら、オベリスクを中心とした古代建築の入門書ができるのかもしれない、そうした思いも抱かせる本です。

2010年6月14日月曜日

Barnes 2004


イギリスにあるオベリスクを集めた本。オベリスクがローマに立っていることに影響を受け、イギリスでは16世紀からエジプトのオベリスクを模して立てるようになります。エドウィン・ラッチェンスやジョン・ソーンなど、有名な建築家たちの名も挙げられており、彼らが建築や庭園へオベリスクを積極的に用いる様子が綴られています。

Richard Barnes,
The Obelisk:
A Monumental Feature in Britain

(Frontier Publishing, Kirstead, 2004)
192 p.

巻末に収められたオベリスクの数はおよそ1300で、これでも一部だけが集められた結果の数。その多くは20世紀の戦没者記念のために立てられたものです。他に2000ほど、墓地に立つものが存在する模様。

Contents:
I The Sixteenth & Seventeenth Centuries
II The Eighteenth Century
III Nineteenth Century
IV John Bell's Lecture: The Definite Proportions of the Obelisk and Entasis, or the Compensatory Curve
V Obelisks in Cemeteries and the Rise of Polished Granite
VI The Twentieth Century
VII The Purpose of Obelisks: Theories

第4章で紹介がなされている、19世紀を生きた彫刻家のJ. ベルによるオベリスクの分析が見どころとなります。特に94ページ以降の記述は重要で、検討の余地がある。オベリスクの各部と全体との関連を構造的に探っているからで、これがどこまで合っており、どこが間違っているかが突き止められれば、オベリスクの計画方法は解けることになります。

「第一にピラミディオン底面の対角線、第二にオベリスクの底辺、そして第三にはピラミディオンの高さはすべて同一の長さである」(p. 94)

「オベリスクの底面の対角線の7倍が、正確にオベリスクの全高となる」(p. 95)

ピラミディオンの底面の対角線、あるいはオベリスクの底面の対角線が基準になったとはとうてい思われないのですが、計算をしてみると、例えば「底辺の10倍がオベリスクの全高に相当する」という言い方とほとんど矛盾がないことに気づきます。

1.414×7=9.898

であるからです。
この点は重要で、見逃せません。課題は、彫刻家と建築家のものの見方の違いがどこにあるかということになるかと思われます。

2010年6月12日土曜日

Haring and Kaper (eds.) 2009 / Andrássy, Budka and Kammerzell (eds.) 2009


記号によって情報を交換する古代からのシステムを考えようという本が二冊、続けて出されました。双方とも国際会議の記録。ふたつには関連があって、同じ人たちが双方に関わっていたりします。
二冊目の序文には、

"The congress was connected both conceptually and in terms of its central topics to a preceding conference, ..."
(p. vii)

と書かれていますから、この二冊を別々に考えるのではなく、むしろセットとして考えた方が良いのでは。
先に開催されたレイデンの会議のまとめが

B. J. J. Haring and O. E. Kaper (eds.),
with the assistance of C. H. van Zoest,
Pictograms or Pseudo Script?
Non-textual Identity Marks in Practical Use in Ancient Egypt and Elsewhere
.
Proceedings of a Conference in Leiden, 19-20 December 2006.
Egyptologische Uitgaven 25
(Peeters, Leuven, 2009)
vii, 236 p.

で、この一年後にゲッティンゲンにて開かれた会議の記録が

Petra Andrássy, Julia Budka and Frank Kammerzell (eds.),
Non-Textual Marking Systems, Writing and Pseudo Script from Prehistory to Modern Times.
Lingua Aegyptia, Studia monographica 8
(Seminar für Ägyptologie und Koptologie, Göttingen, 2009)
viii, 308 p.

となります。

記号による情報伝達が注目されているのは、文字による伝達を過信することへの戒めに他なりません。文字史料が残ってさえいれば、これを信じて尊重したくなりますし、事実、エジプト学の進展には、碑文学による成果が大きな影響を与えてきました。
しかし文字は、果たして本当のことを伝えているのかどうか。書くことによって「捏造」がおこなわれているのではないのか。そもそも、人が「記す」という行為自体が「捏造」に加担するのではないのか。当時に文字が書ける人間がどれほどいたのか。
こうした点は、イギリスのJohn Bainesなどが特に強調してきた問題意識。

この覚醒が指摘されるようになって、これまではあまり注意が向けられてこなかった単なる記号や簡単な書きつけなども、考察の対象に含めようという動向が出てきました。
つまり今までは、文字だったら解読してその情報を疑いもなく受け入れてきた傾向が見られましたが、そこでもたらされる意味は歪んでいて、真実のごく一部分しか伝えていない可能性があるように思われるため、今度は情報の伝達を目的としてなされた古代における人間の行為全体をすくい取るにはどうすればいいか、という求めが問われているわけです。
すでに紹介しているPeden 2001や、Bülow-Jacobsen 2009の意図とも繋がってきます。

従って対象は多岐にわたり、記号論が参照されたりもします。背景のシステムを探るという作業ですから、暗号解読、あるいはパズルを解くことにほとんど近い仕事ともなります。
建築の世界では、建造者たちが書きつけた記号の分析によって、労働者組織や建築生産体系がどこまで明らかになるのか、という話題と結びつけられることが少なくありません。

日本近世の城郭の石垣にも似たような記号が石ごとに刻まれていたりしますが、やることは地域や時代を問わず、一緒です。エジプトの他に、ミノア期におけるクノッソスなどの宮殿でうかがわれますし、西欧中世の石造によるカテドラルでもおこなわれていたことは良く知られている事実。
二冊の本は両方とも寄稿者は多いのですが、ただ、想定される情報伝達システムの立ち起こしを目指している割には、どれもこれも前途は多難だという印象を抱かせます。

まずは、両方の本に論考を執筆している者たちの文章を読み比べると面白いかもしれません。書き分けがうまくなされているか、という点です。
それはこのパズルを、生活の営為の中で古代の人間がどのように工夫したかという原点に、誰がより深く引き寄せることができているかを探ることと繋がってくるように思われます。

2010年6月10日木曜日

Ikram and Dodson (eds.) 2009 (Fs. Barry J. Kemp)


バリー・ケンプへ捧げられた献呈論文集。40人以上の研究者たちが論考を寄せています。
「地平線の彼方」というタイトルは、ノーベル文学賞を受賞した米国の劇作家ユージン・オニールの名作で知られていますが、ホメロスの「オデュッセイア」でも、冥界のある場所は「地平線(水平線)の彼方」と表現されていたはず。
しっかりとした造本ですが、第2巻の目次においてページ番号が途中から全部、誤って記されているのは惜しまれます。

Salima Ikram and Aidan Dodson eds.,
foreword by Zahi Hawass,
Beyond the Horizon:
Studies in Egyptian Art, Archaeology and History in Honour of Barry J. Kemp
, 2 vols.
(Publications of the Supreme Council of Antiquities, Cairo, 2009)
xviii, 1-323 p. + vi, 325-613 p.

話題を建築に限って眺めるならば、まずはザヒ・ハワースの

Zahi Hawass,
"The Unfinished Obelisk Quarry at Aswan",
Vol. I, pp. 143-164.

が目を惹きます。
アスワーンの再発掘調査で、何本ものオベリスクの痕跡が発見されました。今、アスワーンに行くとそれらが見られ、削られた岩盤の面にはたくさんのヒエラティック・インスクリプションも確認することができます。多くは単なる季節と日付の羅列で、掘削作業の進捗状況を書きつけたもの。しかしこの本の論考では、それらをほとんど報告していません。これからの発表が期待されます。
掘りかけの新王国時代の巨像も見つかったと記されていて、その大きさに興味を覚えましたが、図28にうかがわれる平面図のスケールは明らかに間違いで、たぶん、この立像の高さは20メートルほど。古代エジプトで最大の巨像はザーウィヤト・スルターンとアコリスに未完成のまま残るプトレマイオス朝のもので、その調査は現在、筑波大学の発掘調査隊が手がけています。これと匹敵する大きさである点が注目されます。

Corinna Rossi and Annette Imhausen,
"Architecture and Mathematics in the Time of Senusret I:
Section G, H and Papyrus Reisner I",
Vol. II, pp. 440-455.

は、難解であった中王国時代のpReisnerの読解を試みています。このパピルスについては、Simpson 1963-1986で前に触れました。
詳細を省いて略記された建築の積算に関する記録方法と、神殿の建造の手順を踏まえながら、文字史料との整合性を考えている論考で、とても重要。
ここでもセケドが紹介されています。ここで書かれているセケドの概念は、しかしもっと拡張されるべきで、高さ方向に1キュービットを取り、水平方向にパームやディジットの長さを測るやり方だけでなく、すでにロッシがJEAの論文などでほのめかしているように、水平方向に1キュービットを取る勾配の規定方法も含めて考えると、もっとエジプト建築研究は進むのでは。極端な話、水平方向に1キュービットを取り、垂直方向に1ディジットを測るやり方も、セケドの範疇であると思われます。

Kate Spence,
"The 'Hall of Foreign Tribute' (S39.2) at el-Amarna",
Vol. II, pp. 498-505.

悩ましい"lustration slab"の解釈を挟みながら、アマルナのアテン大神殿に付設されている何だか良くわけが分からなかった謎の建物を考察。
建築の復原で何を根拠とすべきかが示されており、面白い論考です。
でも、ちょっと短いのが残念に思われるところ。

2010年6月9日水曜日

Tietze (Hrsg.) 2008


題名はずばり、「アマルナ」という本。アクエンアテンとアマルナに関する展覧会がケルンで開催され、そのカタログが出ています。
300点以上の図版を収め、そのほとんどがカラー図版で分かりやすい。

Christian Tietze (Herausgegeben von),
mit Beiträgen von Erik Hornung, Hermann A. Schlögl, Barry J. Kemp, Wafaa el-Saddik, Bernd U. Schipper, Christian E. Loeben, Martin Fitzenreiter, Angelika Lohwasser, Ptera Vomberg, Anne Koch, Christine Kral, Manuela Gander, Marc Loth.
Amarna:
Lebensräume - Lebensbilder - Weltbilder

(Arcus-Verlag, Potsdam, 2008)
290 p.

すごい人たちが執筆者に入っており、驚きます。この企画者であり、またカタログの編者の熱意が伝わってくるところ。ポツダム大学で教えている編者Tietzeは、アマルナ型住居の研究で良く引用される研究者。ZÄSにおける2本の連続論文で一躍、知られるようになりました。

ドイツ隊による20世紀初頭のアマルナ発掘調査では、多数のアマルナ型住居が掘り出されましたが、それらの成果は雑誌Mitteilungen der Deutschen Orient-Gesellschaft zu BerlinMDOG)の他に、まずリッケの論文によってまとまって発表されました。リッケの学位論文。

Herbert Ricke,
Der Grundriss des Amarna-Wohnhauses.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 56.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna, 4
(Leipzig, 1932)
viii, 75 p., 26 Tafeln.

リッケという人は、古代エジプト建築研究できわめて重要な役割を果たした人。
それから50年ほど経った20世紀の終わり近くには、厚い図面集として最終報告書が出版され、これが後の人々にとって第一級の資料となります。すでにボルヒャルトもリッケも死んでいた時期だったので、この立派な図面集が出た時には大変な驚きがありました。
ボルヒャルトが亡くなったのは1938年で、リッケの没年は1976年。ボルヒャルトやリッケの名が冠された著作物のうち、たぶんもっとも新しく、また最後となる本です。
また、"Mitarbeit"に挙げられている人々の表記方法も、とても特異。

Ludwig Borchardt und Herbert Ricke,
Unter Mitarbeit von Abel, Breith, Dubois, Hollander,
W. Honroth, Kirmse, Marcks, Mark, Rösch, einem Anhang von Stephan Seidlmayer.
Die Wohnhäuser in Tell el-Amarna.
Wissenschaftliche Veröffentlichung der Deutschen Orient-Gesellschaft 91.
Ausgrabungen der Deutschen Orient-Gesellschaft in Tell el-Amarna 5
(Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1980)
350 p., 29 Tafeln, VII site plans, 112 plans.

さて、Tietzeはこの本の図面に収録されている平面図に片っ端から当たり、数百の住居を全部で8つのカテゴリーに分けました。
アマルナ型住居に関する本格的な論考で、これに比肩できる20世紀における著作は、Endruweit 1994ぐらいしかありません。その知見がここでも披瀝されています。

アマルナ型住居の上層がどうなっていたかについては、Spenceが論文を近年書いています。

Kate Spence,
"The Three Dimensional Form of the Amarna House",
in Journal of Egyptian Archaeology 90 (2004),
pp. 123-152.

彼女は長年アマルナの発掘に携わったバリー・ケンプの愛弟子。
この論考によってTietzeによる見解が異なることになるのか、それが興味深い点です。

Ian Shaw,
"Ideal Homes in Ancient Egypt:
the Archaeology of Social Aspiration",
in Cambridge Archaeological Journal 2:2 (1992),
pp. 147-166.

も目を通しておくべき論文。

2010年6月8日火曜日

Wilkinson 1835


エジプト学でウィルキンソンと言えば、19世紀の大旅行家であったと同時に記録魔でもあったこのウィルキンソン卿がまず挙げられるべきですが、もうほとんど引用されなくなってきたおかげで、日本では忘れ去られているようにも見受けられます。
しかしイギリスではエジプト学のパイオニアに該当し、19世紀におけるテーベの姿を知ろうと思った際には、必ず言及される巨人。日本で言うと、建築史学と考古学の双方のパイオニアであった伊東忠太に匹敵します。
初めの代表作は、"Topography of Thebes, and General View of Egypt"ですけれども、本当はこの本に、とてつもなく長い副題がつけられており、

John Gardner Wilkinson,
Topography of Thebes, and General View of Egypt.
Being a Short Account of the Principal Objects Worthy of Notice in the Valley of the Nile, to the Second Cataract and Wadee Samneh, with the Fyoom, Oases, and Eastern Desert, from Sooez to Berenice;
with Remarks on the Manners and Customs of the Ancient Egyptians and the Productions of the Country, &c. &c.
(John Murray, London, 1835)
xxxvi, 595 p.

と、もう際限がありません。「グーグル・スカラー」によってある程度、1835年の初版を見ることができるのが便利です。
上記では直してありますが、原書では著者名が、"I. G. Wilkinson"と印刷されている点に注意。ピラミドグラフィアの、"John Greaves"の場合もそうでした。
また、副題に"Manners and Customs of the Ancient Egyptians"という記述がすでに見えることも面白い。
というのは、この人は数年後に内容を書き改めて、もっと記録を充実させた

John Gardner Wilkinson,
The Manner and Customs of the Ancient Egyptians, Including their Private Life, Government, Laws, Arts, Manufactures, Religion, Agriculture, and Early History, Derived from a Comparison of the Paintings, Sculptures, and monuments still Existing, with the Accounts of Ancient Authors, 6 vols.
(1837-1841)

を執筆しているからで、これが名高い"The Manner and Customs of the Ancient Egyptians"の初版です。
6巻もあり、驚異の書。しかしウィルキンソンの死後、数年経ってからサミュエル・バーチが3巻からなる改訂版を編纂しました。

John Gardner Wilkinson and Samuel Birch,
The Manner and Customs of the Ancient Egyptians, 3 vols.
(new edition, revised and corrected by Samuel Birch. S. E. Cassino, Boston, 1883)
xxx, 510 p. + xii, plan, 515 p. + xi, 528 p.

この3巻本が非常に普及したために、こちらの方がウィルキンソンの著作の中ではおそらく最も有名。
他にも、

John Gardner Wilkinson,
A Popular Account of the Ancient Egyptians

などがあり、近年のリプリントも盛んで、専門家もわけが分からなくなっている状態。
古代エジプト人の生活を広く紹介した本としては、A. エルマンの著作とともに、重要な書籍です。
引用する際には、書誌を注意深く確認することが必要。

2010年1月23日土曜日

Wilkinson (ed.) 2008


アリゾナ大学の教授R. H. ウィルキンソンが編集した本で、この人の執筆による書籍は何冊か、和訳が出版されています。ウィルキンソンについては以前、JAEI 1:1 (January 2009)でも触れました。
本書の紹介は、すでに永井正勝先生がなされています。

http://mntcabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_121b.html
http://mntcabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_343c.html

エジプト学の広がりを紹介した本。多岐にわたっているさまが了解され、これらをすべて知悉している人間はこの世にいないという点が最大の見どころ。展延し続ける領野において、自分はどの地点を占めているのかを知ったところで、たいして重要ではありません。本当は異領域間の接触が望まれています。

Richard H. Wilkinson (ed.),
Egyptology Today
(Cambridge University Press, New York, 2008)
xiii, 283 p.

Contents:

List of Illustration (vii)
Brief Biographies of Contributors (xi)
Acknowledgments (xiii)

Introduction. The Past in the Present: Egyptology Today (p. 1)
by Richard H. Wilkinson

Part I. Methods: Paths to the Past
1. Archaeology and Egyptology (p. 7)
by Kent R. Weeks
2. History and Egyptology (p. 23)
by Donald B. Redford
3. Medical Science and Egyptology (p. 36)
by A. Rosalie David

Part II. Monuments: Structures for This Life and the Next
4. Site Survey in Egyptology (p. 57)
by Sarah H. Parcak
5. Epigraphy and Recording (p. 77)
by Peter F. Dorman
6. Monuments and Site Conservation (p. 98)
by Michael Jones

Part III. Art and Artifacts: Objects as Subject
7. Art of Ancient Egypt (p. 123)
by Rita E. Freed
8. Ancient Egypt in Museums Today (p. 144)
by Arielle P. Kozloff
9. Artifact Conservation and Egyptology (p. 163)
by Susanne Gänsicke

Part IV. Texts: Words of Gods and Men
10. The Egyptian Language (p. 189)
by James P. Allen
11. Ancient Egyptian Literature (p. 206)
by John L. Foster and Ann L. Foster
12. Egyptian Religious Texts (p. 230)
by Ronald J. Leprohon
Afterword. The Past in the Future: Egyptology Tomorrow (p. 248)
by Richard H. Wilkinson

Bibliography (p. 251)
Index (p. 277)

「エジプト学全般を概観した本としては初めてである」、これは最初に

"Despite the great popularity of Egyptology and the wealth of books on ancient Egypt in the popular press, however, until the present volume there has been no single-volume introduction covering the present state of Egyptology as a modern field of study."
(p. 2)

と書かれているわけですが、こうした話題に関しては先行する書籍があって、たとえば

Jan Assmann, Günter Burkard, and Vivian Davies eds.,
Problems and Priorities in Egyptian Archaeology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 1987)
311 p., 32 plates.

は博学の研究者が3人も揃って編者を務めている面白い本。
あるいはもう少し古い薄い本、

Kent Weeks ed.,
with contributions by Manfred Bietak, Gerhard Haeny, Donald Redford, Bruce G. Trigger, Kent R. Weeks,
Egyptology and the Social Sciences:
Five Studies
(The American University in Cairo Press, Cairo, 1979)
ix, 144 p.

なども挙げられ、執筆者もいくらか重なっています。見比べて、どれほど本質的な問題が深化されているかが問われるべき。
特に新旧両方の本に原稿を寄せている執筆者たちに、考えの進歩があるかどうかを確かめる作業は、若い読者に委ねられています。書かれるべき内容が増大することは、年代が降っていけば当たり前。
そうした問題を提起している書と思われます。

2010年1月20日水曜日

Wilkinson 1983


メトロポリタン美術館のエジプト部門には模写を集めた部屋があって、天井の高い広間の壁面にぎっしりと壁画の写しが展示されています。
「ファクシミリ」は模写のこと。絵の具を使い、壁画を実物通りに描くことを意味します。透明フイルムを壁画の上にかけて、油性マジックで輪郭をなぞる作業は「トレーシング」、また凸凹のある浮彫の上に紙を乗せて刷り取る拓本を作成する方は、「スキージ」と言ったりするようです。

ここでは特に、カラー写真がまだなかった時代に盛んに制作された壁画の模写を集めています。ハワード・カーターも、ツタンカーメンの墓を見つける前には、こうした模写を手がけていたことがありました。メトロポリタン美術館長であったトマス・ホーヴィングのベスト・セラー「ツタンカーメン秘話」にも出てきますので、御存知の方も多いのでは。
ここで文章を執筆しているウィルキンソンは、20世紀の初めに模写を担当した人。

Charles Kyrle Wilkinson (text),
compiled by Marsha Hill,
Egyptian Wall Paintings:
The Metropolitan Museum of Art's Collection of Facsimiles

(The Metropolitan Museum, New York, 1983)
165 p.

(Contents:)

Foreword (p. 7)
by Christine Lilyquist
Egyptian Wall Paintings: The Metropolitan Museum's Collection of Facsimiles (p. 8)
by Charles K. Wilkinson
Catalogue of the Facsimiles (p. 65)

Index of Theban Tomb Owners (p. 163)
Index of Theban Tomb Numbers (p. 164)
Index of Monuments Other Than Theban Tombs (p. 165)

全部、カラー写真で紹介したかったのでしょうが、途中からはモノクロのカタログとなります。しかし、貴重な壁画も含まれていて、たとえばこの本でしか紹介されていないマルカタ王宮の壁画の模写などが見られます。
壁画の複写で高名なものは、ニーナ・デーヴィスの本。
エジプト学者である旦那の仕事の手伝いをしているうちに、その模写の仕事がいつの間にかうまくなって、しまいには3巻からなる大型本を碩学A. H. ガーディナーとともに出版しました。Davies and Gardiner 1936として紹介済み。

テーベの墓に関する豪華な報告書と言うことであれば、メトロポリタン美術館から出版された大判のタイトゥス・シリーズが挙げられます。これもまた見ておいて損がない本。

Norman de Garis Davies,
The Metropolitan Museum of Art, Robb de Peyster Tytus Memorial Series
(New York, 1917-1927)

Vol. I: The Tomb of Nakht at Thebes
(1917)

Vols. II-III: The Tomb of Puyemrê at Thebes
(1922-1923)

Vol. IV: The Tomb of Two Sculptors at Thebes
(1925)

Vol. V: Two Ramesside Tombs at Thebes
(1927)

2010年1月19日火曜日

Wilkinson 2000


現在7つの断片のみが知られているパレルモ・ストーン関連の纏まった研究書。近年、古代エジプトの国家形成の過程についての研究が盛んになってきて、この影響でエジプトの通史を語るに際してはロゼッタ・ストーンと並んで、良く取り上げられる資料となりつつあります。トリノ・エジプト博物館などにも、複製品が展示されていたはず。

さまざまな国家論は特にヘーゲル以降、19世紀で問題となりました。弊害をもたらす国家の解体への関心、またインディアンなど国家を持たなかった共同体のあり方への注目などの、長い思想的・社会学的な経緯を暗黙の内に踏まえ、エジプト学においても国家形成論が展開されているとみなすことができるかと思われます。
特にケンプがこの石を紹介している意味合いは、その傾向が強い(Kemp 2006 (2nd ed.)を参照)。国家の成立は自然に発展して進んだように見えますが、社会共同体のあり方として、それが唯一の道ではないということです。

パレルモ・ストーンは第5王朝までの王の名と、治世年における主な行事、またその年のナイル川の水位を簡明に記したもの。歴代の王名が書かれた歴史史料としては、トリノ・エジプト博物館所蔵の王名リストが見られるパピルス、またアビュドスのセティ1世葬祭殿における最奥部の廊下の壁面に見られるリスト、カルナック神殿の奥の方の壁面にあったリストなどが知られていますが、それらの中では最も古いものであり、貴重です。
ウィルキンソンという名前を持つエジプト学者は、物故者も含めて何人もいるのですけれども、その中では最も若手。

Toby A. H. Wilkinson,
Royal Annals of Ancient Egypt:
The Palermo Stone and its associated fragments.

Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London, 2000)
287 p., 11 figs.

7つの断片のうち、最も大きいものがイタリアに属するシチリア島のパレルモにあって、そのために「パレルモ・ストーン」と呼ばれているわけですが、これは高さが43.5cm、幅が25cmしかなく、カイロとロンドンにある残りの6つの断片はこれより小さい。
にも関わらず、例えばShaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)を引くと、「もともとは2.1mの長さ、0.6mの幅」なんてことが書いてあります(1995年の初版や、内田杉彦先生によるその和訳本には、ウィルキンソンの本書はもちろん参考文献として挙げられていないので注意)。

たった7つの断片しか残されていなくて、圧倒的にパズルのピースの数が足りないはずなのに、何故、そんな具体的なもともとの大きさが分かるのか。この理由が詳しく書いてあって、きわめて面白い。
表計算ソフトのエクセルの使い方を知っている人なら、復元の過程が良く了解されるはずです。王名は、横方向に長く続いている縦書の各治世年における特記事項のリストの上に、セルが結合されて、しかも横書きの「中央揃い」で配置されていたに違いない、といったような推測から、この具体的な復元寸法が提示されているからです。
他にも、「丸い記号がひとつおきにあらわれている」といった観察結果が重要な役割を果たしており、たくさんの人が知恵を絞って、この石の全体像の復元に成功している様子が示されています。

建築学的にこの石が重要なのは、カーセケムウィ Khasekhemwy の第13年の記述に、

"appearance of the dual king: building in stone (the building) 'the goddess endures'"
(p. 132)

が見られるからであって、最初の石造建築についての言明です。これがどの遺構を指すのか、著者はコメントを付しています。

この本が出る前年には、やはりパレルモ・ストーンを扱い、CGで復元している

Michael St. John,
Palermo Stone: An Arithmetical View;
together with a computer graphics enhancement of the recto of the Palermo fragment

(Museum Bookshop, London, 1999)
60 p.

が出版されていますけれども、ウィルキンソンの本の巻末の参考文献には含まれていません。
St. Johnという人については、Lepsius 1865(English ed. 2000)で触れました。エジプト学で情報の欠けている場所を上手に見つけ、ゲリラ的に本を出してしまう人、という印象です。

2010年1月18日月曜日

Croom 2007


古代ローマにおける家具の研究書。ポンペイやエルコラーノ(ヘラクレネウム)などの遺跡から見つかっている家具についてはMols 1999のところで触れましたが、ローマの家具全体を概観した本と言うことになると、類書がないように思われます。
著者はイギリスの地方にある博物館の学芸員で、自分の勤務先に展示してある古代ローマの家具もカラー写真で公開。合計で100点に近い図版が用いられています。

Alexandra T. Croom,
Roman Furniture
(Tempus, Stroud, 2007)
192 p.

Contents:
List of figures (p. 7)
List of colour plates (p. 11)
List of tables (p. 13)
Acknowledgements (p. 14)
1. Introduction (p. 15)
2. The materials used in furniture (p. 19)
3. Beds and couches (p. 32)
4. Dining-couches (p. 46)
5. Soft furnishings for beds and couches (p. 56)
6. Dining-, serving- and display-tables (p. 68)
7. Desks and work-tables (p. 89)
8. Stools and benches (p. 97)
9. Chairs (p. 116)
10. Cupboards and shrines (p. 124)
11. Chests and boxes (p. 138)
12. Curtains and floor coverings (p. 144)
13. Furniture in use: farms and the poor (p. 150)
14. Furniture in use: multiple room houses (p. 155)
15. Furniture in use: the rich (p. 168)
16. Furniture in use: non-domestic furniture (p. 172)
17. Conclusion (p. 183)
Glossary (p. 184)
Bibliography (p. 186)
Index (p. 189)

目次を見ると、第12章ではカーテンや床の敷物までが扱われており、これが家具の範疇に入るのかと訝しく思われるのですけれども、イントロダクションではローマ法(ユスティニアヌス法典)における家具の定義がまず引用されていて、

"According to Roman law, 'furniture' consisted of: 'any apparatus belonging to the head of the household consisting of articles intended for everyday use which do not fall into any other category, as, for instance, Stores, Silver, Closing, Ornaments, or Apparatus of the land or the house' (Edicts of Justinian, 33.7; Watson 1985). In greater detail, these are identified as: 'tables, table legs, three-legged Delphic tables, benches, stool, beds (including those inlaid with silver), mattresses, coverlets, slippers, water jugs, basins, wash-basins, cendelabra, lamps and bowls. Likewise, common bronze vessels, that is ones which are not specially attributed to one place. Moreover, bookcases and cupboards. But there are those who rightly hold that bookcases and cupboards, if they are intended to contain books, clothing or utensils, are not included in furniture, because these objects themselves ... do not go with the apparatus of furniture' (ibid., 33.2)."
(p. 15)

と紹介されており、現在の考え方とちょっとずれているところが面白い。スリッパや、水壺、ランプなども家具と言われると、かなりの違和感。

CIL(Corpus Inscriptionum Latinarum)、あるいはSHA(Scriptores Historiae Augustae)など、ラテン語諸文献との摺り合わせに工夫がうかがわれ、これも注目される点です。Loeb Classical Libraryの刊行シリーズを前提とした記述。
エジプト学だと、Janssen 2009などでおこなわれている仕事で、実際にあった物品と、記述として残されているものとの対応関係を探る試みは、実はあまり多くありません。