2011年9月12日月曜日

Zwerger (English ed.) 1997



古代ローマの木工に関する包括的な論考はUlrich 2007として纏められていますが、古代エジプトの木工についての集成となると、前にも記した通り、なかなか難しい。Sliwa 1975が刊行されていますけれども、これが出てからもう35年以上が経過しています。彼はパイオニアとして木工技術研究の最先端を開いたのですが、粗筋を書いたわけで、以後にたくさんの報告が細分化されたまま重ねられており、これらを再度纏める作業には大変な労力が必要とされる状況。
木工技術に関わるもののうち、近年で発表が目覚しいのは家具の分野と船舶の分野で、古代エジプトの継手と仕口に関する新しい知見が披瀝されています。しかし、この他にも木棺や木彫像、祭祀道具類、そして兵器の分野などが残されており、馬に引かせる戦闘用の馬車の図化はGuidotti (ed.) 2002などで看取されますが、あとはそれほど多くありません。
俗称「村長の像」と呼ばれている、古王国時代の神官カーアペル Ka-aper の木彫人物像で観察される仕口については、

M. Eldamaty and M. Trad (eds.), foreword by Z. Hawass,
Egyptian Museum Collections around the World:
Studies for the Centennial of the Egyptian Museum, Cairo

(Supreme Council of Antiquities, Cairo, 2002)

Vol. I: xiii, 1-701 p.
Vol. II: (iv), 703-1276 + Arabic section, (iv), 101 p.

における第2巻の最後の「アラビア語による論考」の77−87ページにD. Nadia laqamaによって記されており、とても貴重。この2巻本には家具研究で知られるGeoffrey Killenも論考を寄せている(Vol. I: pp. 645-656)他、Sakuji Yoshimura(Vol. II: pp. 1249-1257)、あるいはNozomu Kawai (Vol. I: pp. 637-644)といった日本の研究者たちの論文もうかがわれる点も申し添えておきます。
一方、木棺の組み立て方に関しては、

Andrzej Niwinski,
21st Dynasty Coffins from Thebes:
Chronological and Typological Studies
.
Theben, Band 5
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1988)
xxiv, 209 p., colour plate, 24 plates.

の58ページにある図21が取りあえず参考になりますが、欲を言うならば本当はもう少し細かい情報が描かれたならさらに良かったとも思われます。あるいは、

Jan Assmann,
Mit Beiträgen von Machmud Abd el-Raziq, Petra Barthelmeß, Beatrix Geßler-Löhr, Eva Hofmann, Ulrich Hofmann, T. G. H. James, Lise Manniche, Daniel Polz, Karl-Joachim Seyfried.
Photographien von Eva Hofmann; Zeichnungen von Aleida Assmann, Dina Faltings, Andrea Gnirs, Friederike Kampp, Claudia Maderna.
Vermessungen und Pläne von Günther Heindl.
Das Grab des Amenemope, TT 41.
Theben 3.
2 Bände: Text und Tafeln
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1991)

での、出土木棺の報告(Text, pp. 244-273)で見られる丁寧な線描による図版も印象的。
木を大切に用い、丁寧に矧ぎ合わせて立体物を造ろうと思った時の工夫の仕方には地域や時代を超えて共通性があると思われ、注目されるのはその時の知恵の出し方です。力学的に必要と思われる補強の仕方とそれをあらわにしない手法、傷みやすい小口を保護し、包み隠すような仕上げ方、経年変化による変形を考慮した防止策、木目の活かし方、こうした一連の思考の痕跡を、加工された木材に見ることができるというのが面白い点となります。

日本建築の伝統構法に見られる継手や仕口についての著作は、たとえばアメリカで日本の構法を勘案した加工方法に倣って作業を続けるグループによるページ、

Daiku Dojo:
http://www.daikudojo.org/Archive/gallery_books/

でリスト化されているように、英語で書かれているものはけっこう見受けられます。
しかし「精妙」と言われる日本の伝統構法を相対化し、欧州における木造の構法と比較することを狙ったものは案外と少なくなるかもしれません。

Klaus Zwerger, translated by Gerd H. Söffker,
Wood and Wood Joints:
Building Traditions of Europe and Japan

(Birkhäuser, Basel, 1997. Original title: "Das Holz und seine Verbindungen", 1997)
278 p.

Contents:
Introduction (p. 7)
The Material (p. 10)
Working with Wood (p. 42)
Types and Functions of Wood Joints (p. 85)
Wood Joints and their Evolution (p. 112)
Wood Joints as an Expression of Aesthetic Values (p. 247)

Bibliography (p. 266)
Acknowledgements (p. 271)
Index of Persons and Buildings (p. 272)
Index of Places (p. 273)
Subject Index (p. 274)

は、東大に留学していた研究者が纏めた一冊で、自身が撮影した写真が豊富。ただし、暗い感じに印刷されているものもあるため、見にくい写真も混ざっている点が残念。仕口や継手を示した立体図は非常に分かりやすい。図は全部で600点近くにものぼります。ドイツ語版の英訳が同時に出された模様。
この研究書には先例があって、

Wolfram Graubner,
Holzverbindungen:
Gegenübersttelungen japanischer und europäischer Lösungen

(Stuttgart, 1986)

の内容を、さらに精緻に突き詰めたものとなります。
ヨーロッパの木造構法について何冊も本を出している人は他にもおり、

Manfred Gerner,
Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer
(Stuttgart, 1992)

も注目されるはず。ブータンの木造建築に関し、早くから注目した人でした。
こうして仔細に述べられている木造の継手や仕口は、東アジアや東南アジアにおける石造建築にも色濃く反映しており、興味が惹かれるところとなります。


2011年9月8日木曜日

Pliny the Elder (Gaius Plinius Secundus), Naturalis Historia, Liber XXXVI


プリニウスの「博物誌」は当時の百科事典という位置づけで、全部で37巻からなる記述のうち、第36巻では多様な石に関する知見が述べられ、古代エジプトのオベリスクについても具体的な寸法を交えながら触れられています。
ただし、古代ローマにおける尺度で書かれているために換算が必要。またこの採寸の値がどこまで正確なのか、分かりません。しかしエジプトから何本も運ばれてきた奇妙な一本石のモニュメントに、相当の興味が持たれていたことは確かなようです。
ここで挙げるのはLoebシリーズによる英訳。10冊の訳本にまとめられています。内容が多岐にわたるため、訳者も大変だったでしょう。苦労が忍ばれます。

Gaius Plinius Secundus (Pliny the Elder),
Naturalis Historia.
Translated by D. E. Eichholz,
Pliny, Natural History, Vol. X: Libri XXXVI-XXXVII.
Loeb Classical Library 419
(Harvard University Press, Massachusetts, 1962)
xviii, 344 p.

邦訳:
中野定雄・中野里美・中野美代
「プリニウスの博物誌」全3巻
(雄山閣、1986年)、
第3巻、pp. 1451-1495.

大プリニウス(Pliny the Elder)と小プリニウス(Pliny the Younger: Gaius Plinius Caecillius Secundus)の2人がいるのは、大プリニウスの甥に当たる人が、非常に貴重なラテン語の手紙類を残しているため。

この本が日本語で読めるというのは嬉しい限りです。この訳書が出版された時には評判になりました。ただ原典のラテン語からではなく、Loebのシリーズによる英訳本文をさらに日本語訳したもので、Loebのシリーズに見られる注釈は省略されていますから注意。
Loebのシリーズによるプリニウスの「博物誌」全10巻の書誌を挙げておきますと、

Pliny the Elder,
Natural History, 10 vols.
(1938-1962)

Vol. I: Books 1-2.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 330
(1938)

Vol. II: Books 3-8.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 352
(1942)

Vol. III: Books 8-11.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 353
(1940)

Vol. IV: Books 12-16.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 370
(1945)

Vol. V: Books 17-19.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 371
(1950)

Vol. VI: Books 20-23.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 392
(1951)

Vol. VII: Books 24-27.
Translated by W. H. S. Jones and A. C. Andrews.
Loeb Classical Library 393
(1956)

Vol. VIII: Books 28-32.
Translated by W. H. S. Jones.
Loeb Classical Library 418
(1963)

Vol. IX: Books 33-35.
Translated by H. Rackham.
Loeb Classical Library 394
(1952)

Vol. X: Books 36-37.
Translated by D. E. Eichholz.
Loeb Classical Library 419
(1962)

最初の5巻と第9巻を訳した1868年生まれのHarris Rackhamは、Loebのシリーズにおいてキケロの訳の他、アリストテレスの著作の訳なども手がけており、こっちの方が本業。古代ギリシア語とラテン語を自在に使いこなすことができた学者であったことが良く分かります。
おそらく全10巻の訳をひとりで完遂したかったと思われますが、1944年に亡くなり、それ故にさまざまに訳者が入れ替わっています。

オベリスクの形状を考える上で「博物誌」の36巻に出てくる記述、

idem digressis inde ubi fuit Mnevidis regia posuit alium, longitudine quidem CXX cubitorum, sed prodigiosa crassitudine, undenis per latera cubitis.

"Ramses also erected another at the exit from the precinct where the palace of Mnevis once stood, and this is 120 cubits high, but abnormally thick, each side measuring 11 cubits."
(XXXVI, XIV: Eichholz, ibid., pp. 50-51)

「ラムセスはまた、かつてムネウィスの宮殿があった構内の出口のところにいま一本立てたが、これは120キュービットの高さがあった。しかし異常に太いもので、各面とも11キュービットもあった。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1466)

は重要。
なぜ「異常に太い」という言及がなされたのかが気になります。この時代、オベリスクの普通のかたちが認識されていたのかもしれません。この巻の訳者はわざわざこの部分に註を設け、

"The proportions are not abnormal. In general, the height of about ten times the maximum breadth, which is at the base."
(Eichholz, p. 50)

と述べています。「ちっとも異常ではないように思われるが」という対応。オベリスクの底辺の10倍が全高になるという見方がいつ生まれたのか、興味深いところです。

プリニウスはこのあとにピラミッドについても書いており、以下の文面はギリシアのヘロドトス、シケリアのディオドロス、ストラボンたちによるクフ王のピラミッドの寸法に関する最古の記述に次ぐもののひとつでしょうか。
すなわち、

amplissima septem iugera optinet soli. quattuor angulorum paribus intervallis DCCLXXXIII pedes singulorum laterum, altitudo a cacumine ad solum pedes DCCXXV colligit, ambitus cacuminis pedes XVIS.

"The largest pyramid covers an area of nearly 5 acres. Each of the four sides has an equal measurement from corner to corner of 783 feet; the height from ground-level to the pinnacle amounts to 725 feet, while the circumference of the pinnacle is 16 1/2 feet."
(XXXVI, XVII: Eichholz, pp. 62-63)

「最大のピラミッドは、7ユゲラの面積を塞いでいる。その四面の各々の隅から隅までの寸法は、等しく783フィート、地面から尖頂までの高さは725フィート、一方尖頂の周りは16フィート半である。」
(「プリニウスの博物誌」、第3巻、p. 1469)

と言っているのですが、ここで言う「フィート」は古代ローマの尺度であり、ピラミッドの一辺が"DCCLXXXIII pedes"と書いていますけれども、ローマ尺の1フィート(ペデス)を29.5センチメートル(0.295メートル)と考えるならば、換算値で231メートル弱となり、これはかなり良い数値であるように思われます。
紀元後1世紀の記述で、今から2000年ほど前の文。何を汲み取ることができるのか、それが試されています。

2011年6月19日日曜日

Petrie 1892


ピートリによるメイドゥム地域の調査報告書。
ここには「崩れピラミッド」という通称で知られているものも残っており、彼が何をどう見たか、それが最も面白いところです。出版されてから100年以上が経過しており、情報が古くなっているのは当たり前。しかし何を気にしているのか、自分であったらそこまでできるかどうかをたえず問わないと、こうした古い報告書を改めて読むことの意味がありません。
この報告書に関しては、1994年にLTR-Verlagから再版も出ています。

W. M. Flinders Petrie,
with chapters by F. Ll. Griffith, A. Wiedemann, W. J. Russell, and W. E. Crum,
Medum
(London: David Nutt 1892)
Color frontispiece, iv, 52 p., 36 plates.

同名の報告書が99年後にオーストラリア隊からも出版されていますので、掲げておく必要があります。
薄いペーパーバックですが、石材に記されていた日付を2色刷にて、たくさん報告していますので、古代の労働者組織を研究する者にとってはとても重要な資料。クリストファー・エア(Christopher Eyre)は確か、この記録を読んでピラミッド建設の季節について言及していたはず(Powell (ed.) 1987所収)。
記憶が間違っていたらごめんなさい。

Ali el-Khouli,
with contributions by Paule Posner-Kriéger, Milward Jones, Edwin C. Brock, Jan Borkowski and Grzegorz Majcherek,
Medum.
The Australian Centre for Egyptology (ACE), Reports 3
(Sydney: The Australian Centre for Egyptology, 1991)
51 p., 62 plates.

さて、ピートリによる建物への目配りはここでも発揮されており、たとえば最初の方で

"These tombs were rectangular masses of brickwork, or of earth coated with brick, with faces sloping at about 75°, the mastaba angle differing from the usual pyramid angle of 51°." (p. 5)

と書かれていたりします。
マスタバの壁体の傾斜については今日でも情報がきわめて限られており、そうした中では貴重。エジプト学に関わる者は一般に、建築壁面の角度が当時どう定められたかに関してはまったく注意を払っておらず、これをセケドに直すとどうなるかと言った研究が今後、進展することを望みます。せめて分数や比率によって勾配を表記をしてもらったら、古代エジプト建築研究は随分と進んでいたのでは。
建築学におけるメイドゥムのマスタバ17号の重要性は、ここで繰り返す必要はないと思います。図版8は、再三引用がなされているもの。
マスタバの四隅の外には煉瓦で「くの字」型平面の壁が立てられており、その内側には水平に1キュービットずつの線が引かれ、またマスタバの外壁の傾きも記されていました。

"The outer faces slope at the characteristic angle of mastaba, 76°, or an angle of 4 vertical on 1 horizontal." (p. 12)

などと、ピートリは記しています。このような記述を100年以上も前に残している点に、建築や測量に携わる人間は驚かなければなりません。建造当初の技術を勘案し、数値を構造的に把握しようとしているわけです。

"as the breadth is exactly 100, and the length 200, cubits." (p. 12)

と、完数を意識してキュービット尺へ換算しているのも彼の論考の素晴らしいところです。
あれ、最初に1キュービットずつの水平線を引いておくというのは良いとして、でもキュービット尺は7分割されているのだから、マスタバの壁面の勾配が1/4というのはおかしいのじゃないのか。1/4という目盛はキュービット尺において特別の意味を持っていたのか、といったように考えは進められていくべきです。
すでに発見されているキュービットの物差しによって与えられる解釈の硬直から、どれだけ逃れることができるのか。そこがいつも問題となっています。

2011年5月28日土曜日

Fukuoka Style (FS), 30 vols. + 1 supplementary vol. (1991-2001)


FUKUOKA STYLE(福岡スタイル)という、実に面白い季刊雑誌があったのですが、廃刊になって10年になります。第8回福岡市都市景観賞の特別表彰を受賞。
14号の特集は「石に聞く:九州の石の文化(特別記事:沖縄の石造文化)」ということで、この号はとても面白かった。九州は立派な石橋があったり、磨崖仏が残っていたり、日本における石の文化が再確認できる地域。

日本各地には石切場があって、それを端的に示すと思われるのが

工藤晃・牛来正夫・大森昌衛・中井均
「議事堂の石」
(新日本出版社、新版1999年)

で、貴重な書です。国会議事堂を建てるために、全国から石材が集められたことが良く分かります。
原広司が設計して新しく建てられた京都駅にも、世界の石が嵌め込まれていて見本市のようになっており、これも石を具体的に知りたい人にとっては有用。

今、ネットで調べようと思ったら、FUKUOKA STYLEに関する情報はバラバラになっている模様です。
取り急ぎ、分かる範囲でまとめてみました。
実見せずに書いていますので、発行年月やページ数については特に、誤りがあるかと思います。この点、御留意ください。


FUKUOKA STYLE (FS): Vols. 1-30、別巻1
(福博綜合印刷、1991-2001年)

FUKUOKA STYLE, Vol. 1
特集=水辺都市
1991(平成3)年1月
108 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 2
特集=北九州ルネサンス・海峡物語
1991(平成3)年6月
128 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 3
特集=朝鮮通信使 江戸時代の外交使節
1991(平成3)年12月
132 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 4
特集=都市の住まいかた 福岡・香港の集合住宅
1992(平成4)年4月
140 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 5
特集=歴史の町並み1
1992(平成4)年8月
146 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 6
特集=屋台 食文化と都市の装置
1993(平成5)年1月
147 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 7
特集=博多と堺 16世紀の国際港湾都市
1993(平成5)年7月
144 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 8
特集=ものつくり風土記
1993(平成5)年12月
154 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 9
総力特集=博多祇園山笠
1994(平成6)年6月
194 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 10
特集=文学のある風景 福岡+北九州+筑豊+筑後
1994(平成6)年12月
152 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 11
特集=アジアの市場+九州の市場
1995(平成7)年6月
150 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 12
特集=西海の捕鯨
1995(平成7)年11月
152 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 13
特集=歴史の町並み2
1996(平成8)年2月
144 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 14
特集=石に聞く 九州の石の文化(特別記事:沖縄の石造文化)
1996(平成8)年6月
151 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 15
特集=肥前の磁器 九州のやきもの1
1996(平成8)年9月
156 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 16
特集=有明海大全
1996(平成8)年12月
160 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 17
特集=九州温泉国
1997(平成9)年3月
162 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 18
特集=博物館へ行こう
1997(平成9)年6月
164 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 19
特集=九州・茶のふるさと
1997(平成9)年10月
152 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 20
特集=いま、福岡(創刊20号記念CD付)
1998(平成10)年1月
178 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 21
特集=九州と南蛮文化
1998(平成10)年4月
170 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 22
特集=陶器いろいろ 九州のやきもの2
1998(平成10)年7月
152 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 23
特集=焼酎礼讃
1998(平成10)年10月
144 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 24
特集=山頭火がゆく 九州行乞紀行
1999(平成11)年2月
144 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 25
特集=九州芸能集成
1999(平成11)年5月
140 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 26
特集=洋学の九州
1999(平成11)年9月
128 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 27
特集=九州シネマパラダイス
2000(平成12)年4月
126 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 28
特集=食の王国・九州
2000(平成12)年7月
132 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 29
特集=美術館へ行こう
2000(平成12)年10月
136 p.

FUKUOKA STYLE, Vol. 30
特集=九州の神々
2001(平成13)年3月
156 p.


FUKUOKA STYLE、別巻1
特集=海辺都市ふくおか(博多港100周年記念付録付き)
1999(平成11)年12月
117 p.

Shaw 2009 (revised ed. of 1973)


以前にも取り上げましたけれども、クノッソス、ファイストス、マリア、ザクロスといった有名なクレタ島の宮殿の遺構を中心としたミノア建築に関する建造技術がまとめられた本で、ハードカバーの改訂版が出されました。画期的な書です。
この本の初版に関しては、Shaw 1973を参照。
80ページ以上、増補されています。目次を以下に記します。

Joseph W. Shaw,
Minoan Architecture: Materials and Techniques.
Studi di Archeologia Cretese VII
(Padova: Centro di Archeologia Cretese, Università di Catania / Bottega d'Erasmo, Aldo Ausilio Editore, 2009.
First published in 1973, Roma: Istituto Poligraphico dello Stato, 1973, 256 p.)
337 p.

Contents

Introduction (p. 13)

Chapter 1. Stone (p. 17)
A) Building Stone (p. 17)
B) Quarrying and the Transportation of Stone (p. 28)
C) Tools for Building (p. 38)
D) Masonry (p. 54)
E) Special Uses of Cut Stone (p. 79)

Chapter 2. Wood and Timber (p. 91)
A) Types of Evidence for, and Chief Structural Uses of Wood in Architecture (p. 91)
B) Wooden Clamps and Dowels (p. 108)

Chapter 3. Sun-dried Mud Brick and Terracotta (p. 127)
A) Sun-dried Mud Brick (p. 127)
B) Terracotta (p. 135)

Chapter 4. Lime and Clay Plasters (p. 141)
A) Composition and Early Uses (p. 141)
B) Later Uses of Lime Plaster and its Preparation (p. 144)
C) Floors (p. 147)
D) Ceilings and Upper Floors (p. 152)
E) Roofs and Parapets (p. 153)
F) Calcestruzzo (p. 155)

Chapter 5. Conspectus and Beyond (p. 157)
A) Development and Change (p. 157)
B) The Builders (p. 166)
C) Diffusion: Minoan Architectural Styles Abroad (p. 169)

Appendixes (p. 179)
A) Metal Used in Building (p. 179)
B) Column Bases: Stone Types and Sites (p. 180)
C) Column Bases with Mortises (p. 181)
D) Dimensions of Mud Bricks (p. 183)
E) Terracotta Pipes, Channels, and Catch-Basins (p. 189)
F) Analyses of Plasters (p. 193)

Abbreviations (p. 195)
Bibliography (p. 199)
Guide to site plans (p. 227)
Illustration credits (p. 229)
List of Text Tables (p. 229)
List of Illustrations (p. 231)
Illustrations (p. 241)
Index (p. 313)

書評:Bryn Mawr Classical Review (by Quentin Letesson, in August 2010)
http://bmcr.brynmawr.edu/2010/2010-08-48.html

図版(271 figs.)が多く収められているのは見どころのひとつですが、各図は小さく扱われており、この点がとても残念。
ただし紙質は旧版より良くなっているため、図版は鮮明です。
"Mason's marks"について網羅はしていません。この方面については、別に探索することが求められます。

2011年5月27日金曜日

Testa 2009


古王国時代におけるピラミッドの形態分析を包括的に扱った著作で、Butler 1998Rossi 2004のようなピラミッド全般の計画寸法についてのまとめの本もありましたが、久しぶりに厚い書籍が出版されました。
一般の読者向けとは言え、イタリアから発信されるピラミッドの論考はたぶん、これから重視されるかと思います。
各巻の目次を端折りながら掲載。目次のページ数は何箇所かで、間違って印刷されています。


Pietro Testa,
L'architettura nella cultura dell'Egitto faraonico:
I complessi funerari a piramide dell'antico regno dalla fine della III dinastia alla fine della VI dinastia (Huny - Pepi II)
.

Volume I: Introduzione informativa.
Aree scientifico-disciplinari A10, 533
(Roma: Aracne, 2009)
186 p.

Indice

Prefazione (p. 7)

La situazione sullo studio del progetto nell'architettura dell'antico Egitto (p. 15)

Capitolo I:
Le scienze matematiche e metriche (p. 19)

Capitolo II:
Progetto, architetti e grafica (p. 31)

Capitolo III:
La tomba (p. 63)

Capitolo IV:
La piramide e l'astronomia (p. 73)

Capitolo V:
Il progetto e la piramide (p. 83)

Appendice no. 1:
La filosofia delle misure e del progetto nell'antico Egitto (p. 97)

Appendice no. 2:
L'impiego della griglia modulare nella piramide (p. 101)

Appendice no. 3:
Scopi della ricerca del progetto nell'architettura egiziana e proposte di programmi di studio (p. 103)

Annesso (p. 105)

Tavole (p. 138)


Volume II: Analisi descrittiva.
Aree scientifico-disciplinari A10, 532
(Roma: Aracne, 2009)
1170 p.

Indice

Prefazione (p. 5)
Cronologia dei sovrani proprietari dei complessi funerari esaminati (p. 25)
Genealogia dei Re da Huny a Pepi II (p. 41)

Episodio 1:
Il compresso funerario del re Huny in Meidûm (p. 45)

Episodio 2:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr sud (p. 69)

Episodio 3:
Il compresso funerario del re Snefru in Dahshûr nord (p. 115)

Episodio 4:
Il compresso funerario del re Cheope in Gîza (p. 131)

Episodio 5:
Il Compresso funerario del re Gedef-ra in Abu Rawâsh (p. 225)

Episodio 6:
Il compresso funerario del re Chefren in Gîza (p. 251)

Episodio 7:
Il compresso funerario del re Mikerino in Gîza (p. 327)

Episodio 8:
Il compresso funerario della regina Khent-kaus in Gîza (p. 397)

Episodio 9:
Il compresso funerario del re Shepseskaf in Saqqâra (p. 417)

Episodio 10:
Il compresso funerario del re User-kaf in Saqqâra (p. 447)
Il Tempio solare del re User-Kaf in Abu Gurâb (p. 485)

Episodio 11:
Il compresso funerario del re Sahu-ra in Abu Sîr (p. 513)

Episodio 12:
Il compresso funerario del re Nefer-ir-ka-ra Kakai in Abu Sîr (p. 583)

Episodio 13:
Il compresso funerario del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 607)
Il tempio solare del re Ny-user-ra in Abu Sîr (p. 695)

Episodio 14:
Il compresso funerario del re Ged-ka-ra Isesi in Saqqâra (p. 729)

Episodio 15:
Il compresso funerario del re Unas in Saqqâra (p. 767)

Episodio 16:
Il compresso funerario del re Teti in Saqqâra (p. 831)

Episodio 17:
Il compresso funerario del re Pepi II in Saqqâra (p. 873)

Annesso (p. 1013)

第1巻と第2巻とのページ数は極端に異なります。シリーズ番号の533と532との順番が入れ替わっているのも不思議なところで、事情は良く分かりません。
カラーを用いた分析図、またCGを用いた復原図が豊富に掲載されている点が注目され、現在はこのようにピラミッドの外形だけでなく、内部の諸室の寸法と位置がキュービットの完数とどのような関連を持つのかを探ることが主流。
この時、先行研究として重要なのがイタリア隊によるMaragioglio e Rinaldi 1963-1975の一連の実測図面集ですが、未刊の巻があるのはきわめて残念。
なお、同じようにピラミッドについての著作3巻本を近年出版しているManziniの著作については、改めて紹介したいと思います。

ピラミッドを造るために石材を切り出した石切場についての本は、昨年出ました。

Dietrich Klemm and Rosemarie Klemm,
The Stones of the Pyramids:
Provenance of the Building Stones of the Old Kingdom Pyramids of Egypt
(Berlin: Walter De Gruyter, 2010)
v, 167 p.

クレム夫妻による古代エジプトの石切り場に関する本は、Klemm and Klemm 2008 (revised ed. of 1993)にて紹介済みです。
夫婦による2番目の著作となった上記の新刊本では、著作者として旦那の名前の方を先に出しているようです。

2011年5月26日木曜日

BACE 20 (2009)


今までBACEの18号、19号を紹介しながら、20号は無視していたことに遅ればせながら気づいたので、この号の目次のみ転載。
Mahranの論文は、目次では109ページから始まっていることになっていますが、実際には107ページからです。


Bulletin of the Australian Centre in Egyptology (BACE), vol. 20 (2009)
142 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

Gillian E. Bowen,
"The Church of Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis: A Report on the 2009 Excavation" (p. 7)

Donald Chiou and Karin Sowada,
"A Coffin of Imported Conifer Wood from Saite Period Saqqara" (p. 27)

Christopher J. Davey,
"A Metalworking Servant Statue from the Oriental Institute, University of Chicago" (p. 37)

Colin A. Hope, Gillian E. Bowen, Jessica Cox, Wendy Dolling, James Milner and Amy Pettman,
"Report on the 2009 Season of Excavations at Mut el-Kharab, Dakhleh Oasis" (p. 47)

Miral Lashien,
"The so-called Pilgrimage in the Old Kingdom: Its Destination and Significance" (p. 87)

Heba Mahran,
"A Talatat Block in the Mallawi Museum" (p. 107)

Marcus Müller,
"Facing up to Cruelty" (p. 115)

Mahranによるタラタートの論文は石材を加工している風景を報告していますので、短いけれども建築学関係者にとっては価値があります。石に鑿をあてて木槌を振り下ろそうとしている場面を紹介(Fig. 1)。
タラタートに描かれている情景ですから、おそらくはタラタートを加工している様子かと思われるんですが、石の大きさは人物像の高さから判断して長さが1メートルほどはありそう。
他方でタラタートを労働者が肩に載せて運搬している別のレリーフがすでに知られており、そこでは正しく50センチほどの長さで石が描写されていますから、このちぐはぐな表現が面白いところです。

アマルナ時代のタラタート(タラッタート)については、Kramer 2009Vergnieux 1999Vergnieux and Gondran 1997López 1978-1984 (O. Turin)などを参照。

BACE 21 (2010)


オーストラリアのエジプト学研究所(Australian Centre in Egyptology: ACE)から刊行されている紀要の最新号。確か、2011年の初頭に送られて来たもの。目次は未だACEの方で公開していないようなので、長くなりますが記します。
BACEという略称で呼ばれますが、この言い方はあんまり専門家の間でも一般的ではないかもしれません。
A5版という判型はエジプト学に関連する雑誌の中では小さい部類に属し、

Discussions in Egyptology (DE)
Göttinger Miszellen (GM): Beiträge zur ägyptologischen Diskussion

や、あるいは初期の

Journal of Mediterranean Archaeology (JMA)

がこの大きさでした。灰色の表紙のペーパーバックです。


Bulletin of the Australian Centre in Egyptology (BACE), vol. 21 (2010)
166 p.

Contents:

Editorial Foreword (p. 5)

G. E. Bowen, L. Falvey, C. A. Hope, D. Jones, J. Petkov, L. Woodfield,
"The 2010 Field Season at Deir Abu Metta, Dakhleh Oasis" (p. 7)

C. A. Hope, D. Jones, L. Falvey, J. Petkov, H. Whitehouse, K. Worp,
"Report on the 2010 Season of Excavations at Ismant el-Kharab, Dakhleh Oasis" (p. 21)

Caroline Hubschmann,
"Beer Jars of Mut el Kharab, Dakhleh Oasis: Evidence of Votive Activity in the Third Intermediate Period" (p. 55)

Beverley Miles,
"Enigmatic Scenes of Intimate Contact with Dogs in the Old Kingdom" (p. 71)

Boyo Ockinga,
"A Late Period Tomb Structure in the Teti Cemetery North?" (p. 89)

Ali Radwan,
"The Louvre Stela C 211" (p. 99)

K. N. Sowada, G. Jacobsen, F. Bertuch, A. Jenkinson,
"The Date of a Mummified Head in the Nicholson Museum, Sydney" (p. 115)

Elizabeth Thompson,
"The Engaged Statues of the Old Kingdom Tombs at Tehna in Middle Egypt" (p. 123)

Lubica Zelenková,
"The Royal Kilt in Non-Royal Iconography?: The Tomb Owner Fowling and Spear-Fishing in the Old and Middle Kingdom" (p. 141)

日本の筑波大学隊が調査を進めているテヘナ(アコリス)の墓内の彫像に関する報告がありますけれども、これらはG. W. フレーザーが19世紀の終わりに調べた遺構で、それ故に「フレーザーの墓」と呼ばれています。マスタバ墓ですが、なんと懸崖からマスタバのかたちを掘り抜いて造られており、古代エジプト史上、稀な例となっています。斜面に造られた岩窟のマスタバとして知られている少ない古王国時代の墓。
サッカーラやギザの集合墓地などを中心に考えていると、マスタバというものは必ず平地に建っており、煉瓦や石材の組積によって建造されるものだという先入観が生じますが、これをまったく裏切っている遺跡で、上の部分、すなわち屋根から掘り出したはずですから、床の平面計画から考える普通の場合と異なって、全体の設計計画寸法の決定がどのように進められていったのかといった素朴な疑問がわきます。

古代エジプトの墳墓を簡略にまとめたものとしては、Dodson and Ikram 2008を参照。

2011年5月21日土曜日

Tylor 1898


小さな建物であっても、何年も経ってから、やはり重要だと改めて認識されるものは少なくありません。
エル・カブにあるアメンヘテプ3世の小神殿も、そのひとつ。観光客は至って少なく、レストハウスも一応作られていますけれども、開店している時があるのかどうか不明。
古代エジプト建築の本には、この小さな建物の側面で見られる石の積み方が変わっていると言うことで、図版が載せられています。その写真を撮るためにだけ出かけるというのも、考えてみれば愚か者のすることですが。

タイラーはエル・カブの記念建造物を記録に残す仕事に携わった人で、室内にたった4本の柱しか立っていないアメンヘテプ3世の小神殿を扱ったこの本は薄いけれども非常に大きく、エレファント・フォリオと呼ばれる部類に入ります。
僕は少なくとも20年間、古書店のカタログでこの本に言及した例を見た覚えはありません。市場にはほとんど出ていない稀覯本だと思います。
ブルックリン美術館のウィルボー・エジプト学図書館で見かけたきりでした。

John Joseph Tylor,
Wall Drawings and Monuments of El Kab:
The Temple of Amenhetep III
,
with plans, elevations and notes by Somers Clarke
(London: Bernard Quaritch, 1898)
http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchresult.cfm?parent_id=1016778&word=

今ではデジタル化されているようで、久しぶりに目にしました。
大きい本だし、海外に複写を依頼しても断られることが多い書籍だったので助かります。
彼はこのシリーズで4冊を出しており、いずれも日本で見ることは未だ難しいかも。

The Wall Drawings and Monuments of El Kab
(London: Bernard Quaritch)

Vol. I: The Tomb of Paheri (1895)
Vol. II: The Tomb of Sebeknekht (1896)
Vol. III: The Temple of Amenhetep III (1898)
Vol. IV: The Tomb of Renni (1900)

キベル、そしてソマーズ・クラークと一緒に、タイラーは「エル・カブ」という簡素な本も出しています。

J. E. Quibell, S. Clarke, and J. J. Tylor,
El Kab
(London: B. Quaritch, 1898)

大英博物館が出している電子ジャーナルのBMSAESでは、ベルギー隊によるエル・カブ調査の近年の動向が報告されていますので、エル・カブの様子を知るにはこの論考から見ると良いかもしれません。
エジプトの遺構を網羅しているはずのポーター・モスでも、中部エジプトを扱っている巻は改訂版が永らく出ていませんので、こうした論文の類における参考文献の欄が頼りとなります。

Luc Limme,
"Elkab, 1937-2007: seventy years of Belgian archaeological research,"
BMSAES 9 (2008), pp. 15-50.
http://www.britishmuseum.org/pdf/Limme.pdf

半分以上のページが図版。
ページ数が多いので、ダウンロードにかなり時間がかかったりします。

2010年12月28日火曜日

Bryn 2010

「クフ王のピラミッドに関する建造の新解釈」というニュースが欧米を中心に出回ったのは、確か2010年9月下旬ですが、世界のエジプト学者たちが使っているメーリングリスト、Egyptologists' Electronic Forum (EEF)にてこの知らせが送られて来た時には、「本当は速報することもないんだけども」という但し書きがウェブマスターによって付されていました。

直後にはしかし、EEFではピエトロ・テスタから支持の返事が送られて来ており、こうした受け答えは重要となるかと思います。テスタは2009年に、ピラミッドに関する包括的な本の2巻目をイタリア語で出した建築家。第1巻目は薄いものの、第2巻目は1000ページを超えるという大著で、示されている内容は建築学的には非常に重要だと感じられます。
カラーページを豊富に交えたこの著作については、Testa 2009をご参照ください。同じテスタによる古王国時代の棺に関する設計方法の分析については、Testa 2010もあります。
さて、北欧から発信されたこの論文について。

Ole Jørgen Bryn,
"Retracing Khufu's Great Pyramid.
The "diamond matrix" and the number 7",
Nordic Journal of Architectural Research, Vol. 22, No. 1/2 (2010),
pp. 135-144.
http://www.ntnu.no/c/document_library/get_file?uuid=71763182-fed8-4727-bb58-b5d9e754d6de&groupId=10325

こうした学術論文が発表直後、無料にてネットでダウンロードできるというのはとても珍しい。通常はあり得ないこと。
すなわち反響を大いに期待しての、公開が優先された処置、というふうに解釈されます。

ピラミッドの構築で、頂上石、つまり最上位に置かれる「ピラミディオン」と呼ばれる四角錐の石塊をどのように頂上に置くのかが、ピラミッドの構築方法における最大のカギなのだと述べるくだりは、これまでも繰り返されてきました(cf. Clarke & Engelbach 1930; Houdin 2006)。
ここでもそれが記されています。建築に関わる者であったら、ごく自然な考え方です。

クフ王のピラミッドの断面計画について、キュービット王尺をまず第一に念頭に置いて分析し、階段ピラミッド状の内部構造を想定している点が注目されます。これに、平面における星形となる歪みを重ね合わせた点が新しいところ。
クフ王のピラミッド内に、階段ピラミッドのような断面を想定することにはしかし、大きな異論があると予想されます。これについては十全な論考が示されていません。
短い論文なので、仕方ない点ではありますが。

クフ王のピラミッドが、正確には四角錐ではなく、4つの三角形の各側面がわずかに凹んでいるという事実、つまり平面で言えば4つの先端を持つ星型であること(4芒星の平面;言い換えるなら、凹みが4箇所にある8角形)は、飛行機によって上空から写真が撮られた時に、初めて明らかとなりました。これは凹凸のある8面体のピラミッドとも呼ばれます。この形状の計画寸法を、平面図と断面図との両方において考察した論文。

平面と断面に同間隔の格子線を引いて、ピラミッド内における諸室の位置との整合性を探っており、こうした厳密性はこれまで探られたことがありませんでした。テスタはこうした姿勢を汲んで、賛成していると思われます。
黄金率や円周率に基づく解釈を排している点がきわめて明瞭。この点は強調されるべきです。

でもここにはまだ示されていない研究成果があると推測され、

http://www.sciencedaily.com/releases/2010/09/100924084615.htm

を見ると、他の小ピラミッドに対する分析図がうかがわれますので、この著者による、今後のさらなる発表が期待されます。
クフ王のピラミッドだけを扱った分析はいくらでもあるのですが、ピラミッド全部を包括しようとした考察は極端に少ないわけで、この論考がどこまで射程を有しているのかが、面白いところかと思われます。

一方、参考文献をどのように正しく挙げているのかを見る限り、貧弱な印象しか与えられません。
「そういうところで論文の内容を判断するのか」という反論がもちろん、寄せられるかと思われますけれども、ある程度はこれによって論文の質がうかがわれるのでは。
論文というのは、自分の意見を客観的に、既往の研究を正しく参照しながら綴る行為と思われていますが、この作業が反転して、「逆に読む」という方法が先行する場合も起こります。
この逆転をさらに逆手にとって、「引用すべき文献を並べるリストから始める」という論文の書き方もあるはずかと。
こうした微妙な方法の違いは、興味深く思われます。

2010年12月16日木曜日

Testa 2010


古代エジプトの古王国時代における棺を集め、寸法計画を分析した本です。木棺が8例、石棺が42例。
建築家である著者ならではの考察。CADを用いたカラー図版を用いながら、直方体を呈する棺の寸法と、キュービット王尺(1キュービット=52.5cm)との関連を探っています。
古代エジプトにおける寸法計画を考える上で、かなり画期的な書。どの棺を対象としているのかは、たぶん注目される事項ですので、第5章のみ、長くなりますが目次の小項目も掲げておきます。クフ王の石棺、カフラー王の石棺は考察対象に入っていますが、地中海に沈んでしまったメンカウラー王の石棺は入っていません。
目次と実際の小項目との記載が合致していないので、注意が必要。表記の統一が徹底されていません。ここでは適当に(!)勘案して掲げます。
被葬者の名前が分からない場合、Inv. No.ぐらいは明記しておいて欲しかったところですが。

Pietro Testa,
La progettazione dei sarcofagi egiziani dell'Antico Regno.
Area 10: Scienze dell'antichità, filologico-letterarie e storico-artistiche, 650
(Aracne Editrice, Roma, 2010)
126 p., 21+25 tavole.

Indice:

Prefazione (p. 11)

Capitolo I: La religione egiziana (p. 13)
Capitolo II: Mummificazione e rituali (p. 31)
Capitolo III: Il rituale funerario (p. 43)
Capitolo IV: I sarcofagi (p. 71)
Capitolo V: L'analisi progettuale (p. 77)

Sarcofago ligneo nº1
Sarcofago ligneo nº2. Set-ka
Sarcofago ligneo nº3. Idu II
Sarcofago ligneo nº4
Sarcofago ligneo nº5. Mery-ib
Sarcofago ligneo nº6. Seshem-nofer
Sarcofago ligneo nº7. Ny-ankh-Pepy
Sarcofago ligneo nº8

Sarcofago litico nº1
Sarcofago litico nº2. Hetep-heres
Sarcofago litico nº3. Kheope
Sarcofago litico nº4. Hor-gedef
Sarcofago litico nº5. Heru-baf
Sarcofago litico nº6. Ka-uab
Sarcofago litico nº7. Ka-em-sekhem
Sarcofago litico nº8. Gedef-Khufu
Sarcofago litico nº9. Khufu-ankh
Sarcofago litico nº10. Khefren
Sarcofago litico nº11. Kha(i)-merr(u)-nebty (I)
Sarcofago litico nº12. Meres-ankh III
Sarcofago litico nº13. Kha-merru-nebty (II?)
Sarcofago litico nº14. Una regina di Mikerino (?)
Sarcofago litico nº15. Kai-em-nefert
Sarcofago litico nº16
Sarcofago litico nº17
Sarcofago litico nº18
Sarcofago litico nº19
Sarcofago litico nº20. Snefru-khaef
Sarcofago litico nº21
Sarcofago litico nº22. Seshem-nofer (III)
Sarcofago litico nº23. Hetep-heres, moglie di Seshem-nofer (III)
Sarcofago litico nº24. Senegem-ib Inti
Sarcofago litico nº25. Ptah-segefa detto Fefi
Sarcofago litico nº26. Ny-ankh-Ra (I)
Sarcofago litico nº27. Weta
Sarcofago litico nº28. Hetepi
Sarcofago litico nº29. Ny-ankh-Ra (II)
Sarcofago litico nº30. Hekeni-Khnum
Sarcofago litico nº31. Ir-sekhu
Sarcofago litico nº32. Seshem-nofer (IV)
Sarcofago litico nº33. Nefer detto Idu (I)
Sarcofago litico nº34. Sekhem-ka
Sarcofago litico nº35. Ankh-ma-Hor
Sarcofago litico nº36. Khnum-nefer
Sarcofago litico nº37. Seneb
Sarcofago litico nº38
Sarcofago litico nº39. Meru
Sarcofago litico nº40. Teti
Sarcofago litico nº41. Pepi II
Sarcofago litico nº42. La gatta Ta-miat

Bibliografia (p. 125)
Tavole (p. 127)

実測値については逐一、掲載されていません。
テスタが参考にしているのは、トリノ・エジプト学博物館の前館長であった人物が以前出版した古王国時代の棺に関する本で、この書物は現在、ボストン博のページからPDFのダウンロードが可能。
A. M. Donadori Roveriの著作については、これまでも何回か触れてきました。下記の本でも、木工の仕口は詳しく図示されており、興味深い書です。

Anna Maria Donadoni Roveri,
I sarcofagi egizi dalle origini alla fine dell'Antico Regno.
Istituto di Studi del Vicino Oriente, Serie Archeologica 16
(Università di Roma, Roma, 1969)
180 p., 20 figs., 40 tavole.
http://www.gizapyramids.org/pdf%20library/roveri_sarcofagi.pdf

テスタの本は、古代エジプトの尺度と、計画方法とをともに考えようとしたものであることには疑いなく、同時に「小キュービット」と呼ばれてきた尺度(=45cm)が本当に存在したのかという、大事な点を問うことを言外に示している書、という位置づけになります。
巻末に収められた、カラーを交えた棺の分析図は、建築を専門とする者にとって重要。
本文中に誤記が散見される点は残念です。

2010年12月5日日曜日

Hawass, Manuelian, and Hussein (eds.) 2010 [Fs. Edward Brovarski]


E. Brovarskiへの献呈論文集です。アメリカのボストン美術館から出された展覧会のカタログ、

Edward Brovarski, Susan K. Doll, and Rita E. Freed (eds.),
Egypt's Golden Age:
The Art of Living in the New Kingdom 1558-1085 B.C.

Catalogue of the Exhibition
(Museum of Fine Arts, Boston. Boston, 1982)
336 p.

についてはちょっと触れたことがありますけれど、巻末には目配りの利いた多数の参考文献が列記されるなど、きわめて充実した内容を示す本で、新王国時代の研究者にとっては必携の書です。
この本の編者の一人がBrovarskiで、下記のように、ASAEのCahierシリーズ(CASAE)から出版されました。

Zahi Hawass, Peter Der Manuelian, and Ramadan B. Hussein (eds.),
Perspectives on Ancient Egypt: Studies in Honor of Edward Brovarski.
Supplément aux Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Cahier (CASAE) 40
(Publications du Counseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2010)
474 p.

Contents:

Zahi Hawass,
PREFACE (p. 9)
ACKNOWLEDGEMENTS (p. 11)

Del Nord,
EDWARD BROVARSKI: AN EGYPTOLOGICAL BIOGRAPHY (p. 13)
BIBLIOGRAPHY OF EDWARD BROVARSKI (p. 23)

Schafik Allam,
NOTES ON THE DESIGNATION 'ELDEST SON/DAUGHTER'
(z3/z3.t smsw: Sri '3/Sri.t '3.t) (p. 29)

Hartwig Altenmüller,
SESCHAT, 'DIE DEN LEICHNAM VERSORGT', ALS HERREN ÜBER VERGANGENHEIT UND GESCHICHTE (p. 35)

Mariam F. Ayad,
RE-FIGURING THE PAST: THE ARCHITECTURE OF THE FUNERARY CHAPEL OF AMENIRDIS I AT MEDINET HABU, A RE-ASSESSEMENT (p. 53)

Manfred Bietak,
THE EARLY BRONZE AGE III TEMPLE AT TELL IBRAHIM AWAD AND ITS RELEVANCE FOR THE EGYPTIAN OLD KINGDOM (p. 65)

Tarek el Awady,
MODIFIED SCENES AND ERASED FIGURES FROM SAHURE'S CAUSEWAY RELIEFS (p. 79)

Marjorie Fisher,
A NEW KINGDOM OSTRACON FOUND IN THE KING'S VALLEY (p. 93)

Laurel Flentye,
THE MASTABAS OF DUAENRA (G 5110) AND KHEMETNU (G 5210) IN THE WESTERN CEMETERY AT GIZA: FAMILY RELATIONSHIPS AND TOMB DECORATION IN THE LATE FOURTH DYNASTY (p. 101)

Fayza Haikal,
OF CATS AND TWINS IN EGYPTIAN FOLKLORE (p. 131)

Tohfa Handoussa,
THE FALSE DOOR OF HETEPU FROM GIZA (p. 137)

Zahi Hawass,
THE EXCAVATION OF THE HEADLESS PYRAMID, LEPSIUS XXIX (p. 153)

Jennifer Houser Wegner,
A LATE PERIOD WOODEN STELA OF NEHEMSUMUT IN THE UNIVERSITY OF PENNSYLVANIA MUSEUM OF ARCHAEOLOGY AND ANTHROPOLOGY (p. 171)

Angela Murock Hussein,
BEWARE OF THE RED-EYED HORUS: THE SIGNIFICANCE OF CARNELIAN IN EGYPTIAN ROYAL JEWELRY (p. 185)

Ramadan B. Hussein,
'SO SAID NU': AN EARLY bwt SPELL FROM NAGA ED-DÊR (p. 191)

Naguib Kanawati,
CHRONOLOGY OF THE OLD KINGDOM NOBLES OF EL-QUSIYA REVISITED (p. 207)

Barbara S. Lesko,
THE WOMEN OF KARNAK (p. 221)

Leonard H. Lesko,
ANOTHER WAY TO PUBLISH BOOK OF THE DEAD MANUSCRIPTS (p. 229)

Peter Der Manuelian,
A DIG DIVIDED: THE GIZA MASTABA OF THE HETI, G 5480 (GIZA ARCHIVES GLEANINGS IV) (p. 235)

Dimitri Meeks,
DE QUELQUES 'INSECTES' ÉGYPTIENS: ENTRE LEXIQUE ET PALÉOGRAPHIE (p. 273)

Karol Mysliwiec,
FATHER'S AND ELDEST SON'S OVERLAPPING FEET: AN ICONOGRAPHIC MESSAGE (p. 305)

Del Nord,
THE EARLY HISTORY OF THE ÌPT SIGN (GARDINER SIGN LIST O45/046) (p. 337)

Laure Pantalacci,
LE BOVIN ENTRAVÉ: AVATARS D'UNE FIGURE DE L'ART ET L'ÉCRITURE DE L'ÉGYPTE ANCIENNE (p. 349)

M. Carmen Pérez Die,
THE FALSE DOOR AT HERAKLEOPOLIS MAGNA (I) TYPOLOGY AND ICONOGRAPHY (p. 357)

Ali Radwan,
'nx-m-m3't (BRITISH MUSEUM STATUE EA 480 - BANKES STELA 15) (p. 395)

Cynthia May Sheikholeslami,
PALAEOGRAPHIC NOTES FROM TWENTY-FIFTH DYNASTY THEBES (p. 405)

David P. Silverman,
A FRAGMENT OF RELIEF BELONGING TO AN OLD KINGDOM TOMB (p. 423)

Josef Wegner,
EXTERNAL CONNECTIONS OF THE COMMUNITY OF WAHSUT DURING THE LATE MIDDLE KINGDOM (p. 437)

Christiane Ziegler,
NOUVEAUX TÉMOIGNAGES DU 'SECOND STYLE' DE L'ANCIEN EMPIRE (p. 459)

入れ子状の建物を扱ったAyadの論考は、さまざまなことを想起させます。あんまり整理されていない文で、繰り返しが多々見られる不備が残念ですが、言いたいことは良く伝わってきます。
B. J. ケンプが指摘した入れ子状の建物の重要性に関する再確認をおこなっており、D. アーノルドもTemples of the Last Pharaohs (New York and Oxford, 1999)において、後にこの話題に触れました。

これが建築学的にどういう意味なのかは、しかし述べられていません。四角い一室しか持たない簡単な建物の中に、同じような建物が収まっている表現はどのように解釈すべきものなのか? 
当方の知る限り、このような建築表現について明確な意見を書いているのは、もう亡くなってしまった建築家の毛綱モン太(毛綱毅曠)で、ある建物から同じ建物が見えるというのは面白いことなんだ、とどこかで述べていたはずです。
彼の考えを借りると、入れ子状の建築の表現とは、ある建物の中に入ると同一の建物がそこにある、そういう解釈になります。そうであるならば、ひとは建物の中に入ったことになるのか。それとも建物の外に立っていることになるのか。その両方を宙吊りにした状態になるのか。
空間に関する近代の感覚を破壊する思考で、とても面白い。Fischerによる扉の考察と併せて考えるべき問題かと思われます(cf. Fischer 1996)。

レスコ夫妻のうち、旦那の方はコンピュータ時代の悩ましい問題を語っていて、これも興味を惹きます。史料を次代へと引き継ぐ問題で、技術を駆使すれば精緻なデータなどはもちろんこれから先もたくさん得られるんですけれども、いったいこの先、錯綜する厖大な史料データを誰が纏めて面倒を見るのかという問いかけ。
情報の共有というありふれた話題のように思われながら、A Dictionary of Late Egyptian, 5 vols. (Berkeley, 1982-1990)が彼によって編纂されたことは知られていますので、この発言には重みがあります。
彼が問題にしているのは取りあえず「死者の書」に関連する資料ですが、いっこうに埒があかない状況への苛立ちが感じられ、課題の大きさを伝えています。史料の「読み手」の問題がここには隠されていて、解像度を高めたデジタル情報の提供量の増大はこれから見込まれるものの、その解釈の側はどうなっているのかという反問。
問題の本質を掴まえないで、いたずらに情報量だけを増やしている連中への、悪意の表明とみなせなくもない。

2010年11月30日火曜日

Guidotti (ed.) 2002


「フィレンツェ・エジプト博物館」という名を初めて聞く方も少なくないかもしれない。イタリアに「エジプト博物館」がトリノ以外にあるというのは、まだあんまり広く知られていないように思われます。近年、フィレンツェ考古学博物館が改組され、知る人しか知っていなかった古代エジプトの貴重な所蔵品が、積極的に公開されるようになりました。
建築の世界では、フィリッポ・ブルネレスキによる「捨て子養育院」(Galleria dello Spedale degli Innocenti)がルネサンス時代の初期の名作として広く知られており、どの西洋建築史の教科書にも必ず載っていますけれども、この建物を正面にして、左手の端のアーチをくぐり抜ける道をちょっと奥へ行くと、左手にある博物館。
ここを訪れる人はこれまでマニアしかいなかったわけで、フィレンツェへの観光ツアーに参加する人も、この国立博物館へはほとんど案内されていないはず。けれどもこの場所には、古代の家具研究家や古代エジプトの馬車を知りたいと思う人が足繁く通う理由があるわけです。
馬に引かせる戦闘用の馬車は木と皮革から作られていますけれども、車輪を含む仕口や継手の詳細図が掲載されており、貴重です。

Maria Cristina Guidotti (ed.),
Il carro e le armi del Museo Egizio di Firenze.
MAAT, Materiali del Museo Egizio di Firenze, 2
(Ministero per i Beni e le Attività Culturali Soprintendenza per i Beni Archeologici della Toscana / Giunti Gruppo Editoriale, Firenze, 2002)
63 p.

Sommario:

Maria Cristina Guidotti, Presentazione (p. 5)
Pier Roberto Del Francia, La raccolta di armi del Museo Egizio (p. 6)
Alberto Rovetta, Cocchi reali e cocchi virtuali (p. 10)
Pier Roberto Del Francia, Il carro di Firenze (p. 16)
Giacomo Cavillier, L'arte militare e le armi nell'antico Egitto (p. 38)
Giacomo Cavillier, CATALOGO DELLE ARMI (p. 43)

APPARATI (p. 60)
Tavola cronologica
Glossario
Bibliografia

当方の知る限り、このMAATのシリーズはすでに4冊が既刊。古代エジプト語で「真実」という意味の言葉がシリーズ名として選択されています。
シリーズの一冊目は"Le mummie"で、一般向けの本ではありますが、フィレンツェ・エジプト博物館(フィレンツェ考古学博物館)で収蔵されている木棺に関する大判のカラー写真が多数掲載されており、貴重です。

Maria Cristina Guidotti (ed.),
Le mummie del Museo Egizio di Firenze.
MAAT, Materiali del Museo Egizio di Firenze, 1
(Ministero per i Beni e le Attività Culturali Soprintendenza per i Beni Archeologici della Toscana / Giunti Gruppo Editoriale, Firenze, 2001)
64 p.

他の巻については、書籍検索ページにて館長のグイドッティの名前で検索するならば、すぐに出てくるかと思います。彼女は土器の専門家で、経歴についてはイタリアの古代考古学のHPであるArchaeogateなどで調べれば、すぐに出てきます。

http://www.archaeogate.org/

かつてのフィレンツェ考古学博物館の収蔵物と言うことなら、所有されている石碑(ステラ)を公開する意図で刊行された、

Sergio Bosticco,
Le stele egizione, parte I: Museo Archeologico di Firenze, le stele egiziane dall'antico al Nuovo Regno
(Roma, 1959)
75 p.

Ditto,
Le stele egizione, parte II: Museo Archeologico di Firenze, le stele egiziane del Nuovo Regno
(Roma, 1965)
83 p., 65 illustrazioni.

Ditto,
Le stele egizione, parte III: Museo Archeologico di Firenze, le stele egiziane di epoca Tarda
(Roma, 1972)
81 p., 62 illustrazioni.

などがこれまで知られていましたが、博物館のガイドブックとは分けて、もう少し遺物の種類別で、一般向けに出されたシリーズとして企画された刊行物。
13ページには車輪の力学的な説明などもあって興味深い。馬車については論考の類例が少ない中、丁寧に紹介しています。
薄い本ですけれども、図面も多数掲載されており、木工の仕口、あるいは革の細帯による締め付け方法や背もたれのマットに関しても重要な情報を伝える本で、見逃せません。

Vassilika 2010


トリノのエジプト博物館へ2年ぶりに行ってみたら、建築家カーとその奥さんのメリトの墓(TT 8)から出土した遺品の展示室が、何倍も大きい別の広間へと移動していました。この夫妻、新王国時代の第18王朝末を生きた上流階級の者たちです。たくさんの家具類が見つかったことで、古代家具史の世界では有名な存在。ディール・アル=マディーナ(デル・エル=メディーナ)に残る墓では、地上に立てられたピラミディオンを見ることができ、塞がれた戸口上部を金網越しに覗き込むと、ピラミディオン内に造られた小さな部屋のヴォールト天井の彩色も見られるはず。
新しい展示室のパノラマ写真は、トリノ・エジプト博物館のHP、

http://www.museoegizio.it/pages/hp_en.jsp

にて見ることができます。
Flickr-Photo Sharingなどで"Tomb of Kha"等を検索するならばいろいろ出てくるとは思いますが、説明がきわめて不正確であるため、具体的に引用しません。

カーとメリトに関する遺物展示の模様替えについてはすでに、2008年におこなわれた第10回国際エジプト学者大会(ICE)の発表で予告されていましたけれども、これほど大がかりなものとは予想していませんでした。トリノ・エジプト博物館がカーとメリトの遺物を、非常に重要なものとして位置づけていることが分かります。館長が交代し、新しい展示方法が積極的に模索されています。
木製の扉の裏面が、しかしここでもやはり、きわめて見にくい点は建築関係者として残念。
なお、第10回のICEにおける予稿集は自由に見ることができます。

http://www.rhodes.aegean.gr/tms/XICE%20Abstract%20book.pdf

これに合わせて、一般向けに書かれたカーの本も刊行。英語版の他に、イタリア語版、フランス語版も同時に出ています。綺麗なカラー写真が豊富に収録されており、代表的な遺物を紹介。
ミュージアム・ショップでは、カーの折り畳みキュービット尺(ものさし)の木製レプリカが販売されていました。オリジナル通り、革袋つきで販売されている点は、少数の専門家に感涙を流させます。

Eleni Vassilika,
The Tomb of Kha: The Architect
(Fondazione Museo delle Antichità Egizie, Torino / Scala group, Firenze, 2010)
111 p.

Contents:

Introduction (p. 7)
CATALOGUE (p. 29)
Stele of Kha (p. 31)
Outer Coffin of Merit (p. 33)
Inner Coffin of Merit (p. 35)
Funerary Mask of Merit (p. 41)
Merit's Beauty Case (p. 45)
Merit's Wig and Wig Box (p. 51)
Merit's Bed (p. 54)
Kha's High-backed Chair (p. 58)
The Coffins of Kha (p. 64)
The Book of the Dead (p. 70)
Kha's Personal Effects (p. 78)
Decorated Coffer (p. 89)
Imitation Cane Table (p. 94)
Senet Board Game (p. 96)
Stools (p. 100)
Folding Camp Stool (p. 103)
Bronze Jug and Basin and other Metalware (p. 106)
Two-Handled Wedjat-eye Vessel (p. 109)

Essential bibliography (p. 111)

分かりやすさが徹底的に考えられており、ともすれば僅かな同類のみを読者として想定しつつ文を書きがちな研究者たちの傾向に、反省を促す内容を含んでいます。切妻型の蓋を有する衣装箱に関して、

"Unlike the other flat-topped coffers, these pedimental shaped chests could not be stacked easily, taking up more space, and consequently were regarded of higher status value." (p. 92)

と指摘してみせたり、あるいは彩色土器の説明で、

"There were distinctive shapes for pottery and their stone counterparts in every period, and this was probably related to the contents. Thus, today we distinguish a coffee pot from a teapot, by means of shape, so that form follows function." (p. 109)

という文で始めたりしているのは、そのあらわれ。
スキアパレッリによる発掘報告書の英訳(Schiaparelli 1927 (reprint and translated, 2007-2008))が近年出ていますから、画像がカラーで鮮明なこの本を脇に置き、併読すると面白そうです。

2010年10月30日土曜日

Kákosy et al. 2004


ハンガリー隊による、テーベの私人墓ジェフティメス(TT 32:ラメセス2世時代)に関する2巻本の報告書。
ハンガリーによる古代エジプト調査の歴史は100年を超えており、その過程はたとえば、Vörös 2007が個人史と重ねあわせながら示しています。
Studia Aegyptiacaのシリーズは、ハンガリーのブダペストから出されているエジプト学関連の刊行書の名前で、創刊は1974年。早稲田大学の図書館にはいくらか収蔵されているはず。シリーズを新しく改めて、その最初の巻として刊行。

László Kákosy, Tamás A. Bács, Zoltán Bartos, Zoltán I. Fábián, Ernö Gaál;
Stereo-photogrammetry, György Csáki and Annamária Csáki.
The Mortuary Monument of Djehutymes (TT 32), 2 vols (Text and Plates).
Studia Aegyptiaca, Series Major I
(Archaeolingua Alapítvány, Budapest, 2004)
xi, 372 p. + xi, 115 Plates.

Table of Contents:

List of Plates (vii)
Foreword (p. 1)
Editorial Remarks (p. 5)
Situation, Type and Architecture (p. 9)
Decoration Programme in TT 32 (p. 29)
The Owner of TT 32 (p. 355)
Abbreviations and Bibliography (p. 361)

なお、出土遺物については後年、第2巻として出版されているようですが、当方は未見です。

Gábor Schreiber,
The Mortuary Monument of Djehutymes II:
Finds from the New Kingdom to the Twenty-sixth Dynasty.
Studia Aegyptiaca, Series Major II
(Archaeolingua, Budapest, 2008)
224 p.

隊長であったLászló Kákosyが亡くなっているため、この書ではZ. I. Fábiánによって書かれている章が目立ちます。
壁画の報告に多くが費やされていることが、目次からも分かります。一方、建築に関しては、冒頭に20ページほどを記しているだけです。エジプト学における報告書ではこのように、建築に関する情報はいつも短めですが、専門家の数が少ないのだから仕方ありません。
以下、例によって建築の観点からのみ、気がついた点を記します。

この墓には個人的な興味があって、曲がりながら一周して下っている、狭くて長い廊下にヒエラティック・インスクリプションが何箇所かに残っているため、これを手がかりとして一日当たりの掘削量を求めたりしたことがあります。時折、こうした断片的な文字史料が掘削墓には見受けられるのですけれども、分析に耐えうるような、複数の文字がセットとして残っている例はきわめて稀。
工人たちが少しずつ掘り進めながら日付と長さを記録していったという前提のもとに、いくつかの読み方に関してはハンガリー隊の仮報告で見られるものとは異なる解釈を提案したのですが、どうやら半分ほどは受け入れられたらしい模様。

部屋の大きさに関しては一応のキュービット換算をおこなっていますが、あまり立ち入った考察はなされていません。
地上の斜面に、わずかに残存していたピラミディオンについては、1ページしか記していませんけれども、

"The width of the pyramid at the basis was 14.55 m (the platform on which it was built 15.1 m). The rear (upper) edge measured 9.4 m, thus the ground plan took the form of a trapezium with a height of about 11 m. The angle of inclination (69-72°) may indicate that the height of the building may have been 13-15 m which seems, however, hardly conceivable because of the character of the terrain. If one assumes a change in the inclination, it may have been considerably lower. It was built, like all the other private pyramids, of mud bricks. (Size of the bricks: 34×16.5-17×9.5 cm)."
(p. 27)

と面白い情報が併記してあって、足下で確認されたらしい勾配を尊重する一方、斜面上に立てられたために台形状に残った痕跡からピラミディオンの高さを求めているようです。これはピラミディオンの水平断面のかたちが常に正方形となるという特徴を利用して算出しているわけですが、詳しい計算方法が示されても良かったかも。
というのは、図版編のPlate CXVを見ると、ピラミディオンの最下端における標高は+99.81メートルであり、他方、これより高い位置に残存する北辺の高さが+102.35メートル。つまり、テキストを信じる限り、約2メートル上がったらピラミディオンの一辺が14.55メートルから9.4メートルへと短くなったことを意味するはずですから、その一辺の差は5メートルほど。だから、1メートル高くなると2.5メートル分、一辺の長さが短くなるという勾配であったとみなされます。
これを踏まえると、復原されるピラミディオンはそれほど高くなりません。その疑問が、意識されながらも曖昧なまま提示されている状況です。ピラミディオンの勾配を気にしている割には、セケドの話は出てこないし、また

Agnes Rammant-Peeters,
Les pyramidions égyptiens du Nouvel Empire.
Orientalia Lovaniensia Analecta (OLA) 11
(Peeters Press, Leuven, 1983)
xvii, 218 p., 47 planches.

が引用されていない点も不思議なところ。
おそらくは

E. Dziobek,
"Eine Grabpyramide des frühen NR in Theben",
in MDAIK 45 (1989), pp. 109-132.

でうかがわれる内容との整合性を優先したのかと思われますが、詳細を知りたい点ではあります。

壁画の説明に際しては、Fábiánを軸に4人ほどが手分けして書いたりしていて、欧米に留学した経験をお持ちの日本の若手の方々にとっては「おいおい大丈夫か」と思われる報告書かもしれません。しかし個人的には、親近感を抱く刊行物。ここには日本と似た状況がハンガリーにおいても存在することが、充分に暗示されています。Vörös 2007もそうした目で改めて読むと、得るところが少なくない書。
この厄介な状況を脱して日本人であることをやめ、能力を活かして海外で活躍し続けるか。それとも日本に戻り、さまざまに気配りしながらやっていくのか。かつて吉本隆明が昔にどこかで書いていたことでもあります。中途半端な報告書だと断ずるのはたやすいのですけれど、日本人の研究者がこの報告書を吟味するという中には、重いわだかまりが再度、姿をあらわすはずです。

2010年10月28日木曜日

Menu (ed.) 2010


古代エジプトやメソポタミアにおける労働組織を問う国際会議の会議録です。
建造組織、あるいは労働組織を広く追究する分野にとっては、非常に重要な論集であるとみなされるPowell (ed.) 1987の刊行以降に著された注目すべき出版物で、2004年の会議開催から6年経って、ようやく上梓されました。
表紙にはベルシャのジェフティヘテプの墓で見られる有名な巨像の牽引風景を載せた、さほど厚くないペーパーバック。

IFAO(フランス・オリエント考古学研究所:通称「フラ研」)から刊行されているシリーズの中の一冊で、Bibliothèque d'Étudeは昔、BdEと略されていた覚えがあるのですが、今はBiEtudと表記するようです。
近年、ここから毎年一回出されている紀要であるBIFAOの大半に、ネットで簡単にアクセスすることが可能となりました。

http://www.ifao.egnet.net/bifao/

1901年の創刊ですから、100冊以上あって、通覧するのも大変ですが、自宅で飲みながら無料でゆっくり見ることができるというのは、たいへん素晴らしい。
大規模に研究論文を網羅する、いかにも便利そうなデータベース化をめざしながらも、お金はちゃんといただきますよというアメリカ主導によるJSTORのやり方なんかは完全に無視して、一方的にタダで公開する、というのもフランスらしい大胆な選択。
会議録の内容は多岐にわたっています。

Édité par Bernadette Menu,
L'organisation du travail en Égypte ancienne et en Mésopotamie.
Colloque AIDEA (Association Internationale pour l'étude du Droit Égyptien Ancien) - Nice 4-5 octobre 2004.
IF 1005, Bibliothèque d'Étude (BiEtud) 151
(Institut Français d'Archéologie Orientale (IFAO), Le Caire, 2010)
vi, 192 p.

Sommaire:

Laure Pantalacci,
Préface (p. 1)

INTRODUCTION

Bernadette Menu,
Présentation générale (p. 3)

Robert Carvais,
Pour une préhistoire du droit du travail avant la Révolution (p. 13)

I. LES MÉTIERS ET LE DROIT CONTRACTUEL DU TRAVAIL

Schafik Allam,
Les équipes dites meret spécialisées dans le filage-tissage en Égypte pharaonique (p. 41)

Sophie Démare-Lafont,
Travailler à la maison. Aspects de l'organisation du travail dans l'espace domestique (p. 65)

Francis Joannès,
Le travail des esclaves en Babylonie au premier millénaire av. J.-C. (p. 83)

Barbara Anagnostou-Canas,
Contrats de travail dans l'Égypte des Ptolémées et à l'époque augustéenne (p. 95)

Patrizia Piacentini,
Les scribes: trois mille ans de logistique et de gestion des ressources humaines dans l'Égypte ancienne (p. 107)

II. GESTION DU TRAVAIL ET ORGANISATION DES CHANTIERS

Christopher Eyre,
Who Built the Great Temples of Egypt? (p. 117)

Laure Pantalacci,
Organisation et contrôle du travail dans la province oasite à la fin de l'Ancien Empire.
Le cas des grands chantiers de construction à Balat (p. 139)

Katalin Anna Kóthay太字,
La notion de travail au Moyen Empire. Implications sociales (p. 155)

Bernadette Menu,
Quelques aspects du recrutement des travailleurs dans l'Égypte du deuxième millénaire av. J.-C. (p. 171)

Robert J. Demarée,
The Organization of Labour among the Royal Necropolis Workmen of Deir al-Medina.
A Preliminary Update (p. 185)

序文は、カール・マルクスの「資本論」第1巻の引用から始められており、労働組織への注視が古代社会の構造を解き明かす上で重要なトピックであることを改めて強調しています。新王国時代後期のデル・エル=メディーナ(ディール・アル=マディーナ)の資料はここでも尊重されていますけれども、この村の存在を普遍的に扱って、古代エジプトにおける他の時代へ適用することについてはより慎重な姿勢を示しており、一方、中王国時代に属するpReisner(cf. Simpson 1963-1986)などへの言及は、近年の研究成果が反映され、増加しています。

Demaréeによる最後の論文は、デル・エル=メディーナ研究の現在の水準と今後の課題を語っており、有用。メトロポリタン美術館や大英博物館で所蔵されている未刊行の第18王朝に属するオストラカについて、報告書の作成を控えめながら促しています。
新王国時代におけるヒエラティックの代表的な読み手として名をなすAllam、Eyre、Demaréeたちが今、何を考えているかを知りたい学徒たちにとっても貴重な本。


2010年10月27日水曜日

Mace and Winlock 1916


メトロポリタン美術館による、エジプト発掘調査報告書シリーズの記念すべき第1巻。リシュトで発見されたセネブティシの墓(中王国時代)に関する報告で、出土した宝飾品の解説も丁寧ですけれども、いったん蓋を閉じたら二度と開かなくなる工夫が施された人型木棺などの図解が注目されます。

Arthur C. Mace and Herbert E. Winlock,
The Tomb of Senebtisi at Lisht.
The Metropolitan Museum of Art Egyptian Expedition Publications, Vol. 1
(Metropolitan Museum of Art, New York, 1916)
xxii, 132 p., 35 plates.

Contents:

Preface (vii)
Table of Contents (xi)
List of Illustrations (xv)
Introduction (xxi)

Chapter I. The Site and the Tomb (p. 3)
Chapter II. The Clearing of the Tomb (p. 9)
Chapter III. The Coffins and Canopic Box (p. 23)
Chapter IV. The Jewelry (p. 57)
Chapter V. The Ceremonial Staves (p. 76)
Chapter VI. Miscellaneous Objects, including the Pottery (p. 104)
Chapter VII. Date of Tomb and Comparison with Tombs on other Sites (p. 114)

Appendix. Notes on the Mummy, by Dr. G. Elliot Smith (p. 119)
Index of Names of Objects from the Painted Coffins (p. 121)
Index of Authorities cited (p. 127)
General Index (p. 129)
Plates (p. 133)

1000部が出版され、初版は今、かなりの高値で取引されていますが、1974年にArno Pressから再版が出され、また近年ではさらにリプリントも発行されています。しかしカラー図版は再版ではモノクロに置き換わっており、復原された宝飾品などは初版の中でしか見られない模様。
序文を書いているのはアルバート・リスゴーで、

"Here, on the desert edge south of Medinet Habu, the remains of the palace erected by Amenhotep III have now been cleared for the greater part, ..."
(p. viii)

と、メトロポリタン美術館が当時、手がけていたマルカタ王宮の発掘について触れており、メトロポリタン美術館が手をつける前にニューベリーとともにマルカタを掘ったタイトゥスの名前もここで出てきます。
もともとオクスフォードにいたアーサー・メイスはこの頃にはもう、メトロポリタン美術館に所属していました。メイスの名が良く知られているのは、ハワード・カーターと一緒にツタンカーメン王墓の発掘記を書いているからです。メイスは1928年に50歳の半ばで亡くなってしまい、これは3巻本によるツタンカーメンの墓の発掘記(Carter (and Mace) 1923-1933)の刊行中の出来事。
メトロポリタンの仕事で1900年代の初頭、メイスはエジプトの発掘に携わっていましたが、1922年にツタンカーメン王の墓が見つかって、急に忙しくなったカーターが援助をアメリカ隊のウィンロックに求め、メトロポリタン美術館のスタッフがツタンカーメンの墓の調査に関わるきっかけが生じました。
カーター自身も、アメンヘテプ3世が建立したマルカタ王宮の発掘をアメリカ人青年のタイトゥスがおこなった時には、その仕事の監督官として参加しており(cf. Leahy 1978)、ここには不思議な関係の交錯が見られます。
メイスの生涯を扱った本が出ていて、風変わりなタイトルがつけられています。

Christopher C. Lee,
The Grand Piano came by Camel: Arthur C. Mace, the Neglected Egyptologist
(Mainstream Publishing, Edinburgh, 1992)

カギのかかる木棺というのはしかし、珍しい。たいていは差し込んだ枘板に木栓を打って蓋を固定する方法がとられるわけで、蓋を閉めたら開かなくなる木棺や木箱の類例が註にいくつか挙げられています。
似た仕組みとして、カフラー王の石棺が言及されていますけれども(pp. 40-41)、実はクフ王の石棺も同じこと。ピラミッド内の玄室に今でも残っているクフ王の石棺のカギのかかる仕組みについては建築家による論考、Dormion 2004に掲載されている図が分かりやすく、またイタリアの建築家であるPietro Testaも似た図を描き起こしていたはず。テスタはまた、古王国時代の棺について最近、イタリア語で本も書いている男。

新王国時代における木箱では、このカギのかかる仕組みが多く採用されており、これについてはキレンが古代エジプトの家具について書いた本のうち、箱を扱った巻で紹介しています。
Killen 1980の続巻。

Geoffrey Killen,
Ancient Egyptian Furniture, Vol. II:
Boxes, Chests and Footstools
(Aris & Phillips, Warminster, 1994)
xii, 91 p., with catalogue of museum collections.

2010年10月26日火曜日

Hawass and Wegner (eds.) 2010 [Fs. David P. Silverman]


今夏の2010年7月中旬、ザマレックのSCAを訪れた時に出版関連の仕事に携わる方から見せてもらい、すぐに注文した本。シルバーマンへの、2巻本の献呈論文集です。
American University in Cairo Pressのサイトにて注文したけれど、そこではASAE Cahier 39というシリーズ名の方が優先的に表示されているので、ちょっと見つけづらい。
いささか長くなりますが、目次も併記。論文題名に含まれていたエジプト語の発音記号は、ネットにて用いられるものに変えてあります。

Zahi Hawass and Jennifer Houser Wegner eds.,
Millions of Jubilees: Studies in Honor of David P. Silverman.
Supplément aux Annales du Service des Antiquités de l'Égypte (ASAE), Cahier no. 39.
2 vols.
(Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2010)
xxiv, 455 p. + ix, 386 p.

Contents
Volume I:
Preface (vii)
Acknowledgments (xi)
David P. Silverman (xiii)

Matthew Douglas Adams,
"The Stela of Nakht, Son of Nemty: Contextualizing Object and Individual in the Funerary Landscape at Abydos" (p. 1)

James P. Allen,
"The Original Owner of Tutankhamun's Canopic Coffins" (p. 27)

Dieter Arnold,
"A Boat Ritual of King Mentuhotep Nebhetepetra" (p. 43)

Rachel Aronin,
"'Sitting among the Great Gods': Denoting Divinity in the Papyrus of Nu" (p. 49)

Nathalie Beaux,
"Arc-en-ciel, apparition et couronnement: À propos du signe N 28“ (p. 61)

Patricia A. Bochi,
"Figuring the Dead: The Ancestor Busts and the Embodied Transition" (p. 69)

Edda Bresciani,
"Un conteneur lithique en forme de navicella decoré avec lotus et motifs de la navigation celeste" (p. 81)

Edward Brovarski,
"The Date of Metjetji" (p. 85)

Denise Doxey,
"The Military Officer Pamerihu: An Unpublished Relief in the Museum of Fine Arts, Boston" (p. 141)

Paul John Frandsen,
"Durkheim's Dichotomy Sacred: Profane and the Egyptian Category bwt" (p. 149)

Ed Gyllenhall,
"From Parlor to Castle: The Egyptian Collection at Glencairn Museum" (p. 175)

Zahi Hawass,
"Five Old Kingdom Sphinxes Found at Saqqara" (p. 205)

Jane A. Hill,
"Window between Worlds: The ankh as a Dominant Theme in Five Middle Kingdom Mortuary Monuments" (p. 227)

Salima Ikram,
"A Plaster Head in Cairo" (p. 249)

Janice Kamrin, with Elina Nuutinen and Amina El Baroudi,
"Getting Tutankhamun's Number" (p. 253)

Arielle P. Kozloff,
"Chips off the Old Block: Amenhotep IV's Sandstone Colossi, Re-Cut from Statues of Amenhotep III" (p. 279)

Ronald J. Leprohon,
"Sinuhe's Speeches" (p. 295)

Barbara S. Lesko,
"Divine Interest in Humans in Ancient Egypt" (p. 305)

Kate Liszka,
"'Medjay' (no. 188) in the Onomasticon of Amenemope" (p. 315)

Ulrich Luft,
"Die Stele des Sn-nfr in Deir el-Bersha und ihr Verhältnis zur Chronologie des Neuen Reiches" (p. 333)

Dawn McCormack,
"Establishing the Legitimacy of Kings in Dynasty Thirteen" (p. 375)

Antonio J. Morales,
"Threats and Warnings to Future Kings: The Inscription of Seti I at Kanais (Wadi Mia)" (p. 387)

Ellen F. Morris,
"Opportunism in Contested Lands, B.C. and A.D.: Or How Abdi-Ashirta, Aziru, and Padsha Khan Zadran Got Away with Murder" (p. 413)

Brian Muhs,
"A Demotic Donation Contract from Early Ptolemaic Thebes (P. Louvre N. 3263)" (p. 439)


Volume II:
Tracy Musacchio,
"An Unpublished Stela from Dendera dating to the Eleventh Dynasty" (p. 1)

M. G. Nelson-Hurst,
"'...Who Causes his Name to Live': The Vivification Formula through the Second Intermediate Period" (p. 13)

Del Nord,
"Under the Chair: A Problem in Egyptian Perspective" (p. 33)

David O'Connor,
"The King's Palace at Malkata and the Purpose of the Royal Harem" (p. 55)

Stephen R. Phillips,
"The Splitting Headache: A Case of Interpersonal Violence in a Graeco-Roman Era Human Cranium from Meydûm, Egypt" (p. 81)

Nicholas S. Picardo,
"(Ad)dressing Washptah: Illness or Injury in the Vizier's Death, as Related in his Tomb Biography" (p. 93)

Mary-Ann Pouls Wegner,
"The Construction Accounts from the 'Portal Temple' of Ramesses II in North Abydos" (p. 105)

Donald B. Redford,
"The False-Door of Nefer-shu-ba from Mendes" (p. 123)

Janet Richards,
"Honoring the Ancestors at Abydos: The Middle Kingdom in the Middle Cemetery" (p. 137)

Robert K. Ritner,
"Two Third Intermediate Period Books of the Dead: P. Houston 31.72 and P. Brooklyn 37.1801E" (p. 167)

Joshua Aaron Roberson,
"Observations on the so-called 'sw sDm=f,' or Middle Egyptian Proclitic Pronoun Construction" (p. 185)

Gay Robins,
"The Small Golden Shrine of Tutankhamun: An Interpretation" (p. 207)

Carolyn Routledge,
"Akhenaten's Rejection of the Title nb irt-xt" (p. 233)

Cynthia May Sheikholeslami,
"An Intriguing Faience Fragment: UCL 38096" (p. 245)

JJ Shirley,
"One Tomb, Two Owners: Theban Tomb 122 - Re-Use or Planned Family Tomb?" (p. 271)

Emily Teeters,
"Egypt in Chicago: A Story of Three Collection" (p. 303)

Pascal Vernus,
"Du moyen égyptien au néo-égyptien, de m à m-jr: l'auxiliation de l'impératif à la dix-huitième dynastie" (p. 315)

Jennifer Houser Wegner,
"A Fragmentary Demotic Cosmology in the Penn Museum" (p. 337)

Josef W. Wegner,
"A Group of Miniature Royal Sarcophagi from South Abydos" (p. 351)

Christiane Ziegler,
"Note sur une peinture thébaine (TT 145)" (p. 379)


オコーナーがマルカタ王宮について書くのは久しぶりで、ここではドロシー・アーノルドが2002年にカタログに書いた文(cf. Ziegler (ed.) 2002)と、Vomberg 2004、すなわち「御臨の窓」(window of appearance)に関する本への反応が語られています。
彼の語り口にはしかし、いつも古代エジプトにおける理念の追究という側面が読み取られ、現場に携わる人は絶えず、こうした考えの「足を引っ張るような発見」に努めるべき。現場における細かな観察が、エジプト学の通念をひっくり返す可能性というのは、どこにでもあると感じられます。
Vombergの書誌です。

Petra Vomberg,
Das Erscheinungsfenster innerhalb der amarnazeitlichen Palastarchitektur: Herkunft - Entwicklung - Fortleben.
Philippika: Marburger altertumskundliche Abhandlungen 4
(Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, 2004)
xiii, 379 p., 4 Tafeln.

古代エジプトの「ハーレム」についてはドイツ語で書かれた博士論文、

E. Reiser, Der königliche Harim im alten ägypten und seine Verwaltung
(Wien, 1972)

と、ケンプによってJEAに書かれたその書評、またすぐその後でZÄSに掲載されたケンプの論文などが知られていますが、これらの他、さらにメディネット・ハブ(ラメセス3世葬祭殿)の入口塔の上階の話を含め、ハーレムを包括的に語ろうとしているのが特徴。
最近ではイアン・ショーが進めているプロジェクト、

Gurob Harem Palace Project:
http://www.gurob.org.uk/

があって、以上の資料に目を通せばハーレムの解釈については最新の情報が得られるはず。
ショーが指揮する調査チームの人員リストには、ソルボンヌのM. Yoyotteという、エジプト学に関わる者ならば「ん?」と感じるような名前もうかがわれ、イギリス人だけで固める隊にするのはやめようという意識が感じられて好ましく思われます。

2010年9月13日月曜日

Shaw 1973


エジプト学においてShawというと、イギリスの研究者であるイアン・ショーのことを誰しもが連想するかと思いますが、クノッソスやマリア、ファイストス、あるいはザクロスといった宮殿に代表される、クレタ島を中心として展開されたミノア文明に関わる研究者たちにとっては、まずジョセフ・ショーとマリア・ショーの夫妻の名が思い浮かぶかと思われます。
本書はミノア建築の建造方法に関して記している珍しい著作。海外の古書リストで見かけることも少なくなり、入手は非常に難しくなってきている状態。
グレーの目立たない表紙を持つソフトカバーの本。類書がほとんどありません。

Joseph W. Shaw,
Minoan Architecture: Materials and Technology.
Annuario della Scuola Archeologica di Atene e delle Missioni Italiane in Oriente, Vol. XLIX, nuova serie XXXIII
(Istituto Poligraphico dello Stato, Roma, 1973)
256 p.

ショー夫妻はクレタ島におけるコモスの発掘で有名。島の南側で発見された港湾都市で、5巻からなる報告書がすでに刊行されています。
記念建造物を扱う5巻目に至っては1200ページを超えており、真っ赤な装丁を施されたこの報告書の中でも特に際立っています。彩色壁画片が出土していて、その意味でも注目される巻。
前述の本の出版は1973年で、コモスの発掘によって得られた、新たな知見を反映している改訂版が出ることが望まれるところです。

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos I: The Kommos Region and Houses of the Minoan Town.
Part 1, The Kommos Region, Economy, and Minoan Industries
(Princeton University Press, Princeton, 1995)
xxxvii, 809 p.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos I: The Kommos Region and Houses of the Minoan Town.
Part 2, The Minoan Hilltop and Hillside Houses
(Princeton University Press, Princeton, 1996)
xxvii, 713 p., 10 fold-out plans.

Philip P. Betancourt, Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos II: The Final Neolithic through Middle Minoan III Pottery
(Princeton University Press, Princeton, 1990)
xv, 262 p., 70 figures, 104 plates.

Livingston Vance Watrous, Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos III: The Late Bronze Age Pottery
(Princeton University Press, Princeton, 1992)
xviii, 238 p., 76 figures, 58 plates.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos IV: The Greek Sanctuary.
Part 1, Text
(Princeton University Press, Princeton, 2000)
xvi, 813 p.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos IV: The Greek Sanctuary.
Part 2, Plates
(Princeton University Press, Princeton, 2000)
xix, 199+15+43+76+65+13+1+18 plates, 6 fold-out plans.

Joseph W. Shaw and Maria C. Shaw eds.,
Kommos V: The Monumental Minoan Buildings at Kommos
(Princeton University Press, Princeton, 2006)
xli, 1222 p., 5 fold-out plans.

第5巻目が出版された同じ年には、この都市の概要を分かりやすく紹介した本がアテネから出されているようですが、未見。

Joseph W. Shaw,
Kommos: A Minoan Harbour Town and Greek Sanctuary in Southern Crete
(American School of Classical Studies at Athens, Athens, 2006)
171 p., 77 illustrations.

古代エーゲの建物については、

Thomas Nörling,
Altägäische Architekturbilder.
Archaeologica Heidelbergergensia, Band 2
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1995)
xvii, 95 p., 18+VII Tafeln,

が出ています。
時代が降ったミケーネ文明における建物については、

Michael Küpper,
Mykenische Architektur:
Material, Bearbeitungstechnik, Konstruktion und Erscheinungsbild
, 2 Bände (Text und Beilagen).
Internationale Archäologie, Band 25
(Marie Leidorf, Espelkamp, 1996)
xi, 330 p. +28 Beilagen.

の2巻本が刊行されています。

--- 追記 ---:
Shaw 1973の改訂増補版はすでに2009年に出ていました。
書評は

http://bmcr.brynmawr.edu/2010/2010-08-48.html

で見ることができます。
(2010年12月31日)

2010年9月12日日曜日

Corinth XX (Williams II and Bookidis eds.) 2003


コリントス(コリント)は古くから栄えていたポリスのひとつで、古代ローマ時代の建物が多く残っているものの、その下を掘れば古代ギリシアの遺構に突き当たります。古代ギリシアにおいて最重要と考えられる都市遺跡のうちのひとつ。
アメリカ隊は19世紀の終わりからこの地を調査し始め、何冊もの報告書を刊行してきました。この事業はまだ続けられており、その最新号に当たるのが第20巻。調査が100年を迎えたことを記念する厚い一冊。
報告書全巻のリストは、

http://www.ascsa.edu.gr/index.php/publications/browse-by-series/corinth

にて閲覧できます。本書のp. iiにも提示。
日本のどこにこれらの本が所蔵されているかは、かつては見つけるのが非常に難しかったように思うのですが、電子化されてJSTORのCollection VIIに組み入れられ、事情が劇的に変わりました。サイバー大学の学生は自由にアクセスすることができるはずです。
建物に触れている第1巻は6分冊となっており、全部を一挙に読むのは大変ですけど、初期のギリシア神殿について言及されていますし、一度は見ておきたい報告書。
石材に溝を掘って綱を回したらしい珍しい痕跡は、こことイスミアで報告がなされています。

Charles Kaufman Williams and Nancy Bookidis eds.,
Corinth: Results of Excavations Conducted by the American School of Classical Studies at Athens, Volume XX.
Corinth, the Centenary 1896-1996
(The American School of Classical Studies at Athens, Princeton, N.J., 2003)
xxviii, 475 p.

これまでの40冊近くに及ぶ報告書のレジュメが掲載されているような内容。20ページ以上を割き、複数のインデックスも巻末に付されていますが、全巻を網羅するものではありません。
Bietak (Hrsg.) 2001の中で、「コリントスの石切場に関しては原稿が準備されている」という記述が書かれていますけれども、この本の第2章のことを指しており、

Chris L. Hayward,
"Geology of Corinth: The Study of a Basic Resource",
pp. 15-40.

において石切場が詳述されています。

調査の100周年を迎えての記念刊行物ということであれば、クノッソス宮殿について纏められたPanagiotaki 1999がそうだったし、これからもこの種の刊行が増えていくのでは。
報告書が営々と出版されていく例で、エジプト学の中でこれに匹敵するものを探すならば、エレファンティネにおける調査報告ぐらいしか思い当たらず、

Christian Ubertini,
Elephantine XXXIV:
Restitution architecturale à partir des blocs et fragments épars d'époque ptolémaique et romaine.
Archäologische Veröffentlichungen des Deutschen Archäologischen Instituts, Abteilung Kairo, Band 120
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 2005)
87 p., 38 plates.

が近年、出ています。

2010年9月11日土曜日

Peschlow-Bindokat 1990


太宰治の名作「走れメロス」では親友の石工セリヌンティウスという者が登場し、最後にはメロスと音を立ててお互いに殴り合います。互いをどこまで深く信じていたのかについて決着をつける行為。
セリヌンティウスと呼ばれるこの男、

「今は此のシラクスの市で、石工をしている」

と小説の冒頭には説明があって、太宰の短編小説の舞台がイタリアのシチリア島(シシリー島)であることを改めて知るわけですが、その石工の名前(Selinuntius)は「セリヌント(セリヌンテ)の人」という意味。「シラクス」、「シラクーザ」あるいは「シラクサ」は、シチリア島における中心都市の名です。「セリヌント」はこの島の地方の名。

イタリア領の島のひとつであるシチリアには昔、古代ギリシア人たちの植民都市が築かれたので、古い形式の神殿が今でもいくつか残っています。石造建築に深い興味を抱く人ならば、シチリアに残るセジェステ(セジェスタ)の神殿が多くの専門書で繰り返し取り扱われていることを御存知のはず。古代ギリシア建築の構法を扱う代表的な教科書として挙げられるHellmann 2002では、カラー図版でそれが大写しで掲げられています。
シチリアの神殿は全般的に、残存状態はあまり良くなくて、観光目的で見に行くとがっかりする方もいらっしゃるかと思うのですが、なぜ古代建築の専門家たちが、セジェステに佇む壊れた神殿に注目するかと言えば、未完成であるために建物の造り方が詳しく分かるという利点があるからで、本来は完成時に削り落とすべき突起が、石材のあちこちに見受けられたりします。
特に基壇部分の突起は、非常に頻繁に引用されており、古代エジプトにおけるギザのメンカウラー王ピラミッド基部の花崗岩に残る突起などとともに、世界で有数の突起のうちのひとつ。

この島には神殿を建てるために切り開かれた多数の石切場も同じように残っていて、その中でも大きな円柱を切り出そうとしてそのまま残された光景は特筆され、とても有名。
本書はシチリアのセリヌントにある石切場の報告書。クーサ(Cusa)の石切場を主として扱っています。
前回で挙げたMalacrino 2010にも、クーサの石切場に残る切りかけの円柱群はもちろん34ページの図で紹介されており、それでこの本を思い出した次第。

Anneliese Peschlow-Bindokat,
mit einem Beitrag von Ulrich Friedrich Hein,
Die Steinbrüche von Selinunt:
Die Cave di Cusa und die Cave di Barone
.
Deutsches Archäologisches Institut (DAI)
(Philipp von Zabern, Mainz am Rhein, 1990)
66 p., 30 Tafeln, 4 Beilagen.

Inhalt:

Presentazione (Vincenzo Tusa) (p. 7)
Vorwort (p. 8)

Die Steinbrüche von Selinunt (p. 9)
Steinbrüche und Bautätigkeit von Selinunt (p. 9)
Die Cave di Cusa (p. 14)
Die Cave di Cusa und der Tempel G (p. 33)
Die Cave di Cusa und die Marmorbrüche von Milet (p. 38)
Die Cave di Barone (p. 40)

Geologische und petrographische Merkmalsmuster antiker Baustoffe Selinunts und seiner Steinbrüche (Ulrich Friedrich Hein) (p. 45)
Einleitung (p. 45)
Der geologische Rahmen (p. 46)
Die antiken Steinbrüche (p. 49)
Zur Petrographie der antiken Baumaterialien (p. 56)
Zur Geochemie der antiken Baumaterialien (p. 62)
Bemerkungen zum lithologischen Inventar der Bauwerke (p. 63)
Anhang: Probenverzeichnis (p. 64)

Abbildungsnachweis (p. 66)

前半は技法に関する考察で占められ、後半では岩石学的な記述がおこなわれています。
上記の通り、目次ではドイツ語とイタリア語とが入り混じっており、こういうところは定冠詞というものが存在しない日本語をもっぱら用いている人間にとって、かなり衝撃的です。

建築学で建造過程を眺めようとする領域は、それはすなわち「段取りをどう見るか」の世界ですから、切り出した円柱のドラムをどのように効率的に岩盤から切り出すのか、どっちの方向へ運び出そうとしているのかを把握するのが焦点となります。円柱を切り出すために、1メートル弱の幅の狭い溝を円柱の周囲に沿って掘り下げていますけれども、掘削量を可能な限り削減しようとしたらしいことが、ここでもうかがわれます。
複数の石切場と、現地に残る数々の神殿との対応関係を探っているのは注目されます。考古学・建築学と、科学分析の成果とがうまく組み合わされた例。報告書においてある程度、最終の着地点が見える場合にはこうした共同作業ができて、幸せな邂逅が達成されます。
でも、いつもこうしたことができるとは限らない。

円柱を切り出そうとした痕跡が集中している石切場というのは世界的にも案外に少なくて、クーサの石切場などが注視される所以です。古代エジプトにおける一本柱の整形の仕方と、古代ギリシア・ローマでの一本柱の整形の方法がどのように異なるのかといった細かな検討も、まだおこなわれていないはず。
それは一見、専門技術に関わる話で、全体として些細な問題であるように思われながらも、時代の要請に応じ、何を優先して何を切り捨てたのかという文化の違いを示す話とも繋がっていきます。

かつて、古代エジプトを中心とした石切場の文献を集めたことがありました。類似したページは今でもあまりないようですので、御参考までに。

2010年9月8日水曜日

Malacrino 2010 (English ed.)


ほとんど全ページにカラー図版が用いられており、大変見やすく、限られた分量の中で古代ギリシアと古代ローマにおける建造技術をうまく纏めています。石造建築に限らず、土を用いた構法についても触れている点は重要。土木に関連した遺構についても、いくらかページを割いています。
西洋の古典古代建築に興味を持っている方が最初に購入する入門書としては、お勧めの一冊かもしれない。5000円ほどでしたから、決して高くはありません。内容は充実しています。

Carmelo G. Malacrino,
translation in English by Jay Hyams,
Constructing the Ancient World:
Architectural Techniques of the Greeks and Romans

(First published in Italy in 2009 by Arsenale-Editrice, Verona, "Ingegneria dei Greci e dei Romani".
English ed., The J. Paul Getty Museum, Los Angeles, 2010)
216 p.

Contents:

Introduction (p. 4)
Natural Building Materials: Stone and Marble (p. 7)
Clay and Terracotta (p. 41)
Lime, Mortar, and Plaster (p. 61)
Construction Techniques in the Greek World (p. 77)
Construction Techniques in the Roman World (p. 111)
Engineering and Techniques at the Work Site (p. 139)
Ancient Hydraulics: Between Technology and Engineering (p. 155)
Heating Systems and Baths (p. 175)
Roads, Bridges, and Tunnels (p. 187)

Glossary (p. 208)
Bibliography (p. 210)
Index (p. 213)

ただ専門家が重宝するかというと問題があって、この本に掲載されている図版では原典の引用がことごとく省かれています。イタリア語で書かれたという原著にはそれらが記載されているのかどうか、未見ですので詳細が分からないのですが、先行研究の図版をもとにして新たに描き直したらしきものが多々うかがわれ、OrlandosKorresAdamなどの著書をもとにしているなということが、一見して明瞭な描画が含まれます。
当方も経験があるけれど、図を描き直したら著作権に気を遣う必要はない、というのは大きな間違いで、原典はやはり明記すべきと思われます。こうした点の配慮は欲しかったところ。高名なゲッティから出ている本ですので、信用する人は多いはず。

紙幅がないことを勘案するならば、参考文献のリストはよく纏まっているように思われます。
ただKorresの名前が見当たらないようですが、同じゲッティから出ている本だし、まあいいや、ということなのかもしれません。Coultonについては著書が取り上げられず、論文がたった1本だけしか載っていなくて可哀想。Hellmann 2002, 2006は記載。Rockwell 1993も載っています。
リストにはWilson Jones 2000が体裁上、加えられているけれども、今回取り上げたこの本には古代の設計方法については一切述べておらず、それ故にCoultonの代表作も落ちているのかも。構法、つまり建物の造り方に限定して書かれているとみなすべきです。

ならば、建造前の、いろいろと問題が沸き上がって矛盾が錯綜し、それをどう整理するのかという、建築で一番面白くてわくわくする設計・計画に関するところが抜け落ちているのではないのか、という反問も当然ながら予想されるように感じるのですが。
こういうことを熱望するのはしかし、少数意見となり、残念な点です。

2010年7月13日火曜日

Panagiotaki 1999


ほぼ100年前にエヴァンスによってなされたクノッソス宮殿の発掘調査を、つぶさに眺めようという試みです。宮殿と言っても、王の居室部分が実際に見つかっているわけでもなく、神殿などの宗教建築とは趣が異なる複合建物をこう呼んでいるだけ。

古代世界の"palace"と言われているものには、実は良く分からないものが相当数、含まれています。「宮殿」あるいは「王宮」という言葉からは、「王が住んだ大規模な居宅」というイメージが浮かびますが、それが証明されている建物はほとんど存在しません。
これは古代エジプトのアマルナ王宮やマルカタ王宮、メンフィスにおけるメルエンプタハの王宮、テル・エル=ダバァ、あるいはデル・エル=バラスにおいても等しく言えることです。

クノッソス宮殿でも、王の寝室などが見つかっているわけではありません。今では大規模な祭祀施設のひとつとして捉えられることの方が多い気がします。こうした見直しの機運のもとに書かれた一冊となります。

Marina Panagiotaki,
The Central Palace Sanctuary at Knossos.
British School at Athens, Supplementary Volume No. 31
(British School at Athens, London, 1999)
xviii, 300 p., 45 plates, 2 folded plans.

エジプト文明に親しんでいる人が、他の古代中近東あるいは古代地中海文明の解説に出会ってまず戸惑うのは、年号が明瞭な数字として出てこないことで、エジプト研究では絶対年代が用いられるのに対し、他の地域では多くの場合、相対年代が用いられます。
人類の古い歴史は大きく石器時代、青銅器時代、鉄器時代などと分けられ、この青銅器時代 Bronze Age を、初期 Early、中期 Middle、後期 Late の3つに分けます。それぞれをまたI、II、IIIと分け、さらにまたそれぞれをA、B、などと細分化していきます。例えばMB II とは、それゆえ中期青銅器時代の第II期のこと。
この本ではLM IBとか、MM IIIAという別の言い方も頻出します。ミノア時代 Minoan の略号 M も同時に使っており、話がより複雑になるわけで、LM IBは後期ミノア時代の第I期Bのこと。

クノッソス宮殿の中枢部では改変が認められ、第1期と第2期とがあったことが分かっています。出土したさまざまなもの、土器だけではなく金属製品から動物の骨に至るまで、遺物の総リストが各章の最後に作成されており、全体の註の数も1000ほどあります。アシュモール博物館のクノッソス・アーカイヴ収蔵資料を駆使した労作。
でも結局、どの部屋が一番重要であったのかは不明であるという結論が導かれており、これが残念。
エヴァンスによる全4巻の報告書、

A. J. Evans,
The Palace of Minos at Knossos, 4 vols.
(London, 1921-1935)

などに戻って併読することが必要です。

2010年7月11日日曜日

Koltsida 2007


古代エジプトの住居に関する「渡辺篤史の建もの探訪」をやっている感じの研究書。BARシリーズの一冊です。British Archaeological ReportsBAR)には赤い表紙のInternational Seriesと青い表紙のBritish Seriesとの2種類があって、エジプト学の論考はもっぱら前者から刊行されています。
質の高い研究をとても安く供給するシリーズ。A4版のペーパーバックで、モノクロ印刷が基本です。国際学会の報告、博士論文や調査報告などの刊行が主に進められています。

すでにこのシリーズで2500タイトル以上が出版されており、そのすべてを揃えている図書館を日本国内で探すのは難しい。考古学関連書籍の収集に力を入れている早稻田大学でも全部持っていません。国士舘大学のイラク古代文化研究所、あるいは中近東文化センターの図書館などと併せて文献探索をおこなう必要があります。すぐに売り切れるので、新刊案内が届いた際には早く注文しなければならない、ちょっと面倒なシリーズ。
なお考古学関係では、他にBiblical Archaeology Reviewというものもあって、こちらも略称は同じBARなので注意が必要。

Aikaterini Koltsida,
Social Aspects of Ancient Egyptian Domestic Architecture.
British Archaeological Reports (BAR), International Series 1608
(Archaeopress, Oxford, 2007)
xv, 171 p., 88 plates.

社会学的な見地からの研究というのは近年の流行りです。20世紀の少なくとも前半までは、わざわざ本の題名に「社会的」なんていう言葉をことさらにつけたかどうか、記憶があまり定かではありません。歴史学に新風を巻き起こしたフランスのアナール派、また人類学の新たな展開など、近接分野の変化の影響が見られるのでは。

Contents:
Chapter 1: Sources of Evidence
Chapter 2: The Front Room
Chapter 3: The Living Room
Chapter 4: The Bedroom
Chapter 5: The Kitchen
Chapter 6: The Evidence for a Second Storey
Chapter 7: Discussion and Conclusions

残存する住居遺構の入口から、前室、居間、寝室、台所とくまなく回っていく様子が目次からも良く分かります。新王国時代後期のアマルナとディール・アル=マディーナが主として扱われますが、エジプトで資料が豊富な住居遺構と言ったらこれぐらいしかないので、仕方ありません。

第6章では、2階建て以上の日乾煉瓦造住居が王朝時代の都市部にあったか、それとも平屋建てしかなかったかが問われています。B. ケンプが投げかけた有名な問いかけ。大まかにはケンプ、またその弟子のスペンスの考えを追認する結果となっていますが、建築学の見地からは、また別の解釈が提唱できる余地を含んでいるかと思われます。

註が全部で軽く1000を超えますけれども、これはしかし、考察に該当するアマルナの住居番号をすべて書き出そうと無理をしたりするからで、見る方は苦痛です。
古代エジプトの住居研究には、でも欠かせぬ一冊。

2010年7月10日土曜日

Roehrig et al. (eds.) 2005


エジプトの最も華やかな時代において強大な権力を握った女王のひとり、ハトシェプストに関する展覧会のカタログです。
展覧会はサンフランシスコ美術館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館(以下、MMA)、フォートワース・キンベル美術館の3箇所にて開催されました。いずれもアメリカ国内です。
ルイス・カーンの設計によるキンベル美術館は、建築の分野では非常によく知られた建物で、おそらくは米国の美術館における最高傑作10作品の中に入る名作とみなされますが、ここでは触れません。

Edited by Catharine H. Roehrig,
with Renee Dreyfus and Cathleen A. Keller,
Hatshepsut: From Queen to Pharaoh
(The Metropolitan Museum of Art (MMA), New York, 2005)
xv, 339 p.

キャサリン・レーリグが単名の編集者として前面に推し出されていることにまず気づきます。MMAのアーノルド夫妻ももちろん執筆陣に加わっていますが、表には出てきていません。
ハトシェプスト女王の記念神殿、通称「ディール・アル=バフリー(デル・エル=バハリ)」はイギリス隊の他、MMAもまた長年発掘をおこなった場所で、アーノルドも近くで再調査をしていますから、資料としては充分所蔵しているはずです。ですがそれにとどまらずに、できるだけ話題を膨らまそうとしている意図が興味深い点。
例えばトトメス3世の増築神殿を調べたハンガリー隊の人にも執筆させたり、「エジプトとエーゲ」という題でM. ビータックに書かせたりしているのは、その努力のあらわれかと感じられます。

バフリーの壁画では当時のエジプト国外の情報が間接的に描写されていますから、"Egypt's Contacts with Neighboring Cultures"という項目が設けられているのは分かりやすい。
「エジプトとヌビア」の章はイギリスのヴィヴィアン・デーヴィスが執筆しており、この人は博覧強記で知られている人で、”Egypt and Africa"も出していました(Davies (ed.) 1991)。
一方、「エジプトと近東」と名付けられた章では、MMAのリリーキストが書いています。古代エジプトにおける「鏡」の専門家として知られている人ですが、かなりの高齢であるはずにも関わらず、健在ぶりを誇示。
リリーキストの近著は、

Christine Lilyquist,
with contributions by James E. Hoch and A. J. Peden,
The Tomb of Three Foreign Wives of Thuthmosis III
(MMA, New York, 2003)
xv, 394 p.

で、おそらく彼女にとってはこの立派な厚い本が主著の一冊となるはず。
しかし文字読みの専門家ということであるならば、今は職場を移ったけれど、MMAにはJ. P. アレンがいたじゃあないか、何で他国の人に依頼する必要があったのかという素朴で陰鬱な疑問が、まったくの部外者の見方からは生じたりもするところ。

ハトシェプスト女王に仕えた建築家センムトについてはドーマンが記しています。彼の専門領域。すでに2冊を単著で出版しています。

Peter F. Dorman,
The Monument of Senenmut:
Problems in Historical Methodology.
Studies in Egyptology
(Kegan Paul International, London and New York, 1988)
xvi, 248 p., 22 plates.

Peter F. Dorman,
The Tombs of Senenmut:
The Architecture and Decoration of Tombs 71 and 353.
Publications of the Metropolitan Museum of Art,
Egyptian Expedition Vol. XXIV
(MMA, New York, 1991)
181 p., 96 plates.

計測のためのロープの束を抱えているセンムトの彫刻像をカラーで紹介しているのは、建築学的には注目される点。
記念神殿のファンデーション・デポジットの紹介も、これが初めてではなく、典型的な例としてしばしば取り上げられてきましたが、価値があります。
ファンデーション・デポジットというのは、日本だったら「地鎮祭」において埋設される祭具のこと。「鎮檀具」という訳語が当てられることが多いようですが、慣れない人間にとっては難しい専門用語です。

ペルパウト Perpaut(もしくはペルパウティ Perpawty、ペルポー、パペルパ)の衣装箱がカラーで掲載されており、これも面白かった。側面に「生命の樹」が描かれている作品。
現在、墓の位置が分からなくなっているものの、とても質の高い家具がたくさん出土していることで知られている被葬者です。変わった名前から、外国人と推測される人物。大英博物館、イギリスのダーラム博物館、イタリアのボローニャ博物館などに副葬品が分散して収蔵されています。大英博物館が所蔵している3本足の机は、家具史の中では特筆されるべきもの。
ペルパウト(ペルパウティ)の研究については、イタリア語で書かれた以下の論考が重要なもののひとつです。ペルパウトと呼ばれた者は、アメンヘテプ3世時代の人間であったらしいと考察されています。この論文が掲載されているのは、ピサから出ている目立たない、灰色の小さな冊子。蓄積のある厚い研究史を礎としながら、イタリアが独自に新しい考究を進めていることを示す良い例です。
残念なことに図版はすべてモノクロですが、数々の家具を写真で紹介しつつ、Figs. 1, 2ではそこに記された文字列を報告しています。

P. Piacentini,
"Il dossier di Perpaut,"
Aegyptiaca Bononiensia I.
Monografie di Studi di Egittologia e di Antichità Puniche (SEAP), Series Minor, 2
(Giardini editori e stanpatori, Pisa, 1991)
pp. 105-130.

他にアメリカの研究者も、違ったアプローチから考えてペルパウトはアメ3時代の人間であったろうと判断しており、これは面白い結論。

257-259ページで紹介されている大英博物館収蔵の寝台の断片については、P. ラコヴァラがJSSEA 33 (2006), pp. 125-128にて文を寄せています。これは永らくハトシェプストの玉座と考えられてきたものですが、今日ではケルマの特徴的な寝台との関連性が指摘されています。
でも、まるで最初の発見者は私なのだと言い張る感じで、ラコヴァラがどうしてこんなにむきになって短い論考を書いているのか、当方には事情が良く飲み込めませんでした。アメリカの研究者たちの動向を詳しく知っていたならば、もっと理解が深まるだろうにと思った箇所です。

ケラーが2008年に亡くなったのは、本当に惜しまれます。

2010年7月9日金曜日

Davies (ed.) 1991


大英博物館にエジプトとアフリカを紹介する新たなギャラリーができたことを記念して企画された本で、有名な研究者たちによる論考が30編、集められています。こういうことが実現できる点は、さすが大英博物館の力量。

註の振り方には2種類がうかがわれ、無理して全体の体裁を整えようとしていません。多くの執筆者たちから原稿を集める場合の本では、しばしば見られる形式ですが、特にこの本では豪華な顔ぶれが揃っており、文書の煩雑な手直しを避け、オリジナルの形式を尊重したと見ることができます。
抜刷の配布を考慮していないページネーションで、偶数ページから始まる論文も奇数ページから始まる論文も両方あります。

W. V. Davies ed.,
Egypt and Africa:
Nubia from Prehistory to Islam

(British Museum Press in association with the Egypt Exploration Society, 1991)
x, 320 p., 16 plates.

エジプトと地中海沿岸地域、あるいはエジプトと西アジアとの関連などはかねてより指摘され、古い時代から論じられてきましたが、ここではエジプトの南方に位置するスーダンとの関わりが注目されています。
現在ではスーダンに数十の外国調査隊が入っているらしく、これは今のエジプトが新たな発掘調査の申請を一切認めていなかったり、あるいは申請の継続が打ち切られていたりしている事情も、いくらか反映している様子。
スーダンの遺跡は近年、劇的にアクセスしやすくなっており、すぐそばまで舗装道路が整備されていると聞いています。

レプシウスの「デンクメーラー」(Lepsius 1849-1913; cf. Description 1809-1818)ではヌビア地域まで範疇に含めていましたが、エジプト学が深化するにつれ、ヌビア地域は次第に別扱いされるようになりました。
この地域を扱う専門雑誌としては、メロイティカなどが有名です。

Meroitica
http://www.meroitica.de/

さてこの本に掲載されている論考で興味を惹くものを挙げるならば、

F. Geus,
"Burial Custums in the Upper Main Nile: An Overview,"
pp. 57-73.

は、4千年紀からの埋葬方法の違いを概観したもので、多数の墓が図解され、参考になります。

B. Williams,
"A Prospectus for Exploring the Historical Essence of Ancient Nubia,"
pp. 74-91.

もまた、この地域における長い発掘の経験を生かし、墳墓形式の変遷を辿っています。

F. W. Hinkel,
"The Process of Planning in Meroitic Architecture,"
pp. 220-233.

は、主としてバダウィの理論をもとに建築平面を分析したもので、1キュービット=52.3cmをもとにした分割と8:5理論を展開していますが、より詳しい検討が待たれるところ。個人的には問題がある論考だという印象が強い。

T. Kendall,
"The Napatan Palace at Gebel Barkal: A First Look at B 1200,"
pp. 302-313.

は、オコーナーの考察に基づいて"Palace"を論じたもので、面白い考え方を展開しています。

最後にDaviesが大英博物館に収蔵されている関連の品を列挙しており、情報の公開に努めています。大英博物館ではエジプト部門が拡張され、エジプト・スーダン部門と名称が変更になりました。
エジプト学を少し拡げて考えようとする動きのあらわれと思われる一方、人文科学の分野にはもはや研究費が充分に回らなくなってきている背景も感じられます。

2010年7月6日火曜日

泉井 1978


「数」という存在に言語学から触れた書。この書籍をどういう経緯で入手したのか、もう忘れてしまいましたが、今でも時折読み返すことのある印象深い好著です。

日本語では単数と複数との区別があんまりはっきりとはしていません。でも、これを厳密におこなう言葉は多くあります。この傾向は、特に古代語においては顕著でした。
単数と複数の他に、双数(両数)という概念があり、これはサンスクリットや、また印欧語ではないけれども、古代エジプト語でも見られますし、現在でも例えばアラビア語ではっきりと区別がなされます。本来、2つが揃って然るべき存在に、単数とも複数とも異なるかたちが与えられるわけです。
本書はまず、そこを探ることから始まります。

大昔の人間は数をどう捉えていたか、その意識をどのように言語へ定着させたかが語られ、興味深い本です。

泉井久之助
「印欧語における数の現象」
(大修館書店、1978年)
x, 225 p.

目次:
第一部 複数・単数・複個数 ー顕点と潜点ー
第二部 双数について ーその機能と起源ー
補説  数詞の世界

複数形を明瞭に持たない日本人にとって、名詞の単複の使い分けというのは理解しがたい部分があるわけですけれども、著者はさらに、印欧語には「巨数」あるいは「漠数」という概念が潜在するのではないかと論じています(p. 47ff)。

さらに注意が惹かれる点は巻末の「数詞の進法」(p. 210ff)において述べられる内容です。
原共通印欧語では何故、5が「~と」という意味合いを有する語尾を持つのか、また8がどうして双数形をとるのか(!)を述べています。

フランス語で80のことを、「20が4つ」という言い方をするのは知られていますが、これと似たようなことが古い印欧語でうかがわれるという指摘がなされています。4をひとつのまとまりとして捉えるような感覚があったに違いない、という指摘はとても面白い。
4,8と至って、その次の9にはそれ故に、「新しい」という含意が認められ、ラテン語でもサンスクリットでも、数字の9は「新しい」という言葉と共通の語根を持つのだという指摘にも驚きます。
十進法とはまるで異なる世界が、そこでは開示されています。

現代人にとって、数字の記法とは単に量の増減があるだけの、限りなく平坦に展延されるだけの世界の話となりますが、かつてはそこに不思議な起伏があったことが指摘されています。
「だから何なの?」という疑問を持たれる方には不用の書。
しかし数をかぞえるという素朴な行為の中に、かつては異なった意識や観念の投影がさまざまにあったのだという点に興味を持たれる方にとっては、たぶん読んで失望しない著作です。

2010年7月4日日曜日

Herz and Waelkens (eds.) 1988


古代における大理石の用法を扱った国際学術会議の報告書。古代ローマの石切場、また石の輸出入に関する研究はワード・パーキンスによって本格的に開始されましたが、その遺志を継承しての国際会議。ワード・パーキンスについては、Dodge and Ward-Perkins (eds.) 1992などを参照。
岩石学、経済学、技術史学、考古学、建築学など、多岐にわたる学際的な内容です。

Norman Herz and Marc Waelkens (eds.),
Classical Marble:
Geochemistry, Technology, Trade.

Proceedings of the NATO Advanced Research Workshop on Marble in Ancient Greece and Rome:
Geology, Quarries, Commerce, Artifacts.
Il Ciocco, Lucca, Italy, May 9-13, 1988.
NATO Advanced Science Institutes (ASI), Series E
(Applied Science), Vol. 153
(Kluwer Academic Publishers, Dordrecht, 1988)
xvi, 482 p.

大理石は古代ローマや古代ギリシアにおいて好んで使われた石材で、これを専門的に研究する特殊な学会もあります。

ASMOSIA
(Association for the Study of Marble and Other Stones used In Antiquity)

というのがそれで、同じ石材を前にしながらも、立場が違うとこんなにも見るところが異なるのだという点が面白い。論考の多くは古代社会の経済に関わる研究と、採掘技法や労働組織についての注視、また科学分析を通じての時代・地域の同定、そういうことになります。
これらの論考をまとめて見据えようという難しいことをやっているのが共同編集者のHerzとWaelkensで、ふたりともこの分野では第一人者です。

このような本を手にすると、大理石という石の魅力が未だ強く放たれているという事実を思い知らされます。透過性があり、柔らかく、艶やかさを有するという独特の素材。
透き通る人間の肌と似た質感がある唯一の石と言ってよく、石膏製の模像と実物の大理石像との違いは大きい。

エジプト学が、ここにどういうかたちで関係するかはしかし、微妙です。もっと相互の論議がなされてもいい。

Kemp and O'Connor 1974


水中考古学の専門誌に掲載された、アメンヘテプ3世のマルカタ王宮調査に関する重要な調査報告。マルカタ王宮に関する報告の数は、それほど多くはありません。アクエンアテン(アケナテン)によるアマルナ王宮とは大きく異なる点となります。

アマルナ王宮調査は最初にピートリが手がけ、その後にドイツ隊も居住区を発掘し、イギリス隊が引き継いで大規模な調査をしていますから、報告書の冊数はかなりのものとなります。
一方、マルカタ王宮の場合はダレッシー、及びタイトゥスによる報告の後、メトロポリタン美術館による1910〜1920年の調査の短報が続き、JNESに掲載された1950年代の報告のあと、次いで1970年前半におけるアメリカ隊の調査がなされますが、そのアメリカ隊による概報がこの論文。
他にはペンシルヴァニア大学博物館の紀要にもオコーナーによって書かれましたけれども、僅か2ページの内容で、あまり参考にはなりません。

従って、マルカタ王宮の既往研究のうち、第一次資料を知ろうとした場合には、ダレッシーのフランス語を6ページ、タイトゥスの英語を20ページほど、メトロポリタン美術館による短報、それから1950年代に執筆された出土文字資料の分析をおこなったJNESの英語報告を60ページほど、それにこの文を読めば、だいたい足りることになるかと思います。
最近、アメリカの連中たちによって設けられたマルカタ王宮に関するサイト、

iMalqata
http://imalqata.wordpress.com/

の"Reports"のページでは現在、上記のだいたいが「不法に」PDFファイルにて一般に公開されており、ダウンロードすることができます(!)。
こういうこと、本当にやってもいいんですか。JSTORからダウンロードしたファイルをそのまま一般公開するなど、とっても大胆。

マルカタについては、ペリカン・ヒストリー・オブ・アートのシリーズに載せられたスミスの文章(Smith 1998 (3rd ed.))も見る必要があるかもしれませんが、これもそんなに長くありません。
エジプト学において王宮はそれほど研究は進んでなくて、というよりも、古代中近東の王宮・宮殿の研究というのは穴ばかりなのであって、その点は今まで指摘してきた通り。
「王宮」と呼ばれるものも、"religious palace"か、それとも"residential palace"なのかがずっと論議されてきている、なあんていうことを初めて知る方は多いはず。で、古代中近東において、"residential palace"と仮に呼ばれているものは、実は残っていないに等しいのです。
先日、西アジア考古学会に出席し、講演にてシュメールにおける宮殿建築の新たな解釈について興味深く拝聴させていただきましたけれども、半ば予想されたことかとも思われました。ここでは、Hitchcock 2000にてうかがわれた問題提起を再度、思い起こすべき。
すでに、Hägg and Marinatos (eds.) 1987, The Functions of Minoan Palacesでも同様のモティーフは指摘されていました。王が実際に居住した痕跡というのは、どの遺構でも考古学的にはほとんど検出できていない状況であるはずです。

Barry Kemp and David O'Connor,
"An Ancient Nile Harbour: University Museum Excavations at the 'Birket Habu'",
in The International Journal of Nautical Archaeology and Underwater Exploration (1974), 3:1,
pp. 101-136, 182.

この雑誌名は今では、International Journal of Nautical Archaeology (IJNA)というふうに、短く縮められたようです。
全体はふたつに分かれ、最初にオコーナーが7ページ、交通路として使われたナイル川の重要性とナイルの港湾施設について述べています。これを引き継ぎ、ケンプが調査の目的とその成果を記すという構成です。

マルカタ王宮の中心地はメトロポリタン美術館によってほぼ完掘がなされていますから、それより対象を広げ、特に人工的に造られた近傍の湖「ビルケット・ハブ」に焦点が当てられた調査。
エジプト人は湖を造営するために矩形をなす湖の輪郭に沿って、掘削した土砂を捨て、山が連なるかたちに仕上げました。これは景観を考慮しているのではないか、また土砂の運搬経路を勘案した結果ではないかと書いている点などに、ケンプの才覚が感じられます。世界最初のランドアートではないかとも述べており、人工湖の用途としては日乾煉瓦のための採掘地・祭祀施設・娯楽施設と、3つ挙げています。

サイトKと呼ばれる場所はその小山の一角に当たり、ここから彩画片と煉瓦スタンプ、「セド祭のためのワイン」と記された土器片が見つかっています。セド祭のための小建築が壊されて、ここに廃棄されたと考えられており、非常に重要な発見。それまで同じセド祭のための施設であったと思われてきた「魚の丘」建築を、ではどう考えるかという疑問に繋がります。
サイトKで見つかった建物の残骸は、もしかしたら「魚の丘」建築のものではないかという話は、未だ突き詰められていません。煉瓦スタンプから考えて、別のものだという感触が与えられますが、しかし双方の彩画片は未だ詳しく比較されていない状況にあります。
なお、サイトKから出土した彩画片の特徴については、すでにギリシアの研究家が英語とギリシア語で短く発表済み。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。マルカタではそれがまだうまく整理されていません。その点が興味深いところです。
このページでは、マルカタ王宮については結構多く触れてきました。
「マルカタ」、「Malkata」、「Malqata」などを検索していただければ。

2010年7月2日金曜日

Hawass and Richards (eds.) 2007 (Fs. David B. O'Connor)


D. B. オコーナーへの献呈論文集。オコーナーについてはアビュドスの重厚な本について触れました(O'Connor 2009)。ザヒ・ハワース・他が編集し、またSCAから出版された2巻本です。このふたりは共にアメリカのエジプト学者、オコーナーの教え子。

Zahi A. Hawass and Janet Richards eds.,
The Archaeology and Art of Ancient Egypt:
Essays in Honor of David B. O'Connor
. 2 Vols.
Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Cahier No. 36
(Publications du Conseil Suprême des Antiquités de l'Égypte, Le Caire, 2007)
Vol. I: xxvi, 462 pp.
Vol. II: x, 476 pp.

2冊を合わせると1000ページ近くになるこの本には多数の者が論文を寄稿しており、エジプト学における献呈論文集としては珍しいことに全員が英語で執筆しています。
両巻ともページが1から始まるので、混同する恐れがあるかも。
例によって、建築に関わる論考だけを取り上げるならば、

Dieter Arnold,
"Buried in Two Tombs? Remarks on 'Cenotaphs' in the Middle Kingdom",
Vol. I, pp. 55-61.

「セノタフ Cenotaph(空墓)」というのは、エジプト学の専門用語。この語はしかし、Shaw and Nicholson 2008 (2nd ed.)では項目立てされていなくて、一般には分かりにくい。アーノルドはすでに、Arnold 2003, p. 50で解説しています。

"Duplicates of tombs, or false tombs, were erected either at the burial sites of several kings (South Tomb in the Djoser precinct, Mentuhotep's temple with the Bab el-Hosan), or as separate structures at Abydos (Osiris tomb, Senwosret III). Private commemorative chapels without a tomb were also set up at Abydos in the Middle Kingdom. (.....) Conflicting interpretations exist concerning the concept of multiple burial places, for example places for statue burials, Osiris tomb, ka-tomb, the duality of Upper and Lower Egypt, tomb for the placenta of the king or Sokar tomb, as well as the survival of earlier, locally divergent burial practices."(抜粋)

単に遺体が収められていない見せかけの墓だけを指す言葉ではないため、面倒なことになっています。これに輪をかけて、錯綜する情報を提示。
61ページの参考文献の欄では、Der Tempel des Königs Mentuhotep von Deir el-Bahari I (Mainz 1974)が、H. アルテンミューラーによって書かれていることになっています(!)。こういう誤りは珍しい。
原稿の最終チェックは、ま、いいやという建築家らしいアバウトさ。

個人的には、B. J. Kempがアマルナにおける被葬者の向きなどを述べたものに興味が惹かれました。

Barry Kemp,
"The Orientation of Burials at Tell el-Amarna",
Vol. II, pp. 21-31.

ここには古代エジプト建築の向きに関するK. スペンスの博士論文が註として挙げられており、建築史関係者は注意を向けておく必要があります。
エジプト学の百科事典では「向き」について項目があるけれども、説明は簡単。A. バダウィは建築家でしたから、建物の向きについては専門家として気にしていました。3巻からなる彼の主著(Badawy 1954-1968)では、説明をある程度おこなっていますけれども、そのトピックを掘り下げた博士論文。

他には、M. LehnerF. Sadaranganiがギザの労働者集合住居における造り付けの寝台について書いているのが面白かった。

Mark Lehner and Freya Sadarangani,
"Beds for Bowabs in a Pyramid City",
Vol. II, pp. 59-81.

またG. Robinsは、ツタンカーメン王墓における装飾計画を比較的長めに説明しています。

Gay Robins,
"The Decorative Program in the Tomb of Tutankhamun (KV 62)",
Vol. II, pp. 321-342.